ピーター・パン症候群
真希波 隆
ピーター・パン症候群
1
「どうして笑わないの?」「みんなが僕の笑顔を見て言うんだ」「なんて?」「気持ち悪いってさ」吐き出すように言う僕。夕方。放課後。教室は眩しいくらいの斜陽でいっぱいだ。女が僕と二人きりでいる。僕はそれが、ほんの少しだけ嬉しかったけれど、つまらなそうな表情を作ることが、たまらなく面倒くさかった。
「素直になれないの?」「素直になれないね」「どうして?」「君ってどうしてそうやって質問ばかりするの?」「きみのことを知りたいからでしょう」「その発言って、なんなら聞くけど、疑問形?」「私は図書委員。君も図書委員。仲良く、というよりは協力したほうがいろいろと楽だと思う」「僕はそれを孤立している僕へのやさしさの押し売りのように感じる」「そんなこと思ってない。だって、私、百パーセント優しさでできているの。知らなかったでしょ?」「からかってる?」「からかってないよ」「そんな他人にとって都合のいい人間なんてこの世界中どこを探したって存在しない。だからお前はうそつきだ」「
「そういうこと言ってるうちはまだかわいいから許すけど、そのうちほんとに殺すよ」僕はびっくりして、口を閉じた。そして、ゆっくりと口をひらいた。「誰を?」「きみを殺す」「女の子ってどうしてそうなんだろう?」「どういう意味?」「ヒステリーの塊みたいな連中ばかりだ。だから、僕は女が嫌いだ」「今のは? きみがホモってこと? 全然いいと思うよ」「そうじゃない」「私、BLとか、詳しくないから、今度教えてよ」
夕日が暮れようとして群青が、世間を覆うように広がりつつあった。
「もう帰る」
「おつかれさま」
「日報は提出しといて」
「わかった」
2
「遅かったな」
「図書委員の仕事があった。女が付きまとってくるんだ」
「スト-カー被害か。相談にのるぜ」
「いいや、別に」
「あー。そうかい」
「今夜は?」
「しばらく偵察隊がサポートに入ってる。時間喰いそうだな。お楽しみはいましばらくの辛抱だ」「魔物なのか? それとも魔人か?」
「今回は魔物だろうって話。通信用のイヤフォン、仕込んどけ」
イヤフォンを渡される。耳にはめると、いろいろな情報が音となって耳から入ってくる。黒ずくめの係争に着替えた僕ともう一人、長野はイヤフォンに集中する。
「来た!」
〈C地区九番街二-十四地点に魔物が顕現した模様。繰り返す。――〉
「行くぞ」「よし」
黒ずくめの僕と長野が、月光と街灯でたまにその姿を現す。
「C地区に出没するな、最近は」「たぶんアレが狙いだろ。あの武器を奴は手に入れたいのさ」「だからか? 本当にそう思うか?」「なんで?」「そうだとしたら、魔物に意思があることになる、あるいは思考があることになるんじゃないのか?」「それが?」「僕はそれが恐い」「はは。未知との遭遇だな」そして僕は言葉とは裏腹ににやけている。長野は僕のにやけ面に慎重を期した。僕の勘はいいらしい。それは、ちょっとしたひずみに近い。ひずみ。「よくないこと」、「変化」。長野はリーダー格として、気を引き締めていた。
避難誘導は済んでいた。
魔物――“門”が開かれるとき、そこからやってくる生物の総称。理学的に生物なのかはわかっていない。ただ魔物は人から精気を奪い、最終的には廃人にしてしまう。空間を通り過ぎると、そこにあるものを灰にしてしまう。奴らは人類の敵だとされ、平和的解決は望めない、と判断されている。
古来より、魔物の存在を知る「ブレイヴ」という存在がいる。ブレイブは魔物・魔人の出現に際し、いち早く対応する義務があった。今回の出現を数えて、魔物・魔人は二十七匹目となる。地区はばらばらだったが、出現するのはこの藤原京に限定されている。魔物・魔人の目的は明らかになっておらず、なぜ侵略行為を繰り返すのか、戦闘を引き起こすのか、わかっていない。藤原京にあるビルディングのどれよりも高い巨人のような図体を持ち、大きなフードをかぶり、前身は白マントでおおわれている。ブレイブは特異な体術と、均衡を保つすべにより、魔物・魔人と戦えていた。しかし、魔人は手ごわく、知性のようなものを感じさせる局面が多々あった。
灰に帰す。高かったビルが灰となってどっと道路に押し寄せていく。優秀な二人組と自負する僕と長野は、今回は少しばかり来るのが遅かった。わりに直情型な僕。武器はたった一本の杖。ブレイブはこれを神聖視する。しかし、僕は躊躇(ちゅうちょ)なく投擲(とうてき)した。魔物は光る杖をかわす。
「さ、相手になるぞ。フードくらいとったらどうだ?」
「バカか、杖を投げるな、クズ」怒鳴る長野。
「バカかクズかどっちかにしてくれないか?」
魔物の腐臭を嗅ぎながら、体を捕えようとする。杖は均衡を使って、もう左手に収まっている。杖で魔物のキューブを探る。キューブを壊せば、魔物はどろどろに溶ける。
長野は灰と化していく建物や道路や信号、電柱に処理班の手配をするのに忙しい。僕はその間に、白マントに強引に杖を乱れづく。
続く激戦は目くるめく展開の速さを迎え、だんだんと最悪のシナリオを垣間見せ始める。僕の精神が不安定になっていく。自信が喪失され、もう駄目なんじゃないかと本気で思えてくる。ひんやりとする頭。白いフードが、魔物の不快な何パターンもある鳴き声が、僕を追い込んでいく。死にたい、と意味もなく脳裏に表出する。
そこで僕はブレイブとしての教訓を思い出す。ただ自分に自信を持つこと。
ただそれだけだ。生きているということ。立ち向かえるということ。大丈夫。誰にだってできる。希望とか、やる気とかそんな言葉にする必要さえないんだ。
杖はエメラルド・グリーンの気迫をまとう。長野は僕のプライドの高さを知っている。こういう時に手を出してくれない。わかってるんだ。いいやつだよ、ほんと。心の奥でちょっとそう思う。思うだけ。と同時に充足的な気持ちでいっぱいの理由を説明できない。追い込まれていくうちに、自分で自分を見出していく。この自我が僕に活力を与える。
自分がわからなくなる時、ヒトはたいていそういう時、孤独だ。僕は守らなければならない、という大義をもっている。その大義は絶対に人類を守ることにつながる。その時、僕は初めて自分が本能で孤独なのだということを知る。何故か? 僕に想像力が乏しいからだ。ゆえに、僕は自我を見出している。いいや、これはただの悲しい言い訳に過ぎない。それでも、と。それでも。僕は問うことでしか、自我を得られないのではないか?
杖を振り、先端の六面体に、敵の攻撃を弾きながら、ねじこみながら、戦うほかに生き残る手段がないことに気づく。「うそをつくな」と背後から声がする。「ちっぽけなお前なんて、あっという間に消しとんじまうおれがいる。ねえ、そのこと、わかってる? ほうら、ほうら、アナタの終わりがやってくる。呼んでよ、おれを呼んでよ、ほらほらほらほら」
と背後からトントンと肩をたたかれる。絶対に振り向いてはいけない。絶対に振り向いてはいけない。内的世界。これはぼくのなかだけに秘めておくべき、平等性原理主義。魔物を倒すべく、希望を吸い取られながら、奮戦する僕。
救世主と呼ばれたい。救いはない。白いマント、フードの向こう側の未知なる世界は気が付けば増えている。少し均衡に補正を加えすぎた。蜂の巣をつついたような混乱が訪れている。これじゃあ、僕は救世主にはなれない。なれないだろう。英雄の慣れの果てが関の山だ。
――死にたくない。僕は死にたくなんかないんだ。
七色の血しぶきが上がる。目の前が七色に染まる。まず、一体。エメラルド.
グリーンのアフターグロウ。内面的爆発。興奮。七色の血液。白が七色に。八体は仕留めたところで、仲間が先頭に加わる。もう少し、遊びたかった。
仲間が集った。幾人も別働部隊が応戦してくれていた。これじゃあ、僕一人の手柄にならない。困ったぞ。もっと殺したい。
じゃ、そういうわけで――。僕は“奴”に自身をを明け渡した。その瞬間に変わる空気の冷やかさは、並大抵のものではないらしい。僕はただ、ただコントロールされるままに身を、心を、それこそ何もかもを任せてしまうだけでいい。杖の扱い方からして、杖のサファイアブルーの色からして、違う。くるくると踊るように剣舞でも見せるように魔物を一掃し、ぶっ刺し、ぶっ倒し、ぶっ殺す。ぶち破る。ぶちえぐる。返り血は七色。ぐちょぐちょのでろでろになった魔物の肉片を引きちぎる。口元に運び、においをかぎ、舌先で転がしながら、ゆっくりと咀嚼する。
気が付けば、皆が僕を取り囲んでいる。ハイになっている僕は、なんでもいいからからだを動かしたい気分だった。ちょっとした遊びみたいなもんだ。
それなのに。
各々がそれぞれの杖をかしこまって構えている。怯えているみんな。僕は長野のことも別働部隊のみんなのことも仲間だと思う。しかし、皆は杖を魔物ではなく、魔物を倒した僕に向けて、構えるのだ。それが僕は不思議でならない。
3
目が覚めた。覚醒。死の世界かと思った。どうしてだかわからないが、そうであればいいと思っている自分がいた。血の池に沈まされる夢を見た。その僕は溺れていて、このうえなく苦しそうだった。僕は死んだら、地獄に堕ちるのだろうか。天国に行けるといいなあ、と思った。葬式に参列したすべての個人のことを丁寧に思い返した。そして棺桶にいる自分を想像し、花を詰め込まれている自分を想像し、会ったことのない祖父をちょっと考えた。貫頭衣を着ていて、特殊なベッドに寝ていて、ガラスケースの中にいた。四肢は拘束され、かゆいところもかけない。尿道に管が詰め込まれていて、とても痛いし、おむつをはいていた。冷たいひんやりした空気で、鉄臭かった。
これは拘束だろうか。初めてだ。
そして段々眠くなってきて、もう一眠りして起きると病院の個室にいる自分がいた。今度は尿道に管もなかったし、おむつもはいていなかったし、病衣を着ていた。静寂に怯えるえる気はないが、個室を歩き回る余裕も、棚に置かれた僕のお気に入りの本が数冊おかれていることは、僕を怯えさせた。偽善ほど怖いものはない。
ノック。開く扉。女。
「私の名前、知ってる?」「さあ」「桜井。よろしくね」「はい」「医者は誰?」「さあ。資料がそのあたりに」と指さすと、彼女はパラパラと資料を漁った。
「医長だね」と言って、彼女は調子よく、もっと言えば、馴れ馴れしく丁寧に笑った。「目に見えるものが好きなんです」と僕はおもむろに言った。
「ふうん。でもそれだけじゃあだめなんだよ」と桜井は偉そうに言った。
「君の中に魔人がいるんだね」
僕はたっぷりと間をあけた。
「そうだよ」
「いつごろから?」
「三歳くらいの時に」
「どうして?」
「知らない。でも魔人に勝ち目のないと思っていた人類は、我武者羅だったんだと思う。僕はその副産物みたいなものなんだよ」
「そういう達観っていうか、諦観っていうか、嫌いだな」
「僕のこと?」
「君は頑張ってる。でもさ、頑張ってるだけなら、皆どこかでやってるよ」
「そんなつもりじゃないんだ。ただ」
「ただ?」
「無茶苦茶気持ちよくて」
そう言うと、桜井は鼻で笑った。
「今はこれ以上のことは言わないけど、君だって魔物や魔人に関する揉め事はご免でしょ? 私、君のことちょっとだけ応援してるけど、でもこうやって話してみると、やっぱりエゴが強くて好きになれないな」
そう言って、部屋を退去しようとする桜井。そしてちらりと振り返り、下を向いて言った。「今度〈あいつ〉が出てきたら、君ごと殺す。政府から許可を得たって」
桜井が出ていくと、数十分後、ノックがあり、スーツの男がやってきた。
「上の、つまり上層部の面々はお怒りだ。君が意図的に快楽を優先したことはグラフでわかる。以後、気をつけなさい」
そしていくつかの規則を述べ立て、スーツの男は去った。
僕には精いっぱいだった。「ち」と内側で舌打ちがきこえる。もちろん、僕の舌打ちだ。
ここを僕の精神世界だと仮定しよう。
そうせざるを得ない。ちなみに、こことは、この真っ白な空間のことだ。
僕は心臓を「奴」に取られていて、胸に古世界のしるしが刻まれている。それが「奴」への敬服の証。ライセンス。そんな感じだ。大半の人間は、こういう世界を知らない。僕も同様、ここがあることを忘れてしまう。ドアがある。そのドアから時々「奴」は現れて、僕は決まってこう言う。「死んでくれないか?」
「奴」は決まってこう言う。「未定だ」と。
そのために僕の胸にある、古世界のしるしは消えない。「奴」の前では、いつだって、僕は星座を強要させられる。「奴」から逃れる術はない。ドアの先に広がっているのは、縦横無尽に広がり続ける迷路だ。僕はドアの向こうに行く。飛び出す。飛び込む。踏み出す。踏み越える。しかし、それをしたあとに、どうしたらいいのか、まるで分らなくなり、勇気について考える。
「お前の心臓が最近、やけにドキドキしている。むかつくからどうにかしてくれないか?」「僕にはどうしたらいいのか、わかりません」
「女にやさしくされたいか?」「なぜですか?」「図書委員の彼女と話すと、お前の心臓は慎重に脈打ち。派手に動きたいのをこらえているみたいだ」
「お前に払った代償は世界のためだ。大きい。でも取り戻せないとは思いたくない。魔物・魔人を倒す手段として、お前を、魔人であるお前を利用しているだけだ」「利用? 利用ねえ」とにんまりと笑う「奴」。
「え」
汗びっしょりで目覚める僕。
4
回想。
「緊急事態、緊急事態。迅速に魔人Ⅲ対応へ移行」
そういった連絡が入り乱れる中で、僕は無垢になっている自分を感じていた。遊びたい。けんかしたい。嗅ぎたい。背中のあたりが窮屈だ。
「落ち着け」長野は吠える。
「なんだよ、長野。ちょっとした殺し合い。いつだってそうさ、ちょっとした殺し合いだ。血沸き肉躍る殺し合いだよ」
制服がビリビリに引き裂けて、鳥のものとは違う大きな魔人の両翼が、背中から突き出して、卵からかえったばかりの雛みたいにネトネトしている。
目の色が段々とサファイアブルーへと変容していき、今は灰色に近かった。
「僕はアンバランスなんだ。均衡が聴いて呆れる。僕に操れるものは、定めならぬもの。定めなしえぬもの。そういうあぶれたようで、あぶれていない正統派のアンタイ・ヒーローだ」
筋肉が盛り上がり、頭髪の色素が薄れていく。
「お前はそういうアンバランスな存在として生かされてきたにすぎない。拘束はするが、上層部のくだらない命令に一時的に従うだけだ。やることは終わった。もう魔物は倒したんだ。全部、お前のおかげだ。それは感謝する。ありがとう。ただし――」
その数秒で長野以外の全員が意識を失って、倒れた。
「ほらね、均衡はこんな風にも使える」
「おれは面倒事はご免なんだ」
そして、僕は意識を失った。
5
十一月十九日。僕は退院した。もろもろの手続きはすべて「ブレイブ」が行った。そもそも病院が「ブレイブ」の管理下なのだ。僕はただ病衣から自分の服に着替えて、病院の外に出た。タクシーが待機していて、一人暮らしのアパートに戻ると物寂しさみたいなものがどっと押し寄せてきた。玄関の郵便受けにチラシが詰め込まれていて、そのうちの一枚が迷い鳥を探している、というものだった。キッチンで、ペットボトルの麦茶を一本飲んだ。
僕は謹慎を受けることになった。魔人を抑えるのは大変なのだろう。長野も左足を複雑骨折していて、お見舞いに行くと言ったら、イラつくから顔を見せるなと言われた。長野はまあそういうやつだ。
閉まっていたカーテンを開けると陽光が眩しい。窓を開けると、冷えた外気が入ってきた。肌寒く、居心地よく感じた。病院の管理された空気は、僕向きではない。スマート・フォンが振動する。図書委員の彼女だ。僕は通話の仕方を忘れていて、一度途切れた電話に、再度電話をかけた。「退院おめでとう」「ありがとう」
「うちに遊びに来ない? お昼まだならどう? スパゲティを作ろうと思うの」
「ああ、え、うん」とよくわからないあいづちをOKと取られ、僕は彼女の家に行くことになった。立派なマンションだった
「こんにちは。体調はもう万全?」「そこそこだった。けど、今は不調」「冗談は大概にしてね」とさらりと言われ、肩をたたかれた。
「ランチにしよう。時間的にはちょっと遅いけどね。私が作る」「毒見する係ってこと?」「そういうこと言うんだっけ」「そういうこと言うんだよ、じつは」「あっはっは」とどつかれる。広いキッチンに通された。
僕はレタスを洗ってちぎるように言われたから、その通りにしたら「上出来」と言われた。「バカにしているのか。レタスをどうこうするくらい、誰にでもできるよ」なんて言わない。彼女は手際はよくなかったが、基本的なことは単調にこなした。
「いつもやってるの?」
「スパゲティはよくつくるよ。魔人の口に合うかはわからないけど」
「どうして、それを?」
「新聞読まないの? いま、君、結構有名だよ」
「退院してから一日も経ってない。関係者以外とは会ってないな」
「裏工作かもね。私は別に君のためを思って、とか、頼まれた、とかじゃないけどね。でも、ま、興味はあるかな」
スパゲティのゆで方がいささか独創的だ。
「僕は一回捨てられてる子供なんだ。よく知らないけど、今の親のところに行く前に何かの検査と称して実験が行われたらしい。物心ついた時には、魔人っていう〈奴〉がいた。そいつにも性格があって、趣味とか欲とかもある」
「ふうん。ペペロンチーノでいい?」「ああ、いいよ」
食事が完成し、リビングに案内された。僕は呆けたように突っ立っていた。
「ここに前……来たことがある」
6
「よくわかったね」と彼女は言った。「繰り返すのよ」と言い「この世界は繰り返すことを余儀なくされているの。きみを主人公としてね」と告げた。
「どうして?」「きみの知りうる限りのちっぽけな世界を守りたいという名目のためだけに」「それほんと?」「うそはつかない」「きみはいつだって未来とか可能性を捨てるの。全部理想じゃないから。だから、私は、そうしないでほしいって頼むの」
「どこかの漫画だかアニメみたいなこと言うね」「きみがそう思っちゃうだけだよ」
そして僕と彼女はペペロンチーノを食べた。彼女は上品に巻いて食べていて、僕の巻き方がどこか下手に見えた。
皿洗いをする、と言うと、じゃあお願い、と彼女は言った。油のついた皿を丁寧に洗ったところで、彼女は皿を手際よく拭き、僕を客間に通した。調度品はなく、ソファがテーブルをはさんで、向かい合うように置かれていた。
僕はここも知っていた。来たことはないはずだ。絶対にないと断言できる。背後から彼女がやってくる。「君は正夢を見たのかもしれない」「予知夢?」「ちょっと違う。でもそう思うのなら、それでいいのかもしれない」「さ、かけて」
僕は革張りのソファを手で示され、そこに腰かけた。彼女も向かいに座った。「きみの話を聞きたい」と言い、「きみに魔人が宿されているのはわかった。目を見ればわかる。サファイアブルーの光が奥のほうに見えるの。魔人はきみみたいに知性を有することはわかっている。魔物については、そういったものがない。だから、殺すほかないことがわかる。それじゃあ、“門”って何? 言っちゃうけど、私のパパは藤原京の密偵のリーダー格なの。私を使って、きみから敵のことを訊きだせないかって」
「門はどこにもない」「でも」「人間にわかるように話すと、魔人にとって科学はあんまり世界の捉え方のひとつだとは思われていないんだ」「つまり?」「門は五官で捉えられない」「目とか耳とかではわからないってこと?」「そう」
「魔王という存在まで我々は見解していない。ただただ、この藤原京には魔族のやってくる門があって、ここを征服しようとしているわけ?」(未知数)と“奴”の声が脳内で反響する。彼女にも聞こえたらしい「は?」
僕はゆっくりと息を吐きだしていった。「そうならないために僕がいる」
(ふうん。ずいぶん調子いいこというんだね)
「どうしてそう思う?」
(君たち自分のこと正義の味方だとか思っちゃいませんかってこと)
どんどん、どんどんと深みにはまっていく。いま、我々は宿命の話をしている。
「じゃ、今日はこの辺にしておこうか」と彼女は言った。
(いるよ、魔王は)
悦楽が漏れ出たみたいに、魔人は告げた。
7
僕は一人で家に帰った。玄関に明かりがついていた。なんだろうと思ったら、長野が僕の部屋に不法侵入していた。買いだめしておいたカップラーメンをすすりながら、「よう、遅かったな。緑茶のペットボトルを買っといたぞ」
僕が今日何をしていたのかを話すと、長野は興味深そうに聞いた。インスタント。コーヒーを作って、二人でくだらないことを話して、適当に笑った。
「あの時」と長野。
「あの時のお前、本当に恐かった。もう戻ってこないんじゃないかと思った。もう部屋には行かないほうがいい」「言うの禁忌だぞ、それ」「心配なんだ、お前が。心臓取り返すっていう熱意だけで、魔人になっちゃうお前が」
「気配だ」
僕と長野は、気配の方向を見据える。複雑骨折が特殊技術で完全治癒した長野は、戦闘に参加しなければならない。
「いってら」と言うと「お前もサポート隊の職務位したらいい」と言われる。「ええ」「魔人になる可能性はないだろ。戦わないんだからさ」「わかった。よし、行こう」「ノリ軽いよな、お前ほんと」「ほめてんの?」「バカにしてる」「そんなことわかる」「じゃ、訊くな」
サポート隊の職務。ギリ謹慎の違反にはならない。部屋の隅にあった予備の装備一式を身に着けると、窓を開けて、電柱と屋根の配置を確認し、飛んだ。
北西に気配が大きなものが二つある。均衡の感覚で感じる。イヤフォンを耳に突っ込んだ。僕に何ができるだろう。謹慎中だ。罰を受けるかもしれない。
静止。
情報を確認しようとしたところで、陣形を張っていたサポート隊員のいた場所が連続的に爆発していく。爆音と大気の乱れ。大規模な地殻振動。
これだけのことをするものが二体。非常事態の比ではない。魔人になることができるのは、僕だけだ。後の戦闘員は技術こそ優れていても……。
「どうしろっていうんだよ」
(おれになっちゃえよ、おれになっちゃえって。ってか、おまえはおれだろ? わかってるよな、そんなこと。お前ってじっさいむっちゃ感覚的。気持ちちよけりゃ、いいんだろ? そうなんだろ? なっちゃえよ。おい、きいてる? なっちゃえよ、おれに。気持ちいいぜ。とろけちゃうよ、ほんと。このトウフみたいな脳みそが、ちょっとはマシになるって。な? もうこうするしか手段ねえんだよ)
そして僕は、ゆっくりと目を閉じた。サファイアブルーの光が見えた気がした。
8
KEEP OUT.
ここは立ち入り禁止区域のようだ。その中に僕がいた。軟禁状態。またベッドに拘束されて、白い光を浴びせられ続けている。尿道には管が入れられ、おむつをつけていた。ろくに眠ることもできない。長野が来た。
「お前の戦いは敵だけじゃなくて、こっち側も畏怖させた。ま、状況が状況だったから仕方ないけど」と言い、「ありがとな。助かった」と言った。
「キープ・アウト」「許可は取った」
「僕のこと恐いか?」「恐いけど、だから嫌だとかそういうんじゃない。それに普段のお前を恐いなんて思わない。お前は自分がどうなるのかなんて顧みずに、不幸になるかもしれなかった大勢の人を助けたんだ。よく考えればわかることなんだよ。でも、みんなは嫌いだって言われている人を嫌うんだ。その方が、楽だから。自分が悪いと思わなくていいから。あのさ、おれ、お前が大好きなんだよ、ほんとだ」
一週間後、僕はBランクの危険接触対象にされていた。ブレイブの施設内の個室を一室あてがわれ、そこに住むことになった。
「お前の名を呼んでもいい?」「なに?」と電話で言う長野。電話だからわからないと思って、僕は泣いていた。泣く。「バーカ」と言う。「「バカって言うな」「じゃあ、ボケだ。お前はボケだ!」
死にたくはなかった。魔人はせせら笑う。どこかで死にたがっている。死ぬことも何もわからないで。僕はどうしたらいいのかを考え、この世界を守ることを考える。使命?
「お前だってだいぶボケだ。というかアホの極みだ。電話の理由、これだけか、アホ」「悪いか、バーカ、バーカ」「いくつだお前は」「僕は生涯、子供だ」「ピーター・パン?」「はは」
ピーター・パン症候群 真希波 隆 @20th
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