冷蔵庫の中

篠岡遼佳

冷蔵庫の中




 男は、困っていた。




「はぁ……」


 ガバ、扉を開くと、カサカサに乾いたネギの欠片が見えた。

 ジー、というような特有の音。

 ペットボトルの水と、おとついの安売り弁当と、さほど飲めないのに買った酒と、保冷剤が、庫内を照らす明かりでオレンジがかって見える。

 ひとり暮らしの男の冷蔵庫は、恐ろしくさびしい。


「こいつどうすんだよ……」


 男は肩越しに視線をやる。

 そこには、所在なげにベッドの上に座っている、非常に中性的でかわいらしい顔をした、金髪碧眼の、おそらくは少年、である。

 ゴミの溜まったこの部屋には場違いなほど、清潔で真っ白いシャツ。黒のショートパンツからすらっと伸びた足は、裸足のままだ。

 そして、背中には、


 ふわり


 白い翼が生えていた。

 頭の上にも、円形の光る物体が浮いている。


 間違いなく、それは天使であった。


 なにせアナウンスがあった。電話の留守録に入っていた。

 役所から通達も来た。通達に不満があったので役所に行ったら、「規則ですので」と数十回言われた。飲み込まざるを得なかった。


 「」、なのだという。

 友人からも「いいなー、マジで滅多にないんだよ」とメッセージが届いた。

 しかし、これは、<天空どこか>から遣わされたものらしい。

 役所が管理してるというところは、少々ファンタジーに欠けるが、存在していて、翼が生えているのは本当だ。


 どう取り扱えばいいかは、封書で送られてきた。

 ひとつ、食事は取らないので必要ない。

 ひとつ、睡眠も必要ない。

 ひとつ、もし天使を害したならば、相応の罰が世界に降りかかる。


 ちょっとまて、と男は言いたい。

 何で俺なんだ? もっといい家庭はたくさんあるだろう。

 役所でも言った台詞がリフレインする。

 だが、「当選」はそれ以上でも以下でもないと、担当者は言った。

 選ばれたわけではないし、選んだわけでもない、と。


「おい、お前さ」


 男が話しかけると、天使は首をかしげる。

 通じているが、相手の声はまだ聞いたことがない。


「俺の友人がさ、子供ほしがってるんだよ。そこの方が良くない?」


 その言葉には、きっぱりと首を横に振る。


「……なんで俺なんだよ……」


 天使はふわりと立ち上がると(少し宙に浮いている)、部屋の隅に乱雑に積まれた、段ボールに触れた。

 これを開けていいか? と、首をかしげて無言で尋ねてくる。


「……見たければ……」


 天使は微笑み、目的の箱があったのか、すぐにそれを探し当てた。

 家族写真だ。

 男と、その妻と、子供二人の。


「……死んでねぇよ。意見の相違だ」


 もっと話してくれ、と言うように、天使はその写真を男にずい、と突き出した。


「……たぶん幸せにやってるよ。子供授かるのは二人で一緒に大変な思いをしたんだけど、それでも、俺とはもう居たくないってことだ」


「――――まだすき?」


 唐突に、天使が尋ねてきた。


「……お前、しゃべれるんだな」

「…………」

 天使はふるふる、とかぶりを振って、見上げる視線で男を見る。続きを話せと言っている。

「――結婚は、恋愛とは違う。結婚と、同棲も違う。共に生活することと、共に子を育てることも違うんだ」


 それをどっちもわかってなかったんだよ。

「――新しい父親も居るしな。

 だから俺はまあ、冷蔵庫に残ったネギになるしかない」


 天使は、写真をそっとベッドに置くと、またじっと男を見つめた。

「まだ、……すき。」

 繰り返す。

 男は手で顔を押さえた。

「――そうだよ、そうじゃなきゃ、こんなに広い家に一人で居るわけないだろう。

 未練だよ。女々しいんだよ。

 だって大事だったんだ。幸せにしてやりたいと思ったし、そのために仕事だってどんどん変えた。金がかかったからな、とにかく働いてた。確かに向き合えてなかったかもしれない。

 でも、だからって、俺は置き去りか? 他に愛してくれる人がいるってどういう事だよ。俺は愛してなかったって言うのか?」

 男は一気にそこまで言うと、

「まだ好きだよ」

 天使の髪を撫でた。

「当たり前だろ。愛してたんだ。通じない愛し方だったけどな」


 ふぅ、と息を吐いて、ベッドに座る。

「お前もこい」

「…………」

 ふわり、と天使は男に寄り添って座った。

 そして、男の手を勝手に取る。

 男は自分のきれいでも何でもない手と、組まれた天使のやわらかな手を、見つめた。


「――わかった。

 食事は、取らないと聞いたが、食べられはするのか」

「すこし、なら」

「じゃあ、買い物に行くぞ。それから掃除を手伝ってくれ」


 そう言ってから、男は天使を見つめた。


「お前は、どこかに行くか?」


 天使は金髪を揺らして、答えた。


「――いいえ、できうる限り、あなたの側に」



 その声ならいつでも聞いていたい。

 男はそう思い、そして、叶ったものと叶わなかったものたちを、思った。



 ヒトの体は、また生きるようにできている。

 それが憎らしく、しかしそれだからこそ愛しさにあふれ、

 また、生きていくことができる。

 天使との日常は、どんなものだろう?


 男は、そうして、ゆっくりと忘れていくことを選んだ。

 一生かかる、いつまでも続くような忘却を。






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冷蔵庫の中 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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