11 【PM03:34  残り時間 3時間26分】

 そんな……。 

 だが、疑いようのない事実だ。この傷は、私が10年前に処置した。大きさも形も、そして年月を経て薄くなった治療痕も――見間違えはしない。

 この遺体は小野寺だ。

 だから、遺体の首を切断しなければらなかったのだ。

 私から遺体の正体を隠すために。

 食道にダイナマイトを詰め込んだのは、たまたま首を落とす計画を利用したにすぎないのかもしれない。

 なのに私は、今まで気付かなかった。外見の所見を精査したはずなのに、見逃していた。

 言い訳はできる。

 あまりに異常な死体に理性を打ち砕かれていた……

 爆発の危険を避けるために、背面の目視ができなかった……

 傷が小さい上に、薄れて判別しにくかった……

 小野寺の執念に気圧されて我を失っていた……

 最悪の結果を避ける責任を負わされてたじろいでいた……

 タイムリミットに急き立てられて焦っていた……

 イレギュラーな解剖の手順に気を取られて手元がおろそかになった……

 心臓の不調で意識を分散させられた……

 雅美の身を案じて集中力が鈍っていた……

 どれも正しい。

 しかし、失態であることもまた、正しい。

 遺体を裏返しはしなかったが、傷が全く隠れていたわけではない。私の注意力が充分であれば、発見できたかもしれないのだ。

 私は監察医にあるまじき致命的なミスを犯した。

 この遺体が小野寺であることが最初から見抜けていれば、警察はもっと効果的に動けたはずだ。これほどの大事件になることを未然に防げたかもしれない。雅美がすでに救出されていた可能性すらある。

 なのに、私は……。

 だが……。

 今は、そんなことで立ち止まっている余裕はない。

 この遺体が小野寺なら、彼は自ら打ち立てた理論の犠牲となったのだ。誰かが小野寺を免疫デザインの人体実験材料にして、しかも意図的に殺したのだ。

 なぜそんな事態に陥ったのか……今の私が考えて分かるはずはない。

 だが、確かめなければならない。警察の捜査に全力を挙げて協力し、何が起きているのかを解明し、しかも破滅的な結末を防がなければならない。

 今も恐怖におののいているはずの雅美を救うためにも……。

 そして、こんな異常な死体に変えられ、旧友の手で解剖されている小野寺のためにも……。

〝たられば〟で自分を責めるのは容易い。だが、何も生み出せない。時間はすでに多く失われてしまったのだ。失った時間はどう足掻こうと取り戻せない。これ以上は1分足りとも無駄にできない。

 残されたもので闘うしかない。

 私の手の中にある武器だけで――。

 闘え!

 私は東海林を見た。

〝この傷は小野寺のものだ。かつて私自身が縫った。確信がある……〟

 東海林も虚を突かれたようだった。わずかな間ののちに、押し殺した声がした。

『分かってらっしゃるようですが、絶対に中継に載せないでください』

〝気づくのが遅くて申し訳ない〟

『とんでもない。もしかしたら、その事実が捜査を劇的に加速させる切り札になるかもしれません。我々が犯人から勝ち取った、初めてのアドバンテージです。ありがとうございます。この情報をテコに、必ず奥さんを救出します』

〝お願いします〟

 ありふれた言葉には違いない。だが、切実な願いだ。

 正直言って小野寺の――いや、小野寺を狂気の遺体に変えた犯人の狡猾さに、戦意を失いかけていたところだ。

 神経の消耗は激しい。心臓への負担もひどくなる一方だ。いつ倒れるか分からない。体力や集中力が途切れれば、つまらない罠に足をすくわれる恐れもある。すでに大半の罠はフェイクだと分かっているが、どこに本物が隠されているとも限らない。私が〝打ち手〟なら、対戦者が気を抜きがちなゲームの終盤に強烈な落とし穴を仕掛けることを考えるだろう。

 闘い続ける自信が消えかかっていた。

 本当に雅美を助けられるなら、私の命と引き換えにしても構わないとまで覚悟していたところだ。

 それがたとえ常套句であっても、公安警察の確約がこれほど心強いものだとは思わなかった。擦り切れていた活力が、わずかに蘇った気がする。

 公安警察といえば、小説やドラマでは悪役ばかり押し付けられている損な役回りなのだが……。

 東海林はテレビ画面に群がる一団を離れ、部屋の片隅で携帯を使い始めた。早速仕事にかかっているのだ。すでにこれほど大事になっている〝テロ事件〟だ、動いている警察の人員も半端ではないだろう。

 彼らは皆、私と雅美の味方だ。

 私は再び深呼吸を繰り返し、精神を集中させようとした。だが、考えを止めることはできない。

 小野寺は、目の前にある遺体だ。それは動かしがたい事実だ。

 だが、それならなぜ私が狙われたのだ?

 復讐を願った張本人は、私の手で解剖されているではないか。

 小野寺を殺したのが彼の助手だとしよう。その目的は何だ?

 なぜ、赤の他人が小野寺の個人的な復讐を引き継がなければならない?

 ばかばかしいほど手が込んだ犯罪で警察やマスコミまで騒がせて、いったい何を望んでいる?

 そもそも、公安は何を調べていたんだ?

 JOメディカルがこの事件に関係しているのではないかと匂わせていたが……。

 いや、ダメだ。私には充分な情報がない。考えても分からないことで平常心を乱すな。神経を研ぎ澄ませろ。

 私がなすべきは、次の異物の〝開封〟だ。

 今度の罠は、一体何か……。

 確かめるには、開けるしかない。次の携帯番号も、そこにあるはずなのだ。それが分かれば、きっと雅美の居所も絞り込めるに違いない。

 再びポリエチレン袋を用意して、その中で異物を包んだビニールを切り取る。そのまま取り出した異物ごと密閉する。今度は先ほどより念入りに、中身がたとえ極小サイズのウイルスでも外部に漏れないように厳重に封をした。

 ここにもウイルスが封入されているなら、ほんの気休めにしかならない。だが、今は気休め以上の対策など望めない。

 顔を背けながら、袋越しにゆっくりと蓋を開ける……。

「3個目の異物を開ける――」

 ガラスの向こうの男たちも、私に注目していた。

 小さなパチンという音とともに、蓋が弾けた。すでに開けた2つと同じだ。反射的に瞑ってしまった目を開く。

 ――だが、今度は何も出てこなかった。

 ゆっくり袋の中を覗き込む。

 頭から冷水を被せられたようだった。

 いや、一瞬で血が凍りついたと言ったほうが近い。

 小さな金属のケースの中で、さらに小さな4桁の赤い文字が点滅している。その真ん中に、コロンが……。

 一目で分かるカウントダウンだ。ミニュチュアのデジタル時計のようだが、確実に時間を刻んでいる。その脇には、ボタン電池のような金属の塊が組み込まれていた。

 ケースの半分には、粘土のようなものが詰め込まれている。大きさは3センチ四方ほどか。ケースの厚みは1センチもない。文字を書いたテープが貼ってある。

〈C4〉

 聞いたことはある……爆薬の種類だ……。

 教授室を見て、震える声で言った。

「時限爆弾のようだ……」

 真っ先に反応したのは機動隊の横峯だ。声を出して答えてしまった。

『タイマーがあるんですか⁉』

「カウントダウンしている……」

『残り時間は⁉』

 もはや、中継に音声が乗ることなど気にしてはいられない。爆発物の専門家が待機していることも知られるだろうが、東海林も横峯を止めようとはしなかった。

「4分57秒」

『こちらに持ってきて見せてください』

 ポリエチレン袋を持って教授室のガラス窓に向かう。

 窓は強化ガラスのはずだが、爆発に耐えられるほどの強度はないだろう。蓋が開いたケースを、軽くガラスに押し付ける。

 横峯がケースに顔を寄せる。他の者たちは、わずかに身を引いていく。

 横峯が言った。声は落ち着いている。

『C4は強力なプラスティック爆薬ですが、この文字は後から貼り付けたものです。偽装は簡単です。爆発が目的というより、こけ脅しのためにあえて記入したんでしょう。しかも、装置全体が極めて小さい。爆薬が本物だとしても、火力は手を吹き飛ばす程度でしょう。遺体のダイナマイトを誘爆させる危険は少ないと思います。確かにそれらしい配線や信管のようなものは見えますが……』

 手が吹き飛ばされる? ダイナマイトの誘爆?

 まかり間違えば、死ぬことも考えられるのか……。

「本物だと思いますか?」

『本物だという前提で対処します。レントゲンで調べている時間はありません。爆破処理を行います』

「爆破したら手がかりがなくなる!」

 まずい! 雅美が救えないなら、今まで無理を重ねてきた意味がない!

 横峯の言葉は冷静だ。

『ダミーであることを期待しましょう。この壁はコンクリート製ですね』

「そうです」

『厚さは?』

「10センチぐらいでしょうか……」

 横峯はガラス越しに解剖室の中を覗き込んだ。廊下側の壁に目を止めて、棚の上を指差した。

『あそこの棚に電子レンジのようなものがありますね。あれは?』

 振り返って確認した。

「オートクレーブ。医療器具を高圧の蒸気で殺菌する洗浄機です」

『それなら中は空洞ですよね。こっちに持ってきてください』

 私は爆弾を床に置いて、棚に乗せられていたオートクレーブを運んだ。

 横峯が言う。

『蓋を開けてみてください』

 前面のハンドルを回してロックを解除し、ドアを開く。円形の挿入口を見せながら言った。

「これで密封するんですか?」

『予想より爆発力が強いと、密封するのはかえって危険です。破片が高速で飛び散りますから。むしろ、蓋を開けたままで爆発力を一定方向へ逃がしたほうがいい。背面を壁に密着させて、その中に爆弾を入れてください。爆風を部屋の奥に向けて噴射させるように。あなたは壁の同じ側で、なるべく離れて身を隠してください。万一破片が飛んでも当たらないように、身を守ってください』

 理論的で迷いのない指示は、人を安心させる。横峯もまた、プロなのだ。

 オートクレーブを教授室へ入るドアの左側、外壁との角に置いた。遺体のダイナマイトからは最も離れた位置だ。

 時間を見た。残り、2分42秒。だが、爆発したらここに隠されているはずのナンバーは消えてしまう。

「爆弾の中の装置、触っても大丈夫でしょうか?」

 横峯が困惑する。

『おそらく……。手がかりを探すためですか? ですが、爆発しないという保証はありませんよ』

 私はうなずいた。

「では、オートクレーブの中で作業します。爆弾を袋から出します」

 そこで爆発すれば、たぶん私は死ぬ。少なくとも、両手は失うだろう。

 それでも、他人には危害は及ばない。

 私はポリエチレン袋に封をしたゴムを外そうとした。厳重に縛りすぎた。ラテックスの手袋が邪魔だ。焦って、うまく外せない。手袋を剥ぎ取った。

 時間ばかりが過ぎる。

 残り時間が2分を切る。

 メスを取って袋を切り裂く。 

 小さな爆弾を両手でつかんで、床に這う。爆弾を、オートクレーブの中に差し入れる。中は、暗い。それでも、この体勢で隠されたナンバーを探すしかないのだ。

 ケースの中をじっと観察する。

 左側半分は爆薬。残り半分にタイマーと電池らしい塊が入っている。それらをつなげた配線を外せば、爆発はしないのではないか……?

 だが、さっきは配線を外すことでブザーが鳴った。こんな小さな装置にも、ブービートラップは仕掛けられるのかもしれない。横峯が言う通り、安全に爆発させて処理したほうが確実性は高いだろう。

 蓋の裏側には何も書いていない。爆薬らしき部分に触れる。少し横に力を加えてみる。動かない。ケースに接着されているようだ。無理に剥がすのは危険だろう。タイマーも小さな電池も、少しの力では動かない。やはり接着されている。

 ならば、ナンバーはどこだ?

 他のどこに隠せる?

 やはり、無理にでも部品を剥がすしかないのか?

 それで爆発したら、解剖を続けられなくなるかもしれない……。

 焦りが高まる。息が苦しい。

 残り時間、1分24秒。

 どうする⁉

 と、爆薬に貼ってあるラベルに目が止まった。分厚い。いや、紙を二つ折りにしているんだ!

 ラベルの角を爪の先で剥がそうとした。普段から爪を短く整えているので、なかなか引っかからない。焦れば焦るほど、思い通りに指が動かない。しっかり接着してあるが、何度も引っ掻いてようやく紙の角が浮いた。

 爪で挟んで、持ち上げる。ポストイット程度の接着力らしく、剥がれ始めると簡単だった。

 その下に、番号があった。予測は当たった。

 だが……。

 嘘だろう……。

〈090〉

 こんな番号なら、簡単に推測できる。私が欲しいのは4桁だ!

 しかし、文句を言っても始まらない。今の私は操り人形だ。犯人の手のひらで踊り続けるしかないのだ。

 爆弾をオートクレーブの奥に押し込み、立ち上がって背を伸ばした。

 残り時間0分11秒。

 ガラスの向こうの東海林と目が合う。

「番号は090」

 東海林が軽く唇を噛むのが分かった。

 私は周囲を見渡した。破片から身を守るものはないか?

 手近にあったのは解剖器具を整理するためのアルミ製のバットだ。大きさも厚さも全く頼りにならない。だが、頭部を守る盾にはできる。

 運が良ければ、ではあるが……。

 バットを取り、廊下側の部屋の隅にしゃがんで体を丸めた。頭を、バットでガードする。固く目を瞑る。

 犯人は、その無様さを見て腹を抱えて笑っているだろう。

 あと何秒だ――?

 スピーカーから、横峯の声がした。

『5……4……3……2……1……』

 さらに体を丸めて、バットを握りしめた。

 頼む、ダミーであってくれ……。

 そして、爆発音がした。

 本物だ!

 だがそれは、思っていたよりはるかに小さな音だった。

 目を開く。

 部屋の様子は、何も変わっていない。蓋が開いたオートクレーブの奥から、かすかな白煙が上がっているだけだ。爆発はしたものの、単なる脅しでしかなかったようだ。

 私はオートクレーブに歩み寄り、中から爆弾の残骸を取り出した。爆薬だと思っていた場所に、穴が空いていた。穴の周囲は焦げている。立ち上がって、それをガラスの向こうの横峯に見せる。

 横峯がうなずく。

『おそらく、爆竹のようなものを粘土に埋め込んでいたんでしょう。威力から見ればおもちゃ並みですが、仕掛けは完璧でした。本当にC4なら、解剖が続けられなかったかもしれません。掃除にも半日ぐらいかかったかも……』

 私は、改めて長い溜息をもらした。

 命拾いしたと喜ぶべきか、またしても笑い者にされたと憤慨するべきか……。

 どちらにしても、時間は容赦なく過ぎていく。なのに、まだ決着には程遠い。一刻も早く残りの数字を探し出さなければ雅美が助け出せない。

 と、耳の中に東海林の声がした。

『教授、犯人に気づかれないように、黙って聞いていてください。あなたが見つけてくださった証拠のおかげで、捜査が急速に進んでいます』

 私は教授室を見た。

 男たちの多くは私が手にした時限爆弾に注目している。ただ1人東海林だけが彼らから離れて背を向け、携帯を使っているフリをしていた。極秘にしておきたい内容を知らせたいようだ。

『我々は1年ほど前から、JOメディカルに対するハッキング攻撃を捜査していました。最近は目立ったハッキングは途絶えていたのですが、小野寺の失踪が引き起こしたこの事件が新たな攻撃である可能性を重視して、私がここに送り込まれることになりました。あなたの発見をもとに、JOメディカル内での小野寺と助手たちの記録を再検証しました。イスラエルのサイバー部隊から提供された新たな手法を用いて、医療データを一部分改ざんした痕跡を発見しました。巧妙に偽装されていたので今まで気づけませんでしたが、小野寺と第一助手――バラバラの焼死体で発見された間宮という医師のデータが書き換えられています。焼死体は、その歯形とDNA情報をもって助手だと断定されました。そのデータ自体が改ざんされていたということは、間宮本人は生きているということになります』

 ならば、その助手がこの異形の遺体を作り出したのだろう。

 疑問が解けた。

 なぜ小野寺の死体に小野寺が執刀したような手術痕が残されているのか……?

 それがずっと気になっていたのだ。

 助手が小野寺の手技を完璧に身につけて偽装したのなら、可能になる。だがそれは、助手のスキルも超一級の小野寺と同等だということだ。

 模倣とはいえ、並みの医師ができることではない。それだけの技能を持ちながら、なぜこのような犯罪行為に手を染めたのか……。

 背後には、私などの考えが及ばないような陰謀が横たわっているような気がする。

 JOメディカルのハッキングとやらも深く関係するのだろう。

 機密保護に厳格なはずの準国家機関のデータを改ざんするには、相当な技術力と資本力を持った組織が必要なはずだ。内部にも協力者がいるに違いない。

 それが1年も前からのことなら、小野寺の復讐などは取るに足らない意味しかなくなってしまう。

 小野寺もまた、利用されただけなのか……?

『ですが、捜査はまだここまでしか進んでいません。そこでお願いです。我々にもう少し時間を与えてください。奥様は心配でしょうが、解剖の時間を最大限まで引き延ばしていただきたいのです。ゆっくり、慎重に、焦らずに解剖を進めていただきたい。もちろん、犯人には悟らせずに。犯人の気が緩んでいる間に、逃げ道を封じたいのです。無論、同時進行で携帯番号の解析も進めています。今の条件だけでも、我々は犯人を追い詰めてみせます。警察の威信と国家機密を守らなければなりませんので、すでに組織の総力を結集した人海戦術を行っています。警察を信じて、協力していただけませんか』

 東海林は振り返って、私の目を見た。

 遺体に残る異物は、食道のダイナマイトだけだ。最後の携帯番号は、そこに隠されているはずなのだ。

 だがそれは、触れるのが最も危険な罠でもある。少なくとも、犯人は本物のダイナマイトを大量に所持している。ブザーやタイマー爆弾のトラップも、結果的に〝偽物〟だっただけで、仕掛けは完璧に働いていた。

 その2つを結びつけて考えれば、私を爆殺することは容易い。

 そこにどんな意味があるのかは分からない。犯人の目的など、知りようがない。私はJOメディカルを巡る企業犯罪に巻き込まれただけなのかもしれない。それでも、雅美の命が危険にさらされていることに変わりはない。

 助けなければならない。

 だが私が爆死してしまえば、その先はない。どのみち、作業は慎重にせざるを得ない。しかも、そうやって罠をかわして最後の番号を探り出せたとしても、それだけでは雅美は助からない。

 救出活動は、警察の捜査力と実力部隊がなければ不可能なのだ。雅美が捕らえられている場所にも、罠は仕掛けられているかもしれないのだから。

 結局は、どうしても警察の手を借りなければならない。

 一方で、犯人の足取りが警察の捜査でつかめれば、携帯番号がなくても雅美の居場所が見つかるかもしれない。ならば、今は彼らの能力に賭けるべきだ。警察に、雅美の命を委ねるしかない。

 私は、東海林の目を見て小さくうなずいた。

 東海林も、目礼を返す。

 これまで絶え間無く続いていた緊張が、ふっと軽くなるのを感じた。正直、無理を続けていた。雅美の命と爆発の危険を背負い、緊迫した状況の連続で神経を擦り減らしてきた。

 これで少しは休める。

 ほんの数時間でいい、緊張を解いて頭脳をリセットすれば、また闘える。雅美を救うために、ダイナマイトの罠に挑むことができる。充分とはいえなくとも、まだ時間は残っている。焦って致命的なミスを犯すより、はるかに正しい選択だ。

 これは、私にとってもチャンスだ。

 そう気を緩めた瞬間だった。

 心臓に衝撃を感じた。これまでにない激しい痛みが、稲妻のように走り抜ける。

 まずい! これは発作の前兆だ! 冠動脈の収縮が始まるのか⁉ わざと引き延ばすどころの騒ぎではない。このままだと、本当にメスを握れなくなる!

 雅美を救うどころか、私がここで死ぬかもしれない!

 さらに鋭い痛みが走る。

 思わず、手にしていたタイマー爆弾を落とす。不覚にも、体を丸めてしゃがみ込んでしまった。

 耳の中と天井スピーカーから、同時に声がする。

『大丈夫ですか⁉』

『先生! 発作ですか⁉』

 東海林にも、演技などではないことは分かったはずだ。

 心臓が、悲鳴をあげている……。

 目の前が霞む……。

 呼吸が苦しい……。

 声が聞こえる。花苗君の声だ。

『先生!』

 中継を見て、戻ってきたのか……あれほど、離れていろと言ったのに……。

 これ以上、心配をかけないでくれよ……。

 有田君が応える。

『ダメだ! ドアを開けたら病原体が――』

『そんなの嘘に決まってるでしょう! 薬を持っていかなくちゃ!』

 そうだ。合併症ならニトロが必要だ。まずは発作を抑えなくては……。

 拡張型心筋症による心不全そのものには、血管を広げる効果を持つニトログレセリンは役に立たない。だが私の場合、冠動脈収縮が合併する可能性が高いと診断されている。その時に備えて、症状や対処法は助手たちに詳しく知らせてある。

『それなら、僕が行く! 薬を! 僕が入ったら、また扉を密閉して!』

 ドアが開く気配があった。背中を支えられる……そして、口を開かれ舌下に薬品を2回スプレーされた……。

 心臓が、わずかに軽くなる……。

 深い呼吸ができるようになる……。

 かすんだ視界の中で、私を見下ろす有田君が言った。

「本当ならすぐ手術が必要かもしれませんが……。中継の画像からは外に出るなというのが警察の指示なんです……」

 私は、深呼吸しながら言った。

「いいんだ……分かってるから……。少し……楽になった……」

「横になれる場所を探します」

「君を巻き込んですまない……」

 有田君は穏やかに微笑んだ。

「僕の役目ですから。あとは、僕が解剖します」

 有田君は相変わらず、動揺を見せていない。大した男だ。本場のERでの経験はダテではない。

 私も彼のようにタフな医師になれればいいのだが……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る