2 【AM10:11  残り時間 8時間49分】

 心臓に、重苦しい違和感が起きた。

 ストレスが限界を超えた時の、いつもの反応だ。持病の拡張型心筋症のせいだ。まだ普通の暮らしを送る分には何も問題はないが、激しい運動や不規則な生活は禁止されている。急な血圧上昇は避けなければならない。

 その点、一刻を争う急患が入ることがない法医学教室は私に向いている。病状はゆっくりと悪化する傾向にあるが、今のところ問題が起きたことはない。

 月に一度は診察を受けるように、同じ大学の先輩である心臓外科医から厳しく釘を刺されているのだが……。

 不意のショックに襲われて、心臓をいたわる余裕などなかった。

 この遺体は、常識を覆す〝あり得ない姿〟をしている。それに気づいた衝撃でアドレナリンが吹き出し、血流が一気に増大して心臓の負担が増したのだ。胸の奥で心臓の鼓動が激しくなったことも、はっきりと感じる。

 しかも、遺体の体内には何らかの情報が隠されてされているという。胸の手術痕は、その異物を挿入した時の傷だろう。

 一体、なんの目的で遺体の中に情報を隠すのか……?

 確かめなければならない。その内容が分かれば、異常な遺体が私に送りつけられた理由もつかめるかもしれない。

 私はガラス窓の横に配置された重たい金属製のドアを開いて、早足で解剖室に入った。

 花苗君に命じる。

「有田君にポータブルレントゲンを持ってくるように頼んで。まず、遺体のレントゲン撮影を行います」

 通常は解剖室にレントゲンは用意していないのだ。

 花苗君はぺこりとうなずき、壁に据え付けた内線電話を取った。指示を出し終えると、言った。

「私、準備を手伝ってきます」

 私が指示する間もなく、廊下側のスライドドアを開いて出て行く。そこも金属製のドアだ。病原菌を通過させないために厳重なパッキンを装備し、廊下に出る前にはエアシャワーを備えた前室が完備されている。

 私は、判断を誤ったようだ……。

 これほど異常な遺体が運び込まれると分かっていれば、助手は最初から有田君を選んでいた。

 有田君はシカゴのERにもいたのでどんな状態の遺体でも驚かないだろうし、医学的知識や技術では明らかに花苗君を凌ぐ。何より、経験が豊富だ。未知の事態に対処するには、臨床経験が多いに越したことはない。

 ラグビー選手のような刑事は、目を丸くしたまま遺体を見つめている。言葉を失っているようだ。送り状や脅迫状の件は知っていても、全裸になった遺体がこれほど不自然な姿だとは思わなかったのだろう。

 近くから見下ろした私も、目を背けたくなった。

 遺体には慣れている。だが、幼児が面白半分に組み替えた人形のような姿には、生物の法則を全否定するような禍々しさが漂っている。何もかもが、常軌を逸している。

 私は教授室へのドアを示した。

「そちらでご覧ください。ご協力、ありがとうございました」

 刑事は我に返ったようにうなずくと、無言のまま園山の元へ向かった。

 私は改めて遺体を観察した。

 四肢の結合部分が気になっていたのだ。ガラス越しで見た時は、切断した四肢を単純に胴体に縫い合わせただけかもしれないとも考えた。死体を縫合するだけなら、外科医なら誰でもできる。

 そうではなかった。

 どの傷も、完全に〝治癒〟している。縫い合わせた糸も残っていない。単につないだだけなら、糸がなければ四肢は落ちる。だが、切断した四肢が完全に接合するにはかなりの時間がかかる。少なくとも、1ヶ月間は抜糸などできない。

 それどころか、癒合――機能を維持した状態でくっついているなら『四肢移植』という医学的に極めて困難な手術に成功している可能性が高い。

 例えば切断されたのが自分の腕であって、しかも直ちに接合手術を行ったとしても、必ずしも元どおりに動くようにはならないものだ。まして血管や神経の走行は個体差が大きく、移植手術自体が超絶技巧を要する。たとえ他人の手足の移植に成功しても、実用レベルまで動かないのが常識だ。

 その上、移植後は拒絶反応を抑えるため免疫抑制剤を死ぬまで内服し続けなければならない。4人分の手足をつないだなら、拒絶反応は激烈なはずだ。

 そんな生物学的障壁を、この遺体は乗り越えたようだ。医学的には、とてつもない偉業と言える。

 だが、4人分の手足の接合に成功していながら、わざわざ患者の頭部を切断して殺害している。最初から殺すつもりなら、なぜ医学界の常識を覆す四肢の接合手術など行ったのか? そんな無意味な労力をかける理由が、どこにあるのだろうか……?

 ラテックスの手袋をはめて腕の付け根に触ってみた。異常な手応えはない。皮膚も骨も筋肉も、普通の遺体と感触は変わらない。

 血流が途絶えれば四肢は壊死する。だからこの死体の四肢は、完全に血管をつなげられていたことになる。解剖台への移動も普通にできたのだから、骨も全てつながっている。切断した骨をつなぐボルトとプレートの手触りも感じる。触れただけでは判断できないが、数ヶ月生き続けていたのなら神経や筋肉もつながっている可能性が高い。

 5つもの人体をつなぎ合わせ、傷が治癒するほど長い時間、免疫力を制御できたことはまさに驚異だ。

 人間の体は自分を守るために、侵入してきた異物を識別して攻撃するシステムを備えている。細菌やガン化した細胞は、この機能によって消滅させられ、健康が維持される。一方で臓器を移植した場合にも、この免疫システムが他者の細胞を〝異物〟と判断して攻撃を開始してしまう。

 それを抑え込むには免疫抑制剤が必須だ。だが免疫力を意図的に低下させれば、その他の危険な異物を拒否する機能も落ちて、感染症とガンに罹患しやすくなってしまう。健康な人間であれば気にも留めない弱毒性の細菌やウイルスでさえ、致命的な機能不全を引き起こす危険がある。

 臓器移植手術が無事に終わっても、その後の一生は常に感染症の恐怖に怯え、時に命を落とすことになるのだ。

 臓器移植の最大の難しさは、その免疫抑制のジレンマを克服することにある。

 多数の個体を結合したこの遺体の場合は、より多くの免疫抑制剤を投与しなければならなかったはずだ。副作用も甚大だ。危険はより高まる。

 そんな無理をしながら、果たして傷が治癒するまで生命を維持できるものなのか……?

 特にHLA――主要組織適合抗原という、いわば個人個人の免疫の〝型〟がかけ離れていると拒絶反応は強くなる。その場合は移植手術自体に成功しても、手足が壊死して脱落してしまうだろう。危機的な拒否反応を起こさないためには、最初から似通ったHLAのドナーを選ぶのが最善の策だ。

 だから一般の臓器移植でも、ドナーを見つけるのが非常に困難なのだ。血液型不適合の移植手術の場合に限れば、免疫抑制剤の進歩で成績は良くなってきているといわれているが……。

 それでも5人のHLAが適合するようなドナーを見つけ出せる確率は天文学的に低い。逆に、HLAを無視して四肢を寄せ集めたのなら、拒否反応を徹底して押さえ込んだことを実証している。

 怪奇小説やホラー映画なら、バラバラの死体でも縫い合わせて電気を流せば生き返る。だが、現実は全く違う。そのような離れ業が可能だとは、考えたこともない。多くの医師が同じだろう。

 だが、この猟奇的な死体を〝作った〟何者かは、それをやってのけた。方法は不明だが、極めて実現が難しい〝神の技〟を成し遂げている。

 まさに、墓から掘り起こした死体をつなげて怪物を産んだフランケンシュタイン博士のように――。

〝犯人〟に思い当たった。

 そうだ……あいつしかいない……。

 このような技はフランケンシュタイン博士にしかできない。ドクターF――陰でそう呼ばれた小野寺悟の他には、こんな手術が可能な者など思いつかない。試みようとする者もいないだろう。

 結果的に私が引導を渡すことになってしまった、小野寺以外には……。

 小野寺はこの大学を解雇される時、私にすがりつくようにして訴えた。

『お前が俺を売った理由は分かる。お前は規則を破れない男だからな。だが、あれは絶対に必要な研究だった。いつか誰かがやらなければならなかったんだ。あの発見が確立されれば、医学界へ与えるインパクトは計り知れない。救われる患者も膨大だ。医学の革新に犠牲はつきものだ。恐れてばかかりじゃ、医学は進まない。人類史上初の心臓手術が成功するまでにだって、患者が7人も立て続けに死んでいるんだぞ。それでも俺たち医師は、壁に挑んできた。壁をぶち壊すことだって医師の役目じゃないのか⁉ しかも、この国の医療はただでさえ輸入超過なんだ……このままでは海外の医療技術から遅れをとるばかりだ! これは、海外との戦争でもあるんだ! 日本独自の武器を持たなくちゃ戦えないだろうが! 俺は、その武器を作ろうとしているんだ。時が経てば、先駆者の英雄的行為として必ず評価されるにちがいないんだ!』

 あの姿は、いつまでたっても私の脳裏から去らない。

 当時、小野寺は臓器移植に強い関心を持ち、恒常的かつ安定的に免疫を制御する方法を必死に模索していた。免疫抑制剤のようにすべての免疫力を一斉に低下させるのではなく、移植した臓器だけを攻撃しないような選択的な制御を目指したのだ。

 いわば、〝免疫のデザイン〟だ。そして辿り着いた仮説の突破口が、胎児の免疫抑制力だった。

 母親は妊娠中、〝異なる個体〟と体液を共有している。だが、母親の免疫システムが胎児を攻撃することはない。胎盤がバリアとなって胎児を守っているというのが大まかな理解だが、その具体的な仕組みは未知の部分が多い。小野寺は、12週未満の胎児の側にその〝解答〟があると予測した。

 胎児が極めて脆弱な期間にしか生成されないなんらかの化学物質が、免疫機能を長期間にわたって安全にコントロールしているのではないか、と……。

 そして、大学に隠れて禁断の実験を手掛けてしまった。

 産科で破棄した流産後の胎児を密かに研究材料に用いたのだ。流産や中絶によって発生する胎児は、事実上は淡々と焼却処理される〝医療廃棄物〟でしかない。誰にも所有権はなく、むろん人権が発生するわけもない。法的な意味では、問題にされる事柄ではないと考える者もいる。

 だが、IRB――倫理委員会に諮れば、確実に却下されると分かっていた。研究や治療目的で堕胎が行われることを防ぐ倫理規定があるからだ。

 それでも小野寺は、自分1人でリスクを背負った。

 研究のために中絶させるのではない。すでにそこに中絶された胎児が存在し、ただ無意味な廃棄を待っている。だから、研究に活用するのだ――と。

 小野寺は、医学の発展を切望していた。自分がその突破口に立っていることを確信していた。可能なのにやらない……いや、できない医療の仕組みに憤っていた。その壁の前で立ちすくむしかない自分自身に腹を立てていた。

 そして長い間悩んだ末、真正面から壁に体当たりすることを選んでしまった。小野寺は、研究を進めるためなら規定を犯し、身分を捨てても構わないと決意した。

 人類初の発見を成し遂げる栄誉も欲しかっただろう。日本の医療水準を引き上げて国際競争力を高めることも望んでいただろう。医学のブレークスルーを実現して多くの患者を救おうともしていただろう。

 だがそれは言葉の上の、いわば後付けの〝理屈〟に過ぎなかったのだと思う。

 小野寺は、研究者としての本能に逆らえなかったのだ。

 目の前にはまばゆく輝くフロンティアが見えている。だが、そこに近づくことは許されていない。保身ばかりを考える官僚や医療従事者、そして大学関係者が、自由な発想を縛り付けている。自分を閉じ込める分厚い壁が――しかも小野寺にとっては無意味な〝社会的な約束事〟が、息苦しくて仕方なかった。

 そこに風穴を穿ちたかったのだ。

 それが小野寺という男の本質だ。小野寺の悲劇は、彼が生命の仕組みの真髄を見抜く非凡な才能を持っていたことに尽きる。

 そして小野寺は研究の成果として、マウスの頭部を切断して別の個体に移植するという手術を行った。何10回もの失敗の末に生み出された個体は、感染症のリスクを覚悟した上でクリーンルームを出してからもほぼ1ヶ月間生存するという快挙を実現した。

 そのマウスの直接の死因は餌の食いすぎで、いわば便秘だった。頭部の移植によって脳の機能が充分に働かずに、自律神経が狂ったらしかった。餌の量さえ適切に調整できていれば、どれだけ生き続けられたかは誰にも分からない。

 免疫機能はほぼ完璧に制御されていたのだ。

 小野寺が胎児から抽出した微量の〝ある物質〟が、免疫抑制剤の効果を飛躍的に高めたらしかった。特性が異なる数種の抑制剤を組み合わせることで、その効果もある程度コントロールできたという。その結果、目標だった免疫デザインの可能性が現実味を帯びたのだ。しかも、免疫抑制剤特有の副作用が観察されなかったともいう。

 私は、狂喜した小野寺から個人的にその事実を知らされた。実験結果に興奮して、唯一の〝友人〟に黙っていることはできなかったのだろう。

 だが私も、学長と学内コンプライアンス室に通報しないわけにはいかなかった。

 廃棄胎児の利用に疑問を感じたからだ。

 それだけなら問題は大学内部に留まり、小野寺の処分は厳重注意と実験中止だけで終わったかもしれない。だが、いわゆるリベラル政党に傾倒する倫理委員の一人が、その情報を得意げにマスコミに吹聴してしまった。

 結果は破壊的だった。

 胎児を利用した〝悪魔の実験〟は一般のニュースにまで仰々しく取り上げられ、大学は凄まじいバッシングを受けた。結果、画期的なマウス手術は闇に葬られ、より重要で斬新な免疫制御法は黙殺された。

 無論、実験が再開されるはずもなかった。小野寺は、論文を書くことすら許されなかった。

 そして小野寺は医師の資格を失った。

 私が奪ったのだ。

 小野寺の理屈が理解できなかったわけではない。だが、倫理に反する研究を見逃すこともできなかった。小野寺がこの大学から放逐され、学会から除名処分を受けるきっかけを作ったのは、明らかに私だ。

 私たちはこの大学で学んだ同期生だ。研修医として苦しい数年間も共にした。私は手術の腕がなかなか上達せず、しかも生身の患者を〝切る〟抵抗感をどうしても克服できなかった。

 一方の小野寺は抜群の手術センスを持っていながら神経質な部分が強く、完璧を求めすぎて変人扱いされていた。糸の縫い方の〝美しさ〟にまでこだわって、チームのリズムを乱してばかりいたのだ。

 結果、私は遺体を扱う監察医になり、小野寺は研究に活路を見出して臨床から離れていった。

 互いに苦しみを分かち合い、その中から自分の生きる道を探し出した〝戦友〟だともいえる。決してプライベートに深入りする関係にはならなかったが、お互いを気持ちの支えにしていたことは確かだ。同じ時期にこの大学に所属し、時に不安や愚痴や希望を語り合い、時間が取れる時はチェスの腕を競い合った友人だったはずなのに……。

 最後に顔を合わせた時、小野寺は激烈な怒りを……狂気にも似た憎しみを、私に叩きつけていた。

 事実、私は病院の廊下で、メスを握りしめた小野寺に刺されそうになった。たまたま居合わせた警備員が中に入って押さえ込んでくれたが、腕をねじり上げられた小野寺はそのメスで脇腹を深く突いて血まみれになった。

 小野寺は、唯一の友人だと思っていた私に裏切られたと思ったのだろう。

 私もつらかった。小野寺の処分など本意ではなかった。実験の正当性を見直して欲しかっただけだ。だが、見過ごすこともできなかったのだ。私は一種の贖罪のつもりで、鎮静剤を打たれて大人しくなった小野寺の傷を自ら処置した。その間も、小野寺の目の憎しみが和らぐことはなかった。

 あれから10年以上――もしも彼が私を恨み続け、どこかで研究や実験を続けていたのなら……。

 そして、開発途上だった画期的な免疫制御法を完成させていたなら……。

 間違いない。これは小野寺の、私への復讐だ。

 いや、復讐の始まりだ……。

 だから、遺体が送りつけられたのだ……。

 そう確信した私は、おそらく長時間我を失っていたのだろう。不意に、スピーカーからの声に気付いた。

『秋月先生! 大丈夫ですか⁉』

 はっとした私は、教授室のガラス窓を見た。

 園山がこちらを見返しながら、手のひらで軽く窓を叩いていた。

「申し訳ない……」

『具合が悪いですか?』

 園山の言葉は私を気遣っているが、単なる社交辞令であることは一目で分かった。

 園山の顔も血の気を失っているように見える。この遺体が私への復讐の手段であることに、気づいたのかもしれない。小野寺との関係を隠しておくことなどできないし、意味はない。

 私は一瞬で覚悟を決めた。

「実は――」

 だが園山は、私の説明など聞く気はないようだ。

『具合が悪くても、先生には解剖を続けていただかなくてはなりません。今、桜田門――警視庁本庁から連絡が入りました。予告通りに爆発があったということです』

 園山が青ざめたのは、そのせいらしい。

 そうだ……脅迫状には爆破予告もあったんだ……。

 私の頭も働き始めた。

「どこで? けが人は?」

『多摩川の運河に不法係留されていたプレジャーボートが爆破されました。けが人はありません。近くのボートの中にアーバナイト――ダイナマイトの一種ですが、土木工事に使う発破の箱がこれ見よがしに置かれていたそうです。中にはダイナマイトと信管が1本ずつ残されていました。極秘の広域捜査が必要になりそうなので、捜査本部が本庁に立てられました。すでにこちらにも本庁の担当者が向かっています』

 警察の動きはあまりに早い。遺体の発見からまだ1時間ちょっとしか経っていないはずなのに……。

 だが、この死体の異常性を考えれば当然かもしれない。

 荷札による監察医の指定、四肢を移植する難手術を成功させていながら頭部を切断するという猟奇性、体内に異物を埋め込んでそれを宣言する変質性、タイムリミットを設定した脅迫、そして爆破のデモ――どれも不特定多数に見せることを強烈に意識した〝劇場型犯罪〟に当てはまる。爆発物が手元に残っているなら、それを使ってより騒ぎを大きくすることが予想される。実行されれば、被害はどんどん拡大する。

 警察はこう考えただろう。

――犯人のタイプは、無言で破壊活動を実行するテロリストではない。世の中を騒がせて楽しむ愉快犯か、脅迫によって何らかの利益を得ようとする営利目的の犯罪者だ。ならばおそらく、取引が成立する。そのためには、警察側も素早い捜査によって背景を洗い出し、交渉を有利に運ぶ必要がある。一方で、犯人はいつでもマスコミを〝カード〟に変えることができる。情報が一部でも漏れれば、ワイドショーの格好のネタだ。明らかに、ネタにされやすいように仕組んでいる。爆発物の存在が明らかになるだけでも、日本中が発狂したようなパニックに陥るだろう。リークをほのめかすだけでも、警察に対する強力な圧力になる。日本中の全ての人が、人質にされたようなものだ――。

 それらはすべて、正しいかもしれない。だが、根本の原因は私にある。

 私に対する、小野寺の個人的な恨みが動機なのだ……。

 話しておかなければならない。

「犯人に心当たりがあります」

 園山は驚かなかった。

『ではないかと思っていました。監察医にあなたを名指ししていましたから』

「小野寺悟――かつてこの大学で臓器移植の研究をしていた、同期の男です。医師の倫理に反する実験を行っていたことを私が告発して、懲戒解雇されました。医師免許も剥奪されたはずです」

『今、どこにいるか分かりますか?』

「いいえ。消息を聞いたことはありません」

 園山が部下に指示する。

『至急本部へ連絡を』そして私を見る。『なぜ彼だと言い切れるのですか』

「この遺体の手足はやはり別人のものです。詳しくは解剖しなければ断定できませんが、数人の手足を継ぎ合わせているようです。言葉通り、体内に異物を挿入する大がかりな手術も施されているようです。しかも、首を切断するまでは完全に生きていたようです。そんなことを試みて、しかも成功させられる医師は、小野寺以外には思い当たりません」

『あなたへの復讐――ということですか?』

「おそらく。どう復讐するつもりなのかは、まだ分かりませんが。たぶん、思い切り騒ぎを大きくしてから、私を世間の晒し者にしたいのではないかと……」

『可能性の1つとして、検討しましょう。指紋とDNAは採取して、鑑識に回してあります。死体が犯罪歴がある者のものなら、データベースで照合できるでしょう。そこから何か手がかりがつかめるかもしれません』

「四肢が別人のものですから、うまく照合できるかどうか……」私は、恐れていることを口にした。「それと……心配事があります」

 園山の反応は早かった。

『タイムリミットが長すぎること、ではないですか?』

「気づいていましたか」

『監察医務院の正木先生に相談しましたから。体内から異物を取り出すだけなら、10分もあれば足りるでしょう。なのに、10時間もの猶予を与えるということは……』

 遺体の中に、復讐の手段が隠されているはずだ。

「異物自体に危険があるか、あるいは体内に取り出しを妨害する何かを仕込んでいるのだと思います。私に危害を加えようと企んでいるのでしょう……。開胸手術の跡が異様に大きいのは、その仕掛けを挿入したからだと思います」

『傷はいつ頃のものですか?』

「2ヶ月から6ヶ月前でしょう……」

『ダイナマイトが仕込まれている可能性は?』

 私もそれを考えていた。

「ないとは言えないでしょう……」

『何ヶ月も体内にあっても爆発物は劣化しないものでしょうか?』

 私は医師だ。ダイナマイトの知識など持ち合わせていない。だが、ペースメーカーのような電子機器を長年体内に留置することは可能だ。何かしらの方法はあるだろう――。

 私はなぜか、その方法を極めて冷静に考察していた。まるで他人事のように……。

 事態の展開が急すぎて、自分が標的にされているという実感がまるで湧いてこない。

「分かりません。ただ、密閉してから入れれば、可能かもしれません」

『正木先生も今、こちらに向かっています。解剖への助言が頂けると思います。ですが……』

 園山は口ごもったが、言いたいことはそれでも伝わった。

 解剖自体はお前がやれ――と命令しているのだ。

 犯人は私に復讐しようとしている。爆発物を所持していることも誇示している。仮にこの遺体の中にダイナマイトが仕掛けられているなら、私はここで爆死するかもしれない。だが、脅迫状が真実なら、体内を開かなければ他の誰かが爆殺されることになる。

 私のせいで……。

「代わってはもらえない、でしょうね……」

 園山は冷静に続けた。

『犯人が何を望んでいるのか、どこまでやる気なのか――今はまだ不明です。警視庁が総力を上げて捜査にかかっています。無論、必要に応じて千葉県警などにも最大限の協力を求めます。犯人が発破を箱ごと所持している可能性があり、起爆もできると証明された以上、最悪の事態を想定しなければなりません。そこの死体を見れば、異常性も疑いようがありません。犯人を怒らせてテロ事件にでも発展すれば――たとえば新幹線の先頭車両で自爆されれば、いつだかの焼身自殺事件などとは比べものにならない惨劇が起きます。死傷者は数100人ではきかないでしょう。東名高速のトンネルでバスが襲われれば、太平洋ベルトの大動脈が分断されかねません。人的損害も甚大でしょうが、何兆円という経済的損失が避けられないでしょう』

「そんな大ごとに……?」

『もちろん、最悪の想定です。ですが、そこを基準にしてて対策を打たなければ、最悪を防げません。少なくとも状況が明らかになるまでは、犯人の要求を呑むしかないのです。おそらく近いうちに、次の要求を出してくると思います。そこからは交渉で乗り切ることを目指します。それまでは犯人の要求に従って解剖を続けてください』

 従うしかないだろう。

 少なくとも、こんな事態を起こした原因を作ったのは、私自身のようだ。医師をしていれば、生死に関わる非難や訴訟に巻き込まれる危険は避けられない。それがどんなに理不尽で不当な言いがかりであっても、火の粉が飛んでくることは防げないのだ。

 私が小野寺の標的にされるのは、単なる逆恨みからだ。私は医師の倫理を通しただけで、大学の良識を守ったに過ぎない。それでもなお、原因を作ったことに変わりはない。

 誰かが矢面に立たなければならないのなら、それは私以外には考えられない。

 たとえ目の前にダイナマイトが仕掛けられた遺体があるとしても……。

 再び鼓動が高まったように感じた。心臓を鷲掴みにされたような痛みも強まる。

 まずいな……ストレスが激しくなっている……。 

 だが、できる限り責任は果たさなければならない。

「やりましょう。ただし、レントゲンで体内を精査するまでは、どんな仕掛けがあるか予測できません。それまでは、この遺体の周囲に近づく関係者は最小限にしてください」

 MRIの使用は禁止されたが、X線に関しては何も言っていない。爆発物が仕掛けられているかもしれない遺体に、当てずっぽうでメスを入れるわけにもいかない。

『分かりました。ですが、私はここから離れませんから。それは、了解してください』

 園山は、共に爆発の危険を分かち合おうと言っている。〝話し相手〟がいれば、私も少しは落ち着いて作業ができるだろう。

 気骨のある刑事だ。

「ありがとう」

 園山が部下に命じる声が聞こえる。

『大学の責任者に、この部屋の半径300メートルから人を退避させるように手配させろ』

『爆弾があるって発表するんですか⁉』

『ボヤでもガス漏れでもなんでもいい、理由は適当に付けさせろ。とにかく、人を近づけさせるな』

 部下が内線を取った。理事長室へ連絡するのだろう。この異常事態は、確かに説明しづらいだろう。

 私は遺体に視線を戻した。

 胴体は明らかに黄色人種、恐らくは日本人男性のものだ。胴体の中心の大きな切開の傷は、完全に治癒している。やはり手術自体は数ヶ月前に行われたように見える。おそらく、その傷の下には私に対する〝罠〟が仕掛けられている。

 罠を仕掛けた小野寺と闘わなければならないようだな……。

 そして、改めて黒人のものらしい腕の接合部に触れた。傷口を軽く押してみる。感触は、普通の傷と変わらない。やはり、完全に一体化している。腕の先までの皮膚に触れながら、じっくりと観察していく。

 筋肉量は明らかに少ない。無数の注射痕や点滴の跡が見られる。死の直前までは、おそらく栄養補給や薬剤投与のために何本ものチューブにつながれ、寝たきりにされていたのだろう。だとしても、4人ものドナーから四肢移植手術を行い、ここまで持ちこたえさせたことは素直に感嘆せざるをえない。

 いったい、どんな方法を使ったのか……?

 小野寺が作り出した免疫制御法は、それほどまでに高い効果を発揮するのか……。

 壊死や血流不全の兆候は全くなさそうだ。さらに先に進んで軽く握った指を開く。関節はさほど力をかけずに動いた。死後硬直はまだ始まっていない。死後2、3時間というところか。

 開いた手のひらを調べる――。

 手のひらの中心に、新しい傷があった。傷口の周囲には血液が付着している。死後間もなく付けられたものだろう。長さは3センチほどだ。軽く触れる。

 傷は深そうだ。しかも奥に、何か硬いものの手触りを感じる。

 スピーカーから園山が言った。

『何か異常が?』

 異常なのは、この遺体そのものなのだが……。

「手のひらに何か埋め込まれています」

『罠……ですか?』

「かもしれませんが、大きなものではありません。取り出してみます」

『レントゲンで調べるまで待てませんか?』

「罠だとしても、命に関わるものではないでしょう」

 言いながら、ピンセットを取った。なぜか、動揺は完全に治っていた。一時は上がった心拍数が、平常に戻りつつあるのを感じる。普段の解剖と変わらない精神状態に入れたようだ。

 これなら心臓もしばらく保ってくれそうだ。

 ピンセットを傷口に差し込んでいく。先端が硬いものに触れる感触があった。つまんで、引っ張ってみる。さほど力を入れなくとも、引き抜けそうだ。

 園山が言った。

『大丈夫ですか……?』

「ええ……罠ではなさそうです。たぶん、何らかのメッセージでしょう……」

 傷口から取り出したのは、金属の輪だった。指輪らしい。それをアルミのバットに移して、消毒用のアルコールを注ぐ。ピンセットでつまんで、左右に揺らして付着した血液を洗い流す。

 やはり指輪だ。おそらくプラチナ製で、デザインはシンプル。宝石は付いていない。どこにでもありそうな結婚指輪らしい。と、内側に長い文字列が刻まれているのが分かった。

 その瞬間、全身の血が引いていくのを感じた。

 まさか……。

 心臓に衝撃が走った。

 指輪を近づけて中の文字を読む。

〝From MASA to MASA. 1995.04.05〟

 直感は不幸にも的中した。

 それは、私が妻の雅美に贈った指輪だった。

 爆弾の恐怖に晒されているのは、〝他の誰か〟などではない。

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