10 【PM02:41  残り時間 4時間19分】

「病原体が封入されているかもしれない」

 声が震えていた。

 いや、震えているのは足も、だ。

 確認できるのは、マークだけだ。中身が本当に病原体かなど分かりはしない。たとえそうでも、細菌なら袋で遮断できる。だが、ウイルスなら?

 圧倒的にサイズが小さい病原体なら、封の隙間から漏れ出ることもありうる。袋に詰める前に、異物をビニールから出してしまった。その際にウイルスが拡散した可能性もあるのだ。

 私は直ちに新しい袋を取り出し、異物が入っていたビニールを中に入れてゴムバンドで封をした。本当に有害ウイルスが封入されていたなら、手遅れだろう。だが、無駄と分かっていても何の対策も講じないわけにはいかない。

 小野寺といえども、致死性があるようなウイルスを仕込むことはできないと願うしかない。

 花苗君の声がした。

『先生、その袋、こちらで預かります。ラボで分析してもらいます』

 危険な病原体である可能性は限りなく低いとも思う。それでも、この部屋の外に出すのはまずい。万が一にも大学がパンデミックの発生源になれば、取り返しがつかない。

 少なくとも、袋の処理工程はライブ中継で世界中に知られている。大学の対応に落ち度がないかも、同業者から注視されているということだ。

 これも小野寺の計算のうちだろう。

 不祥事を避けたい大学側は最悪の状況に備えて、過度に厳重な対応策を実施せざるを得ない。その手間が時間を浪費させ、解剖を遅らせる。

 たった1つのハザードシンボルが、私から貴重な時間を容赦なく奪っていく……。

 ダミーだとしか考えられなくても、医師としては無視できないのだ。

 私は言った。

「分析は、解剖が済んでからだ。まず、この部屋を密閉する。廊下側のドアと、教授室に通じるドアをロックするように。学内規定のハザードマニュアルのレベル5仕様に従って、換気も完全に止める」

 それは、最恐の病原体を想定して組まれた対策だった。

 そもそもこの部屋は、全体が病理解剖時の感染を防止するバイオハザード対策室として設計されている。解剖台上で発生するエアロゾルは、天井面からの低風速で抑え込まれて外側に拡散しない。その風の流れは解剖台の縁から吸い込まれ、排気される。解剖台の下部には滅菌液槽が設けられていて、落下物も収容できる。

 当然、室内は陰圧に維持されて空気を解剖室から漏らさない。解剖台周囲からの排気はもちろん、解剖室全体の排気もヘパフィルターでろ過し、無菌空気として排気される。

 例えば相手がコロナウイルスなどなら、対策はそれで充分だろう。だが、未知のウイルスならフィルターをすり抜ける危険性も考慮せざるを得ない。

 少なくとも、考慮しているという事実を〝対外的〟に見せておかなければ、後々対策を怠ったことを非難される恐れが残る。大学の生き残りは厳しい。〝商売敵〟に誹謗されるような隙を見せるわけにはいかないのだ。

『それじゃ、いずれ酸素がなくなっちゃいます!』

「解剖が終わるまでは保つだろう。ここには予備の酸素ボンベも配置されている。解剖終了後は充分に時間をかけて万全の気密対策を施した上で検体を精査する」

『先生……でも、心臓が――』

 あえて笑顔を作った。

「なに、どうせこのマークはただの脅しだよ。小野寺が考えそうなことは大体分かる。私は何も心配していないから」

 言いながら、笑顔が引きつっているのを感じる。花苗君も、声の緊張に気づいているはずだ。

『ですけど……』

 だが花苗君は、危険から遠ざけなければならない。

「大橋さん、有田君と交代しなさい。検体分析の準備を進めておいてください」

『ここで画像分析を手伝います』

 もはや、引き下がることはできない。

「だめだ。君の出番はもうない。今は人体よりも爆発物に詳しい人間が必要だ。それと、私のバックアップだ。万一私が倒れた場合は、有田君に後を引き継がせる。感染予防のバリアスーツを用意させておくように」

『ですが――』

「大橋! これは教授命令だ! 従えないなら処分するぞ!」

 私は、誰に対してもそんな高圧的な命令をしたことはない。その意味を、理解してほしい。

 花苗君はしばらく私を見つめてから、仕方なさそうにうなずいた。涙をこらえているようにも見える。

『……分かりました』

 私の気持ちを汲んでくれたようだ。

 花苗君はそれ以上何も言わずに廊下へ出て行った。

 園山が問う。

『そんなに危険なんでしょうか……?』

 私にも分からない。

「小野寺が毒性の強い病原体を手に入れられるなら、危険だと言えます。ですが、99%はただの脅かしでしょう。下手に病原体を扱えば、自分の命も危なくなりますからね。しかも、体内に仕込んでから2ヶ月程度は経っているはずです。密閉された病原体がそれほど長時間安定しているとも思えません。仮に本当に病原体を仕込んでいたとしても、解剖を邪魔するのが目的なら、即効性が高くて致死性はないものを選ぶはずです」

『そういうものですか……』

 正直、今の小野寺が考えていることなど分からない。自分に、そう言い聞かせているに過ぎない。

 少なくとも、小野寺は病原となりうる細菌やウイルスに近づける立場にあった。JOメディカルでは感染症の治療も研究していたはずだ。研究するには病原体が必要だからだ。そこに病原体が存在していたなら、小野寺が手に入れられる可能性はある。

 まさか、日本は炭疽菌や天然痘ウイルスの生物兵器化などはしていないだろうが、今となってはそれすら100%否定する自信は持てない。

 まずい……こうして疑心暗鬼を煽り立てることで、小野寺は私の動揺を増幅させようとしている。

 落ち着かなくではダメだ。これでは小野寺の思うがままだ。バイオハザードなど、ただの脅しに過ぎない。

 冷静に、目の前の事象だけに集中するんだ!

 とりあえず、最悪の場合でも花苗君には危険が及ばない。

 私は東海林を見て声を出さずに言った。

〝JOメディカルで盗まれた病原体がないか確認してほしい〟

 耳の中に東海林のささやき声がする。

『すでに手配しました』

 東海林の動きは素早い。それでなんらかの確証が得られるという保証はないが、必要な捜査は確実に進められている。

 今は、それ以上は望めない。    

 先に進もう。私は震える声を絞り出した。

「では、ケースの奥を調べる」

 ポリエチレン袋の中の異物を動かして、中の粉末を外に落としていく。やはりケースの底に、文字があった。

「4桁の数字が書いてある。4729。書いてあるのはそれだけだ」

 私はこちらを見つめている東海林に向かって〝言った〟。

〝携帯電話の番号か?〟

 最初の暗号は〈000―0000―0000〉だった。0が何かの数字の代わりだとするなら、最初に思いつく形式は携帯番号だ。〈4729〉は番号の中間か最後に当てはまるのだろう。

 最初は〈080〉か〈090〉〈070〉、あるいは〈050〉だ。4種類に限定されれば、絞り込める確率ははるかに高まる。

 東海林が天井スピーカーのスイッチを切ったようだ。耳のマイクに声がする。

『おそらくそうでしょう。素直に受け止めるなら、奥さんの監禁場所にその携帯が置いてあるのだと考えられます。ミスリードの可能性もありますから断定はできませんが、全力で調査を進めます』

 調査を進める?

 公安が、か?

 園山に目をやると、ただぼんやりとこちらを見返しているばかりだ。先ほどまでは部屋の奥で慌ただしく連絡を取っていた槇原も、手持ち無沙汰気味にこちらを見ている。

 そういえば、病原体の捜査も東海林が手配したような口ぶりだった。いつの間にか、調査の主導権は完全に公安に移っている。

 なぜだ?

〝公安が捜査を仕切ることになったんですか?〟

『実は我々は、以前からJOメディカルの情報管理に協力してきたのです。その関係で特に小野寺の失踪には関心を持ってきました。しかも1週間ほど前に、彼の助手が殺されていたという事実が判明しました。ですので今は、事実上公安の指揮の下に捜査が進められています』

〝以前から小野寺が見張られていたってことでしょうか……?〟

 意外な展開だった。

『小野寺が機密漏えい防止上の規定の一端に触れ、継続監視の対象になっていたということです。しかし、これほど注目を浴びる事件を起こすとは予測できませんでした。私の管理ミスですが、もはや警察の威信をかけて解決しなければならない最優先事案になりました。あなたには、全警察組織が味方に付いています。奥さんのことは私たちに任せて、解剖に集中してください』

 心強い言葉ではある。

 私は小さくうなずいて見せた。ポリエチレン袋に入った〝謎の粉〟とそのケースを包んでいたビニールを、臓器を収容する密閉容器に入れてワゴンの下段にしまった。

 解剖を再開する。

 第3の異物の摘出だ。

 4色の配線コードで包まれた右肺を、じっくりと観察していく。配線の接続先を確認しながら、少しずつ持ち上げていく。3個目の異物が見える。異物の四隅に通されたコードには、結び目も見える。

 やはり異物は、背中側に固定されている。

 息を殺しながら肺を持ち上げ、異物を固定するコードを切っていく……。

 1ヶ所……2ヶ所……さらにわずかに肺を持ち上げ、3ヶ所目……。4ヶ所を切って異物をゆっくり引き出し、再びワゴンに取り出す。

 異物を包んだビニールに、今度も切断したコードが一本引っかかっていた。中を確認する前に、背筋を伸ばして何度も深呼吸を繰り返す。

 全身がこわばっている。気づかない間に前かがみになって、身体中の筋肉を不自然に緊張させていたのだ……。

 酸素マスクを当てているのに、呼吸が少し苦しい。心臓に感じていたモヤモヤとした異物感が、どんどん強く、鮮明になっていく。もはや心臓を軽く握られているのに近い痛みだ。 

 まずいな……強いストレスがかかったときに起きる、あれだ。元々心臓は良くない。あまりに長い時間緊張が続いているので、とうとう悲鳴を上げ始めたのようだ……。

 と、スピーカーから声がした。

『秋月教授、有田です。大橋さんと交代しました。心臓、大丈夫ですか? バリアスーツは用意してきました。私が変わりましょうか?』

 今までの作業をガラス越しにじっと観察していたのだろう。私がどれだけ緊張しているかも分かったはずだ。なのに、自発的に交代を申し出ている。

 3ヶ月間も一緒に働いていたが、気づかなかった。有田君は危機に際しては肝が据わった男のようだ。

 さすが、本場のERで鍛えられただけのことはある。

 私は言った。

「まだ大丈夫だ。万一私が倒れたら、交代してくれ」

『覚悟はしています。これも、僕の仕事ですから』

 元はといえば、私が小野寺を告発したから起きた事件だ。無関係な有田君にそんなことを言わせるのは心苦しい。

「君を巻き込んですまない。大橋さんと変わってくれたことを感謝する」

『望むところです。彼女、僕にとっても大事な人ですから。ですが……』

 有田君が口ごもった。

「なんだ?」

『大橋さんに何かあったんですか? 泣いているように見えたんですが……』

 正直に言って、花苗君が何を考えていたのかはわからない。だが私が花苗君の気持ちを踏みにじったことは確かなようだ。

 当然、口には出せない。

「現場を外されたことが悔しかったんだろう」

『彼女、気が強いですからね』

 と、テレビのニュースに新しい情報が入ったようだ。有田君をはじめ、刑事たちが画面に集まる。私からも小さな画面が見えるが、声は聞こえないので何が報道されているかは分からない。ただ、アナウンサーの表情や身振りから緊迫感が伝わってくるだけだ。

 彼らが話しているのは、おそらく私の行っている解剖のことだろう。世界の注目が、目の前の異形の遺体に釘付けになっているのかもしれない。

 東海林だけは、私を真正面から見つめている。そして、ネットが会話を拾わないように、一時的にスピーカーのスイッチを切ったようだ。

 耳のイヤホンが言った。

『現場から連絡が入りました。その死体の右腕の指紋が、外国人犯罪者のものだと判明しました。警察のデータベースと一致したんです。今まで彼の痕跡を追っていたそうです。麻薬がらみで逮捕した黒人ですが、時たま末端の売人をするようなのであえて監視をつけて泳がせていたということです。逮捕は、5ヶ月ほど前のことです。最近は売人としても使われることがなく、ホームレス同然の暮らしをしていましたが、中毒で死亡して無縁仏として焼かれていました。遺骨の簡易DNA検査でも本人と確認できました。病院や葬儀を手配していたのが、ホームレスをサポートする「ヘルプボックス」と名乗るNPOです。そのNPOや火葬した斎場が、他のドナーの獲得にも関係している可能性が出てきたそうです。いま、背後関係を調べています。どうやら、裏で中国人マフィアなどの組織が蠢いている痕跡があるということです』

 なるほど、そんな物騒な連中が協力しているなら、四肢の提供者も集められるかもしれない。

 とはいっても、それは正体を隠して死体を漁るような犯罪組織ではないか。マフィアと呼べるような物騒な連中なら、殺人さえ犯すかもしれない。というより、殺人の方が本来の目的で、臓器売買は副業だという可能性すらある。

 一介の研究者でしかなかった小野寺が、どうしてそんな組織と関わりを持てたのか……?

 持てたとしても、犯罪組織から四肢を得るためには大金を要求されるだろう。そんな金をどこから調達できたのか……?

 しかし、小野寺はもう私が知っている小野寺ではない。捜査は警察に任せるしかない。実際に警察は、期待した以上の成果を上げてくれている。

 私の今の仕事は、罠の中から次の番号を探し出すことだ。

 ワゴンの上の異物をじっと見つめた。

 見た目はこれまでの物と変わりない。だが、中身はX線でも透過できない。何が入っているのか……?

 遺体の喉元にはダイナマイト。最初の罠は、セボフレンとモルヒネ。次はバイオハザード……。なぜか、同じ種類の罠は使わないような気がする。ならば、この罠は一体何か……。

 と、異物の角に引っかかっていたコードが目に入った。

 その瞬間、まさに心臓が止まりそうな衝撃を受けた。

 思わず小さく叫んでしまった。

「あ!」

 まさか……。

 耳の中に、東海林の声がする。

『どうしましたか⁉』

 言葉に出しそうになって、慌てて声を呑み込んだ。園山の注意を思い出したのだ。

――手の内は些細なことでも明かさないように――

 これは、ネットに載せてはならない情報かもしれない。

 だが、そんなことがあり得るのか……?

 その〝事実〟に気づいた瞬間、すべてが変わった。

 私は、間違っていた。今の今まで、根底から騙されていたんだ……。

 東海林を見て〝言った〟。

〝結び目が違う……〟

『むすひめ……ですか?』

 東海林が目を細めてわずかに首をかしげる。唇を読み違えたと思ったらしい。

〝これは、男結びだ。だが、さっきのケース……病原菌のケースの結び目は、女結びだった〟

 間違いない。だから、違和感を感じたのだ。おかしいのはケースではなかった。それを固定していたコードの結び方だったのだ。

 これが手術用の糸を使っていたら、結び目が小さすぎて気づかなかったかもしれない。だが配線用のコードは、細いといってもモノフィラメントよりは太い。結び目も目視しやすい。

 そして、2つの結び目を比べれば、違いははっきり分かる。

 少なくとも、私の目には……。

『だから、どういうことですか?』

〝小野寺なら、絶対に女結びはしない〟

 その意味が、東海林にも理解できたようだ。

『つまり……その死体を手術したのは、小野寺ではないと?』

 その通りだ。

 だが、問題はさらに先にある。

 小野寺以外に、こんな手術ができるはずがないのだ。免疫反応を抑えながら5種類もの体を結合させて生きながらえさせる技など、今まで世界中の誰一人完成させていない。しかも小野寺は、私への復讐のために手術をするというビデオまで残している……。

 だとすれば、可能性は1つしかない。

〝助手です。小野寺の技を習得した助手の誰かが、小野寺が手術したように見せかけたんです〟

 しかし、手術当初はうっかりしていたのか、小野寺が女結びを嫌っていることに思い至らなかった。偽装に心を砕く余裕がなかったのかもしれない。その後、慣れるに従って小野寺の手術スタイルを再現することができるようになったのだろう――。

 だが助手が執刀したなら、小野寺本人は手術中に何をしていたのだ?

 この免疫制御法は、小野寺が〝犯罪者〟の汚名を着て全てを失うリスクを覚悟しながら生み出したものだ。己の正しさを実証するための手術なら、必ず小野寺自身が執刀する。几帳面すぎる小野寺が、他人に手術を任せるはずがない。

 何よりも助手の手技を小野寺が認めたのなら、わざわざ術者を偽装する必要などないではないか――

 そこまで考えた私は、不意に恐るべき現実に突き当たった。

 まさか……。

 そんな、恐ろしいことが……?

 確かめるしかない。でも、どうやって……?

 ある! 方法は、ある!

 同時に、もうひとつの直感が湧きがった。

 私が〝それ〟に気づいたことは隠さなければ! 

 中継で〝監視〟している何者か――この遺体を作り上げた犯人に知らせることは、絶対にまずい!

 私はあえて声に出した。

「接合された四肢の外見を、もう一度調べてみる。何か、死体やドナーの身元を示すの特徴が見つかるかもしれない……」

 監視者に聞かせるためだ。

 私は黒い右腕を持ち上げるようにしながら、その付け根を観察した。調べたかったのが、背中に近い胴体の脇腹だ。

 探していた傷は、あるべき場所にあった。年月によって目立たなくはなっていたが、メスで深く切り込んだ小さな傷――。

 私に襲い掛かった小野寺が警備員に腕をねじり挙げられて、自ら突き刺した痕だ。

 この遺体の胴体は、小野寺だ。

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