7 【PM00:22  残り時間 6時間38分】

 園山が言った。

「先生、解剖の続きをお願いできますか?」

 それは、〝やれ〟という命令だ。分かっている。逃げるわけにはいかない。逃げるつもりもない。

 ゆっくりと、ストレッチャーから降りる。

 花苗君が心配そうに寄ってきて、手を貸そうとした。

 私は、その手を押し返した。ふらつくが、何とか立てそうだ。

「この先は、1人でやるしかないからね」そして、付け加えた。「私の心配事を減らすためだと思って、安全な場所に退避してもらえないか?」

 花苗君はかすかに笑った。

「私の自己満足のためだと思って、先生の傍にいさせてください」

 肩をすくめるしかなかった。こうと決めたら引かない性格は、雅美と同じだ。

 雅美は結婚当時、この病院で看護師をしていた。10歳以上年が離れているにもかかわらず、医師としては収入も少なく、不人気な役回りの監察医である私との結婚を望んだ。

 のちに別の看護師に聞いたところでは、当時院内の人気を集めていた同年代の外科医から熱心に求婚されていたそうだ。その時でも、周りから何を言われようと意思を変えなかったという。

 なぜ私を選んだのか――何度も聞いたが、雅美は笑うだけで答えたことがない。

 頑固な女なのだ。

 だから、私も雅美を愛した。だから、1人で決断して不妊手術を選んだ。雅美から、選択する権利を奪った。

 すべて、自分のためだ。雅美を失うことが恐かったからだ。

 その恐れが、結局雅美を失う原因を作ってしまった。

 優秀な助手である花苗君まで、失うことは避けたい。

 だが、言っても聞かないことは分かっている。どのみち、もしも花苗君が傷つくことがあれば、私は爆発の中心にいる。生きてはいられないだろう。

 何よりも、今は雅美を救うために意識を集中しなくてはならない。花苗君のことで心を乱せば、いい結果にはつながらない。

 花苗君は自分で選択した。その意思を、尊重しよう。もう、間違いは犯さない。

 私は園山に言った。

「解剖、やりますよ。それが私の役目ですから」

 園山がうなずく。

「もうすぐユーチューブの担当者と読唇術ができる警官が到着します。彼らが着いたら、準備を始めましょう」

「どくしんじゅつ……って?」

「唇の形から話している内容を判別する技術です。小野寺からの要求で、中継には解剖室天井のライブカメラの映像と音声を流します。解剖中は、解剖医は必ず画面の中に写っているようにも命じられています。つまり、結果的にあなたとの秘密の会話を禁じられたというわけです」

「1人で立ち向かわなければならないのは、覚悟しています」

「先生を1人にはさせません。だから交渉して、死体の腹の中だけはモザイクをかけてもいいとの了解を得ました。公開するにはあまりにグロテスクな画像ですからね。つまり、モザイクの部分だけは犯人も見ることができないわけです。そこに、これをビニール袋に入れて忍ばせます」

 園山が見せたのはiPhoneだった。

「なぜそんなものを?」

 答えたのは槇原だった。

「こちらから知らせたい内容を『メッセージ』というソフトに送信します。受信音が聞こえない設定にしてありますので、小野寺に気付かれずにモニタに表示させることができます。わずかな振動は起こしますが、モザイクの下なので気づかれないでしょう」

「文字は送れるわけか」

「先生は解剖を続けているふりをしながら読んでください。答えが必要な時は、ガラス越しの私たちに向かって声を出さずに普通に喋ってください。唇を読みますから。カメラは真上にありますから、先生の唇の動きは判別できません。声さえ出さなければ連絡を取っていることは悟られません」

 正直、驚いた。

「いいアイデアですね」

 園山がうなずく。

「槇原の発案でね。こいつ、こんなゲームみたいな他愛のないことに限って妙に知恵が働くんです」

 槇原が不満そうに答える。

「パソコンだって、普通に得意じゃないですか。園さんの書類、いつも書いてあげてるでしょう」

「はは、ありがとうよ。刑事としての勘と知恵も普通に回るようになったら、鬼に金棒なんだがな」

「またそれだ……」

 2人の掛け合いは、こなれている。緊張をほぐすための儀式のようなものらしい。

 と、槇原の携帯が鳴った。

 携帯で通話した槇原が言う。

「本庁がマスコミに発表の許可を出しました。ここって、テレビは見られませんか?」

 花苗君が私の机に歩み寄る。

「パソコンでなら」

 iMacの陰に隠れるように置いてあったウィンドウズマシンのモニターを引っ張り出して電源を入れ、操作する。ここ数ヶ月全く使っていなかったパソコンだ。院内の回線が整理されて、iMacでほぼ全ての作業がこなせたからだ。

 ウィンドウズを起動するのは、・exeなどのファイルを解凍するときに限られていた。確かにこのマシンは、地上波チューナーを内蔵している。

 モニターにテレビ画面が映される。局を変えて、ニュースバラエティ番組を選択する。

 天気の長期予報を解説している最中だった。

 と、司会らしき人物のもとに、メモを持ったスタッフが走り寄る。メモを読んだ司会者が言った。

『ただいま、多摩川でのボート爆発事故について重要な続報が入ったようです。週末のお天気が気になるところですが、しばらくお時間をいただきますね』

 傍の女性アナウンサーにスタッフが原稿を渡す。

 女性アナウンサーがアップになった。

『ええ……警視庁からのお知らせです。――今朝、多摩川でプレジャーボートを爆破した犯人から、人質を取っているという脅迫がありました』

 女子アナの周囲でどよめきが広がる気配があった。アナウンサーは無表情で続ける。

『この犯人は、同時に身元不詳の死体を警察に送りつけ、現在司法解剖が行われています。この解剖をユーチューブで中継しろとの要求がなされました。要求に従わない場合は、所在不明の人質、あるいは人質たちを爆殺するとのことです。警視庁では、最悪の場合を考えて犯人の要求を受け入れる決断を下しました。ユーチューブの中継は約30分後から開始される予定です』

 原稿を読み終えた女子アナが素に戻ってつぶやく。

 『これって、ドッキリかなんかですか?』

 司会が慌てて画面に入る。キョロキョロとあたりをせわしなく見回す。

『あのさ、ドッキリって、生本番中だよ』

 ADからカンペが出たのか、おどけた表情でうなずきながら言った。

『あ、とりあえずCMを!』

 普段は入るジングルもなしに、いきなり画面が変わって台所洗剤のCMが始まる。

 園山がうめいた。

「もう逃げられないな……これでマスコミは本庁に群がる。だが、幼稚園のことは何も言わなかったな」

 槇原がうなずく。

「地上波でネット中継の告知さえすれば、2時間後に爆破する幼稚園の場所を教えると言ってきたそうです。幼稚園の件まで放送したら、全国の母親が大パニックを起こしますからね」

「今のでも、充分パニックだろうが」

「でしょうけど……幼稚園がいくつも爆破されるっていうより、マシじゃないですか?」

「テロリストに鼻ズラ引き回されていることには変わりないがな……上の判断だ、仕方ないだろう」

 と、教授室のドアが開いた。事務長が顔を出す。

「お客様です」

 背後から2人の男が中に入る。ユーチューブの担当者と読唇術の専門家だろう。彼らが園山たちと挨拶を交わす。

 その間、事務長が私に歩み寄った。

「秋月教授、お体は大丈夫ですか? 田渕教授も心配なさってますが」

 田渕先輩は、私の心臓にメスを入れたがっている心臓外科医だ。練習台にはされたくないものだ。

「ええ、なんとか」

「爆発物が入っている死体を解剖するんだとか聞きましたが……」

「危険ですが、私がやる他ないんです。もし爆発しても他に被害者が出ないよう、万全の体制をお願いします」

「それはもう。どなたか、事情を知らせたい方はいますか? あ、もちろん警察から許可が出ることしか話しませんが。私の方から連絡しますよ?」

「特にありません」知らせたい雅美は、捕らえられている。「どのみち、ネット中継で全世界に姿を晒すことになりますから」

「え? ネット中継って?」

 まだ聞かされていないようだ。

「詳しいことは刑事さんたちと擦り合わせてください。マスコミが大騒ぎするでしょうから。解剖がこの大学で行われていると知られれば、記者が大挙して押し寄せるでしょう。対応策を練っておいてください。ですが……警察からは、これだけの人員しか来てないんですか?」

 私は、大勢の刑事たちでこの部屋がごった返すのではないかと思っていた。何しろ、警視庁の本庁に捜査本部が作られ、騒ぎはマスコミまで巻き込んでいる。そんな〝犯罪現場〟であるこの解剖室が、警官に取り巻かれないはずはないと覚悟していたのだ。

 だが、警察から来たのは読唇術とやらの専門家だけだ……。

 事務長が言った。

「部屋の外は刑事さんたちでいっぱいですよ。病院の業務は最低限維持していますが、大学は休講です」

 なるほど、そういうことか。

 園山が私に声をかけた。

「こちらが読唇術をお願いする東海林さんだ」声を落とす。「公安のお偉方だが、叩き上げでこの手の役目には慣れているそうだ」

 東海林と呼ばれた風采の上がらぬ営業マンのような男が、冷たく厳しい目で園山をにらむ。

「余計なことは言わないで」

 園山は肩をすくめたが、目はそらさなかった。

「秋月先生は、私たちに代わって命を賭けてくださる。あなたに命を預けると言ってもいい。相棒の正体ぐらいは知っていてもバチは当たらんでしょう」

 東海林はしばらく園山を見つめてから、私に向かって右手を差し出した。

「東海林です。大変な役割をお願いして、申し訳ありません。よろしくご協力ください」

 私は握手を交わして言った。

「解剖医としてやるべきことには全力を尽くします。雅美を――妻を必ず助け出してください」

「もちろん。今の言葉を、もう一度声を出さずに繰り返していただけますか? 読唇術に慣れていただきたいので」

 私はうなずいて、声を出さずに繰り返した。

〝解剖医としてやるべきことには全力を尽くします。妻を必ず助け出してください〟

 声を出さずに自然に喋るのは、思った以上に困難だった。正確に読み取れるかどうか、自信が持てない。

 東海林がうなずく。

「秋月先生の癖が分かりました。雅美さんの名を省きましたね」

 確かに、2度目は言わなかった。それを正確に読み取ったのだ。この男なら、信頼できそうだ。公安は優秀な人物を送り込んできたらしい。

 私は再び声を出さずに〝喋った〟。

〝妻とは別居中です。ですが、守らなければならない理由があります。助けてください〟

 東海林はうなずいた。

「私たちの方こそあなたの助けが必要です。力を合わせて闘いましょう。我々警察にこそ、テロには負けられない理由がありますから。これを耳の中に入れてください」

 ごく小さな耳栓のようなものだった。

「なんですか?」

「通信機です。こちらから音声を送れます」

 園山がビニールに入ったiPhoneを見せる。

「じゃあ、これは必要ないですかね?」

 東海林が厳しい表情をやや崩す。

「それを腹の中に隠すつもりですか?」

「ばかばかしいですか?」

「いや、素晴らしいアイデアです。iPhoneなら画像が送れますから。情報量は格段に増えます」

 その間、花苗君はユーチューブの担当者と打ち合わせをしていた。担当者が持ち込んだMac Bookを病院の回線に接続し、解剖室のカメラをつなげたようだ。

 モニターに、天井から俯瞰した遺体が画面いっぱいに映し出される。離れていても、大きく開いた腹腔内に細いコードで巻かれた臓器が見てとれる。真上から見ると、手足の違いが一目で分かる。

 そのバランスの崩れが生理的な嫌悪感を引き起こさせる映像だ。日常的に人の内臓を見ている私でさえ、目を背けたくなる。

 担当者がつぶやく。

「うわ……何です、この死体? 中継を要求した犯人って、相当のサイコなんですか?」

 だが、その口調はむしろ楽しんでいるように思える。

 ネットの一部には猥褻さや残虐性を競うような動画が溢れているとも聞く。作り物とも思えないような残忍なホラー映画も、観客が動員できるからこそ製作される。大衆が〝刺激〟に飢えていることは疑いようがない。

 そんな動画を見慣れているであろう担当者にとっては、目の前の死体も〝おもしろ画像〟の1つに過ぎないのかもしれない。

 彼のように感受性が鈍化したネット利用者が多いほど、この中継は注目を集め、小野寺の望む結果を引き起こす。医学界にはもちろん、社会に与えるインパクトも計り知れないものになる。

 担当者はカメラのレンズを遠隔操作して解剖室の大部分が俯瞰できるように調整した。死体の映像が小さくなった分、その不気味さも幾分か弱まる。さらにMACのソフトを調整して、内臓が見える部分だけにぼかしを入れていく。

 花苗君の声が聞こえる。

「ここ、もっと強くぼかせませんか? まだ生々しすぎると思うんですけど」

 担当者は言った。

「警視庁の方から、ぼかしは最低限にするように言われたんですけど。犯人を怒らせるといけないから、とかで。ネット中継に載せるには解像度をもっと落としますから、この程度で充分だと思いますよ?」

「解像度を落とした状態の映像を見せていただけませんか?」

 花苗君は引かない。しかも、正しい指摘をしている。

 この画像は、本来外部に漏らしてはならないものだ。譲るにしても、限度はある。体内に不気味な配線が施されている遺体だと判別されては、その異常性ばかりが喧伝されてしまう。模倣犯などが現れれば混乱が拡大するばかりだ。ましてや、爆発物まで仕掛けられているなどと知らせたくはない。

 もっとも、異物の取り出しを始めれば猟奇性を隠すわけにはいかなくなるだろうが……。せめて、社会的な混乱は最小限に抑える努力はするべきだ。

 交渉は花苗君に任せておいていいだろう。

 一方、部屋の隅では事務長と槇原が話し合っていた。大学側の対応法を擦り合わせているのだろう。その槇原の携帯が鳴る。

 短い通話を終えた槇原が園山に言った。

「幼稚園のリストが送られてきました。神奈川、千葉、山梨にも散らばっていたそうです。ですが、3箇所だけは省かれています」

「なぜだ?」

「そっちは元々のタイムリミット――夕方7時に起爆するそうです。許可なく中継を中断したりした場合は無線で爆破すると言ってきました」

「約束が違う!」

 槇原が拗ねるようにつぶやく。

「俺に言われても……。犯人は、〝2時間後に爆発する爆弾はすべて教えた〟と言い放ったそうです」

「くそ……7時は別だってことかよ……」

 言葉の上では、小野寺は約束を果たしたわけだ。いかにもトリック好きな小野寺らしい。

 残りは、中継が終わってから明かされるのだろう。あるいは、タイムリミットを迎えた時に知ることになるか……。

 槇原が続ける。

「でも、時限爆弾をこんなに広範囲に仕掛けるのは1人じゃ絶対無理です。大掛かりな組織が背後にいることを前提に、聞き込みが始まっています。関東一円の警察は臨戦態勢ですよ」

 園山が怒ったように叫ぶ。

「当然だ! 俺たちも現場に出られるように署の許可を取れ!」

 その声に、東海林が反応する。

「園山さん、それはできません。あなた方は遺体の発見現場を実際に見ています。その情報が解剖に役立つかもしれませんから」

 園山の怒りがさらに高まり、東海林に向かう。

「あんたは俺の上司じゃない! 所轄は足で事件を掘るんだ!」

 東海林は動揺しなかった。

「私は本庁の捜査本部管理官と同等の権限を与えられています。今のあなた方は、私の指揮下に組み込まれています。署長に確認しておいてください」

 園山は何かを言いかけたが、その言葉を呑み込んだ。

 どうやら東海林は、相当高い地位にいる人物らしかった。

 ドアが開いて、さらに背広姿の若い男が入ってきた。自己紹介する。

「機動隊爆発物処理班の横峯です。爆発物の解析を命じられて参りました。遅くなって申し訳ありませんでした」

 私は言った。

「爆発物の専門家は呼べないんじゃなかったんですか?」

 園山が横峯に歩み寄りながら説明する。

「解剖室には入れません。中継画像に映り込んでしまいますのでね。でも、画像解析そのものを禁じるとは言われていませんから」そして、横峯に言う。「赤羽東署の園山です。死体が発見された現場を見ていますので、ご質問があれば何でも」

 園山にも、東海林が言ったことの意味は素直に理解できたようだ。部門の違う初対面のメンバーでも、プロならこうして一瞬で連携できるのだ。しかも、小野寺の言葉尻を捉えて、こちらも反撃に出ている。

 警察も負けてはいない。

 私は気になっていたことを尋ねた。

「ダイナマイトは、首を切断したのちに食道に押し込まれたようです。そのダイナマイトを、何ヶ月も体内に埋め込んでいた仕掛けで起爆させることはできるでしょうか?」

 横峯はあらかじめ遺体の詳しい状況をレクチャーされていたようだ。

「手間はかかるでしょうが、不可能ではありません。首の切断後に食道から起爆用のコードを引き出して、ダイナマイトに接続してから押し込むとか。レントゲン写真は見ましたが、ダイナマイトの周辺にもいくつか電子装置らしき影が映っています。例えばこれが電磁石のような物なら、コードを切って電流が止まるとダイナマイトが起爆する非接触型の仕組みを作ることもできます」

「非接触……ですか?」

「ダイナマイト側の装置は磁気を感じて起動し、その磁気が消えると起爆する――とかです。肝心な装置は透視できないようにX線を遮断するアラミドペーパーのような物で包んでいるようなので、詳しくは断定できませんが」

 危険は変わらないということだ。私は仕方なくうなずくしかなかった。小野寺の暴走を止めるのは私の責任なのだ。

 それでも、1人で闘うわけではない。これだけ多くの人間と組織が背後で支えてくれている。

 私は大きく息を吸ってから言った。

「では、解剖を再開する準備を始めます」

 第2ラウンドのゴングだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る