第43話 再会のかたち

  水、水、水。

  右も左も上も下も、水ばかり。


「な………」


 なんだこれは、と言いかけたフランの口から、ガボッと空気の塊が吐き出される。

 彼は青く暗い水の中にいた。


(死者の国へ行くためには、一度死ななきゃならんってことじゃないだろうな)


 いや、今のところフランは死ねない身の上なのだから、この苦しみがずっと続くだけかもしれない。


(冗談じゃねえ!)


 自分の吐く泡だけが方向を知る手がかりだ。フランは必死に水をいて泡を追いかけた。急がないと見失ってしまう。消えてしまう。

 手と足をばらばらに動かしながら、上を目指す。


 ずいぶん長い間もがいていたような気がしたが、実際にはそれほどでもなかった。


「くっ、そ……。あのカラスめ」


 水面に浮かび上がるとひゅうっと息を吐いて、ついでに悪態あくたいをついた。

 ぐっしょりと濡れた髪から、たらたらと水が垂れてくる。目を開くことができない。だが、閉じたままのまぶたを通して明るさを感じる。どうやら『扉』をくぐり抜けたらしい。

 両腕で水を掻くと、すぐに柔らかなものが手に触れた。


(草か?)


 試しに引っ張ってみる。それはしっかりと地に根を張っているようだった。


(陸が近くて助かったぜ)


 草を握り、それを手繰たぐって体を岸に寄せた。地面に両肘りょうひじを付いて身体を支え、息を整える。

 髪をかき上げ顔をこすってようやく目を開くと、最初に視界に飛び込んできたのは、冥界の王の姿だった。

 地上でキアランと名乗っていたときのように銀のティーポットを手にし、まばたきをするのも忘れてこちらを見ている。

 しばしの間、二人の男は言葉もなく互いの顔を見つめ合った。

 先に口を開いたのはドウンだった。


「なんてところから顔を出すんですか」

「……よう、久しぶり」


 見知った顔にいつもの口調で話しかけられ、フランは気が抜けてへたりと草の上に突っ伏した。『死者の国』にたどり着いてほっとする、というのもおかしな話ではある。


「先に水を汲んでおいて、本当に良かった。あなたが沐浴もくよくした後の泉水せんすいでお茶を淹れるなんて、ぞっとしませんから」


 ポットを手にしたままぶつぶつと文句を言う冥界の王の姿は、何やら懐かしくもあった。フランの頬がゆるむ。


「そのふやけた顔を何とかして、さっさと上がっていらっしゃい。大魔法使い」

「……上がれん。マントが重い」


 疲れと、たっぷりと水を吸った聖騎士のマントが邪魔をする。


「あなたという人は」

 ドウンは呆れたように首を振った。


「私が侵入者に寛大であったことに感謝するんですね。もう一組の客が戻ってきたら引き上げて差しあげますから、しばらくお待ちなさい」

「客?」

「忘れたのですか? あなた、町で彼女を放ってさっさとどこかに行ってしまったでしょう。やむを得ず、私が保護したのですよ。あのままだったら、ごろつきにからまれて大変なことになっていたかもしれません。行動するときには、もっと冷静な状況判断を―――」


 お小言を拝聴しているうちに、もう一組の客とやらが現れた。


「あっ」


 ジェムドラウ川のほとりで別れたっきりになっていた、ダナンの王女だった。

 ――本当に忘れていた。

 金色の頭に止まっている白い蝶はエリウの侍者じしゃ、イレーネか。フランはぽかんと口を開けたまま彼女を見上げた。


「あら、聖騎士さま。水浴びですの?」


 オルフェンが小首をかしげる。のん気なご挨拶に、赤い頭ががくりと垂れた。


「マントが重くて、水から上がれないそうです」

「服を着たまま入れば、当然そうなるわよね」


 ドウンの簡素な説明に頷き、オルフェンは後ろを振り返った。


「キアラン、フラン。あの方を泉から救い出しましょう。決して傷つけてはだめよ」

「は?」


 間の抜けた声が魔法使いの口から漏れる。

 金の王女の背後から現れたのは、漆黒しっこく赤銅しゃくどう、見事に輝く毛並を持った二匹の獣であった。

 灰色狼ほどの大きさの、今までに見たこともない美しい犬たちだ。

 二匹は恐れ気もなく、水に半分浸かったまま間抜け面をさらしている男に近づき、肩から脇のあたりに鼻を寄せた。

 黒い犬は左側から、赤い犬は右側から、男の衣服を咥える。

 鋭い牙でしっかりと、肉の器をえぐらぬよう慎重に。


「いいかしら。じゃあ三つ数えるわ。1、2で準備。3で引っ張ってね。いくわよ」


 いち、にの、さん!

 二匹は王女のかけ声に合わせ、全身の力を使ってぐいと引きあげた。

 ずるずると、畑から収穫される大根のような格好で、魔法使いは泉から引き揚げられた。

 この無様な姿に、冥界の王がどんなあざけりの言葉を投げつけてくるかと身構えたが、彼の方もそれどころではないようだった。

 目を見開き、ダナンの王女と二匹の犬たちをまじまじと見つめている。

 犬たちはきちんと両足をそろえて王女の御前に座り、主からおめをいただこうと待ち構えていた。


「ふふ、見違えたでしょう」


 犬たちの首を左右の腕で抱き寄せ、頭を撫でてやりながら得意げにオルフェンが言う。


「わたしもびっくりしたわ。気がついたらあんなにひどかった抜け毛が収まって、もう冬毛が生えそろっていたのだもの。シャトンもだけれど、この子たちもすごい魔法の力を持っているのね」


「いえ、そんなはずはありません。もう何百年もあの姿だったのですから」

呆然とドウンが呟く。


「そうなの? でも、ほら。綺麗になったでしょう?」

「ええ、まあ。この目で見てもまだ信じられませんが」


 クローバーの上でマントを絞っている魔法使いに向けて、ドウンが言う。


「詳しい説明は省きますが、オルフェン殿下が新しい名前を与えたことで、この子たちの魂は新たな力を得たようです。申し訳ありませんが、ここにいる間、あなたは別の名を使ってください」

「おい、待て。省略するな。さっぱり分からん」


 ドウンの一方的な言い分に『フラン』が抗議しようとしかけた、まさにその時。

 亡者たちが彷徨さまよう音無き荒野に、激しい雷鳴がとどろいた。

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