3 【AM10:23  残り時間 8時間37分】

 雅美は元看護師で、この病院で知り合った。だが、ここ2年ほどは別居を続けている。口止めはしているが、それを知るスタッフは、10歳以上年が離れた夫婦だから無理があったのだと思っているだろう。

 原因は私にある。

 雅美は、結婚してからずっと子供を望んでいた。だが、5年間妊娠することはなく、その後、独立した同期の婦人科医の元で不妊治療を始めた。私の精子に異常はなかった。不妊の理由はおそらく雅美の側にあった。だから前もって、密かに検査結果を知らせてもらった。

 MRIの検査で、雅美の子宮に先天性の奇形が発見された。子宮発育不全症だ。着床はできても、胎児の成長はほとんど望めないという。手を尽くして流産を食い止めても、成長する過程で母体を傷つける可能性が高い奇形だった。

 事実を雅美に知らせるべきか、私は迷った。

 悩んだ末に、結局、教えなかった。雅美は事実を知っても妊娠を望むと分かっていたからだ。そしてほぼ確実に、流産によって心に深い傷を負う。無理に出産を試みれば、肉体にまで傷を負う恐れがある。

 最悪の場合、命を失う。

 雅美はそれを知っても自分の子供が欲しいと言うに違いないと、私は確信していた。そういう女なのだ。

 だから私は自分一人で現実を受け止め、対処した。婦人科医に頼み込んで事実を隠してもらった。もちろん、厳密には犯罪にあたる。だが私は、卑劣な手段を使ってでも雅美を〝守り〟たかった。そして、密かにパイプカットの手術を受けた。

 不妊治療の努力はしたが、子供はできなかった――。その〝現実〟を受け入れることが、私にも雅美にも最良の結果だと信じたからだ。子供がいなくても、幸せは作れる。養子を迎えることもできる。そう、慰め合った。

 年に数回のカウンセリングは続けていたが、雅美も子供は諦めたと思っていた。40歳を超え、妊娠を望める限界に近づいていたからだ。だが雅美が一人で病院を訪れた時、たまたま友人の医師は不在だった。そして担当した別の婦人科医が雅美の異常に気付き、告げてしまったのだ。

 雅美は経験豊富な看護師だった。産科を担当したことはなくとも、一般人より知識はある。その医師は雅美に追求され、結局私が不妊手術を受けていたことまで隠せなくなってしまった。

 雅美は私をなじった。私は仕方なく、事実を打ち明けた。雅美を大切に思うからこそ、そうするしかなかったのだと訴えた。だが、受け入れられなかった。

 もちろん、子供を持つ望みを絶たれたことは悔しかっただろう。とはいえ、雅美は現実を認められる理性を持っている。自分の身体が妊娠に耐えられないことは理解できたはずだ。

 雅美は何よりも、私が1人で勝手に重大な決断を下したことが許せなかったのだ。自分の気持ちが置き去りにされていたことがどうしても耐えられなかったのだ。

 無論、パイプカットをした後でも人工授精を行い、代理母出産をすれば〝実子〟を得られる可能性は残っている。だが代理母出産は、そもそも雅美が嫌っていた手段だ。しかも子供ができるかどうかは、もはや問題ではなくなっていた。

 雅美との気持ちのすれ違いは、修復できないほどこじれていた。

 私も、雅美を裏切った自分が許せなかった。それでも、あの決断しかあり得なかったと信じている。

 私も子供は欲しかった。だが、雅美を傷つけてまで望んではいない。同じ岐路に再び立たされれば、同じ結論を下すだろう。

 私は、そうはっきりと言葉にした。

 だから雅美は出て行った。雅美が実家に戻って数ヶ月後、離婚届が送られてきた。それはまだ、自宅の机の引き出しに入っている。もう2年が過ぎたが、催促もされてはいない。

 雅美は今、どうしているのか?

 今でも私は許されていないのか?

 毎晩考えてきた。顔を合わせて、謝りたいと思ってきた。何度でも謝りたい、許されるまで謝りたいと思ってきた。

 それなのに――。

 なぜ、雅美をこんな事件に巻き込まなければならないのか……。

 雅美の指輪が死体に埋め込まれていた理由は疑いようがない。約8時間後、爆破される場所には雅美が捕らわれているのだ――。

 雅美はもちろん、同じ病院で働いていた小野寺を知っている。だが当時から他の看護師と同様、とっつきにくい小野寺を避けるようにしていた。理解しがたい人間性を怖がっていたと言っていいかもしれない。

 私が小野寺と親しいことを知ると、なぜ私だけが友人になっているかをひどく訝った。私は、共に不遇な研修医時代を過ごしたことを語ったが、だからと言って雅美が小野寺を見る目は変わらなかった。はっきり言えば、小野寺はほとんどのスタッフから不気味な変人として毛嫌いされていたのだ。

 しかも雅美は、私が原因で小野寺が大学を去ったことを、誰よりも深く知っている。小野寺を裏切る結果になったことが苦しくて、その葛藤を何度雅美に打ち明けたことだろうか……。

 雅美は捕らえられる時、小野寺と会ったのだろうか。だとすれば、原因が私にあることを思い知ったはずだ。どんな恐怖を味あわされたのだろうか……。

 きっと、今まで以上に私を恨んでいるだろう……。

 私はガラスの向こうの園山を見て言った。

「この指輪は……妻のものです……」

 バットからつまみ上げた指輪を見せ、スクラブスーツのポケットに入れた。

 園山の顔色が鋭く変わる。

『奥さん⁉ それじゃ、捕らえられて……?』

「おそらく……」

『ご自宅に刑事を向かわせます』

「妻とは別居しています。そこの机のコンピュータの名簿に今の住所が入っています。画面の上の列の右側にある虫眼鏡のアイコンをクリックしてください――」

 自分がなぜこんなに冷静に説明しているのか、自分でも理解できなかった。頭には一気に血が上っている。心臓が重苦しく、胸の奥でばくばくと暴れているのも感じる。なのに、感情を持たないロボットのように話している。

 なぜだ? 分からない……。

 人はあまりに激しい感情を抱く時、かえって冷静になるともいわれる……。心の振幅が、一瞬で振り切れてしまったようだ……。

 雅美は、おそらく小野寺に捕らえられている。でなければ、結婚指輪を死体に埋め込むことはできないだろう。タイムリミットが過ぎれば、本当に殺されるかもしれない。

 だが雅美は、別居しているのに指輪を嵌めていたのだろうか?

 小野寺は無人の自宅に侵入して、指輪だけを盗んだのではないか?

 それなら、雅美には危害が加えられていないはずなのだが……。

 園山の部下が机のiMacを操作し、ハードディスク内を検索するソフトの入力画面を表示するのが見えた。

「あきづきまさみ――ひらがなで検索すれば名簿が出てくるはずです」

 キーボードを操作した刑事が言った。

『出ました』振り返って私を見る。『至急、奥さんを保護するように手配します!』

 そう叫ぶと、自分の携帯電話を出して小声で指示を送り始めた。

 園山が私に語りかける。

『奥さんの保護は槇原――あ、この刑事ですが、こいつに任せます。本庁も全力で捜査に当たりますから、ご安心ください』

 簡単に言ってくれるものだ。

 私を逆恨みして異常な犯罪に走った男が、実際に爆発物を誇示し、その上で雅美を誘拐したらしいのだ。それが確かなら、雅美が殺される可能性は低くない。そんなことは刑事でなくても分かる。

 なのに、安心しろだと? 安心して、解剖を始めろと言いたいのか⁉

 だが……。

 小野寺の目的は、私への復讐のはずだ。だからこそ、無関係な雅美が巻き込まれた。ならば、雅美を救けるのは私の責任ではないか。雅美の居場所がこの死体に隠されているなら、私が探し出さなければならない。

 私は雅美を傷つけた。理由はどうあれ、失意のどん底に突き落とした。だから、これまでの別居もやむを得ないことだと受け入れてきた。いつか許される時が訪れることを信じて、耐えてきた。耐えなければならないと自分を責めてきた。

 なのに、私の行いが雅美にさらなる苦痛を与えている。何の落ち度もない雅美を、生命の危機に陥れている。

 誘拐されたのなら、さぞ恐ろしい思いをしただろう。小野寺を見たなら、ひどく怯えただろう。今も、恐怖にすくんでいるに違いない。暴力を振るわれているかもしれない。小野寺が狂気の領域に踏み込んでいるなら、すでに殺されている可能性さえ否定できないのだ。

 しかも目の前の遺体は、まさに狂人が作り上げた悪趣味なオブジェのようにしか見えない。今の小野寺に理性を期待するのは、おそらく無駄なのだろう……。

 あまりに理不尽だ。許せない。雅美を苦しめる自分自身が、許せない。私はなぜ、自分が愛した女をこんなに苦しめてしまうのだろう……。

 絶対に許せない。何がなんでも、雅美を救わなければならない。この遺体には、どんな罠が仕掛けられているか分からない。この先、どんな要求が突きつけられるかも分からない。それでも、救わなければならない。たとえ私の命に代えても、雅美を救わなければならない。

 私は言った。

「よろしくお願いします。この遺体の中に妻の居所の手がかりがあるなら、必ず探し出します。妻を救ってください」

 園山はきっぱりとうなずいた。

 その時、廊下に通じるスライドドアが開いた。大橋花苗君が移動式レントゲン装置の回診ユニットを運んできたのだ。小柄な体で、キャスター付きのカートを1人で押している。

 私はドアに向かい、花苗君に言った。

「有田君に持って来させなさいと言ったのだが」

「私がやります。画像診断には自信がありますから」

 それは正しい。

 経験豊富な有田君は高いスキルを持っているが、画像診断に関してだけは花苗君の感覚が上だ。視覚が細やかで、病変を読み取る直観力が優れているのだ。私が舌を巻いたことも数知れない。

 だが、花苗君を爆発の危険に晒させるわけにはいかない。

「大橋さんは、ここまででいい。あとは私が1人で進める」

 花苗君は驚いたように目を丸くした。

「1人でですか⁉」そして解剖室を覗き込む。「刑事さんも手伝ってくれないんですか?」

 長年助手を務めてくれている花苗君に嘘はつけない。

「危険なんだ。この死体には、罠が仕掛けられていると思う。私を狙った罠だ」

「罠……って?」

「おそらくは、体内に爆発物が仕掛けられている」

 眼鏡の奥の目が大きく見開かれる。

「爆発物って……? まさか……そんな死体を解剖しろって言うんですか⁉ それに、先生を狙っているって……?」

 私はガラス越しに園山を見た。園山は、小さく首を横に振る。

 当然だ。あまりに猟奇的な事件だ。軽々しく外部へ漏らすわけにはいかない。

「すまない……今は、詳しくは教えられない。危険が去って警察の了解が得られれば、すべて話す。必ず話すから、君はこの場から退避してくれ。危険な目に会わせるわけにはいかない」

 花苗君がつぶやく。

「でも……あ、そうか……。だから廊下のみんなが慌ただしかったんですね……先生を放ったらかして、逃げ出したんだ……」

「警察から避難命令が出ているんだ。君も逃げてくれ」

 私の目の真剣さを感じ取ったのだろう。花苗君は素直にうなずいた。

「でもそれなら、解剖前にCTやMRIでもっと詳しい体内データを集めた方が安全ですよね? 手配しますか?」

 さすがに信頼できる一番弟子だ。先を見通す力は確かだ。花苗君が危惧する通り、移動式レントゲンだけでのデータでは心もとない。通常の検死でさえ、解剖前にCTなどのデータを揃える大学があるぐらいだ。

「できればそうしたいが、高価な機材を爆発の危険に晒すわけにはいかないし、MRIは使うなと命令されている」

「命令……ですか?」

「こんな死体を作った犯人からの指示だ」

 万が一にも装置を破損させれば億単位の損失になる上に、すぐには補充できない。被害が建物本体にまで及べば、損害はさらに拡大する。最悪の場合は医学部と病院全体の機能が停止するし、能力が著しく低下することは避けられない。患者の生命に関わる危険性も高い。当然、大学の経営にも致命的な悪影響を与える。

 反面、爆発が病院の外れに位置するこの解剖室で起きるなら、被害は最小限に抑えられるだろう。

 私の立場では、そこまで先読みすることを求められるのだ。

「でも――」

「私が判断したことだ」

 花苗君が仕方なさそうに言う。

「それでも、FPDのセッティングは1人じゃ大変です。そこまでは手伝わせてください」

「だから危険なんだって――」

 花苗君は背筋を伸ばし、その目は真正面から私を睨みつけている。

「さっきはご遺体の衣服をハサミで切りました。何も起きませんでした。それって、少しぐらい振動を与えても爆発しないってことですよね。メスを入れるまでは大丈夫じゃないんですか?」

 こんな時の花苗君は、何を言っても折れない。普段は細やかな気遣いができる柔らかい雰囲気の女性だが、いざという時の頑固さは並ではない。厳しい解剖にも耐える精神力も持ち合わせた、頼れる助手なのだ。

 そんなところは、まるで看護師時代の雅美を見ているようだ……。

 花苗君は私の了解も待たずにカートからFPDを抜き出す。

 FPDは17×17インチサイズの板状パネルで、X線の受光器と送信機を兼ねている。このパネルを体の下に敷いて上部から小型のX線発生装置で照射すると、体内の透過画像がカートの中のコンピュータに送信されるのだ。カートにはコンピュータとリンクしたiPadも収納されていて、透過画像をリアルタイムで見ることもできる仕組みになっている。

 こうなると、誰も花苗君を止められない。さっさと撮影を済ませて退避させるしかない。

 私たち2人は無言でレントゲン撮影を進めた。私が傾けた死体の下から花苗君が切断された衣類を引き出し、代わりにパネルを差し込む。私はカートからX線発生装置を伸ばして位置を調整し、照射する。胸の上部から走査を開始した。カートのiPad画面を見ながらさらに画像を調整する。花苗君は別のiPadで同じ画面を見ていた。

 最初に映し出した食道の映像がもはや常軌を逸していた。細長い人工物を押し込まれたような影が見える。

 花苗君が言った。

「これ……なんでしょうね。食道に何か詰め込まれているみたいですね。それに……」

 花苗君は、透過画像の解析にずば抜けた才能を持っている。ほんの小さな陰影も見落とさず、その意味を的確に判断できる。

「それに?」

「体内のあっちこっちに細いひも状の薄い影があるみたいで……。手術用の糸だとしてもわざと残したもののようですし……ペースメーカーの細いコードのようなものにも見えます」

 私は見逃していた。

 ポータブルレントゲンの画像は一般的に陰影が薄くなりがちだ。そのために、体内に入っている医療用チューブなどを見逃すことも珍しくない。その場合は、骨組織の濃度を低くしたりコンピュータプログラムによってコントラストを強調したりする。私は、さらに画像を鮮明化させた。

 私にも〝それ〟が見えた。思わず声が漏れてしまった。

「これは……一体、なんなんだ……?」

 食道の異物も鮮明になったが、その下の肺の周囲はさらに異常だった。

 肺や心臓といった臓器の画像の上に、カッターナイフで引っかいたような〝傷〟が無数に走っている。花苗君が言うように、細いコードが縦横無尽に臓器を取り巻いていようだ。細いといっても、医療用のモノフィラメント糸よりははるかに太い。それがレントゲン画像にうっすらと映し出されているのだ。

 花苗君がつぶやく。声は、冷静だ。

「食道の棒状の物体にはコードがつながった短い鉛筆のようなものが刺さっているみたいです……周囲には何本ものコードが絡まっているみたいで……なんだか小さな部品みたいなものもあっちこっちにつながっています……これが爆発物なんですね?」

「大橋さん、ここから先は私1人でやろう」

「これって、信管ってヤツですかね……?」

 私は小さくうなずいて、園山を見た。

「発見されたダイナマイトの大きさ、詳しく分かりますか?」

『調べる』

 そして、槇原という部下に目配せする。槇原はすぐに携帯で連絡を取った。返事はすぐに返ってきた。

 槇原が言った。

『直径17ミリ、長さ175ミリだそうです』

 画像の影と一致する。これがダイナマイトであることは間違いない。しかも、信管が刺さっている。どうやって起爆するかは不明だが、体内に張り巡らされた配線や細い部品と無関係ではあり得ない。おそらく、配線のどこかを不用意に切ったり外したりすれば爆発するのだろう。

 私は言った。

「君はすぐここを離れなさい」

 花苗君がうなずく。

「分かりました。全身の走査が終わったら、私は退出します。それまではお手伝いさせてください」

「今すぐ出なさい」

「いいえ。見たところ、時限装置のような物はなさそうです。ただの脅しじゃないんですか? 傷は治癒しているんですから、体の中のコードは何ヶ月も前に入れたはずです。そんな仕掛けが機能し続けているとも思えません。本当に爆発するとしても、無理に取り出そうとしなければ大丈夫でしょう。1人では、時間が無駄になりますし」

「ダメだ。今すぐ――」

「私もここの監察医です! 持ち込まれたご遺体には責任があります。助手としての仕事を終えるまでは、退出しません!」

 やはり、意志が固い。

 花苗君を守りたかった。

 実は、花苗君が私に好意を持っていることはずっと以前から薄々感じていた。いい歳をしたオヤジの妄想だと笑い飛ばしてはいた。だが2ヶ月ほど前、有田君の歓迎会で酔った私はうっかり妻との別居を喋ってしまった。その時、帰り際に軽く腕を握られ、食事を作りに行きましょうか――と、こっそり囁かれたのだ。

 最初は酒の勢いでふざけているのだと思おうとした。だが、眼鏡の奥の目には思いつめたような光が揺らいでいた。声はかすかに震え、弱々しく、いつもの花苗君らしい快活さは微塵もなかった。挨拶代わりの社交辞令ではありえない。必死の思いで絞り出した一言だったのだろう。

 私も花苗君は好きだ。職務には誠実で勤勉、有能な部下として育てる価値がある人材だ。何より、異性として魅力的だと思う。

 花苗君を見ていると、若い頃の雅美の姿が重なることが多い。だからこそ余計に、受け入れるわけにはいかなかった。

 それは、花苗君に対してあまりに失礼だ。

 年齢は離れているが、若い女性を歓迎する男も多いだろう。雅美と別居して2年も過ぎているのだから、他の女性と関係を持つことも不自然ではない。おそらく、誰からも非難はされないだろう。そんな理由がなくとも、浮気がやめられない男は同僚にも掃いて捨てるほどいる。

 だが私は、雅美を裏切れない。今でも雅美を忘れられない。遊びと割り切って関係を持ち、花苗君を傷つけることにも耐えられない。

 何よりも、花苗君は自分の子供のようにしか思えない……。

 だが、子供を持ったことがない私が言ってもまるで説得力はない。実際は、そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。それ以上、自分の気持ちを深く掘り下げることはなかった。掘り下げた場所から何が現れるのか、直視することを恐れたのだろう。

 いったん関係を持ってしまったら、その先の自分がどうなるのか予想もつかないのだ……。

 さり気なく断ったあと、花苗君は有田君と付き合い始めたようだ。祝福してやりたかった。花苗君には、その方が似合う。

 そして、絶対に正しい。

 だから、守ってやりたかったのだが……。

 今も花苗君は、眼鏡の奥に固い決意を煌めかせている。これは、闘う時の目だ。諦めるしかなさそうだ。

 園山たちも、何も言わずに私たちを見守っていた。確かに、全身の走査を1人でこなすのは大変だ。時間もかかる。今は一刻も早く遺体の状況を正確に把握するべき時だ。

 でなければ、雅美を救うための時間がどんどん失われていく。

 花苗君の観察眼と手助けが役に立つことも間違いない。

 私はうなずいた。

「ありがとう。だが、走査を終えるまでだ。終わったら、すぐに安全な場所に退避してくれ」

 花苗君はにっこり微笑んだ。

「さ、続けましょう」

 私たちはパネルを移動しながら、全身の透過画像を集めていった。

 最終的に得られたデータは驚くべき物だった。異物は、1つではなかったのだ。しかも腹腔全体に、細いコードが複雑に張り巡らされている。

 大きな異物はダイナマイトを含めて合計4か所。胃の内部、右肺の裏側、そして心臓の裏側にも埋め込まれていた。食道のダイナマイト以外の3つは、長方形のピルケースのような形状をしている。サイズは、ミントタブレットのケースぐらいだろうか。どれも同じ物のように見える。

 その他にも、指先程度の大きさの電子部品らしきパーツがあちこちに埋め込まれている。ざっと数えて30個は超えそうだ。

 まるで、人体を基盤にして電子装置を組み上げたような異形の映像だ。その目的は、ダイナマイトを起爆させるためだと考えるべきだろう。

 私を陥れるための罠だ。

 それが仮にダミーだとしても、確信が持てるまでは力任せに取り外すわけにはいかない。必然的に時間をかけることになる。

 だから小野寺は、長すぎるとも思えるタイムリミットを設定してきたのだ……。

 花苗君がiPadの画像を拡大しながら、妙に落ち着いた声で言った。

「このケース、金属みたいですね……中は何だろう……」

 胃の内部の異物のことだ。ペースメーカーの透過画像でも、回路や配線まで見えるのが普通だ。あえてX線が透過しない金属で作っているのだろうか。サイズからいって、爆発物だとは思えない。だとすれば、ここに雅美を監禁した場所が隠されているのか……。

 ダイナマイトは死後に首の切断面から挿入したものだろう。しかし体内の配線やピルケースはそうはいかない。こんなものを体内に埋め込みながら、しかも四肢を移植し、傷が治癒するまで数ヶ月間も生命を保っていたことは驚異としか言いようがない。

 まず確実に、人工心肺などの生命維持装置をフルに活用しなければなし得ない。手足の筋肉の萎縮は、寝たきりだったことを示唆している。高度な医療技術が不可欠だが、膨大な設備と管理する人材も必要だろう。とても個人的な復讐心だけでできる〝手術〟だとは思えない。

 いずれにしても、ここから先はメスを使うしかない。

 私は花苗君に言った。

「データは揃った。安全な場所へ」

「はい、分かりました」

 そう答えた花苗君は廊下ではなく、教授室へつながるドアへ向かう。

 私は言った。

「そっちじゃない!」

 花苗君はドアを開けて振り返った。

「先生の仕事、見届けます。助手ですから」

「だめだ。すぐにここを離れなさい!」

「胃の内容物の分析とか薬物の検出とか、1人では時間がかかることはたくさんあります。こちらで待機していますから」

「この解剖はいつもとは違う。死因の解明よりも異物の摘出が優先される。臓器は保存しておくから、分析は後で進めればいい」

 園山も戸口に顔を出して、花苗君に言った。

「ここは危険です。爆発に巻き込まれても警察は責任を取れません。あなたは退避してください」

 花苗君は園山に向かって吠えた。

「言ったでしょう、私は秋月教授の助手です。助手は、必要とされる時に手助けできる場所にいなければなりません。X線画像の細部を読む力は教授より私の方が上ですから。それに……」不意に声を落とす。「こんな事態、大っぴらにはしたくないでしょう? マスコミとか、群がっちゃいますよ、首なしの死体に爆弾が入ってるなんてうっかり私が喋ったら……。目が届く場所で監視していた方が安心じゃありません?」

 百戦錬磨の刑事を脅迫している……。

 何がなんでもこの場を離れないつもりだ。事実、画像の読み取りでは花苗君の勘は私を凌ぐ。花苗君がそう決心したのなら、もう私には説得できない。

 園山が困ったように私を見た。私は、小さく肩をすくめた。

 園山は命じた。

「ただし、事態が収拾できても余計なことは口外しないように。守秘義務が発生しますから」

「医師にはそもそも守秘義務が課せられています。医師の仕事を邪魔されなければ、警察の仕事も邪魔しません」

 ならば、仕事を頼もう。

「大橋さん。DNA検査の手配、お願いします」

 花苗君が私の傍に戻る。

 園山が言った。

「警察でも進めていますが?」

「二重手間になっても構いません。病院には病院の方法がありますから。得られるデータにも差があるかもしれません」

 たとえ短時間であっても、花苗君を解剖室から引き離しておきたかったのだ。爆発は、いつ起きるか分からない。今すぐ警察の爆発物処理班を呼ぶというわけにもいかないだろう。呼んだところで、意図的に爆発させることで安全を確保されたら雅美を救う手がかりも消え去る。

 雅美の居場所を知るには、爆発を避けながら解剖して手がかりを見つけ出す他ない。

 逃げ道はないのだ。

 私はまず血液サンプルを取って花苗君に渡してから、死体の胴体から皮膚の一部を切り出して試験管に入れた。

 通常のDNA検査は血液で行う。最新の機器を使えば1時間以内で大雑把な解析を終えられるからだ。

 しかし、血液は接合された四肢にも巡っている。この遺体の場合、体内を循環する血液と体細胞のDNAが異なるはずだ。四肢の持ち主を特定するには、直接体細胞を調べるしかない。

 採取した細胞サンプルを花苗君に手渡す。花苗君は、試験管にマジックで採取場所を記入した。それを、四肢でも繰り返す。

 私は無言だった。花苗君も、黙々と作業を続けた。私があえて体細胞を採取している理由も理解している。互いに、何をすべきかは分かっているのだ。

 だが、何を言うべきかが分からない。

 花苗君は5種類の検体を受け取ると、教授室へ入ってドアを閉じた。すぐにガラス窓から顔をのぞかせ、言った。

『先生、気をつけて』

 その表情は、まるで初めて幼稚園に登園する子供を見送る母親のようだった。解剖室に取り残された私も、初登園に怯える幼稚園児になった気分だ。

 ついさっきまで、父親だったはずなのだが……。

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