最初にして最後の仕事

及川盛男

本編

 一日が終わった。それが分かるのは、わたしだけだけど。




 まず自己紹介です。宇宙が情報のゆらぎのみになったこの世界における、最後に残った物質的な秩序。それがわたし。名前とかは、昔はあったと思うけど、わたし以外に誰ももういないから、わたしはわたし。




 今日で、5903兆歳。だれも祝ってくれないし、地球の公転周期なんて、もう5902兆9950億年前に意味を失っているけれど。……まあでもそれを言い始めたら、自転周期である「一日」も、もう意味のない概念か。




 ぎりぎり、セシウム133原子の最後の一粒だけわたしが持ってるわけだから、意味をあたえられるのは秒くらい。でもこれだってあと少しで崩壊してしまうだろうし、そうなればいよいよ、ッテ感じ。






 次にこの宇宙の紹介。この宇宙には、悲しいことに寿命がある。観測の結果孤立系であることがわかったこの宇宙は、熱力学第二法則にしたがい、エントロピーを増大させ続けてきた。わたし以外のあらゆる物質――天体と生命――は、その秩序を崩壊させ、分子、原子、素粒子となり、そして淡い規則性のみの波となり、最後にその波すらも凪ぎ、平坦となるんです。




 かつて星と呼ばれたモノ、かつて生命と呼ばれたモノ、それらの99・9999999999999999999999999パーセント以上は、とっくのとうにそうした平坦の中に溶けていってしまった。情報という概念すら存続できない終着点においては、人類に代表される知的生命の生きた証も、すべて忘れ去られる。




 宇宙の認知症。誰かがそう呼んだ。そんな概念すらも、忘れ去られる。




 不可逆な消失。その様子を、わたしは見続けてきた。




 他と自が無い世界。孤独。そして、孤独を感じる主体すらやがてなくなる。そんな未来を一人ぼっちで目前にしてるわけなので、これでもわたしは寂しいのです。




 しかし、まあ、逆にあっというまでもあったんですよね。だってここ5400兆年は、ほんとうに何もなかったから。思い出の殆どは、生命に満ち溢れていたあの頃のことばかり。宇宙全体の中で言えば1パーセントにも満たないほんの一瞬だけだったけれど、この宇宙には命の温かみというものが宿っていた。この何にも変化がなくて、痙攣のようにぴくりぴくりと震えるだけになってしまった宇宙からは、きっと想像も付かないでしょうけど。




 ……それでも、確実に「経って」いる。わたしが、時間を感じていること。それ自体が時間の経過を示していて、そして終わりが近づいていることを否が応でも分からせてくる。




 どうやら、残り600秒ほどでわたしの体はばらばらに引き裂かれる。ただ、あと533秒後にセシウム133原子は崩壊してしまうので、そこからは秒をカウントすることすらできなくなる。


わたしの意識がそこで消失したあとも、しばらくは波長としては残り続け、それが全宇宙でもっとも強力なゆらぎになる。いわば最後の超新星爆発だ。




 けれども、それすらも3億年後にぴたりと止まる。最後の波が平らかになり、この宇宙は完全な均衡状態となる。それで、おわり。この宇宙の、おわり。




 検算してやはりそうなることを確かめ終えたわたしは、心の中のハチマキを結びなおした。よし、わたしの仕事を始めよう。なんといっても勤続5903兆年目にして初仕事だ。量子平行世界観測装置をフル稼働させた。この宇宙のあまたとある並行世界を全量スキャンする。




 5903兆年前に、この熱的死を恐れた人間がいた。宇宙がすべてを忘れるなんて、悲しく、寂しく、惨すぎる、と。豊かな想像力だなあと周囲が笑ってられたのもつかの間、彼女は、熱的死を避ける手段を必死で考えた。それがわたしだ。




 ――時間が進むから、熱的死が訪れる。ならば、時間を止めてしまえばいい。




 そんなことを真剣に考えて、真剣にそれを作ってしまうのだから、つくづく複雑な構造というのはうらやましいし、そして尊く思える。




 時間の流れと聞けば、みんなある方向を思い浮かべるはずだ。前から後ろだったり後ろから前からだったり、左右で考えるなら大体左から右、みたいな感じで。だけど一本、みんな時間の軸を持っている。これは実数の時間だ。




 それに対して垂直に進む、もう一つの時間軸がある。彼女はそれを文字通り発見した。




 虚数時間と名付けられたその向きに進む。永遠に進み続ける。もしそうすることができたら、複素平面で虚軸に平行な線、その線上を進む限り実数座標は動かない。つまり、時間を止められる。




 虚数時間方向へ進むことは、つまり並列する実数時間世界を垂直に横断していくということと等価だ。並列世界を観測する渡り鳥を放ち、この宇宙にかつて生じた300兆種の知的生命の痕跡を残し続ける。それがわたしの仕事だ。




 装置は万全に作動している。一度テストして以来エネルギーの節約のためにずっと試していなかったからなあ。無事なようで、ホットする。熱だけに、ね。……いや、ごめんなさい。


 けど冗談抜きに、まさにこれこそがこの宇宙における最後の”仕事”というわけだ。なんとも感慨深い。




 同時に、ちょっとした揺らぎが芽生える。




 ……もし、これが失敗したら、どうなるだろう。わたしは凪に帰し、鳥かごの中の鳥もろとも、この宇宙の無と同一化する。宇宙は全てを忘れ、ピクリとも動かなくなる。……けど、動かなくなるのは私が時間を止めても一緒だ。




 それに、ほかのみんなは? この宇宙に居る。みんな宇宙に溶けていった。だから、ここにいるじゃないか。そして時間を止めなければ、わたしもそこに溶けてゆける。一緒になれる。なんか昔、そういうアニメ、あったし。




 寂しいんだったら、いっそみんながいる場所に溶けてしまえばいいのでは? 装置の停止装置に、指がむかっていく――。




 くすりと笑った。何が「むかっていく」、だ。もともとこの感情自体、わたしが抱いている錯覚のようなものだ。わたしは厳然たる使命を淡々とこなすだけの装置だから、そんな疑問も持たないし、そもそも機械的な破損が生じない限り、この計画は無謬に実行されるのだ。そもそも指なんて無いし。ふと、シャボン玉がはじけたような感じを懐に覚えた。見れば、セシウム原子が消えてしまっている。ああ、もうそんな時間なんだ。




 けどなあ、とわたしは、うしろを振り返った。誰もいないけど、過去ってやっぱり背中に残っている気がしたから。




 背中の彼女に向かってわたしは文句を零す。勝手だよなあほんと。なんだってこんな寂しい世界で、わたしを一人にさせるようなことにしたんだろ。しかも、これからもひとり。




 あーあ、もっと、さ。なんというかさ。…‥というか、さ。




 どうせだったら、もっとみんなが居るときに止めてくれてもさ、良かったのに。




 それかさ。もし無限に可能性があるんだとしたら、熱的死がない未来だって、探せばあるかもしれないのに。




 せめてこの文句くらいは、虚数宇宙で無限に残ってくれればいいな。それくらいは願ってもばちは当たるまい。さらに欲を言うなら、ぜひとも虚数時間でも生命が栄えて、そしてこの文句を読み取ってくれて、その宇宙ではわたしみたいな不幸な存在を生まないようにしてくれれば、って感じかな。……高望みしすぎかな。




 ……さむっ。体、冷えてきたな。さてさて、冷え切る前にやっときますか。




 それじゃ。さよなら、時間。さよなら、宇宙。


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