第45話 やわらかな光
冥界の王城。
中庭に置いてきぼりにされた魔法使いは、全身ずぶ濡れのまま、呆然と泉の前に突っ立っていた。
「なんなんだ、一体」
あたりを見渡すと、周囲にはぐるりと石の柱が並ぶ回廊。頭上には冥界の空。赤黒い靄が立ちこめ、中庭の上だけぽかりと穴が空いたように透明な青が覗いている。
冥界の中でもこの場所は特別な空間なのだろう。
地上には柔らかな緑。丸いテーブルが置かれて、客をもてなすためのしつらえが整っている。
そちらに向けて歩き出そうとすると、長靴がくちゃくちゃと音を立てた。
――重い。
「くそっ、なんでこんなに脱ぎにくいんだ」
靴紐を引っ張りながら悪態を吐く。
騎士の長靴は武防具だ。着脱に手間がかかるのは当たり前。さらに革が水をたっぷり吸って
「ああ、もう……!」
片足でバランスを取りながら、長靴をひっくり返す。さあっと水がこぼれ出た。
魔法を使えば手っ取り早いが、ここは冥王の領域だ。どんな小さな術であれ、了承を得なければ後々面倒なことになる。
「あいつら、どこまで行ったんだ。誰も帰ってきやしねえ」
諦めてどっかりとクローバーの
あたりが静かなうちに、ここに来た目的を果たしておく方が良さそうだ。
探し物は泉のすぐそばにあった。
―――白い薔薇。
聖堂にあっては、聖女エレインを象徴する花である。
うつむきがちに咲くその花は、芳しい香気を放っていた。
他の薔薇との違いは
エリウが教えてくれたのは、この花で間違いあるまい。
「これをエレインの中に戻せばいいんだが、さて」
花だけを
「ここに来さえすれば何とかなると思ったが、甘かったか」
花が教えてくれればいいのに、と勝手なことを考えながら白い薔薇を撫でる。
かつて嵐の夜、森の庵に運び込まれた
「うん?」
空が明るくなった気がして振り仰ぐ。どんよりとした靄の色が変わってゆくのが見えた。
初めてここを訪れた者の目には美しく映る光景だ。だが先ほどの雷鳴に似た音も、空の色が移るのも、この地では珍しい現象なのだろう。
何しろ、冥界を統べる神が血相を変えて飛び出していくほどだ。
空の色は刻々と変わる。
待っても待っても、誰も帰ってこない。
「仕方ねえな」
どうやら非常事態であるらしい時に、不案内な土地を動き回るのは気が進まない。
だが、そうも言っていられない。
タイムリミットは近い。じきに夜が明ける。その前に扉をくぐらないと、生者の世へと続く道が閉ざされる。
自分ひとりなら、すぐにでも花を手折って泉に飛び込みたいところだ。
しかし、ここにはダナンの王女がいる。見過ごしにはできない。彼女が生身のまま死者の国に来てしまったことに対しては、彼自身にも責任がある。
とりあえず、ドウンとオルフェン、二人が向かったとおぼしき方へ。光を頼りに動くことにした。
「よっこら、せーの」
年寄じみた掛け声とともに重い腰を上げ、片膝を立てる。
ふうっと、薔薇が強く香った。
香気に引き留められ、振り返ると、白い花の光が強く淡く
「何の前触れだ?」
上げかけた腰を再び下ろし、
光は瞬きを繰り返す。花には、それ以上何かが起こる気配はなかった。
意味を図りかね、彼は首を捻った。
そのとき、回廊の方から彼を呼ぶ声がした。
* * *
――いた!
探し人の姿を見つけ、エレインの胸は高鳴った。
冥界の王の城。門を入って真っ直ぐ進んだ先、緑の中庭でこちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
灰色のマントは聖騎士の出で立ち。
赤い髪は、陽だまりの野いちごの色。
(あたしが失くしたものは、きっと彼のそばにある)
胸の内で、確信が強まってゆく。
エリウの丘で出会ったのは偶然ではない。いや、自分が忘れているだけで、すでにどこかで会っていたのかもしれない。
湖の島、ニムのもとで?
あるいはもっと昔に?
彼と共に過ごしたこのひと月ほどの間に、自分は変わった。さまざまな人に出会い、とんでもない目にも
声をかけようとして、彼女は迷った。
(何と呼べばいいのかしら)
聖騎士さま、フラン、それとも―――。
軽く頷いて、エレインは彼の方に向けて駆け出した。
「――――!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
男が振り返る。驚いたような顔をして、こちらを見ている。
(楽しい!)
心が弾む。足が弾む。
軽やかに駆けて、駆けて、最後につまずいて、慌てて手を差し伸べた男の胸にぶつかってしまった。
「うおっ。何てことをするんだ」
頭の上で声がした。
バランスを崩し、二人して倒れ込む。倒れ込んだその下には泉があった。
水面がゆっくりゆっくり近づいてくる。
―――わたしは、ここ。
岸辺から、白い腕がエレインに差し伸べられた。
夢中でその手を掴む。
柔らかな手応えが握った手のひらの中でくしゃりと
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます