第1話 窓辺の彼
掛け声や、球を打つ金属音、笑いあう声と、コーチの怒声。
グラウンドの外周には踏みつけられて薄汚れたピンクの花びらが濡れた地面を滑りやすくしていた。温かく過ごしやすい季節に、図書室のカウンターに日は当たらない。開け放たれた窓から春の匂いと一緒に土埃が図書室に吹き込む。図書室には2人しかいない。静かに読書していた図書委員は、忌々し気に顔をあげた。
「ちょっと。勝手に窓を開けられると困ります。」
「すみません、石井先輩。このほうがよく見えるんです。」
彼は謝罪の言葉を口にするが、目はグラウンドを見たままだ。日当たりのいい席で肘をついて窓の外を眺める彼は、全く読書をしていない。石井は眉を吊り上げるが、彼との問答はきりがないことを知っている。本を読まないのに図書室に居座る後輩の彼は今年入学したばかりの1年生だ。どうせ、この学校の図書室の利用者は少ない上に、図書委員の中でもまともに仕事をするのは石井1人だ。去年、先輩から仕事を押し付けられてからは、放課後は毎日カウンターにいる。本を読まない人間が1人増えたところで、誰の迷惑にもならない。石井は溜息1つついて、マスクを2重につけた。
彼は、入学式の翌日から日当たりのいい窓辺の席を占領している。時には課題をしながら、時には音楽を聴きながら。色素の薄い茶色の髪とピアスは光を反射して綺麗だが、生徒指導の先生に注意されていそうだ。グラウンドはむさくるしい野球部とサッカー部が練習に励んでいる。何を見つめているのかわからない。だが、これだけ眺めるのだからよほどお気に入りか、未練があるのだろう。石井は面倒なことは嫌いだ。騒がず、邪魔しないのなら放置するだけだ。ただ、花粉症の季節は窓を閉めてほしい。石井はため息をついた。
夏休みの1週間前。
授業は午前中で終わり、日差しの一番強い時間に部活動がはじまった。彼は、生ぬるい風を受けてじんわりと汗ばんでいる。くそ暑いこの時期に、冷房をかけた図書室の窓をわざわざ開ける後輩は大したもの好きだ。机の上にスポーツ飲料が置かれ、茶色いシミを広げている。石井は自分のために持ってきた、コースターを貸そうと彼がペットボトルを握る瞬間を待っていた。
彼は、いきなりスポーツ飲料を握りしめ、椅子を倒す勢いで立ち上がり、走って図書室を出ていった。
図書室の床にはスポーツ飲料から飛び散った水滴が彼の行方を教えている。
中途半端に立ち上がった石井は、床に落ちた水滴を見た。後で掃除しなければいけない。溜息をつき、コースターを彼の席に置くために窓辺へ歩いた。やはり熱い。窓は遠慮がちに半分だけ開けられていた。彼の微妙な気遣いに少し笑ってしまったが、冷気が逃げるため窓を閉めた。ふと、グラウンドの外周に彼の姿が見えた。すっかり緑になった桜の木の下で、倒れた誰かの介抱をしているようだ。彼は、倒れている学生をいつも見つめていたのだろうか。見たことがない学生だ。多分、彼と同じ1年生なんだろう。石井は彼が誰かと関わる姿が珍しく、じっと見つめていた。
彼は倒れた1年生の首筋にペットボトルを当て、一生懸命タオルで扇いでいる。陸上部の1年生がけだるげに腕を持ち上げて、彼の腕を引く。彼の体が傾き、2人の顔が重なった。
とっさに窓の下にしゃがみこんだ。
涼しいはずなのに、顔が熱い。汗が全身からふきだし、肌に制服が張り付いた。
それから、数十分して彼は戻ってきた。全身汗だくで、髪も顔に張り付いている。頬はわずかに赤くなっていた。石井はページを握る指に力が入った。
「おかえり。荷物を置いてどこかへ行かれると俺が帰れない。」
「あ…。石井先輩、荷物置きっぱですみません。少しだけ涼んで帰ってもいいですか?」
石井は彼に茶を渡した。
「それだけ汗をかいていて下校途中に倒れたら困る。それ飲んで涼んだら帰れ。」
彼は嬉しそうに受け取り、なぜかカウンターの中に入ってくる。こういうわけがわからない行動にいちいち突っ込んでも無駄なことを石井は学習済みだ。狭いカウンターの中で、石井を眺めながら茶を飲む彼は変わり者だろう。
彼は茶を飲み終わると、静かに図書室を出て行った。
石井は、いくつも聞きたいことはあったのに聞けなかった。
何故図書室をあんなに急いで出て行ったのか、介抱していたのは誰なのか、彼とどんな関係なのか。石井は、事細かに質問をして彼から不審に思われるほうが嫌だった。
もやもやとした気持ちばかり膨れ上がり、文章が全く読めない。さっさと帰ろう。石井は図書室の戸締りをする。いつも確認するのは彼が開ける窓の鍵だけ。今日は彼の特等席にメモが残されていいた。石井の持ち物であるコースターと、[お茶ありがとうございました。]とページ切れ端にかかれたお礼。
石井は、彼の名前がないことを少しだけ残念に思った。
実のならない木 雪ノ下 @yukinoshita1213
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