第八章

第42話 赤い実 白い実

 またひとつ、すうっと空を横切る影が見えた。


「あなたのお友だちは、なかなか頑張ってくれていますよ」


 死者の国、王の城の中庭。

 銀のポットを泉に浸しながら、ドウンは水辺の薔薇に話しかけた。


「けれどそろそろ飽きるでしょう。彼女たちが戻ったら、お茶にしましょう」


 金茶石を敷いたポーチに、丸い黒檀こくたんのティーテーブルを置いて。その上に、白いカップが三人分用意されている。

 ドウンは気づかなかった。

 テーブルの方を振り返った彼の背後で、恥じらうようにうつむく白い花の芯がほのかな光を灯したことに。


 * * *


  姫さん、父上から土産が届いてるぞ。

  開けてみろよ。

  なんだ、変な顔して。

  うん。真っ黒な玉だな。

  だまされたと思って食ってみな。

  苦いか、甘いか、っぱいか。

  口に入れてみなけりゃ、分からない。


 浅い眠りの中で、若草の乙女は夢を見ていた。遠い日の記憶だ。

 赤い髪の魔法使いが差し出した小箱の中には、焼きすぎて炭になったケーキを丸めたような菓子がお行儀良く並んでいる。

 父からの土産だ、と魔法使いは言う。


(きっと、嘘ね)


 いつからだろう。父はよそよそしくなった。自分と顔を合わせると、困ったように視線を伏せる。

 いつからだろう。いくさが終わると、行く先も告げず、ふいと姿をくらますようになった。母もその居場所を掴みかねて苛立いらだっているように見えた。

 たまにこうやって、魔法使いが土産を持ってくる。父からだと言って。

 それは珍しい花だったり、綺麗なレースのリボンだったり。

 あるとき、いかにも値の張りそうな異国の髪飾りを手渡された。深い天空の青に金を散らした宝石で作られたそれは、十代の小娘が身につけるには、かなり大人びたデザインだった。

 出先から帰ってくるのを待ち構え、やっとのことで捕まえて礼を言うと、父は怪訝けげんそうな顔をした。


(だから、このお菓子もきっとそう)


 父にかえりみられないかわいそうな娘への、魔法使いの気遣いだ。


 エレインは目を開いた。

 夢は跡形もなく消え、ほろ苦さだけが彼女に残された。

 仰向けのまま見上げる目に、見覚えのある天井が映った。


「ここは……」


 暖炉に燃える赤い火が、むき出しのはりを照らしている。

 頭を巡らせると、整然と本の並ぶ棚が目に入った。優しい香りを漂わせているのは、木の壁に吊るされたさまざまなドライハーブの束だ。

 ここはカエル・モリカの城ではない。隠者の庵の一室だ。


(あたしは、なぜここに?)


 起き上がろうとして、脇腹の温もりに気づいた。そっと毛布をめくると、シャトンが両手で顔を隠すような格好で丸くなっていた。ぷうぷうと可愛らしい寝息が聞こえる。彼女の眠りをさまたげないように気をつけながら、エレインはベッドの上で半身を起こした。

 出窓に置かれたランタンが、夜の深さを教えてくれる。


「他に、誰もいないのかしら」


 思わずそう呟いたとき、こたえるようにランタンの光が揺れた。

 はっと目をらすと、その傍らにぼんやりとたたずむ者がいた。


(いつの間に?)


 エレインは両腕でぎゅっと我が身を抱きしめた。誰何すいかしようと口を開いたが、声が出ない。


『チョコレートの夢か』


 口元に優しい笑みを浮かべて、その人物は言った。その声は透明な水の揺らぎ、水面に立つさざ波を思わせた。


(夢?)


『覚えていてくれたのだね。あのようなささやかな物を』


 柔らかな茶色の髪、細めた目尻のしわ。宝石を埋め込んだ金の首環トルク。その容姿はエレインのよく知るに似ていた。

 しかし、それが誰なのか。まるで思い出すことができない。


『それにしても、あの者は妻に贈るはずのものまで全部、きみに渡してしまったのだな』


(あの者? 妻?)


 この人は何の話をしているのだろう。

 ごくっとエレインの喉が鳴った。


「あなたは、どなたですか?」


 ようやく声が出た。自分でも聞き取れぬほどかすれ、震えている。

 男の口が開いた。

 しかし、その声が音になる前に、ベッドから銀色の塊がおどり出た。


「またオバケかい!」


 シャトンが全身の毛を逆立て、侵入者の前に立ちはだかった。頭を低くして牙をむき、男を威嚇いかくする。


「この子に近づくんじゃないよ。さっさとどっかに行っちまいな!」


 パチパチと、触れれば火花を散らすほどにふくらんだシャトンの体は、エレインの姿を怪しげなバケモノの目から隠そうと、徐々じょじょに大きくなってゆく。

 魔法動物の気迫に、男の形がぐにゃりとゆがんだ。すうっと存在感が薄くなり、消えそうになる。


「シャトン、やめて!」


 しなやかな獣はエレインの制止にも耳を貸さない。低いうなり声を上げ、ぴたりと標的ターゲットに照準を合わせて身構えている。

 だめだ。何も聞けずに終わってしまったら、自分はまた何か大切なものを逃してしまう。

 今にも去って行こうとする男に向かって懇願こんがんする。


「お願い、聞かせて」


 濃く薄く、不安定に揺らいでいた影は、意を決したようにまた男の姿に戻った。


(次の世に旅立つ前に、ひと目会いたかった。謝りたかった)


 男の言葉は、直接エレインの心に届いた。


(普通の娘らしい幸せを与えてやれず、すまない。きみが、きみ自身のために生きることができるよう、祈っている。失われたきみの……)


 シャトンが飛びかかった。その鋭い爪が男をえぐろうとしたその直前、影はふっつりと消えた。そうして、二度と戻ってくることはなかった。


「……!」

 呼び止めようとして、声を失う。


 なんと呼びかければよいのか。

 聞きたいことはたくさんあったのに。あったような気がするのに。


 行きどころのない思いが胸に渦巻く。


(あなたは誰なの? どうして謝るの? あたしは)


「あたしは……?」


 不意に、大きく見開かれた琥珀こはく色の瞳が脳裏のうりに浮かび上がった。

 おびえるような、けれど熱を持った眼差しでこちらを見つめる赤い髪の少年。


 あれは―――。


 エレインの頭の中で何かが弾けた。

 気がつくとベッドから飛び降りていた。靴をくのももどかしい。


「どこへ行くんだい?」

 シャトンの声が追いかけてくる。


「分からない。けれど行かなくちゃ!」


 魂の底から突き上げるような強い衝動のままに、彼女は庵の外へ、夜の森へと飛び出した。


 凍るような夜気やきが肌を刺す。ざわざわと森が鳴る。

 天にそびえる真っ黒な木々のシルエットがエレインを取り囲んだ。 

 梢の間に星を散りばめた空がのぞいている。その途方もない孤独。

 立ち尽くすエレインの頭上に、木霊こだまたちの声が降り注いだ。


  ――どこへ行こうというのかね。

  ――サウィンの夜はまだ明けぬ。

  ――大気は魔力に満ちている。

  ――己の身を大切にするがよい。

  ――庵に戻れ。

  ――しっかりと鍵を掛けて朝を待て。


 道は木々たちによって隠されていた。

 ナラの木立が枝をからめてエレインの行く手をさえぎる。

 エレインはぎゅっとこぶしを握りしめ、空を見上げた。


「お待ち、せめてこれを」


 シャトンが緑の布をくわえて走ってくる。白銀に輝く雪豹ゆきひょうのような体が黒い闇の中に浮き上がっている。

 首を振ってふわりとエレインの肩に投げかけてくれたのは、町に出るときに着ていたマントだった。

 オルフェン王女と色違いのマントだ。

 マントの中から軽いものがすべり落ちて、地面の上でかさっと音を立てた。


「これは」


 エレインは膝をついて、そっとそれを拾い上げた。

 二本のナナカマドの小枝を十字の形に組み合わせ、麻紐でわえてある。ポケットに留めてあった魔除けのお守りだ。上から結んであったはずの赤いリボンは無い。

  

   力のある魔物にはかないからな。

   怪しいものには絶対近づかないこと。

 

 これを作ってくれた人の声を思い出す。

 警告してくれたのに、自分から魔物の巣に飛び込んでしまった。


(ごめんなさい、聖騎士さま)


 あの占い師のふりをした魔物は、最後に何と言ったのだったか。


「どうかしたのかい?」


 心配そうにシャトンがのぞき込む。


「思い出さなきゃいけない、っていうことを思い出したの」

「何を?」

「それは分からない。けれど、あたしはたくさんのことを忘れている。それは他の人に聞けば思い出せるというものではなくて、きっとくしたものの中にある」


 さっき、庵に現れた影が消える前に言いさした、『失われたきみの……』の先に続くものを見つけなければならない。

 心は決まった。


「行かなくちゃ」


 お守りの役目を果たし終えた木の枝を、額に押し当てる。


「どこへ?」


 決まっている。これをくれた人のところだ。手がかりはきっとそこにある。

 目を閉じて祈る。


「お願い、森の木々たちよ。道を教えて。あたしが行くべき場所への道を」


 森のざわめきが深くなる。

 木々は、あちらにこちらに揺れて頭を寄せ合い、何かを相談しているように見えた。

 一番大きなナラの木がその太い幹をたわめた。


  ――いいだろう。それがお前の望みなら。

 

 その言葉を合図に、ぽっかりと森に穴が開いた。

 

  ――お前のために、道を開こう。

  ――赤い火を灯して道を照らそう。

  ――さあ、お行き。可愛い子。


 葉を落とした木々の枝に灯りがともる。

 赤い実をつけた寄生木やどりぎたちが、どこに続くとも知れぬ光の道をける。


  ――幸運を。

 

 エレインは、ためらわなかった。


「ありがとう!」


 輝く笑顔を木々たちに向けると、赤い光を踏んでウサギのように駆けた。

 あっという間に彼女の姿は夜に包まれて見えなくなった。

 シャトンは後を追おうとした。

 と、灌木かんぼくが腕を伸ばしてシャトンの行く手をふさいだ。目の前で光が消えてゆく。ナラの木立ちがざわざわと元の姿勢を取り戻す。

 道が無くなってしまった。


「なんで邪魔をするんだ。お前たち、爪研ぎ板になりたいのかい!」


 シャトンがえる。

 森中の木々が身を震わせた。


  ――あれはあの子が望む場所へとつながる道。あの子のための道だ。お前のものではない。


 勇敢なナラの木が、静かに答える。


  ――太古よりの獣よ、お前にも行ねばならぬところがあるのではないか?


 その言葉に、ぴたりとシャトンは動きを止めた。首をかしげて座り込み、しばし考える。


「そういえば、ひとり、助けにいってやらなきゃいけない人間がいたね」


 庵を振り返る。

 あそこには誰もいない。もはや守るべきものも無い。戻る必要の無い場所だ。


「迎えに行こうにも、どこにいるのかアタシには見当もつかないんだが。それでも案内できるかい?」


  ――お前の思いが強ければ。


「それじゃあ頼む」

 シャトンは元の大きさに戻った。


「アタシのための道を開いておくれ。手のかかる王子さまがいるところまで」


 願いに応えて、寄生木たちが白い実に光を灯す。白い光を踏んで、銀の猫は軽やかに駆ける。

 彼女が通り過ぎると、その背後で木々はざわめき、ぽつりぽつりと蝋燭ろうそくの火が吹き消されるように光の道が消えてゆく。


 そうして森はまた、何事もなかったかのように静まり返って、穏やかな夜が帰ってきた。

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