第47話 おかえり

 冥界の泉を抜けると、そこは聖エレイン大聖堂の最奥部。聖所の中だった。


「無事戻ったか」


 ひょっこりと青銅の水盤から顔を出したフランとエレインを、妖精女王のエリウが見下ろしている。お側去らずのイレーネの代わりに、彼女の肩にはワタリガラスが止まっていた。


「お帰り、可愛い子」


 ぐっしょりと水に浸かったエレインをエリウが水盤から抱き上げる。たっぷり水を含んだ髪と服がさあっと乾いてゆく。細く力強い腕に抱きしめられ、エレインはほうっと息を吐いた。


(――帰ってきたんだ、ここに)


 柔らかな胸。懐かしい薔薇の香り。たった一晩しかいられなかった場所。

 ここから全てが始まったのだ。


「おー、えらい目に遭った」


 自力で水盤から這い出したフランがぽたぽたと床に滴を垂らす。それを見てエリウが眉をひそめた。


鬱陶うっとうしい」


 虫を払うかのように白い手を軽く一振りする。あっという間にフランの衣服と床が乾いた。

 エリウの肩に止まっていたカラスが、ひょいとフランの頭に飛び移る。


「うまくいったようじゃないか」

「さあ、それはどうだかな」


 フランがうるさそうに頭を振った。カラスはばさっと翼を広げ、右肩に座り直した。


「あの娘の額を見れば分かるよ。取り戻したんだろう。例の『魂の半分』ってやつをさ」


 カラスの言葉に、エリウが無言で頷く。


「なんだと?」


 フランは目を細め、エレインの額をじっと見つめた。

 皆の視線がエレインに向けられる。エレインははうろたえた。


「姫さん。白い薔薇、って聞いて思い当たるふしはあるか」


 フランが問う。


「あの黒い男の城の、泉の傍に咲いていたやつだ」

「白い、薔薇……?」


 エレインは、自分が見た冥界の風景を思い起こそうとした。


 荒れ野の木の下で、オルフェンとドウンに会った。

 その後、土埃の上がる地面を踏んで王の城館へ。中に入ってからは夢中で魔法使いを探した。景色など見ている余裕はなかった。

 泉の傍に魔法使いの姿を見つけて、駆け寄った。覚えているのは足下の柔らかな緑。

 走って、つまずいて、バランスを崩して。魔法使いを巻き添えにして泉に落ちた。

 あのとき、何が見えたのだったか。


「そういえば、声が―――」

 はっと思い当たって、顔を上げる。


 ―――わたしは、ここ。


 水に沈む前に、声が聞こえた。

 岸辺から白い腕が差し伸べられ、夢中でそれにしがみついた。


「それだな」

「それだね」


 フランとカラスが同時に頷いた。


「でも、あれは、無くなってしまいました」


 しっかりと握ったはずなのに、溶けるように消えてしまった。


「そなたの中に還ったのだよ」


 エリウは両腕に包んだ娘の亜麻色の頭を、愛おしそうに撫でた。


「わたしの、中に?」

「そう」


 魂の半分と、過去の記憶。かつてエレインが失ったもの。

 幼子おさなごに言い聞かせるように、エリウは優しく語る。


「そなたは、我らの仲間に、人ならぬものになることもできた」


 チャンスは二度あった。不死の身となったとき。魂の半分を失うことになったとき。


「我が身の運命を呪い、人の世に見切りをつけ、こちらに来ることもできたのだ」


 人間どもは彼女を『癒しの手を持つ乙女よ』ともてはやしながら、一方で『呪われた娘』と距離を置いた。彼女には何の責任もないのに。

 癒しが必要なときには自分から近寄ってくるくせに、求めるものが得られれば呪いを恐れてそそくさと逃げるように遠ざかる。


「それでもそなたは、自分の属する種族を見捨てなかった。分かり合える者のいない孤独の中で、耐えることを選んだ。救った人々の笑顔をかてに、懸命に生きた」


 そうして限界に達したとき、憎しみを外に向けるのではなく、自分が壊れる方を選んだ。


「取り戻した過去は、そなたに安らぎをもらたすものばかりではない。忘れたままの方が幸せな記憶もある。だから私は、今、そなたに祝福を与えよう」


 エリウはそっとエレインの額に口づけた。


「そなたが苦しい思いをするときには、常に支える者がそばにあるように」

「うっ…く―――」


 胸の奥から大きな塊がこみ上げてくる。エレインはそれを押さえ込もうとした。


「もうひとりで耐えようとしなくてもいい。妖精女王エリウの名にかけて、若草の乙女に幸いを約束しよう」

「う、うわああ――――…」


 エレインは泣いた。

 ひどい言葉を浴びせられたときにもずっと泣かないでいたのに。我慢することにはすっかり慣れたはずなのに。どうして優しい言葉に涙があふれるのだろう。こんなに泣ける自分が不思議だった。

 エリウの手が背中を撫でる。エレインは声を放って泣き続けた。


「よかったじゃないか」


 ひそひそとワタリガラスがフランの耳に囁く。 


「エリウのお墨付すみつきをいただいたのと同じだ。これからは大手を振って、あの娘のそばにいてやれる。そうなりゃいずれは……」


 からかうような口調に、フランはその両足をがしっと掴んだ。


「余計なことは言わなくていい」


 エリウとエレインに聞こえないよう低い声で、カラス相手にすごむ。


「いいか。俺があいつに思いを寄せれば誓約ゲツシュに背くことになる」


 誓約破りは重罪だ。どのような報いが降りかかるかは予測ができない。


「だから俺は、これまでずっと、あいつへの思いが深くなり過ぎないように気をつけてきた。誓約を破った代償があいつに及ぶことだけは避けねばならん。時間がかかるのは承知の上だ。だから口出しは無用だ。何も言うな。何もするなよ」


 カラスはぱっくりと口を開けて、首をかしげた。


(誓約の代償?)


 はるか昔。ウィングロットの片田舎から修行のために湖の島へとおもむいた少年が、巫女から託宣たくせんを受けたことは知っている。

 

 ―――この者は愛する女を死に至らしめる。


 マクドゥーン。死者の王ドウンの息子という名の由来である。

 その預言を聞いた赤い髪の少年は、その場で即座に誓いを立てた。


 ―――ならいい。俺は一生どんな女も愛さない!


 有名な話だ。


(誓約ってのは、アレのことだろうね)


 愛する女を死に至らしめる、という禁呪ゲッシュは生まれ持った宿命である。日没の向こうの国、『安らぎの野』へと赴き、別の人間として生まれ変わらない限り逃れようがない。

 しかし、どんな女も愛さない、という誓約の方は。


(あっちはもう、白紙に戻ったんじゃなかったけか)


 ワタリガラスは小さな頭の中で、誓約について自分の知るところを思い返した。


 フランは一度赤子に戻っている。

 大魔法使いマクドゥーンとして生き、年老いて、枯れ木のようになって行き倒れた。

 本来ならそこで肉の器を失うはずだった。それが、生命の水を守る妖精に発見され、大量の変若水おちみずを注がれた器は赤子に戻り、生まれ変わりを経ずに二度目の人生を過ごすことになった。


(あそこで、ヤツの大魔法使いとしての生は一旦終わったはずなんだ) 


 二度目の生は、盗掘人の夫婦に拾われたところから始まる。

 墓荒らしを生業なりわいとして育ち、聖女の墓所に忍び込んだところを、聖女の守護者たるエリウに捕まった。その後、マクドゥーンの魂を持った少年の身柄は、湖の貴婦人ニムの手に委ねられた。

 ニムが彼を賢女ウィッカの息子『フラン』ではなく、墓盗人の『フラン』として受け入れたときに、過去の誓約は消滅したはずだ。


(全く気づいていないってのか)


 不死の呪いを解くには、かえって都合の良い状態になっているというのに。


(自分のことってのは、意外に見えないものなんだねえ)


 三代目隠者、赤い髪の魔法使いは、いつこのことに気づくだろう。

 もちろん、わざわざ教えてやるつもりはさらさらない。


(これは面白い。いい賭けのネタを手に入れたよ)


 内心、舌なめずりする。

 長い時を過ごすものたちは、いつだって退屈しているのだ。


「分かったよ」


 しばしの沈黙の後、カラスは殊勝しゅしょう面持おももちで頭を垂れた。


「けれど、これだけは覚えておいておくれ。あたしはいつだってお前の味方だ。ずっと見守っているよ」


 本音を隠して、いかにも思いやり深く。

 すると、


「いらん」


 赤毛の魔法使いからは素っ気ない返事が返ってきた。

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