第44話 冥界の花

 寄生木やどりぎが灯す赤い光に導かれ、エレインは駆ける。

 暗い道の先に、二本の若木がぼんやりと浮き上がって見えた。しなやかな細い腕を広げ、今まさに、柔らかな葉を芽吹かせたばかりのようだ。

 その間を通り抜けると、そこで道が終わった。

 目の前には乾いた荒れ野が広がっている。振り返ると、もう背後に道は無かった。


 赤茶けた大地。

 夜のとばりに覆われようとする寸前の残照ざんしょうに似た、黄昏たそがれ色の光。

 黒々と枯れて、痩せた腕を伸ばす木々。

 ゆるゆると動く灰色の影。


 心浮き立つ風景にはほど遠い。

 エレインはごくっとつばを飲み込んだ。


(進むしかないんだ)


 ぼんやりとかすむ空に、城館らしきシルエットが見える。


(あそこに行けば……)


 震える足を励まして一歩を踏み出す。細かい土埃つちぼこりが、膝の高さまで舞い上がった。次の一歩を踏み出しかねて立ち止まる。

 ためらうエレインの耳に、犬の声が聞こえた。

 二匹の獣が跳ねるようにして、こちらに向かって走ってくる。獣たちの後ろに金色の光が揺れている。その光がエレインの心を温かく照らした。

 エレインは大きく手を振った。


「オルフェンさまあ!」


 * * *


 雷鳴のごとき響きが、延々と惰眠だみんむさぼるがごとき冥界に異変を告げた。

 

「なんだ? ひと雨来るのか?」


 到着したばかりの魔法使いが空を見上げる。


「あり得ない」


 ドウンの顔色が変わった。

 ――変化。

 この国の王となって幾星霜いくせいそう。昼も夜もない、時にも忘れ去られてようなこの世界に、何かが起ころうとしている。

未曾有みぞうの事態に、冥界の王は珍客の相手をするどころではなくなった。


「お待ちになって、わたしも一緒に」


 後を追おうとしたオルフェンの目の前で黒いマントがひるがえり、視界から消えた。


(どうしよう……)


 くいっ、とドレスの裾を引っ張られて視線を下に向けると、黒い犬と目が合った。赤い犬がとことこ歩いて回廊の前で振り返る。何か言いたげな獣たちに、オルフェンは問いかけた。


「案内してくれる?」


 キャン、と一声鳴いて二匹の獣は城から外へと走り出た。


 犬たちに導かれて、オルフェンは荒れ野を行く。もう見慣れた風景だ。

 もやの中に、ぽつんとひとつ、鮮やかな緑が見えた。


「オルフェンさまあ!」


 澄んだ、よく通る声が自分の名を呼ぶ。


「エレイン!」


 オルフェンは勢いよく駆けて、駆けて――その勢いのままぎゅうっとエレインを抱きしめた。


「無事だったのね、良かった!」

「はい、オルフェンさまも」


 別れてから数刻。それほど時は経っていないはずなのに、もう幾夜も経たような気がする。

 冥界の犬たちが嬉しそうに尾を振って、抱き合う二人の少女の回りをぐるぐると巡った。


「父君には会えたかしら」


 頬をバラ色に上気させ、目を輝かせてオルフェンが尋ねる。


「父君、ですか?」


 エレインは大きく目を見開き、ぱちぱちと瞬きをした。


「ええ、あなたの父君よ。ずうっとここを彷徨さまよっていらしたの。あなたに申し訳ない、って言ってたから、さっさと会いに行くよう助言をしたのだけれど」


 エレインの反応に、オルフェンが眉を曇らせる。


「もしかして、会っていないの? まさか、あのまま逃げ出したのかしら。そこまで臆病だなんて――」

「あ、あの。会いました! 森の庵で」


 エレインはき込むように言った。


「お話しすることもできました!」

「なら、よかった」


 オルフェンが笑みを浮かべた。

 ぱあっと大輪の花が開くような、晴れやかな笑顔がエレインの心を照らす。

 光が奥底まで届く。固く閉ざされた記憶の小箱が開きかける。


 ―――あともう少し。


「あの方は、あたしの父だったのですね」


 エレインはそっと呟き、胸の前で指を組み合わせて目を伏せた。

 その言葉をオルフェンが聞きとがめた。


「もしかして、名乗らなかったの?」


 こくんとエレインは頷く。そう、尋ねようとはしたのだが間に合わなかった。


「何てこと」

 オルフェンは絶句した。その頬がみるみる赤く染まってゆく。


「……千載一遇せんざいいちぐうのチャンスだったのに、何なの。おバカさんなの?」

「い、いえ。あの」


 あと少し、ほんの数秒の猶予ゆうよさえあれば―――。

 エレインは弁護を試みようとした。


「呆れ果てて言葉もないけれど。これだけは言ってやらなきゃ気が済まないわ」


 力強く足を踏ん張り腰に手を当てると、オルフェンは、すうっと大きく息を吸い込んだ。そうして茫洋ぼうようとした空に向かい、次の世にまで届けとばかり、思いっきり叫んだ。


「この、すっとこ統一王!」


 おお~う―――。


 オルフェンの声が長く尾を引いてこだまする。それに合わせて二匹の獣が遠吠えをした。


 再会を喜び合う少女たちをよそに、ドウンは呆然と立ち尽くしていた。


「これは、一体どういうことだ」


 いつの間に芽吹いたものか。

 冥界の神たる自分のあずかり知らぬところで、健やかなナナカマドの若木が二本すっくと立っていた。荒野のただ中にあって、その木々はすでにドウンの背丈の倍ほどにまで成長している。

 そっと幹に手を当てる。灰色の樹皮はつややかで傷一つない。見上げると、二本の木は上方でアーチを作るようにくるりと絡み合っている。


「まるで、〈門〉だな」


 若木の枝に白い蝶が止まっている。その羽をドウンは指で捕まえた。


「イレーネ、あなたなら何か知っているのではないか」


 そう問いかけて、空に蝶を放り投げる。

 尼僧の姿に戻るかと思ったが、蝶は蝶のまま。ふわりふわりと羽ばたいている。


「この木のことですね」


 ドウンの問いに、蝶が答える。


「もとは、オルフェンさまのお考えです」


 影たちのために『安らぎの野』への道しるべをつけよう、と。

 魔法使いから渡された魔除けのお守り、十字に組み合わされたナナカマドの小枝を地に挿した。


「もちろんそれは、かりそめの印」


 イレーネが選んだ場所に、オルフェンがさくっと差し込んだだけだ。


「なるほど。マクドゥーンが作り、金の王女が身につけていた魔除け、ね」

 梢を見上げ、ドウンが呟く。


「申し訳ありません。軽率でした」

「いや、謝らなくていい」


 難しい顔をして高い梢を見上げていたドウンは、ふと表情をやわらげ、はしゃぐ乙女たちに声をかけた。


「エレイン、あなたを探して客が来ていますよ」

「あたしに、ですか?」

「そう。城の中庭で待っていますから、急いで行ってあげてください。イレーネ、案内を頼めますか?」


(……)


 返事はない。白い蝶はナナカマドの枝に止まり、ゆっくりと羽を開閉させている。


「案内ならわたしが」


 オルフェンの申し出を、ドウンがきっぱりと却下きゃっかした。


「それはご遠慮願いましょう。殿下には、私にお付き合いいただかねばなりません」


 コンコンと、軽くノックするように木の幹を小突きながらドウンが言う。


「この木の件で、あなたには少々お尋ねしたいことがあります」


 不服そうなオルフェンをちらっと見て、エレインは元気よく答えた。


「大丈夫です。あたし一人で行けますから」

「本当に?」


 オルフェンは首をかしげてエレインの顔を覗き込んだ。


「はい。あちらに見えるお城でしょう。平らな場所ですし、迷うことはないと思います」

「では、すみませんがそうしていただけますか」

「はい。お気遣いをありがとうございます。ではお先に失礼しますね」


 スカートをつまみ、深々と頭を下げてから、エレインはひとりで城へと向かった。


「あの子、どことなく変わったような気がするわ」


 後ろ姿が靄に包まれて見えなくなるまで見送ってから、オルフェンがぽつりと呟いた。


「陛下もそう思いません?」


 オルフェンの問いに、ドウンは素っ気なく

「そうですね」

 とだけ返した。


「気のないお返事ですこと。もう、関心がおありでないの?」


 不満げな顔でオルフェンが振り返る。


「そういう訳ではありませんが。私もこの地を預かるものとして、個人的関心より優先すべきことがありますので」


 ドウンは口ではそう言いつつ、

(いや、違うな)

と、心の内で否定する。


 個人的にかれるものと、冥界の神として関心を寄せるもの。この二つが異なるものであったためしはない。

 ドウンを動かすものは、この単調な死者の国にたまさかにおとずれる微細びさいな『変化』であり、心をとらえるのは『変化をもたらすもの』であった。

 今回のは、微細どころではない。


「王女殿下、こちらへ来ていただけますか。そう、この木のそばに」


 オルフェンは素直に従った。そして、なめらかなその幹に手を触れた。


「この木は?」

「あなたが植えたナナカマドです」

「どういうこと? 私が挿したのは小枝よ」


 こぼれおちそうなほど目を見開いて梢を仰ぐオルフェンの前で、枝は伸び、さやさやと緑の腕を広げてゆく。


「これも『若草のエレイン』の力なの?」


 オルフェンは、こつんと額を幹に押し当ててうつむいた。


「すごいのね。お友だち、なんて気安く呼んではいけないわね」

「何の話をしているのですか。あちらの姫君は関係ないでしょう」


 その寂しげな表情を見て、ふう、とドウンは大げさに溜め息をついた。


「元はあなたが身につけていた魔除け守り。あなたの光を宿した小枝なのですよ。ご覧なさい」


 促されて顔を上げると、蝶のイレーネが視線を導くように上へ上へと舞い上がってゆく。

 それを追っていたオルフェンの目が大きく見開かれた。


「あっ……」


 すくすくと育ったナナカマドが、無数の蕾をつけている。

 さやさやと、枝の先に白い花が開いてゆく。

 ドウンとオルフェン。

 ふたりが見守る前で、二本の若木は満開の花盛りを迎えた。

 しなやかな枝が夢のように揺れている。


「空が、晴れて―――」


 木の上のわずかな部分だけ、冥界を覆うもやが消えていた。

 城館の中庭と同じように、ぽかりと空いた穴からどこまでも高い空が見える。


 夕陽の名残のオレンジ色、珊瑚さんご色、たなびく藤紫。

 淡く優しく、ときに鮮やかに。


 靄が晴れてゆく。

 刻々と色を変えながら、透明な天が広がってゆく。


「なんて、綺麗」


 柔らかな光がオルフェンを包み込む。


「あなた方は同じ木の枝から作られた魔除けを身につけていましたからね。それらがお互いに呼び合い、『不死の乙女』をこの地へと導いたのかも知れません」


 ドウンはオルフェンの傍らに立ち、眩しそうに空を見上げて歌うように言葉をつむいだ。


  金のオルフェン。

  大いなる女神、ダヌの娘よ。

  その健やかなる魂。

  くらき地にありて、なお輝きを失わず。

  その光もて死の国を照らす。


 ほろほろと花が散り始める。

 小さな花弁が、雪のように冥界の王とダヌの娘の上に降りかかる。キアランとフランが、仔犬のように花の下をはしゃぎ回った。


「あなたが菓子の中から引き当てた二つの王冠。そのうちの一つはここにあったのですね」

「何ですって! 王冠?」


 血相を変えるオルフェンに、ドウンはくっと笑いをこらえた。


「あなたの頭上に、ほら」


 恐る恐るオルフェンが自分の頭に手をやると、積もった花びらがひらひらと舞った。


「ナナカマドからの贈り物、花の冠ですよ。これからこの木は、たくさんの亡者を救うことでしょう。いずれあなたは、『魂の導き手』と呼ばれるようになるのでしょうね。おや、これは『不死の乙女』と同等か、それ以上の題材になりそうだ。詩人たちが競ってあなたの歌を歌うでしょう」


  金のオルフェン。

  亡者の救い手。

  魂を導く者。

  ナナカマドの女王。

  それから――。


 可笑おかしそうに指を折って数えるドウンに、オルフェンが食ってかかる。


「からかっているのね、ひどい!」

「おっと。乱暴な女王さまですね」


 オルフェンのこぶしを受け止めて、ドウンは笑った。

 ついぞ聞いたことのない冥王の屈託くったくのない笑い声に、ワタリガラスたちは鳴りをひそめ、影たちは動きを止めて何事かと様子をうかがった。


 ナナカマドの花が散る。

 枝がしなるほど、たわわに実をつける。

 やがてその赤い実は、懐かしい家路を照らす灯火となり、さまよえる亡者たちを魂の帰るべき場所へと導くだろう。

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