マッチングアプリで会った女は洗脳済みでした

マッチングアプリで会った女は洗脳済みでした

「変な匂いがしてね、頭がボウッとするの。立ってられないの、全身から力が抜けちゃうから」


 女は微笑みながら話した。

 頬を紅潮させて、唇をだらしなく緩めて、口の端からは涎が垂れている、そんな様を、ぼんやり想像した。目の前の女の、そんな姿。


「すごくハァハァ言って、全身びっしょり汗をかいて、悲しくないのに涙が出ちゃうの。そのときに『顔を上げてください』って言われて、くらくらする頭で必死に前を見たら、そこに先生がいるのね」


 彼女の言葉は、熱を帯びていた。当時のことを思い出しているのか、恍惚とした表情を浮かべていた。


「先生?」


 俺はポテトをつまみながら訊ねる。


「先生って呼ぶの。私たちのところではね」

「誰を?」

「1番の人のことを」


 何をもっての1番なのかが分からないが、それ以上の詮索はしないでおいた。訊ねても、要領を得ない答えが返ってくるに決まっている。


「その先生が何なの?」

「なんでも知ってるの。私の友達のことも、家族のことも、学校のことも、悩んでることも、ぜんぶ知ってるの。しかもね、私の話聞いて、色々教えてくれるの」


 彼女は瞳をキラキラさせて言った。先生とやらが、森羅万象を見通す千里眼の持ち主であると、信じて疑わない目をしていた。


 渋谷のケンタッキーへ、デートに来ていた。

「まりな」と名乗る彼女は、23歳の大学生らしい。


「高校卒業した後ね、1年間留学してたの」


 ハチ公前広場から、スクランブル交差点へ向かう道中で、まるで言い訳するかのように言っていた。


 何も言わずに、自然な流れでケンタッキーへ連れて行かれて、誘導されるがままにランチセットを買って、チキンバーガーを食べていた。


「でもほら、いま大変でしょー」


 語りの切り出し方がそれで、チキンの味が一気に失せた。


「何が?」

「色々と」

「んー」


 半笑いで唸ってから「たしかに大変かも」と答えた。


 これは本音だった。色々と大変だからこそ、マッチングアプリで知り合った女と、渋谷で会っているのだ。


「私も大変だったの。でもね……」


 そんな風にして、彼女は語り出したのだった。


 バーガーもポテトも食べ尽くし、氷で薄まったコーラをストローで吸い込む。

 ズズズ、と音がして、彼女の話をいったん遮った。


「今から来る人も陰キャ出身だよー」


 まりなは言った。

 今から来る人、が来るなんて聞いていない。

 そして、陰キャだとも名乗っていない。


「誰か来るの?」


 ストローから口を離して訊ねる。プラスチックと粘膜の間で、唾が糸を引く。


「うん」

「だれが?」

「んーとねぇ……」


 まりなは言葉を閉ざす。


「誰が来るの?」


 もう一度訊ねる。

 まりなはこちらを見て、小首を傾げて微笑んで、しかしやはり何も答えない。


「誰が?」

「えーっと、私の師匠的な?」


 三度も問い詰めて、ようやく出てきた答えは、師匠だった。

 馬鹿馬鹿しい。「そっか」と短く言って、立ち上がろうとしたそのとき、


「オツカレ~オツカレ~」


 ひょうきんな声が俺たちのテーブルにやって来た。

 腰を数ミリ浮かせたまま目を向ける。


 ピアスやらネックレスやらをジャラジャラ付けた、レザージャケットを羽織る男だった。


「キミがたけおクン?」


 レザージャケットの男は笑顔で言いながら、まりなの隣に腰を下ろす。


「たけおクン。まあいいから座って座って」


 貼り付けたような気味の悪い笑顔だった。

 自分が社交的な人間であると信じて疑っていない、軽薄な笑い方だと思った。


 ちらりとまりなに視線をやる。彼女も同じような笑顔を浮かべている。諦めて、浮かせていた腰を落とす。


「まりなから色々聞いてるよー。大学生活どんな感じ?」


 男がテーブルの上で両手を組む。分厚いバングルやら、指輪やらを付けている。鬱陶しい。


「大学生活、まぁ……ボチボチですね」

「ボチボチかー。うん、俺もボチボチだった」


 そう言って男は声を上げて笑った。まりなも笑っていた。

 俺も笑顔を浮かべるようにしたが、上手く笑えていないなと思った。


「じゃあさ、何で大学生活はつまらない?」


 つまらない、と男は言い切った。


 俺は「ボチボチ」と言ったわけで、その中には、つまらないけど悪くないとか、それなりに面白いこともあるかなとか、そういう意味もあったのだが、彼には「つまらない」と聞こえたらしい。


「うーん……。なんでだろう」


 わざとらしく腕を組んで考え込んだ。

 魔が差して、しばらく黙ってやろうと思った。


「なんでだと思う」


 男が言った。俺は黙り続ける。


「うん、なんでだろう」


 男は焦れたように口を開く。

 軽薄な笑顔は消えていなくて、流石だと思った。


 俺はなおも黙り続けた。腕を組んで、斜め上を見つめたまま、考えるようにして沈黙を保った。


「なんで黙っちゃうんだよ」


 笑ながら男が言う。底の浅い笑みを浮かべて、じれったさをぶつけてくる。まりなも「ウフフフ」と笑っている。


「じゃあ代わりに教えてあげよう」

「え?」

「たけおクンがつまらない理由はね。人間関係だよ」


 強引な展開だった。まさか男の方が答えを出してくるなんて。


 思ってもみなかった論理に呆れていると、男はニヤリと口を歪めて「図星っしょ?」と言う。


「図星っしょ。これね、別に俺がたおけクンの心を読み取ったわけじゃないんだよ。じゃあどうやったと思う?」


 俺は首を傾げた。分からない、と答えるのも億劫だった。


「これはね、統計なの。人間の悩みのほとんどは人間関係の悩みって言われてて、これが大学生だと割合が増えるの。ここまでオッケー?」

「なるほど」


 適当に頷くと、まりなが「ここ納得するの早いね」と口を挟んできた。


「ね、思った! たけおクン頭いいでしょ?」


 ここぞとばかりに男の口数が増える。曖昧に笑ってお茶を濁す。


「それで俺たちがやってるのは、まずは人間関係に悩んでる人で組もうってこと。俺たちで先にコミュニティ作って仲良くやったら、これで人間関係の悩みは解決でしょ? そう思わない?」


 俺は何も言わなかった。男は話を続けた。


「これを作ろうって言い出したのが、高峰大観ていう人なの。俺たちが先生って呼んでる人で、まず最初にみんな先生の話聞くの。まりなから聞いたっしょ?」


 俺が返事する代わりに、まりなが「言った言った」と頷いた。


「だから、人間関係の悩みはここで解決しようぜっていうことなんだよ。まあすぐに解決は難しいかもしれないけど、とりあえず話聞くことから始められるしね。あ、もしかして怪しいと思ってるっしょ? でしょ? 大丈夫、俺も最初そう思ってた。俺も思ってたし、疑ってた。でもやっぱ悩んでたから、とりあえず先生に会ってみて、そしたらすごくて……」

「分かってますよね?」


 不意に俺は口を開いた。


「ん?」

「分かってますよね?」

「え、何が?」

「自分のやってること」

「分かってる、ってどういう……」

「自分がどういう組織に属して、誰を相手にどういうことをやってるか。分かってますよね。分かっててやってるんですよね」


 男は黙った。まりなも黙っていた。

 2人とも共通して、笑顔だけは貼り付けたままだった。


 テーブルには、昼食の痕跡が散らばっている。

 空になった包装紙やバケットを眺めていると、途端に虚しさが襲い掛かってきた。こいつらの話を聞いていた自分が、みじめだった。


「みっともない」


 残されたゴミに書き添えるように、短く告げて、席を立った。


 帰り際に気付いたことだが、派手な身なりと男女ペアに冴えない男を加えた、歪な構図の三人組が、店内に溢れかえっていた。


 すぐにスマホからマッチングアプリを消した。

 傍から見た俺も「冴えない男」に過ぎないらしい。


   ☆


 楽しいお気楽な大学生活は4年しかない。

 5年以上ある場合は、お気楽でないか楽しくないかのどちらかだ。ましてや留年するなんて馬鹿だ。


 俺は大学4年間を無駄にしたくない。そう強く思ったのは、大学生の半分を過ぎた頃だった。2年を棒に振っていたのだ。


「最近どうよ」


 中学時代の友人と会う時、決まってそう訊ねられる。高校時代の友人にも訊ねられる。


「まあまあかな」


 俺は決まってそう答える。本当はまあまあにも満たないような代物だった。


 はっきり言って、何にも恵まれなかった。

 勉強、講義、友人、恋愛、サークル、アルバイト……どれか1つにでも良い思いをしたかと言われたら、どれもこれも空振りだと言わざるを得ない。


 オーケー、分かってる。

 何かのせいにすること自体が、根本的な原因だ。

 

 悪いのは俺だ。視野が狭くて行動力に欠けていた。


 そんなわけで心機一転。失われた2年間を取り戻すべく、俺のキャンパスライフ後半戦はエンジンを踏み込むことに決めたのだ。


 やらないで後悔するよりは、やって後悔した方がマシだ。

 2年間の数少ない学びはそれだ。仮に後悔しても、1ヶ月もすれば笑い話にできる。


 俺の第一歩はマッチングアプリを入れることだった。


無料タダで会えるぞ」

「それ詐欺とかじゃないの?」

「変な奴もいるけどイケる。俺それでけっこうイッてるもん」


 イッてる、というのが要するに女を食ってるという意味だと気付いたのは、店を出て友達を介抱しているときだった。


 道端の排水溝に吐く彼の背中をさする片手間、マッチングアプリをインストールしたのだ。


 まさか2週間足らずでアンインストールする羽目になるとは。



 20歳になって1年も経つと、個人の居酒屋を覚えるようになる。

 地元にも案外店は多くあって、チェーン店よりもそちらの方がなんとなくセンス良く思えるのだ。


 つまり今の俺たちはセンスが良い。


「ここは刺し身が美味いんだな」


 〆サバをつまみ上げて言うのは、幼馴染のオサムだ。

 かつては一緒にアルセウスを探しに行った彼が、今では国立大で法学研究のゼミナールに所属している。偉くなったものだ。


「こんなん食ったらスシロー行けねえな」


 俺はマグロ赤身を醬油に浸しながら答える。

 真紅の赤身は鮮やかな旨味をギュッと詰め込んでいるかのようで、口の中へ運んだ途端に柔らかく溶ける。美味しい。


「最近どうよ」


 不意にオサムが言った。大学生のお約束的な質問なのだ。


 実際にどうであるかは関係なくて、単に会話の切り出しとして便利だから。


「前にアプリの女と会って来たんだよ」

「お、どうだった?」

「いやーそいつがカルトの勧誘してきてさー」

「カルトって、宗教?」

「そういうこと。ま、カルトって言ってたわけじゃないけど。でもどうせ、ロクなもんじゃなかった。マルチだったかも」

「大変だったな。まあ、でも」


 オサムは語調を落とした。言葉が何となく間延びして、会話のテンポが緩やかになるのを感じる。


「んー?」

「カルトはアレだけど、宗教も悪いもんじゃないかもしれないぜ。実際に救われてる人もいるわけだしさ」

「あー、まあねー」

「例えばさ、お前は何か悩んでないの?」

「まあ色々悩んではいるけどさ」

「当ててやるよ」


 オサムはいったん区切ってから、


「人間関係だろ?」


 俺は何も答えなかった。黙ってマグロ赤身を食べた。

 

 オサムがもう一度「人間関係だろ?」と訊ねたので、黙って頷いた。


「やっぱりな。実はさ、人間の悩みはほとんどが人間関係なんだよ。これは統計的事実。そこで1個提案なんだけどさ……」

「人間関係で悩んでる奴らでコミュニティは作らないぞ」


 テキパキと告げて立ち上がる。

 刺身の皿は空になっていて、わさびの溶けた醤油が小皿に溜まるばかりだった。


 〆サバは2切れくらい残っていて、1枚くらいは食べておきたい気もしたが、それ以上に長居したくないと思った。


「分かってるよな? 自分がやってること」


 オサムは何も言わずに俯くばかりで、会計を持つ気も失せていった。

 

 出しかけていた財布をポケットにしまって、


「二度と顔見せんな」


 それだけ告げて店を出た。


 Tinderで会った女に宗教勧誘されたって話を友達にしたら、そいつに同じ手口で宗教勧誘された……。

 

 最高の笑い話だと思った。

 話す相手はどうしても浮かばなかった。

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