雪路の旅人

瑞樹(小原瑞樹)

ある雪の日に

 宵闇よいやみに包まれた霜天そうてんを、淡き白雪が染めている。

 頬を撫でる冷たさを感じながら、私はそっと顔を上げた。

 寒雲かんうんから落ちるのは粉雪。音もなくひらひらと舞うその姿は、まるで天使の羽が降り注いでいるようだ。天からの贈り物。舞い落ちる六花りっか

 吐息を漏らし、そっと瞳を閉じる。通り過ぎる人々の雑踏に耳を傾けながら、私は幼少時代へと思いを馳せる。

 あれはまだ小学生の頃、クリスマスの朝を迎えるたびに、枕元にあるプレゼントを見て大きな声ではしゃいでいた。一度だけ夜中に目が覚めて、たまたま目にしたサンタの顔が、父親と同じだと気づいたのはいつのことだっただろう。

 それから中学生の頃、友人と集まったクリスマスパーティー。ケーキやチキンの並んだ食卓を囲い、みんなでプレゼント交換をした。好きでもないキャラクターのグッズをもらい、友人に不平を漏らした日々が遠い昔のことのように思える。

 そして高校生の頃、初めてできた恋人と一夜を共に過ごしたあの年。探るように肌を重ね、互いの生命を分け与えた。肌に優しく触れたその手は、外の凍てつきを忘れるほどに暖かく、今も私の中に温もりを残している。

 まるで昨日のことのように思い出せる記憶。だけど今、私の隣には誰もいない。可愛がってくれた両親も、些細なことで笑い合える友人も、肩を寄せ合う恋人もなく、1人道端に佇んで、降りしきる雪を見つめている。

 あの頃から随分時間が経ってしまった。戻らない日々。忘れ得ぬ記憶。どれだけ懐かしんだとしても、過去は二度と戻らない。私は1人でこの雪道を歩いていく。指先に触れるのは手の温もりではなく、舞い落ちる雪片の冷たさ。

 不意に涙がこみ上げる。なぜだろう。彼らはずっと、私の傍にいてくれると思っていたのに、どうして私を置いて行ってしまったのだろう。あの時間が永遠に続くと思っていたのに、どこで道を違えてしまったのだろう。

 掌に顔を埋める。周囲の雑踏は相も変わらず、足音は絶え間なく通り過ぎていく。誰も私に目を留めはしない。私が立ち止まっていても、誰も手を差し伸べてくれる人はいない。

 その時だった。誰かが私の肩に触れた気がして、私はそっと顔を上げた。振り返って見るが、背後には誰もいない。ただ、私がつけた足音が白い軌跡を残しているだけだ。

 手で顔を擦る。感傷は必要ない。私は前に進まねばならない。たとえどれだけ雪深き道であろうと、私は歩み続けねばならない。周囲を行き交う人々と同じように。それが人間としての宿命。たとえ1人きりになったとしても、歩みを止めることは許されない。

 足を踏み出そうとして不意に立ち止まる。背後で誰かが呼んでいる。振り返るが、やはりそこには誰もいない。私は訝しげに前方を見つめる。この舞い落ちる雪が、孤独な私に囁きかけてくれたのだろうか。

 いや――私はそこで視線を落とした。私が踏みしめた足跡が見える。降りしきる雪がその形を変えてはいるが、それは確かに私と共に歩んできたものだ。寒風かんぷうが吹きつける荒涼とした世界の中で、私が今日まで辿ってきた軌跡。

 胸に手を当てる。そうだ、いるではないか。親も、友も、恋人も、全ての者が去りぬこの世界の中で、ただ一人離れずにいてくれた者が。私がこの地に生を受けた瞬間から、ありとあらゆる記憶と感情を分かち合ってきた者。強さも弱さも、涙も笑顔も、私について全てを知る者。彼はまだここにいる。今も私の傍で、闇夜に舞うこの白雪を見つめている。

 再び天を仰ぐ。鈍色の空からは、変わらずに粉雪が舞い落ちている。深閑しんかんたる光景。だが、その玉屑ぎょくせつも、もはや私の心に寂寞せきばくを生じさせはしない。今、私の目に映るのは、雪の向こうにある暖かな春。さればこの雪は瑞花ずいか厳寒げんかんを越えた先で、大地に恵みをもたらす雨。

 吐息と共に、口から笑みが漏れる。周囲の凍てつきは変わらないのに、まるで心に焔が灯ったような暖かさがある。どうやらこの雪は、私に大切なことを思い出させてくれたようだ。

 ゆっくりと前方に視線を向ける。コートの襟を立てた人々が、背中を丸めて足早に帰路についている。歩みを止めていた私も、そろそろ動き出す時が来たようだ。

 周囲を行き交う人々に混じり、私は自らの旅路を辿る。冬はまだ長い。だが歩みを続けていれば、いずれは春に辿り着けるだろう。それまで私は歩き続ける。旅の同伴者はいない。だが振り返れば、そこには必ず私が辿ってきた足跡がある。

 降りしきる雪の道を私は歩いていく。私の隣には誰もいない。しかし、私はもう孤独ではない。





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雪路の旅人 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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