第46話 あるべきところへ

 何もない白い世界で、アリルは膝をかかえて座っていた。

 傍らには同じ姿勢で座り込む妖精が一人。頬の涙はもうすっかり乾いている。


「あたしは、余計な手出しをしすぎたのかしら。あの人を、あの人の人生をダメにしてしまったの?」


 ぼんやりと、気の抜けた顔でそう呟く。


「ダメにした、とは思いませんが」


 彼女の恋人がどんなに凡庸ぼんような人間であったとしても、『クネド』という王の名の下に、争いの絶えなかったイニス・ダナエがひとつの国としてまとめ上げられたという歴史は変わらない。


 もし、彼がもっと野心的な男であったなら。あるいは利己的な男であったなら、妖精の力を、もっと積極的に利用しようとしただろう。

 小さな島を手中に収めるだけでは飽き足らず、大陸の方にまで手を伸ばしていたかも知れない。

 逆に人ならぬものの助力を恥と感じるような、高潔こうけつな騎士であったなら。


(クネドという王は存在しなかった可能性も―――)


 少なくとも、ミースを中心とする『ダナン』という国が歴史に登場することはなかっただろう。今もまだあちこちで戦乱が続いていたかもしれない。

 ちっぽけな島の中で争っているうちに、大国に吸収され、属州となる道もあり得たのだ。


 豊かな実りを奪われ、心を踏みにじられて誇りを失ったダナンの姿を想像し、アリルはぶるっと身を震わせた。

 起こらなかったことを仮定しても無意味だ。頭に浮かんだ嫌な光景を振り払い、目の前の乙女に向き合う。


「クネド王の魂が転生してくるのを、待とうとは思わなかったのですか」


 彼の娘、『不死の乙女』を憎み続けるのにも、大変なエネルギーが必要だろうに。戻らぬ過去よりも、未来にある楽しみを見つめる方が心の負担も軽いはずだ。


「待っていたわ」

 小さな声で、妖精が答える。


「でも、どれだけ待っても、あたしには彼の気配が感じ取れなかったの。できることなら、許されるなら、探しに行きたかった」


 人の世に干渉しすぎたとがにより、泉の乙女は自らの住処すみかを離れることを禁じられた。

 ひとつところとどこおった水は、よどんで濁り、沼となる。

 訪れるものもなく、残されたものは過去と己の想いのみ。恋人の魂を待つ間に彼女は『沼の魔女』と呼ばれる存在に変容した。

 あれは、いつだったか。とろとろと柔らかな泥のようなまどろみの中にあった彼女の耳に、カラスたちの話し声が届いた。

 死者の国とこちらの世を行き来するワタリガラスが、訳知り顔で聞こえよがしに語り合っている。


 ―――いくら待っても無駄だというに。

 ―――知らぬというのは、哀れなことよ。


「あの人の魂は『死者の国』で迷っていたのよ。またあの娘のせい!」


 思い返してまた感情が高ぶったのか。語気の激しさにアリルはびくっと身を引いた。


「カラスにまでバカにされて。煮えたぎる大釜の中に突き落とされたような気がしたわ」


 エレインは妖精女王エリウの保護下にあった。格が違う。ちっぽけな妖精が敵う相手ではなかった。しかも沼に縛り付けられ身動きもままならないとあっては、どうすることもできない。

 恋人の消息を耳にしてからほどなく。冥界の王が現れた。


 ―――あの男の魂を救ってやりたいか?

 

「二人を会わせてやればいい、って。迷いの種が消えれば次の世への道が開ける。転生が叶う。考えるまでもなかった。一刻も早く、あの人に生まれ変わってほしかった。あの人に会いたかったの」


(そういうことだったのか……)


 エレインを『死者の国』へ。

 愛娘との対面が叶い、心残りから解放されればクネドは『安らぎの野』へと旅立つことができる。そしてドウンは、まんまと若草の乙女を手に入れるという寸法だ。


「なるほどね」


 サウィンの夜は絶好のチャンスだ。人間の一人や二人、消息が分からなくなってもそう不思議なことではない。

 オルフェンが初対面のキアランを警戒していたことを、アリルは思い出した。彼女の勘は正しかったわけだ。シャトンも、自分の言葉を解してくれる希有けうな人間に対してよそよそしかった。

 それもこれも、今思えば、だ。アリルは自分の鈍さを呪った。


「ねえ……」


 白い妖精がアリルを覗き込んだ。一時の激しさは消え、すがるような眼差しをアリルに向けてくる。


「マクドゥーンは怒っているかしら。あの魔法使いは怖いのよ。あたしを消すくらい、顔色一つ変えずにやってのけるわ。魂を持っているあなたたちと違って、あたしたちは消えたらそれでおしまいなのよ」


 アリルの知らない、大魔法使いとしての師匠の顏だ。


(あの面倒くさがりの見本のような人が、ね)


 確かに、事エレインに関しては別人のような面を見せる。ここ何日かの間、その姿を目の当たりにしてきた。


(どうだろう)

 アリルはしばし考え込んだ。


 もはや彼はいにしえの大魔法使いではない。


(赤子からやり直したって、言ってたし)


 『死』という過程を経てはいないものの、聖樹の賢者と賢女ウィッカの家系に育った魔法使いではなく、墓盗人を育ての親に持つフランとして二度目の人生の途中にある。

 アリルのよく知るあの人物なら、どのように考え、どのように行動するだろう。

 出会ってからこれまでの記憶を探る。

 さまざまなパターンを胸の内に思い描き、ひとつの結論にたどり着いた。


「きっと、大丈夫ですよ」

「本当に?」


 妖精の大きな瞳に光が射す。


「ええ」


 たぶん、師匠ならこう考える。


「エレインの魂の半分は冥界にあります。生者である師匠…マクドゥーンには手出しのできない領域です。けれど、あなたが介入してくれたおかげで、冥界に乗り込む口実ができました。しめた、と思ったんじゃないですかね」


 首尾良くエレインの魂を取り返すことができれば、それでよし。

 もし失敗したとしても、わざわざ手間をかけてまで恋に目のくらんだ妖精の娘を害しようとは思うまい。

 話を聞く限りでは、今回の事件の主導者は冥界の王。この妖精は利用されただけで、本筋から外れたところにいる感がある。怒りの矛先ほこさきが向けられることはないはずだ。

 

 ―――はあ? 報復ってか。益体やくたいもない。

 ―――そんな面倒なこと、俺がするはずないだろう。

 

 テーブルの上に足を放り投げて、耳をほじる師匠の姿がありありと目に浮かぶ。

 アリルは言葉を取り繕いながら説明し、こう締めくくった。 


「あの人は、そんな狭量きょうりょうな人間じゃありません。だから、安心してください」

「本当に?」

「いざとなったら、僕からも取りなしてあげますよ」


 と、これは人間特有の社交辞令だったが、妖精はにっこりと笑った。


「あなたはいい人ね」

「いえ、それほどでも」


 ふうっ、と大きく息を吐いて、小さな娘は遠い目をした。


「あーあ。あたしってば、なんて愚かだったのかしら。無駄なことばかり」

「どうしてですか? 確かに、お二人の思いはすれ違ったままでしたけれど、失敗だって無駄にはなりませんよ」

「どういうこと?」

「次に誰かに恋をしたときは、もっと上手くいきますよ。経験ってそういうものですから」


 そう言うアリルには恋愛経験がまるで無い。我ながら説得力が無い、と内心肩を落とす。しかし、妖精の娘は心を動かされたようだった。


「そういうものなの?」


 再び身を乗り出して、アリルの顔を覗きこんでくる。白い顔がさらに近づく。


「え、ええっと、多分……」


 曖昧あいまいな返事をして、アリルはそっと視線を逸らした。


「ありがとう」


  チリン―――…。


 晴れやかな妖精の声に、ガラスのベルに似た音が重なった。

 娘の背後で、靄が晴れてゆく。

 靄の向こうに見えてきたのは、星明かりの夜に黒々とそびえる山の稜線りょうせん

 そして、一面に群れ咲く風鈴草の花だった。

 さやかな水音が聞こえる。

 スズランに似た形の花たちは、星の露を宿してうつむいている。 

 白い娘は跳ねるように立ち上がり、夜空に向かって両手を広げ


「ああ、やっと帰れる……」


 溜め息と共に万感の思いを吐き出した。


「懐かしい、あたしの谷」 


 美しい風景だった。しかし、アリルは底知れぬ恐怖を感じていた。目の前で、靄はどんどん薄れてゆく。自分の背後はどうなっているのだろう。振り返る勇気は無い。


「あなたも、いっしょに来る?」


 人ならぬものが、アリルに向けて問いかける。

 ここで頷けば、おそらく元いたところには戻れない。

 断ることはできるのか。断ったとして、元の世界に戻ることはできるのだろうか。このまま白い靄の中に閉じ込められてしまうのだろうか。それとも―――。


(誰か助けて!)


 アリルは心の中で念じた。


 祈りはすぐに通じた。

 しっとりと柔らかなものが、トトン、とアリルの頭を踏んで通り過ぎた。アリルの首がぐきっと音を立てる。


「痛っ」


 衝撃で横倒しになったアリルの前に、大きな獣の背があった。

 ふかふかの毛皮に、淡いグレイの縞模様。アリルはすがりつきたくなるほどの安堵を覚えた。


「そこのオバケ、アタシの相棒に悪さしたら承知しないよ!」


 噛みつくように言い放つシャトンの姿は、いつもよりもずっと頼もしかった。

 面と向かってオバケ呼ばわりをされた妖精は反撃に転じた。


「化け猫のくせに失礼よ。あなたこそ何しに来たの。邪魔だからさっさと帰ってよ」

「この臭いには覚えがある。お前、沼の魔女だろう。そんな性悪女につきあうほど、こいつは趣味が悪くないんだよ」


 ぐっと頭を下げて、シャトンが臨戦態勢に入る。


「本当に失礼な猫だこと。あたしは沼の魔女なんかじゃない。清らかな泉の乙女なのよ。それに、おバカな猫と遊んでいるより、あたしとお話する方がずっと有意義に決まっているわ」


 泉の乙女も応戦の構えだ。


「あの、お二人とも…」


 おずおずと、アリルが割って入ろうとしたが、


「あんたは黙ってな!」

「ちょっと静かにしてて!」


 双方からやり込められてしまった。


「はい…」


 どうしてだろう。アリルをめぐって喧嘩をしているはずなのに、アリル自身は置いてけぼりである。どころか、邪魔者扱いだ。

 猫と妖精。

 ふたりの乙女の睨み合いはしばらく続いた。その間にも靄は薄れてゆく。夜の谷の風景が濃くなってゆく。

 シャトンが興味を失ったように、ぷいと泉の乙女から顔を背けた。


「こんなのを相手にしていても、らちが開かない。帰るよ」


 ぐいっとアリルの襟首を咥え、自分の背に放り上げる。


「帰るって、どっちの方へ行けばいいんですか?」

「決まってる。コイツがいない方向だよ」


 ふんっ、とシャトンは盛大に鼻を鳴らした。悠然と泉の乙女に背を向ける。


「落っこちないよう、しっかり捕まってるんだよ」

「あ、はい」


 アリルはシャトンの首に手を回し、ぎゅうっとしがみついた。その感触を確かめて、シャトンはゆっくりと歩き出した。


「ちょっと、このまま逃げる気?」


 何を言われても、もう振り返らない。徐々に速度を上げてゆく。まるで空を駆けるように滑らかに。

 耳元で風が鳴る。

 アリルはその毛皮に顔をうずめ、体を預けた。


「覚えてらっしゃい!」


 遠くから、かすかに、泉の乙女の元気な捨て台詞が追いかけてきた。

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