偽教授接球杯Story-4


ランドルフ・カーター。神秘学者にして数学者、軍人であり資産家。その経歴には多くのいわくが付き纏い、もはや伝説の人物となっている。

だが、彼は何十年も前に姿を消したはず。そしてその時、彼はすでに老齢ではなかったか?

期待に胸が高鳴る。彼は時間を超越している。やはりこの世界には時間を越える秘儀が眠っているのだ。


「わたしとて、こんなに長居をするつもりは無かったのですがね。一度は上手く脱出できそうだったのですよ。その時の相手はインド人でした。しかし、結局ここに帰ってきてしまった。あの時は落ち込みました」


カーター氏は落ち着き払っている。食べかけのパンを皿に戻し、足を組んで椅子に身を預ける。


「先程、あなたは罠と言いましたが、違いますよ。この食事は罠などではありません。これはあなたに向けた好意であり、慈悲であり、憐憫なのです。そのまま前に進めば、あなたは苦しみ、恐れ、悲しみを味わうことになるでしょう。そして、失敗する。ですが、ここで暖かく滋味深い食事を楽しんでいれば、そんな辛い思いをする必要なんてないのです。

あなたの求めるものはここにあります。というより、ここには全てのものがある。探せばきっと見つかるでしょう。ですが……」


館のどこかで、時刻を告げる鐘が鳴る。カーター氏の注意が逸れた。

この隙を逃す手はない。テーブルにかけられたクロスを掴むと、思い切り引く。テーブルの上に並べられた料理が音を立てて散らばる。


食物の芳醇な香りが鼻を刺激する。焼きたての小麦、湯気のたつスープ、みずみずしい鶏肉。胃袋が抗議の声を上げる。


勢いよく席を立つ。走って部屋の出口に向かう。カーター氏はスープやチキンに塗れて悲しそうに微笑み、動こうとしない。


部屋を飛び出し、もときた道を辿る。玄関ホールまで来ると、上に向かう通路が現れる。


僅かに傾斜した通路はゆっくりと螺旋を描いて上へと伸びていく。通路は暗く、影に包まれている。壁には間隔を置いて燭台がかけられ、小さな蝋燭の火が揺れている。

不意に気配を感じて横を向く。

カーター氏が追ってきたのか。

だが、そこには何もいない。神経が逆立ち、些細な空気の動きでさえも、肌を刺すように感じられる。心臓は早鐘のように脈打ち、膝は震えている。


あなたの求めるものはここにある。カーター氏はそう言っていた。そして、カーター氏の変わらぬ姿。恐怖に打ち勝つ希望。震える足を押して前進する。


頼りない灯を頼りにひたすら斜面を登り続ける。館を外から眺めた時は三階建てに見えたが、実際のところどうなっているのかはわからない。かなり上っているのにまだ頂上どころか次の階にもにつかない。焦燥が足取りを早める。


そうして、ひたすら前に進み続けていると、いつの間にか通路は降り始めていた。思わず足を止める。どう言う事だ?一本道をひたすら登ってきたはずなのに、なぜ降っている?


背後から音がした。立ち止まらねば聞こえぬほど微かだが、ズルズルと何かを引きずるような、不穏な音。


振り返ろうとしたその時、足元を黒い影が横切る。

驚いて見ると、そこには一匹の獣がいた。小さな耳、長い尻尾、豊かな毛並み、そして黄色く光る目。


黒猫だった。


猫はこちらを見つめながら小さく一声鳴く。そして、尻尾を突き上げ、螺旋の通路を進んでいく。

まるでついて来いと言うかのように。


背後から音は徐々に近づいてくる。

――あなたは苦しみ、恐れ、悲しみを味わうでしょう。

カーターの言葉が頭をよぎる。背筋に冷たいものが伝う。

猫の跡を追って再び歩き始める。

通路は徐々に狭くなり、傾斜もキツくなっていく。

猫は時折こちらを振り返りながら、先へと進んでいく。背後からの音は途切れ途切れに続いている。


狭い通路を身を捩るようにして進むと、ついに視界が開けた。


広間。正面には大きな扉。扉の両端に大きな燭台がかけられる、松明が煌々と光を放っている。扉は青黒く、その淵には得体の知れない模様が刻まれている。松明の明かりで陰影がつき、右手の扉には数十の塔が伸び、その上に雷が手を伸ばすレリーフが彫り込まれている。左手には海のレリーフ。帆船と高い波が掘られ、水平線の向こうに古い灯台らしきものが見て取れる。


部屋の中央には、腰の高さくらいの台が置かれている。扉と比べて簡素な作りだ。装飾もなく、ただ、平な石が重ねられているように見える。一番下の岩から一段重ねる毎に一回り小さな岩が重なっている。ピラミッドの一部のような作りだ。


周囲を見回すが脇道や窓もない、完全な袋小路。空気が冷たい湿り気を帯びて、体の熱を奪っていく。ここは地下なのだろうか?一体全体、どれだけ下に降りたのだろう?


「扉を開くには鍵が必要です」


突然、広間に声が響く。その声には聞き覚えがあった。声のした方に目をやると黒猫が扉の前に座ってこちらを見ている。


「私ですよ」


猫から聞こえてきたのは、カーター氏の声だった。


「鍵なんて持ってないわ」

「えぇ、そうでしょう。あなたはこれから鍵を手に入れなくてはならないのです」

「鍵はどこにあるの?」


カーター氏=猫は何も言わない。黄色い目を見開いてこちらを見つめている。

背後からべちゃり、と水っぽい音が響いた。部屋に生臭い香りが充満する。嫌悪感が胸を満たす。振り返りたいという欲求は強いものだった。怖いもの見たさや好奇心ではない。ただ、得体の知れない恐ろしいものが死角で動きまわるのに耐えられなかった。


「欲しいものを手に入れるには、まず自分自身にしっかり目を向けなければいけません」


カーター氏=猫の声が響く。


欲しいもの。未来。不変。時間。そして、不死。


意を決して振り返る。

そこに立っていたのは肖像画の老女だった。いや、老女のようなもの、だ。帽子も服も、肖像画と同じ。だが、その顔は明らかに違っている。もっと老けて、皮膚は黄色く乾いている。目元は落ち窪み、眼窩の形がはっきり見て取れる。何故か服はずぶ濡れで、裾から水が滴り落ちている。その姿に身ぶるいする。なんとも言えない生理的な嫌悪を覚える。腕には鳥肌が立っている。


「鍵は彼女が持っています」


その声は妙に硬く無機質に響いた。必死で感情を噛み殺しているようだった。


老女はズルズルと足を引きずるようにして近づいてくる。どうすればいい?話して通じる相手のようには見えない。


「鍵ってどんな形のどんな鍵なの?」


少しずつ後退りをしながらカーター氏=猫に向かって声をかける。


「私にはわかりませんよ。あなたの鍵ですから」


カーター氏=猫は素っ気なく答えると、こちらの足元に身を擦り寄せ、溶け込むように消えてしまった。


老女は真っ直ぐにこちらを見つめて歩いてくる。こちらもそれに合わせて後退する。腰が何かにぶつかる。部屋の中央に置かれた祭壇らしき台だ。身を守るものを求めて手探りする。何もない。

顔をあげると目の前に老女の顔があった。驚いてのけぞると、その肩を押された。老女の指の冷たさを感じる。思わず祭壇の上に身を投げ出す。

老女は大きな笑みを浮かべる。その笑顔に背筋が凍る。見覚えのある顔だった。肖像画の女性じゃない。これは……。


「そこにいるのはあなた自身です。あなたの願いが否定するあなたの姿です。しっかり向き合ってください」


頭の中にカーター氏の声が響く。

これが私?

違う。そんな訳はない。こんなものか私であるはずはない。そんなことは絶対に許さない。


老女が覆い被さってくる。なんとか体を捻ってそれをかわす。勢い余って祭壇から転げ落ちる。肩と腰に鈍い痛みが走る。老女が不満げな呻きを上げる。


祭壇から落ちたはずみで、扉の前まで転がる。壁に手をついてなんとか立ち上がる。足元で影が不気味に揺れている。


影?


横を見るとすぐそこに煌々と燃える松明があった。


これだ。


燭台に手を伸ばす。炎が手を焼くが、熱は感じなかった。松明に使われている薪をつかむ。薪は50センチほどで、手頃な太さがある。先の方に火が灯っている。

老女は祭壇の上でもがいている。

関節は不自然な方向に曲がり、緩急のついた動きはまるで蟲のようだ。その見るに耐えない不気味さ、グロテスクさに、力一杯松明を叩きつけた。

あ、と思ったその時、老女の身体が青い炎に包まれる。

老女の口がぱかりと開き。高音と低音のハーモニーのような絶叫が上がる。

老女の服は燃え落ちて、萎びた身体が露わになる。炎に包まれた顔は青く輝いている。

気がつくと自分の口からも叫び声が上がっている。止めようとしても止められない。

視界が歪み、世界が暗く沈んでいく。老女の顔は焼けて代わり果てていく。その顔は自分の顔とよく似ていた。


いや、違う。そんなはずはない。気のせいだ。目が回る。耳鳴りがする。胃が迫り上がる。思わずうずくまると、その瞬間、喉の奥から何かが溢れ出す。


自分の口からも溢れ出たそれは、金属のかけらのように見えた。いや銀の鍵だ。扉を開く鍵。願いを叶える鍵だ。


視界の歪みが落ち着くのを待って、ゆっくりと立ち上がる。カーター氏を探してあたりを見回すが、姿も気配もない。頭の中に響いていた声も今は鳴りを潜めている。

扉をじっくりと観察する。中央に小さな穴があった。試しに鍵を差し入れると、鍵はするりと手からすり抜け、扉の向こうへ吸い込まれていく。

次の瞬間、扉の向こうから閃光が走った。


目を開くと、不思議な色の光の中に黒い影が立っている。目が眩んでよく見えないが、黒い外套を着て、フードを目深に被っている人のように見える。だが、人にしては小さすぎる。

光は脈打つように押し寄せる。その度に頭の中に音が響く。その音に呼び起こされるように、不思議な言葉が頭に浮かぶ。

ウルム・アト=タウィル。

言葉が一つ浮かぶと、音の波は次々と輪郭を持ち、意味のある言葉を形作っていく。


「お前は<第一の門>を開け放った……」


光が身体を満たしていく。いや、満たすのは意識だ。時間が目の前を流れていくのがわかる。両手ですくって口に含む。あぁ、何という甘美な味だろう。

光の向こうに懐かしい世界が透けて見える。

カーター氏の悔しがる顔が浮かぶ。失敗したのはあなたの方だ。永遠は今、この手の中にある。


・・・・・・・・


窓から差し込む光に目を開く。朝だ。妙な夢を見ていた気がする。

何故だか清々しい気分だ。起きあがろうとすると、すぐ横でガチャガチャと何かがぶつかる。見ると、身体が得体の知れない機械や管に繋がれている。何だこれは?


「誰か?誰かいないの?」


・・・・・・・・


医者には奇跡だと言われた。医学的には説明がつかないらしい。


手の施しようがないほど大きく膨らんだ脳腫瘍が綺麗さっぱり消えていた。さらに驚くべきことに、身体的な機能の低下は見られず、腫瘍によって圧迫され、壊死していた脳の一部も回復していた。


「死を超越した女性」、「奇跡の人」という言葉が、紙面を賑わせていた。


だが、いくら新聞を読んでみても意識がない間のことなので、自分のことだとは思えず、まるで現実味がなかった。


ただ、何故か、自分が奇跡を勝ち取ったのだ、という確信だけがあった。何から勝ち取ったのからよくわからないが。


とにかく今は、この世界の美しさ、輝かしさを全身で感じている。なんて幸せなのだろうか。


・・・・・・・・



広間には足の踏み場がないほど食料散らばっている。最初は芳醇だった香りが、今や混沌としたものに変わっている。

カーター氏は部屋の中央で椅子に座って俯いている。


「失敗?それはどうかな?」


カーター氏の顔に笑みが浮かぶ。


「持ち出せるものは四つ。そのうち三つは無害なスープ。最後の一つはなんだと思う?」


声は虚空に反響し、徐々に輪郭を失っていく。


「あの猫は私からの贈り物だ。大切に持っていてくれ。大事な大事な愛猫だ。私の命。私の魂。きっとその内、あなたの魂になるのだから」


その声は遠く、遥かかなた、扉の向こう側まで届きそうなほど、大きく響き渡った。



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未定 ハクセキレイ @MalbaLinnaeus

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