12 【PM04:22 残り時間 2時間44分】
解剖室の隅には、首を落とされた小野寺の遺体を運んできたストレッチャーが残されていた。慌てて拭いたのか、首の切断面が乗っていた場所に僅かな血痕が残っていた。
小野寺の血だ。
有田君はそれを運んで、私を横にさせた。
まだ、体は言うことをきかない。解剖などできる状態ではない。
だが、犯人を刺激するわけにもいかない。今は抵抗を見せず、気を緩ませておかなければならない。
「有田君……だが解剖は、私1人でやらなければ……」
それが、犯人が決めたルールだ。変更はない。まだ、こちらから指示を破るのは危険すぎる。
有田君は言った。
「分かっています。警察からも手は出すなと言われています。私は、先生の薬を持ってきただけです。ですが……」
私はすでに、最後まで持ちこたえられるとは限らない状態に陥っている。それは、まぎれもない事実だ。私の持病も熟知し、経験豊富な臨床医でもある有田君には、隠したくても隠せない。
「その時は、あとを頼む。私がここで死ねば、犯人も君が解剖を続けることを拒まないだろう。妻を、頼んだ……」
有田君は、何も答えなかった。軽く、私の手に触れただけだ。
そして私の傍を離れ、解剖台へ向かう。
天井から園山の声がした。
『有田先生! あなたは解剖を禁じられているんですって!』
有田君がうなずく。
「分かっています。手は出しません」そして、犯人に語りかけるように天井のカメラを見上げた。「ですが、秋月教授は心臓が弱ってらっしゃる。もしも小野寺さんがこの中継を見ているのなら、ぜひ警察に連絡を取ってください。教授をこの部屋から解放して治療ができるように、許可をください。もう、復讐は充分でしょう? あなたが偉大な発見を成し遂げた医師だということは、全世界が知ることとなりました。もう教授を許してください。あとは私に引き継がせてください。連絡があるまでは、手は出しません。私はここで待機しています。ただし、これまでの秋月教授の仕事はじっくり観察させていただきます。いつでも交代できるように」
そう言って解剖台の遺体の腹腔を調べ始める。
そして、驚いたように私を見た。
腹腔に隠したiPhoneのことは知らなかったのだ。腹腔の奥にあるので、教授室からも見えない。
そして、もう一度iPhoneを見た。
私の耳の中で声がした。
『今、iPhoneにメッセージを送りました。〝これで犯人に気づかれないように連絡を取る〟と教えました』
と、有田君は私を見てかすかにうなずいた。遺体に目を戻して観察を続ける。
またもう1人、泥沼のような厄介事に突き落としてしまったようだ。もがけばもがくほど深みにはまっていく、最悪の事態に巻き込んでしまった……。
そう後悔しながらも、私は一方で冷静に状況を分析していた。
有田君は、天井のカメラを通じて小野寺に語りかけていた。私と小野寺の過去の経緯を充分に知っているわけだ。しかも、その知識を隠そうとはしていない。
警察から密かに教えられたのなら、小野寺の名は軽々しく口に出せないはずだ。有田君はそれほど軽率な男ではないし、隣の部屋で見ている警官たちにも慌てた様子はなかった。
それはつまり、〝小野寺が犯人だ〟という〝事実〟はもはや世界中の誰もが知っていることを意味する。
当然と言えば当然だ。解剖室はネット中継され、地上波テレビで告知まで行っている。前代未聞の劇場型犯罪がリアルタイムで発信されているというのに、マスコミが指をくわえて黙っているわけもない。
中継までされているのだから、私に遺体が送りつけられたことは公になっているはずだ。取材陣を総動員して私の過去を調べれば、小野寺との確執はすぐに判明する。
しかも、免疫を制御することで作り出された異形の遺体が公開されている。もはや小野寺の存在は隠しようもない。過激で凄惨な復讐劇が、面白おかしく放送されているのだろう。
そもそも小野寺が大学を放逐されたのは、マスコミが騒ぎ立てて作り上げた〝虚像〟が原因だったとも言える。10年前の事件は隅々まで知られている。その事件の発端となった小野寺と私の対立も隠し通せはしない。
テレビ屋にとっては、この上ない〝美味しいイベント〟だ。
私はここでも、〝まな板の鯉〟となって丸裸にされているのだ。過去に何人もの医師や科学者が、そうやってマスコミの餌食にされてきたように――。
研究成果の改ざんや補助金の不正受給などで、やり玉に挙げられた研究者に落ち度があったことも多いだろう。だが、単なる不可抗力や冤罪であっても――いや、常識に挑んだ末の避け難い失敗に過ぎなくても、いったんマスコミに目をつけられた〝獲物〟はとことん叩かれ、葬り去られる。
かつての、STAP細胞をめぐる一連の騒動がいい例だ。
事実がどうだったかを判断できる知識を私は持っていない。だが、渦中にあった本人の手記が発表され、世界各地からSTAP現象と酷似した研究成果が報告されたこともある。全ては日本のSTAP研究を潰すために仕組まれた陰謀だったと公言する識者も少なくない。
私は当初から、責を負うべきは研究者よりも組織の体質だと感じていた。
常識を覆すような発見には試行錯誤が付き物だし、前例のない実験には判断ミスや評価の不適切さも伴う。高額な研究費を捻出するためには、厳密にいえば不正に当たる会計操作が必要になることもある。ノーベル賞を受賞した実績を持つ教授自身が金策に奔走することを強いられているのが、日本のお寒い現状なのだ。
失敗を恐れれば、未知の世界には挑めない。だがマスコミは、単なるミスを〝研究者の売名行為〟のように囃し立てて視聴率や発行部数を稼ごうとする。そうして、真のフロンティアスピリットを摩滅させていく。
彼らは、科学が膨大な失敗の積み重ねの上に築かれるものだとは理解しようともせず、単にどれだけの税金が浪費されたかを非難する。非難することで、視聴者や読者に自分が〝正義の執行者〟であるかのような幻想を抱かせる。
反面、同じような失敗の末にノーベル賞受賞などの結果を導き出せば、手放しで称賛する。受賞理由がどんな内容かは気にも留めないし、理解しようともしない。称賛することで、自分が〝同格〟になったかのような幻想を抱かせる。
幻想を〝売る〟ことこそがマスコミの存在理由だ、とでも言わんばかりに。
警察でも、マスコミのそんな安易な風潮を抑えることは不可能だろう。
せめて今は、雅美が危機に陥っていることだけは報道しないでほしい。もし報道されることで危険が増えるなら、私は自分を許すことができなくなってしまう……。
だが有田君は、まだ小野寺が犯人だと信じている。核心的な事実はまだ外部に――いや、この場にいる関係者にさえ漏れていないという証左だ。
だとすれば、マスコミのセンセーショナルな報道は、逆に犯人の目をそらす煙幕にもなりうるわけだ。
そして、気づいた。
警察や東海林たち公安は、マスコミの〝習性〟を利用して犯人をミスリードしているのではないだろうか?
報道によって〝まだ事実は知られていないのだ〟と油断させ、裏をかこうと目論んでいるのではないか?
ならば、その作戦が成功する確率は高い。雅美が救われる希望も高まる。
せめて有田君には事実を伝えたいが……ネットで監視されている今の状態では困難だ。有田君がそう思い込んでいる方が、犯人を欺くにも都合がいい。
心苦しいが、今しばらくは事実を伏せておこう。私も、小野寺が生きているという前提で演技をしなくてはならない……。
しばらく遺体の体内を観察していた有田君が傍に戻る。小声で言った。
「モザイクの下って、とんでもないことになっていたんですね……。まるで、サイボーグだ……。数時間前まで息があったんでしょう? どんな技を使ったら、あんな離れ業が可能になるんだか……。しかも、他人の手足を移植するだなんて。何のためにあんなことを……?」
医師としては、卓越した技術に驚く。
人間としては、執刀者の無神経さに吐き気を催す。
「私への復讐だよ」
「だからって、こんな非人間的なご遺体を作って、しかも世界中を大騒ぎに巻き込むなんて……」
小声での会話程度なら、天井のマイクに拾われることもないだろう。それでも、犯人に聞かれていることを前提に話した方が東海林の意に適うに違いない。
「全てが目的にかなっている。自分を大学から排除した私を苦境に立たせて晒し者にする。リアルタイムで進行する劇場型犯罪で世間を騒がせて、注目を集める。その中で、己が完成させた業績を誇示する――小野寺が10年の歳月を費やして練り上げた計画なんだろう」
「でも、その先は? もはや小野寺さんは最悪の犯罪者に成り果てています。どんな偉業を打ち立てようと、医学界への復帰は望めません」
「それでも、小野寺の研究成果は活きる。おそらく、その遺体を作った時のデータはどこかに保存されているだろう。データが明らかになれば、医学界は激震に襲われる。免疫を自在にデザインする技術は世界を変える。君が言う通り、本当にサイボーグが作れる時代がやってくるだろう。小野寺自身は排除されても、天才が作り上げた技術は世界中から求められる。自分の命とともに朽ち果てるよりもはるかに望ましい……小野寺が考えそうなことだ」
有田君が重い溜息をつく。
「研究者の業……のようなものでしょうかね……」
私は、小野寺が生きているものとして話している。有田君を欺いている。世界中を欺いている。
申し訳ないとは思う。だが、これは雅美を助けるためでもある。
全てが終わったら、素直に謝ろう。
だが、話しながら気づいた。
確かにこの事件は、小野寺の偉業を医学界に知らしめる絶大な効果を持つ。だが、本人はすでにここで遺体になっている。他の誰がその手柄を主張しようが、もはや異を唱えられない。間宮という小野寺の助手は、その成果を奪い去った。
ならば間宮は、小野寺が作り上げた〝免疫制御技術〟を己の成果として独占することができるではないか。
しかも間宮自身は、自分の死を演出している。おそらく今は身分を偽り、別人として生きていることだろう。整形手術で外見も変えているかもしれない。
天才・小野寺の仕事を自分の業績にする――それが、この一連の事件の本当の目的なのかもしれないのだ……。
有田君が問う。
「先生、具合はどうですか? 復帰できそうですか?」
薬の効きが良かったのか、だいぶ楽にはなっている。無理をすれば、遺体の横に立てるだろう。
耳の中に東海林の声がした。
『秋月先生、ご心配でしょうがここはしばらく時間を引き延ばしていただけませんか? 捜査は予想以上に進んでいます。決して後悔はさせません。お願いです。しばらく休憩を取ってください』
気持ちは焦っている。だが、無理がミスを招くことは間違いない。私はすでに、無理を続けている。失敗も繰り返している。体はもちろん、神経も張りつめたままでは集中力を維持するにも限界がある。
次の異物はダイナマイトだ。そこでミスを犯せば、致命的になるだろう。闇雲に突き進むには、私の体調は悪すぎる……。
私は1人で闘っているわけではない。今しばらくは、東海林に重荷を委ねてもいいだろう。
休みたい……。休むべきだ……。
再び闘い続けるために……。
有田君に言った。
「悔しいが、まだ無理そうだ……休憩が必要だ。1時間ほど、仮眠したい。時間になったら起こしてもらえるか?」
正直な気持ちだ。仮眠をとれば、もう一度集中力を高めて罠に挑む自信はある。
と、解剖台の脇のワゴンに目が止まった。
病原体が封入されている可能性があるケースが、消えていた。私の視線を追った有田君が言った。
「あの検体は、ラボに回しました。しっかり分析しておかないと危険が残りますので」
いつの間に……? 私はそれほどぼんやりしていたのか?
だが、うかつに検体を外に出すほうが危険だろう。なのに、勝手に判断したのか? 医師の決断としては、決して褒められない。
「だが、バイオハザードのリスクは冒せない……」
言ってはみたが、もう手遅れだ。ただの脅しであることを期待するしかない。
有田君は、事の重大さを理解していないようだ。
「先生が封をしたじゃないですか。しかも、ご遺体に仕掛けられた罠はフェイクばかりです。どうせ、僕が入るのにドアを開けちゃいましたしね。ちゃんと調べて安全を確認をしないと、この先の解剖もやりにくいでしょう?」
現実的には、その通りかもしれない。だが私が一番心配しているのは、大学が医学界からどう見られるか、だ。非難される余地は残したくないのだ。有田君は、そこまで考えが及ばなかったのだろうか……。
教授室を見た。
花苗君がじっとこちらを見ている。花苗君には有田君の心配までさせることになってしまったようだ。まったく、事態はどこまで悪化していくのだろうか……。
と、耳の中に声が入った。
『捜査にさらに進展がありました。ヘルプボックス――例のNPOですが、背後で中国マフィアが絡んでいることが確認できました。構成員の1人を捕らえ、本庁の4課が聴取しています。殺人を請け負ったり臓器を密売していることは認めました。その死体のパーツを扱ったかどうかを追求しているところです。手足の送り先が分かれば、秘密の研究室の場所も割り出せるかもしれません。また、進捗状況をお知らせします』
東海林は全力を尽くしている。その成果は、私が期待した以上だ。
今までは遺体から携帯番号を探し出さなければ雅美は救えないと思っていた。だから焦り、心臓に負担をかけた。だが、NPOの線から研究室にたどり着けるなら、仮に私が失敗しても雅美は助かる可能性がある。
可能性があるだけで、私は安心できる。しかもその可能性は決して低くはないはずだ。
小野寺の胴体に他人の手足をつなげるには、四肢の組織が〝生きている〟うちに手術しなければならない。時間を置かずに運ぶ必要がある。手足を調達したのが犯罪集団なら、手術の準備が整ってからドナーを殺し、切断したのかもしれない。あるいは、研究室そのもので切断手術を実行したか……。
そんな異常な犯罪は考えたくもないが、中国マフィアなら鼻歌交じりでやってのけるだろう。
つまり、マフィアと研究室は直結している。マフィアが犯罪を認めれば、事件は一気に解決するかもしれない。
と、天井から花苗君の声がした。
『先生、バイオハザードマークがあった検体は無害だと確認されました。単なる小麦粉です。細菌やウイルスなどの病原体はまったく付着していませんでした。これから、先生の治療用の機材をそちらに運びます。近くには田渕教授にも待機してもらいます』
田渕先輩は私をバチスタ手術に追い込もうと手ぐすね引いている。だが、彼がいてくれれば安心だ。心臓血管外科では日本で五指に入る名医なのだ。
そうはいっても、解剖室の中で診察してもらうのは無理だろう。病原体の危険は去ったが、信管が刺さったダイナマイトはまだ目の前にある。迂闊に近寄るのは危ない。
何があろうと、この大学は田渕先輩を失うわけにはいかない。どんなに小さな危険性であろうと、無視はできない。
教授室のドアが開く。ストレッチャーに横になったまま、顔を巡らせる。
花苗君があれこれ機材を持ち込んで来た。ワゴンの上には大型の除細動器まで乗っている。心臓がけいれんして血液を流すポンプ機能を失ったら、電気ショックを与えて正常な拍動を取り戻すための装置だ。
思わず声を出した。
「おいおい、私の心臓を止めるつもりか……?」
花苗君が傍に立ち、私の手にそっと触れた。
「心臓が止まったら、叩き起こすんです。絶対に無事に奥さんに会ってもらいますから。軽い鎮静剤、射ちますね。心電図も取らせていただきます」
注射をしながら、花苗君は泣きそうな目で私を見ていた。
「ありがとう……だが準備を終えたら、向こうで待機していなさい。解剖の再開はまだ先だが、ダイナマイトがいつ爆発するか分からないんだから」
「はい。でも、先生の様子が悪化したら、すぐ戻ります」
花苗君は、私のスクラブスーツをたくし上げて両胸と脇腹に心電図用の電極を貼り付けた。電極につながった装置が、データをナースステーションに無線送信するのだ。
花苗君はもう一度私を見つめ、去って行った。
代わって、有田君が傍に戻る。
「有田君、君もあっちへ。大橋さんを見守っていてほしい。無茶をしないように」
「分かりました。時間になったら、起こしに来ます」
そしてまた、私は1人になった。
……いや、小野寺と2人だな。
小野寺は、おそらく今朝まで生きていた。自分が育てた助手の手で身体を切り開かれ、起爆装置や無数の罠を仕込まれ、他人の手足をつなげられ――それでも生き続けていた。
意識はあったのだろうか?
自分が何をされているのか、理解していたのだろうか?
そもそも、小野寺はなぜこんな遺体にされてしまったのか……?
あるいはそれを、彼自身が望んだのか……?
それとも、産業スパイ組織のようなものに利用されていただけの被害者なのか……?
こんな姿で私の前に現れることを知っていたのだろうか……?
そんなことを考えながら、私は眠りに落ちた……。
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