エピローグ

 天井が見える。

 生きて……いるのか……?

「父さん! 気がついた⁉」

 多恵の声だ。声の方を見る。多恵の顔が見える。

「父さん! 首も動いてる! 動いてるよ!」

 確かに動いた。腕も、動くのか?

「だめだよ。動いても、動かしちゃ、だめ」そして、私の手を握る。「ありがとう、父さん……人質も、みんな無事だったんだよ……父さんが、救ったんだよ……それと、金森が作っていた麻薬が見つかったって……薬がいっぱい詰まったゴルフバッグが、いくつも出てきたって……お金も金塊になって、一緒にあったって……『空港のロッカー』だって、父さんが書き残したから……」

 チューブから漏れ出る血で、確かに床に書き残した。おそらく、まともな文字には見えなかっただろう。それでも、意味は伝わったようだ。

 多恵が、握った手に力を込める。

「死んじゃうかと思った……病室を見た先生が、大量に薬を入れられたみたいだっていうから……もしかしたら脳出血するかもしれないって……覚悟はしろっていうから……でも、血が止まらなくて、死んじゃう寸前までまで血が減ってたから……血圧がすごく下がっていたから……それが脳の血管を守ったんじゃないかって……」

 多恵の涙が、私に手にしたたる。

 私はまた、死にかけたんだな……。だが――「もう、大丈夫だ……みんな終わったんだ……」

 多恵は、ぽかんとした表情で私を見つめた。

「話せるの……?」

 確かに声が出た。

 自分でも、驚く。これも、大量に投与されたヘパリンのせいか?

「煙草が……吸いたい……」

 多恵は笑いながらつぶやく。

「バカ」

「話せる……ようだな。私こそ、礼を言う。よく戦った。怖かったろう……?」

「父さんの子、だから……。でも、怖かったよ……」

 そして多恵は、堰を切ったように泣いた。私の胸に顔を埋める。

 私はそっと多恵の頭に手を乗せた。

「いいよ、泣いて……気がすむまで……泣いていい……」

 守れた……。私は多恵を守りきったのだ。

「怖かったよ……」

 幼い頃に拉致された時、犯人を殴った私にしがみついた多恵も、同じことを言った。

『お父さん……怖かったよ……』

 私も怖い。己の闇を覗き込むのは怖い。

 事実、私は金森を殺した。私の狂気が、人を殺めたのだ。最も恐れていたことを、現実にしてしまった……。

 どうやら悪魔は、私を生かして苦しめ続けることを選んだらしい。その悪魔は、私の中にいる。

 私、そのものだ。

 自分の中に棲む、悪魔と対峙するのは恐ろしい……。

 だが、多恵はあの頃とは違う。大人だ。

 話さなければならない気がした。

「お前に謝ることがある……。父さんはずっと噓をついていた。お前を騙していた。父さんは正義の味方なんかじゃない……本当は、自分が怖かったんだ……いつ、他人を傷つけてしまうかと……ずっと自分の凶暴さに怯えていたんだ……そして……本当に人を殺してしまった……金森は、私が殺したんだ……」

 多恵は私の言葉を咀嚼するように、しばらく黙っていた。

 そして、私の胸に強く顔を押し付け、つぶやいた。

「なんで今、そんなことを……?」

 なぜだろう。自分自身の闇と一人で闘うことに疲れたから、なのだろうか……。

「私も、怖かったんだ……ずっと……」

 多恵は顔を埋めたまま、ゆっくりと応えた。

「知ってるよ、そんなこと……ずっと前から、知ってたよ。お父さんが苦しんでいたこと。わたし、父さんの子だもの。ずっと、父さんの話を聞いて育ったんだもの。でも、それでもいい。父さんは、ずっと自分と闘ってきたんだから。今度もわたしを守ってくれたんだから。自分を怖がったりしないで。人を殺したなんて言わないで。病気で動けない父さんが、なんで人を殺したりできるの? あの人たちが勝手に殺し合っただけじゃない。お父さんは、みんなを救おうとしただけ……こんな身体で……死にそうな病気だったのに……身体も動かないのに……それでも私を救おうとしてくれた……本当に救ってくれた……すごいよ……お父さん、すごいよ……誰が何を言おうが、そんなこと、本当のお父さんと関係ない……お父さんのことは、わたしが一番知っています……わたし、父さんの子どもで幸せです……父さんは、ずっと私のヒーローだよ……」

 私は、一人で闘っていたわけではなかった。

 孤独ではなかったのだ。

 涙があふれるのが分かった。



                                          


                            ――了

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沈黙の死闘 岡 辰郎 @cathands

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