8 【PM00:37  残り時間 6時間23分】

 解剖室内は充分に換気され、もはやセボフレンの心配はないはずだった。しかし、他の臓器に同様の〝罠〟が仕掛けられていないとは言い切れない。次の罠が命に関わる毒物である可能性もある。

 私は移動用カートに乗せた小型酸素ボンベと鼻を覆う酸素マスクを持って解剖室に入った。酸素マスクをつけて、ボンベのバルブを開く。防水のビニール袋に入れられたiPhoneを遺体の体内――ヘソの上あたりに押し込む。

 ここなら異物の摘出の邪魔にならないし、モニターも見られる。確実にモザイクがかかる場所でもある。

 そして言った。

「中継はいつから始めるんだ?」

 ガラスの向こうで話し合っていた園山がこちらを向いて答えた。

『約5分後の予定です』

「始めていいかな? 時間がもったいない」

 やはり、焦る。すでに2時間も無駄にしている。

『構いません。中継開始前にお知らせします』

 私はうなずき、遺体に向かった。

 冷蔵庫のドアのように開いていた胸の皮膚を、完全に切り取って取り除いた。それも、犯人からの指示だった。ネット中継の画面に、四肢を完全に写し込むためだろう。己の仕事を余さず見せつけ、誇示したいのだ。

 遺体には申し訳ない気がするが、私もその方が作業が楽だ。遺体の左右どちらからでも手が入れられるし、開いた皮膚が邪魔になることもない。内臓も、扱いやすくなる。

 胃への切り込みはまだ大きくない。セボフレンのさらなる噴出を一応警戒しながら、メスで切り込みを広げる。すでに麻酔薬は完全に気化した後のようだ。切り口を開いた。

 胃の中に内容物は入っていなかった。少なくとも死の数日前からは固形物は摂取していないようだ。胃瘻造設もないので、少なくともここ数日の栄養補給は点滴だけで行っていたのだろう。麻酔薬はもう警戒しなくてもいいだろう。

 私は酸素マスクを外してバルブを閉じた。今は遺体の観察の邪魔になる。だが、またいつ必要になるか分からない。

 胃を取り巻いた細い配線に無理な力をかけないように注意しながら、さらに切り口を広げていく。胃の上部、噴門の近くに〝それ〟はあった。

 形と大きさは、やはりミントタブレットのケースに似ている。黒っぽい金属製のピルケースだろう。顔を近づけて、ペンライトで照らしながら覗き込む。

 見たところ、分厚い透明なビニール袋のようなもので包まれている。ビニールはケースの上下で厳重にシールされ、完全防水になっているようだ。

 シールの外側に余白があって、四隅に穴が開いている。穴には配線コードが通されて、結び目が見えている。コードの両端は胃壁の中に消えている。ケースがコードで胃壁の内側に固定されているのだ。

 生きている間に胃に穴をあけると、胃酸が内蔵を溶かして致命的な事態に陥る。コードを胃壁に貫通させながら胃酸が漏れないように塞ぐ技術も、私は知らない。つまりコードは、1センチ弱の胃壁の厚みを利用してその中間を通され、貫通はしていないと考えていいだろう。

 4層になっている胃壁の中で、粘膜層、粘膜下層、筋層までは通せるかもしれないが、一番外側の漿膜は絶対に傷つけられない。相当熟練した手技が必要になるが、小野寺なら不可能ではないはずだ。

 ケースを取り出すには、コードを切らなければならない。結び目が見えているのだから、切断しても構わないとは思うが……。

 さっきは胃が膨らんでいる原因を深く考えずに、麻酔液を浴びてしまった。コードを切って構わないからといって安易に異物を取り出せば、また何かのトラップを踏んでしまうかもしれない。

 こうしてあれこれ考え込ませて時間を浪費させるために、ケースの固定にはモノフィラメント糸ではなく配線コードを使ったのだろう。残念だが、その意図は的中している。そこにコードがあるだけで、私は迂闊にハサミを入れることができなくなっている。

 私は尋ねた。

「大橋さん、レントゲンにこの異物の裏側は写っているかな? 何か仕掛けのようなものがないだろうか?」

 少し遅れて、返事が返る。

『さっきから調べているんですが……異物自体がX線の透過を妨げているらしくて、邪魔になってよく見えないんです……いろいろデータを調整してみてるんですけど……』

 花苗君でさえ判別がつかないなら、止むをえない。だが、運任せで切るわけにもいかない。私が爆死すれば、雅美も死ぬ。

 ならば、目視が必要だ。異物を外す前に胃壁の裏側は確認しなくてはならない。

 胃を取り囲んだ配線に不必要なテンションをかけないように気を使いながら、ゆっくりと回転させて奥を覗き込む……。指先に神経を集中させ、力加減の変化を感じ取ることに集中する……。

 息が詰まる作業だ。

 こんな悠長なことをしていれば、1つの作業に普段の数10倍の時間がかかってしまう。その分、神経も擦り減る。だが、やる他はない。ミスを犯さないように緊張を保ちながら、少しでも早く作業を進めていくしかないのだ……。

 やっと、異物の反対側を確認できた。異物を胃の内側につなぎ止めた全てのコードが胃壁の中だけで結ばれて、突き抜けてはいないことは確認できた。

 だが……やはり、あった……。ここにも何か小さな異物が潜んでいる。胃壁の外側に、何かがめり込んでいる。

 さらに胃をねじって奥を覗き込む……これは、何だろう……ボタン電池ほどの金属に塊のように見えるが……見ずらい……もう少し捻らなくては……

 と、指先の力がかすかに軽くなった。ピンと張っていた配線の一本が、緩む。

 まずい! 一端を引きちぎってしまったのか⁉

 そう思った瞬間、胃の裏側からピーっという電子音が鳴り響いた。トラップだ!

 私は叫んだ。

「爆発するぞ!」

 そして、床に伏せた。頭を抱える。

 またミスを犯してしまった!

 雅美を救えないのか⁉

 自分を責めながら固く目を瞑り、息を止め、爆発を覚悟した。

 そのまま、数分が過ぎる……。

 心臓が高鳴っている。胸が苦しい……まさか心臓病が原因で、このまま息絶えることはないだろうな? 爆発に怯えて心臓発作を起こすなど、小野寺を喜ばせるだけじゃないか!

 耐えるんだ……頼むから、雅美を救うまでは耐えてくれ……。

 さらに数分が過ぎる……。だがそれは私がそう感じただけで、実際には数10秒しか経っていなかったかもしれない。

――爆発は起きなかった。

 ブービートラップのようだ。

 私は胸の痛みをこらえながら体を起こして、再び遺体を覗き込んだ。電子音はまだ続いている。時限装置のスイッチを入れてしまったのか? それとも、ただの脅かしか……?

 たとえブービートラップでも、不用意に罠にかかったことは確かだ。これがダイナマイトにつながっていたなら、私はすでにこの世にいなかったかもしれない……。

 教授室を見た。ガラスの向こうで、男たちが体を起こすところだった。爆発に備えて伏せたのだろう。

 花苗君は、毅然と背筋を伸ばして私を見守っている。うろたえた様子がない。

 花苗君がゆったりとした口調で言った。

『先生、大丈夫ですか?』

 私は引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

「死んだと思ったよ」

 花苗君は穏やかに応える。

『死んじゃダメです。奥さんを救ってください』

「……その通りだ。だが、スイッチの1つを入れてしまった。これが時限装置とかにつながっている可能性は?」

『X線画像の解析はこちらで続けています。横峯さんの意見でも、時限装置のようなものは見当たりませんから安心してください。今のブザーは、時間稼ぎの脅かしだと思います』

 異物が透過できないのに、確信が持てるはずはない。それでも、退くわけにいかないことをみんなが了解している。

 花苗君の口調も自信に満ちていた。

 だが、怖いはずだ。自分が怯えれば前線に立っている私が能力を発揮できないことが分かっているから、恐怖と闘いながらそこに立ち続けているのだ。

 頼りになる助手だ。

 園山も床に伏せたのだろう。背広の胸のあたりの汚れを払いながら言った。

『もうすぐネット中継が始まります。今のが映されなくてよかった……』

 私も、無様な姿を世間に晒されずに済んだ。自分の愚かさが暴かれることには耐えられても、小野寺を喜ばせるのは我慢できない。雅美や多くの幼稚園児の命を脅かすという卑劣な人間に、屈するわけにはいかない。

 だが、ふと思った。

 小野寺は、そんなに悪辣な男だっただろうか……?

 常識から見れば〝異常〟な感覚の持ち主だったことは否定できない。マッド・サイエンティストだと否定する人間がいても、仕方がないと思う。

 だが少なくとも、私は裏切られたことがない。偏ってはいても彼なりの筋を通す〝フェア〟な人間だった。

 そんな男が、なぜこれほど残忍な行為に走ったのか……?

 小野寺の人間性が変わったとするなら、変えたのは私だ。大学から放逐されるという事件がなければ、悪魔に魂を売ることはなかったはずだ。

 責任の一端は、確かに私にある……。

 だがそれを考えるのは、後でいい。今は、小野寺の企みを打ち砕く時だ。それができなければ、雅美を救えない。

 解剖を再開しよう。

 再び胃の裏側を調べた。胃を取り巻いたコードの一本の先に、小さな電子装置が結び付けられてのが見えた。電子音はそこから聞こえてくる。多分、ブザーと電池を一体化した小型装置だ。

 『音が出る絵本』のような製品に組み込まれている汎用部品だろう。テンションがかかってピンのようなものが抜け、スイッチが入ったらしい。固定している糸を切って取り出し、神経をささくれ立たせる電子音が聞こえないように部屋の隅のゴミ箱に入れた。

 解剖台に戻って息を整え、再び腹腔に手を差し込む。

 もう、同じ間違いはしない。胃をゆっくりと回転させて奥を覗き込む……ボタン電池のような金属は、胃壁に食い込むようにして貼り付いていた。縫い付けられてはいないようだ。接着剤で止められているのか……?

 いや、違う。磁力だ。

 この金属は、おそらく強力な磁力を持っている。ネオジム磁石のようなものかもしれない。胃壁内部の異物の金属ケースと、引き合っている。だから、胃壁に食い込んでいるのだ。

 だとするなら、無理に外すのは危険だ。ケースの中に罠が仕込んであれば、磁力が消えることで起動する可能性がある。ケースの四隅を止めていたコードは、いわばダミーだったのかもしれない。コードを切断したことで気を緩めて異物を取り外せば、磁石が外れて罠が起動する――そんな仕掛けだろう。

 あるいは、磁石一つだけでは完全にケースを固定することができなかっただけなのかもしれないが……。

 いずれにしても、仕掛けは分かった。ならば、どうやって外せばいい……?

 磁石を付けたまま外すのだ! 胃壁ごと切り取る。

 方針が決まれば、作業は単純だ。

 天井のマイクに向かって言った。

「胃の内部の異物は、胃壁を挟んで外側にある磁石と引き合っている。これらを引き離すことは危険なので、胃壁を切開して磁石ごと取り外す」

 再び胃の切開面を精一杯広げた。異物を固定している四隅の配線コードは無視して、その周囲の胃壁を四角く切り取っていく。そして異物を取り出す。

 スピーカーから園山の声がした。

『中継を開始します。これからは先生の声は全世界に流れますので、そのおつもりで。こちらの手の内は些細なことでも明かさないようにお願いします』

 私は胃壁の一部を挟んだままの異物を解剖台の脇のワゴンに置いたアルミバットに移して、教授室の窓に顔を向けた。公安の東海林と目が合う。

 声を出さずに喋る。

〝了解。異物を開封します〟

 耳の中で東海林の声がする。

『まだ開封は待ってください』

 待つ? 何を? いつまで?

〝待てばどうにかなるのか〟

『考えます。だから、慌てないで。まず、通信の実験を行います。iPhoneにもデータを送ってみます』

 外から調べて異物の中身が予測できるものなら、私も待ちたい。少しでも安全な方法をとりたい。だが、このケースはX線を透過しない。開ける他に、中の情報を取り出す手段がない。情報がなければ雅美は救えない。

 磁石を外さなければ何も起きない――そう信じて、先に進むしかない。

 東海林が手に持ったiPhoneに何かを語りかける。音声認識ソフトのSiriで文字を吹き込んだようだ。数秒後、遺体の腹腔に隠したiPhoneがかすかに振動する。同時に、モニターに漫画のフキダシに入ったような文字が浮かび上がった。

〈早まらないで下さい。テレビの画面とネット中継画像はそちらからも見えるようにしておきます〉

 槇原がウィンドウズマシンのモニターを移動していた。ガラス越しに、ニュースバラエティの画面が見える。出演者全員が色めき立っていた。だが、さすがに血なまぐさい中継画像は見せていない。

 モニターの傍らに、iMacが並べられる。そちらの画面には、ユーチューブの中継画像が画面いっぱいに映し出されていた。真上から見下ろした私が、そこに立っている。首のない、異形の遺体もはっきりと確認できる。あまりにグロテスクだ。

 確かに、モザイクがなければ一般に公開できるような画像ではない。無論、腹腔に隠したiPhoneは確認できない。

 私は覚悟を決めて、声に出した。

「それでは、体内から摘出した最初の異物を開く」

 金属製の黒いピルケースを包んだ厚いビニール袋の周囲を、ハサミで切った。中からケースが現れる。そして、ゆっくりと蓋を開く――。

 園山の声が天井のスピーカーから響く。

『まだ開けないで!』

 遅かった。私はまた、判断を誤ったようだ。

 中程まで開いたときに、掛け金が外れるようなパチッと小さな音がした。同時に中からスプリングが弾け飛び、白い粉が舞い上がった。

 チッ! また罠だ!

 なんだ、この粉は⁉

 目の前が一瞬、白く曇る。その先に、開いた蓋の裏側が見えた。蓋の裏側は、真っ白に塗られていた。

 その中心に、円状のマークが記されている。三つの弧を放射状に並べたハザードシンボル――放射線の危険を示すサインだ!

 この粉を吸ってはまずい!

 私は息を止めて顔を背け、酸素マスクで鼻を覆ってボンベのバルブを開いた。だが、わずかに異臭を感じる。なんの匂いなのか――これまでに嗅いだ記憶のない臭気だ。

 微量であれ、粉を吸い込んでしまったらしい。これが強い放射線を出す物質なら、すでに体内被爆したことになる……。

 スピーカーから花苗君の声がした。

『先生! なんですか、それ⁉』

 こちらに入って来ようとドアに向かう。

 私は酸素マスクの中から叫んだ。

「来るな! 放射能サインがある! すぐに線量計を手配してくれ! ガラス越しでいいから、線量を計測するように!」

 花苗君は弾かれたように踵を返し、廊下に飛び出して行った。

 変わって、園山が言う。

『危険なもののようですか⁉』

「分からない。ダミーのサインがあるだけかもしれない。だが、換気扇は止めてくれ。本物の放射性物質なら、汚染を広げたくない」

『スイッチ、どこですか⁉』

「ドアの横。解剖室換気扇と書いてあります」

 換気扇にはウイルスも通さないヘパフィルターが装着されている。停止させるのは、あくまでも念のための措置だ。

 逃げ出したい。だが、外に出るわけにはいかない。本当に危険性が高い放射性物質なら、この部屋を封鎖するしかないかもしれない。私を閉じ込めたままで……。

 東海林が園山に何かを耳打ちしたようだ。園山が言った。

『先ほどレントゲンを取った際に、画像に異常が見られましたか?』

 そうだ。放射線がケースの外に漏れているなら、受光器が感知しているはずだ。実際、福島での原発事故の後、周辺の医療施設でレントゲン画像に黒い小点が映し出されたといわれている。

 先ほどの映像では異常に気づかなかった。花苗君も何も言っていなかった。

 やはり、これもフェイクか?

 だが、放射線は核種によって強さも性質も変わる。アルファ線なら紙1枚で遮断できるし、ベータ線でもアルミニウムなどの薄い金属板で防げる。金属ケースに密閉されていたのだから、それによって遮断されていた可能性もある。それでも、体内被爆すれば極めて危険だ。

 アルファ線は透過力が弱い反面、細胞に悪影響を及ぼす電離作用が極めて強いからだ。ガンマ線やX線なら鉛や厚い鉄の板でも透過するはずだから、これらの核種である危険性はないだろう。

 小野寺が私をじわじわと苦しめようと考えたのなら、アルファ線の体内被曝によって内部から細胞を蝕んでいくことを望んだのかもしれない……。

 冷や汗がにじむのが分かる。気道をシロアリに食われているような嫌な気分だ。胸を、掻きむしりたい。息が苦しい。

 もちろん、気のせいだ。たとえ吸い込んだのが放射性物質でも、そんなに急激に作用が現れるはずはない……ない、はずだ。

 だが、本当にそうなのか?

 体験したこともないことが、なぜそうだと言い切れる?

 呼吸が浅くなっているような気がする。かすかなめまいも感じる。これは気のせいなのか?

 偽薬でも治療効果を感じるような、精神的なものなのか……?

 私を脅かすために、無害な粉に異様な臭気をつけただけなのかもしれない……。

 くそ……小野寺は、こうしてうろたえている私の姿をネットで見ながら、あざ笑っているのだろう。

 くそ……それならば、なおさら敗けるわけにはいかないじゃないか!

 すでに粉は吸ってしまっている。急性放射線障害を起こせば、吐血や下血しながら死んでいく。もはや止めることなどできない。できるのは、死ぬ前に雅美を助け出すことだけだ!

 ガラスの向こうに花苗君が戻る。

 原発事故後に購入した高精度のポータブル線量計を持っていた。30秒で測定値を弾き出す。それを、ガラス窓に当てる。

 花苗君は顔色を失っていた。目が合う。泣き出しそうな顔だ。

 おそらく私も、死人のような目をしていたに違いない。

 息を詰めたまま、30秒が過ぎる――。

 花苗君が叫んだ。

『先生、線量計は異常を検出していません!』

 だがガラス越しで、距離も数メートル離れている。私が浴びた粉の正体が正確に判定できるはずもない。

 これだけで単なるフェイクと決め付けるわけにはいかない。粉の正体が分かれば対策も打てるかもしれない。ただの脅かしだと決めつけて解剖が続けられないような事態に陥れば、小野寺の思うツボだ。

 そうか! ならば、もう一度レントゲンで調べてみればいい! だが、本来X線に反応するはずの機器でアルファ線まで精査できるのか? 

 迷っていた瞬間だった。

 花苗君が素早く動いた。その意図を確かめる間もなく、一瞬ドアを開けて解剖室の中に線量計を置き、すぐにまたドアを閉じる。

『先生! そちらで直接測定してください! 粉のサンプルをください!』

 少しのためらいもない、素早い決断だ。

 私はうなずき、酸素マスクをしっかり被り直した。次にサージカルテープを5センチほどちぎり、接着面でワゴンに散った〝白い粉〟を軽く拭う。テープに付着した粉があれば、分析が可能だろう。

 そして言った。

「アルファ線に気をつけて、粉を吸い込まないように。何か金属製の容器を用意して、それに入れて運んでくれ」

『分かりました!』

 私は天井のカメラを見上げて言った。

「これから一瞬、カメラの視界から外れるかもしれない。線量計を取りに行くだけだ。他には何もしないから、許せ」

 小野寺に語りかけたつもりだが、中継を見ているネット民には何の意味だか分からないだろう。無論、返事が来ることも期待していない。予告なしの動きで刺激したくなかっただけだ。

 酸素ボンベのカートを引きずってドアまで行ってテープをドアの横に貼り、線量計を持って戻った。

 使い捨てマスクをつけた花苗君がもう一度素早くドアを開け、テープを回収する。危険だが、粉の正体を確かめるには他に方法がなかった。花苗君に異常が起きないことを願うばかりだ。

 私は白い粉が飛び散ったワゴンに線量計を近づけて、計測を開始した。

 30秒後――放射線は計測されない。この粉は、放射性物質ではないと考えていいようだ。

 だが、私はまだめまいを感じていた。吸い込んだ直後より激しい。呼吸も乱れ始めたような気がする。いや、気のせいではない。これは明らかに、体の異常だ。原因は、わずかに吸い込んだ白い粉だ。

 だが、粉は放射性物質ではなさそうだ。ならば、なんだ……? 

 ほんのわずかに吸い込んだだけで変調をきたす粉とは……?

 考えて分かるものではない。花苗君はすでにサンプルをクッキーの缶に入れて廊下に飛び出している。結果を待つしかない。粉が有害なものなら、解剖が続けなくなる前に少しでも多くの情報を得るべきだ。

 私は再び放射能のハザードシンボルが記されたケースを手に取った。ケースの底には、まだ白い粉がびっしりと張り付いている――

 いや、内側全体も白く塗られているようだ。一箇所に、さっき鳴ったブザーと同じ装置が張り付いている。おそらく、磁力が消えたら鳴る仕組みになっていたのだろう。

 何も考えずに異物を引き剥がしていたら、不意にブザーが鳴って心臓が止まるようなショックを受けていただろう。私にとっては、ただの脅しが致命傷になりかねない。トラップには気づいたが、それを避けるために貴重な時間と精神力を奪われてしまった。どっちにしても、〝無傷〟ではいられない罠だったのだ。

 小野寺の計算通りだ。

 腹がたつほど幼稚な仕掛けだ。だがその幼稚な仕掛けに、私はいたぶられている。神経を痛め続けられている。もはや擦切れる寸前だ。苛立ちのあまり、叫び出したい気分だ。

 だが、集中力を途切らせるわけにはいかない。ここで投げ出すわけにはいかない。

 さらに、ケースの中を探る。

 わずかに、グレーの線が見えた。指先で、底を拭う――。

 小さな文字が書かれていた。白地の上にグレーのフォントをプリントして、貼ったものらしい。

〈000―0000―0000〉

 なんだ?

 何を意味する?

 暗号なのか?

 だが、ひとつだけはっきりしたことがある。雅美の居場所を示す暗号なら、これだけでは意味をなさない。おそらく、遺体に仕込んだすべての異物に暗号の一部を仕込んだのだろう。つまり、すべてを取り出さなければ雅美は救えないのだ。

 園山が言った。

『何か書いてあるんですか⁉』

「ゼロかオーが3つ、ハイフン、ゼロが4つ、ハイフン、さらにゼロが4つ……それだけです」

 解剖を再開してから何分経過したのか……。壁の時計を見た。およそ、30分というところか……。だが、時計の針に目の焦点が結べない。めまいはどんどんひどくなる。胸も苦しい。

 2度目に食らったパンチは、じわじわと効いてくるボディブローだ。これ以上打ち込まれたら、リングに立ち続ける自信が持てない……。

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