最終話 妖精たちの新年
カエル・モリカの町から砦の城へ。
明けの明星が東の空に輝いている。
見上げた天に、ひとすじの星が伸びやかな弧を描いて流れていった。
「もう、冬ね」
刻々と色を変えてゆく空を見上げ、ぽつんとオルフェンが呟く。息が白い。
「そうですね」
城門の前にランタンを
門衛はいない。
今ごろ城の中では、働く者たちも客人たちに混じって休んでいるのだろう。
広間で。控えの間の長椅子で。
人はみな眠る。あるいは寝たふりをする。太陽が中天に差し掛かるまで、目を開いてはならない。
それが昔からの約束事だ。
「急ぎましょう」
オルフェンが駆け出す。
「やれやれ、元気な王女さまだ」
黒いマントをまとった男は苦笑して、その後を追った。
* * *
「もう動けませんからね。僕はもう一歩も動きませんよ」
惑わしの森、隠者の庵にたどり着いたダナンの王子は、靴を履いたままベッドに飛び込んだ。
シャトンの背に乗って白い世界を抜けると、庵に続く道に出た。
太陽が顔を出す寸前のことだ。ぎりぎり間に合った。
木の間からは黄色い光。頭上の空は淡い紫とピンクが入り混じった色に染まっている。
風はない。穏やかに夜が明けようとしていた。
「行儀が悪いね」
うつ伏せに倒れ込んだアリルの靴を、シャトンが咥えて引き抜く。両方の靴を脱がせてしまうと、シャトンは出窓に飛び乗った。閉じた木の窓の隙間から差し込む陽の光が、彼女のつややかな毛皮の上で躍る。
「ああ、くたびれる夜だった」
そうこぼすと、シャトンはくわあと大きなあくびをしてくるりと丸くなった。
祭りのあと。
十一月一日の夜が明ける。
妖精たちの
人ならぬものたちは異界に戻り、閉じられた扉の向こうで新しい年を祝う。
扉のこちら側で、人はそれを邪魔せぬよう静かに過ごす。
それぞれがあるべき場所で、それぞれの朝を迎える。
* * *
ケイドンの森にほど近い小さな村。
そのご婦人が自宅である一軒家に帰り着いたときには、すでに冬の太陽は北東の地平線の上にあった。
「まあ、昨夜はいろいろあったこと!」
うーんと伸びをし、薬箱をさぐって四代目隠者特製の湿布薬を取り出す。
肩に、背に、腰に。
一晩中歩き続けて疲れ切った全身に、くまなく貼り付けてゆく。
肉の器を持つということは、そしてその器が老いていくというのは不便なことだ。しかし年を重ねればその分だけ得るものはある。そんなふうに人の子たちは心の中で折り合いをつけ、限られた生を生きる。
冷たい水で顔を洗い、ゆったりとした清潔な衣服に着替える。
「ああ、生き返ったようだよ」
と、外からコツコツと窓を小突く音がした。
締め切ってあった木の窓を押し開くと、一羽のワタリガラスがするりと部屋の中に
「新年おめでとう、デニーさん」
カラスは棚の上にちょこんと座ると、しおらしく頭を下げた。
「この一年がデニーさんにとってよい一年になりますように」
「おめでとう。あんたとその一族にも、たくさんの良いことがありますように」
老婦人は何でもないことのように挨拶を返し、丸い木のテーブルの上にカラスの席を
「今、ひと息ついたところさ。あんたにもお茶も淹れてやろうね」
「そんなことより、いっぱいいっぱい、報告することがあるんだよ」
待ちきれず、カラスは棚の上から家主の肩に移動して、湯を沸かし始めた家主の耳のそばでまくし立てた。
「まず一つめ。百年越しの案件が片付いた。若草の乙女が魂の半分を取り戻したよ」
そう言ってから「あれ? 二百年だったか」と首をかしげる。
「そうかい」
デニーさんは嬉しそうに頷いた。
「しかし、不死の呪いが解けるまでには、まだ時間がかかりそうだ」
――いつの日か、心の底から王女さまを愛する者が現れて、
その人が呪いをその身に引き受けてくれるでしょう。
――そして、王女さまがその人を心から愛するようになれば、
二人は次の世への道を見出すことができるでしょう。
「現在名乗りを上げているのは赤の魔法使いひとりだけれど、これからどうなるかねえ。愛だの恋だのを魔法の力でどうこうするのは
楽しそうなカラスのおしゃべりを聞きながら、デニーさんは棚から瓶を取り出して中を
さて、この朝にふさわしいお茶は何だろう。
「二つめ。大陸の聖女が次の世へと旅立ったよ」
若草のエレインが
「安らぎの野か、大陸の神の
「そうかい」
「それからね、それから……」
身を乗り出すカラスの顔の前に、ほかほかと湯気の立つ木の器が差し出された。
「なんだい、これは」
酸っぱい匂いにカラスは顔をしかめた、ように見えた。
「シラカバの皮とチェッカーベリーのお茶。今年一年、達者で暮らせるように、ってね。あたしらもいい歳なんだからさ」
「今さらだねえ」
「はは……。さあ、席に着いた」
軽く笑って、デニーさんはガタンと椅子を引いた。小さなテーブルの上にはライ麦パンとニワトコのジャム。カラスの席の向かいに腰を下ろし、頬杖をつく。
「さっきの続きを話しておくれ。それからどうしたって?」
カラスも自分のために用意された席に落ち着いた。柔らかな布を
「三つめ。冥界にナナカマドの花が咲いたよ」
「ほう」
お茶を一口含み、デニーさんは目を細めた。
「咲かせたのは、ダナンの王女さまだとよ。ドウンはさっそく彼女をナナカマドの女王と名付けたってさ」
「あんたも耳の早いことだ」
「当然さ」
カラスは得意げに胸を
「あそこはアタシの一族のナワバリでもある。ドウンはいずれ、あの金の王女を冥界の女王に
「ふうん。あそこもずいぶん
「だろう? それと兄の王子の方なんだが…おっと、これは四つめだね」
と、カラスはここで木の椀にくちばしを突っ込み、「
「ニムの一番下の妹に気に入られたようだ」
「おや、それはまた」
デニーさんが身を乗り出した。
「確か、フィニとかいう名だったかね」
「そうそう、その娘さ。おいたが過ぎたもんで、とうとうニムに魔力を取り上げられて無の世界に放り込まれた。ついさっき、夜半のことさ。そこにどういうわけか、ダナンの王子さまが来合わせたんだと」
「なんとまあ」
にこにこと細められていた老婦人の目が大きく見開かれる。
では、四代目森の隠者は、自分が庵に送り届けた後、また異界に迷い込んだのだ。
サウィンの夜に放たれた、大きな魔力。その波動はこの世のあちこちに
その後、同じ場所で立て続けに使われた小さな魔法が綻びを広げた。昨夜はその後始末にずいぶん骨を折らされたものだ。
「あの王子もずいぶん風変わりな若者のようだ。
そう言うと、しわがれた声でカラスは歌った。
汲めど尽きせぬ清らなる泉よ
愛は枯れて、落ち葉が積もる
月影も映らず
日は空を駆け、時は巡れど
過ぎし日は戻らず
ああ泉よ、我は嘆く
かつての汝を知るがゆえに
ダナンの湖水地方に伝わる古い歌だ。
「誰が歌い始めたのか知らないが、返歌をしてやらないとね。アタシは
ああ、美しき泉
汝は今、いずこにありや
昔を知る者よ、嘆くにはあたらない
我は見た
遠い月日のその果てを
濁りは澄んで泉に戻る
「いやいや、どうして。なかなかのものだよ」
老婦人が拍手を送ると、カラスはひょこりと頭を下げた。
「クネドが
エヘンと咳払いをして、またおしゃべりの続きに戻る。
「しかしあの王子も、たいがい苦労人だねえ。あんたが手を差し伸べていなけりゃ、今頃生きていたかどうかも定かじゃないが、これからもいろいろ背負い込みそうだ。心強い味方がついているし、あんたが見込んだほどの子だから、そう簡単にへたばりゃしないだろうけれどね」
太陽の光が、部屋の中を照らし出す。
穏やかな新年だ。
二人はしばし黙ってシラカバのお茶を
「やっぱりこれはアタシの口には合わないようだ」
椀の縁をコツコツとくちばしで
「女神ダヌの名にかけて、違うのに取り替えてくれんかね」
不死の乙女ーあるいは若草のエレインをめぐる物語 楓屋ナギ @kaedeyanagi
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