フィクション
宮守 遥綺
フィクション
人生とは舞台だ。
世界とは劇場だ。
「……お前は、誰だ」
鏡の中の男に問いかける。
「俺は、
言い聞かせるように答える。そのまま一度、目を閉じた。瞼の裏側にあるスクリーンに浮かび上がるのは、歓声、声援、期待の眼差し。皆がこちらを見ている。「頑張ってください」「応援しています」「大好きです」「こっちを見て」……多くの声が混ざり合い、うねりを作り、熱を放つ。その中心にいるのは、片桐翔だ。彼が困ったような、しかし完璧な笑顔で群がる女性たちに手を振る。歓声が、一層大きくなる。
目を開ける。目の前には、すべての感情を削ぎ落とし、鋭い目をこちらに向ける男がいる。片桐翔。数多くの映画やドラマで主演を務めてきた男。
先ほど見た片桐翔の笑顔を思い出しながら口角を上げ、目元を少し緩める。
鏡の中の男も同じように口角を上げ、目元を緩めた。
完璧な笑顔。
観客たちが求める、「片桐翔」の笑顔だ。
鏡に映り込んだ時計が、九時半を指している。ああ、早く準備をしなければ。
周囲を見回して車を降りた。キャップを目深に被り、劇場の裏口を取り囲む女性たちの間をすり抜ける。入り口に立っていた警備員が俺の姿を認め、丁寧にドアを開けてくれる。後ろから聞こえる歓声に、閉まるドアの間から笑顔を送った。
「おはようございます」
すれ違う人たちからの挨拶に、俺は鏡の前で何回も、何百回も練習した笑顔で答える。染みついたその顔に体の奥底の方でうんざりする声が聞こえたが、知らないフリをする。
求められる演技を瞬時に選択し、完璧に表出できるのが、優れた役者というものだ。そこにこの体自体の意思など入り込む余地はない。
笑顔を貼り付けたまま、用意された楽屋に入った。後ろ手にドアを閉め、持っていた荷物をテーブルに置いたところで貼り付けていた笑顔を外す。用意されているお茶のペットボトルから一本を選び取り、フタを開けて飲んだ。室温に温められた生温い水分が苦みを残して胃に落ちていく。ああ、劇場の味だ。リアリティマックス、フィクションなどひとつもない、社会という劇場の味。
座って天井を見上げながら、頭の中でセリフをさらう。
幼いときに病気で兄を失い、それから盗み一本で生きてきたという貧民街の男。彼はある日、通りを歩いていた貴族から財布を盗む。そこには金だけでなく、ダイヤが一粒沈められた指輪が入っていた。その指輪を巡る物語が、今回演じられる舞台だ。
演じるに当たって俺は舞台背景もすべて調べ尽くした。貧民と貴族という垣根を越えた絆というものが、本当に存在するような背景だったのか。その時代がどのような時代で、多くの人がどのような思想を持っていたのか。
調べた結果など、わざわざ君たちに知らせる必要もあるまい。
脚本の中のどんな残酷な人間よりも、現実の人間の方がずっと残酷だ。
時間になってきょうのリハーサルと、軽い確認をする。呼ばれて衣装に着替え、メイクを施して貰うと、鏡の中には「片桐翔」とは別の人間がいる。
薄汚い格好をした、狡猾さの欠片も無い男。学もなく、教養も無い、ただ手先が器用なだけの冴えない男。盗みは悪いと知りながら生きるためだと自分を騙し、罪を重ね続ける男。
「ありがとう」
「片桐翔」の笑顔でメイクを施してくれた女に言うと、彼女は柔らかく笑って「今日も頑張ってください」と言った。腕の良いメイクアップアーティストである彼女は、この舞台が終わったら独立して自分のサロンを開くのだそうだ。
一人きりの楽屋に戻る。
ひとつだけ離れたところに置いたペットボトルを開けて口を付けようとしてから、折角施してもらったメイクが落ちたら困る、ということに思い至った。コーヒー用のスティックシュガーやらマドラーやらがギュウギュウに詰め込まれた円筒のケースからストローを抜き出し、袋を開けて差し込んだ。飲み口を曲げることなくそのまま吸い込む。生温く苦いお茶は、やはり現実の味がした。
ストローを差したお茶のペットボトルはそのままに、並んでいるペットボトルから水を取る。プラスチックを力で千切ってフタを開け、新しいストローを差す。ひと口吸い込む。生温い重さだけが喉を通り体に染みた。虚構のような空しい味だ。虚構を演じる前にはやはりこれが一番良い。
部屋の端にある姿見の前に立つ。
汚らしい格好をした男がこちらを睨み付けている。
「……お前は、誰だ」
男に問いかける。
「俺は、デニス・ホーガン。貧民街のコソ泥だ」
男はこちらを睨んだまま、口元を歪めて答えた。
客席のザワつきが分厚い緞帳を揺らす。
ロングラン公演の中盤にも関わらず、客の入りは上々だと誰かが騒いでいたのを思い出す。そいつは「チケットの売り上げが」とか「グッズの売り上げが」とか言って他の人間と笑い合い、最後には「主演が片桐だから客が取れる」と言った。
作り上げてきた「片桐翔」というキャラクターはしっかりとその役割を果たしているらしい。それを知り、片桐翔は安堵した。まだ舞台上で、お役御免にはならずに済みそうだ。
人生は舞台だ。
世界は劇場だ。
だったら、「片桐翔」も「デニス・ホーガン」も舞台上の一役者であるということに変わりは無い。役者は役割がなくなれば舞台を降りなければならない。その後、潔く劇場を去るのか、真っ暗な舞台袖で恨めしくスポットライトの中心を見るのかは勝手だが。
ブザーが鳴る。
館内放送が鑑賞中のマナーを機械的に告げている。
緞帳が上がり、客席の熱が舞台袖に入り込んできた。
目を閉じる。
目の前に浮かぶのは、汚らしいネズミの這う街角だ。
瞼を通して、照明が舞台上を照らしたのがわかった。
目を開ける。
舞台袖から踏み出す。
俺は、デニス・ホーガン。
ここはもう、
了
フィクション 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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