5 【AM10:45  残り時間 8時間15分】

 解剖室に戻った私は、天井のビデオカメラを見上げて言った。

「では、姓名不詳のご遺体の検死を開始する」

 司法解剖は、その全てを画像記録に残す規定になっている。天井カメラは切開した腹腔内をくまなく撮影できる位置にあり、教授室の大型モニターでもリアルタイムの画像を確認できる。

 最近は花苗君をはじめとする部下の解剖の機会を増やすために、私がモニター画面を見ながら要所で指示を出すスタイルが多くなっていた。

 だが今日は、私だけが〝プレイヤー〟だ。

 遺体にメスを入れる前に、基本的な手順を済まさなければならない。

 通常は外貌をチェックし、記録を残す。身長、性別、傷があればその場所や種類や大きさ、瞳孔の大きさや形などの身体的な特徴を調べる。だが、首が切断されているのでその多くが確認できない。

 肛門から体温計を入れた後に、触診を開始する。首の切断面をじっくり観察する。花苗君が傷口を洗浄していたので、観察しやすくなっている。体表を軽く押しても新たな出血は見られない。

 食道の切断面は丁寧に縫い合わされていて奥は目視できないが、そこにはダイナマイトが押し込まれている。触診によって起爆する仕掛けがないとは断定できない。心臓の鼓動が高まるのが自分でも分かった。

 胸が締め付けられるような苦しさも、わずかに強まる。

 だが、私を爆死させたいだけなら、遺体にこれほどの手間をかける必要はないだろう。あっさり死んでしまったら、小野寺が望む〝決闘〟が続けられなくなるのだから。

 そう、信じるしかない。

 天井のマイクに届くように声に出した。

「首は、第5頸椎と第6頸椎の間の軟骨を鋭利な刃物で切断している。切断面にためらいはなく滑らかで、医療従事者が専用の器具を使用したような手際の良さが見られる。切断面周囲の体表には索条痕や擦過痕などの外傷は確認されない。食道は、おそらく挿入した異物が抜けないようにする目的で縫合してある。死斑は観察されるが極めて薄い。頭部が切断されているために、死因の詳細は解剖時の観察によって確定する」

 かすかに声が震えているのが分かった。

 もちろん、怖い。

 信管が刺さったダイナマイトが目の前にあるのだ。万が一にも爆発すれば、私は確実に死ぬ。

 だが、逃げるわけにはいかない。逃げてはいけないのだ……。

 次に、肩から腕へと軽く皮膚を押していく。関節を軽く動かす。

「皮膚の弾力、関節の動きからみると、死後硬直はまだ始まっていない」そして肛門から体温計を抜く。「直腸温は34・5度。外気が20度とすれば、死後2時間程度と考えられる」

 そして、改めて四肢の接合部分をじっくり調べた。

「胴体はおそらく日本人の成人男性……右腕はおそらく黒人のもので屈強な男性……サイズから考えて20歳以上の成人のものと考えられる。左手は白人だと思われる……筋肉のつき具合と指の細さから、女性だと考えて間違いないだろう……手術痕を触った感触では、筋肉や腱、神経も完全に接合しているものと予測される……全体的に筋肉が萎縮しているような感じだ。長期間、病床にあったのだろう」

 見れば見るほど、異様な遺体だった。

 足も皮膚の色や感触が異なり、長さまで違う。あまりにも悪趣味な行いだ。医師の倫理など、一顧だにしていない。

 だが同時に、間違いなく極めて困難な手術でもある。

 生命維持装置をフルに活用したにせよ、接合の傷が完璧に癒合するまで〝患者〟を生かせられたなら、まさに神業だ。まして、5人もの体をつなぎ合わせているのだ。激しい免疫反応を抑えることができただけでも医学の歴史に名を刻むことになる。

 この技術が確立されれば、先天的な異常を持った者や戦場で四肢を失った者も治療できる。

 しかし実際の医療現場では、四肢の移植は普及していない。もっとも大きな理由は、手足の欠損は生死に直結しないからだ。電子装置の発達によって高度な機能を持った義手なども開発されている。代替技術が急速に進歩している反面、移植手術には命に関わるリスクがあるので現時点ではメリットが少ないのだ。

 一方では、イタリアと中国の医師が組んで『人間の頭を移植する手術を行う』と宣言し、死体を利用した技術的訓練を進めている。だが、成功を確信している医療関係者は少ない。倫理的な点から、手術そのものの価値を否定する意見も多い。

 サルではすでに頭部移植が試みられたことがあるが、生命を維持できたのは1週間程度に過ぎなかったという前例もある。仮に頭部の移植手術自体には成功しても、免疫機能を充分にコントロールできなければ術後の正常な生活など程遠い。

 小野寺の技術が完成されているなら、そんな非常識な手術までも一般的になるかもしれない。それによって救われる患者があるだろうことも理解できる。

 だが、四肢を得る者がいるなら、それを失う者もいる。

 この手術には手足を提供するドナーが不可欠なのだ。脳死したドナーから移植するにしても、提供者は限られる。内臓と違って、一目で分かる遺体の欠損を受け入れる家族は少ないだろう。

 将来は開発途上国で、ドナーを得るための人身売買が一層活発化するかもしれない。あるいは、生活に困窮した者が自分の手足を切り落として売るような世界が現れるのかもしれない。すでにウイグルでは、中国政府に捕えられた人々が〝教育施設〟に閉じ込められ、いつ臓器を摘出されるか分からない状態にあるともいわれる。そんな世界を〝悪夢〟と呼べる時代は、とっくに終わっているのかもしれない。

 そもそも、目の前の死体の手足はどこから手に入れたのか……。最悪の場合、4人もの人間を殺した可能性すらあるのだ。

 かすかな吐き気がこみ上げた。

 小野寺は、いったい何を考えてこんな手術をしたのだろう……。

 本当に医学の進歩を望んでいたのか?

 私に復讐したいだけなら、大金を投じてまでこんな遺体を作る必要はない。自分が完成させた免疫制御技術を誇示するために、送りつけてきたのだろうか?  

 いや、JOメディカルの研究員なら、世界の医学界に向けて発表するチャンスは与えられて当然だろう。ノーベル賞にも値する成果のはずだ。

 画期的な〝免疫デザイン〟の創始者として医学の歴史に名を刻み、輝かしい肩書きを手にして私や大学を嘲笑うこともできたはずだ。これほどの成果を出せているのなら、個人的な復讐で未来を失う危険など侵す必要はない……。

 やはり、四肢の移植はJOメディカルから許可されなかったと考えるしかない。

 その研究材料として胎児そのものが必須であれば、検討するまでもない。正常な企業なら、会社を窮地に陥れる危険性がある研究は避ける。国策だからこそ余計に、倫理的な疑義は一点も残せない。だから小野寺は臍帯血や過去の記録などをもとに理論を磨いていったのだろう。

 それは逆に、相変わらず理論を実証する道が塞がれていたことを意味する。

 必要な化学物質を胎児から抽出して、人体で効果を確認しなければ小野寺の研究は完成しない。ほんの数体の実験材料を手に入れただけで望ましい精度に達するとも思えない。未知の分野に挑むには、相応の試行錯誤を覚悟しなければならない。

 実験の繰り返しに耐えられる数の胎児が不可欠だということだ。

 つまり、通常のルートでは研究成果を誇示する方法はなかったのだ。困難な手術を人体で成功させ、それを世に問うことは望めなかったのだ。

 だから小野寺は、犯罪を犯すしかなかった……。

 誰にも止められずに実験や手術を行える環境を整えて、そこで胎児も手に入れた。そして理論を実際に確かめ、最終的にこの遺体を完成させたのだろう……。

 猟奇的な遺体が世間に知られれば、否応なしに注目を集める。当然それを行った医師は断罪されるが、同時に免疫デザイン技術の存在も知らしめることができる。小野寺の研究自体は、医学界に凄まじい衝撃を与えるだろう。

 私への復讐は、主な目的ではなかったのかもしれない。単に注目を集めるために〝猟奇犯罪〟を起こしたのか……。

 それなら、雅美が助かる確率は低くないのだが……。

 だが、遺体は大学病院の司法解剖室に囲い込まれている。まだ、ほんの数人の目にしか触れていない。特に医療関係者で見た者は、私たちだけだ。

 警察がこのまま公表を控えれば、この猟奇的な遺体は闇に葬られる。小野寺の研究も、再び葬られる。2度目の屈辱を味わうことが避けられない。それに気づかぬ小野寺ではないはずだ。

 ならば、何のためにこんな犯罪を犯すのか……?

 理詰めで考えれば、不自然なことばかりだ。

 つまり、小野寺はすでに理性を失っているということか? 狂気に囚われ、私への妄執に突き動かされて、これほど醜悪な遺体を送りつけてきたのか……?

 小野寺の行いには、ナチスが行った双子の結合手術や眼球への色素注入、あるいは人が溺死する過程を観察した非人道的な実験との類似性も感じる。まさに、狂気だ。単に個人的な嗜好を――異常に歪んだ性癖を満たすために、こんな非人道的な手術を行ったとするなら……。

 すでに正気を失っている人間に、倫理観やフェアな態度を期待することなどできない……。

 私の疑問は、堂々巡りを始めた。

 考えても分かることではない。小野寺は今、警察が追っている。彼らに任そう。私は、雅美の救出に専念しなければならない。

 何があろうと、このゲームに敗けるわけにはいかないのだ。

 集中しろ!

 深呼吸で息を鎮めてから、遺体の外傷を観察する。ルーティンワークを進めながら、頭の片隅でこの先の解剖の手順を練った。遺体の体内には、ダイナマイトらしきものを含めて4つの異物が埋め込まれている。

 どの順番で取り出していくべきか……?

 小野寺なら、私がどの順番で取り出すと予測するだろうか……?

 どんな〝罠〟を仕掛けるだろうか……?

 その〝罠〟を、どう避ければいいのか……?

 そして、もう一度息を深く吸って考えをまとめた。

 通常なら遺体を反転させて背面も精査するのだが、一人では難しい。しかも無理に動かせば起爆の恐れもある。規定の手順は省くしかないだろう。

 いつものように天井マイクに語りかける。

「今回の解剖では、ご遺体の体内に多くの異物が埋め込まれていて、それが解剖作業を妨害する可能性が高い。しかし、異物内には重要な情報が記されているために、恐らくは全てを取り出す必要がある。従って通常の手順とは異なる方法を取る。まず、食道に挿入されている爆発物と思われる異物の取り出しは、最後に行う。無理に排除して爆発を誘発した場合、その他の異物の取り出しが不可能になるからだ」

 冷静さを装うのに必死だった。

 予想される困難を回避するために最もふさわしい方法を考え出さなければならない。

 落ち着け……落ち着け……。

 今は爆発の恐怖を抑え込んで、理論的に危機に対処しなければならないのだ。

 だが、その恐怖は膨れ上がる一方だ。

 だめだ! 集中力を削がれるな!

「レントゲン画像で確認できた主要な異物は他に3つ。まず最初に、最も簡単にアプローチできる胃の中の異物を取り出し、その内容を精査する。それによって次の異物取り出しを円滑に行なうための情報が得られることを期待した判断だ」

 落ち着け……落ち着け……。

「食道内異物への振動を避けるために、通常は最初に行う肋骨の切除はその後に行い、次に心臓および右肺の背後の異物を取り出す。肺は周辺組織と分離していてスペースがあるから作業しやすいだろう。一方で心臓と大動脈は結合組織を切開したのちに異物を挿入していると予測され、現状が正確に把握できない。あるいは心臓付近の異物の方が取り出しやすい可能性も残る。どちらを先行させるかは、腹腔内の状況を観察したのちに決定する。最後に食道内異物を取り出す――」

 血が下がっていくのを感じた。かすかなめまいに襲われる。

 心臓の違和感も一向に去らない。

 認めるしかない。恐怖のせいだ。

 いくら落ち着けと言い聞かせたところで、怖いものは怖い。

 たかがVVR……血管迷走神経反射にすぎない。副交感神経が優位になって血圧が下がりすぎる、ありふれた生理現象に過ぎないんだ……そう分かっていても、恐怖は消えない。

 当たり前だ。人間は機械ではない。現象の理由を知っているからといって、原因が消え去るはずもない。

 怖いさ……怖くても、やるしかないんだ……。

 遺体の中には、ほぼ確実に爆発物が仕掛けられている。爆発を避けながら異物を取り出していかなければならないという現実に、改めて思い当たった。

 しかも、タイムリミット内に……。

 今はまだ充分な時間があると思える。だが、遺体にはどんな〝罠〟が仕掛けられているか分からない。ダイナマイトの起爆方法も、まだ予測できない。

 それでも、やり遂げなければ雅美が死ぬ。私がやるしかないのだ。

 覚悟を決めよう。

 私は両手を合わせて黙祷してから、顔の全面を覆う透明なフェイスシールドを被った。サンバイザーのひさしが下に向かって長く伸びたようなプロテクターだ。死体の血液や体液の飛沫によって、細菌やウイルスに感染しないように守るためだ。

 息を整えて、メスを取る。

「では、開胸を始める」

 通常の解剖は、上胸部から下腹部までの正中を真っ直ぐ切るI字切開法で行っている。外傷がある場合、その位置によっては胸部は左右の鎖骨下から胸部の中心に向けて切り、胸部中心から下腹部は正中を切るというY字切開法も用いる。その後に胸部の皮を剥ぎ、両開きのドアのように腹腔を開いてから肋骨を切っていくのだ。

 この死体にも、I字切開法で腹腔を切り開いた治療痕があった。傷は完璧に治癒している。つまり、いったん胸を切り開いてから異物や配線を挿入し、傷を閉じたわけだ。

 だとすれば、この傷のすぐ下、皮膚の裏に罠が仕掛けられている可能性も高い。治療痕に沿って胸を開くのは危険だろう。うっかりメスを入れれば、危険な配線を切断してしまうかもしれない。

「まず、胸部の側面からメスを入れる」

 遺体の足は私の左側にある。体の側面のヘソの下あたりにメスを入れて、ゆっくり腕の付け根に向かって切り込みを入れていく。胸の皮膚をコの字型に剥いで、右脇腹を支点にして片開きの冷蔵庫のように開けるつもりだ。このような方法は初めて取るが、少しでも罠を避けるためにはやむを得ない。

 しかし、切りすぎてコードを切断してはならない。複雑な配線のほとんどは解剖を遅らせるためのダミーだろうが、どこか一箇所にでも致命的な仕掛けが隠されているなら、危険は無視できない。

 メスをゆっくり切り進めていく……。

 指先に全神経を集中させる……。

 少しでも異常な抵抗を感じれば、すぐに切り進む場所を変えなければならない……。

 絶対に、配線を切断するな……。

 息を殺しながら側面を切り終え、その上下の切開に進む……。

 胸からヘソの下までを囲むように、コの字型の切り込みを入れ終える。

 詰めていた息を吐き出し、数回深呼吸する。

「次に皮膚を開く」

 ゆっくりと手前の切り込みを引っ張りながら、腹の皮膚を持ち上げていく。

 例えば牛の皮を剥ぐには、皮を強く引っ張り上げれば作業が早く進む。切るべき結合組織が浮き上がってはっきり見えるからだ。

 しかしこの遺体では、起爆の恐れがあって過剰な力を加えられない。しかも過去の手術痕があると、癒着のため作業が格段に困難になる。再手術は三倍難しくなるといわれる理由だ。

 何か異常な手応えはないか……神経を集中させる。不用意に配線を引っ張ることで爆発する仕掛けがあるかもしれない。

 一つ一つの作業に、異常に神経を使わされる。時間もかかる。まるで、固い土壌に埋まった地雷をナイフ1本で探りながら這っていく気分だ。

 息が詰まる……。

 通常ならば、メスで1回切ると3センチずつ深くなる視野が、今は1ミリずつしか進まない。まさに匍匐前進だ。いつもは5分もあれば終わる作業に、すでに3倍以上を要している。

 しかも、作業が進むほどにそのスピードが落ちる。この分だと、腹腔内にメスを入れるまでに30分以上かかってしまうかもしれない。

 一方では、タイムリミットが確実に迫ってくる。当初、9時間あれば充分すぎると甘く見ていた解剖は、やはり厳しいものになりそうだ。

 だが、逃げるわけにはいかないのだ。どれほど神経をすり減らされようが、爆発を避けながら雅美を救い出さなければならない。

 ようやく、遺体の皮膚を剥がすことに成功した。右側面――私から見ると上部を支点に、剥がした皮膚を開く。現れた臓器は、やはり異常だった。

 青、赤、黄、白の細いビニール皮膜の配線コードが、あっちこっちに張り巡らされている。太さは0・5ミリほどか。つまり、ボールペンで書いた文字程度の幅しかない。ちょっと引っ張ればすぐ切れてしまいそうだ。

 しかもその端は、どれも臓器の裏側に消えていき、どこに繋がっているのか、どこにも繋がっていないのかが目視だけでは分からない。分からない以上、どれも軽々しくは切断できない。

 その上、格子状に胃を取り囲むコードは、どれも5センチ間隔ぐらいで臓器に縛られている。わずかな緩みは持たせているものの、しっかり固定してある。飲食による胃の膨張を想定したのだろう。

 縛っているのは通常の手術に使用する非吸収性のモノフィラメントの糸で、じっくり観察すると〝男結び〟で処理していることが分かる。

 両手で交互に半結びを行う確実な結び方だ。糸の両端は1ミリほどに揃えて切ってある。感染予防の観点から見れば異物は小さいほど望ましいが、これ以上短くするとほどける恐れがある。完全な等間隔で、結び玉の形状も向きもすべて一致している。いかにも几帳面な小野寺の手技だ。

 小野寺は普段、多少手数が多くなるがほどけにくい〝外科結び〟を多用した。ここで〝男結び〟を使ったのは、単にコードを固定するための結索だからだろう。傷の縫合であれば反射的に〝外科結び〟を使用したに違いない。

 反面、小野寺は最も素早く結べる〝女結び〟を嫌った。ほどけやすいという欠点があることよりも、見た目が美しくないというのが理由らしい。並の医師なら小さな結び目など気にしないし、体内のことなので誰の目に触れるわけでもない。それでも許せないのが、小野寺だった。

〝糸結びが上手な外科医は手術が上手だ〟と言われるが、小野寺の指先はまるで精密機械のように正確に素早く動く。同期の私が臨床医を諦めて監察を志したのは、小野寺の手先のあまりの器用さに打ちのめされたからでもある。

 相手が死体なら、多少手先が不器用であっても〝本人〟は文句の言いようがないからだ。ただしその分、死因の究明に関する知識と感覚を研ぎ澄ませることには手は抜かなかったという自負はある。

 だから今、教授としてこの大学にいられる。千葉県で発生する多くの不審死体は、私の元へと運ばれてくる。

 私はハサミを取って言った。

「胃壁を取り巻いているコードをフリーにするため、固定している糸を切る。コードは……12本、それぞれおよそ5センチ間隔で胃壁に縫合されている。縫合している糸自体は切っても問題はないだろう……」

 そう、思えるだけだ。糸を切るだけで起動する罠など考えもつかない。やってみるしかない。

 一ヶ所を切る――。

 幸い、何も起きなかった。予想通りではあるが、緊張でまた息を詰めていたことに気づいた。この調子では、胃にメスを入れる場所を確保するだけでだけでどれだけ時間を浪費するか分からない。

 急がなければ……。

「コードが動かせる状態になったら脇に寄せて、胃の中央にメスが入るだけのスペースを作る。その後に胃の内部に挿入されている異物を取り出す――」

 言いながら、コードを固定している糸を切っていく。覚悟は決めた。もう、ハサミを進めることにためらいはなかった。縦横6本ずつのコードを固定している糸を次々と切っていく。

 それでも、コード自体を傷つけないように細心の注意が必要だ。緊張感を解くことはできない。

 そして自由に動くようになったコードを、胃の脇へと寄せていく。ただし、ゆっくりと、だ。不用意にテンションをかけると何が起きるかわからない。コードの両端が何につながっているかも判然としないのだ。万一引き抜くことにでもなれば、起爆する可能性もゼロではない。

 胃の表面があらわになった。中央には、私に挑戦するかのような手術痕が残っている。長さおよそ15センチ。小野寺は胃を縦にすっぱり切ったのだ。そして内部に異物を残し、傷を縫合した。

 ここも非吸収性のモノフィラメントでしっかりと縫合され、〝外科結び〟で処理されている。まるで、教科書に載っていそうな美しい手術痕だ。

 そして〝患者〟は胃の中に異物を収めたまま、傷が治癒するまでの数ヶ月間を生き続けた……。

 あまりに残酷な仕打ちだ。この残酷さに、一体どんな意味があるというのか……。

 小野寺はもはや、完全に私とは別の世界に住んでいるようだ。

 胃に触れる。

 レントゲン画像でも感じたが、ガスで膨らんでいるようだ。飲食した食物残渣が発酵したのか?

 この遺体は、死ぬ前に飲食などできる状態だったのか? 

 だが、そんなことに思いを巡らせている時間の余裕はない。すでに想定より多くの時間がかかることは分かった。

 正直、私は焦り始めていた。

 急がなければ……。

 胃が膨らんでいるのは、食道にダイナマイトを詰め込まれているためにガスが抜けることがないためだろう。軽く押す。さらに、レントゲンでピルケースのような異物が確認されたあたりを探っていく……。

 あった。固い感触だ。大きさもイメージしていた通りだ。これを取り出さなければならない。

 だがここも、手術痕の裏側に罠が仕掛けられている恐れがある。私は異物の反対側、手術痕の3センチほど横に平行に切り込みを入れることに決めてメスを取った。

「では、胃を切開する」

 罠がないかを見極めるために顔を近づける。そしてゆっくりとメスを差し込んだ。

 胃壁を突き抜けたと感じた瞬間だった。

 予想外の勢いでガスが噴出してきた。思わずメスを抜く。そのガスが押し出した大量の飛沫が、フェイスシールドの下の胸元に降りかかった。

 この匂い――まずい! セボフレンだ! しかも、匂いが強烈だ! 濃度が異常に高い! すぐに息を止めたが――

 ガラスの向こうに危機を知らせる間もなく、私は誰かに殴られたかのように一瞬で意識を失った――。

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