天使さん

きと

天使さん

 天使さん、という人ならざる者のうわさを普通の高校生の少年、大津裕也おおつゆうやが聞いたのは二週間ほど前のことだった。

 同じ剣道部の同級生が練習終わりにウキウキしながら話しかけてきたのが、その天使さんの話だった。

 曰く、天使さんはなんでも願いを叶えてくれると。

 天使さんは、夜の校舎に現れる。

 そして、願いを叶えてくれる代わりに何か代償だいしょうを払わなければならないらしい。

 裕也ゆうやはその話を聞いて、「くだらない」と一蹴いっしゅうした。

 そういう噂が好きなのは高校生だからかもしれない。

 だが、この科学技術が発達した時代に何を言っているのかと、心底思った。

 同級生にそう反論したところ、「そう言って怖いだけじゃないのか」なんてふざけ返してきた。

 そのまま高校生特有のバカ騒ぎに突入し、顧問の先生から怒られ、その日は解散となった。

 そして、現在。

 裕也は、天使さんが出るという夜の校舎の廊下を小走りで移動していた。

 部活の練習が終わった時のこと。裕也は、数学のノートを忘れたことに気がついた。普段ならそのまま帰るが、運の悪いことに今日に限って宿題が出ていた。なので仕方なく取りに来た、というわけだ。

 すっかり暗くなった校舎を進んでいき、裕也は自分の教室にたどり着いた。

 素早く扉を開けて、自分の机の中を確認する。そこには、目的のノートがあった。

 小さく息を吐き、安堵あんどする。

 これで、目的は達成した。

 ノートをかばんに入れ、振り返る。

 そこには。

「あなたの願いを叶えて差し上げましょう」

 あわい光を放つ、小さな影があった。

 裕也は、しばし硬直する。

「本当にいた……」

 思わず、口に出してしまう。

 子供ほどの大きさで、白いワンピースに身を包み、背中に羽が生えている。

 天使さん。

 二週間前に同級生から聞いた話と全く同じ姿だった。

「私は、天使。あなたの願いを叶えて差し上げます。さぁ、どうぞ願いを!」

「………………」

 裕也は、何も言えなかった。

 天使さんに願いを叶えてもらうと発生する、代償。

 その具体的な内容も同級生から聞いていた。

 足が速くなりたいと願った陸上部の男子は、右足の感覚を奪われた。

 絵がうまくなりたいと願った美術部の女子は、左目の視力を奪われた。

 お金が欲しいと願った男子は、友人を奪われた。

 天使さんは、願いを叶える。

 願った者の大切なものを代償に。

 裕也は、考える。

「どうしましたか? なんでも願いを言ってください。私がなんでも叶えて差し上げましょう!」

「願いは……、無いよ」

 そうだ。

 大切なもののために叶えたい願いはあれど。

 自分の大切なものを失ってまで叶えたい願いなど、裕也には無い。

「……そうですか。それが、あなたの願いなんですね」

 これでいい。

 何も叶えず、何も失わない。

 人によっては、もったいないなんて言うかもしれないが、裕也にとってはこれが最適解だった。

 そう、思っていた。


「では、願いを叶えて差し上げたので、代償をいただきますね!」


「…………………………………………………………………………………………は?」

 何を言っているのか、理解ができなかった。

 代償?

 何も願っていないのに?

「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんで代償を払わないといけないんだ?」

「なぜって……叶えたじゃないですか。あなたの願い」

「だ、だから、俺は願いなんてないって……」

 あわてる裕也に、天使さんは不思議そうな顔をする。


「はい。ですから、願いを叶えない、という願いを叶えて差し上げたではありませんか」


 天使さんは、可愛らしく首を傾げている。

 裕也は、絶望するしかなかった。

 何も得られず、ただ奪われる。

 何が天使だ。

 これでは、悪魔よりタチが悪い。

「う、うわああぁあぁぁあああっっ!?」

 裕也は、わめきながら教室から逃げ出そうとする。

 だが、扉は開かない。

「誰か! 誰かいないのかっ!? 助けてくれーーーーーっ!!!!」

 扉を全力で叩くが、びくともしない。叫び声も、届かない。

「ではでは、代償をいただきますねー」

 振り返ると、天使さんは近づいてきていた。

 その顔は、けがれなど何も知らない純粋な子供のような笑顔だった。

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天使さん きと @kito72

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