それでも空にあこがれる

二藤真朱

第1話

 絶叫を上げた夏は、そうして逃げ出したのだった。もう傷つきたくないと叫んで、どこか遠くへ走り去ってしまった。ほかの季節を置き去りしにして、引き留めようとする人々の手をするりと抜けて。そうして夏は、あっけないほど唐突に姿を消した。

 だからわたしは、夏をしらない。

 春を呪うように、秋を憎むように、そうして惜しみない別れを冬に告げた夏を、わたしはしらない。

 白煙のむこうで街がゆらぐ。ぼんやりしていた輪郭がさらにおぼつかなくなって、まるでミルクにとけてしまうようだ。その海に飛び込んでしまえばどんなに気楽だろう。肺の奥にしみわたるほど深く吸い込んで、そうしてひと息に吐き出してみる。ぼうっと浮かび上がる白い影はわたしをいぶかしげにひとにらみして、それから興味をなくしたようにすっと空へとたち消えた。

 この街は、ひどくやぼったい。

 砂埃のヴェールをまとった太陽が申し訳なさそうに顔をのぞかせて、朽ちた街を照らし出す。砂の海に埋もれて傾くビルたちの上へ差し込む、糸くずのようなひかりはわずか数本だ。あれではなにも救えない。だがそれを責めたてようだなんては思わなかった。天上からさしのべられた蜘蛛の糸だってふっつりと切れてしまったのである。太陽だけをいじめてやるのは心苦しい。だからそれがいやに長い影を生み出して、ひびだらけの大地をかたっぱしから黒に染めあげていくさまをわびしげに眺める。ただそんなわたしがいるにもかかわらず、影におぼれる地面は助けてくれとあがくことすらしなかった。

 きっとそこに沈んでしまったら二度と戻ってはこられないのだろう。そんなこどもじみた空想が、ふと頭をよぎる。いやにどろりとしたそれは、わたしに絡みつこうとしてはしかし端からぐずぐずととけて消えていった。

「すこしは禁煙でもしたらどうだ」

 においがついてかなわない。なんて、露骨に顔をしかめてみせる家主はなかなか神経質なところがあるらしい。こんなあばら屋のくせに言うことだけは一人前だ。寄せ集めでなんとかこしらえたバラックの天井を、ちらりと見上げる。隙間からかすかにもれてくるひかりは、しかしどうしてかまぶしかった。

 ぐしゃりと煙草のフィルターを噛むと、舌の上にざらりとしたものが広まった。またやってしまったと、思わず顔をしかめる。口のなかが気持ち悪い。じわじわと浸食されているようだ。いつも後悔するくせに、ついやってしまう。学習しないのだ。こどもだって失敗を何度も繰り返せばいやでも学ぶ。そんなこともできないからお前はいつまでたっても半人前なのだ。そんなふうにけなすかつての兄の声を聞き流して、ぱきりと手のひらのうえで煙草を握りつぶす。いっそ小気味いいくらいあっさりとふたつに折れば、どこかせいせいした気になった。

 遠くで鳥が鳴いている。まるでこの街の主であるような顔をして、自由を糧に飛び回っている。それがなんだか滑稽で、だが否を突き付けることもできないわたしはきっと無様なのだろう。少なくとも地べたから空を眺めるしかないわたしには、真正面から彼の翼を否定することはできない。

「女王には会ったのか」

 ついで飛び出した言葉はそれだった。念を押すように言った彼を見れば、カカシはただこちらの出方を伺うような目をして、じっとこちらを見つめているばかりである。やたら威圧的な視線から逃げ出すように息をこぼして、いやこれからだ、と首を横に振る。するとカカシは存外つまらなそうな顔をして、ただそうかとだけ呟いた。そっけなさは案外重い。

 荒野では風がさみしそうに遊び相手を探しまわっていた。時折バラックの間から忍び込んではか細い指先で手招きしてくるのだが、それは無理な相談だった。謝罪の代わりに、かすかに肩をすくめる。なんせここにはそのちいさな願いを叶えてやれるだけの器量をもったやつなんていないのだ。せいぜい鳥が戯れにやってくるだけである。その鳥でさえあの調子だから、ここで風の子が願いをかなえることはない。かわいそうだが仕方がない。ここにやってきたのが運のつきというやつだ。

 物足りないと騒ぐ口にぬるくなったコーヒーを流し込んでやる。が、舌先に苦いものがこびりついてしまったようで顔をしかめる羽目になった。先程煙草を噛み潰したせいだろう。黒いから泥水を飲んでいるみたいだ。そう言えば、きっとカカシは不平を鳴らすにちがいない。取り上げられては元も子もなくて、あっさりとだんまりを決めこむ。こういうときは、素直に大人しくしているのが一番だ。

 妙にクセのあるコーヒーを黙って飲み下すのはなかなか骨が折れたが、口元がさびしいままのほうが落ち着かない。おかげで舌はすっかり麻痺してしまった。そのうえのしかかってくるもやもやとした気怠さはなかなか消えてくれない。

 それまできっちり飲み干すのにいくらか時間を消費して、それから傍観者気取りの彼と目線を合わせる。鈍色の彼の瞳は、コーヒーよりもどんよりとくもっていた。

「女王はいまどこに?」

 問いかけに、カカシはまるで愚問だとでもいいたげな口調で言った。

「そこかしこに。ここら一帯は女王の庭だ。目や耳などそこらにある」

 そう言いながらかろうじてあたたかいカップをふるりと震わせて、小さな水面に渦を描く。あんまり慎重な手つきが逆におかしくてふっと笑えば、なんともいいがたい視線が返ってきて思わず目をそらす。

 くすんだ窓ガラスからのぞいた街では、相変わらず風がいるはずのない遊び相手を探してあちこち飛び回っていた。

 ――この街はすべからく、彼女のものである。

 花の女王と呼ばれる彼女は、それは美しい少女の姿をしていると聞く。この掃き溜めみたいな街のすべてを愛していると堂々と公言できるのは彼女くらいだ。実際そのようにしてできた街である。拒絶を知らない彼女のもとへ、実にさまざまなものが転がり込んだ。いまやなにがあってどれがそうでないかわからない。共通するのは、だれもが女王にすがるためにここに来たということだけである。それ以外にはなにもない。そしてそんな街であるからこそ、得体のしれないものが集まりやすかった。

 わたしだって似たようなものである。

 自嘲気味な笑みを浮かべて、風味なんてまるで感じられないコーヒーとともにそれを流し込む。舌先がぴりぴりとしびれたが気にしなかった。こういう特異な感覚はきらいではない。

「あまり褒められた趣味じゃないな」

 茶化すように返せばカカシはなんだかきまりが悪そうな顔をした。それを見なかったふりをして、つるりとしたカップのふちをなぞる。

「女王なんていうなら、もっとしゃれたことをすればいいのに」

 しかしこの退屈な街では、それも無理な話である。そもそも女王という呼び名ですら彼女が名乗ったものではない。いつの間にか女王と呼ばれ、それが広まっただけだ。だからだれも彼女のほんとうの名前をしらない。いっそそんなことを気にかけることのほうがおこがましかった。なんせ彼女がこの街の女王であることに疑念を抱くものなんていないのだ。それぐらい、彼女がこのくたびれた街の女王であることは決まりきったこととなっていた。

 まったくなんて美しい詭弁だろう。

 カップの底で、とけきらなかった砂糖がじっとりと身をうずめている。目の粗いものであったから当然だ。それでもほどこしを受けた側は文句なんていえない。そう諦めたかったのに、こびりつくそれが恨めしそうな顔をするからどうにもずるい。

 風間、とカカシがわたしの名を呼んだ。

 瞳は黒く、おそらくは夜のまとう外套よりも暗い。研いだばかりのナイフのように鋭く、だが粉砂糖のようにさらりとした声色で、彼はそれを口にする。

「なぜ、女王に会いに来た」

 品定めするかのようなカカシの言葉が、一字一句くっきりと影をつくる。これだけ直球でくるのもいまでは珍しい。しかし無駄な言葉で飾ろうとしないカカシのそれは、そのぶん確かに好ましかった。

 さて、と舞台俳優が肩をすくめるようなおおげさな素振りをしてみせる。見上げる空は驚くほどに高く澄んでいた。窓越しでも充分にそれがわかる。同時に、偽物にすぎない故郷のそれがいやに鮮やかに思い起こされる。絵の具を塗りたくっただけの天井はどうあがいても本物にかなうわけがないのに、わたしにとってはそれこそが空であった。

 だからわたしは両手を広げ、まるでステージに立つピエロのように言ってやったのだ。

「夏がほしいからさ」

 女王はきっと夏を抱えている。私たちの前から逃げた夏を、その胸にだいている。

 きつく奥歯を噛み締めて、まだ見ぬ女王がたおやかに微笑む姿を脳裏に描く。だからこそここまで来たのだ。退屈なまでに快適すぎる街を捨ててきたことに、ようやく色めいた意味が宿る。

「またとんでもない客人を招いたものだ」

 一度きょとんとした顔を見せたカカシは、そう言ってくつくつと笑った。なにがそんなにおかしかったのかはわからない。どこか釈然としない心地のままつと外を見れば、砂嵐はいつの間にかやんでいた。我が物顔で飛んでいた鳥はどこへ行ってしまったのだろう。うすい雲の隙間を探してもその姿はなく、声もとっくに聞こえなくなっていた。もしかすると風にさらわれてしまったのかもしれない。無事であればいいのだけれど、なんて無責任な心配をしてやったが、やがてそれもゆっくりと消えていった。

「カカシは女王と面識が?」

「ないわけないだろう。ここは女王の国だ」

 それならば箱庭なんかよりなお小さい国である。口には出さずかすかに頬を緩めれば、いくらか胸が軽くなった。

「ただ残念なことに女王はぼくのことが嫌いでね。あまり姿を見せてはくれない」

 言い訳のようにつけ足された言葉の奥で、若い悲しみがひるがえる。それがひどくまぶしいもののように思われて、わたしはうっすらと目を細めた。

「なんだっておまえはこんなところにいるんだ」

 そう言って、空になったマグカップよりよほど軽い心地でカカシを見やる。すると彼は少し驚いたような顔をしてから、そうしてその黒々とした瞳を愉快な色へと染めあげた。

「ここにきみが来るからさ」

 思わず口をへの字に曲げてみせれば、彼はこちらの言いたいことをすべて悟ったようにさも満足げに笑ってみせた。なんだかカカシの手のひらの上で踊らされているようで気に食わない。もうコーヒーもないというのにあんまりだ。手持ちぶさたにピンとカップのふちを弾くと、高い音がかすかにこだました。

 そんなわたしを横目に、カカシはゆるゆると口を開いた。

「そろそろ行こう。女王の季節がやってくる」

 見れば、空の色が変わろうとしていた。

 青の時代が終わって、いまは目にも鮮やかな赤の時代。それが女王の季節になった証だと、カカシは嬉しそうに告げた。

 せいぜい気をつけろ。

 忠告なのかまったくわからないそれを胸に、再び外の世界を歩みだす。それでも案内役を了承してくれたあたり、それはカカシの本心であったのかもしれない。

 かるく踏み込むだけでさらりとほどけるやわらかな砂が、足元にまとわりついてきて鬱陶しい。そのうえ少しでも口を開こうものなら入り込んで来ようとするあたり、彼らはとんでもなくずる賢いようだ。どこからともなく忍び込んでじゃりじゃりと口内でざらつくのは存外不快である。それなりに長いといえる旅路のなかでも、これだけはどうしても慣れない。

 バラックを出てからついてきたちいさな影が、少しずつ背丈を伸ばしてくる。あんなに可愛らしかったのにいまではすっかり大人気取りだ。お前はそれっぽっちなのかい。なんて、優越に浸った目を寄越すものだからたまらない。早々に兄に背を抜かれた父もこんなほんのりすっぱい気持ちを抱えたのであろうか。そう思うと、ここ数年顔を突き合わせたことのない父を年甲斐もなく抱きしめてやりたくなった。

 砂でできた川がするすると駆け足に流れていき、渇ききった大地をすべる。その上をどろりととけていく太陽のひかりが反射していく光景は、ぞっとするほど繊細だ。

「風間」

 呼ぶだけで、カカシはこちらを見なかった。

 先を急ぐように歩く彼はどんな顔をしていたのだろう。確かめるすべがないときに限ってそんなどうでもいいことばかりが気にかかる。

「夏がほしいのは、その胸にある芽のためか」

 目がくらむのは太陽があんまり照らすせいにちがいない。たおやかなヴェールなんてとっくに噛み千切って、熟した果実のようにぼとりと落ちていく。はやく沈めばいいものを、太陽はじりじりとわたしを追い詰めるようにしてわらっていた。

 それに惹かれるように、わたしに芽吹いた緑がめきりともがく。さっきまで大人しく黙り込んでいたのはなんだったのだろう。息の詰まる痛みが雷のように全身を貫いて、だがすぐにうんともすんとも言わず胸の奥底へ燻っていく。まるでこどものいたずらのようなそれに怒鳴りつけてやることすらかなわない。

 咄嗟に胸をかきだいた自分に対して激しい嫌悪感と吐き気を覚えながら、口端から堪え切れずこぼれた息がぽとりと落ちる。

「……いつから気づいた」

「はじめから。よくもまあそれで平然としていられるものだと思ったさ」

 だから気に入られてしまったのだろう。そう言いながらカカシは言葉尻にうすく笑った。ばかにされたようで後味が悪い。しかし喉にまでこみ上げてこようとした言葉は、そのまま気乗りしなかったように引きずり落ちて、肚の底にわだかまってしまった。

 まったくばからしい、とひとつため息をこぼす。吐き出せないならせめてそのままとけてしまえばいいのだが、どうせそれもできないのだろう。道中すっかり埃っぽくなった髪をがしりとかきあげると、一瞬視界がくらりと揺れた。 

 定まりきらない視界でのぞんだ赤の空は、あまりに強烈な炎のようである。くらんだ視界でもはっきりわかる。わたしの目には、それが妬ましいくらいに鮮やかに映った。

「夏になれば花は咲くだろう。そうだというのに、夏が家出なんてしたせいでちっとも咲きやしない」

 皮肉じみたそれは、だがきみらしいとかるく一笑されるに終わる。せっかくコーヒーでまぎらわせた苦味がまた口内によみがえってくるようだ。それに眉をひそめると、腹いせまがいに長く伸びたカカシの黒い影を思いきり踏みつけてやる。痛くもかゆくもない八つ当たりだから謝る必要もない。仮に痛むとすればわたしにわずかばかりに残されているはずのちっぽけな良心くらいだ。

「キミの探している夏は、どんな色をしているのだろう」

 燃えるような勇ましい赤を見つめながら、カカシがぼやく。ようやくこちらを映した瞳は冷徹な青いひかりを放っていて、それすらどうもきついわたしはろくに彼のほうを見ることすらできない。

「さあ。わたしは夏をしらないから」

 ぶっきらぼうに言ってやれば、返ってくるはずの言葉はなかった。ぐしゃぐしゃに丸めて捨てられたメモ用紙にでもなった気分である。それから何事もなかったかのように歩きだすカカシの背のどこを探しても、返事は書かれていなかった。

 これだからこの男は困るのだ。

 彼の視界から外れているのをいいことに、思いきり顔をしかめてやる。そうでもしなくてはとてもではないがやっていけない。苦い弱音を仕方なく味わって、しかし耐えきれない分の嘆息をこぼす。

 時折この男がちらつかせる青い輝きが、わたしはとかく苦手であった。どうも蛇に睨まれた蛙のような心地がする。ばくりと一飲みされる恐ろしさは、体験した者にしかわからない。わかってたまるか、なんて自暴自棄になったわたしが暗い心の奥底で叫んでいる。

 救いを求めるように鳥を探して空を見上げれば、ちょうどオレンジ色の太陽が渇いた大地に飲み込まれていくところであった。天上にあった頃の気高さはどこかへいってしまったようである。鳥はといえばその影すら見当たらない。街を見守ることにも飽きたのだろう。気ままで結構なことだ。

 そうして見事に熟した太陽の影に、わたしは夏の面影を重ねていた。

 きらきらと、だが跡形もなく無残に散っていくだけの夏。

 紡いだ糸がほどけるようにはらはらと崩れ去っていこうとするそれを、わたしはどうしてかうつくしいと思ったのだ。

 すっかりふてくされた風がしょうがないという顔をして、空から滑り落ちてくる星をだきとめる。地に落ちる寸前、そうして救い上げられた星たちはしかし砂ととけていく。さらさらと降りそそぐ砂はまるであたたかな春の雨のようだ。払いのける手間もいらない。そうして街の全域に降る雨は、どこかなつかしくもあった。

 彼らもまた、夏にあこがれたくちである。

 だが星に夏を探すための長旅は耐えられない。天上の清い空気でしか生きられない彼らに、ここの風は灼熱の炎よりも激しく身を焼く。そうして恨めしく、だが勝ち誇ったような顔をして散る星の顔は忘れようはずもない。

 不意に煙草が吸いたくなったのは、そんな風景に見とれてしまったからであろう。反面、手持ちがわずかだから浪費したくないと渋るところもある。それにこれから女王と対面するのであれば、煙草はあまりふさわしくない。煙たい客人なんて大概ろくでもないだろう。少なくとも美しい花の女王にそんなものは似合わない。

 それにしてもあのほろ苦い白煙が愛おしいだなんて、家の連中が聞いたらきっと目を向くはずだ。口を揃えて非難の声を上げるにちがいない。特に清廉潔白をそのまま体現したような兄は黙っていられないだろう。そんな光景がすぐに脳裏に浮かんでは、端からぱぁんとはじけて消えていく。罵声でないことだけが救いだ。くつり、堪えきれなかった苦笑をひとつこぼす。もしそんなものが来たら、わたしは本当に彼らを見捨ててしまいかねない。亡霊は亡霊のままであればよいのだ。

 太陽の奥に潜む夏の影は色濃く、じっとりとした目つきでこちらを睨んでいた。諦めろ、と言われているような気がしてむかむかとした苛立ちを覚える。睨み返してやればあれはすぐにそっぽを向くのだ。自分だけは傷つきたくないと主張するのであれば、同情なんてするだけ無駄である。

 そうしてばちりと開いた視界の先で、わたしはみどりの海を見た。

 深い波にひとりの少女がのまれていた。人形のような、白い少女がぷっかりと浮かんでいるようでもある。あ、と息をのむわたしとちろりと視線がまざり合う。無機的な瞳はさめざめと、だがそのちいさな体には不釣合いな強いひかりを宿していた。

 そのやさしい海に抱かれて眠れたならどんなに心地よい夢を見ることができるだろう。目まぐるしいほどの赤についに頭までいかれたのだろうか。笑えない冗談をそうして噛み締める。味気ないはずであったそれは、しかしほんのりと甘かった。

 しかしそんな風にぼんやりとふぬけたわたしと違って、カカシは途端にぴんと姿勢を正したのだった。すばらしい。キミはとてつもなく運がいいな。そうひとりごとのように呟いて、彼女に向かって不釣合いなほどひどく優雅に、そして恭しく一礼してみせる。

「こんにちは。女王陛下」

 瞬間、ぶわりと、花のにおいがした。

 脳髄からぱちぱちとはじけた黄色い信号が流れてきて、それが全身を駆け巡るまで瞬きひとつ。ぶるりと背筋が震えたのも一度きりで、びりびりとした空気に目もさえる。

 返答のかわりに植物たちがぱきりと腰を折り、それに合わせて黄色い花を咲かせた蔦がふわりと舞った。ダンスホールの淑女だってこれには勝るまい。彼女はそれからぐるりとこちらを見回して、わたしに焦点を合わせるとほんの少しだけ頬を緩ませた。あなたね、と動いた口元をなんとかとらえる。きりりと冷えた脳に、その姿は残酷なほど鮮烈に映った。

「この子を捜しに来たのでしょう」

 なるほど、なにもかもお見通しとはこういうことであるらしい。

 肯定するかわりに、そろりと胸に手を伸ばす。ちいさな芽が自分はここにいるぞと主張するのは、どこか心苦しくもあった。

 しかし彼女は、ほんとうにすまなそうな顔をして桃色のちいさな唇をふるわせた。

「でも、ごめんなさい。この子はあなたにあげられないの」

 思わずなぜ、と問えばカカシから非難の色を宿した鋭い視線をくらった。女王はそれに困り顔で微笑んで、するりとわたしの前に躍り出る。それから恋人にそうするように白く細い指でもって、わたしの両頬を包み込んだ。むせかえるほど強烈な緑に目を見張るのは一瞬だ。陶磁のような肌は本当にひやりとしていてついどきりと心臓が跳ねる。反射的にびくりと大きく肩を揺らせば、彼女はただ大丈夫、とあやすように言った。それを保障するように、女王の連れた植物たちがやわらかく揺れる。

 そうして覗き込んでくる彼女の宝石のような瞳の奥で、わたしは、夏の姿を見た。

 想像していたよりもはるかに悲惨な、おぞましい傷を負った夏。

 まったくそれで生きているのが不思議であるくらいだ。全身をおびただしく覆う傷跡で、滑らかな肌などひとつもない。ひゅう、とか細い息も絶え絶えに、夏はがしりと彼女にしがみつく。ともすればぽっきりと折れてしまいそうな、小枝のような腕である。ひとりでは満足に歩くこともままならない。それほどの傷を負いながらも、夏は悲痛の声のひとつもあげなかった。悲嘆とも哀傷とも似つかない目をして、じっとこちらを見返してくるだけである。

 ぎょっとして身をよじりながら距離を取ると、彼女は浮かべていた笑みをさらに深くした。ばくばくとうるさい心臓をどうにかおさえつける。女王はとかした蜂蜜よりも甘ったるい声色で、それからゆったりと口を開いた。

「だってこの子はこんなにも傷ついてしまったんだもの。またあんなに苦しい思いをさせるなんて、私には許せない」

 まるで愛しい我が子にするようなやさしい手つきで自身を抱きしめ、その白い指先にほんのりと影を落とす。ほの暗さはしめやかに、だがそれでいて艶やかな顔をのぞかせる。その対比はぞくりとするほど美しい。

 それに、と言いながら彼女は情のこもった視線をこちらに向けた。

「あなたにこの子は重すぎるもの」

「……重い?」

「あなたはどんな夏を越えてきたの?」

 教えて頂戴、と女王はかすかに首をかしげた。仕草だけ見れば可憐な少女のそれである。しかし同時にどろりとした恐怖を飼い慣らしている様は、まったくといっていいほどその幼い姿にそぐわない。思わず目を背けたくなるのは道理である。

 と、女王、とカカシが怪訝気味な声をあげた。どうもカカシは、彼女がわたしと口をきくことがあまりよくないと判断したらしい。正直それはありがたかったが、彼女にカカシが太刀打ちできるかは甚だ謎である。

「あまり彼をからかわないでやってくれないか。大事な客人だろう」

「連れてきたのはあなたでしょう?」

「それとこれとは話が別だ」

「変なひと。だからあんなところにひとりで住んでいられるの?」

 くすくすと軽やかに笑う女王に、カカシは憮然としたような顔を返した。これで気に入られてないなんて冗談だろう。おもむろにカカシを見ようとすれば、その途中でばちりと視線がぶつかった。

 先程よりもさらに磨き上げた刃物を宿した目は、まさしく凶器そのものである。ぎらりと光る両眼に、ごくりと喉を鳴らす。それに気づいてか、カカシはそのままふとあらぬ方へ目をやった。

「あまり見すぎないほうがいい。きみには強すぎる」

「あら。それはどういう意味?」

「……女王」

 勘弁してくれといわんばかりにカカシは肩をすくめてみせた。まるで親子の会話である。しかしそう言えばおそらく彼はへそを曲げてしまうのだろう。怒りの矛先をこちらに向けられるのはさすがにごめんだ。

「女王」

 呼べば、なあに、と鈴を転がした声で彼女は笑った。彼女に従っていた大きなつぼみがふんわりと開いて、淡いピンク色の花びらを散らす。わたしにはそれが、質問に対する許可のように思われた。

「あなたはどうして、夏を庇っているのですか」

 すると今度は、風間、とわたしを叱責する声が飛んだ。しかしそれを制する女王の細い指先に、大の男がぐっと押し黙るのだからおもしろい。口には出さず、形ばかりの謝罪を喉の奥で呟いておく。ばつの悪そうな顔をしたカカシはわたしをひと睨みして、だがすぐに視線をどこか遠くへ放り投げた。

「そう見える?」

 女王の楽しげなソプラノが響く。

 ぶしつけだと思いながら肯定を返すと、案の定カカシの鈍色の瞳がこちらを捕らえに来た。が、女王の影に隠れればなんのことはない。ついでに肩をすくませる素振りをしてやれば、女王はすぐそれに気がついてくれた。そうして、仕方のない子、とまるで実母のような言葉をもらす。

「そんな目しないの。彼から聞いてきたのよ? それを無視するほうがかわいそうだと思わない?」

「しかし女王、」

「あなただって気になるのでしょう。わたしがこの子を抱えている理由」

 図星であったらしいカカシは、しかし素直に答えることを放棄した。そういうところは実にこどもらしい。正直者であるといえばきこえはいいが、まったく自由奔放に生きる輩はこれだから質が悪い。

 それから女王は、弁解するようにちいさく首を横に振った。

「庇っているわけではないの。ただこの子が、わたしから離れてくれないだけ」

 たったそれだけなの、と女王はかすかに微笑んだ。

 しかしそのくせ一分の隙ものぞかせない。まったくとんでもない女王である。わたしはひとり辟易した。彼女が言えばなんだって真実であるかのようだ。覆しようのない現実をひしひしとにおわせる。

 だから彼女はこの街の女王であるのだろう。

 花の女王。

 その呼び名のとおりたくさんの花をしたがえる彼女は世界なんてしらないという顔をしながら、たったひとりで夏と正対している。できそこないの大人たちはそんな彼女を羨んで、だからこそ最高の敬意を払っているのだろう。かくいうわたしも、そのうちのひとりである。

 うっとりと熱のこもった瞳をした女王は、それから嗚呼、とひとり納得したような声を上げた。

「あなた、夏を愛してしまったのね」 

 白い夏が、わらっていた。

 彼女のまとうつややかな白さに負けず劣らずの、かろやかな姿をした夏である。ちらりとだけ顔をのぞかせた夏は、わたしを遠い日のだれかと重ね合わせたようだった。一度躊躇うように身を引いて、だがそれから古い記憶を振り払うかのようにいやだねと夏は首を横に振る。

 そうしてまた女王の影へと消えていく夏に、わたしはどうしてか手を差し伸べることができなかった。ただ茫然と立ち尽くすわたしに、女王は静かな声で問いかける。

「なぜ、ここへ来たの?」

 まだ居残る太陽を無視して顔を出した月が、涼しげなひかりを荒野にそそぐ。しかしそんなものでは足りないと、わたしのなかで巣食う植物が暴れだす。ひくりとうごめく喉に、気持ち悪い汗がつたった。

「夏が、ほしいから」

 声がひよる。全身から噴き出る汗が、震えがとまらない。

 それでもどうにかひねり出した言葉に、嘘、と少女は冷たい否定を口にした。

「それはあなたの本心じゃない」

 すぎるほど透明な言葉は、そのままはらはらと朽ちていってもおかしくない。いっそそうして壊れてしまえば、喉を絞めてくるようなこの苦しみもなくなるはずだ。

 赤い空を、生ぬるい風がなめる。青白い顔をする月が不機嫌になろうとお構いなしだ。無邪気な風は、それがゆえにここにいることを許されているのだろう。それがすこしだけわたしには羨ましかった。

「種が芽吹いたのでしょう? それならどうして、あなたはそれを咲かせてやろうとしないの?」

 それはとてもうつくしいものなのに。もったいないなんて、羨望に似たよどみない色に染めた眼差しをこちらに向けながら女王は言う。

「夏なんか来なくてもそれは咲く。咲かないのは、あなたがそれを望んでいるから」

 つっと目を細めると、女王はそれにこたえるかのようにうすい笑みをのぞかせた。そうされると文句もひっこめてやるしかない。言葉になりきれないそれを、かるいため息として吐き出してやる。理不尽ではあるが、彼女こそがこの街のルールだ。逆らうなんて考えられない。

 赤いひかりが目に痛い。青い月のおかげですこしはましだが、鈍い頭痛は終わらない。奥歯を噛み締めてやり過ごすのもそろそろ限界だ。呼応してぐいぐいと身を乗り出してくる芽をむしるように、胸元をくしゃりと掴む。

「わたしには、この芽がわずらわしい」

「そうでしょうね。本来なら、あなたみたいなひとに芽吹くものはないのだから」

 女王はそうして静かに目を伏せた。

「でも、だからこそ、あなたはその花を咲かせなければならない」

 それはさながら死刑宣告のようだった。

 からっぽの空にむなしく花が散る。実はつかない。しかしその代わりに、すぐさま違う花芽が膨らんで、たわわな白い花を開かせる。女王に褒めてほしそうな顔をしているのだが、彼女がそちらを見ることはなかった。

 胸の奥が、ずくりとうずく。

 もしかすると女王に抱きしめられたかったのかもしれない。母たる彼女の腕に埋もれてしまいたかったのかもしれない。

 だがずしりと重いわたしの両腕では、それはかなわない夢なのだ。

「残念だけど、私にその花を咲かせてあげることはできないの」

 細かい砂がちいさな風の子と踊る。そうしてできたレースのカーテンよりも薄い幕の内側が、わたしにはひどく遠かった。

「女王にも咲かせられない花があるなんて初耳だ」

 茶化すように言うカカシに彼女はただうつくしく微笑んだ。ステップを踏むようにくるりと女王の白いスカートが舞う。それは鳥の羽よりもよほど軽やかだ。

「夏はどうして逃げてしまったのでしょう」

 ぽつり、取り落とした言葉が風に乗る。ようやく遊び相手を見つけ出した風は、しかし相変わらずわたしには見向きもしない。仕方ないな、とちいさく肩をすくめると、涼やかな顔をしたそれがふわりと跳ねた。

「さびしさに耐えきれなかったのよ。この子は存外怖がりだから」

 だから私のところまで来たの。

 そう告げる女王は、我が子を失った母親と同じような瞳をして、だが気丈なふりをする。華奢な肩は、しかし震えてなんていなかった。

「この子はずっと空を見ていたの。ひとりぼっちをまぎらわすには、それしかなかったのね」

 そうして見上げた真っ赤な空では、星が白い軌跡を敷いていた。ひとつ、またひとつと飛び出していく。五線譜を描くように、メロディを刻むように白線を描くのだ。きっとそこにうまれるのは固形な旋律なのだろう。でたらめな楽譜の指揮者は女王だ。それだけは、どうしても譲れない。

「さようなら。かわいそうなひとの子。もう会うことはないでしょうけれど」

 わたしが女王を見たのは、それが最後である。

 みどりの海がひいていく。たゆたう少女は飲み込まれたままだ。そのまま、深くて暗い水底に引きずり込まれていく。しかしわたしにはどうしてやることもできなかった。無力はわたしでは彼女を救えない。振り返ることすらしない女王の手を握ってやることもかなわない。そして彼女もまた、それを望んではいなかった。女王の宝石のような瞳から追放されてしまったのだから間違いない。別れとはそういうものだ。だからわたしはひとり、行き場を失った両手をむなしく握りしめたのだった。

 それでも行こう、と促されていなければ、わたしは延々とそこに立っていただろう。先を行くカカシは、今回もまたまっすぐ前をとらえている。わたしがついてきていることを確認しながら、数歩先を行くのである。まごまごとした遅い足取りだが、その距離感がなんだかわたしには愛おしかった。

「だから言っただろう。彼女は強すぎると」

 ぼくたちの手に負えるようなものではない。

 さみしそうな声でこぼした言葉が、じんわり広がっていく。彼なりの慰めであったのだろう。まったくわかりづらい、と落としたため息はしかしあわくとけていく。影は、残らない。

 赤い空を舞台にした星の追いかけっこはまだ続いていた。やがて力尽きて落ちてくるそれを、風がだきとめに走る。飽きもせず何度も繰り返してやるなんてご苦労なことだ。わたしならとっくに悲鳴をあげている。

 おぼつかないままいくらか歩き続けていると、不意になにかがかさりと足に引っかかった。するするとほどける砂原にそんな無粋ものがあるとは珍しい。気ままな好奇心に引っ張られて、それへ視線を投げる。

 白百合だ、と呟いたのはカカシであった。転がる砂の花に目を落とす。色がないからその判別は適格ではない。しかしこれは白百合なのだ。間違いないと、だれかがわたしの耳元で ささやいてくる。

 震える指で、そっとそれを拾い上げる。

 おそらく元は星であったのだろう。風にだかれることなくひっそりと墜落したのか。赤い空に透かしてみれば、どうしてか型崩れせず結晶化したそれはからりと音をたてた。

「風間?」

 ああ、ともれた声はどこから出たのかよくわからない。おそらくわたしがこぼしたものなのだろう。しかしその確信がわたしにはなかった。

 ぽたり、砂原に雫が消える。それとほぼ同時にわたしは膝からその場に崩れ落ちた。花だけはひとりからからと笑っている。だきしめると、さらりと細かい砂が散った。

 新芽が、ゆるく頭を持ち上げる。

「……ただいま」

 夏はずっと、そこにあったのだ。

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それでも空にあこがれる 二藤真朱 @sh_tkfj06

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