第25話 家の棚に置いてあるデジタル時計

 およそ十分かけて家まで戻った。玄関先まできて、長い時間、ぜいはあ、と必死に酸素を貪った。

 家には誰もいなかった。それはそれで都合がよかった。ゲームのために着替えた黒いスーツ姿だったし、家族の誰にも見られずにすみ、誤解を生産する危険性がない。ただ、一方で、家族の誰かの顏を見たくもある、心境はやっかいで、複雑だった。

 町の端の壁から家まで全力疾走を行い、呼吸は乱れに乱れていた。けど、もう永遠にこの呼吸は整わないじゃないか思っていた呼吸も次第に整ってきた。心臓のほうは相変わらず、まだ、あばれ太鼓みたいになっている。現役の興奮状態だった。けれど、その他の感覚はじんわりと機能するようになってゆく。

 そうしているうちに、猛烈な喉のかわきをおぼえた。

 速足で台所へ行き、冷蔵庫からつくり置きの麦茶のアクリルポットを取り出す。ちょっと乱暴に冷蔵庫のドアを閉めてしまい、罪悪感があった。コップはなんでもいいやとなって、そこにあったマグカップへ注ぐ。それからいっきに飲んだ、しかも、立て続けに二杯飲む。水の固まり丸呑みするみたいに、ぐびぐびを喉が音を立てていた。

 飲み終わると、また息が乱れていた。ひとまず口のあたりを荒々しく服の袖でぬぐった。けれど、ぬぐった先のスーツの裾に泥がついていたせいで、じゃりっと肌をこすった。それで洗面所へ向かって、顏と手を洗った。明りもつけないままう薄暗い洗面台の鏡にうつるじぶんの顏をあまり見ないようのする。現実を直視しないようにした。

 黒いスーツからも脱出した。急いで脱皮するように脱いで、黄色いフリースに着替えた。身をつつむ色を完全に変えて、気分の立て直しをはかるねらいだった。スーツは、とりあえず、じぶんの部屋のはしっこへ置いていた。

 居間に戻る。まだまだ誰も家には帰って来ていない。やっぱり、誰か家族の顏が見たかった。誰かの顔を見れば、とりあえず、気持ちが着地でいるじゃないかと思った。けれど、誰もいない。帰ってくる気配もない。

 あそこから逃げてきて、まだ生きている者に会っていない。そんな考え方をして、ふと、いま立っている場所が現実なのかどうか、そんな疑いさえ発生しかける。頭のなかは、意識しきれない混乱が続いていそうだった。

 対して呼吸は落ち着いていた。でも、なにか大きなものを、あの場所においていってしまったように、いま、ここにいるということに現実味がない。

 居間の座布団の上へ膝を抱えて座る。家のなかは静かだった。生きて動くものはない。

 家の棚に置いてあるデジタル時計だけがずっと点滅していた。うすぐらい家のなかで、光りの数字を放っている。

 日付けは四月三十二日と表示されていた。

 しばらく座ったまま日付けを見る。

 黙ってみる。

「………わかってるよ」

 誰というわけでもなく、そういってテーブルへ手をつき立ち上がっていた。本格的に座ったせいで、腰をあげるのが異様に重く感じった。

 でも、立ってしまうと頭が、くら、っとした。そして、また、デジタル時計へ顏を向けた。 

 日付けは、四月三十二日と表示されつづけてる。

「わかってるさ」すこしムキになっていた。「ああ、そうさ、つまり、ここからもうひと盛り上がりすればいいんだろ」

 この世界へ対し、怒りっぽいのをひとつこぼして頭をかく。

 そこへスマホへ着信があった。画面を見ると相手はシキさんだった。

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