6 【PM00:15  残り時間 6時間45分】

 意識を取り戻した時に真っ先に思い出したのは、セボフレンの匂いだ。私は倒れたのだ。

 迂闊だった……。

 横たわっていた。教授室の中だ。はっと気づいて壁の時計を見る。ぼんやりとした頭に、針先が示す時刻が染み込んでいく……。

 なんだと⁉ すでに2時間も経過しているじゃないか!

 私は、そんなにも長い時間意識を失っていたのだ……。高濃度のセボフレン――気化させて使う吸入麻酔薬を吸い込んだせいだ。

 セボフレンを過剰摂取すれば急激な血圧低下や不整脈を誘発し、最悪の場合心停止を起こす危険がある。私の心臓にとっては、凶器となりうる。強烈な臭気から考えると、通常なら使用するはずもない高濃度のセボフレンが胃の中に注入されていたはずだ。

 遺体の胃が膨張していたのは気化したセボフレンが充満していたからだ。フェイスシールドがなければ、命の危険があったかもしれない……。

 この解剖室では、遺体から放出される気体や病原体は天井から吹き下ろす気流に囲い込まれて解剖台の縁の排気口から排出される。解剖を担う医師には一切触れることはない構造になっている。

 だが今回は、腹腔を覗き込んで顔を近づけ過ぎていた。吹き出した液体が私の首やスクラブスーツにまで降りかかった。私が倒れた後も、鼻の周囲で気化した高濃度の麻酔薬を吸い続けることになってしまった。

 だから、2時間も意識を失っていたのだろう……。

 雷に打たれたように気づいた。食道にダイナマイトが詰め込まれていたのは、胃の中で気化するセボフレンを体外に出さないための〝コルク栓〟のような意味もあったのだ。

 その可能性に気づかなかった余裕のなさが悔やまれた。

 司法解剖に自殺死体が持ち込まれる場合、胃の切開には特別な注意を払う。シアン化物――青酸カリのような毒物を服用していた場合、気化した毒物を浴びてしまう可能性があるからだ。首を切断された明らかな他殺死体であったために、そしてタイムリミットやトラップに気を取られていたために、その危険性が頭から消えていた。

 時間に追われるあまり、焦ってもいた。

 司法解剖を託される監察医としては、失格だ。

 私は、第1ラウンドの軽いジャブで鼻を潰されて呆気なくダウンしてしまったのだ――。

 花苗君の声が聞こえた。

「先生! 気付きましたか⁉」

 声の方向を見る。自分が、教授室に運び込まれたストレッチャーに寝かされているのが分かった。上体を起こす。かすかなめまいに襲われた。

 花苗君が駆け寄って私の背を支えた。思わず、尋ねた。

「解剖はどうなっている⁉」

 花苗君が悔しそうにつぶやく。

「中断したままです」

「なぜ2時間も放置しておく⁉ なぜリバースしなかった⁉」

 麻酔は薬品でリバース――拮抗薬で強制的に覚醒させるさせることも可能だ。

「だって先生、心臓がお悪いじゃありませんか。ですから、心電図とバイタルに危険な兆候がないことだけ確認して、休んでいただいていました。先生が倒れた時の様子を見て、麻酔薬ではないかと思ってすぐ換気量を最大にしました。でも安全になるまで解剖室に入れなかったので、10分ぐらいは倒れたままになっていましたし……」

 私の苛立ちを感じ取ったのか、花苗君は口ごもって目を伏せた。

 その間私は、気化したセボフレンを吸入し続けていたのだ。かなりの量を吸い込んだに違いない。だが、倒れた私を助けるために慌てて解剖室に飛び込めば、入った人間も意識を失いかねない。昏倒の原因が麻酔薬だという確証もない。それが強毒性のガスなら、犠牲者を増やす結果になるかもしれないのだ。充分な換気時間をとった花苗君の判断は妥当だ。

 私の胸には、心電図用の電極が貼られていた。スクラブスーツの中に手を突っ込み、それを乱暴に引き剥がす。

 全身麻酔から無理に覚醒させることは心臓への負担が大きいことも確かだ。私の冠動脈には2本のステントが入っているし、血管の走行方向が障害になってステントが入れられない場所も数か所ある。その上、拡張型心筋症が危険なレベルに近づいていることも事実だ。

 先輩の心臓外科医から、これ以上症状が進行したらバチスタ手術の練習台にして一気に全部治療するぞと脅されていたほどだ。

 私としては、それでも早く起こしてほしかった。私が眠っている時間だけ、雅美の命が削られていくのだ。

 とはいえ、花苗君にその決断を要求するのは酷だな……。

 だが、東京都監察医務院の正木先生が来る予定だったはずだったのではないか……?

「正木先生は?」

「来ないことになりました」

「爆発物を恐れたのか……?」

「そうじゃないんですが……なんか、警察の人たちがもめていて……」

 花苗君が振り返って、部屋の隅で携帯電話を使っていた園山刑事を見る。通話を終えた園山が近づいてきた。

「秋月先生、気付かれましたか」

「正木先生はなぜ来ないことに?」

「犯人からの要求です」

「要求があったんですか⁉」

 園山がうなずく。

「今まで、その対応に追われていました。犯人との交渉も難航しています。要求が満たされるまでは解剖を再開するなとも命じられています。先生を無理に起こさなかったのは、そのためです」

 花苗君の選択に間違いはなかったわけだ。

 私は言った。

「どんな要求ですか?」

「まず、解剖医はあなた1人以外は認めないということです。爆発物処理の専門家を解剖室に入れることも禁じられています」

「それは分かっています。これは、小野寺との一対一の勝負ですから」

 園山がうなずく。

「その過程を、ユーチューブでライブ中継しろと言ってきました」

 叫び声をあげたのは花苗君だ。

「ユーチューブ⁉」

 私は尋ねた。

「ユーチューブって、生中継もできるのか?」

 花苗君がうなずき、園山に食ってかかる。

「解剖を公開しろって言うんですか⁉」

 園山がわずかにたじろぎながら言った。

「解剖室の中をできるだけ広範囲に映せと言ってきました。秋月先生1人しかいないことを確認するためでしょう。その上、地上波テレビ局を使ってユーチューブで中継を始めることを告知しろというのです」

「やるんですか⁉」

 私を晒し物にしようというのか? 罠が仕掛けられた遺体と私が闘う様子を全世界に公開して……。

 しかもその映像では、首なし遺体の臓器までが露わにされる。大学医局内であれば手術映像の中継は普通に行われているが、それが一般に流れるとなれば事情が違う。前代未聞だ。

 何よりも、遺体そのものの姿が尋常ではない。

 園山が口ごもる。

「人質が何人いるか、まだ不明です。もし断って爆殺されるようなことがあれば……あ、いや、何か不祥事が生じれば、警視庁が非難されます……」

 園山は、雅美が人質になっていることを気遣っている。しかし、このまま時間が過ぎれば雅美を救うチャンスさえ得られない。そんなことは耐えられないが……。

「私としては中継されようがなんだろうが、解剖を続けたい。ですが、そんな無謀な要求に応じれば、世論は厳しく糾弾するでしょう。こうなると、劇場型犯罪というよりもテロ行為です。政府も、テロには屈しないという原則を曲げられないでしょうし……」

 園山がうなずく。

「警察の上層部も判断に苦慮しています。今のところ犯人との交渉で、ライブ映像の腹の中と下腹部はモザイクをかけてもいいという譲歩を引き出しました。ゴーサインが出れば、テレビ各社がこれまでの経緯を一斉に報道します。全世界の注目がユーチューブに集まるでしょう」

 なるほど、それが小野寺の狙いなのだ。

 インターネットであれ、公開する以上はこれまでの経緯の説明が必要になる。それは、猟奇的な犯罪で全世界の注目を引きつけるに充分な話題性を持つ。

 だが、真に瞠目すべきは4人の四肢を移植された遺体そのものだ。医療関係者であれば、その実現がどれほど困難か、どれほど画期的な技術が用いられたのかが一目で理解できる。だからこそ、視覚的にも移植したことが明らかになるように、人種や性別、そしてサイズまで違う四肢をつなぎ合わせたのだろう。あの極端にグロテスクな遺体には、明確で理論的な意図が込められていたのだ。

 確かに倫理上には許されない蛮行だ。だが、エポックメイキングな〝新技術〟が誕生したことは誰もが認めざるを得ない。

 小野寺がデータをネットで公開すれば、医学界は変わる。たとえ小野寺本人が厳しく罰せられようと、彼が創出したシステムは受け入れられ、世界を変革する。これほど完璧に免疫機能をコントロールできるなら、医師が治療対象にできる疾病は爆発的に広がる。

 あるいは海外の医療法人などが、法を犯してでも小野寺自身を引き入れようと画策するかもしれない。医療の法規制が未整備な第三世界の国から秘密裏に招聘されることも考えられる。

 最悪の場合でも、小野寺の業績は歴史に残るのだ。

 天才であるがゆえに不遇に甘んじた小野寺が、いかにも望みそうな結末だ。

 ようやく理解できた。

 小野寺は私1人に復讐したいのではない。世界の医学界に対しての復讐を望んでいる。そればかりか、自らの才能を誰にも妨げられずに発揮することへの歓喜すら感じる。

 小野寺はネット中継という隠し玉で、自らの業績を世に問おうとしたわけだ。ダイナマイトの脅迫は、異形の遺体を公開させるための序盤の一手にすぎなかったのだろう。

 だが、疑問がわいた。

「小野寺とはどうやって連絡を取っているんですか? 電話とかしているなら、居場所が分かるんじゃないんですか?」

「最初は、警視庁が用意している110番サイトにメールが届きました。聴覚や言語に障害を持つ人のために作られた窓口です。そこを通じて捜査本部がメールのやり取りをしました。しかしTOR(トーア)を使用しているようで発信元が探知できません。自衛隊のシステム防護隊の協力も得ていますが、彼らでもまだ尻尾を掴めないようです」

「トーアって?」

「発信元を秘匿する機能を持ったソフトウェアです。複数のサーバを経由して通信するために逆探知が極めて困難になるのです。サーバが海外の場合も多いために、可能だとしても時間がかかります。正当な手続きを踏んで情報開示を要求しても、拒否されればそれまでですしね。何年か前に起きたPC遠隔操作事件にも使われたソフトですが、犯人は通信のたびに接続経路を変えてくるので直ちに逆探知を行うことができません」

「小野寺はそこまで考え抜いてきたんですね……」

 驚きでもあった。

 小野寺は医学研究に没頭するあまり、その他の事柄には無頓着な男だった。神経質な反面、一種の世捨て人のような雰囲気を漂わせた〝マッド・サイエンティスト〟だともいえる。無論独身で、女性に対する関心も皆無だった。私とのチェスが〝唯一の息抜き〟だと口にしていたほどだ。その小野寺が、こんなに緻密な〝犯罪計画〟を企て、実行できるとは……。

 そのために多くの分野の新知識を学んだのだろう――。

 いや、果たしてそうなのか?

 医学的なこと以外では、誰かの協力を得たのではないか? そうでなければ、身を隠すコンピューター技術を駆使することなど困難だと思える……。

 私は言った。

「小野寺には、コンピュターに詳しい協力者がいるのではないでしょうか?」

 園山がうなずく。

「当然、その可能性も視野に入れています。あなたが言う通り、あの死体を作るだけでも助手は必要でしょうから。しかし、TORはそれほど高度な技術とは言えません。むしろ、誰でも使えるような汎用ソフトです。経由するサーバが10以上にも及ぶので、追跡の手間が異様に膨らむという程度のものです。しかも今回はタイムリミットがあります。この制限内に発信元を絞り込むのは難しい。発信するPCや接続場所を変えていればほぼ不可能でしょう」

「雅美の映像を届けてきた宅配業者は見つかったんですか?」

「いいえ、まだ……。千葉県警が総力を挙げて捜索していますが、足取りがつかめません。実在の業者を偽装したのでしょうが、小野寺本人の仕業なのか、協力者が実行したのかも手がかりがありません。とはいえ、小野寺についての捜査は着実に進んでいます」

「何か新たなことが分かりましたか?」

「いろいろとね。JOメディカルに彼のワークステーションが残されていたので、多くの資料を押収しました。共用サーバ内のデータはもちろん、個人使用のパソコン内に隠されていたデータも手に入れました。個人データには厳重な〝鍵〟が掛けられていますので、現在警視庁で解析しています。中のデータが見られれば、事態を打開する手がかりが得られるかもしれません。それと……」

 園山は言いづらそうに言葉を切った。

「それと?」

「秋月先生は小野寺とお友達だったんですよね?」

「友達というか……同期ですが、時々チェスをやったぐらいです。ですが、他にはあいつと仲がいい人間はいなかったでしょう」

 園山は覚悟を決めたように言った。

「小野寺は、一緒に研究を進めていた助手を殺した可能性があります」

 もしかしたら――とは感じていた。だが、警察の人間からはっきり言われると多少ショックを感じる。

「やはり……」

「気づいていましたか」

「胴体も手足も、どこからか手に入れなければなりませんから。中国や東南アジアにはそんなブラックマーケットがあるという噂話は聞いたことがありますが、接合手術に使用するには切断直後の新鮮な四肢が必要でしょう。殺人や人身売買のような犯罪を犯さなければ、手に入れられるとは思えません」

「小野寺がJOメディカルから姿を消したのがおよそ3ヶ月前、さらにその1ヶ月ほど前に、山梨で第一助手――間宮孝典という男の惨殺死体が発見されていました。死体がJOメディカルの職員だと確認されたのは、つい最近ですがね。軽自動車が炎上して、その中から黒焦げの死体が発見されたのです。しかも死体は首と四肢を切断されていました。そして、右足の痕跡だけが発見されませんでした」

「では、あの死体の右足が?」

 だとすれば、小野寺は4ヶ月以上前からこの遺体を作り始めたことになる。

 園山がうなずく。

「間宮のDNAと一致しました。JOメディカルは半官半民の最先端研究機関ですので、セキュリティは自衛隊レベルの高さを持っているといいます。特に中国や朝鮮半島からのサイバー攻撃が激しいもので、人員の交流も制限されています。研究員の身元も厳しく調査され、情報の流出を防いでいるのです。そのために、事務を含めたスタッフは全員DNAや指紋はもちろん、声紋、虹彩、網膜、歩行姿勢、顔や歯形などの生体認証データを完全に記録されています。間宮の焼死体は外見からは性別の特定さえできなかったようですが、歯形とDNAを各種の機関に照会して、ようやく1週間ほど前に身元が確認されたばかりでした」

「4ヶ月も前にいなくなったのに? なぜそんなに時間がかかったんでしょうか?」

「間宮が消えたのは長期休暇の最中で自宅マンションも解約されていたので、JOメディカルでは海外企業にでもヘッドハンティングされたのではないかと疑っていたそうです。だから、警察へ捜索願いなどは提出されていませんでした。身元の特定に時間がかかったのはそのためです。その死体が、こんな事件に関わっていたとは……」

 間宮という助手を殺した犯人は、小野寺の他には考えられない。目的は当然、手術に必要な四肢を手に入れるためだ。人を殺している以上、どうあがいても医学界に復帰することはできない。それでも小野寺は、やらなければならなかったのだ。

 やはり、狂気に囚われている。もはや、10年前の小野寺とは別人だ。

 人間の心が残っていること期待するのは難しいかもしれない……。

 と、部屋の隅で携帯を使っていた槇原が園山に向かって叫ぶ。

「園(その)さん、警視庁がネット中継を決断しました!」

 園山の驚きの視線が槇原に向かう。

「まさか……テロに負けるってことか⁉ もしや、何か新しい動きがあったのか⁉」

「犯人からまたメールが来たそうです」そして手にしたメモを読み上げる。「『タイムリミットを変更する。複数の幼稚園に2時間後に爆発するダイナマイトを仕掛けた。解剖の生中継を確認したら、爆破する幼稚園を知らせる』――と言ってきたそうです。しかも、幼稚園らしい画像が30種類も添付されていたということです」

「30も⁉」

「ほとんどはどこの幼稚園か見分けられる痕跡はなかったと言いますが、一つだけ杉並の幼稚園の名前が写っていました。捜査員が急行したところ、体育館のロッカーから時限装置が作動しているダイナマイトが発見されました。ただし、信管のコードは接続されていなかったそうです」

 園山がうめく。

「他はコードをつなげている――って脅しか……」

「上の見解では、囚人を解放したり身代金を支払うわけではないので、中継してもテロに屈したことにはならないそうです。ご都合主義ですけど、原則にこだわって幼稚園児が殺されるより非難は軽いと考えたんでしょう。今、全力で他の幼稚園の特定が進められています。でも、全部が都内にあるという確証も持てないようで……」

 園山は言葉を失って青ざめている。

 私は思わずつぶやいた。

「30もの幼稚園を爆破するってことですか……?」

 槇原がうなずいた。

「警察としては、その前提で行動するしかありません。どこの幼稚園が狙われているかも分かりません。安全を考えて全国の幼稚園に退去命令を出すことは可能ですが、それこそパニックになります。たった2時間……もう1時間半しかありませんが、それだけでは時間も足りないでしょう。ネット中継とどっちを取るか……苦渋の決断、ってやつでしょうね」

「他の選択肢はないんでしょうね……」

「申し訳ありません。先生を晒し者にするような事態になってしまいました」

「ですが小野寺に、そこまで非道なことができる能力があるんでしょうか……?」

「その件ですが、ついさっきダイナマイトの出処が判明しました。岩手県のトンネル工事現場の倉庫から、未開封の一箱が消えていました。警視庁の調査要請を受けてから調べて、初めて紛失に気付いたそうです。いつ頃盗まれたのかも分からないと言っています。箱のシリアルナンバーも一致しました」

 園山がつぶやく。

「つまり、充分な量のダイナマイトを所持していることは間違いないわけだな……」

 ただの脅しだという可能性は低くない。だが、実行できるだけの裏付けがあることも証明されてしまった。

 まずい……。

 私は雅美の命だけではなく、何100人とも知れない幼稚園児の生死まで委ねられることになってしまった。しかも、全世界にその姿を晒しながら、小野寺が仕掛けた悪魔的な罠と闘わなければならないのだ……。

 そんな重圧に、スクラップ寸前の心臓が耐えられるのだろうか……。

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