マリンノーツ(第3話)「岬にて」

早風 司

マリンノーツ(第3話)-岬にて-


(章とエピソード)     


プロローグ 

第一章  ムンバイ上陸

第二章  原子炉のトラブル

第三章  信仰の方程式

第四章  異端の存在

第五章  機関部長の提案と悩める責任者

第六章  安定を取り戻した原子炉

第七章  証拠の存在

第八章  求めるものはただ一つ

第九章  三人それぞれの道

エピローグ



 (主な登場人物)


ジャン・ティエール大佐     艦  長 フランス人

クレメンス・ビスマルク中佐   副  長 ドイツ人

ジョセフ・ドレイク少佐     航海長  イギリス人

ジャハ・ネール少佐       機関部長 インド人

ジョン・カスター少佐      保安部長 アメリカ人

マリア・グスタフ少佐      厚生部長 スウェーデン人

島 淳一中佐          観戦武官 日本人


ポセイドン

 国際連邦艦隊(UFF)所属 多目的大洋航行用(モナ級)潜水艦

 United Federal Fleet Multi-Purpose Ocean Navigation Submarine

 全長200m、水中排水量2万トン、水中速度30ノット、 

 HY150チタン外殻

 主機 加圧式軽水炉及び内部磁場式超電導電磁推進システム

 補機 スターリングエンジン




信仰者の真の生き方は、


無神論者のような生き方である。


神の前に、神と共に、神なしに生きる。


    ドイツ人 キリスト教神学者 

     デートリッヒ・ボンヘッファー

     「行為と存在」より




 プロローグ


 ニ〇九〇年正月。私は日本で静かな朝を迎えた。今年で七十歳になる。息子の嫁は身重な体で順調にいけば、五月に初孫の顔を見ることができるだろう。とはいっても、息子夫婦は欧州で暮らしているため、ホログラフネットでの味気ない映像と音声で我慢しなければならない。簡単にネット上でも肌の温もりが伝わるようになるまでには、あとどのくらい待たねばならないのだろうか。それでも私が生まれた頃は、オプティカルネットで病院の産婦人科の部屋から自宅のテレビに映像と音声だけを送ることができたのだから、その頃と比べればまだ便利になったというべきか。

  

 それでも、ネット社会が我々の生活のいたるところに張り巡らされ便利にはなったが、どこまで進歩しても味気なさ、虚しさが残るのは何故だろうか? そんな気持ちを紛らわすために我々はさらに便利さを求めてコンピューターに依存することになる。

 ユビキタス社会ともいえる電脳社会の利便性を享受できているが、その対価を支払える人と支払えない人との格差、また、たとえ支払能力があってもそれを拒絶する人、もしくは、支払能力がないのに、その麻薬的な効果の虜になって、電脳社会から逃れられずに多重債務を抱えながら、ユビキタス社会に留まろうとする人がいる。結果的にはユビキタス社会における“新たな格差”が発生しているのだ。


 格差が抱える問題もさることながら、コンピューターに頼れば頼るほど人間らしさが失われていくように感じられる。

新たな刺激を求め新しいサービスに依存してゆく人々。また、それらの人々のささやかな欲求を満たすべく、さほど必要性もないのに次から次へと人々に提供される便利なサービス。このサービスを支えるようにローコストで安全性を確保した製品を産み出すよう技術進歩がなされてきた。


 このイタチごっこは止まることを知らない。飽きられ捨てられるまで人々に支持されるように進化し続けていくサービスたち。便利になること自体は悪いことではないが、あまりに便利さに寄りかかることになれてしまうと、その寄りかかるべきものがなくなった時に自立できない自分に気づく。しかし、すぐにそれに代わりうるものが現われて、また寄りかかる安楽なゆりかごに身を委ねることになる。この関係は自然現象的にまでシステム化されていて、その麻薬的、官能的な誘いに対して拒絶を突き付けることができる人は少ないだろう。人間は誘惑に対して弱いものだ。


 どこまでいけばこのユビキタス社会は歩みを止めるのだろうか。近い将来に大きな転換期が訪れ、人間本来の喜怒哀楽、思いやりと慈悲、愛と勇気と英知をユビキタス社会から取り戻すことができるのだろうか。

笑顔と汗が同居しつつ、人々が手に手を取り合って生きてゆく姿を見られるようになるのはいつになるのだろうか。少なくとも私の生があるうちには間に合いそうにない。年齢のせいか、最近は人生を振り返って昔の充実した日々が懐かしく思えて仕方ない。昔もIT技術に頼り、その進歩に無意識のうちに期待していたが、どこかで歩むべき道を間違えたのか。それとも人類はずっと心のどこかで呵責を感じながらも、利益を求め続ける集団心理にあおられ続けて、少しずつ外れたコースをたどってきたのか。


 その答えを誰かが知っているのだろうか。あるいはその答えがいずれ導き出される約束された予定日を誰かが知っているのだろうか。それともその答えの解をすでに誰かが解いていたが歴史の中に埋没してしまったのか。・・・いずれにしてもその答えの鍵さえも私の手元にはない。ずっと探し続けてきたが未だに納得できないでいる。答えなど最初から用意されていないのだろうか。


 今はただ昔の思い出だけが懐かしく輝いて私の頭から離れない。昔の仲間たちに会ってみたい。これは私の大切な宝物だ。そしてどんなにユビキタス社会が発達しようとも、この宝物は私から奪ったり改ざんしたりできない絶対的なものなのだ。そのことを誇りに思おう。


 情報通信技術の誕生。地球上に電波を応用したのは一八九五年、G・マルコーニが最初というから、電波の歴史はまだニ百年程しか経っていない。人類の意図のないメッセージでさえも、宇宙ではニ百光年離れた星までしか届いていないのだ。はるか百五十億光年の広さがあるという宇宙を思えば、我々の営みなどほんの一瞬の瞬きにもならないだろうが、私は二十二紀にあと十年と迫った今、あの有意義な任務となったUFF(国際連邦艦隊)の潜水艦ポセイドンで体験した事件、巡り合った人々を思い出しながら、後代の若者に松明を手渡す二十一世紀の一人の語り部として、記憶と手帳とデジタルメディアを頼りにあの頃をリプレイしてみたい。




 第一章 ムンバイ上陸



 ― インド洋赤道付近を航行中のポセイドン ―


 二〇六○年八月十日の朝、いつもと同じように私(島観戦武官)はポセイドンのブリッジにいた。


「艦長、UFF(国際連邦艦隊)本部から艦長宛てに緊急入電が入りました。電文は艦長室のコミュニケーターで確認できます」と、ポセイドンのブリッジにいる通信担当のクルーがティエール艦長に向って言った。


「わかった。」


 艦長はブリッジに隣接している艦長室に行き、デスクの上に置いてあるコミュニケーターに認証番号を入力してディスプレイに電文内容を表示させた。艦長はすぐにその内容を黙読した後、電文をアウトプットした。

 艦長は左手に持った電文をもう一度読み終えると、コミュニケーターを通してすぐに転進して全速力でインドのムンバイ港に向うようにと航海長のドレイク少佐に指示した。そして艦内放送用マイクを右手に持ってこう言った。


「こちら艦長だが、機関部長は直ちにブリッジに来てくれ」

 

 艦長室から出てブリッジに戻ったティエール艦長は艦内放送で機関部長のネール少佐を呼び出した。少し厳しい表情で艦長は、ブリッジにいたビスマルク副長と私をそばに呼んで、手に持っていた電文を我々に見せてくれた。内容を読んだ私たち二人は互いに目を合わせた。内容は緊急事態発生につき任務変更、ムンバイに上陸することが優先された。任務が変更されたこと自体が艦長を厳しい表情に変わらせたのではなく、その原因はムンバイでの任務内容であることが容易に想像された。その任務というのは、制御不能に陥っている原子力発電所の復旧命令であった。


 そのような任務になぜポセイドンが派遣されるのか? インドには原子力発電所の制御系トラブルに対応できる組織・人材がいるはずなのになぜ国際連邦が対応しなければならないのか? ポセイドンの人材や機材で対応できるのか? などと今回の本部からの命令に対して疑念を抱かざるを得なかった。


 これは後で艦長から聞いたことだが、UFF(国際連邦艦隊)本部は放射能汚染防止のため、いち早くムンバイ原子力発電所に行くことができるUFF所属艦隊の技術チームを探したところ、現地に一番近い艦艇がたまたまポセイドンであったのだ。


 しばらくしてブリッジに入ってきた機関部長のネール少佐に対して、艦長は今回の任務について説明した。


「ネール少佐、そういうわけだ。ポセイドンは現在、全速力でムンバイ港に向っている。到着予定は明日の九時間後だ。それまでにUFF(国際連邦艦隊)本部から送信されてきた資料から、現場での具体的な対応策を考えてくれ。・・発電所スタッフの力で何とか原子炉が暴走しないように抑えているのだが、それ以上の制御は困難な状態であるためUFFに支援要請してきたのだ。腕のみせところだぞ。私も君といっしょに行くが、上陸班の人選も合わせて頼む」


「では艦長、上陸班には保安部と厚生部を同行させましょう。カスター少佐とグスタフ少佐も上陸班に加わってもらいましょう」と、機関部長は艦長に言った。艦長は黙ってうなずき、了承の意思表示をした。艦長は任務に関することで考え事をしているようだった。


 ビスマルク副長は、緊急時の少人数による上陸班には保安部員も同行することに規定されている艦体規程に則り、保安部長に向って指示した。また、任務では原子力発電所による放射能汚染の可能性があるため厚生部も上陸班に加えた方がいいと機関部長と同じ判断を下した。そして厚生部長のグスタフ少佐にブリッジに来るよう医務室に連絡した。


「了解しました。ではネール少佐、そちらの人数が決まったら教えてくれ。それに応じた保安体制をこちらで整えておく」


 保安部長のカスター少佐はそう言って、部下のクルーに明日の上陸に備えた保安体制と必要な人数の確保を指示した。


 ネール少佐が上陸班のメンバー人選を考えながらブリッジのドアから出ようとした時、艦長が声をかけた。


「少佐、インドは君の生まれ故郷だったな」


「はい、ただ私の生まれは首都ニューデリーなので、ムンバイからですとモルディブ諸島との距離の一千kmくらいも離れた場所ですから、あまりムンバイとは縁がありませんでした」


「そうか」と、艦長は少し微笑んで言った。


 ネール少佐はブリッジを出て機関部に戻っていった。ネール少佐は艦長からの命令を無言で聞いていたが、ブリッジから出ていく時の表情には厳しさと困惑気味の気持ちが見て取れた。



 ― ポセイドンのブリッジ ―


 八月十日。私(島観戦武官)は、これから我々が向かうムンバイについて調べてみた。

 ムンバイは一九九五年に“ボンベイ”から現地の言語であるマラティー語での名称に基づく現在の“ムンバイ”に変更された。インドでも指折りの大都市で、金融業、商業、工業、港湾運送業、それに加えて映画産業も盛んで米国のハリウッドをもじって“ボリウッド”とも呼ばれている。

人 口は一五百万人を超え、人口では世界最大の都市といってもよい。ただし、人口の約半分はスラム街に暮らしているといわれ、中でもムンバイ中心部に位置するダフィ地区はアジアでも指折りのスラム街とされている。生活水準は二十一世紀に入ってから急速に発展したが、同時に貧富のも拡大している。また、撤廃が叫ばれ続けている古き習慣であるカースト制による差別は二十一世紀後半になっても社会の根底にねづいたままである。


 カースト制度は、その起源を紀元前十三世紀にアーリア人のインド先住民族の支配制度として作られたとされている。アーリア人は自らをバラモンと称して支配階級の最上級として位置づけ、先住民族を隷属させるために“ヴァルナ”と呼ばれる階級制度を作った。

 “ヴァルナ”は大きく四階級に分けられる。神聖な職に就ける“バラモン”を頂点に、王や貴族など武力や政治力を保有する“クシャトリア”、商業や製造業を営む“ヴァイシャ”、一般人から嫌われる職業にしか就けない“シュードラ”である。これら“ヴァルナ”はその後、輪廻転生の世界観を持つヒンズー教と深く結び付き、身分や職業は親から子へ受け継がれこれを変えることはできない。


 また、ヒンズー教は牛を神聖視していることで有名だ。道路に牛が寝そべっていて通行の邪魔になっていても誰も牛をどかそうとしない場面は私も何度もメディアで見たことがあるし、ヒンズー教徒は牛肉を食べることなどあり得ないということも聞いている。

 一八五七年にインドで起こった“セポイの乱”は、ヒンズー教徒のセポイ(兵士)が英国東インド会社に反発して暴動を起こしたことがきっかけとなり、インド各地に飛び火して内乱状態に陥ったものであるが、その反発とはセポイに新たに配備される予定のエンフィールド銃の薬包に牛の脂が使われているという噂が広がったためであるのが通説とされている。


 ムンバイの原子力発電所では、こうした社会通念の上に成り立った組織・人間関係の中で原子炉の復旧作業に当たらなければならない。作業上の技術論以前の問題として、我々の意思がうまく現地スタッフに伝わるだろうか? あるいは逆に現地スタッフの意図することが我々にうまく理解できるだろうか? 原子炉技術のことは私にはよく分からないが、意思疎通の面でトラブルが起こらばければいいのにと願わずにはいられなかった。



 ― 機関部への通路 ―


 ブリッジを出て機関部に向かうネール少佐は「なんてことになったんだ」と思っていた。自分は潜水艦の原子炉についていろいろな業務にあたってきた経験はあるが、今のポセイドンの主機は加圧型軽水炉による超電導電磁推進システムであり、ムンバイの原子炉とは全く構造が異なる。国際連邦艦隊の本部でもそんなことはわかっていた上での任務指示のはず。だからよけいにその意味が分からない。何かの間違いではないのかと本部に対して疑念さえ抱いていた。


 百歩譲って原子炉に関する知識は一般人よりあるとは自負しているが、それはあくまで潜水艦の主機としての原子炉であって、発電用の商業炉について理論は学生時代に学んだことがあるだけで、実務経験はなく、その意味ではまるで素人同然だ。まして今回のトラブルを起こした発電所はその燃料が一般的なウランを使うものではなく、トリウムを使う原子炉というからなおさらだ。


 トリウム原子炉はその名の通り燃料を一般的なウランではなく、トリウムを燃料とする次世代型の原子炉である。ウランを燃料とする原子炉に比べると実用化されたのは二十一世紀中期に入ってからでその歴史は非常に浅い。


 トリウムは原子番号がウランより二つ小さく、核分裂反応で燃やした時に出る“厄介者”のプルトニウムをほとんど出さないのが特徴で、核不拡散の面では好都合なわけだ。ただし、トリウム自体は核分裂しないため、そのまま原子炉の燃料としては使えない。そこで、プルトニウムを“火種”として使えばトリウムは核分裂反応をおこせばプルトニウムも処分することができる。これがトリウム原子炉の利点である。また、資源的にもインドはトリウムの埋蔵量の点で世界のトップクラスに入るほどである。反面、ウランの内蔵量はほとんどない。こうしたことがインドでトリウム原子炉が商業炉として建設された理由となっている。     


 また、世界的にはトリウム原子炉を商業化した国はインドを除いては、インドと同様にウラン資源がないがトリウム資源の豊富なノルウェーと中国ぐらいしかなく、両国とも保守点検も含めた実用運転での実績は乏しいため、今回のムンバイの原子炉のようにいったんトラブルが発生した場合、世界で最も進んだ対処方法の技術力を持っているのは当のインドなのである。しかし、実際のところは運転上のトラブルが頻繁に発生しており、ウランを燃料とする軽水炉と比較すると発電所の安全運転には不安が付いて回る。トリウム原子炉は技術的にはまだまだ未熟な段階にあるのだ。


「本部は俺にいったい何をしろと言うのだ。・・・」とネール少佐は怒りに似た気持ちを抑えながら今日一日を思い出しながら振り返って、なぜこんな任務が自分に任されたのかを考えていた。



 ― 赤道付近のインド洋のポセイドン ―


 ニ〇六〇年八月十日。ポセイドンはインド洋にあるモルディブ諸島の南西約一千kmの赤道直下を北に向っていた。西から東へ流れている暖流を艦体に受けながら巡航速度で海中を航行していた。時刻は朝の七時頃。洋上に出ればさぞかし太陽をいっぱいに浴びることができて、気持ちのいい朝の時間をリラックスして過ごせるだろうが、潜水艦ではそれはできない相談だ。洋上に出ることはまずあり得ない。このままモルディブで休暇をすごしたいところだが、当分は水・食糧等の補給の必要もない。当分は太陽とは無縁の生活を覚悟しなければならない。


 UFF(国際連邦艦隊)からティエール艦長に新たな連絡が第二報として入った。その報告によると、インドのアラビア海側の主要都市ムンバイの原子力発電所に何らかのトラブルが発生し、原子炉が臨界状態に達しているという。その原子炉の安定化に当たれというのが今回の任務だった。この任務の背景にはインドの政府及び科学省からUF(国際連邦)本部への強い出動要請があったようだ。


 それから約三時間後に、第三報としてUF(国際連邦)本部から直接ティエール艦長に入電があり、詳細な現地の情報を送ってきた。それによるとこの原子炉はまだ外部への放射能漏れはないが、現地の原子炉メーカーの専門スタッフのほとんどが、ムンバイとは遠く離れたベンガル湾側のカルカッタ方面での新設原子力発電所の建設工事に従事していて、現地スタッフだけでは臨界状態を抑えることができないと言ってきている。

 また、原子炉メーカーは、建設当時は米国の会社だったが、半年前にフランスの会社に売却していて、現在はその会社と保守契約を結んでいる。しかし、まだフランスのメーカーの現地法人は未だ設置されていないため、フランスからムンバイへスタッフを送り込むまでには時間がかかり過ぎる。


 この件に関しては、インド政府が厳格な情報管理を行っており、UF(国際連邦)本部でさえもマスコミや原子力の情報筋からは同じような情報しか得られないため、詳細な事情は不明であった。ただ、事態は急を要しているらしくインド政府は速やかなる事態収束を強く望んでおり、放射能汚染防止を前面に出して、その解決に当たるのはUF(国際連邦)本部の任務だと言わんばかりに強く要請してきた。


 

 そこで、UF(国際連邦)本部からUFF(国際連邦艦隊)本部に指示が出された。さらにポセイドンに指示が出された。その指示内容は、ポセイドンは直ちにムンバイへ向い、原子炉臨界をこれ以上進めないよう応急処理をポセイドンが施して、インド科学省とフランスのメーカーの専門スタッフが到着するまで原子炉を安定させ、引継ぎをして後は先方に任せるようにとの内容であった。


 ところが、この二か所からの指示には微妙な違いがあった。まず、UFF(国際連邦艦隊)本部はムンバイに近い所にいたというだけでポセイドンに出動指示を出した。ポセイドンの機関部には他の原子力潜水艦で勤務したクルーが大勢いて一般的なウランを燃料とする軽水炉には精通している。しかし、ムンバイ原子力発電所はトリウムを燃料としている。蒸気を発生させる原理が全く異なるトリウム原子炉を修理せよというのは、ガソリンエンジンのクルマを扱っていた者に燃料電池のクルマを修理せよというようなものである。この点からインド政府にせかされたUF(国際連邦)本部の焦り、勘違いが伺える。


 また、そのUF(国際連邦)本部からの指示に対して、UFF(国際連邦艦隊)本部も意義を唱えるべきであろう。上部機関からの指示を鵜呑みにせずに、「UFF所属の艦艇の中にトリウム原子炉に関する知識と技術を有するの艦艇はない」ことを理由に指示の撤回を求めるべきであった。しかし、指示は発せられ、ポセイドンに届いた。放たれた矢と同じで、もうどうにも止めることができないのだ。


 これは後でティエール艦長から聞いた話だが、「なぜ艦体本部からの指示に疑念を示さなかったのですか」と任務が完了してから尋ねたところ、ティエール艦長は遠い昔を思い出すようにその時の状況を私に話してくれた。


「自分も最初はこの任務を引き受けるには、技術も経験もなくただクルーの生命を危険にさらすだけだという旨を艦体本部に伝えた。だが、艦体本部は、『もしムンバイ原子力発電所から放射能汚染が拡大すれば、二千万人近い人口を有するムンバイの都市に多くの犠牲者が発生することになる。トリウム原子炉の専門家チームはカルカッタにしかいない。自分たちはムンバイの近くにいるのに、遠い所にいる彼らがやってくるまでただただ待っていられるかね? たとえ仮復旧ができなくても、クルーの生命への危険があるとしても、目前の救援要請に応えるのがUFF(国際連邦艦隊)の使命ではないかね』と言いくるめられてしまった。・・艦長として私は失格かな。観戦武官島中佐?」


 私(島観戦武官)は何も反論することができなかった。


 確かに今回の任務の内容からすると不適格な条件であることを認識しつつも、任務遂行を部下に命令しなければならない。また、放射能によってクルーの生命に危険が伴う可能性が多く、悪くすると死につながりかねない。艦とクルーの安全を第一義に考えるべき立場の艦長としては、今回の命令に異議を唱えても一方的に断罪されるような違反行為ではない。


 しかし、非常時におけるUFF(国際連邦艦隊)の役割としては、自らの危険を顧みず国際社会の安定と基本的人権の保障のために動かなくてはならない。これは艦体の理念でもある。指示を出す側とそれを受ける側、いちがいにどちらかがやり易いものではないが、受ける側、つまり、実行部隊であるティエール艦長の側では、UFF本部からの今回のような任務命令に対してどこか納得できない、後味の悪いものが残ってしまう。そうした立場で艦とクルーの安全を確保しつつ、任務を遂行しなければならない。その結果については責任を取らなくてはならない。艦長とは孤独で周囲から理解されにくい存在である。

 むろん、艦長の中には栄光と称賛を望んで目立ちたがることを厭わない人物もいる。だが、ティエール艦長はそのような人物ではない。逆にそれを意識的に嫌っている。

 今回のネール少佐への命令に対しては、艦長自身が一番悩んでいることだろう。艦体の理念達成とクルーの安全確保の狭間の中で今も苦しんでいることだろう。艦長からの「艦長失格かな」の問いに今の私も答えを出すことはできない。



 ― 第一報を受けた時点でのポセイドンの機関室 ―


 艦長からの原子炉の仮復旧命令を受けたネール少佐は、ブリッジを出てからまっすぐに機関室に向かった。深刻な表情をしていたネール少佐の様子が気になったので、私も少佐の後から付いていった。


 機関室に入ると、少佐は大きな声で何度もクルーに呼び掛けるようにして歩きまわった。


「みんな作業の手を止めて聞いてくれ」と言いながら拍手をして機関部のクルーの注目を集めた。そして機関室の横にあるミーティングルームに集合するよう声をかけた。

運転監視に必要な最低限のクルーを除いた機関部全員がミーティングルームに入った。そして、ネール少佐はこれからの機関部の任務についての説明を始めた。


「ポセイドンがどこへ向かっているか知っているな。そう、ムンバイだ。そこでの我々の任務はムンバイ原子力発電所のトリウム原子炉の仮復旧作業だ」


 その瞬間、クルーの集まりのあちらこちらで驚嘆と嫌悪の入り混じったようなざわめきが起こり、ネール少佐は話の腰を折られてしまった。


「少佐、仮復旧作業と言われましたが、ムンバイ原子力発電所での我々の具体的な任務は何ですか」とクルーの一人が不安そうに質問した。


「みんなが不安に思う気持ちはもっともだ。この私も当惑している。トリウム原子炉と聞いて、みんなはネガティブな任務だと思っていることだろう。・・今回の任務はムンバイ原子力発電所にトラブルが発生したため、その仮復旧を我々ポセイドンの機関部員がやることになった。万が一に備えて、厚生部と保安部も我々に同行する」


 ネール少佐の話を聞いた機関部のクルーは呆気にとられていた。ネール少佐は続けてクルーに説明した。


「ムンバイ原子力発電所の特徴は、一般的な軽水炉、つまり、冷却材に水を使うタイプではなく燃料となるトリウムを混ぜた溶融塩を使っているところにある。商業炉としての歴史は軽水炉よりはるかに浅く、小さなトラブルが未だに続いている」


「少佐、我々機関部の技術力と機材で今回のトラブルを復旧できるのですか? あ、その前に今回のトラブルというのは何なのですか?」


「それが、・・・根本的な原因はまだつかめていない。ただ、冷却材の循環に問題があり、規定値を超えた温度と圧力が蒸気発生器の配管内にたまっているとこのとだ。こうした事態になったら、冷却材を一次系配管から逃がしてやればいいのだが、今回はその機能が働いていないため、一次系配管内の溶融塩の温度と圧力が高まったのだ。このまま放置すれば一次系配管のどこからか燃料の溶融塩が漏れ出し、放射能汚染となってしまう。そうなる前に復旧するのが我々の任務だ。技術的な対応方法についてはどうすればいいかわからない。発電所の技術員と協力して原子炉のトラブルを解消するしかない」


 ネール少佐は自分で言っていることの頼りなさを感じていた。機関部のクルーの動揺は自分の説明では収まっていないと肌で感じ取っていた。


「質問はあるか?」


 ネール少佐は機関部のクルーを前にして、自信の無さを悟られないように毅然とした態度で言った。

 クルーからは何の反応もなかった。それはクルーが納得したからではなく、ネール少佐にこれ以上質問しても解決するわけではなく、ただ、少佐を苦しめるだけだとわかっていたからである。


「では、明日の日直以外の機関部員は全員上陸する準備をしてくれ。モビルPCの医療モードを“放射線優先”にセットし、次の指示を待て。ムンバイ港のインド海軍用桟橋への上陸予定時刻は明日〇八〇〇時だ。発電所へは迎えのバスに乗って行く。各自の詳細な役割分担は発電所に行ってから調整する」


 ネール少佐はクルーを見渡しながらそう言って解散させた。その場にはネール少佐しか残らなかった。少佐そばにあった計器盤に両手をついてうつむいていた。具体的な指示を出せない自分が歯がゆいのだろう。私は少佐に近づき声をかけた。


「少佐。明日、発電所に行けば、やらなきゃならないことが自然に出てくるさ。それにもともとトリウム原子炉なんてものは我々の管轄外だ」と気休めにも似たことを言った。すると、少佐は深刻な表情で私の方をチラッと見て言った。


「UFF(国際連邦艦隊)本部もそう思ってくれればいいのですが・・・」


 少し微笑みを見せて少佐は、明日のムンバイ上陸班の人員把握、連絡網、指揮命令系統の作成のため打ち合せをすると言って、ミーティングルームを出て行った。


 一人残された私(島観戦武官)は、今の少佐に気休めなど言わなければよかったと悔悟の念にかられた。放たれた矢に例えたUFF本部からの指示も、少佐への気休めも、いったん出た言葉は後で取り消すことができないという点で一致している。だが、別の視点、つまり、その言葉の持つ社会的な“重さ”で比較すると両者は決定的に違っている。「なんと自分自身は矮小なことか」と私は自分の無力さを痛感しながら、自己嫌悪と自責の念を抱き、ネール少佐と同じようにミーティングルームを出た。


 機関部のあちらこちらではクルーが数人ずつ集まり、明日の上陸と発電所での連絡体制について打ち合せをしているようだった。ネール少佐だけでなく、彼ら自身も“管轄外”の指示を受けて、その対処策に困惑しているのだ。しかし、彼らは健気にも指示に対して従順で士気も高まっているような感じがした。原子力発電所という、おそらく経験のない現場でどんな困難が待っているかわからないというのに。

そんなクルーを横目で見ながら、半ば逃げるように機関室を出てブリッジへ向かう狭い通路を歩いて行った。機関室特有の音と臭いが私から次第に遠ざかって行った。しかし、私(観戦武官)の中の自責の念は遠ざかることはなかった。



 ― ムンバイ港 ―


 八月十一日 午前八時。我々は予定通りインドの大都市であるムンバイの港に入港した。ムンバイ港はとても大きな港で、さすが中世の頃から海上貿易で栄えた伝統がある。ポセイドンの着岸場所は、港の一角を占めているインド海軍の桟橋のひとつである。今回のポセイドンの入港については、もともとインド政府がムンバイ原子力発電所のトラブルに対して、可及的に対応できる国際連邦に強く要請した背景があり、インド政府からインド海軍に桟橋のひとつをポセイドンのために空けさせたらしい。


 上陸班は艦長を先頭に、副長、それに機関部、厚生部、保安部と私で構成され、タラップを次々に下りていった。これほどの人数が任務で一度に上陸する光景は見たことがない。また、海のそばとはいえ、ここムンバイでの八月の太陽の暑さと眩しさにはうんざりさせられた。潜水艦の乗組員にとって、外気を直接吸うことは稀なことで、本来うれしいものなのだが、ここは別だ。暑すぎる。私(観戦武官)は特に所持していく物もなく身軽だが、他のクルーのほとんどが想定される事態に備えて、肩から機材を入れた重そうな袋をぶらさげていた。彼らはもっと熱いことだろう。せめて原子力発電所の中は快適なことを願うだけだった。


 埠頭の広場には、軍服を着た三人の男性がいて、整列して我々の到着を待っていたかのようだった。彼らはインド海軍の港湾事務所長たちであった。

 敬礼の後、インド海軍の港湾事務所長はティエール艦長と並んで歩きながら、ムンバイ原子力発電所の現状について説明した。彼らはインド政府からポセイドン到着後の入国手続きと事前説明の応対を任されたのだった。


 説明によると、発電所の技術員だけでは一次系配管の温度・圧力の上昇を防ぐことができないこと。明後日の朝にはインド科学省と原子炉メーカーの技術チームがムンバイに到着予定であること。ポセイドンの技術員への期待は、それまでの間に復旧してもらうこと。復旧が無理ならば、これ以上事態を悪化させずに現状維持を保ってもらいたいことであった。これはUFF(国際連邦艦隊)本部からの入電内容と同じであった。


 インド海軍の港湾事務所長に案内されて、我々は事務所建屋に入った。その中は空調機が動いていて外とは別世界の快適な空間であった。事務所員から「まもなく発電所からバスが迎えに来るから、それまでの間ここで待機していてほしい」と言われた。しばらくすると、事務所員から所長室に案内され、艦長、副長、機関部長と私の四人がその部屋に入った。そこでは所長からこれまでの発電所のトラブルの経過について説明を受けた。


 ひととおりの説明を受けて、二十分以上経っても発電所からの迎えのバスは来なかった。事態は切迫しているのに何をしているのだろうと誰もがイライラしてきた。所長にも焦りが出てきて、「バスが遅すぎますね」と発電所に連絡をとった。するとどうだろう、発電所の電気自動車のバスがバッテリー不足で運航できずに発電所構内に止まったままでいるとのこと。我々は半ばあきれて互いに顔を見合わせた。そうした突発性のアクシデントがあれば、インド海軍に連絡を入れるとか、代替のバスを指し向けるとか、対策を講じるべきなのに一体、この事態を発電所側はどう受け止めているのだろう。


 普段は冷静そのもののビスマルク副長は所長に向かって云った。


「所長、事態は急を要していると思われます。我々の力でどうにかなるかは別として、他のバスか、自動車の手配をお願いできませんか。失礼だが、発電所に任せておいても円滑に事が運ばないようだ」


「すいません。こちらが先に来ていて皆さんをお待ちしければならないのに」と所長が申し訳なさそうに言った。

「所長、ざっくばらんにおっしゃっていただけませんか」とティエール艦長は少し鋭い顔つきで尋ねた。


「はい。まず、発電所にはこのバス一台しかありません。インド海軍はバスを保有しているが、軍事専用になっているので今回のような事故対応だとしても、その使用に際してはデリーの防衛省の許可状を取らなくてはなりません。タクシーは幾らでもムンバイ市内を走っているが、発電所から十km圏内は民間人及び民間交通機関は立入禁止となっていて、これの例外措置のためにはやはりデリーにある厚生省の許可状をとらなくてはならないこと」と所長はお手上げだと言わんばかりに、両手を広げて見せた。


「それでは、我々は全員ここで足止めですか。・・ムンバイまで全速力でやってきたのに。何か別の輸送方法はありませんか。せめて機関部員だけでも、いや、部長のネール少佐だけでもいい。発電所へ送っていただけませんか?」とビスマルク副長が言った。


「・・・どうしようもない。ここで発電所のバスを待っていて下さい。・・自分に言えることはそれしかない」と所長は回転いすに座ったままでクルリと窓の方向に向きを変えて沈黙を続けていた。


 我々はどうしようもなく互いに顔を見合わせて、こちらも沈黙で所長室を出た。すると厚生部長のグスタフ少佐が待ちくたびれた様子で我々四人を迎えて言った。


「発電所はどんな様子なのですか? それと、いつになったら出発するのですか? 時間的余裕はないと思っていましたが、発電所の緊急事態は回避され、事態は好転したのですか?」

 ドクターのグスタフ少佐からの矢継ぎ早の質問に対して、ティエール艦長はどう答えていいかわからなかったが、一言こう言った。


「果報は寝て待て」


「艦長、なんておっしゃいました?」


「急いては事を仕損じる、とも言う」


「・・・・・」ドクターは無言で、もう何も尋ねまいと思った。


 我々はいつ来るかわからない発電所からのバスをここで待つしかなかった。任務の最初からつまずいてしまった。ただでさえ困難が待ち受ける、原子力発電所という場違いのトラブルへの対応という任務だ。いったいこの先どうなることか。先が思いやられた。

 インド海軍の港湾事務所の窓から見える外の風景は、夏の熱射線が照りつけ、潜水艦乗りにとっては尋常ならざる見慣れない風景に映った。

「できれば発電所からの迎えのバスが来なければいいのに」との思いが不意に私の頭をよぎった。



 ― ムンバイ港近くの教会 ―


 ネール少佐は原子力発電所の仮復旧という難題を抱えており、早く発電所へ行ってどんな状態になっているか自分の目で確認したかった。しかし、それで解決策が思いつく自信は全くなかった。通常の原子力潜水艦の軽水炉であればまだしも、トリウム原子炉なんて自分の専門外だ。それでもイライラしながら発電所からのバスを待っていた。


 彼は焦る気持ちを抑えようとしたが、バスを待つ時間の経過の遅さに嫌気がさしてきた。やがてそれに疲れてあきらめに似た気持ちになった。そして、椅子から立ち上がり、他のクルーも椅子に腰かけて待っている横を通り抜けて出入り口までゆっくりと歩いた。出入り口の窓から外を見渡した後は、建物から外へ出て、建物から離れないように周辺を散歩するように歩いた。

 広場に出ると教会の前のエントランスの横に二軒の出店があった。何を売っているのだろうと、たわいない気持ちで見て回った。広場には横たわっている牛や当たり前に落ちている牛の糞があった。それを踏まないように気をつけながら、まもなく二十二世紀になろうとしている今でも残っている古き風習を実感した。


 すると、そのうちの一軒の店先にサイネージが置かれてあり、それをのぞき込むと、サイネージで映し出されていたのは教会建設現場であった。なんでこんなものを映し出しているのだろうと不思議に思いながら、映像と音声に引き込まれていった。なぜ、それに興味を持ったのか、少佐自身でもわからなかったし、ましてやそれを他人に説明できる理由などなかった。


「いらっしゃい」とネール少佐は店の女性に声をかけられた。


 サイネージの映像を覗きこんでいたところを、不意に頭の上から声をかけられたような気がして、少佐はびっくりして顔を上げた。すると、愛想のよさそうな若い女性の笑顔が飛び込んできた。


「いらっしゃい、インド海軍の方? あ、制服が違う。外国の海軍の方ね。当てましょうか。そうねえ、顔立ちは私たちインド人に似ているけど・・あ、そのマークは国際連邦」


 初対面なのに彼女は何の屈託もなくネール少佐に話しかけてくる。少佐は少し気後れしつつ彼女に話しかけた。


「どうも、その通り国際連邦の者です。さきほど向うのインド海軍の桟橋に着岸したところです。」と少佐は制服の胸の部分に縫い込んである“UF”の文字のところを指でつまんでみせた。


「やっぱりね。それで、ムンバイには何をしに? 休養、それとも補給かしら。他の乗組員の人はまだ上陸していないの?」


「やれやれ、まるで取り調べだな。インド海軍の入国検査より厳しそうだ」と苦笑いしながらネール少佐は両手を軽く上げて言った。


「あら、ごめんなさい、一方的に質問しちゃって。ここで御店を出していると、いろんな国の海軍さんが来られるので、うまく気を引かないと商売にならないのでつい、押し売り気味の声のかけ方になっちゃうのね」


 陽気に話しかけてくる彼女に対し、ネール少佐は自分がバスを待っていたことも忘れて気分が乗って話しかけた。


「ムンバイに来たのは、・・そう、補給のために二、三日立ち寄っただけです。他の仲間はインド海軍の港湾事務所にいる。少し時間があったので私はこの広場へやってきたんだ」


 彼女は、今度は黙ってネール少佐の話を聞いている。ネール少佐は再びサイネージに目をやって、その映像を見ながら彼女に向かって言った。


「ところで、このサイネージに出ている古い教会は何かな。そこに建っている教会とは違うようだが、このお店と関係があるのですか?」


「ああ、それね。その教会はここからずっと南に岬があって、その上に建っているユダヤ教の教会よ。建物の傷みがひどいので私たち信者が補修をしたり、こうしてサイネージで映像と音声を流して募金を集めているんです」


 それを聞いたネール少佐はサイネージをあらためてのぞき込んだ。なるほど確かに映像は教会の補修工事の様子が動画と静止画で映されていた。工事資金の募金を呼び掛けていた。音声は映像の正面に立たなければ聞こえてこないように配慮されていた。


「すると、この映像にあるように君も商売の傍ら、教会の補修工事のための募金活動をボランティアでしているのですか」


「ええ、そうよ。ユダヤ教徒ですもの。それは普通よ。どうぞ、ここに置いてあるものを見て行って下さい。売り上げの一部は募金に充てられますから」


 彼女は微笑んで出店に置いてある品物を指さした。簡易な出店らしく、品物はケースに入っている訳ではなく、無造作に並べられていた。ネール少佐はそれらを見渡した。いろんなものを置いていた。日用品、装飾品、七宝焼、陶芸、彫刻、それらに共通しているのは宗教的なデザインが多いということだ。それに、どれも大量生産したものではなく、手作り感が触った手から伝わってきた。


「これらは今では珍しい手作りのような感じがするけど、あなたが作っているのですか」


「いえ、私はこれほどの物はまだ作れません。私が勤めている工房の親方が作ったものです。例えば、そう、これ」


彼女は並べられている商品の中から七宝焼を手に取った。


「どう? きれいでしょ、これ。なかなかこれだけの物は作れないわ。ほらっ、手に持ってみて」


 ネール少佐は、言われるがまま七宝焼を手にとってみた。


「これも君の親方の作品かい。確かにきれいだ。それに何でも作れるんだね、君の親方は。工房はこの近くなのかい」


「いえ、工房はここからは離れているわ。そこはダヴィといってスラム街なの。ムンバイの人ならみんなダヴィを知っているわ。ダヴィで製作、販売もしているけど、そんなところだから売り上げはあまりないわ。だから、向うの教会の許可を取って、ここで出店を出しているの。ここなら地元の人だけでなく、軍港を利用する多くの人たちを相手にできるから売り上げを期待できるわ」


 初対面の人に何の屈託もなく話しかけてくる彼女によって、ネール少佐の気分は次第にほぐれていった。さっきまでイライラしながら港湾事務所でバスを待っていた自分はもうなかった。


「君は熱心なユダヤ教徒だね」


「そんなことないわ。普通よ。でも、こんな風に生きていくようになったのは親方のおかげね。こんな私でも見習いとして雇ってくれたもの。職人としての腕はまだまだだけど。・・ええ、そうよ。それと神様のおかげよ」と彼女は少し上目で空を見ながら、過去にさかのぼっているような、あるいは自分に問いかけているような感じでつぶやいた。


「なるほど、君の人生の恩師ってわけかな。その親方は。・・そうなら、僕もその親方に感謝しなければならないな」


 彼女は、ネール少佐の「親方に感謝しなければならない」との言葉に、どういう意味だろうとその言わんとすることが不可解だった。


「・・・・・」


無言の彼女の様子を見て、ネール少佐はその辺を察して言った。


「だって、親方のおかげで熱心に教会の募金活動をするようになって、この場所で出店を開いているから、今日、ここで君に出会えたのは親方のおかげってことになるだろう?」


「・・そ、そうね。そういうことになるわね」


彼女は思いもしなかったネール少佐の言葉に少し動揺し、顔を赤らめた。一方、ネール少佐も初対面の女性にこんな事を言うなんて、自分でも驚いていた。ついさっきまで発電所仮復旧の任務のことで頭がいっぱいだったのに、今はとても落ち着いた気分なのだ。


「そうだろう? そして、君にとって、こういう事はユダヤ教の神ヤハウェによる“神の思し召し”ということかな。・・だけど、僕にとっては少し違うな。証明できない物事は偶然でしかない。だから、今、君と話していることは単なる偶然なんだよ」


 彼女は我に返ったような気分になり、少し考えるようなそぶりを見せて言った。


「あなたにとって、証明できない事は単なる偶然なの?」と彼女は少しトーンを落とした口調で言った。


「ああ、僕にとって、物事は論理的に説明できるようでなきゃならないと思っている」


「・・・・・」彼女は無言だった。


 ちょっと気まずい雰囲気がしたネール少佐は、手に持っていた七宝焼をそっと元の場所に戻した。その時、そのテーブルの向う側に置いてあったバケツに入れてある山吹色の花の束に気付いた。これも売り物なのだろう。


 その時だった。ネール少佐が持っているモビルPCから呼び出し音が鳴った。急いで取り出して通話チャンネルオンにした。彼はUFF(国際連邦艦隊)の機関部長ネール少佐に戻ったのだった。通話元はポセイドンのビスマルク副長だった。発電所からのバスが来たのか。あわててネール少佐は応答した。


「こちらネールです」


「少佐、何をしているのだ。発電所のバスがここに間もなく到着するとの連絡が入った。すぐに港湾事務所へ戻りたまえ。バスが着いたらすぐに発電所へ出発だ」


「了解しました。すぐに戻ります。」


 ちょうど気まずい感じだったので、副長からのコールはネール少佐にはちょうどよかった。


「戻らなきゃならなくなった。君と話せて楽しかったよ。商売がんばって。それと教会の復興を願っているよ」


「え、ちょっと待って。今、“発電所”って聞こえたわよ。それじゃ、あなたはトラブルが発生しているムンバイ原子力発電所への国際連邦からの復旧隊の人なの?」


「まあ、・・でもそんな恰好のいいものじゃないよ。何しろ、トリウム原子炉ことなんて何も知らないんだから。“見習い”以下だよ」


「こんな私だって、原子力発電所が今、どんな状態にあるかぐらいは大体わかるわ。情報があまり公開されていないから、よくないのでしょうね。そっちこそがんばってね」


 彼女はそう言うと、店の精算機に置いてあったハンディPCを手に取り、ボタン操作して信号を少佐のモビルPCに向けて送った。


「私はレベッカ・ベングリオン。ダヴィの工房の見習い職人よ。今、こちらの連絡先と工房への地図を送信したわ。作業が一息ついたら連絡してちょうだい。それと、仲間の人を連れてインドのお土産を買いに来てね」


 彼女はネール少佐に微笑んで冗談交じりに言った。


「僕はジャハ・ネール。国際連邦艦隊の技術者で階級は少佐だ。これから先はどうなるかわからないけれど、できればゆっくり君の工房を見学させてもらいたいな。それじゃ」


 そう言って、振り向いて駆け足で去っていくネール少佐を、レベッカは右手をゆっくり振って別れのしぐさをした。そんな彼女にムンバイの八月の太陽はまだ午前中だというのに容赦ない熱気を浴びせていた。しかし、彼女は道路の曲がり角で見えなくなったネール少佐の背中を追いかけるように、少佐の走って行った方向をじっと見つめていた。“技術者”という点が、少佐に自分と同じ雰囲気を嗅ぎ取ったのだろうか。


 その時、すぐ後ろからレベッカは声をかけられた。


「レベッカ、いつもの花を頼むよ」


「あら、おばあちゃん、おはようございます。今日もありがとう」


 馴染みの老婆がレベッカの出店に花を買いに来たのだ。


「おばあちゃん、いつもと同じ十本でいい?」


「ええ、十本でいいよ」


 レベッカはバケツに入れてあった山吹色の花の束から十本を抜き取り、使い古しの包装紙でくるんで老婆に渡し、カードを受け取って清算を済ませ、カードを返した。いつもと全く同じように。


「ありがとうございました。今日も暑くなりそうだから、おばあちゃん、あまり外に出ないでね。体に悪いから。それに原子力発電所のことも心配だし」


「ありがとう、いつも心配してくれて。なあに、この歳になりぁ、この程度の暑さぐらい何ともねぇ。それより今日の夕方ぐらいからひと雨きそうだから、店は早めに閉めた方がいいよぉ」


「え、こんな天気なのに夕方から崩れるの? 天気予報では何とも言ってなかったけど」


「ははは、年寄りの勘だよぉ。もっとも勘違いになることも多いだが」


レベッカは何となく胸騒ぎがして、振り向いてネール少佐が走って行った道路の曲がり角を見た。そこにはいつもと変わらない、熱気と眩しさ、影で横たわる牛の姿と糞の臭い、学校へ行く子供たちの笑い声が入り混じった朝の見なれた光景があった。


「神様、何も起こりませんように。多くを望みません。だから、普段通りの生活が続きますように」とレベッカは両手を組んで一人祈った。




 第二章 原子炉のトラブル



 ― インド海軍の港湾事務所 ―


 広場から戻ったネール少佐はビスマルク副長に戻ったことを伝え、発電所のバスを待った。まもなくバスが港湾事務所に到着した。真っ先に所長がバスの搭乗口から乗り込み、運転手と何やら話をしていた。出発が遅れた理由を問いただしているのだろうか。そんなことを聞いても失われた時間は戻らないのに、これ以上の詮索はこちらにとってありがた迷惑である。


 ビスマルク副長は、ポセイドンにいる航海長のドレイク少佐にモビルPCで交信し、これからやっとバスに乗り原子力発電所へ向かうことを告げた。


 我々を乗せたバスはゆっくり発進し、原子力発電所へ向かった。途中、牛が何度も道路を横切りその度にバスは停車した。先を急いでいる我々を邪魔している訳ではないが、急いでいる身にしてみれば牛の行進は、まるで交通ルールを守らない自転車のように横柄な態度に感じられた。バスの運転者もクラクションを鳴らす事もせず、牛のペースに合わせるように急ぐ気配もなくバスを走らせている。この運転手は発電所のトラブルとは無関係なのだろうか。

 発電所の技術員たちもこのようにおおらかで作業しているのだろうか。

「どうか取り越し苦労で終わって欲しい」というのがバスの中での私(島観戦武官)の偽らざる心境だった。

 しかし、それはムンバイ発電所の中に入ってから、見事に覆されることになろうとはこの時は知る由もなかった。


 バスの窓から見下ろして、牛たちが道路沿いに歩いているのを見ていると、不意に一頭の牛と目があった。牛は大きな目を見開いて、道路を人間が占有するのは迷惑だと言っているような目で私を見た。何も言わず歩く以外何もしない牛であったが、その目はなぜか寒冷地の湖水のように神秘的であり、その顔立ちは宗教家のような雰囲気さえ漂わせていた。これから我々に待ち受けている任務である発電所のトラブル対応を、この牛は見透かしているような感じさえした。


 

 ― 発電所の事務所棟 ―


 我々を乗せたバスはようやくムンバイ原子力発電所に到着した。発電所のバスの整備ミスのせいで、インド海軍の港湾事務所で足止めを食わされ、現地入りが予定より遅れたが移動中は何事もなく発電所に到着した。そこでまず目に着いたのは広くて高い門扉であった。軍事施設を訪れる機会が多い我々でも、これほどの門扉は見覚えがない。

 バスは発電所の事務所棟の玄関付近でバスが停車した。出迎えは案内役の発電所職員一人だけだった。トラブル対応のために発電所側に余裕がないことが見て取れた。


 我々はいったん見学者用のホールに通され、ティエール艦長、ビスマルク副長、機関部長のネール少佐、厚生部長のグスタフ少佐、保安部長のカスター少佐及び私の六人は案内役の発電所職員に導かれ、やや早足で発電所の事務所棟に向かった。所長ら技術員スタッフから、発電所の現状把握と発電所側が我々に何をしてほしいのか、また、我々に何ができるのかを聞かねばならなかった。


 会議室に入ると、ミトラ所長、ナイク副所長、ゴズワミ技術部長の三人が待ち受けていた。三人とも笑顔は作っていたが、外交的な笑顔ではなく事態は深刻であることがうかがえた。港から発電所へ向かう途中で思った楽観的な私の見通しは、説明を聞く前に三人の表情からもろくも崩れ去った。


 まず、ミトラ所長が、我々がO字型のテーブルに座るや否や言った。


「所長のミトラです。皆さんには原子力発電所という特殊な場所へ急きょ来ていただき感謝申し上げます。事態の詳細は後ほどご説明しますが、当発電所の原子炉は制御不能に陥っています。これをみなさんのご協力を得て安定化を図っていかなければなりません。・・紹介します。実際の復旧作業の指揮をとっている副所長のナイクと技術部長のゴズワミです」


 ナイク副所長は目鼻立ちがキリッとした女性で原子炉の専門家であることが、その顔立ちから伺うことができた。一方のゴズワミ技術部長は大柄な男性で、こちらも原子力発電所のキャリアが長そうなたたき上げの人物でありそうな第一印象だった。二人とも頼もしい感じで少しだけ私の不安は和らいだ。


 今度はティエール艦長が自己紹介し、ポセイドンからの上陸員のリストデータを所長に渡した。それから我々五人は順に氏名と役割を述べた。すかさずティエール艦長は所長に質問した。


「所長、不本意ながらまず我々の原子力発電所に関する実績のなさを述べなければなりません。我々ポセイドンの乗組員は原子力発電所で勤務した経験がないのです。そのことはそちらもご承知のことと思います。どうしてポセイドンに今回の任務が与えられたのか、こちらも当惑しています。あっ、いえ、何もできないと言っているのではありません。我々の任務は発電所の方々と協力して仮復旧を行い、数日後に派遣される予定のインド科学省の技術チームに引継ぎすることです。そこで、まず、そちらの置かれている状況を説明していただき、仮復旧させるためには何をしなければならないのか。その中で我々は何ができるのか。その辺を明らかにしていただきたい」


 艦長からのポセイドンの置かれている厳しい説明を予想していたかのように所長は答えた。


「ポセイドンの皆さんにはご無理をおかけします。原子炉、それもトリウム原子炉のトラブル対応など皆さんの守備範囲外であることは私たちもよく理解しています。失礼だが、どうしてトリウム原子力発電の知見のない皆さんにこの任務が割り当てられたのか私にもわかりません。私どもとしては、現状より原子炉を安定させインド科学省の技術チームに委ねるしかないと考えています」


 ポセイドンを当てにしていないことをとつとつと話すミトラ所長に対して、我々も何も言うことができなかった。その時、所長の隣に座っていたナイク副所長が割り込むようにしゃべり出した。


「ちょっと待って下さい、所長。ポセイドンの皆さんの状況はわかりますが、この発電所を何とかしなければならないのはこの私たちではありませんか。インド科学省の技術チームといっても、どこまでトリウム原子炉に関する技術力を持っているか疑問だわ。彼らに任せてもきっと原子炉を廃炉に追い込んでしまうわ。そうさせないためにも私たちが踏みとどまる覚悟で原子炉を安定化しなければなりません」


 急な展開に我々ポセイドンの六人も少し当惑した。発電所の内部は統制がまだとれていない。つまり、現状把握とその対策も明確になっていないことが想像された。懸命にやるべきことはやっているのだろうがどの対策も有効ではなく、インド科学省の到着が迫っていることから焦りが発電所の幹部に生じている事が感じ取れた。おそらく私以外の五人も同じ思いでいるだろう。


「副所長、ポセイドンの方の前で失礼だぞ。君のその気持ちは私もいっしょだ。デリーにいるインド科学省なんかに任せたくはない。しかし、トラブル発生以来、その解決策を探り、試行してはみたがこの有様だ。まだどんな手立てがあるというのかね」


「所長、あきらめてはいけませんわ」


「私はあきらめたとは言っていない」


「まだ、実施してみる方策はいくつかありますわ」


「だが、それは優先順位の低い、つまり、有効とは言えない方策だろう」


「優先順位を付けた方策と言っても、私たちのこれまでの知見であえて優先順位をつけただけで、当初、可能性が低いとみていた方策でも、実際にやってみたら思わぬ効果が得られる場合もあるはずです」


「仮説を立てるにしてもまず証拠、証明を第一義に重視する君らしくないな」


「・・・・・・・」ナイク副所長は痛いところを突かれたかのように沈黙した。


 ナイク副所長は所長の指摘に一瞬、黙ってしまった。一方、ゴズワミ技術部長はずっと黙ったままで二人の間を取り持つ様子も見受けられない。

この様子を聞いていた私は、発電所の内部が一定の方向性を持ってトラブル対応していないことを感じ取った。ティエール艦長や同席したポセイドンのメンバーもそう感じたに違いない。そして、もちろん機関部長のネール少佐もそのはずだ。


 膠着した雰囲気を打ち破るようにティエール艦長は切り出した。


「所長、待って下さい。そうしたお話よりも原子炉がどうなったのか、それはどんな原因によるものなのか。我々にわかりやすく説明してもらえませんか。先程申し上げたように我々は原子炉、そのうえトリウム原子炉に関しては素人ですから」


 相手に優位性を持たせて何とか説明を引き出そうとすることを狙った艦長の言いぶりだった。


「わかりました。すいません、内輪の議論をお見せして。何しろ、三日前のトラブル発生以来、対策について試行錯誤の連続でしたもので。さて、前置きはともかく、トラブル発生は三日前の八月八日でした。トリウム原子炉のそばにある熱交換器に入っている熱源となる循環パイプの圧力上昇を知らせる表示が総合指令室に出ました。圧力が現在も上昇を続けていて制御できない状態になっています。なお、この循環パイプには燃料である液体トリウムの溶融塩が原子炉と熱交換器との間を一定の圧力で循環しています」


 ミトラ所長はスクリーンに映し出された映像を使って説明し始めた。副所長と技術部長も黙って聞いていた。ネール少佐は真剣な眼差しで興味深い様子で聞き入っていた。所長は説明を続けた。


「通常は圧力が変化した場合、パイプの中の溶融塩を循環させるポンプの回転数を調整して、パイプ内の圧力を自動的に上げたり下げたりします。もし、自動制御できない場合には手動で調整します。それも不能になった場合は、強制的に発電所の底に位置するドレインタンクに溶融塩を排出パイプから排出する仕組みになっています」


「所長、それだけの安全構造になっているのに、なぜ循環パイプの圧力異常が止まらないのですか」


「そこが問題なのです。これまでも循環パイプの圧力が基準を超えて上昇、下降することは何度かありましたが、安全装置が働いてほんの数分で自動的に元の圧力に戻りました。これほど長時間の上昇が止まらない状態は初めてです」


「原因はどこにあるのですか。今の話しを聞いたところでは、大まかに言うと循環ポンプの自動制御装置、その手動制御装置、ドレインタンクへの排出パイプのどれかだと思われますが」とビスマルク副長は質問した。


「ええ、我々もそう考えました。これらに付帯する装置はまだまだたくさんありますので、おっしゃられたように計器に誤りがないかどうかも含めて順にチェックしました。まず、計器には問題がないことが確認されました。そこで循環ポンプを点根しましたが、なぜ自動も手動も作動しないのかがわかりません」


「わからない?」


「ええ、原因がわかれば我々も手の打ちようがあるかもしれないのですが。・・・・・」


 ミトラ所長の「わからない」という答えに、ビスマルク副長をはじめ我々は唖然とした。ティエール艦長は食い下がるように言った。


「あ、いや、所長。わからないと言われると私たちもどうしていいやら。何か手掛かりだけでも、推論でも構わない。何か原因と思われることはないのですか。トリウム原子炉の分野では、インドは中国と並んで技術力があると聞いています。そのあなた方が原因を突き止められないようでは、もはや原子炉を止める以外に解決方法はないのでは?」


 顔をうつむかせる所長を横目で見ながら、ナイク副所長は頬にかかった髪を耳の上に戻しながら言った。あまり睡眠を取っていないような彼女の目元が事態の深刻さを訴えているようだった。


「みなさんのおっしゃるように原因を突き止められない事は恥ずかしいことだと思っています。でも、まだ終わったわけではありません。まだチェックする項目はたくさんありますから、それを一つずつ潰していけば原因を突き止められます」


「なるほど、副所長のおっしゃることはよくわかります。しかし、そのチェック項目すべてを確認していくのにどれくらいの時間がかかるのでしょうか? また、原子炉の循環パイプはこのまま圧力上昇していくと仮定して、あとどれくらいで支障をきたすのでしょうか?」とそれまで黙って聞いていたネール少佐が口を開いた。


「それは、ええっと。・・・チェック項目と作業手順を決めたばかりですから、それに係る時間は・・・おそらく四十八時間くらいはかかるかと。よって、今の二十四時間体制を継続させれば、完了予定日は二日後の八月十三日の午前中ですわ」


 四十八時間と聞いて、艦長だけでなくグスタフ少佐も面食らったような表情で目を合わせた。ちょうどインド科学省の技術団チームが発電所に到着する日ではないか。インド科学省の技術チームには仮復旧対策を施せないまま、彼らの手に委ねることになるかもしれない。発電所の無策ぶりが露呈され、なんとも格好悪い事になる。発電所側がそんなことを期待しているとは思えない。しかし、逆に言うとそれくらいこのトリウム原子炉とは厄介者なのかもしれない。いやまて、四十八時間と言うのも、インド科学省の到着に合わせただけで、本気でチェックし続けると、四十八時間では足りないのかも知れない。発電所としてはインド科学省に対して「まだチェックが終わっていない」とは言えないからなのであろうか? などと私はその時、いろんなことを勘ぐっていた。

一方、ネール少佐は冷静な表情だったが、たぶん内心は穏やかならざるものがあったに違いない。ネール少佐は落ち着こうとして、一呼吸置いてからナイク副所長に向かって言った。


「今、四十八時間と言われましたが、その間、循環パイプは上昇し続ける圧力に耐えられるのですか?」


「そこまで待てないなら、ドレインタンクへの排出パイプを制御できるようにした方がいいと思いますが?」と今度はドレイク少佐が続けてナイク副所長に質問した。


「そ、それは、・・・」


ナイク副所長は狼狽しながら、モビルPCとペーパー資料を交互に見ながら答えを探そうとしていた。それを見かねたゴズワミ技術部長が間に割って入るようにひとつ咳払いをして言った。


「皆さん、こちらが混乱していて申し訳ありません。ナイクが今言った、四十八時間のチェック項目も先程ようやく整理したばかりなもので、理論的にはそれくらいかかるかもしれませんが、もっと短時間で出来るかもしれません。要はよくわからないのです。なにしろこのような多重的な制御不能は初めてのことなので。・・・それと、ドレインタンクへの排出パイプについてもなぜ弁が閉じたままなのか原因が特定できていません」


 この答えを聞いたドレイク少佐は、もうこれ以上発電所側に質問しても気の毒なだけだと感じた。

 逆に言うと原因も未だにつかめないくらい、トリウム原子炉は厄介なものなのだろう。ティエール艦長ほかのメンバーからも、仮復旧工事に係る糸口さえも見出せないので当惑した表情がうかがえる。


 厚生部長のグスタフ少佐は発電所員の健康状態を気にしているのだろう。放射能汚染に関して質問した。


「ここの原子炉は制御不能であり、その原因は何なのかまだ把握されていないという認識でよろしいですね。それでは、放射能が発電所員に与えている影響はどうですか?」


「その点については幸いなことに、今のところ通常の運転時のレベルを維持しています。まだ、燃料漏れはどこからも発生していません。・・・・・」


 ミトラ所長は、今度は自信を持って言いきったものの、やはり腹の中に重いものを抱えていたようで躊躇していた口元が再び動き出した。


「・・・ただ、さきほどドレイク少佐が指摘した、循環パイプ内の圧力が上昇している問題があります。循環パイプ自体の強度からすると、たとえ圧力が理論値まで上昇しても燃料漏れが発生することはありませんが、パイプには継ぎ目や開閉弁が設置されていて圧力が上昇すると、そうした個所から少しずつ燃料漏れが生じる可能性があります」


「そうね。たとえ目に見えるような漏れでなくても、わずかな隙間があれば液体トリウムから発生する放射能が漏れ出てくる可能性はあるわね。そのギリギリのポイントでの圧力はどのくらいかしら。パイプは一直線ではないから継ぎ目や開閉弁の場所での圧力は微妙に違ってくるわね。うーん。・・・」とグスタフ少佐はしんみりした表情をした。


「ちょっと待って下さい!」


ナイク副所長が大きな声でO字型のテーブルに両手をついて立ち上がった。先の見えない不安感が覆っていた応接室の空気を吹き飛ばすくらいの勢いに、その場にいた全員が驚いて目を見張った。


「いいですか、ポセイドンの皆さん。ご存じないでしょうけれど、この発電所の原子炉の設計は私がしたのです。そして、その建設から運転にもずっと携わってきました。だから、この“子”を一番知っているのはこの私なのです。もちろん、こういう事態に陥った責任を感じているつもりです。何とかトラブルを復旧させようと試行しましたが、未だに原因もつかめていないのも事実です。ですが、もう少し私を信頼してもらえないでしょうか」


 ナイク副所長はテーブルをはさんで座っているポセイドンのメンバーに向かって言った。所長と技術部長は黙って聞いているだけだったが、その二人の表情からは、“言いだしたら聞かない彼女の性格がまた始まったか”とでも言いたげな様子だった。私をはじめポセイドンのメンバーはちょっと驚いてしばしの沈黙の時間が過ぎた。それを破るかのようにティエール艦長がナイク副所長の目を見ながら言った。


「副所長、あなたのこの原子力発電所に対する貢献と知見には、ここにいるメンバー全員が称賛と敬意の念を持っています。ですから、あなたからの技術的な提案にはとても信頼性が高く、重いものがあると認識しています。・・・」


 ティエール艦長はここまで言って、少し間を置いてから続けて言った。


「・・ただ、原子炉について素人の我々として任務を果たすためには何をしなければならないか、ということを考えています。つまり、この発電所のトラブルを復旧させるには何をしなければならないのか。そして、そのためには我々は何ができるのか。それも残された時間以内で」


「艦長、おっしゃりたいことはよくわかります。私が艦長の立場でも同じように思ったでしょう。しかし、はっきり言わせてもらえば、ポセイドンをここに呼んだのはインド科学省であってムンバイ発電所ではありません。なぜ呼ばれたのが皆さんだったのかも私にはわかりません。よりによってトリウム原子炉に素人の皆さんを」


 そこまで言いかけた時、ミトラ所長は言い過ぎだと言わんばかりに、咳払いをした。


「あら、ごめんなさい。私ったら混乱していて・・悪気はないの。ごめんなさい。こんなトラブルに巻き込まれて、本当に迷惑しているのはポセイドンの方々なのに」


 ナイク副所長は興奮しているせいか、立ったままでいたが言葉が過ぎたことを本当に悔いているようだった。艦長は彼女を見上げたままゆっくりとした口調で言った。


「いや、お気になさらずに。副所長が言いたいこともよくわかります。事実ですから。・・さて、とはいうものの、こんな我々にも何かお役に立てることがあると思うのですが、まず、副所長が考えたチェック項目について、その中で優先順位の高いものについてご説明してもらえませんか?」


 ティエール艦長からの申し出に対し、ナイク副所長はちょっとミトラ所長の方に目をやってから着席し、O字型のテーブルの上に手を置いてから一度うつむいて、顔を持ち上げて艦長に向かって言った。


「原子炉で起こっているトラブルの原因は、これが複数あるためこのような事態に陥っていると思いますが、早く突き止めることから始めて、それからその対策を実行することが事態収束への近道だと信じています。思いつきで手当たり次第に試行したのではかえって遠回りになってしまうわ。・・それと、チェック項目についてですけど、失礼ですがお話ししても理解していただけないと思います。初期の段階でのチェックはすべて完了しています。その後に行けばいくほどより専門的なチェックになりますので。・・おわかりですね。・・」


 ナイク副所長の説明を聞いていたゴズワミ技術部長はたまらなくなったのか、説明の途中で割り込むようにしてその思い口を開いた。


「いや、そのう、・・どうでしょう、副所長。・・ポセイドンの皆さんも来ていただいたのですから、さっそく手が足りない所に配置していただいて、我々発電所側の技術員と役割分担を調整してはいかがでしょう? 次のチェック項目を確認する作業時間も四十八時間しかありませんし、循環パイプへの圧力上昇も心配です。ここで時間を費やすのもいかがなものかと思いますが」


 ゴズワミ技術部長は、うまくポセイドンのメンバーとナイク副所長の双方の立場をうまく立てつつ、この場をなんとか円満に終わらせようとしているように私には見えた。技術部長は、隣の所長の向うに座っているナイク副所長の顔を覗き込むように見たまま、彼女の返事が返ってくること期待していた。


「そうね、それでは所長、こういう役割分担ではどうでしょうか」


 ナイク副所長はゴズワミ技術部長の意図を察したのか、所長にお伺いを立てるような言い方でゆっくりと穏やかな調子で言った。そして、ポセイドン側から発電所に提出された入所者名簿を見ながら言った。


「技術部長が言うように、まず作業員の被爆状況や健康面のチェックに人手が足りないから、厚生面での援助をポセイドンにお願いしたいわ。この方面は、ええっと、グスタフ厚生部長でしたわね?」


 ナイク副所長からの問いかけに対し、艦長と厚生部長が同時に「ええ」と返事をした。


「それから、発電所内外のセキュリティーも手薄だわね、技術部長?」


「はい、保安警備の人員も復旧作業に当たっていますので、おろそかになっているのが実情です」


 ゴズワミ技術部長が答えた。彼にしてみれば、何とかこの場を収めようとした自分の思惑がうまく行きかけているのを感じていた。


「それでは、保安面での援助は保安部長の・・、ええっと、カスター少佐でしたわね?」


「その通り」とすぐに保安部長のカスター少佐が答えた。


「それと、機関部の方々は、・・・発電所の技術員といっしょに計器のチェック、保安点検に立ち会ってください。これで全員かしら、ティエール艦長?」


 ナイク副所長のやや独善的で性急な“仕切り役”ぶりに不愉快だったティエール艦長はミトラ所長に向かって言った。


「所長、どうやら我々はあまり歓迎されていないようですが、原子炉の素人なりにできるお手伝いはするつもりです。しかし、トラブルに関する何の説明も受けずに、ただ手薄になった個所の補強にポセイドンのクルーを配置されては、艦長として部下の生命と安全についての確証が持てません。・・この発電所で何が起こっているのか。トリウム原子炉に関するインドの第一人者がここにいながら、トラブルの原因がまだつかめていないのはなぜなのか。どうかこの点をお聞かせいただけませんか」


 流されそうな雰囲気の中で、一石を投じたティエール艦長の指摘に対し、ナイク副所長は顔を少し背けて「できないことはできないのよ」という思いを押し殺しているような感じがした。一方、ミトラ所長は副所長と艦長の狭間に立たされた形になり、次の言葉が所長にとって苦渋に満ちたものになろうと誰もが思った。


 ミトラ所長は少し沈黙していたが、正面を向いたまま決断したかのようにゆっくりとした口調で話し始めた。


「・・・難しい問題だな。・・ティエール艦長の言われる事はもっともなことだ。初めてこの発電所に来た人間にとっては、何が起こっているのか、何が原因なのかと理解できないことだらけだと思います。発電所長の私ですら、もしポセイドンの皆さんと同じような境遇に置かれたら、大いに不思議に感じることでしょう。そして、発電所側の人間に対して不信感を持つことでしょう」


「所長、私は何も不信感を持っているとは言って・・」


 ティエール艦長の発言を制するようにミトラ所長は続けた。先程までの雰囲気とは異なる所長の姿があった。


「艦長、ここはムンバイ発電所です。よろしいですか。まず私の話を聞いて下さい。皆さんは勘違いしておられるようだ。皆さんにとって満足した説明がこちらからなされていないのは、発電所側が故意に説明しないとか、隠しているのではなく、本当に説明できる材料を得ていないからなのです。発電所としてこんな恥ずかしいことはないが真実なのです。しかし、我々には恥じている時間はありません。一刻も早く原因を突き止め、その対策を施し、仮復旧までもっていかなければなりません。その第一段階の原因究明のためのチェック項目を整理したところです。この点については先ほどお話ししたとおりです。第二段階ではこのチェック項目をひとつずつ確認して、下原因を突き止めなければなりません。それも大至急で。燃料の溶融塩の温度と圧力が上昇している中で循環パイプがいつまで持ちこたえられるのか・・・その答えを探っている時間的余裕はないのです。すぐにチェック項目の確認作業にかからなければ」


 先程まで顔を背けがちだったナイク副所長は、冷静さを取り戻しているようだった。また、“調停案”を提案したゴズワミ技術部長も自分の提案を所長が指示してくれて、ホッとしているようだった。彼らは我々への説明で時間を取られるより、すぐに第二段階の作業にかかりたいのである。

 ミトラ所長はポセイドンのメンバーを前にして、各々の目を一人ずつしっかり見ながら説得するように話し続けた。


「よって、ポセイドンの皆さんには我々のサポートをお願いしたい。具体的には先ほど、ナイクが申し上げた通りです。それと、皆さんが行動する際には必ず発電所側の了解を取ることを守っていただきたい。よろしいかな」


ミトラ所長の高圧的とも受け取れる物の言い方は、ポセイドンのメンバーを刺戟した。ティエール艦長も発電所側に対して同じ感情を持ったであろう。艦長はミトラ所長の念押しの言葉が終わるや否や舌鋒鋭く言った。


「所長、我々が歓迎されていないことはよくわかりました。だからといって国際連邦艦隊は簡単に任務を放棄したりはしません。今回のような支援要請を受けたからには困っている側に手を差し伸べるのが我々の理念です。邪魔だと言われても我々の流儀で取り組む所存です。しかし、先程からお聞きしたところによると、発電所ではいまだにトラブルの原因を把握していないようだ。・・私にはポセイドンのクルーの生命への責任がある。放射能汚染の危険のある発電所にはいたずらにクルーを配置できない。よって、発電所からの提案通り、発電所に配置するポセイドンのクルーは厚生部門と保安部門の必要最低限とします。もちろん、今後、トラブルの原因が明らかになり、その具体的対策案が発電所から提示されれば、ポセイドンは全力を挙げて発電所を支援します」


 発電所の三人は黙ったままだった。沈黙は不服なしの意であることがこの時ほどよく当てはまることはなかった。


「所長、よろしいですね。それでは、グスタフ少佐とカスター少佐は、発電所からの要請に基づいて、発電所に配置するクルーの人選をして私に報告してくれたまえ。私は発電所に残らせてもらう。どこか皆さんの作業の邪魔にならない場所にいます。所長、どこに居ればいいか指定してください。まだ発電所の中を見せていただいていないのでできれば誰かに案内してもらえば助かります」


 艦長もなかなかの皮肉屋を演じていた。よほど発電所側の態度が気に入らなかったのだろう。私も艦長といっしょに発電所に止まって、これからの成り行きを見守ることにしようと思った。その瞬間、ずっと発言しなかった機関部長のネール少佐が重い口を開いた。


「ちょっと待って下さい」


「待って下さい」というネール少佐の言葉は、その前に発現した艦長に向かって言ったのか、それともこの場面での意思決定に対して言ったのか、私にはよくわからなかった。


「皆さん、どうかちょっと待って下さい。すいません、今の決定についてどうこう言うつもりはありませんが、私の持ち場がありません。いえ、他意はないのですが、そのう、・・こういう対応策はどうでしょうか、ナイク副所長」


 ネール少佐には何か考えがあっての発言であろう。彼の性格は単純に自分の役割分担がないことに異議を申し立てたりはしない。スタンドプレ―に走る人物では決してない。さっきから黙っていたのもトラブル対応のための自分の考えを整理していたのだろう。ここでの自分に何ができて、何ができないのか。しかし、この場面での発言は、発電所側に対しても、ティエール艦長に対しても異議を唱えているように取られる可能性があるので、ずいぶん勇気のいるタイミングでの発言だった。これから彼はどんな言葉を披露するのだろう。


「どんなことかしら? 少佐」とナイク副所長はネール少佐に聞き返した。


「このムンバイ原子力発電所でトラブルが発生し、発電所の皆さんはその事象を確認し、その原因を特定すべく模索しておられます。ただ、まだその特定がなされておりませんし、解決するためのタイムリミットは四十八時間とか。その間に原因を特定し、対策を講じるにはあまり時間があるとは思われませんね」


「だから、さっきから言っているようにすぐにこのチェック項目を確認しましょう。そのためにポセイドンの方々に作業のサポートをしてもらいましょう、と言っているのよ。少佐もお聞きになっていたでしょう」


「少佐、何が言いたいのだ」


 ティエール艦長は、私と同様に「ネール少佐は何か思いついたのだろう。ここは聞いてみる時間を取るべきだな」と直感的に判断し、少佐に話させるべく話題をつないだのだった。


「はい、艦長。私はトリウム原子炉の素人ではありますが、日常からメカニックのトラブル対応を仕事としている技術者として今回のトラブル対応策について考えました。発電所の方々もどうか聞きください」


「今回の作業目的はトラブルの仮復旧です。先程から出ている“原因の特定”もそのための重要なステップに違いありませんが、本来の目的ではない。まして今回のように作業時間に制限がある場合には、本来の目的を解決するための事前準備に時間を取られると、致命傷になりかねません」


「原因を特定できずに、やみくもに対策を施してもかえって遠回りして、本来の目的に到達できないこともあります」


 テーブルをはさんで、ネール少佐の反対側に座っていたゴズワミ技術部長が「自分たちの対応策にケチを付ける気か?」という気持ちをこらえながらネール少佐に反論した。


「技術部長がおっしゃることも一理あります。しかし、・・失礼だが、原子炉がトラブルに陥ってから考えられるチェック項目は確認し尽くしているではありませんか。これがトラブル発生直後であれば、“原因の特定”に全力を傾注すべきですが、今に至っては、“原因の特定”よりも“対応策の試行”を優先させるべきです」


 ネール少佐は、今度はゴズワミ部長だけを厳しく見つめて、少しずつ語気を強めながら言った。それに対してゴズワミ技術部長も負けてはいなかった。すぐに言い返した。


「少佐、あなたはさっき言ったはずだ。自分はトリウム原子炉の素人であると。だったら、玄人である我々の立てた方針を根底から覆すような発言は謹んでもらいたい。だいたい世界的にも最先端技術の結晶であるトリウム原子炉を、昨日や今日で理解できるわけがない。我々でさえ未だに手探り状態なのです。しかもこの原子炉の設計・建設に携わったナイクがここにいてでさえこの状態なのですよ。・・お恥ずかしいことですが・・と、ともかく、これからの作業手順は“原因の特定”を優先します」


「何もあなた方が素人だとは言っていない。それどころかその道の国際的なスペシャリストだと思っていますよ。私もネールもそうです」とティエール艦長はゴズワミ技術部長の言葉を牽制したうえで、ネール少佐が何を言わんとしているか何となく気付いたのだった。ティエール艦長はネール少佐の方を向いてゆっくりした口調で尋ねた。


「ネール少佐、君は確か“原因の特定”より“対応策の試行”を優先すべきと言ったが、それは原子炉トラブルに対する対策について何か思いついたことがあるからなのか?」


「いえ、艦長、一般論にしかすぎません。トリウム原子炉の構造や特性はムンバイに来る途中で勉強してきましたが、現場での具体的な対応策となると・・・」


 ネール少佐は手元にある原子炉の資料とモビルPCのデータを見ていた。


「少佐。やはり、“原因の特定”を優先した方がよさそうですね。技術者たるもの、これからは、証拠や確信を持ってから発言された方がよろしいかと・・・」


 答えに窮して墓穴を掘ったネール少佐を見て、優越的な立場に立ったことを自覚してゴズワミ技術部長はやや笑みを浮かべて言った。


 今のやりとりを聞いていたミトラ所長は、だいたい意見が出尽くしたこと、自分たちとポセイドンのメンバーとは溝が残ったままであることを認識しつつ、この辺で打ち合せを切り上げ、早くチェック項目の確認作業に取り掛かり、少しでも早く“原因の特定”にたどり着きたかった。


「さて、艦長。発電所の状況と今からの作業方針は概ねご理解いただけたようなので、我々はすぐに作業に取り掛かります。ポセイドンの乗組員の方々には、厚生面と保安面で我々をサポートするよう指示を出していただければ助かります」


 ミトラ所長は、慇懃な物言いでゆっくりとティエール艦長に話しかけた。その表情には主導権を勝ち取ったという優越感が満ちていた。打ち合せを初めた時とは別人物のように見えるくらい得意げであった。一方のティエール艦長は無言だった。

ポセイドンの立場としては、発電所側が主体であり、それを無視して復旧作業に取り組むことはできないし、また、そうした技術や知見を持ち合わせているわけではない。よって、発電所の作業を、発電所の支援要請に従って、発電所主導で行うことには何ら問題があるわけではないのだが、後味の悪い打ち合せとなってしまった。「これからの共同作業に悪影響が出なければいいのだが」と私はひそかに思った。


「副所長。途中から発言がなくなったが、何か引っかかる点でも?」


「・・ええ、ネール少佐の言った事がちょっと気になりまして・・」


「気になる? “原因の特定”のためのチェック項目を整理したのは君だぞ。それをこれから確認するわけだ。・・ポセイドンの皆さんも待っておられる。さあ、早く作業に取り掛かろう。・・それでは、ポセイドンの皆さん、我々は確認作業に取り掛かりますので、ここでしばらくお待ちください。後で、サポートしていただく人員数と役割をお知らせします」とミトラ所長は言うと、立ち上がって退席する素振りを見せた。


 半ば所長にせかされるようにネイク副所長は無言で立ち上がり、テーブルの斜め向うに座っているネール少佐を見ると、少佐と目が合った。少佐も無言だったが、ナイク副所長に「もう一度よく考え直してくれないか」とでも言っているように思えた。

 ゴズワミ技術部長はネール少佐の目を見て、退席する旨の目配せをしてミトラ所長に合わせて立ち上がった。

 発電所の三人のうち、一人だけ坐っていたナイク副所長も躊躇するような感じで立ち上がった。


 ナイク副所長は正直なところ、もう少しネール少佐と“原因の特定”と“対応策の試行”について話をしたかったが、打合せの結果が自分の提案である“原因の特定”を優先することに落ち着き、他の二人が退席することに合わせるように立ち上がったのだった。

彼女は心の中で自問自答していた。“原因の特定”を優先する自分の判断は正しかったのだろうか? というよりも“原因の特定”ばかり考え過ぎて、視点を変えて“対応策の試行”についてなぜ気が付かなかったのだろう? 第一段階の“原因の特定”作業が不毛なものに終わり、これから第二段階の“原因の特定”に入っていくわけだが、どんどん深みにはまっていくことにならないだろうか? 自分が一人で原子炉トラブルの責任を背負い込んでしまい、思考の視野が狭まっているのかもしれない。技術者ではあるが、原子炉の素人のネール少佐の言葉に動揺している自分を認めざるを得なかった。


「それでは、艦長。ムンバイ原子力発電所に関するデータと今回のトラブルに対して既にチェックした項目についてはそこのサーバーに入っているから、見ておいて下さい。我々はこれで失礼します」


「・・・・・」


 ティエール艦長は無言のままだった。不愉快な気分でいるに違いないと私は思った。


 ミトラ所長はそう言うと会議室のドアに向かって歩き出した。その所長にゴズワミ技術部長が続き、少し遅れてナイク副所長が歩き出し、一度振り返ってネール少佐の方を見て小声で言った。


「少佐、後でね。あなたの意見を聞かせて」


その声にネール少佐も振り向いて、ドアに向かって歩いて行くナイク副所長を見た。彼女に答える事はしなかったが、自分の言ったことに耳を貸してくれたのかどうかネール少佐には疑問だった。なぜなら、自分が原子炉の設計者で建設・運用をしてきたことを強調した彼女の様子からすると、具体性のない自分の意見をとても聞き入れてくれそうになかったからだ。


 発電所の三人が会議室から出た後、カスター少佐が「フゥー」と大きくため息をつい手言った。


「副長、発電所の所長があんな調子ではこの先が思いやられますね」


「全くだ。最初はビクビクしていたのに、我々がトリウム原子炉の素人だとわかると手の平を返したようにあんな態度だ。これからのチェック項目の確認作業がうまくいくことを願うのみだ」


「彼、風見鶏ね」


今度はドクターであり、厚生部長でもあるグスタフ少佐が鶏の真似をして周囲の笑いを取った。彼女にすれば、これから、発電所からの支援要請によって、厚生面への支援、つまり、放射能測定、汚染状況把握、さらに悪くすれば被爆者への応急処置等への対応が求められることになる。


「発電所への支援には異存はないけど、彼らの管理能力に疑問を抱かざるを得ないわ」


 グスタフ少佐はため息交じりにうつむいてそう言った。

なるほど、主導権が発電所側にあり、そのため、正確な情報伝達、医療器具の確保が満たされるかどうかグスタフ少佐は心配でならないのだ。人の生命がかかっているので少佐が神経質になるのも仕方ないことだ。


「ドクター、気が進みませんか?」と私(島観戦武官)はグスタフ少佐に声をかけた。


「島中佐、いえ、そういうわけではありませんが。ただ、・・・」


「ただ、何です?」


「ただ、・・場合によっては放射能汚染に発展するかもしれません。いえ、そうならなければいいんですけれど。でも、最悪の場合を想定して、クルーと医療機材をこちらで準備しておかないと、発電所に任せきりにするのでは少し不安だわ。でも、ポセイドンの機関は他の原子力潜水艦と違って超電導システムですから、原子炉からの被爆対応の医療機材があまり搭載してないの。・・正直なところ、発電所に任せたいくらいだわ」


「同感です、ドクター。出来る限り準備しておきましょう」と私が少佐に言った。


「うむ、ドクター。島中佐の言うとおりだ。ポセイドンにある医療機材の中で、想定される被害に対処するためのものを選択し、ポセイドンから発電所まで運搬、保管するよう手配してくれ。運搬作業は発電所に頼みたいところだが、さっきのバスの件もあるし、・・うむ、インド海軍に運搬用トラックを用意してもらおう。私が連絡して先方の担当者を確保するよう話をつけておくから、詳細な手順は頼む」


「わかりました、艦長。ポセイドンの厚生部から必要物資を運びだしますのでご許可をお願いします。そのリストはこれです」


 グスタフ少佐は手に持っていたモビルPCを艦長に見せて搬出機材のリストの確認を求めた。ティエール艦長はすぐにリストが出てきたので彼女の手際の良さに驚いた。


「君はいつの間にリストを作ったんだ」


「はい、ムンバイ港に上陸する前に作っておきました。発電所に入る前に放射能汚染が発生することを想定して。そんな緊急事態になってからでは対応できませんから」


「なるほど。・・許可する」


「ありがとうございます、艦長。インド海軍の窓口を教えていただければ後は先方と調整して、発電所に搬入します。もちろん、その前に発電所には搬入の了解を取りつけます」


「よし、頼んだぞ。」とティエール艦長は自分が指示しなくても、ちゃんと自分の専門分野で機能している部下を頼もしく思った。


「ところで、カスター少佐。発電所での保安体制だが、発電所から何人の動員要請が来るかわからない。あまり期待してもらってはこちらの保安体制にほころびが出てしまう。何しろ、ポセイドンは海中にいるのではなく、岸壁に係留中だからな。そこで、発電所から要請される前に動員可能数を伝えておこうと思うのだが、ポセイドンにいる保安部員の中からから何人割けそうだ?」


「なるほど。そうですね。艦長、これでどうでしょうか。発電所へ振り向けるクルーの名簿です。これならポセイドンの保安体制を保持できます。それと、発電所の中の保安部員には銃器不携帯とします。その理由は、場所によっては発砲した場合に、中の装置や配管に損傷を与え事態を悪化させる可能性があるからです。一方、発電所の外の保安部員には銃器携帯とします。併せて、中の保安部員の銃器をまとめて管理させ、必要な事態が発生すれば、全保安部員が銃器携帯可能となる体制を敷きます」


 カスター少佐は自信ありげにモビルPCを艦長に見せた。彼もドクターと同様に、事前準備してムンバイ発電所に乗り込んできたのだ。事前に発電所から何の情報も、ましてや要請も受けていないのに、自ら事態を想定して考えられる対処方法を準備してきている。彼等はみんなこうなのか? 

 確証がなくても事態の進行を読み取る力。これは経験によるものなのか? 原子力発電所での任務は初めてであろうに、それにもかかわらず対処できる力。これは応用力だが、これは任務に対する熱意によるものなのか?


「うむ、ご苦労。みんな準備がいいな。では、副長。今後の我々の役割分担はこうしよう。発電所対応の窓口は君に頼むよ。それから、発電所からの支援要請が来たら、厚生面はドクターに、保安面はカスター少佐に伝達してくれ。その上で具体的な対応策を実施してくれ」とティエール艦長は副長のビスマルク中佐に指示を出した。


「了解しました。・・そうなるとネール少佐は手が空いてきますので、技術面での支援要請があれば少佐に対応してもらいましょうか。プライドの高そうな所長のあの様子では、技術面での支援要請はまずしてこないと思われますが、準備はしておいた方がよいでしょう。それに私には、ナイク副所長が退席する間際に見せた、ネール少佐の“対応策の試行”に興味を示していたことが引っかかっていまして、彼女から何か言ってくるのではないかとの予感がします」


 副長のビスマルク中佐は機関部長のネール少佐にも、発電所からの要請に対応すべく待機することを艦長に提案した。“歩く艦隊規程”と呼ばれるいつもの副長らしからぬ物言いに、確証はなかったが、原子炉トラブルの深刻化という事が私の頭の中をよぎった。


「ほう、常に論理的な副長の口から『予感がする』という言葉を聞くとは驚いたよ。それはともかく、確かに君の言う通りだ。技術面での支援を彼らは我々に期待してなどいないだろうが、彼らとて今後の復旧作業がどんな展開になるか予測が付かないのが現実だ。プライドを捨てたミトラ所長が支援を求めてきたら、我々にはそれに応える責任がある。副長の言うとおりネール少佐にポセイドンで待機してもらおう。ネール少佐、聞いた通りだ。ポセイドンに戻って機関部員と共に準備にかかってくれ」


「了解しました」とネール少佐は艦長と副長の方を向いて答えた。


 ネール少佐は思った。このままポセイドンで待機しているうちに、発電所が“原因の特定”に成功し、原子炉の仮復旧までの対策を講じてくれれば、機関部はそのまま待機解除になるわけだが、どうも今回は嫌な予感がしてならない。もし、技術面での支援要請が来れば、機関部は発電所に行って、発電所の技術員と仮復旧作業のサポートをしなければならない。「原子炉については素人だから行けません」という言い訳は通用しない。どうすればいいのか?


前日に、艦長からムンバイ原子力発電所のトラブル対応が今回の任務だと聞かされたときからネール少佐は、機関部のクルーの中から発電所対応班のメンバーをリストアップしていたのだった。当初は、機関部が真っ先に対応させられるであろうとの読みがあったためだが、現時点ではポセイドンでの待機で済んでなによりである。実際に支援要請されたら、こんなに落ち着いていられない。

 艦長に「了解した」と言ったものの、未知の先端科学装置であるトリウム原子炉と対峙しなければならない。クルーの安全確保と原子炉の仮復旧という不気味な領域への門が開かれることになる。“任務”と言う力によって、その門をくぐらざるを得ない。


「よし、それではこの会議室をポセイドンの仮ブリッジとする。我々はここで発電所からの支援要請に備えて機材及び人員の準備を行う。ネール少佐はポセイドンに戻って、ドレイク少佐らにここの様子を伝えておいてくれ。また、インド政府、インド科学省、マスコミ、ムンバイでの原子力発電所に関する情報を収集し、適宜ここへ送って欲しい。頼んだぞ、ネール少佐。・・それと、島中佐はどうする?」


 ティエール艦長が私(島観戦武官)に尋ねてきたので迷わず答えた。


「もちろん、ここに残ります」


これから四十八時間、発電所で起こることなど私は知る由もなかった。




 第三章 信仰の方程式


 ― インド海軍のムンバイ港湾事務所 ―


 八月十一日 午前十二時 ネール少佐はムンバイ発電所を出て、急いでポセイドンが係留されているインド海軍基地に戻った。インド海軍との調整事項をいくつか艦長から預かってきたからだ。少佐は今朝立ち寄ったムンバイ港湾事務所の所長室のソファに座って、インド海軍省とテレコム通信でポセイドンからの要請事項について調整していた。


「・・・。そうです。こちらからの要請事項は以上です。・・・。ありがとうございます。ご協力に感謝します」


 こちら側からの要請事項を受け入れてくれた事を確認して、ネール少佐はテレコム通信を切った。


「うまくいきそうですか」


インド海軍ムンバイ港湾事務所の所長が、発電所の送迎バス遅れの負い目を感じているのか、少し心配そうな表情で所長椅子に座り、通話していたネール少佐を気付かっていた。


「ええ、ここまではインド海軍のおかげでなんとか。ところで、発電所事故についてマスコミや地元の反応はどうですか」


「インド政府もこの事故を真摯に受け止めており、あからさまな報道管制は引いていないようだ。情報が取れないといったマスコミの不満はほとんど報道されていない。ただ、『現在、いくつかの復旧作業を手配中である』という発表を繰り返しているから、事態が沈静化していないことは誰の目にも明らかだ」


「なるほど、白馬に乗った騎士の登場を待ち望んでいるわけだ。これはポセイドンにとってプレッシャーだな」


「少佐、ポセイドンへの発電所からの支援要請は本当にまだなのか? 発電所が自分たちの力だけで復旧作業を行うのは、単なる見栄を張っているだけではないのか?」


「私たちには何とも言えません。・・原子炉技術に素人の私たちにできることは限られていますから」


「・・・・・」


 先の見えない重い気分を引きずりながら、ネール少佐はポセイドンの機関部の当直責任者へモビルPCを使って連絡を取り、指示があり次第、発電所へ移動できるよう身辺整理と機材搬出体制を整えておくように指示した。少佐がポセイドンを離艦する前に発電所班の人選、機材リスト及び移動手順を決めておいたので指示は円滑に実施された。

その後で、発電所にいる副長のビスマルク中佐に連絡を取り、インド海軍への要請事項をインド海軍省へ伝え、先方からは善処する旨の回答を得られたことを伝えた。


「さてと、これで準備は整った。・・発電所からの支援要請が来るかどうかだな。トリウム原子炉の構造や配管の配列、装置の機能、等々・・これだけのデータを頭に入れるなんて無理だな。きりがない。このデータにとらわれ過ぎると全体を見渡す視点を忘れてしまいがちだ。・・出たとこ勝負かな」


 ネール少佐は独り事を言うと、データ検索していたモビルPCをオフにして、事務所の窓越しに外の風景を眺めた。建物内はエアコンのおかげで潜水艦より快適だが、時刻は正午を過ぎたところなので、外は洗濯物がすぐ乾いてしまうくらいの熱射が降り注いでいた。その中を牛たちは悠然としてその歩みを止めない。蠅はいつ羽を休めるのかわからないくらい、集団で牛の周りを不規則に飛び回っている。建物の中と外とではまるで別世界であった。


 発電所での打合せで神経が疲れたのか、少佐は急に空腹感を覚え、所長にこの辺で昼食をとれる場所はないか聞いてみた。昼食でもとって少し気分転換した方が、頭がスッキリするだろうと思ったからだ。その時、ふと所長の机の横の窓辺に花瓶に入った花が飾られていたことに気付いた。


「あれ、この花は確か」


 少佐は思い出した。この花は、今朝、この近くの教会の前の出店で装飾品などといっしょに売られていたのと同じ花だ。山吹色の花弁が印象的で、その店の女性のことも同時に思い出した。

少佐が花に注目していることに所長が気付き、少佐に声をかけた。


「その花がなにか、珍しいですか? この近くの店でいつも買ってくるんですよ」


「ひょっとしたら、教会の前の出店ですか。私が立ち寄った時は感じのいい女性が店番していました」


「そうです。花を売っている店はこの辺じゃ、あそこしかありません。少佐はいつの間に行かれたのですか」


「今朝、ここで発電所からのバスを待っている時に、気晴らしに散歩していたら教会の前に出店がありまして、何気なく立ち寄ったのです」


「ああ、今朝のなかなか来なかったバスの待ち時間ですね。なるほど。あそこはいつもあの娘が店番しています。なんでも売上金を教会の補修資金に充てるのだとか。信心深い良い娘ですよ」


「それじゃあ、所長の花の買い物は浄財のために?」


「・・・。昼食を取るなら、その教会の前を通ってまっすぐに行けば広場に出ます。そこに飲食ができる店がありますから、そこがいいでしょう。私もよく行くところですから、私の紹介で来たと言えば大丈夫ですよ。制服姿でも気にする必要はありません。この辺はインド海軍の人間がよく歩いていますから、付近の住民も制服姿に慣れています」


 所長は座ったままで、ネール少佐からの買い物の質問には答えなかったが、その表情には少し笑みを浮かべているようにも見えた。


「では、その店に行ってみます」


「少佐。この後、復旧作業のために必要になれば、ここを使ってもらって結構です。海軍省から協力するように指示を受けていますから、遠慮は無用です」


「ご配慮いただきありがとうございます。その時になれば連絡します」


 ネール少佐は感謝の言葉を言って、昼食を取りに所長室から出ようとした。その時、窓辺の山吹色の花が少佐の目に入った。切り花は軍事施設にはあまり似つかわしいものではなく、こういうふうに置いてあることは珍しいのだが、この部屋にはなぜかしっくりきているように感じられた。花は灼熱の外とは無縁な清涼な空気の中で、所長室から出て行くネール少佐の背中を見守るように花瓶の中で立っていた。



 ― 教会前の出店 ―


 ネール少佐は港湾事務所を出て再び教会前の出店に立ち寄った。昼食を取るだけの外出のつもりだったのだが、なぜか通りがかりの出店に引き寄せられるように、気付いたらいつの間にかその近くに立っている自分がいた。

 出店の前に歩み出たら、そこにいた店番と目が合った。その人は、今朝会った女性ではなく、中年の男性だった。一瞬、少佐は「あれ?」と驚く一方で残念な気持ちになった。心のどこかでレベッカ・ベングリオンに会いたかったのかもしれない。


「いらっしゃい」とその中年の店番の男性は少佐に慣れた調子で声をかけた。


 少佐は無言のまま、周囲を見渡したが誰もいなかった。落ち着きを取り戻してからネール少佐は店番の男性に尋ねた。


「今朝、ここにいた女性は?」


「女性? あーあ、レベッカのことだね。午後から店番を私と交代したんだ。たぶん、岬のシナゴーグへ行っているはず。レベッカに何か御用かね?」


「いえ、ちょっと・・」


「お見かけしたところ、軍人さんのようだが。・・岬のシナゴーグは知っているかね」


「いいえ」


「そこのデジタルサイネージに出ているシナゴーグだよ。レベッカはそこで修復作業を手伝っている」


「修復作業を? ところで、シナゴーグとはこの工事中の教会のことですか」


「ああ、そうだ。岬ではそこしか教会はない」


 ネール少佐は、この中年の男性とは初対面だったので、レベッカのことをわざと知らない振りをした。レベッカから教会の修復工事のために、その資金の一部にするため店番をしたり、修復作業に直接携わったりしていると聞いていたし、再びこの男性から同じことを聞けたので、レベッカがどういう人なのか推測できた。少佐はデジタルサイネージのタッチパネルを操作して、その教会の場所、連絡方法などの情報を自分のモビルPCに読み込んだ。そして、教会に関する情報をデジタルサイネージで再び見ていた。教会はここからそれほど遠くない場所にあった。しばらく見ているうちに、今度は今朝より真剣に見入っている自分に気がついた。その時、ポセイドンの機関部のホフツ大尉から少佐に通信が入った。出店から離れて、通話が店番の男性に聞こえないくらいの距離を取った。少佐はモビルPCを“受信オン”にした。


「こちら、機関部のネールだ」


“こちら、UFF(国際連邦艦隊)ポセイドン機関部のホフツです。発電所への支援体制がご支持どおり整いました。インド海軍のトラックも港のそばで待機してくれています。こちらはいつでも出られます”


「了解。ホフツ大尉、ずいぶん早かったな。いや、ご苦労だった。連絡があるまでポセイドンで待機していてくれ。それと、インド海軍のムンバイ港湾事務所の所長から、その事務所施設を使っていいとの申し出があった」


“わかりました。施設がどれくらいの広さがあるかなど必要事項を事前に聞いておきます”


「ああ、そこを使わないことを祈るが、発電所内の施設が使えない場合、緊急時に頼りになるのはインド軍の施設しかないからな。港湾事務所以外にも発電所に比較的近い軍の施設を把握しておいてくれ」


“了解しました”


「以上だ。通信を終わる」


 怪訝な表情の店番の男性とは反対に、ホフツ大尉の手際の良さに気分がよかった。これで艦長からの出動指示があるまでは安心して構えていることができる。


少佐はふいに実際の岬の教会に行ってみたくなった。原子力発電所への対応は、人選と機材の準備がポセイドンで出来ており、あとはインド海軍の協力を得て港で待機しているトラックに搬入し、発電所へ運搬するだけなので、いつ艦長から指示がきても対応できるようになっている。行く前に昼食を済ませ、タクシーを呼んで教会へ行くことにした。


「また、帰りにでも寄っておくれ」


 背中からの人懐っこい店番の男性の声に、少佐は右手を大きく持ち上げて答えた。



 ― 岬の教会 ―


 ネール少佐が向かう教会の場所はポセイドンが停泊している港から南の方角に少し離れている。モビルPCに表示された地図からすると、教会から見て東側にちょうどムンバイ港。その反対側の西側にムンバイ原子力発電所が位置している。うまくすれば教会から発電所の外観を見ることができるかもしれない。モビルPCでは得られない情報が現地に行くことによってわかるかもしれない。教会へ行くことは一石二鳥であるとネール少佐は思った。


 タクシーはすぐにやってきた。エンジンの音はしなかったので、電気自動車か燃料電池車だろう。黒と黄色のツートンカラーに塗られた車体が印象的だ。後部座席に乗り込む時にドアの外側を見ると“EV”の文字が書かれてあった。電気自動車だ。


「行き先は岬の上のユダヤ教会だが、ダッシュボードにあるナビゲーション装置に出行き先のデータを送信すればいいのかい?」とネール少佐は運転手に尋ねた。


「ええ、お願いします。その方が間違いないもので」と運転手は答えた。


 ネール少佐が送信すると、タクシーのナビゲーションが情報を受信して、現在位置から目的地への最短コースを表示してくれる。運転手はその通りにクルマを走らせればいいわけだ。

 ネール少佐はふと思い出した。祖父が生きていた頃は、こんな便利な装置はなく、運転手は地名や場所を熟知しておかないと、客に言われた場所に行くことができないということを聞かされていた。「昔の人は頭がよかったんだなあ」ネール少佐は漠然と思った。


 岬の上だけあって、教会への道路は狭く、急勾配であった。少しでもアクセルを緩めると停止しかねない。運転手もこの道には慣れていないせいか、街中の走行時とは

別人のように必死になって運転に集中している。さっきのように気軽に話しかける雰囲気ではなかった。


 教会の建物が見えてきた。こんな急な坂道では、教会の建設工事のための資材はどうやって運搬しているのだろうホイールベースの長いトラックでは、ここの急カーブは曲がれないだろうから、ヘリコプターを使っているのかともいろいろ考えているうちに教会に着いた。


 タクシーから降りると、真っ先に強風に襲われドアが閉まらずに反対方向へ押され、慌ててドアを閉めたのだった。海に近い割には標高が高いせいか、磯の香りは全くしなかった。時折、岬に打ち寄せる波の砕ける音が風に混じって聞こえてきた。すさまじい場所だ。どうしてこんなところに教会を建てたのだろう。「合理的ではないな」とネール少佐は思った。時刻は正午過ぎのため、日差しがとても強かった。少佐はサングラスを取り出してかけた。おかげで日射と強風を目から保護することができた。


 辺りを見渡すと、かなり離れた海岸線にムンバイ原子力発電所が建っているのがよくわかった。トリウム原子炉も一般的な軽水炉と同じように冷却用に大量の水を必要とするので、海水を利用しているのだ。海岸線に建っているといっても、緊急時にポセイドンが着岸できる規模の桟橋はないので、物資や人員の運搬はインド海軍の桟橋を利用しなくてはならない。ネール少佐は運搬作業がうまくいくか心配であった。


 教会を見た。そこはネール少佐が想像していた建設現場とは全く異なる状態だった。実際の教会の建物はさきほどデジタルサイネージで見た建物より古く感じられた。ちょっと見ただけでも外壁のあちこちが痛んでいた。建設現場と言っても建設のための重機や資材、人もいない。今日は仕事が休みなのかと思うくらい、ひっそりとした場所だった。


 外観からするとかなり歴史的に古い建造物だった。その一部はずいぶん前に破壊された形跡があり、その修復作業がなされていた。また、一部は建設中の建屋の工事が同時進行で行われていた。

 ネール少佐は普段は潜水艦の機械装置を相手に仕事しているので、こうした地上の建設現場には久しく来たことがなかった。物珍しそうに工事を眺めながら建物の周囲を歩いた。


 建設現場と言っても大型の重機やクレーンがあるわけでもなく、また、大勢の作業員がいるわけでもない。単管で足場を組んだ程度の現場に、目で見てすぐに数えることができる程度の人間しか働いていない。その作業現場の雰囲気はゆっくりしたマイペースで働いている。現場監督らしき人もいないようだ。また、“危険”とか“立入禁止”の警告的な種類の立て看板があるわけでもない。その気になれば誰にも見つからずに建設現場に入って行ける。開口部から中を覗き込むとちょうど一人の女性が図面を見ながら立っていた。中は薄暗く、ヘルメットを被り、作業着姿であったが女性であることは体格から判断できた。


 ふと、その女性が建物の外を見ると、ネール少佐が立っていることに気付いた。そして、彼女の方から少佐に近づいてきた。彼女から少佐を見ると、この辺りの住民でも教会の信者でもなさそうと感じた。また、少佐の今の服装から察すると、警察か軍隊関係の人だということが想像できた。しかし、この辺は軍隊関係者が来るようなところではない。となると「何か事件でもあったのかしら」と少し不安な気持ちになった。

 その女性は外の眩しさから目を細め、図面を持って歩いてきた。背中を見せて周囲を見渡しているネール少佐に話かけた。


「あのう、何か?」


 背中越しに声をかけられ、ネール少佐はサングラスを取り、振り返って彼女の顔を見た。やはり、今朝会ったレベッカだった。


「あッ、君は今朝のお店の店員さんだね。名前は確かレベッカ・ベングリオン」


「あら、今朝の軍人さんね。びっくりしたわ。こんなところに何の御用?」


「作業の手を止めてしまってすいません。教会を建設しているようなのでちょっと見学しようと思いましてここへ来ました。仕事とは関係ありません。個人的な興味だけです。今は非番なものでね」


「一瞬、びっくりしたわ。こんなところに制服を着た人が来るなんてまったにないことだから。教会のことは今朝の店のデジタルサイネージで知ったの? ここへはどうやって? よく場所がわかったわね」


「ええ、・・いや、質問攻めだね。これなら牧師さんの説教の方がマシかな」


「あら、ごめんなさい。私ったら質問ばかりして。どう、ここは日差しが強いから中に入りません?」


「ええ、そうですね。お邪魔でなかったなら」


 レベッカはうなずいて、教会の礼拝堂の裏口から少佐を導いて中に入った。


 礼拝堂の天上は高く、宗教画や彫刻があちらこちらに施されてあり、歴史ある建物である事が宗教には無縁に近いネール少佐にも分かった。外の日射を免れただけでも過ごしやすく感じた少佐は、しばし我を忘れて顔を見上げたまま礼拝堂の中を見渡しながら数歩歩いた。潜水艦での生活が長い少佐からすれば、こうした天井の高い空間にいられるだけで、のびのびと爽快な気分になる。フウーと深呼吸するようしてから、レベッカの方に振り返った。


「申し遅れました。私は・・」と言いかけた時に、レベッカがそれを制するように言った。


「覚えていますよ。ジャハ・ネールさんよね。確か国際連邦艦隊の人でしたね」


「ええ、その通りです」と名前を覚えていてくれて、少佐は少しうれしい気分になった。そして、原子力発電所でのトラブル対応のことが少しずつ頭の中から離れて行き、教会でのレベッカとの語らいが反対に頭の中を占めるようになっていった


「今朝の店にあったデジタルサイネージでこの教会のことを知りました。それにしても立派な教会ですね。特に宗教画がすばらしい」


「ありがとうございます。・・でも、ご覧になられたとおり、補修しなければならない所ばかりです。今のところは、雨漏りで中の絵画や調度品が傷まないようにするので精いっぱいです」


「ミス・ベングリオン、あなたはここで働いているのですか? 今朝のお店はたまたま店番をしていただけなのですか?」


「今度は私の方が質問攻めね」


「神父さんに免じてお許しを」


 ネール少佐の冗談にレベッカは笑った。これにつられるように少佐もこの場に慣れてきて、その心も和んでいった。


「そうねえ、私の仕事は・・何かしら」と言ってまた笑った。ネール少佐も彼女に合わせるように真っ白な歯をみせて笑顔になった。


「私の仕事は、いろいろしているから、・・本当に何から言えばいいのかしら。基本的には工房の見習い職人よね。今朝の出店は手伝いで、本来の店番の人が都合の悪い時に店にいるだけ。そして、今も工房の親方に代わって教会の修復工事の手伝いをしているの」


「工房の職人?」


「ええ、そうよ。こう見えても二十年以上のキャリアがあるわ。でも、親方に言わせればまだまだ“駆け出し”だって。自分ではそれなりかなって思うけどね」


「工房では何を作っているんだい?」


「何でも。そうね、具体的には古い建築物の修復工事の請負。そうここみたいな。それに木製のテーブルやチェアの製作、七宝焼やチェーンなどのアクセサリーなんかも作っているわ。・・ここの教会はご覧の通り古いでしょ。相当あちこち傷んでいるから親方も大変よ。今日は、親方は工房で外壁のパーツを作っていて、ここに来られないから私が代わりに来たの。これでも役に立っているのよ」


 ネール少佐は再び礼拝堂の天井や壁面を眺めた。確かに彼女の言う通りだいぶ傷みが激しいようだ。「もう少し機械や重機を入れれば作業がはかどるのに」と思った。


「なるほど、親方も大変だね。これだけの教会の修復を請け負って。でも、親方冥利に尽きるな。・・それで、いつ頃完成する予定だい?」


「いつ頃って?」


「だから、この教会の修復はあと何年で終わる予定だい?」


「わからないわ、そんなこと。うーん、あと十年、いえ二十年かしら」


「えっ、冗談だろう。いくらなんでも教会からいつまでに完成させてくれと言われているだろう?」


「別に。・・そんなこと言われていないと思うわ。だって、ここを見てよ」


 レベッカは両手を広げて、礼拝堂の全部をネール少佐に見てくれとばかりに言った。


「こんな具合で作業をしていても、やっているそばから他の場所が傷んでくるわ。その繰り返しだからいつまでやってもきりがないわ。それにほとんど手作業だから普通の建設現場のスピードとはだいぶ違うと思うわ。だから、完成がいつになるかわからないわね。親方が生きている間に完成するかしら」


「・・・そんなのでいいのかい。だって、信者の人たちが集まる教会だよ。もう少し集中して作業できないのかい」


「できないわね。お金があればできるだろうけど。・・でも、それは問題ではないの。私たちはできる範囲で神様にお返しができればいいと思っているのよ」


「君は今朝、自分がユダヤ教徒だと言っていたが、“私たち”ということは、君の親方もユダヤ教徒で、この教会の信者なのかい」


「ええ、そうよ。だからここの修復をしているの」


「それじゃ、ここで作業している人や君のいたお店の人も信者なのかい」


「ええ」


レベッカは首を縦に振って、ネール少佐が当たり前のことを聞く人だなと思った。それと同時に、自分たちとは違う世界に住んでいる人なのだと思い始めた。


「そうか。私は同じインド人ですが、ニューデリーの生まれでヒンズー教徒です。もっとも君のように信心深い方ではないけれど」


 レベッカは今までの笑顔が消えて少し真顔になった。


「・・・ちょっとかけません? ネール少佐」


 レベッカは教会へ来てからずっと修復作業をしていて立ったままだったうえに、少佐の話がまじめな内容になりそうだったので、礼拝堂の長椅子に座るよう促した。そして、二人いっしょに座ると、レベッカは被っていたヘルメットを外して両膝の上に置いた。それから、両手で髪を整えズボンのポケットに入れていたハンディタオルを取り出して額の汗をぬぐった。


「外も熱いけど、中もなかなかのものでしょう? 少佐」


「いやあ、ジャハでいいよ。その方が呼びやすいだろう?」


「ええ、そうね。私もレベッカでいいわ。ベングリオンって呼びにくいでしょう?」


「確かにその名前はイスラエル人にある名前だね。我々の仲間はいろんな国から集まってきているので、イスラエルの人もいる。でも、知り合いにベングリオンという名前の人はいない」


「ムンバイではユダヤ人の歴史は古いのよ。詳しくは知らないけれど、私の祖先はだいぶ遡るようだけど、わかっている範囲では既にムンバイにいたわ。だから、お墓もここにあるの。教会に来る途中、墓地があるのに気付かなかった? そこに先祖のお墓があるわ。ムンバイ市の中にはいくつかのユダヤ教の教会があるけど、古いという点ではここの教会が一番だそうよ」


「そうなのか。僕の場合はそれほどじゃない。祖父の時代に仕事の関係でニューデリーに移り住んでそこで生まれ育ったんだ」


「そして、人一倍勉強して国際連邦で働くようになったのね。すごいわ。私の周りにはそんな人は一人もいないわ。だいたいが親の職業と同じ事をしているわ」


「いや、そんなことはないよ。でも、職場が、国際連邦の潜水艦の機関部なのは血筋かな。祖父はエンジニアとして自動車会社に勤めていたし、父も大学で機械工学を専攻して、そのまま大学の研究職になったからね」


「あなたの家系はほんとすごいのね。私の家なんか今の私と同じように、教会中心の建築の仕事ばかりだったわ。父や祖父もそう。その前も同じようなものよ。でもいいの。これがベングリオン家と神さまとの約束だもの。ただ、私の兄は違っているけどね。兄はムンバイの銀行員になったわ。こんな家が嫌になって、若い時に家を飛びだして行ったの。おかげで家業とも言うべき建築の仕事を私が継ぐことになったのよ。でも、いいの。これはこれで面白い仕事だと最近思えるようになったわ」


 レベッカは膝の上のヘルメットを触りながら、それに話しかけるようにとつとつと身の上話をしゃべっていた。口ではふっきれたような事を言っているが、どことなくまだ、別の職業に未練がありそうに思えた。“家業”というものに対する抵抗が残っているように思えた。ネール少佐は思い切って隣に座っているレベッカに向かって言った。


「家業を継ぐ。・・か。こんな時代でもそんな伝統が残っているんだね。でも、教会の建物を守る事は誰かがやらなきゃならない仕事だろう。もし、君がやらなかったら、別の誰かがこの仕事をすることになっただろうね。だって、教会は昔からここに立っていて、将来も残っていくだろう。だから、この仕事は将来もずっと必要とされるわけだ。それを誰かが引き継いでいく。今はその仕事をたまたま君が御父さんから引き継いだ事になるだけと考えればいいんじゃないかな」


 ネール少佐は、レベッカに言った言葉を自分自身に当てはめてみた。自分の今の仕事は潜水艦の機関の保守管理を任されている。これからもたぶんそうだろう。転勤になるか、ポセイドンが沈没させられたら今の職場とは違う所に行くことになるだろう。その時が自分とポセイドンとの別れの時になる。レベッカの境遇と比較すると正反対であると思った。

 レベッカの場合はその生い立ちによって仕事が決まり、現状は満足していないが、その仕事はほぼ永遠に引き継がれていく。一方、自分自身の仕事は自分の努力と意思によって決まり、今は満足しているがやがてその手から離され、その仕事は一時的なものに過ぎない。どちらかが良いとか、立派だとか、評価されるとかの判断は誰にもできない。もし、それができる者がいるとすればそれは超越的存在。つまり、神なのか?


 ネール少佐はレベッカにそう言いながら、ぼんやりと礼拝堂の中の装飾を見ていた。

 レベッカはネール少佐にそう言われ、以前に親方から同じようなことを言われたことを思い出しながら、ぼんやりとヘルメットを見ていた。


 二人の目は不意にお互いを見つめ会った。


 その時、ネール少佐は本能的に“超越的存在”を否定した。自分のこれまで築いてきたキャリアからすると、証拠のないもの、証明できていないことを前提に物事を整理することができないからだ。そして、彼女から目を反らし、また礼拝堂の中の装飾を見た。


「あなたって、親方と同じことを言うのね。国際連邦の人だから世界中の色々な国の人と知り合いでしょう。だから、もっと違った事を言うのかなって期待したけど。まあ、いいわ。私には神様がそばに付いていてくれるから」


「ユダヤ教の神様ヤハウェかい? 今朝もそんなことを言っていたね。信心深いんだなあ、レベッカは。」


「そう? そんなことないと思うは。あなたはどうなの、ジャハ? 潜水艦に乗っていると言っていたけど、とても危険な仕事じゃない。私より信心深くなってもおかしくないのに」


「いや、逆だね。潜水艦に乗っていて機械を相手にしていることが多いから、どうしても唯物論的に物事を考えてしまうんだよ。艦の行く先を神任せにできないからね」


「唯物論? ずいぶん難しいこと言うのね、少佐殿。でも、映画を見ていると昔の帆船の先には神様の偶像が付けられているし、今の時代だって、天候や思いがけないエンジントラブルで航行が妨げられることはあるでしょう。そんな時は神頼みしかないんじゃないかしら」


 レベッカはヘルメットを少し持ち上げて、両手にだき抱えるようにして、ネール少佐の言い分を待った。


「確かにどんなに科学が発達しても天候を操ることはできない。だが、そうした自分の力でどうしようもないことに対して、神頼みではなく技術を積み重ねて克復してきた歴史がある。これは紛れもない事実なんだ。そのうち、天候も科学の力で調整できるようになるかもしれない」


「それは希望的観測よね。事実じゃないわ」


「可能性とも言う」


 無言だったレベッカは、抱えていたヘルメットを太ももの上にポンと置いて言った。


「どうでもいいけど、私には神様がいないことを前提に物事を考えられないわ。だって、幼いころからずっとそうしてきたから」


 ネール少佐は、原子力発電所のトラブルのことを少しでも軽薄化したくて教会へ来たのに、レベッカとの会話が難しい方向に発展してしまった。少佐は話題を変えようと思った。


「レベッカ。この教会を案内してくれないか。潜水艦に乗っていると、こういう所へ来ることが滅多にないからね。それに航海の無事を神様に祈りたいしね」


「祈りたいなんて嘘ばっかり。・・でもいいわ、案内してあげる。今日の作業は後ですればいいし。宗教は違うけど、ここでムンバイのユダヤ教を勉強していって」


 ネール少佐は自分の言った冗談がレベッカに通じて安心した。

レベッカはそれまで両ももの上に置いていたヘルメットを、座っていた長椅子の上に置き直して立ちあがった。そして、奥の祭壇の方に向かって歩き出し、それに合わせて彼女の横に寄り添うようにネール少佐も歩いた。彼等の様子を背中から見ていると、御祈りに祭壇に向かう夫婦のようにも見えた。


「さあ、ここが祭壇よ。私はさっき来た時に今日の御祈りをしたからいいわ。あなたがすれば? 航海の無事を祈って」


「そうだね。・・・」


 さっきの当てつけかと思われるレベッカからの祈りの催促に苦笑いしながら、ネール少佐は、慣れない物腰で祈りのポーズを取り、無言でお祈りをした。その様子を隣で見ていたレベッカは、どんな人だって祭壇の前では、みんな本能的にお祈りするものだとあらためて認識した。


「何の御祈りをしたの? 家族の幸福? それとも仕事熱心な少佐殿はやっぱり航海の無事かしら?・・ちょっとしつこかった?」


 レベッカは“航海の無事を祈って”と何度も言って、神をあまり重んじていないネール少佐に冗談で意地悪したのだった。そんな冗談を少佐もわかっていて、彼女に一本取らせたのだった。

しかし、自分の信条とは裏腹に、祭壇の前に進むと自然に祈りのポーズを取っている自分に気付き、自分の中にもやはり神がいて、思考とは別次元でその規範を受け入れていることに気付いた。「なぜだろう。ポセイドンの艦内にいる時も、原子炉トラブルの時も祈りなどしたことがなかった自分なのに」と不思議な空間に包まれ、新たな自分が現出したような気分になった。


そんなことを考えていると祭壇前での祈りの時間が長くなった。ハッと我に返って祈りの手をほどいた。


「ずいぶん長かったわね。何をお祈りしていたの? それとも懺悔かしら」


「・・・・・」


彼女の「懺悔かしら」との問いかけは、やや当てつけも含んだもので質問の意ではなかった。ネール少佐は無言だったが、レベッカの冗談にも慣れてきて、彼女との会話を楽しむ余裕が出てきたことを自覚した。


「ねえ、あれ見てよ。」とレベッカは微笑みながら、祭壇の上部の壁に据え付けられている装飾品の方を指さしてネール少佐にも見るように促した。少佐は暗い室内で目を凝らして指さす方向を見た。


「あれは、親方と私が共同制作したものよ。すごいでしょ」


「へえー。確かにすごいな。うん、立派だよ。あれならここの礼拝堂にも引けはとらない。素人の僕でもこれくらいはわかるよ。それにしても君の親方は腕がいいんだね」


「あら、親方だけじゃないわ。私も製作に参加したんだから」


「ああ、悪かった。共同制作だったね。どれくらいの貢献度があったかはレベッカに知らないけど」


「そういう小さなことは気にしないの。そんなことじゃ、大きな潜水艦を浮上させることはできないわよ。それより作品をちゃんと見て」


「はい、はい」


「これはね。元の装飾が壁から剥がれ落ちてしまって、バラバラになってしまったの。それを親方と私が修復したのよ。元の部材を出来るだけ使ってつなぎとめたから、まぢかで見ると修復した跡がわかるけど、実際にこうして飾られると、遠くからしか見ないから問題ないわ」


「そうだね、ここから見る分には全く継ぎ目は見えない。でも、きちんと根本から修復した方が芸術性を失わなくていいんじゃないかな」


「もちろん、その方がいいに決まっているけど。修復対象はこれだけではないから、なかなか一つの破損個所に時間をかけていられないの。それにお金もないことだし」


「その点では、あそこのフレスコ画を見てよ。どう、あれも私たちが修復したのよ」


 彼女の言うフレスコ画に向かってネール少佐はゆっくり歩いて行った。その先には大きな宗教画が壁に架けられていた。


「君の親方はフレスコ画も描くのか」


「いえ、さすがにフレスコ画は絵描きの専門職人が修復したわ。親方と私は絵画を外壁から、絵画と外壁を壊さないように取り外し、また元通りに組み込んだの。どう? そんなふうには見えないでしょ。ずっと昔から同じ場所にあって、外された事がないように見えるでしょ。この時の作業はむずかしかったのよ。それに時間もとてもかかったわ。その時は、絵の外枠がボロボロの状態で、そのうえ壁の内側の留め金が錆で今にも重さで壊れそうになっていたわ。でもこの通り、我ながらいい出来栄え。あと一世紀以上は大丈夫だと思う。そしてその時が来たら、誰かが修復するでしょうね。それはひょっとして私の子孫かしらね」


 彼女はうなずきながら、自信たっぷりに満足そうな表情でフレスコ画を見上げている。彼女はこの教会の修復作業を自分の生涯の仕事にしてきたのだろう。そして、これからもずっと続けていくのだろう。先祖からの職業とはいえ、すなおに自分の運命とでも受け入れる彼女の、いや、親方やこの辺の人々の根本を形成しているのは何なのであろうか。カースト制のせいなのか。それとも、神への帰依からなのか。


 潜水艦のポセイドンがあと一世紀以上も現存するとは思えないし、その後継艦ができるだろうが、その機関部を担う人物となると、いったい誰がするのか全く見当すらつかない。国際連邦艦隊という組織がある限り、どこかの誰かがその任に着くだろうが、組織的に効率的に選別される。そこには、この教会の修復作業に当たる人選とは異なり、有機的で情熱的なものを見出すことはできないであろう。確かにどこか味気なく、称賛も尊敬もないことは否めない。また、比較はできるがどちらが良くてどちらが悪いという事は言えない。ただ、組織の中で生きてきたネール少佐にとっては、正直なところ馴染めない。もちろん、彼らの生き方を否定するつもりはない。しかし、どうしてこういう風に運命を受け入れることができるのだろう。自分のやりたくないことはやらない、レベッカの兄のような生き方を彼等はなぜ選ばないのだろうか。


 それからも、レベッカは博物館の学芸員のように自信を持って教会の内部をネール少佐に説明した。まるでこの教会が彼女の作品であるかのような熱の入れようだった。少佐は思った。「もし、自分がポセイドンで同じような状況にいたら、このように熱く艦内を説明できるだろうか」と。

もちろん、機関部をはじめ、その他の攻撃兵装、防御兵装などの機械装置は説明できるが、それを構成している部品の製作会社や設計者までは考えたことがない。それぞれの装置がどう連携していて、どの装置にどうインプットしてやれば、どの装置がいかにアウトプットするかは頭に入っているし、不意のトラブルにもそれらの知見を元に応用力で対応できるが、今の仕事に一生捧げる覚悟ができているかというとそうではない。世の中にはいろんな人間がいるということかと、釈然としないまま自問自答していたのだった。


「おい、レベッカ。何しているんだ」


そんな事を考えていた時、礼拝堂の入り口から男性の声がした。振り返ると、中に入ってくる一人の男性がいた。逆光のため、その風貌はよく見えないが、老人のようであった。ゆったりと落ち着いた足取りでこちらに向かってきた。


「あら、親方。今日は工房で作業じゃなかったんですか」


「さっきまで工房にいたよ。修理していた品物がうまくできあがったのでな。持ってきたんだ」


「え、そうなの。早かったわね。ねえ、見せて。これも共同制作なのよね」


 レベッカの親方は、薄汚れた毛布にくるんだ品物を手押し車に乗せて、それを押して来た。


「共同制作? ところで、レベッカ。こちらの軍人さんはお前の知り合いの人かい」


「ええ、紹介するわ。こちら、国際連邦のネール少佐。ムンバイ港のインド海軍基地に昨日の朝着いたそうよ。今は艦が補給中なので官は休憩中。それでここへ社会見学。そうよね、少佐殿」


 レベッカから親方に紹介されたネール少佐は少し慌てたが、何食わぬ顔をして親方に挨拶した。まさかここへ親方がやってくるとは思いもしなかったからだ。


「はじめまして。私はジャハ・ネールと言います。インド人で今は国際連邦艦隊で働いています。仕事は潜水艦のメカニックの保守などです。仕事場に勝手にお邪魔したうえに、お弟子さんにこの教会の説明までしていただきました。そのため仕事の手を止めてしまったようで申し訳ございません」


「なあに構わんさ。それにしても軍人さんがこんな所へ来られるとは珍しいことがあるものだ。お前さんもユダヤ教徒かい?」


「いえ、私はヒンズー教徒です。でも、信心深い方ではありません。・・ええー、私がここへ来たのは、インド海軍の港湾事務所の近くで彼女が店番をしていまして、そこにあったデジタルネイサージでここの教会が紹介されていたからです。実は今、少々厄介な懸案を抱えていまして。・・困った時の神頼みのような都合の良い勝手な思いでここへ来たわけです」


「お前さん、ムンバイへ寄港したってことは、ひょっとして原子力発電所のトラブルと関係があるのかい? ニュースでトラブル対応応援のために国際連邦に依頼したとか、インド科学省にも依頼したとか言っていた」


「えッ、あなたのここでの仕事って、そうなの? 知らなかったわ。でも、それならこんなところで教会見学している暇があるの?」


「まあ、・・今は待機状態なんだ。準備はもうできているのでね。だから、気にしないで。・・この通り放射能防護服を着ているわけでもないから、変にパニックにならないで。いつも通りに仕事をして、家に帰って食事を取り、子供の面倒を見る。何かあれば政府から発表があるから」


 親方とレベッカは黙ってネール少佐の言葉を聞いていた。彼らも原子力発電所の成り行きとても心配なのだが、間が持たなくなって、レバッカは親方に話しかけた。


「聞いたとおりよ、親方。国際連邦の人が発電所ではなく、ここにいるくらいだから発電所のトラブルは気にしないで修復作業を続けましょう。ところで、その毛布の包みは以前から製作していた装飾品でしょ? 仕上げの研磨がうまくできたのね。さっそく据え付けてみましょうよ」


「そうだな。傷がつくといけないから毛布にくるんだまま持っていこう。そっちの端を持ってくれるか」


 二人は重そうな毛布の包みを持ち上げて、礼拝堂の入り口そばの柱のそばまで運んで行って慎重に床に下ろした。親方が脚立を持ってくるようにと周囲に声をかけると、どこからともなく礼拝堂の中から二人の男性が現れて、毛布から装飾品をやさしく取り出した。それから、持ってきた脚立を足場にして設置する柱の突起台の上に装飾品を仮置きしてみた。四人は柱の周りから仮置きされた装飾品をしばらく眺めた。


「親方、ぴったりですね。台の上でも安定しているし、出来栄えもいいわ」とレベッカは顔を少し見上げ、額にかかった髪を手で整えて他の三人に同意を促すようにつぶやいた。


 親方と他の二人は黙ったまましばらく見ていた。その様子に「これのどこに問題があるのかしら」とレベッカは怪訝な表情をした。


「だいたいわかった。・・悪いが、降ろして作業小屋まで持って行ってくれ。最後の研磨と着色はわしがそこでするから」


 親方がそう言うと、二人の男は黙って装飾品を突起台から再び降ろし、台車に乗せて毛布にくるみ、礼拝堂のすぐ隣にある作業小屋へ台車ごと押して行った。それは見ていて、いつも繰り返されているかのような光景であった。レベッカは親方に近寄って行った。


「親方、また手を加えるの? 先の工程が進まないわよ」


「・・・・・」


 親方は少しレベッカの方を見たが、無視するかのように脚立を折りたたんで元の位置に戻しに行った。


「ご覧のとおりよ。いつもこんな調子。自分で製作した物のどこが気に入らないのかしら。私はあれで良く仕上がったと思うんだけど、親方は自分が納得するまで作業を止めようとしないの」とレベッカはネール少佐に向かって言った。


「でも、親方のそんな一途なところが、これだけ立派な礼拝堂の修復が順調にいっている証拠だろう」


「どうだか。手抜きをしていいわけじゃないけど、もう少し作業計画を立てないといつまでに何が仕上がるのかわからないわ。それに、いつもこんな調子だから果たして“順調”と言っていいんだか」


「うん、確かに計画的ではないかもしれないけれど、親方の頭の中には完成予想図ができているんだと思う。さっきの作業は本格的に設置する前の事前調整だったのだろう。・・それでは“共同制作者”としては不満足かい?」


 レベッカに言い聞かせるように、冗談交じりに話したネール少佐だったが、ふと我に帰ってみると、計画的に、かつ効率的に物事を進める事を信条にしている自分に近いのがレベッカの言い分なのに、逆に親方の方を支持している自分がいた。


なぜだろう。この教会とも親方とも初めてなのに、自分の思考がそれらに近づいていくような感覚を覚えた。自分の理論的思考の領域が、形而上学的思考のさざ波によって、次第に浸食されていくかのような感覚だ。

何がそうさせるのだろうか。この礼拝堂の荘厳なデザインのせいなのか。ポセイドンで勤務する自分とは別空間での営みを見せられたせいなのか。よくわからないが、不思議な力としか言いようのないものだ。


ネール少佐は、さっきの装飾品を作業小屋に運んで行って、礼拝堂の中に戻ってきた一人の男性に声をかけた。年齢は七十歳をゆうに超えているように見える。


「お仕事の途中、すいません。私はベングリオンさんの知り合いで、この教会の見学でお邪魔しいている者です」


 その男性はよそ者を見るように冷たくもなく、教会の見学者に応対するように丁寧でもなく、ただ無感情な表情で少佐を見た。軍服を着ているので軍人であるとわかっているはずだが、少しも気後れする様子はなく、泰然とした態度で少佐の顔を凝視した。


「何かね、お若いの?」


「さきほどの装飾品を突起台に乗せる作業をみていました。私の目にはピッタリと突起台の上に乗っていたように見えましたが、再び取り外したのは何か不都合があったからなのですか。それとも、元々の作業順序では、今の作業が仮設置だったから予定通り取り外したのですか」


 その老人は少佐を凝視しながら少し黙っていたが、静かな口調で語り出した。


「何を言い出すのかと思ったら、そんなことかい。あんたどこの軍人さんかは知らないが、変わった質問をする人だね。・・それに、こんな所に来る見学者は滅多にいない。わしは長い間、ここの復旧作業に関わっているが、見学者の中で軍の関係者なんて記憶にない。あんた何者だね」


「申し遅れました。私は国際連邦艦隊の機関士で、ジャハ・ネールと申します。インド人です。確かに軍服のような制服を着ていますが、どこか特定の国に所属している軍人とは異なります。ムンバイ港のインド海軍基地で上陸した際に、ベングリオンさんと知り合いになりまして、個人的興味からこの教会の復旧作業を見たくなってやってきた次第です」


 少佐のそばに来たレベッカは、少佐の言葉に偽りがないという意味を込めてコクリと老人に小さくうなずいた。


「そうか、エンジニアなのかね。・・“国際連邦”ときいたから、てっきりこの教会の復旧作業の助成について調査しに来たのかとおもったのじゃが」


「あいにく、そのような助成目的とは無関係で、単なる興味本位ですいません」


「なに、構わんよ。別に助成してもらいたいとは思っちゃおらんから。それより一人でも多く、ましてあんたのような国際的で公共的な職場で働いている人に、ここの現状を知ってもらうことの方が助成金をもらうより大事だと思っちょる。せっかく来たんだからよく見て行ってくれ。世間から忘れられたここの現状を伝えてくれ」


 老人は少佐から視線を外して、礼拝堂の天井を見渡しながらつぶやくように言った。


「おお、それと、さっきの装飾品を外した理由を知りたいのじゃったな。・・なぜかな。さっきの親方がそう言ったからじゃ。親方と言うのは、さっきの作業でわしら二人に指示をしていた人じゃ。その人の指示でわしらが動いておる。ずっと前から、そしてこれからもな」


「それじゃ、あなた方もベングリオンさんと同じで、あの親方の弟子なのですか」


 ネール少佐は、まさかこれほどの高齢な人が自分より年下の親方の弟子というのも変だと思いながら尋ねてしまった。


「ハッ、ハッ、ハッ。面白いことを言うお人じゃな。ワシらは“親方”と呼んでいるだけで弟子ではない。レベッカは弟子じゃが。・・親方はここの工事のほとんどをずいぶん前から取り仕切っている。あれは、先代の親方が病気で倒れた後からずっとだ。そして、ワシらは言われたようにずっと動いている。あんたらからみれば、立場が違うように見えるだろうが、親方も含めワシらはこのユダヤ教会の信者であることが共通点じゃ。神の前においては、指示する者もされる者も同じ信者の一人にしか過ぎない。どれだけ時間が経っても、どれだけ年齢の差があってもな」


 ネール少佐は黙って老人の言う事を聞いていた。


「さっきの装飾品を外した理由は、ほんの僅かに装飾品と突起台との間に隙間があったようじゃ。ワシにもわからなかったが。親方がそう言うんじゃからそうなんだろう。もちろん、さっきのは仮設置ではなく、うまくいけばそれで作業は終わっていた」


「ええ、わたしにもピッタリに見えたけど。ほんの少しが親方に気に入らないのかなあ」


 レベッカは、それについては老人と同感であり、親方は厳しすぎると思っていた。


「神の前では妥協しないことが親方の誇りなのでしょう。しかし、いつもこんな調子だと、これだけの復旧作業はなかなか進みませんね。神はこれくらいならお許しになると皆さん考えているのですかね。あっ、親方はひょっとして神父さんなんですか? 工房は生業を立てる為の仮の姿とか」


「いや、親方は職人だ。神父ではない。・・ふむ、あんたの言う通り確かに時間はかかる。じゃが、早さを競っているわけじゃない。納得のゆく仕事をしたいだけじゃ」


「それで、皆さんは本当に納得しているのですか。もしかしたら、自分の生きている間に、完成しないかもしれないじゃないですか」


「生きている間に完成?・・なるほどそういう考えもあるわな。確かに自分の目で完成を確かめたいという思いはな。・・じゃが、ワシらの作業は完成時期を追い求めない。いたずらに効率性を追い求めてしまうからじゃ。・・報酬を追い求めない。いたずらに拝金性を追い求めてしまうからじゃ。・・神からの加護を追い求めない。他人への依存性を高めてしまうからじゃ。親方やワシらここで作業している者は皆、そういう気持ちでおる。そういう気持ちで神の前に膝まずいて、神を尊んで生きている。じゃが、進んで神の加護にすがったりはしない。助成を無理に求めないのもそうした思いからじゃ」


「しかし、あなたは先ほど私に『世間から忘れられたここの現状を伝えてくれ』と言っていたではありませんか」


「お若いの。あんたは勘違いしている。ワシが現状を伝えてくれと言った意味は、広く世界に伝えてもらって、少しでも助成や労働を提供してもらいたいという意味ではないのじゃ」


「それ以外にどんな意味が?」


「あんたにだって、世界中に伝えることはできないじゃろう。・・ワシが云いたかったのは、この教会に個人的な興味を持ったあんたが、ここで感じたことを共有できそうなほんの一握りの人たちでいいから、そんな人たちにムンバイのユダヤ教会ではこういう事をしているって伝えて欲しいだけじゃ。それを聞いた人がまた他の誰かに伝えていくじゃろう。それがつながっていけば、ワシやあんたが死んでもこの教会の話は忘れられずに済む。そう言う事をあんたに期待して行ったんじゃよ」


 ネール少佐は老人の言葉に一瞬、衝撃が走った。


 老人の言葉を聞いたレベッカは、少佐から老人の方に歩み寄り、彼の右腕を取って自分の左腕とからませ、少佐に向かって言った。


「ジャハ、その通りよ。ポセイドンの人、国際連邦艦隊の人、誰でもいい。どうか私たちの事を伝えて。・・この教会や私たち信者はそれらの人たちの記憶の中で、宿主を変えながら行き続けることができるわ。」


 少佐は何も言えなかった。それは彼らの言っている事を否定するものではなく、彼らの生活からにじみ出た言葉に感動したからだった。

何気なく会話してきたレベッカさえもが敬虔な態度で神と接し、神に頼らずに生きていく姿勢を身につけている。トリウム原子炉の復旧作業にムンバイに来たのに、図らずも、ユダヤ教会の復旧作業に携わっている人たちと知り合いになれた。これも神の引力によるものなのか。


 しかし、論理的思考を優先させるように訓練されている少佐の頭の中では、胸の中の感動と思考回路とがせめぎ合っていた。何事も深く思考しない習慣であれば、それなりに流してしまって構わない出来事である。しかし、少佐の頭の中では、さっきからの出来事を整理しようとしている。科学と信仰の間に横たわる独自性と重複性について。そして、少佐なりに行きついた答えは『神の認知+神への帰依―神への依存=信仰』というものであった。


少佐はフゥーと大きくため息をついた。


「ジャハ、どうしたの? 急に黙り込んでむずかしい顔しちゃって」


 レベッカの言葉に少佐の頭の中は、再び現実世界へと戻ってきた。少佐は所在なく辺りを見渡した。礼拝堂の外にある作業小屋からだろう。石を研磨するような音だけが聞こえていた。おそらく親方が装飾品の座り加減を微調整しているのだろう。すると、ふとある物に少佐の目が止まった。ここに入って来る時からあったはずの物なのに、少佐はその存在にまったく気付かなかった。


 礼拝堂の正面のテーブルの上には山吹色の花が活けられてあった。さっき港湾事務所の所長室で見たのと同じ花だった。所長はレベッカの店で買っていると言っていたが、レベッカと彼は何か関係があるのだろうか。どうも販売用に大量栽培されたものとは違って、きっとムンバイの辺りに自生している花なのだろう。どんな名前かも知らない花だが、不思議に何か魅かれるものがある。


「きれいな色の花だね」


 それを聞いたレベッカはネール少佐に振り向いた。


「黄色が鮮やかでしょう。でも花の名前は知らないわ。この教会の近くにたくさん咲いていて、摘んできては礼拝堂の中に飾ったり、下町の出店で売ったりしているの。出店に置いてあったのを見たでしょ。あれがそうなの」


「出店の近くにあるインド海軍の港湾事務所でも同じ花があったよ。そこの所長が君の店によく買いに行くと言っていた」


「ええ、そうよ。お得意様よ。あの所長さんも私たちと同じユダヤ教徒。そのせいね、お得意様になってくれているのは」


 それを聞いたネール少佐は、何となく安堵を感じたと同時にこの辺のユダヤ教徒の連携の深さを認識した。


「それじゃ、私は長い間お邪魔したから、お得意様の仲間入りをさせてもらおうかな。とはいっても、ユダヤ教徒に改宗するわけじゃないよ。何か記念になるものを君の出店でかわせてもらおう。この花もいいが、潜水艦の中では前後左右に揺れるから花瓶は置けないんだ」


「だったら、向うの受付カウンターを見てってよ。売り場は広くないからあなたの気にいる物があればいいけど」


 レベッカはそう言って、ネール少佐を受け付けカウンターへ導いた。そこには、観光客向けということもないくらいで、礼拝や宗教的行事に使う品物が置かれてあった。


 ネール少佐は、手土産ついでに礼拝堂の隅にあった無人の受付カウンターから七宝焼のネックレスに目が止まった。これはたぶん親方が作ったものなのだろう。他の宗教的な品物とはちょっと違って、日常的に身に着ける装飾品である。値段も手ごろだ。彼はこれを買うことに決めた。支払額の一部がこの教会の復旧に資することにもなり、ほんのささやかな善行に少佐はまんざら悪い気はしなかった。


「レベッカ、この七宝焼のネックレスなんかどうかな? 艦隊での現場勤務が長いから装飾品なんて身につけたことがないんだ」


「うん、なかなかいいわよ。センスあるわね。教会で神父さんが祈祷したネックレスだからあなたのお仕事での御守りにもなるわ」


「じゃ、これに決めた。包装は要らないよ。そのまま持って帰るから」


「ありがとうございます。・・あのう、もし、よかったらポセイドンの乗組員の方にも親方の店を紹介して下さい。親方の仕事も商売ですからたくさん売れればうれしいわ。教会の修理費の足しになるから。店はダヴィ地区にあります。詳しい場所はそのタグに着いているコードを読み取ればわかるわ。そこはスラム街だけど、国際連邦艦隊の人なら軍服着ているから大丈夫よ。襲われたりしないわ」


 レベッカはそう言ったが、その屈託のない明るい性格のせいか、押し売り的な意味合いには取れなかった。ネール少佐は七宝焼のネックレスを制服の胸のポケットに大事そうに入れた。ネックレスをしたままポセイドンの仲間の所へ帰ることには抵抗があったからだ。それから、岬の教会を後にして、気の進まない原子力発電所の待機勤務に戻ることにした。




 第四章  異端の存在



 ― ムンバイ原子力発電所の原子炉建屋 ―


 ポセイドンのティエール艦長らの支援を体よくかわしたミトラ所長、ナイク副所長、ゴズワミ技術部長の三人は、それぞれの持ち場に戻って、原子炉のトラブルとなった原因を突き止めるため、作成したチェック項目を丹念に確認していった。その具体的作業は“確認”と簡単に言えるものではなかった。一つのチェック項目には様々な機械装置、計器、配管等が絡んでいるために、中央制御室を中心として他の地点と連携して進めて行かなくてはならない、とても時間と根気のいるものであった。


「中央制御室、こちら原子炉建屋三階のF地区のナイクよ。今からチェック表第十三番目の確認をするわ。冷却配管の“上り”の第二バルブを手動で一時的に閉めてから一分後に再び開けるわ。そちらで“閉”と“開”のサインが表示されるかどうか。原子炉の温度に変化が出るか確認してちょうだい」とナイク副所長は中央制御室に連絡した。


「こちら、中央制御室です。第二バルブのサインは“開”になっています。原子炉の温度はこれまでと同じペースで上昇中。作業を開始して下さい」


「第二バルブ手動閉鎖」とナイク副所長は技術員に指示した。


「第二バルブ手動閉鎖ッ」


 技術員は復唱して、バルブを自らの手で回して閉めた。これによって原子炉を冷却するための第二配管を閉じることになるので、理論上は原子炉の温度に変化が生じるはずだ。つまり、温度上昇が発生し、その後、再びバルブを開けると開くことになるので温度上昇が止まり下降に向かう。そうした現象が発生すれば、第二配管の“上り”は正常に機能していることが証明される。逆にこうした温度変化が発生しない場合には、第二配管の“上り”は正常に機能していないことになる。


「中央制御室、こちらナイクよ。第二バルブを閉鎖したわ。原子炉の温度変化を見ていてちょうだい。バルブを開けるタイミングを見落とさないで。その時が来たら、すぐに連絡してちょうだい」


「了解しました」


「他のチームのチェックの進捗状況はどうかしら。ちゃんと進んでいる?」


「ええ、進んでいます。おかげでこちらはすべてのチームの進捗に合わせてチェックしていますから、大忙しですよ。ポセイドンのクルーの方々に手伝ってもらって助かっています。人手は多い方がいいですから」


「そう、安心したわ。じゃ、冷却配管の第二バルブをお願いね」


「わかりました」


 中央制御室からの通話を終えると、すぐにナイク副所長はハンディターミナルを操作して第十三番目のチェック項目に“確認作業開始”のサインを入力した。自動的に時刻、場所などのデータが発電所内のホストコンピューターに送られ、管理される仕組みになっている。こうした作業データがすべての復旧チームからホストコンピューターに送信され、蓄積されていく。


「ええっと、次の第十四番目のチェック項目は何だったかしら」

 

 ナイク副所長は頬にかかった髪をかき上げながら、隣にいた図面担当の技術員に尋ねた。


「このF地区の冷却配管の“下り”の流量計と圧力計のチェックです。計器の場所はあの防護扉の向こう側です」


 技術員はそう言って、防護扉を指さした。


「そう。行きましょう」


 ナイク副所長は技術員の指差した防護扉を見つめながら、チェック作業で疲れた表情を周りの技術員に悟られないように、力強い口調で技術員をリードして先頭に立って防護扉の方に歩いて行った。


 F地区には冷却配管の“上り”と“下り”がそれぞれ第一と第二の合計四本がある。これらの配管は熱膨張による変形をできるだけ避けるために、所々でS字に近い形に曲がっている。作業用の空間が通路がわりになっていて、歩くには決して広くない。トリウム燃料が流れている配管には断熱材が使われているが、その表面は熱く、その熱が周辺の空気に伝わるため、F地区の気温は高くなり、少し歩いただけでも呼吸が荒くなる。加えて汗が額から滲みだしてくる。


 配管に断熱材を二重に巻けばこの程度の熱は遮断され、日常点検でもこれほど熱くはならない。ナイク副所長の当初の設計ではその点にも配慮して、二重断熱方式を採用していたが、建設価格の削減を強行したインド科学省の査定によって、いくつもの彼女の提案が退けられてしまった経緯がある。この二重断熱方式もその削減策の一つであった。


 防護扉に向かって歩きながら彼女は思った。「私の設計通りに断熱材をもっと使えばこんな熱い思いをしなくていいものを。作業員が点検する時も負担が軽くなるし、今回のようなトラブルが発生したら、長時間こうした過酷な場所に留まらなければならないケースも出てくる。何を根拠にして私の設計を変更したのかしら」


 ナイク副所長たちは配管やケーブルに触らないように注意しながら防護扉まで歩いていった。一人の技術者が防護扉の前で立ち止まり、背負っていたリュックサックを降ろし、中から作業用手袋を取り出して言った。


「防護扉のノブが高温で触れると火傷をするかもしれません。念のため手袋を着用して下さい。副所長、どうぞ」


「ありがとう」


 技術員の細かな心遣いがナイク副所長にはうれしかった。原子炉のトラブル以来ずっと、神経の張りっ放しで心が折れそうになっている時だっただけにこんな些細なことに感謝の念が湧いてきた。


 防護扉を開けて中に入った。照明の電源は確保されていて、灯りはついていたが、照明器具自体の数が少ないせいか、室内は薄暗かった。


「蒸気のせいか、良く見えませんね」


「ええ、この部屋の図面から計器の場所を探しましょう」


 この部屋の照明にしても、設計段階ではもっと照度を考慮した設計になっていたのに、インド科学省の建設予算削減策によって、こんなに暗くなってしまった。設計者である彼女からすれば、再びやりきれない気持ちにさせられた。まるで新車で外出し、駐車場に置いて戻ると、車上荒らしに合っていたような気分だ。


「うーん。図面のここが防護扉で、我々はこの辺にいるから、計器の方向は・・・向うですね。足元に注意して行きましょう」


 技術員が指差す方向には、薄暗くて計器箱のようなものは見て取れなかったが、図面を信頼して、懐中電灯で足元と歩く方法を照らして進んで行った。


「ありました。あれです」


 計器箱はガラス越しに中の計器の指示数を読み取るような構造になっていて、ちょうど人間の視線が届く高さに設置されていた。普通の状態であれば簡単に読み取ることができるが、照度不足のため見えない。懐中電灯で照らしても光が乱反射して数値を読み取ることができない。


「だめだ。どんな角度から見ても読めない」


 振り返って、そう言う技術員の表情には焦りの色合いが見て取れた。いっそのことカバーガラスを割って直に見ようかとナイク副所長は思ったが、そんなことをしたら、計器箱に付けられているセンサーが異常を感知して、その信号が瞬時に中央制御室に送られてしまう。ただでさえ忙しい中央制御室なのに、それをさらに増幅することになる。彼女は勢いでカバーガラスを割ることを止めた。


 そんな中、もう一人の技術員がウエストポーチのジッパーを開け、中から鍵を取り出して、もう一人の技術員に尋ねた。


「計器箱に鍵穴が付いていないか?」


「ここにあるぞ。その鍵はマスターキーなのか?」


「そうだ。うまく開くはずだ」


そばで聞いていたナイク副所長は「鍵穴? セキュリティーカードで開閉するのが普通じゃないの?」と心の中で思ったが、声には出さなかった。


「開いたぞ」


 マスターキーを持っていた技術員が計器箱の鍵を開けた。金属製の扉を開き、圧力計、流量計、温度計の数値をハンディターミナルに入力した。


ナイク副所長は、自分の設計ではセキュィティカードで開閉することになっていたのに、こんなところにも設計変更がなされていることに再び直面することになった。


 彼女は思った。「こんな程度の所にも私の設計が退けられているなんて、インド科学省は原子力発電所の設計者をどう思っているのかしら。こんな調子じゃ、この先どんな所で自分のイメージとの相違点が出てくるかわからないわ。・・だからといって、設計思想をすべて捨てる気にはまったくなれないわ。この発電所は私の半生をつぎ込んだかけがえのないもの。譲れないものなのよ。だから、・・この先々で私の設計と違う施行がなされていても、驚かないし、怨まない。そんな変更ぐらいどうってことない。乗り越えてみせるわ」


 ナイク副所長は自分の憤りを周りの技術員に悟られないように、自分に言い聞かせた。


「副所長、数値はすべて基準値の範囲内です。ここは問題ありません。ただ、目視と放射線計で配管とケーブル周辺を確認しておきます」


「そう、わかったわ。それで問題なければ冷却配管のF地区のチェックは終りね。あとは、さっきの“上り”の第二バルブの結果待ちだけね。中央制御室からの連絡はまだないのね」


「はい、まだ何も」


 そう言って、技術員は薄暗い室内の配管とケーブルに異常がないことを確認しながら歩き回った。そして、ひととおりの確認終えると、ナイク副所長のところに戻ってきて正常であることを報告した。


「ご苦労さま。それにしてもここは蒸し暑いわね。・・それじゃ、次のチェックポイントへ移動しましょう。次は何だったかしら」


 額の汗をぬぐいながら、確認事項をハンディターミナルに入力した。彼女は気丈に振舞うようにして、他の技術員に休憩を与えることなく、次の作業を促した。しかし、内心はこれからも果てしなく続くチェック項目の事を考えると、自分の知らない所でなされているさっきのような設計変更がこれからも出てくることが予想された。思わずため息が出そうになるのを押し殺している彼女だった。


「次のチェック項目は、この上の階の四階の冷却配管の確認です。ここの階段は照明がくらいうえに、手すりの位置が低いですから、気をつけて上って下さい。必ず手すりに手を添えることを忘れないでください」


 技術員の一人がナイク副所長に忠告した。もう一人の技術員も無言だったが軽くうなずいていた。


「わかったわ。ありがとう」


「それともうひとつ」


「えっ。まだ何か注意しておくことがあるの?」


「安全規則上は、手すりに安全帯をつけて昇降しなければならないのですが、今回の場合は緊急ですから、特例措置が適用されてもいいのでは。・・・」


「わかったわ。私が安全帯の不使用を許可します。今は時間が何より優先よ。少しぐらいのリスクは覚悟してちょうだい。責任は私が取るわ」

 彼女がそう言うと、技術員の一人が先頭に立ち、次にナイク副所長、しんがりはもう一人の技術員が務めた。薄暗い中で階段の踏み板はグリーチングのように隙間があり、小さな物を誤って落とせば板の階段まで落ちて行ってしまう構造になっていた。


 たまには現場に行くナイク副所長だったが、ふだんは副所長としての管理業務に忙殺され、ほとんどの仕事場は事務室内だった。そのため、エレベーターやリフトに慣れている彼女にとっては、薄暗く蒸し暑い階段の昇りは肉体的にかなりの負担がかかった。荒くなる息遣いをできるだけ押し殺し、いつ終わるともわからないチェック作業を休憩なしで継続していかせる、彼女の背中を押していくものは、副所長としての責任感を上回る、原因と結果の因果関係を証明させようとする科学者魂であった。



 ― ムンバイ原子力発電所の中央制御室 ―


 八月十一日 午後一時。発電所の技術員を中心に、ポセイドンの機関部、保安部、厚生部のクルーも非常時に備えて中央制御室に待機していた。しかし、もともと原理のわからない原子力発電所で交わされる専門用語やコンピューター画面は彼らに理解できるはずもなく、正直なところ手持ち無沙汰で、時間が経つにつれて最初の緊張感が薄れて行き、態度にも緩みが出始めていた。そんなクルーの様子をティエール艦長ら上級士官は感じ取っていたが、発電所の技術員がこんな状態では規律を正そうにも“糠に釘”になるのが明白だったため、黙って中央制御室と各現場とのやりとりに耳を傾けていた。しかし、業を煮やしたティエール艦長は制御盤の中央の机にコンピューターの画面を見入っているジェフー制御室長の所へ行き、気持ちを落ち着かせて話しかけた。ビスマルク副長も艦長と共に室長の所に行った。


「ジェフー制御室長、チェック項目はどれくらいの進捗なのだ?」


「ええっと、正確な数字は分かりません。現在、確認中の項目もありますから。・・完全にチェック完了した項目はまだ一割程度でしょうか」


「これだけ時間を費やしてもまだ一割程度なのか。こんな調子だとチェックがすべて終わるまで、原子炉内の圧力上昇に配管が耐えられるか? それに、チェック作業に入る前に、ナイク副所長は“チェック作業に要する時価は二日間くらい”と言っていたが、それも怪しいものだ。そもそもチェックによって、圧力上昇の原因が特定できるかどうかもわからないし、特定したとしてもその解決策を検討しなければならないぞ」


 あせりの気持ちが時間の経過とともに高まっていたティエール艦長は、語気を強めて制御室長に向かって不満をぶつけた。艦長の後に、普段は冷静沈着なビスマルク副長も制御室長に向かって言った。


「その通りです。この発電所には、発電所職員のほかに我々ポセイドンのクルーが大勢、支援体制についている。仮に事故が発生した場合には、防護服など放射能の被爆を避けるための備品等が足りなくなるでしょう。早く原子炉を安定化させないと、ここにいるすべての人間の生命に危険が及ぶ可能性が高まる。・・どうでしょう。やり方を変えてみる事は出来ないのですか」


 たたみかけられるようにして迫られた制御室長は、周りの発電所の職員もいるので、たじろぐわけにもいかない。一呼吸してから毅然とした態度で答えた。


「可能性の話をすれば、もうすぐ原因発見の連絡が入るかもしれないでしょう。今の段階で、チェック作業のやり方を変更することはできません。いや、変更しようにも今の方法以外に有効なやり方はないのです。愚鈍に見えても地道にチェックしていくしかないのです。ポセイドンの艦長も発電所長らとの打ち合せで事情をお聞きしているはず。・・危険な状態になっても我々はここに留まり、緊急退避命令が出ない限りは最後まで復旧作業に当たる覚悟です。もし、ポセイドンの方々が危険だと判断したのなら、発電所から退去していただいて結構です。元々我々の責任のもとで復旧作業に当たっていたので、元通りになるだけです」、


 制御室長の責任感にあふれた言葉を聞いた艦長と副長は言葉に詰まり、互いの目を見て「仕方ないな」という表情に変わった。そして、二人とも私の顔を見て「何か意見はあるか」と無言で聞いているようだった。私は大きくため息をつき、小さく首を縦に振るしかなかった。我々三人は自らの無力感を感じつつ、これから何をすべきなのかを考えたが、頭の中は空回りしているだけだった。


 とはいうものの、中央制御室では発電所の技術員たちは、所内の各地から入ってくる連絡の記録作成、情報確認、計器操作などに休む暇もなく追い立てられており、その光景はポセイドンでの緊急時の艦内の光景と似たものがあると艦長は思った。ただ、違うのは、こんな時には、ポセイドンでは自分が渦中の真ん中で決断、指示を出す立場であるのに対し、ここでは、蚊帳の外にいるという疎外感に似た虚しさに包まれていた。

 自ら指揮を取りたい気持ちがある一方で、知識と経験不足から何にも出来ずにいる自分が情けなくなり、時折、自然にビスマルク副長の顔を見るようにした。副長の方も艦長と同じ心境なのか、お互いの目が合うタイミングがほとんど同じであった。副長も歯がゆいのだろう。

 もし、この場に発電所のトラブルとは無縁の無関心者がいたとしたら、忙しく働いている技術員の姿も、「こんなに人がいるのに退屈そうな所だ」としか彼の目には映らなかっただろう。

こうして、忙しさだけが支配する時間の中で、確実に技術員の疲労蓄積と原子炉の配管内圧力の上昇が進んで行った。技術員たちの懸命の努力とはまるで無関係に、かつ冷酷に時計の針は正確に進んで行った。



 ― インド海軍のムンバイ港湾事務所 ―


 八月十一日 午後四時。ネール少佐は、岬の丘の教会から下りてきて、再びインド海軍のムンバイ港湾事務所を訪れた。事務所内には上陸した時と同じように、平穏な雰囲気の中で職員が各々の仕事をしていた。少佐は、所長に面会を求め、所長室に通された。花瓶に飾られてある山吹色の花が少佐をやさしく迎えてくれているように思えた。


「やあ、ネール少佐。発電所の方の仮復旧作業は順調にいっているのですか」


やはり、それを聞いてきたかと少佐は思い、「現場に居ませんでしたから詳しくはわかりませんが、まだ復旧の目途は立っていないようです」と所長に言った。


 所長の机の前の応接椅子に座ることを勧められ、軽く感謝の意を表して少佐はソファに腰かけた。続いて所長も少佐の向かい側のソファに腰をおろして向き合った。


「そうですか。進展はありませんか。・・困りましたね。少佐がここに来られたことでだいたい察しはつきましたが。・・これはあなたがたポセイドンに言う事ではありませんが、発電所やその電力会社、政府はどうするつもりなのでしょう。インターネットやテレビなどメディアでも、ニュース番組の順位の低いタイミングでしか報道されていません。報道管制が敷かれているのでしょう。事件は政治的な要素を含んできているようですね。素人が言う事ですから的外れなのでしょうが、いっそのこと、発電所を完全に停止してしまえばいいのでは」


「いえ、そういうことで解決できる問題ではありません。私も専門外ですから断言できませんが、タービンや発電機に問題が発生すれば、停止して点検すればいいのですが、今回の場合は原子炉そのものがうまくコントロールできなくなっているので、完全停止できないのです」とネール少佐は答えた。

多少過激な発言ではあったが、相手は軍の所長であるので誰彼となく話を吹聴することもなかろうと思ったからだ。

その精神性の背景には、花瓶に飾られてある山吹色の花が少佐の心を和ませ、口元がゆるくなったことに少佐自身は気付いていない。


 重苦しい会話は避けて、少佐は岬の上に建つユダヤ教会へ行ってきたこと。そこでの修繕作業の様子や、それに携わる人々のことを所長に話した。


「そうですか。あそこへ言って来られましたか。これは偶然なのか。実は私はあのユダヤ教会の信徒なのです」


 それを聞いたネール少佐は、レベッカが言っていた「港湾事務所さんは花を買ってくれるお得意様で、所長はユダヤ教徒よ」と言っていたことを思い出した。


「修復工事の様子をご覧になったでしょう。いつ終わるともしれない作業をああしてコツコツと続けているのです。現代の建設工事のやり方とは隔世の感がある。しかし、あれが我々のやり方なのです。あなた方が今、取り組んでおられるムンバイ原子力発電所の復旧工事とも正反対に位置する。非効率的、非合理的ではあるけれど、能動的、連続的です。支援者は少ないけれど世代を超えて永く続きます。こんな異端なやり方が世界な中で存在していてもおかしくはないでしょう」


「そうですね。・・あそこで工房を営む高齢な職人に会いました。その人が工事の工程を取り仕切っているようでした。その仕事はかつて誰かから引継ぎ、そしていつか誰かに引き継がれていくわけですね。・・・生産性、収益性、期間短縮を求める現代社会の潮流は誰にも止められませんが、これだけ広い地球の中ですから、そこだけ時間が止まったような場所、つまり、異端な存在がなければつまらないじゃないですか」


 ソファに腰かけていたネール少佐はニコッと所長に微笑んで言った。所長もこの男とは話が合いそうだと心の中で思い、同じように微笑んだ。ほんの短い会話であったが、そこで男の友情とでもいうべき感情が二人に芽生え始めた。


 ちょうどその時、ネール少佐のモビルPCが着信音を鳴らした。少佐はすぐに手に取り、発信元の相手がティエール艦長だとわかると、「いやな予感が的中した」と思った。すぐに回線を開き真剣な顔つきで聞き入った。


「こちら、ポセイドンのティエールだ。ネール少佐、今どこにいる?・・・そうか、わかった。用件というのはすぐにムンバイ原子力発電所の中央制御室へ来てもらいたい。原子トラブルは改善されるどころか、次第に深刻さを増している。君に原子炉を制御しろとは言えないが、ここの技術員にアドバイスできることがないか現場を見てもらいたいのだ。詳細はここへ着いてから説明する。発電所の守衛所にポセイドンの保安部員を待機させておくから、そこまで来てくれ。以上だ」


「了解しました。これからすぐにそちらへ向かいます」


 通話を切った後、「とうとう来るべき時が来てしまったか。いつまでもムンバイ観光気分でいられるわけがないと思っていたら、案の定、お呼びがかかった」とネール少佐は気分がいっぺんに重くなった。しかし、すぐに発電所に行かなければならない。今からタクシーで行けば暗くなる前には着けそうだ。少佐はソファから立ち上がった。


「緊急呼び出しのようですな。今から発電所に行かれるのか?」


 いっしょに立ち上がった所長は少佐に尋ねた。

「はい、どうも現場ではうまく言っていないような様子でした。原子炉の素人の私が言ってもどうにもなりませんが。艦長は『現場でアドバイスしてくれ』とういうようなことを言っていましたから、対象は原子炉ではなく、他のメカニックなのかもしれません」


「何にしろ、すぐに発電所まで行かねばならない。軍の車両で少佐を発電所までお送りしよう」


「えっ、本当ですか。タクシーを呼ぼうと思っていましたが、それはとても助かります。でも、本当に甘えてよろしいのですか」


「私が同行する。運転手に私が発電所に行くついでに少佐を乗せて行くことにする。少佐が察するように、車両といえども軍の車両をそれ以外の人の運送にはつかえないからな。私がいれば問題ない。それにタクシーよりは早く着けるだろう」


「では、そうさせていただきます。所長、ご協力に感謝いたします」


「礼には及ばん。支度は特にないな。・・では、すぐに行こう、発電所へ」


二人は所長室を出て、所長が先頭に立って早足で外のガレージへ向かって歩き出した。事務所の中で運転手になってもらう軍曹に声をかけ、三人で車両に乗り込んだ。二人は後部座席に乗り込むと、港湾事務所の敷地を出て、発電所へ向かう道路をスピードオーバー気味に走り出した。



 ― ムンバイ原子力発電所の中央制御室 ―


「いま、ネール少佐にここへ来るよう連絡を取った」


「少佐はポセイドンの中にいましたか?」とビスマルク副長が艦長に尋ねた。


「いや、少佐はインド海軍の港湾事務所にいた。今頃、こちらへ向かうところだろう」


「さっきも言っていましたが、専門外とはいえ、ポセイドンの中でこうした設備に少しでも精通しているのは少佐ですからね。現場を見れば何か思いついてくれることを信じましょう。ポセイドンでも今まで無理難題をさんざん押しつけてきましたが、その度に解決策を見つけてくれました。ここまできたら、彼の技術的感性に頼るしかありません」


 ビスマルク副長の言葉に無言でうなずく艦長だった。


 一方、中央制御室では、相変わらず技術員があわただしくチェック項目に従って作業に追われていた。隣の技術員が何をしているかなど伺う余裕すらなかった。ナイク副所長やゴズワミ技術部長もあらかじめ計画された手順に従って、できるだけ効率的かつスピーディに作業をこなしていることだろう。



 ― 発電所へ向かう軍の車両の中 ―


 ネール少佐を乗せた車両は市街から抜け、山越えの道路に差し掛かっていた。少佐はポセイドンに連絡を取った。


「ホフツ大尉か? こちらポセイドンのネールだ。先程、艦長から指示があり、ムンバイ原子力発電所の中央制御室へ行くことになった。艦長はそこに待機しているらしい。機関部に対し具体的な指示は出ていないが、君たちの助けが必要になるかもしれない。想定される装置、器具を準備し、指示があればすぐに出動できるようにしておいてくれ」


「こちら、ホフツです。今、格納庫にいて、ちょうど少佐のおっしゃった準備をしている最中です。正直、何を準備すればいいか見当がつきませんが、なんとかポセイドンにある在庫の中から選別しています」


「ただ、問題がひとつありまして」


「何だ。問題とは」


「機材と人員の発電所までの輸送手段です」


「そうか、そうだな。数名だけなら特務艇『メイフラワー』で直接、発電所の岸壁に接岸できるが、大勢の人数と多くの機材を運搬するとなると、『メイフラワー』で何往復もしなければならなくなる。・・・うーん、そうなると陸上輸送しかないな」


「そうなんです。航海長のドレイク少佐には、すでに『メイフラワー』の使用許可をとってありますので、少人数の移送であればそれで問題ありませんが、大勢の移送となると・・・」


 そんなやりとりを隣で聞いていた所長はネール少佐に向かって申し出をした。


「必要となれば、インド海軍のトラックを使えばいい」


「えっ、海軍の車両をお借りできるのですか? 場合によっては、被爆する可能性もありますよ」


「被爆のことをいえば、ムンバイのどこにいたって同じだろ。今回のUFF(国際連邦艦隊)の活動に対しては協力するようにと、上層部からも指示が出ている。さすがに何の命令もなく発電所構内までは入れないが、トラックによる移送ぐらいはお手伝いする。運転手もこちらで用意する。陸上を走るクルマの運転には、皆さん慣れていないだろうから勘が鈍っているだろう。大事な軍のトラックをぶつけられては困るからな。ハッ、ハッ、ハッ」


「ありがとうございます。所長。では、ポセイドンにはそのように伝えますので、万が一、そのような事態になればお願いすることになりますので、よろしくお手配をお願いいたします」


「ああ、こんな港湾事務所だから保有しているトラックは一台しかないが、ムンバイの本部には各種のトラックがあるから、うちの副所長を通じて本部に話を事前に着けておこう。被爆防止用の服や手袋もあるはずだ。ただ、軍自体での出動もあり得るから、全面的に期待してもらうわけにはいかない」


「どれだけでも結構です。助かります」


 お互いに軍の協力について、ネール少佐はポセイドンのホフツ大尉へ、所長は副所長へ事のあらましを連絡した。そんな時、軍の車両のラジオから音楽が流れてきた。地元ラジオ曲が放送しているラジオ番組だった。ネール少佐は何気なく聞いていると、ムンバイに来てからタクシーに乗っている時に何度も聞いていたので、メロディを覚えていたのだった。


「この曲は、最近流行っているんですか。タクシーに乗っていた時によく耳にしました」


「ああ、そのようだね。私はよく知らないが。軍曹は知っているかね」


 質問された運転手の軍曹は答えた。


「所長、ご存じないんですか。この曲は米国のハリウッドをもじって、ボンベイでは“ボリウッド”と呼んでいるでしょう。今、とても人気のあるボリウッド映画のテーマソングですよ。私も好きですよ。メロディもヒップホップでノリやすいし、詩も好きですね」



♪“・・・マスクをしても変わらないこの臭い 今日も朝からぐったり ”

“みんな何で気持ちを癒しているんだろう” 

“耐えられなくて 逃げ出したくなる僕の方が 普通なんだよ” 

“満員電車を乗り過ごして 次のに乗ってみても変わらない”

“休日は引きこもりのサラリーマン” 

“パソコンから出てきた僕のスーパースター 僕のために歌ってよ”

“君は歌声でこの臭いを吹き飛ばした 引き込もりの僕は鳥になれた”

“憂鬱なこの社会をぶち壊してよ 何度でもダウンロードしてあげるから”


“憂鬱の原因なんて知りたくもない 僕のために踏みつぶしてよ”

“スーツ姿の大人たちが邪魔するけど 君にかなうとはうぬぼれなんだよ”

“僕のスーパースター 結果だけが欲しいんだ いつまでも待ってるよ”

“何度も空を見上げて 君を待っているんだ“

“夢の中で 君と肩を組んで ジャンプした 目が覚めるまで オー、イェー”♪



 ネール少佐はラジオから流れてくるこの曲を黙って聞いていた。曲調はヒップホップで若者向けのものだが、詩は社会的な要素が一皮むけば出てくるような意味深いように感じられた。「原因なんて知りたくもない・・結果だけが欲しいんだ」とは、現代社会が生んだ走光性のようなものだ。症状が軽い時は“社会の多様性”でかたづけられるが、ある一定のレベルを超えたら、“社会病理“になり、対処が必要になるだろう。


「少佐、急に黙り込んでどうした。この曲が気に入ったのかな」


「ええ、何となく考えさせられる歌詞だったもので」


「そうでしょう、少佐。流行っているには理由があるんですよ。メロディとか。リズムとか。ハーモニーとか。何か魅かれるものがそこにあるからなんですよ。目には見えないけれど」と陽気に話しかけてくる軍曹の言葉の「何か魅かれるもの。目には見えない」にもネール少佐は引っかかるものを感じた。レベッカや親方との出会いを元にして芽生えた感覚なのだろうか。


 そうして少佐を乗せた軍の車両は順調に発電所を目指して走行していたが、急に前方のクルマがスピードを緩め、しまいには停止してしまった。山間の道なので信号機がこの先にあるとは思えない。しばらく停止したまま待っていても、前方のクルマは一台も動く気配がない。どこかで故障したクルマが動かなくなってしまったのだろうか。それにしても、中央の白線があり、幅員も十分にある道路であるから、一台くらい停止しても交互に追い越して行けば少しずつでも流れるはずなのだが、ピタッと停止したままだ。


 しびれを切らしたドライバーがクルマから下りて、前方の様子をうかがう者がちらほらと出てきた。少佐も早く発電所に行かねばならない。しかし、この道路以外には発電所に通じる道路はない。せめて、前方で何が起こっていて、停止している原因を突き止め、解決するしかないと思い、軍の車両から下りて山道を登って行った。


 数分歩いた所で、牛車の周りに人だかりができているのが見えた。あれが原因なのだろうと思い、早足で息を切らしながら牛車にたどり着いた。その牛車の持ち主らしい男が牛の轡をひっぱってなんとか牛を動かそうとしていた。


「どうしたんだ。後ろも前も見てのとおり、数珠つなぎ状態だぞ。すぐに牛車を路肩に移動させろ」


「すみません。力いっぱい引っぱっているんですが、ビクともしないです」と牛車の持ち主が申し訳なさそうに答えた。


「よし、みんな。手を貸してくれ。こうしていても事態は解決しない。轡を持つ者と荷車を押す者とに分かれて、あそこの路肩まで動かそう」とのネール少佐の呼び掛けに、周囲を取り囲んでいた男たちが協力して牛車を動かそうと配置に着いた。


「みんな。ヒンズー教徒は牛を大切にしなければならない。牛を力づくで引っぱるのではなく、クルマにひかれないように安全な場所に移動させると考えるんだ」


 ネール少佐の呼び掛けに、集まった男たちの表情が少し和らいだようだった。


「よし、私の掛け声に合わせてくれ。みんなの力をいっしょにすれば何とかなるだろう」


「イチ、ニ、サン。それっ」


 全員が力を込めても、牛は逆に抵抗して動こうとはしなかった。少し前進したら、また、逆に牛が戻るということの繰り返しだった。荷車を牛から外して同じようにやってみても、結果は同じだった。みんな次第に肉体的にも精神的にも疲れてきた。中には、牛から離れて路肩にしゃがみこむ者も出てきた。


 ネール少佐はそれでも牛の轡をひっぱり続けた。息が荒くなる中で、さっきラジオで聞いた歌の歌詞の一節「原因なんて知りたくもない・・結果だけが欲しいんだ」というフレーズがふと頭の中をよぎった。本当に歌詞通りの状況だった。


 少佐も含めて男たちが半分あきらめかけていた時に、一人の少年が山側の道路から下りてきて牛に近づいてきた。そして、牛の持ち主と二言三言言葉を交わすと、今度は牛の頬や背中を手でなで始めた。まるで赤ん坊をなだめるような仕草で、ゆっくりと穏やかに牛に接した。時折、牛の目を凝視すると、牛もまた少年の目を見ていた。次に少年は牛の足を両手でさするように上下させた。前足と後足を終えると、再び牛の頬に自分の頬をつけて何か小声で話しかけているようにも見えた。


 すると、少年は牛の持ち主から一本のロープを借りて、先端を丸めて縛り、輪っかを作った。それを両手で持って牛の顔の前からゆっくり近付いて行った。少年の目は牛の目を見たままである。牛は時折、少年の目を避けたが、周りの男たちには無関心で近づいてくる少年を見ていた。少年は牛の前に立ち止まると、そっとロープの輪っかを牛の頭からかけて、首のところまで下げて輪っかを絞った。一呼吸した後、少年はロープを持ったまま、ゆっくり歩き出した。なんと、これまで全く動こうとしなかった牛は前足を一歩前に出して少年の動きに会わせるようにゆっくり歩き出した。


 ネール少佐や周囲の男たちにはまるでマジックを見ているような光景だった。あれだけ動くのを拒否していた牛がなぜ少年のあの動作でいとも簡単に歩き出したのか。不思議な光景だった。そして、少年は路肩まで牛をつれて行くと、持ち主にロープを手渡して小さな声で言った。


「疲れているみたいだから、ここでしばらく休ませてやって。そしたらまた、いつもどおりになると思うよ」


「ぼうや、ありがとうよ。牛車が道をふさいでしまってどうしようかと焦っていた。どんどんクルマは渋滞するし、クラクションは鳴らされるし。・・じゃが、どうやってワシの牛を歩かせることができたんじゃ?」


「僕もよくわかんないけど、牛に近づいて触れれば何を思っているのかなんとなくわかるんだ。牛の方も僕の思いをわかってくれている気がする。でも、なぜかといわれてもわかんない。じゃ、これで僕行くね」


 そう言って、下り道を何もなかったようにスタスタと歩いて行った。その様子を見ていた周りのクルマの人たちは、びっくりして無言でいる者、拍手を送る者などそれぞれであった。ネール少佐は牛を動かそうと手を貸した男の一人が、友人と話していたことを聞いた。


「あの子は“牛神の語り部”だ。噂に聞いていたが実際に見るのは初めてだ。神から授かった極めてまれな才能を持っている特別な子だ。牛と心を通じ合わせる能力があるんだ」


「ああ、俺もその話は聞いたことがある。どんな暴れ牛でも“牛神の語り部”にかかれば静めてしまうらしいな。何にしてもあの子が通りかかって幸運だった。これでクルマも動かすことができる。他の国なら牛の尻を棒で引っぱたいてどかせるのだろうが、ここはインドだからな」


 ネール少佐は思った。「そうか、インドでは“牛神の語り部”という特殊な能力を持つ人間がいるのか。まさに神に選ばれし者なのか」同じインド人である少佐だったが、こんな話は聞いたことがなかった。世の中にはいろんな能力を持つ人間がいるものだと思った。


 神妙な表情でネール少佐は軍の車両に戻ってきて、ドアを開け後部座席に座った。


「どうなった? 何があったんだ。クルマの故障か?」と所長はネール少佐に矢継ぎ早に質問した。少佐は事のあらましを説明して、不思議な光景だったことを強調した。


「うむ、やはり、その子は“牛神の語り部”だな。ついさっき、一人で歩いて道路を下町へ下りて行った子供がそばを通っていたが、その子がそうか。一見、普通の子ににしか見えなかったが」


 所長は、自分も少佐といっしょに現場へ行って、その光景を目の当たりに見てみたかったと思ったが。終わってしまったことはどうしようもないことだ。


 ネール少佐は、港湾事務所で所長と話をしている時に、所長が言った「こんな異端なやり方が世界の中で存在してもおかしくないでしょう」という言葉を思い出していた。トリウム原子炉、それのあってはならないトラブル、教会の復旧工事を何世代にわたって引き継いでいく人々、そして、今回の“牛神の語り部”。異端だらけじゃないか。これがムンバイなのか。まだ自分の知らない“異端”がムンバイにはいるのかもしれない。それも母国であるのに自分が知らないだけ。


「これから向かう原子力発電所の中にも、さっきの子供のような“牛神の語り部”的存在の人物がいてくれたらいいのに」とネール少佐は願った。ただ、科学技術の結晶のような複雑で人間の手から遠く離れてしまったシステムに対しては“牛神の語り部”の声はおそらく届かないであろう。メカニックにはメカニックで、ケミカルにはケミカルで、エレクトロニクスにはエレクトロニクスで、フィジックスにはフィジックスで対峙しなければならないのだろう。専門外の自分に何ができるのか。さらに気が重くなってきた少佐であった。


 そうしているうちに、山の方からクルマが下りてきた。こちらの車線も少しずつ前へ動き出した。これで発電所に着けそうだ。ネール少佐の心の中には一瞬、「もうしばらく牛車が道路をふさいでいてくれたらよかったのに」との弱気の思いが頭の中よぎったが、それを自ら打ち消し、今の段階で考えうるトラブルに対する対処方法を模索、整理し始めていた。


 クルマの群はいつもと同じように順調に流れ出し、少佐を乗せた軍の車両は確実にムンバイ原子力発電所に近づいて行った。




 第五章  機関部長の提案と悩める責任者



 ― ムンバイ原子力発電所 ―


 八月十一日 午後五時 その後、順調にネール少佐を乗せた軍の車両は、ムンバイ原子力発電所の入り口なる守衛所に到着した。気の重いネール少佐だったが、そんな気配を所長に見透かされないように明るくお礼を言った。


「所長、おかげさまで発電所に着くことができました。途中、思いもかけないハプニングがありましたが」


「あとは頼んだよ。軍も必要になれば支援を惜しまない。ティエール艦長さんらにもよろしく伝えてくれたまえ」


「ありがとうございます」


 そう言って、ネール少佐は後部座席から降りようとした時、ラジオからまたあのヒット曲が流れ始めた。ギターとドラムの音が最初からハモッて入り、特徴的な声の男性ボーカルが続いた。


♪“目が覚めた後の あのすがすがしい気持ちは いつから忘れてしまったのか”

“気持ちを整理して ネクタイを締めたけど 僕の気持ちは締まらないまま”

“パソコンにスマホ 僕は何でもできるスーパースター” 

“でもスーパースターでいられるのは それらの中だけ”

“社会は思い通りにいかないモンスター”


“モンスターを倒してくれるスーパースターは いつできるんだ”

 “外を見ようにも開かずのカーテンが邪魔をする 重い玄関ドアを開けたら”

 “マスクをしても変わらないこの臭い 今日も朝からぐったり”

 “みんな何で気持ちを癒しているんだろう”

 “耐えられなくて 逃げ出したくなる僕の方が 普通なんだよ”


 “満員電車を乗り過ごして・・・・・・・・・・・・・・・・”♪


 そこまで聞いたところで、「原因なんて知りたくもない。・・結果だけが欲しいんだ」というフレーズが再び頭に蘇った。


「少佐、例の曲ですよ。すごいでしょ、リクエストがス相当多いんだろうなあ」


「そのようだね」と少佐はつぶやいた。心の中では「この曲は、今の自分にも当てはまるような共感できる曲だなあ」と感じていたが、言葉には出さなかった。


 所長と運転手に感謝を述べ、守衛所にいたポセイドンの保安部員に案内されて発電所建屋の中に入って行った。そのクルーは中央制御室にいるカスター少佐に、ネール少佐が到着したことを連絡した。

 途中には、ポセイドンの保安部員が警備に当たっているらしく、その都度敬礼をしながら廊下を歩いて行った。案内役のクルーからこれまでの仮普及工事の進捗状況についての概要を聞かされた。

 なるほど、こんなスピードでは四十八時間以内にすべてのチェック項目を確認することは無理だろう。また、それでトラブルの原因が突き止められればいいが、その保証もない。だから、艦長は私を呼び寄せたのかと少佐は推察した。



 ― ムンバイ原子力発電所の中央制御室 ―


「ただいま、到着しました。艦長」とネール少佐は艦長に敬礼し、遅くなった理由を話そうとしたところ、艦長から遮られた。


「そんなことは後でゆっくり聞かせてくれ。それよりあのパネルとデータを見てくれ。それと、あちらで作業の指揮をしているのは、ここの責任者のジェフー制御室長だ」


「ジェフー制御室長、はじめましてポセイドンの機関部長をしているネールです」


「あ、どうも。ジェフーです。取り込んでいますので失礼します」


 艦長と副長はそろってネール少佐の顔を見た。副長が言った。


「見ての通りだ。彼らはいっぱいいっぱいだ。今日は徹夜作業になるだろうが、明日以降の作業に支障をきたさなければいが、中には体の変調を訴える者も出てくるだろう。ドクターのグスタフ少佐がホールに仮設ベッドを並べて、そうした事態に備える準備をしている。保安部のカスター少佐は、こうした事態に乗じたテロや原発反対者の不法侵入、発電所員の職場放棄を監視している」


 ネール少佐は、ポセイドイでは機関部のホフツ大尉を中心に非常時に備えて、出動できるよう、人員と備品も含めた準備をしていること。インド海軍の港湾事務所長の計らいで、機関部員の輸送のためのトラックを確保すべく調整中であることを報告した。


「さすが、ネール少佐だな。待機時間の間でインド海軍の支援を依頼するとは」とビスマルク副長は緊張していた表情が少しほぐれて少佐に向かって言った。


「しかし、副長。インド海軍といえども、もし、発電所で放射能漏れなどの非常事態が発生したら、インド陸軍と強調して人員と物資を供出しなければならないでしょうから、全面的に当てにはできません」とネール少佐は小声で釘をさすように言った。


「そうだな。やはり、原子力の素人集団の我々ポセイドンで踏ん張らなきゃならないな」と副長は再び緊張した表情に戻って言った。


「そのとおりだ。素人とはいえ、これは任務だ。出来るだけの支援をしようじゃないか。ところで、ネール少佐。チェック項目の進捗は現時点では二割程度らしい。今夜徹夜しても明日の一日ですべて完了するとは、とても考えられない。ここの発電所の設計者でもあるナイク副所長もそれくらいはわかっているはずだ。しかし、何の対応もされていない。一度決めたチェック項目を最後までやらないと気が済まないのか。燃料の循環パイプ内の圧力は上昇続けたままだ。午後七時に進捗の確認と今後の作業予定につい発電所側と打ち合せを磨る予定だから、ネール少佐も出席してくれ。それまでに原子炉の状況を把握し、打開策がないか検討しておいてくれ。場所は、この中央制御室の隣にある会議室だ」


「わかりました。副長。」と答えたものの、少佐の気持ちはどうしたものかわからず、暗く沈んだままだった。そのように指示した副長も、艦長も専門外のネール少佐を巻き込んで済まないという気持ちは同じだった。艦長は少佐に近づき、右手を少佐の右肩の上に軽く置き、小声で話しかけた。


「うーん、ネール少佐。君の気持はわかる。いや、わかっているつもりだ。しかし、専門家であるネイク副所長ら発電所側の対応では、どう見ても効果をもたらすことができそうにないと感じられるのだ。・・ポセイドン側は、警備や医療面で支援しているが、肝心の技術面では何の助けもしてやれないのが現状だ。・・そこで、君の力が欲しいわけだ。発電所側と同じようなアプローチではない、別の発想からこの事態を見据えれば、何かきかっけやアイデアが出てくるのではないか」


「別の発想ですね」


「そうだ。・・頼んだぞ」


 そんな会話を聞いていた私(観戦武官の島中佐)はネール少佐に言った。


「少佐、私も無責任な事しか言えませんが、ある英国の作家がこんな事を言っている『異端として始まり、迷信として終わるのが“新しい心理”の習慣的運命である』、また、私の母国日本では『為さざるは勇無きなり 為して成らざるは 智なく信なきなり』と言った作家がいる。どちらも今の少佐にとって厳しい言葉だが、この言葉は同じような境遇を経験して生まれたものであるということだ。決して君一人だけじゃない。多くの先人たちが立場こそ違えども直面し、乗り越えたからこそ生まれた言葉なのだ。あと二日後の君がどんな言葉を言うのか楽しみにしている」


「島中佐、ありがとうございます。正直なところ胸に重りがありましたが、今の言葉を聞いて少し軽くなったような気がします。・・考えてみます。異端者として」


 私はこんな状況の中で、自分の言葉を受け入れてくれた少佐の度量に感心した。そして、少佐は制御盤の方へ行き、原子炉の構造や既に確認済みのチェック項目の報告について、一心不乱に目を通した。



 ― 原子炉建屋の四階 ―


 ネール少佐が発電所に来たことなど知る由もないナイク副所長は、二人の技術員といっしょに冷却配管の確認作業を行っていた。ここは先程の三階とは違い、冷却用の純水が流れている配管が並んでいるので、気温は比較的低く、作業しやすい環境下にあった。


「どう、そっちの冷却配管は? こちらのA配管は流量、圧力とも基準値の範囲内だわ。中央制御室で表示されている数値とも一致している。問題なし」とナイク副所長は他の技術員に声をかけた。


「こちらのB配管は、流量、圧力とも基準値を超えています。わずかですが。中央制御室の数値は基準内ギリギリで治まっているようです。どういうことでしょう」


「こっちの冷却配管Cも同じです。流量、圧力とも基準値を超えています。Bと同じで中央制御室の数値は基準内ギリギリを指しています。どっちが正しいのでしようか。副所長」


「わからないわね。燃料の循環パイプの圧力と温度が高くなったから、それを冷却するために冷却配管に負荷がかかることは正常だけど。現場の数値と中央制御室の数値が異なるなんて、あってはならないことよね。異常だわ」


「仮に現場の数値が正しいとしても、この程度の圧力であれば、配管から純水が漏れ出すこともないと思います。ただ、問題なのは数値の違いです。これでは、どれを信じていいかわかりません」と技術員が言った。


 悩んでみてもどうしようもないので、ネイク副所長は中央制御室に連絡を取り、事実確認した。すると、中央制御室で表示されている数値は、ここで見ている中央制御室の数値と同じだった。つまり、現場の数値と中央制御室の数値の二種類が存在することになる。計器の仕組みとしては、現場の計器が数値を読み取り、そのデータを中制御室に送っているから、理論的に異なる結果が出るはずがない。しかし、現実に出ている。中央制御室の計器盤の故障か、データ連携システムのエラーなのか。その原因を突き止めるには、原子炉を停止してオーバーホールして確認するしかない。しかし、現実的にそんなことは定期点検時にしかできないし、今は原子炉そのものが制御不能に陥っているから、やりたくてもできない状況なのだ。


 三人はほぼ同時に脱力感に襲われた。先程までの休憩なしの点検作業の疲れと、拠り所とするものの喪失という精神的な疲労がそうさせたのだ。それでも気丈なナイク副所長はハンディターミナルを取り出して、三階の冷却配管の数値の不一致を入力した。

それから、中央制御室に連絡を入れた。三階F地区の冷却配管の第二バルブを閉めた結果、原子炉の温度上昇が発生するか、危険なテストをしていたが、その結果の連絡がまだないので気になったのだ。


「こちら、原子炉建屋三階のナイクよ。ジェフー、三階F地区の冷却配管の“上り”の第二バルブは閉めたままだけど、原子炉の温度上昇には変化あったの?」


「ええーと、連絡が遅くなってすいません。いろいろとたてこんでいまして。温度上昇は続いていますが、第二バルブを閉めたことで上昇率が高まった形跡は今に至っても計測されていません。温度上昇率はほぼ一定です」


「どういうこと。冷却配管のバルブを閉じれば、その分原子炉の冷却能力が落ちるから温度上昇がその時点から急激に上昇するはずなのに。・・・冷却配管は機能していないってこと」


「・・・」


「今、三階の冷却配管を確認していたんだけど、A、B、Cの配管のうちAは現場の計量器の数値と中央制御室の数値は一致したんだけど、BとCは数値が異なるのよ。中央制御室の数値は基準値内なんだけど、現場の計器では基準値を少し超えているのよ。これってどういうことなの」


「わかりません。システム構造上では、現場の計器のデータが優先されるので、それに故障がない限り、現場の計器の方が正しいことになります」


「そんなことはわかっているわ。問題はなぜ中央制御室に現場のデータが届いていないのかなのよ。これでは、いくらチェックしても正しいとする拠り所がないから、チェックの意味がなくなるわ」


「おっしゃることはわかりますが、現状ではどうすることもできません。システムを全停止しなければ確認のしようがありません」


「そうね・・・」


「副所長、これまでのチェック項目の進捗状況はまだ二割程度ですが、その中でいまの冷却配管B、Cのように現場の計器の数値とこちらの数値が異なる例がいくつかありました」


「ええ、進捗率が悪いのはハンディターミナルで見ているわ。でも、数値が異なる例が他にもあるというけれど、具体的にどんな所の計器なの。ジェフー」


「ちょっとお待ち下さい。検索してみます。・・出ました。機能別に分類してみると、一番多いのは燃料循環パイプの循環用ポンプですね。回転数と負荷電力に数値の違いが発生しています。そのうえ、設計上のポンプより性能の少し落ちるポンプが設置されているケースもありました。それから、同じく燃料循環パイプの流量計と圧力計です。次は冷却配管の循環用ポンプです。これも燃料循環パイプと同様で、設計より性能が悪いポンプが設置されている例があります。ほかにもいくつかありますが、チェック項目を優先順位の高いもの順にしてあるせいか、原子炉にとって重要な機能に問題があることがわかりました」


 これを聞いたナイク副所長は、設計上の仕様とは異なる部品が納入されていることに、またもや怒りと失望を感じた。いったいこの発電所は何のために作ったの? トリウム原子炉という新しい技術開発のためではなかったの? それともインド科学省のおもちゃ? やるせなさに支配されそうになったが、気を取り直して中央制御室のジェフー室長に言った。


「よくわかったわ。この発電所は欠陥品だらけね。それも返品のきかない。・・私たちで欠陥を直すしかないみたいね。三階の冷却配管の“上り”の二次バルブを開けるわ。閉めたまにしておくわけにはいかないから。今回のチェック項目の“結果欄”は“閉鎖による変化の観測値は得られず。ただし、計測器の信頼性が低いため、実際の変化については確認不能”くらいの記述かしら。任せるわ」


 そして、副所長は技術員の一人に三階の冷却配管の二次バルブを元に戻して閉鎖を解除するよう指示した。彼はすぐに今、上がってきた階段を下りて行った。


 三階へ下りて行った技術員が戻るまで、ナイク副所長は脱力感で冷却配管の上に腰かけた。うつろな目で配管の表面をなでるようにしながら、頭の中は何も考えられない状態だった。


 まもなく三階へ下りて行った技術員が戻ってきて、副所長に報告した。


「二次バルブを元通り“開”にしてきました」


「そう、ありがとう。御苦労さま」


 そのやりとりを聞いていたもう一人の技術員がナイク副所長に言った。


「副所長、どうします。これから」


 その問いに対して、ナイク副所長は技術員の言いたいことはわかっていたが、気持ちを切り替えて、再び技術者魂を奮い立たせ、二人の技術員に向かって言った。


「行きましょう。次のチェックポイントへ。虚しさは横に置いておいて、私たちは早く原因を突き止めるの。そうしないと原子炉が危ないわ。原子炉は私たちの虚しさを理解してくれて、正常に戻ってくれることは絶対にないから。私たちがしっかりしなきゃいけないのよ」


 その言葉に二人の技術員は勇気づけられ、お互いの顔を見て決意を確認し合った。


「副所長、次のチェック項目はこの三階の向うに設置されているキュービクルの中の各計器類の確認作業です」


「キュービクルね。また、さっきみたいにIDカード式ではなくて、鍵式になっているかもしれないわね」


「その時でも大丈夫です。さっきみたいにマスターキーを持っていますから」と技術員がマスターキーを手に持って副所長に振って見せた。


「じゃ、安心ね。行きましょう」


 キュービクルの場所を確認した。ロックはIDカード方式だった。技術員の一人がIDカードを認証盤にかざしたが、キュービクルの扉のロックは解除されない。カードを裏返したり、逆さにしたりしても結果は同じだった。見かねたもう一人の技術員が自分のIDカードで同じようにやっても開かない。最後のナイク副所長が何度もやってみたがやはり開かなかった。


「どうしましょう。扉のガラス部分だけでも割って、何とか手を中に入れて手動で開けれないかしら」


「それは最後の手段に取っておきましょう。ひょっとしたらIDカードを認識する電源が遮断されているのかもしれない。三人のカードでも開かないなんてあり得ないですから。電圧チェッカーで調べてみます。ライトを左側から当てて下さい」


 技術員は電圧チェッカーについている二本の金属端子をIDカード認証盤の端子に

つないだところ、案の定、電圧はゼロ。これではIDカードで開くわけがなかった。


「じゃ、さっき言っていた最後の手段の準備をする?」とナイク副所長は技術員に確認するように尋ねた。


「いや、キュービクルがありますから、必ずこの近くに電源ケーブルが来ているはず。ハンディターミナルでこの辺の図面を呼び出して確認します。電源ケーブルの場所さえわかれば、後は接続するだけで私のIDカードで開けることができます。・・・・ええーっと、キュービクルの背後の壁、その先は隣の男子トイレの天井からケーブルが来ている。よし、男子トイレの天井なら開口部があるだろうから、そこから天井に上り、電源を確保できるぞ。脚立はあるな?」


 もう一人の技術員に脚立の確認をした。幸いなことに男子トイレの照明は生きていて、室内に入ると自動的に照明がついた。これなら間違いなく電源がここまでは来ていることの証明である。


「悪いけど、私はここには遠慮させてもらうわ。あなたたち二人で大丈夫よね」


 ナイク副所長は、男子トイレに入りたくなかった。二人の技術員が苦笑いしながら、大丈夫であるとの手振りを副所長に送った。


 開口部はすぐに見つかり、脚立をおいて一人が支え、もう一人がそれを上って、開口部の天板を開け、天井裏にもぐりこんだ。天井裏には照明はないので、懐中電灯で電源ケーブルを探すしかなかった。暗いせいもあるがなかなか見つからない。普通なら、天井を支える梁の部分に沿って、ケーブルを固定するか、フックにかけてあるはず。容易に見つかると予想していたが、思わぬとことでつまずいてしまった。


「おい、どうだ。まだ、見つからないのか」と脚立のそばにいる技術員が大きな声で尋ねた。


「ああ、いったいどこに設置したのか。図面では男子トイレを横断して、まっすぐにキュービクルに向かっている。だから、この辺にあるはずなんだが、何もない。移設したような形跡もない」


 そんな二人の会話を聞いていると不安になってきたナイク副所長は、男子トイレに入ってきた。別にのぞきをするわけではないので、倫理上問題ないし、それに、入ったことのない種類の部屋だったので、彼女には下世話な興味も少しあった。普段からあまり使われていないせいか独特のにおいがした。芳香剤も置いていないし、「入るんじゃなかった」と彼女は心の中でつぶやいた。


「どうなの。電源ケーブルは見つからないの? こんなことで時間をかけてられえないわ。せっかく天井裏まで上がってもらったけど、さっき言っていた最後の手段を取るしかなさそうね」


「あ、見つけました。何で隠すようにわざわざ梁の下側に付けたんだ。工事したヤツの気がしれない。・・・ケーブルを接続した。今度は延長コードをキュービクルの分電盤につないでくれ」


「わかったわ。私がつなぐわ」


 ナイク副所長が男子トイレから出た瞬間、トイレの中の照明はすべて消えた。人感センサーが彼女の退出を感知して、省エネのために照明をすべてオフにしてしまったのだ。


 脚立のそばにいた技術員はトイレの中で手を振って歩いて、センサーに感知されるよう動いた。すると、照明は元に戻った。


「ハハハ、あら、ごめんなさい。笑っちゃって。肝心な機器の設置はいい加減だけど、こんな所はちゃんとできているのね」とナイク副所長は久しぶりに緊張がほぐれ、本当におかしかった。


 天井裏から技術員が脚立で下りてきて言った。


「まったく、こんなことぐらいでも手が掛りますね。・・でも、どうも変だ。普通はあんな場所にケーブルを設置するはずないのに、ひょっとして向きを間違えて梁自体を設置したんじゃないかな」


 その言葉に、もう一人の技術員と副所長は顔を見合わせ「また、施行ミスか」と、深刻な表情になった。


 その後は、二人の技術員が手際よく電源ケーブルを接続させ、キュービクルの扉を破壊せずに開けることできた。中にある計器類はどれも正常値を示していた。ここは大丈夫であった。その時、ナイク所長はハンディターミナルで時刻を確認した。


「あら、もうこんな時刻だわ。七時から合同の打ち合せがある。・・ごめん、私、会議室へ行かなきゃならないわ。その前に現状のチェック項目の進捗、問題点、トラブルの原因となるような個所の抽出もしておかなきゃならない」


「それじゃ、もうあまり時間がない。副所長、後は我々二人がやりますから、すぐに戻って下さい。後のことは大丈夫ですから」


「ありがとう。後はお願いね」


 するともう一人の技術員が言った。


「副所長、会議室に行く帰り路はわかりますか。ここまではハンディターミナルに指示された順にチェックポイントを移動してきましたが、その逆パターンのルート設定は、ここを押してこうすれば画面表示されますが、現実の印象とはずいぶん異なります。そのうえ、照明も不十分ですから迷う事もありますよ」


 それを聞いたナイク副所長は、自分の設計した発電所だから大丈夫と言いたかったが、通路や連絡回廊まで覚えている訳ではないし、普段から点検のために現場に足を運んでいたわけでもない。正直、不安になってきた。会議までの残り時間はあまりないことが余計に彼女に不安をかき立たせた。その表情を見て取った一人の技術員が言った。


「わたしといっしょに戻りましょう。そうすれば確実に会議室まで案内できます」


 ちょっと考えたナイク副所長だったが、彼からの申し出を断った。


「ありがとう。でも、点検作業は二人以上の体制で行うのが、ここの保安規定でさだめられているわ。あなたがいなくなると、その時点で点検作業が止まってしまう。時間がもったいないわ。往復するから、私が会議室に行く時間の二倍の時間を無駄にすることになる。気持ちはありがたいけど、私一人でも大丈夫よ。何とかなるわ」


 彼女は気丈にそう言ったものの、正直なところ不安だった。迷った時に、近くに技術員がいればいいけど、そんなうまい具合にはいかないもの。誰かを呼ぼうにも、自分の位置がどこなのかわからないかもしれない。しかし、今はそんな弱気な事を言っている余裕はない。“当たって砕けろ“の気持ちでいくしかないと思った。左肩に器具を入れたトートバックを下げ、右手に医療用機材を入れた大きなバックを持ち、ハンディターミナルを頼りに会議室へ行こうとした。


 そんな副所長の心中を察したのか、一人の技術員が副所長に声をかけた。


「副所長、これを付けていて下さい」と、自分の左手から時計の形をした計器を外して、彼女に説明した。


「これは、方向探知機です。GPS機能で現在位置がわかります。それから目的地をセットしてやると、そこまでのルートを示してくれます。ここまではハンディターミナルの機能と同じですが、私がカスタマイズして、立体映像の情報を入れてありますので、要所の映像を見ることができます。特に階段とか、非常用連絡通路など立体的な情報が欲しい場合には役に立つと思います。装着場所は右手首でいいですか」


 そう言って、技術員は彼女の前に膝まずいて大きなバックを持ったままの右手首に、時計を付けるようにしてその計器を取り付けた。


「ありがとう。うれしいわ」


「・・なんだか、嫁さんへの婚約指輪を贈った時のことを思い出しましたよ」


「こんなふうに婚約指輪を贈ったの? とてもロマンチックね」


「・・でも、これは婚約指輪じゃないし、ここはチャペルでもない。・・どうか気を付けて。来た時と発電所構内が同じ状態に保たれているとは限りませんから」


「ありがとう。それじゃ行くわ。あなたたちも気を付けてね。無理しちゃだめよ」


 そう言って、副所長はキュービクルから駆け足で今来た路を戻っていった。一方、残った二人の技術員は次のチェック項目の場所へと、彼女が向かった方向とは反対方向へ移動していった。彼らが去った後には、無言のキュービクルの金属製の箱が彼らの今後を見守るのでもなく、ただ同じ場所に運命的に直立していた。



 ― ムンバイ原子力発電所の中央制御室 ―


 ネール少佐は制御盤やこれまでのデータを見てもさっぱり意味がわからなかった。わかるのは、パネルの赤色の点滅が異常を示しているのだろうということくらいだ。


「やっぱり、ポセイドンのメカニズムとはまったく別物だ。動物と植物の違いほどの隔たりがある。・・・どうしよう。ノーアイデアだ。もうすぐ発電所の幹部との打ち合せが始まる」

何にも言えないであろう自分に焦りだけが先走った。


 中央制御室にいても、自分の居場所がない感じなので、トイレに行った。


 トイレに入ると、清掃婦が便器の掃除をしていた。少佐が用を済ませても、彼女は同じ便器と格闘している。普通の掃除ではない。便器の不具合を修理している様子だった。


「詰まったのかい?」


「ええ、でももう大丈夫。・・これでよしと」


 清掃婦は人感センサーを“オン”に戻して便器から離れたら、水が流れてきて詰まることなく吸い込まれるように流れていった。


「これで直ったわ」


「詰まりの原因は、ガムとか異物が入ったからなのかい?」


「さあ、そんなんじゃなかったわね。自然に排管が詰まっただけじゃないの」


「それじゃ、原因がわからなくても直してしまうのかい」


「私たちの仕事は、原因を見つけることよりも結果がすべてなの。うまく水が流れればそれでいいのよ」


「でも、原因がわからなければ修理方法がわからないじゃないか」


「そんなの、経験と勘よ。いちいち難しいことを考えているヒマなんて、私たちのような仕事にはないの。手際よく早く修理しないとね。わかるでしょ」


「そりゃあまあ、・・・・・」


「珍しく、発電所の職員の人と話をしたわ。おかげでここでの時間がかかっちゃったけど。あなたとの話は面白かったわ。でも、あなたはここの職員さんなの? ちょっと他の人と雰囲気が違うけど」


「私ですか。私は・・」


「さあ、次の所へ行かなくっちゃ。定時までに終わらないわ。それじゃ、またね」


 そう言って、清掃婦はトイレから出て行った。


 トイレの中で独り立ちつくすネール少佐だった。その時、彼の頭の中にある閃光が走った。


「原因ばかり追い求める事がすべてじゃない。結果に結びつくことが、急ぎの場面では求められる」


 そして、ネール少佐は考えた。原子炉の燃料循環パイプの圧力と温度を下げるにはどうすればいいかと。


 少佐は急に走ってトイレから出て、中央制御室に戻った。そして、電子図面を検索し、循環パイプが外部に露出している場所で、そこを加工してパイプ内のトリウム溶融塩を重力で抜き出せるバルブがないか探すため、その条件を入力して検索した。結果はすぐに出た。数か所のポイントをコンピューターは抽出した。その画面を一つずつ見ながら、三次元でわかるように、想像しながら紙に手書きしていった。


 ひととおり見たものの、どこも人間がパイプまで接近してバルブを開け、燃料を流出させることができるような場所はなかった。


「人間は近づけない。パイプから距離を取って遠隔操作できるロボット。・・そんな精密さとパワーを求められるものはない。・・・何か・・・弾丸ッ」と少佐の頭の中で閃いた。


 銃の弾丸でバルブを破壊できれば、パイプから燃料を流出させることができるかもしれない。しかし、バルブを吹き飛ばすくらいの威力のある銃などあるだろうか。対戦車砲では大げさすぎるし、象撃ち用のライフルくらいなのか。また、入手できたとしても、弾丸が外れて他の場所に当ったら、予想もつかない事態に発展するかもしれない。大きなリスクがある。


「結果を求めて自分が出せる答えはこれくらいしかない。バルブを何箇所か破壊できれば、原子炉の圧力と温度を下げられる可能性は十分ある」と少佐は発想を変えたひらめきで、一つの解決法をたぐり寄せた。


 この仕事に合う銃はインド海軍に調達してもらおう。どんな種類の銃がバルブの破壊に必要なのか。コンピューターで検索すれば候補を抽出してくれるだろう。次の問題としては、その銃を誰がバルブ近くまで運んで行って命中させる腕前があるのだろうか。命中してバルブが破壊された瞬間に被爆する可能性が高い。それを防ぐには放射線防護服を着用して銃を撃つしかない。それに加え、発射する場所は狭くて暗い場所かもしれない。これほどの悪条件が重なりあっても命中させることのできる狙撃手はいるのだろうか。・・・少佐の頭の中には、湧き出るアイデアとそれを否定する現実が葛藤していた。


 そんなネール少佐の様子を私(島中佐)は注視していた。なんとか解決のヒントをつかんでいるが、それには乗り越えなければならない条件も同時に思いついている。私にはそう感じられたので少佐のそばに近づき、話しかけにくい雰囲気だったが思い切って少佐に声をかけた。


「少佐、どうした。何か思い付いたのかい?」


 ハッとした表情で少佐は私の顔を見た。


「ええ。ただの思い付きですが」


「何なんだ。聞かせてくれないか。今はどんな計画でも全員が渇望している」


「・・銃で循環パイプのバルブを破壊して燃料を流出させれば、原子炉の圧力と温度を下げることができるはずです」


 私(島中佐)は銃でバルブを破壊するという発想に驚いた。これまで、技術員たちは原子炉の圧力と温度の上昇原因ばかりを追求してきたが、少佐の案は逆転の発想だ。演繹法と帰納法の違いに近いものがある。

 確かに循環パイプから燃料のトリウム溶融塩を流出させれば、原子炉内圧力と温度は正常値に近づくだろう。しかし、原子炉建屋内で銃を使う事は、命中せずに他の機器を損傷させてしまうリスクも考えておかなければならない。それに、バルブを破壊できる威力のある銃がポセイドンにあるのか。そんな重い銃をもって、中に入っていけるのか。そして、命中させる技量のある者がいるのか。


 私の頭の中はそんなことを考えて、しばらく言葉を発することができなかった。


 そんな私の様子を読み取ったネール少佐は言った。


「やっぱり、無茶苦茶な計画ですよね」


「いや、そんなことはない。私が思いつきもしなかった事なので面食らっただけだ。クリアすべき課題があるが、みんなで相談すればその解決の糸口が見つかるかもしれない。“三人寄れば文殊の知恵”だよ。まず、艦長と副長に相談してみよう」


 そんな私たちのやりとりを聞いていたのか、艦長と副長が私たちの所へ寄ってきた。艦長は少佐に尋ねた。


「立ち聞きしてしまったが、何か解決方法が見つかったのか」


「・・・・・」


 今度は副長が、「どんなことでもいいのだ。それがヒントになって新たな展開に発展することだってある」とゆっくりした口調で少佐を諭すように語りかけた。


「はい、笑わないでください。・・要は原子炉内の圧力と温度下げることが目的ですから、燃料の循環パイプから燃料を流出させればいいんです。それをなんとかドレインタンクに入れればなおいい。問題はどうやって流出させるかです。これまでもバルブを遠隔操作で開けようとした作業はしたようですが、コンピューターのエラーのせいなのか作動しませんでした。そこで、バルブを破壊できる威力のある銃でバルブを破壊し、燃料をそこから下へ重力だけで流れださせるのです。狙撃すべきバルブのいくつかのポイントは把握してあります。また、銃の選定はインド海軍の協力が必要です。あとは誰が狙撃手として現場へ行くかです。それもインド海軍に推薦してもらうしかないかと」


「なるほど、その方法自体は理論的には可能だが、実際に実行するとなると課題がいくつもあるな」と副長は冷静に分析している。


「課題とは何だ? 副長」とティエール艦長は尋ねた。


「まず、原子炉建屋内には銃器等の持ち込みは禁止されていますから、発電所側がこの計画を受け入れてくれるよう説得すること。次に、狙撃ポイントごとに弾丸が命中しなかった場合のリスクを計算して、リスクの低いポイントの順位をつけること。次に銃の選定。次に被爆対策を施した条件での狙撃手の選定。最後に流出させた放射性物質の塊のようなトリウム溶融塩を如何に安全な場所に隔離させるか」


 私(島中佐)が懸念した課題と一致していた。よけいにこの計画実行の難しさが感じられた。


「なるほど。・・課題は多いが、我々だけでは要領を得ない専門外のことだ。まもなく発電所の幹部との打ち合せがあるから、そこで方法を説明して、同時に抱えている課題も相談して発電所側にも協力してもらおう。・・もっとも、発電所側から有効な方法が提案されればそれに越したことはないが。・・実際には望み薄だろう」


 艦長の予想に呼応するように、ビスマルク副長が言った。


「確かに無謀とも思える案だが、原因を見つけることに我々は固執し、時間と労力をかけ過ぎてしまった。行き詰った時には繊細な作戦よりも、大胆な作戦の方が有効かもしれない。人を殺傷するための弾丸によって現状が打開されるのは、皮肉な話だな。・・・今から二千年以上前の史実で、ポエニ戦争というローマとカルタゴの戦いがあった。敗軍の名将ハンニバルは、“カンネ―の戦い”でローマ軍に押されて劣勢だったカルタゴ軍を率い、陣形の後方に配置させていた強力な騎兵隊で奇襲をかけ、ローマ軍を破った事例がある。あるきっかけで形勢が逆転する言い事例だ」


 さすが、博学の副長らしい引き合いの出し方だ。この話で奇策とも思えるネール少佐の作戦が現実的なものに思えてきた。


「はい、わかりました。話を聞いてもらえてモヤモヤした気分が少しスッキリしました」


 ネール少佐は緊張がほぐれた表情で言った。そんな所へ、七時からの会議に出席するために、保安部のカスター少佐と、ドクターのグスタフ少佐がやってきた。


 ティエール艦長はネール少佐の提案を実行すべく、より具体的なポイントを確認するために、我々全員に向かって言った。


「まず、銃の手配だな。バルブを破壊できる銃はどんな銃で、ムンバイで入手できるか。次に、その銃を使ってバルブに命中させることができる狙撃手がいるか。という問題がある」


 ネール少佐が答えた。


「銃については、いくつか候補を選出しました。カスター少佐、見て下さい」


 保安部長のカスター少佐は、ネール少佐の差し出したモビルPCに出ているリストを見て言った。


「どんな条件で検索した?」


「設計図面から材質の強度、金属抵抗がわかります。バルブを狙撃するために、人間が接近できる距離で、バルブの強度を打ち破る破壊力を確保する条件をコンピューターで解析しました」とネール少佐は説明した。


「どうだ、カスター少佐。それらの銃でバルブを破壊できそうか?」


「ええ、どれも威力のある狙撃銃です。ただ、これをムンバイで入手できるかどうか。ポセイドンにはこれらのどれも搭載していません。通常の狙撃用の銃はありますが」


「やはり、インド海軍に照会してみようと思います」


「インド海軍ならばそれらの銃のうち一つくらいは保有しているかもしれない。しかし、そんな依頼ができるツテでもあるのか、ネール少佐。まともに依頼しても、軍はそんな簡単には動かないぞ。許可を出すのに時間がかかり過ぎる。発電所から依頼しても同じだろう」と副長は言った。


「うむ、副長の言うとおりだ。インド政府を通して調達するやり方もあるが、そもそも原子炉の近くで、威力のある銃を発砲するなど絶対に許可しないだろう。なんとか、我々の手の内で入手するしかない。ネール少佐、何か手はあるのか?」


 ティエール艦長はネール少佐の提案を引き出そうとした。


「ポセイドンが係留した、埠頭の近くにインド海軍の港湾事務所がありましたよね。そこの所長と何となく気脈が通じまして、『海軍で支援出来ることが合ったら言ってくれ』と支援に積極的な発言をしてくれました。だから、所長に相談を持ちかける事は出来ます。結果はどうなるかわかりませんが」

 決意を固めた艦長は明瞭な口調で、我々に話しかけた。


「よし。では、こうしよう。副長とネール少佐はインド海軍の港湾事務所のこの件を依頼してくれ。それと狙撃手も海軍から出してもらいたいと。銃が入手できなければこの案は成立しない。銃が入手できてもいなければまた然りだ。インド海軍が銃の貸与を許可してくれたとしても、その狙撃手には被爆の危険性があるから、狙撃手は出せないと言ってくるかもしれない。・・・カスター少佐、ポセイドンのクルーの中で今回の狙撃を出来そうな者はいるか」


「・・・今回の狙撃を成功できるかどうかはわかりませんが、ポセイドンの保安部のクルーの中でライフル射撃、伏せ撃ちでも立ち撃ちでも最も優秀な者は、局地戦闘機『シンデン』のパイロットのニミッツ中尉です」とカスター少佐は答えた。副長も同様に彼の名前を挙げた。


「そうか、彼か。若い時は確かライフル射撃でオリンピックに出て、メダルを取った程の腕前の持ち主だったと記憶しているが」と艦長は確かめるように副長の顔を見た。


「そのとおりです。ニミッツ中尉はオリンピックのメダリストです」


「ちょっと持って下さい。ニミッツ中尉がポセイドンのクルーの中で最も優秀な狙撃手だという事はわかりましたが、被爆防止用の防護服を着て、ゴーグルも着用しなければなりません。防護服はゴワゴワしていますから、精密な動作を動作が要求される狙撃には大きな制約を加えることになります。その上、狙撃地点は実際に行ってみなければ、射撃姿勢が取れるかどうか、バルブが見える照度があるかどうかなど未知数の要素が多すぎます」


さらにネール少佐は続けて言った。


「普段から射撃訓練をしているのならともかく、今の彼はパイロットです。他の候補者がいても、ポセイドンの中では射撃訓練などしていませんから成功の確率はかりなり低くなるかと。やはり、インド海軍から狙撃手を出してもらう方向で依頼した方がいいのではないでしょうか」


「むろん、優先順位としてはインド海軍だ。ニミッツ中尉は、インド海軍が応じなかった場合の保険だ。そんな事態になってから彼に命じても動揺するだけだ。今から準備させておかないと。ニミッツ中尉には私から直接、事情を話そう。それから、ドクター。ニミッツ中尉の体に合う被爆防止用の防護服など一式を用意してくれ。・・では、それぞれ当ってくれ。七時に十分前に会議室で落ち合おう。島中佐も大丈夫だな?」と艦長は私に問いかけた。


「はい、会議に出席します。それまではこの中央制御室にいて、何か変化がないか見ています」と私は答えた。


 各人はすぐに自分の任務のために行動に移し、中央制御室から出ていった。ポセイドンのクルーでは私一人ここに取り残された。制御盤を見ても何もわからない。ただ、発電所の技術員の会話の口調や、警報、動作などから異変が発生したかどうかを判断するしかなかった。七時まで残された時間は少ない。難関はインド海軍だ。その協力をどこまで取りつけられるかにかかっている。ネール少佐は、港湾事務所長と気脈を通じあえたと言っていたが、その所長ががんばってくれたとしても海軍本部が動いてくれるだろうか。それと、ニミッツ中尉がバルブの狙撃をすることになったとして、初めての場所で、扱ったことのない銃で狙撃できるだろうか。失敗して、他の機器に命中して何事もおこらなければいいのだが。私がいくら心配しても何の役にも立たないことがとても歯がゆかった。



 ― 中央制御室の近くの小会議室 ―


 ティエール艦長とグスタフ少佐は、ポセイドンに連絡を取った。艦長はニミッツ中尉を呼び出し、事の事情を話した。ニミッツ中尉は初め驚きで言葉が出なかったが、覚悟を決め任務を了解し、銃の種類が決まり次第、教えてくれるよう艦長にお願いした。少しでも銃の特性を理解しておきたかったからだ。


 ドクターのグスタフ少佐は、ポセイドンの厚生部にニミッツ中尉の検診ファイルからその体格にあった被爆防止用の防護服を用意し、事前に本人に着用させ、慣れてもらうよう指示した。


「それから、中尉の狙撃完了後の放射線測定と、大量の被爆状態に備えての隔離医療施設の準備もね」


 指示を受けたポセイドンの厚生部は、想定される最悪の状態も対処できるような機材のリストアップ。発電所への搬入方法。設置場所を特定するための計画作成にとりかかった。



 ― 発電所建屋内の通信室 ―


副長、ネール少佐、カスター少佐は通信室から、インド海軍の港湾事務所長に協力を要請するために、テレビ回線を使って連絡を取った。顔がお互いわかる方がこちらの窮状を理解してもらえるのではないかとの判断からだった。


「所長、ポセイドンのネールです。先程は発電所まで送っていただき、ありがとうございました。早速ですが、所長にお願いがあります」


「どうしたんだ、少佐。その様子だと緊急のようだな」


「そうです。結論から言いますと依頼が二点あります。第一は、これから銃のデータを送りますから、海軍の銃を我々に一時貸与して下さい。・・第二は、その銃に関して最高の海軍の狙撃手を我々の作戦に参加させて下さい」


「・・・では、どういう作戦なのかを説明していただきたい」


 今度は、ネール少佐に代わってビスマルク副長がテレビ回線で所長に説明した。


「副長のビスマルクです。まだ決定したわけではありません。発電所側と協議前の状態です。その案と言うのは、上昇し続けている原子炉の圧力と温度を下げるために、燃料の循環パイプの露出部分についているバルブの何か所かを銃で破壊してもらいたい。それによって、破壊した部分から燃料を流出させられれば、原子炉の圧力と温度は下がします。これは理論上の話しで、実際にやってみないと効果が出るかわかりません。・・しかし、今の段階ではこれしか方法はないのです。・・七時から発電所の幹部との打ち合せがあります。もちろん、それまでにご回答できないと思いますので、打ち合せでは、インド海軍に検討依頼してあるというつもりです。いかがでしょう、海軍の中で御検討していただけないでしょうか」


「原子炉の理論はわからないし、銃と狙撃手を海軍で用意しろと言われても、そもそも正式なルートで海軍本部へ依頼したわけではないのでしょう。誠に申し訳ないが、政治的な判断が入る要素が多すぎるような気がする。私にそれらを用意できる権限があるわけではない。車両や簡単な機材程度ならば私で何とでもできますが、今の要請はあまりに異例なものだ・・・。でも、時間がないのですね。・・・では、銃のデータと各狙撃地点の図面、狙撃に必要な機材、狙撃手への被爆の可能性、狙撃後のリスクなど資料を送っていただきたい。そのうえで、海軍本部へ出動要請お説明しましょう。私ができるのはそれだけです。これも実際にやってみないとどうなるかわかりません。もう一度、確認しますが、それしか方法はないのですね。ポセイドンでは一切、対処方法がなく、インド海軍に頼るしか方法がないと」


「ポセイドンの保安部長のカスターです。現時点ではその通りです。それ以外の効果的な方法が発電所側から提示されればいいのですが。我々も発電所の中央制御室にいましたが、それらしい動きはありませんでした。・・先程の作戦は銃なくしては成立しません。ポセイドンにはこれに必要な銃は搭載しておりません。また、狙撃手という任務をもったクルーはいません。ただ、狙撃が比較的得意なクルーはいますが、軍の人に比べれば素人同然でしょう。これが現状です」


「わかりました。正直、気の進まない要請だ。ところでネール少佐。これは“異端”の作戦といえるのか」


「そうです。まさしく“異端”です」


「“異端”の度合いを通り越しているようにも思えるのだが」


「“異端”に程度の差はないでしよう。だから、“異端”」


 所長は少し苦笑いを浮かべ、艦長に随時、関連資料を港湾事務所に送るようにと言った。海軍に動きがあれば発電所に連絡してもらうことにした。


 ティエール艦長はテレビ回線を切った後で、ネール少佐に尋ねた。


「さっき、所長との会話の中で“異端“という言葉がお互いによく出てきて、キーワードのような感じがしたが、何かそこに意味があるのか」


「“異端”ですか。ええ、どうってことないことですが、今日、ムンバイで私が経験したことから所長との会話の中で出てきた言葉です」


 艦長は何かもっと深い事情がありそうだなと思ったが、それ以上の詮索はしなかった。頭の中を切り替えて、艦長は我々に言った。


「さて、もう七時だな。会議室に行こうか。まず、発電所側の報告を聞き、対策がないようならば、この計画を話してみよう。さっきの所長以上に反発することが予想されるが、説得するしかない。発電所の抵抗に負けてしまったら、このままの状態が継続して原子炉溶解になりかねない。そうなってしまっては、すべてがおしまいになる。なんとしても放射能汚染からムンバイを守らなければならない。根気よく発言してくれ」



 ― ムンバイ原子力発電所の会議室 ―


 八月十一日 午後七時。我々は会議室に入った。発電所の幹部であるミトラ所長、ナイク副所長、ゴズワミ技術部長の三人がすでに座って待っていた。もう少し多くの技術員が出席するのかと私は想像していたが、現場の対応で忙しいのだろう。我々六人は、彼らの反対側にすわった。数の上では二倍だが、うまく彼らを説得できるだろうか。


 まず、口を開いたのはミトラ所長だった。


「これまでのポセイドンの皆さんのご協力に感謝します。保安や医療の面での人員不足を補っていただきました。おかげでチェック項目の確認作業に発電所の技術員のほとんどを投入することができました。チェックの進捗はまだ四割未満ですが、今夜は交代で徹夜作業します。ポセイドンの皆さんは明日に備えて休んでください。体育館の固い床の上で申し訳ないが、シュラフは用意しました」


「所長、そんなことより、そのチェック作業による原因を突き止めて、解決策を計画する目途は立っているのですか」


「いや、それはまだ。だが、そのために発電所員一丸となってがんばっているのです」と所長はナイク副所長をチラッと見て答えた。


「所長、皆さんのがんばりは中央制御室を通して見ていましたから、よくわかっています。・・しかし、がんばりだけでは解決できない事もあります。原子炉に関しては素人の我々が言うのもおこがましいが、今日の作業の様子を見た限り、明日中に光明が見出せるとは思えないのです」


 この時、ナイク副所長の眼光が一瞬厳しくなった。艦長は続けて説明した。


「そこで、原因追究の作業方針を見直してみてはどうかと考えました」


「艦長は見直すとおっしぃましたけれど、作業計画は発電所側が考えだしたもの。これに代わる作業計画はないと御見ますが。まさかポセイドンの皆さんで考えた作業計画があるのかしら。最初に言っておきますけど、みなさんの知見ではそれは無理かと。・・失礼」とナイク副所長は艦長に異論を唱えた。


「もちろん、作業計画自体を見直すと言っているのではありません。原因追究に集中した方針を転換した方がいいのではないかと言っているのです」


「具体的にどういう事でしょう」と、ゴズワミ技術部長はティエール艦長に問うた。


「燃料の循環ポンプのバルブを破壊して、燃料のトリウム溶融塩を外部に流出させるのです。そうすれば原子炉の圧力と温度が理論的には下がるはず。破壊すべきバルブの場所は数か所を抽出しました。後は破壊する作業に適しているか、流出した燃料をうまくドレインタンクへ導いていけるか、それを発電所の皆さんに判断していただきたい」


「破壊?」と所長が呆気にとられたような口調で小さくつぶやいた。


 発電所側の三人は考えてもみなかったその言葉に驚いて、互いの顔を見合わせた。


「確かに燃料を循環パイプから抜いていけば、原子炉内の圧力と温度は下がるわ。そのために循環パイプのバルブを破壊するとは、具体的にどうやるのかしら」とナイク副所長は質問した。


「銃で狙撃して破壊します」


 艦長はそれだけ言うと、次の説明をネール少佐に譲った。


 “銃”という言葉にすぐにナイク副所長は反応した。


「銃ですって? 発電所内はそうした危険物の持ち込みは禁止されているわ。まして、発砲するなんてあり得ないわ」


「ですから、その許可を発電所からいただきたいのです」とネール少佐は冷静に答えた。少し興奮気味になった副所長の様子を見て、ミトラ所長は言った。


「副所長、ポセイドンのネール少佐の話を聞いてみようじゃないか」


「しかし、銃なんて。保安規定に違反しますわ。聞く意味がないと思いますが」


「規定は重視しなければならないが、このような非常時には、発電所周辺への安全最優先で手段を見つけなければならない。規定違反だろうと必要ならば、それに違反してでも違法行為を実行し、我々は処罰を受けなければならない。その覚悟が必要だ。すべての責任はこの私にあるわけだからな」


 この所長の重い発言には、副所長も沈黙せざるをえなかった。それを見て、保安部のカスター少佐が間髪いれずに説明し始めた。


「銃は、対物狙撃銃という種類の、通常の狙撃用よりも威力のある銃を使います。それでないと、バルブを確実に破壊し、燃料を流出させるほどのダメージを循環パイプに与えらないからです。ポセイドンには搭載していませんので、現在、インド海軍に一時貸与を要請したところです」


「要請って。そんなこと決まったわけでもないのに、ポセイドンのやり方は暴走気味じゃありません?」と副所長が興奮して言った。


「ご指摘はごもっとも。しかし、これから方針を決めて、海軍に要請したのでは、時間がかかって間にあわない恐れがあります。これは勝手ながら私の判断で要請しました」とティエール艦長は要請のいきさつを説明した。


「話を銃に戻します。具体的な機種はインド海軍任せですので、どんなものになるかわかりませんが、インド海軍が採用している対物狙撃銃をこちらで調べた範囲では、この『アキュラシーインターナショナルAW50』になるのかと思います。ご覧のように大型の銃です。全長一・四m、ボルトアクション方式で五連発銃です。十五kgと重いため脚を立てて発射しますので、伏せ撃ちの態勢が取れる場所でないと狙撃ポイントになりません」


 さらにカスター少佐は続けて説明した。


「銃が貸与されたとしても、問題は狙撃手です。この銃に精通していなければ正確な射撃はできないでしょう。その上、被爆防止用の防護服及びゴーグルを着用して射撃しなければなりません。その狙撃手の手配もインド海軍に要請してありますが、果たして被曝する可能性のあるこの危険な任務をやってくれる狙撃手をインド海軍が出してくれるかが未知数です」


「それでは、あなた方の計画というのは、インド海軍任せじゃないの。向うからの返事を待っているわけなの?」とナイク副所長はあきれた表情で言った。


「それしか方法はないのです。発電所の方から、インド海軍に支援を正式に要請してもらえれば、我々の要請より重いので実現性が高まると思うのですが」とカスター少佐は、発電所にも動いてもらいたい趣旨を述べた。


「少佐はこの発電所の事情をよくご存じないようね。・・ここはインド科学省の直轄の発電所なの。もちろん、商業運転していて発電した電力は送電会社に販売しているけど。・・だから、こうした問題が起こった場合では発電所には何の権限もないのよ。何をするにつけてもインド科学省の了解を得なければできない仕組みになっているの。また、彼等からの指示は絶対で、背信行為は許されない」


 これを聞いていたミトラ所長は、副所長の発言の腰を折って、制止するかのように途中から割り込んできた。


「艦長。今、副所長が言ったように我々だけでは動けないのです。消防や警察、軍に要請したいのは山々なのですが、それをインド科学省は許さないのです。だから、自分たちの手で事を穏便に解決したいのでしょう。明後日の十三日には、彼らがムンバイにあわててやってくることから、そうした事情を推察できます。よって、我々は無力なのです」


「事情はわかりました。そうなると、やはり、我々の手で何とかしなければならないな」と艦長はポセイドンの上級将校の顔を見渡すように言った。そして、今度はミトラ所長に向かって言った。


「所長、どうでしょう。まだ、完全な計画ではありませんが、銃による狙撃を許可してもらえないだろうか。保安規定の問題はあるとはいえ、もし手遅れになったら、確実にムンバイ市は汚染されてしまう。一五百万人を避難させることなど誰もできない。インド科学省がここへ来たら復旧工事が確実に前進する可能性はどうなのですか」


「・・・わからない。・・あんな役人が来ても、ああしろ、こうしろと指示するだけで最後は発電所の初期対応が悪かったからこうなった。自分たちには責任がないというような逃げ方をするでしょう」と所長は自嘲的に言った。


「それなら、今のうちに手をうたないと。銃でバルブを破壊する方法を前提にして、具体的なポイントを打ち合せしてもらえないだろうか。・・狙撃ポイント、その優先順位、効果的なバルブの破壊すべき箇所、狙撃手との通信回線確保方法、被爆した場合の応急措置方法など思いつくだけでもこれだけある。所長、是非ご決断を」


 艦長の熱意のこもった言い方に所長だけでなく、副所長と技術部長も気後れ気味の様子だった。


「難しい判断だな。・・たとえ成功しても、あとでインド科学省から何を言われるかわからないな。・・成功しない可能性も十分にある・・・・・」


 判断を躊躇している所長を見ていて、艦長をはじめポセイドンの上級士官はいちおうに歯がゆい思いでいた。一秒間がとても長く感じられた。


「艦長。ポセイドンの皆さん。この件については、発電所側で検討したいので、申し訳ないが席を外してもらえないか。ただし、ネール少佐には、狙撃案について質問が出てくると思われるのでここに残ってもらいたい」とミトラ所長は我々の方と、副所長、技術部長の顔色を窺うように見て言った。


 艦長は、我々にアイコンタクトイで席を外そうというメッセージを送り、ネール少佐を除いた全員が会議室から出て、廊下をはさんで向かい側にある会議室で待機することにした。発電所側が最終的にどんな判断をするのかを考えると複雑な気持ちになった。



 ― ムンバイ原子力発電所の会議室 ―


 ナイク副所長がゴズワミ技術部長に向って言った。


「現在、原子炉の燃料であるトリウム漏れの原因が分からないけど、ただこのまま放っておくわけにはいかないわ。私たちなりに考えられる解決方法を試したけれどどれも今のところダメだったわね。・・ネール少佐の提案を受けいれてやってみるしかないと思うけど」


 これを聞いたゴズワミ技術部長は渋い表情をして副所長に言った。


「リスクがあります。うまくいけばいいが、失敗した場合には逆にトリウム漏れが拡散する。そうなったら止められないかもしれない。今は漏れが発生しているわけではないで、もうしばらく様子を見た方が賢明ではないでしょうか」


「様子を見ていたって状況は改善することはないわ。私たちは修理するために作業に当たっているのであって、そのために国際連邦のポセイドンの機関部長にもわざわざ来てもらっている。私たちはそれなりに熟慮と時間をかけてきた。このまま手をこまねいているわけにはいかない。リスクばかりに目を向けていては何もできないわ。ある程度の可能性があり、他の方法の選択肢がなければやるべきだわ。・・ネール少佐はどう思われますか?」


 ナイク副所長が思いがけなく質問を自分に振ってきたので、ネール少佐は少し迷惑気味だったが少し間をおいてから答えた。


「技術部長がおっしゃるように確かにリスクがあることは間違いない。失敗すれば情況は今よりも悪化するかもしれない。しかし、前に進むとすれば私が考えられるのはさっき言った方法しかない。どうするかは発電所のあなた方の選択と決断にかかっている」


 しばらく沈黙の時が過ぎた。


 沈黙の間、発電所側の三人は誰もが無言の時間をとても重苦しく感じた。そして、責任者であるミトラ所長の顔を見た。そして、ネール少佐もこれ以上自分の提案を押し出すのははばかられたので、沈黙の時間が始まってややあってから所長を見つめた。

 ミトラ所長は、三人の視線を感じ取り、腕組みをしたまま目線をやや上に向けたままの姿勢でいた。その心中は、誰か早く何か言ってくれないかと待っていたのだった。


 ミトラ所長は実際のところどう判断していいかわからなかった。直接的にこの原子炉の技術面を支えてきた責任者はゴズワミ技術部長である。自分はこれまでのトラブル発生時でも彼を信頼して乗り越えてきた実績があるので、彼の提案には今回も積極的に反対する気にはなれなかった。しかし、このままの状態が続くのであれば何か積極的な手を打たないと、当局の上層部からの「いつ制御可能になるのか?」、「放射能被害は今後もないのだろうな」、「今後は同様なトラブルは発生しないだろうな」などの連発質問に対する答えを出せないでいることになる。また、報道機関対応にしても同じことだ。


 ミトラ所長は、原子炉事故発生後から、本来の技術的問題解決の他にも、こうした管理社会上、あるいはマスコミや地元行政当局への説明責任上の“ハードル”を毎日越えなければならなかった。表面上は冷静さを取り繕ってはいるが、正直なところ心身ともに疲れがたまり、客観的に見ても明朗な判断力が発揮できるのかどうか分からないくらいの最悪の精神状態にあった。


 所長の額には汗がにじみ、この膠着した状態を打開してくれる誰かの言葉を待っていた。しかし、その期待に応える者はなく、この場の雰囲気は解決のための議論も付き果てた状態にあり、最終的な判断をただ自分自身に委ねられていることが痛いほどわかっていた。しかし、所長の頭の中は焦る気持ちが先に立ち、話題をそらす心の余裕もなかった。


 所長は腕組みを解き、「コホンッ」と咳きこんでみたものの一秒間が果てしなく長く感じられた。こうなれば理論的な判断ができる状態には程遠く、なぜそう判断したかの問いには答えられないが、この息苦しい空間から少しでも早く脱け出したかった。ナイク副所長による実施推進への気迫と、ゴズワミ技術部長の慎重さといった、およそ技術論とは別次元での人間心理の時間軸をたどることの中で、ほとんど苦し紛れに口を開いた。


「ネール少佐の方法で試して見るか。・・」


これに対し、ゴズワミ技術部長はどんな反応を示すかと所長は気になったが、以外にも技術部長は黙って小さくうなずき「それでいいだろう」という風に見てとれる表情をした。一方、副所長は「よく言ってくれた」という表情をした。


 ネール少佐はやや第三者の立場で黙っていた。自分の提案が採用されたからといって微塵の喜びも感じていないようだった。今回の事故は元々、ムンバイの原子力発電所の問題であり、国際連邦が主導権を取って方針を決めた形にはしたくなかった。それは理論的にはナイク副所長に賛同しながらも、一方でリスク面ではゴズワミ技術部長の意見も重要であると認識していた。自分がミトラ所長の立場だったらどう判断しただろうかと考えると、自分がアドバイザーとしての参加であることが正直なところ慰めになった。現地の方針を尊重し、明らかに誤った方向に行かない限りは干渉すべきでないと考えていたからだ。

 誰もが回答に確信が持てないが、短時間で何らかの判断を下さなければならない緊張した雰囲気の中で下された決断。それは正しいとか、間違いとかの判断基準ではなく、物事を判断することの難しさが問われたものであった。




 第六章  安定を取り戻した原子炉



 ― ムンバイ原子力発電所の会議室 ―


八月十一日 午後八時 我々は発電所の三人と、循環パイプの狙撃による方法を前提に細部について打ち合せをしていた。発電所のナイク副所長はさすがここの設計者でもあり、ネール少佐がコンピューターから抽出したいくつかの狙撃ポイントを丁寧に図面と記憶と部下からの聞き取りを頼りにチェックしていった。そして、その中で優先順位を付けてくれた。もちろん、伏せ撃ちで射撃ができる場所に限られる。


「さあ、これが射撃ポイントのリストよ。それと、これらの下に流出する燃料を受け皿に受け止めて、ドレンタンクに導くパイプを設置しなければならないわ。これだけの数すべてに設置するには時間がないわ。すべて形が違うから大量生産できない。まさにハンドメイドの世界よ。だから、優先順位の高いポイントに合わせたパイプを発電所の協力会社に製作してもらうわ。大至急でね」


 自分の設計した発電所をその一部とはいえ、銃で破壊する事はナイク副所長にとって、身を切られるような想いだろう。その上、あらかじめ計画したチェック項目の確認作業は発電所の技術員たちは続けているが、銃による循環パイプ破壊計画が実行されることになると、彼らにどう説明していいものか。そうした気の乗らない状況にあるのにもかかわらず、目的に向かって手を抜くことなく、努力を惜しまない彼女の技術者魂は見上げたものだった。


 疲れのせいだろう。時々、彼女はうつむいて、片手で目を押させる動作が頻繁になってきた。そして、垂れ下がった髪を手で元に戻して、耳にかけて垂れさがらないようにした。そして、夕食がわりのピラフのような現地料理プラーオをほおばり、チャイで喉を潤していた。

彼女といっしょに作業していたネール少佐は、そんな彼女を見ていると、立場は違うし、専門分野も違う。しかし、一人の技術者として感心させられたし、女性としても気は強いが魅力を感じるところがあった。


「簡易食とはいえ、そのプラーオをおいしそうだね」とネール少佐は彼女に声をかけた。


「あ、これ? そうよ。発電所の厨房で作っているんだけれど、味はいいわよ。外のレストランと比べても負けないわ。実は厨房の設計には工夫を取り入れて、料理人さえ腕が良ければ、腕前を存分に揮えるような設計をしたの。予算の関係であちらこちら削られたけど、福利厚生面は最新鋭のトリウム原子力発電所ということで、中で働く職員がせめて食事ぐらいは満足してらおうと当初の設計通りになったわ。実現した数少ない私の力作よ。少佐も食べたら? 今夜は長くなりそうよ」


「ああ、後で食べるよ。今、設計で微妙なところなんだ」


「そう、でも食べなきゃ体がもたないわよ。インド海軍からの連絡だって、いつ入るかわからないんでしょ。今のうちに食べておかないと、いったん事が動き出すと、食事なんかしている時間はないわよ」


「君のいうとおりだ。食欲はないけれど少しでも食べておくよ」


 しかし、実際のところは食事を取る気にはなれなかった。破壊によって流出した燃料をドレンタンクまで導くパイプの設計をして、出来上がった設計図から順に、製作会社に送って作ってもらわなくてはならない。それに、インド海軍の支援がどれだけ得られるのかにこの計画はかかっている。そんなことをあれこれ考えていると、食事も喉に通らないような気分だった。


 そんな時、二人の通信機がほぼ同時に鳴った。少佐が通話に出ると、相手は艦長ですぐに中央制御室に来てくれという内容だった。すぐにナイク副所長の顔を見ると、

同じような表情でこちらを見ていた。インド海軍から連絡が入ったのか、または、新たなトラブルが発生したのかはわからないが、二人揃ってすぐに中央制御室に向かった。



 ― 中央制御室 ―


 二人は駆け足でドアから中央制御室に入ってきた。艦長、所長らが集まっていたので、そこへ言った。


「どうしたんですか」と二人同時に尋ねた。ティエール艦長が二人に説明した。


「まず、インド海軍から連絡が入った。相手は港湾管理事務所の所長ではなく、海軍本部からだった。結論から先に言うと、対部狙撃銃を一丁と弾丸五十発を一時的に貸与するだけで、狙撃手は出さないというものだった。話しは一方的で、交渉の余地すらなかった。銃はカスター少佐が想定していた大型の『アキュラシーインターナショナルAW50』だった。よって、予想通り伏せ撃ちができるポイントからでしか射撃できない。・・狙撃手はポセイドンのニミッツ中尉という事になる。これで行くしかないと思うが、発電所側の最後の確認を取るために集まってもらったわけだ」


「所長、副所長、技術部長、これでよろしいですね」


「・・わかりました。お任せします。しかし、狙撃する方は大丈夫なんですか。おそらく未経験の任務だと思いますが」と所長は答えた。


「ニミッツ中尉には既に私から説明し、心の準備をしておいてもらっています」


 今度は保安部のカスター少佐が強い口調で言った。


「ニミッツ中尉は私の直属の部下で、その任務はパイロットであります。本来、狙撃の任務ではない彼を選んだのは、ポセイドンの中で最も射撃能力に優れた人物だからです。・・発電所にお願いがあります。銃と弾丸が届いたら、すぐに現場で射撃するのではなく、その前に試射をさせて銃の特性を把握させる必要があります。そこで、どこか発電所構内で試射が可能な場所を提供させてもらいたい」


「わかりました。出来れば実際に射撃する場所と同じような環境があればいいのでしょうが、射程距離を確保できて射撃できる場所は建物の外しかありません。幸い、外洋に面していますから、岸壁付近に的となるようなドラム缶などを置いて試射場としたいと思います。そこなら、弾丸が貫通しようが外れようが、何かに流れ弾が当たるという事はありません」


 ゴズワミ技術部長は、発電所の全体地図をカスター少佐に見せながら、説明した。


「よし、そこで試射させましょう。技術部長、その準備を早速お願いできますでしょうか」とカスター少佐は、試射ができることを聞いて少し安心した。


「わかりました。これから用意します。工作班の技術員をチェック項目の作業から外して、この準備に当てます。副所長、具体的な標的となるバルブの形や大きさなどデータを私に送って下さい。それに基づいて的を製作しようと思います。では、その打ち合せが必要なので失礼します」と言って、ゴズワミ技術部長は会議室から出て行った。


 不思議なものだ。今日の午後七時の会議までは、チェック項目に従って、トラブルの原因究明を最優先に人員と時間を投入していたのに、射撃によるバルブ破壊の計画がポセイドン側から提案されてから、次第に発電所側もそちらの方へ軸足を移し出し始めている。チェック項目の確認作業は今も続いているが、未だに原因となる事象を発見できずにいる。トリウム原子炉とはそれほど複雑なメカニズムなのだろう。



 ― 移動中のニミッツ中尉 ―


 八月十一日 午後八時三十分 狙撃実行の指示を受けたニミッツ中尉は、ポセイドンからインド海軍の港湾事務所が用意してくれた車両に乗せられて、ムンバイ原子力発電所に向かっていた。既に真っ暗で人通りはほとんどなく、昼間のように牛が歩いている事もなかった。

 中尉は、このバルブ射撃の指示を受けてから、自分で任務を果たせるだろうか不安でならなかった。もんもんと時間を過ごし、いつ入るともしれない“作戦実行”の連絡を待っていたので、仮眠もできない精神状態だった。


中尉のそばには一個のショルダーバックが置かれていた。中には、射撃の時に愛用していた手袋、ゴーグル、競技用のスーツ、雨天用のウェア、それといつもお守り代わりに作戦の際に所持しているオリンピックで獲得したメダルが入っていた。


 中尉はずっと考えていた。伏せ撃ちだから、立ち撃ちよりは安定感が確保され、命中率は理論的には高まるものの、これは理論ではなく、実践であって、バルブを破壊してこそ意味があるものだ。標的となるバルブの形状図面、写真などのデータは既に送られてきて、ひととおり目を通したものの、実際に射撃地点に行ってみなければ射撃の感覚は蘇らない。まるで、行ったことのないジャングルの中で、標的を狙うのと同じだ。そのうえ、狙撃地点も限定され、どこから撃ってもいいという恵まれた環境にはないだろう。複雑な配管が視界を遮り、蒸気、人工的な照明による標的の確認、そのうえ、命中して燃料が流出したら、放射能にさらされる。防護服を着用しているとは言うものの少し不安が残った。



 ― ムンバイ原子力発電所の中央制御室 ―


 そんなことを取りとめもなく考えていると、車両は発電所に到着した。真っ暗な中に保安用の照明だけが点いている。一見、何事も起こっていないようにしか見えない大きな建屋の中では、今も大勢の人間が技術力と時間との勝負に戦っているのだ。守衛所で待機していた発電所の職員に案内され、ニミッツ中尉は中央制御室に入った。そこには初対面の発電所の技術員が大勢働いていたが、艦長やポセイドンの上級士官の顔があって、少しホッとした。上司である保安部長のカスター少佐が歩み寄ってきた。


「カスター少佐。ただいまニミッツ中尉が到着しました」


「御苦労、ニミッツ中尉。未経験な任務だが、よろしく頼む。既に聞いた通り、狙撃銃はインド海軍から貸与を許可されたものの、狙撃手までは無理だった。済まない」


「全力を尽くします」


次にティエール艦長が中尉に話しかけた。


「さっきも言ったように、危険な任務だが適任者は君しかいない。・・現場に出たら、我々とは通信でしか連絡を取る事が出来ない。ある意味『シンデン』に乗って任務に飛びだして行くようなものだ。ついさっき、インド海軍から届けられた狙撃銃と弾丸があそこに置いてある。弾丸は五十発。今、発電所が試射する場所での設営を行っている所だ。決行は明日十二日の午前八時の予定だ。今は五時ごろから明るくなるから、試射は明日の早朝に行えばいいと考えているが、何か意見はあるか?」


「いえ、そのスケジュールで構いませんが、それまで発電所は大丈夫なのでしょうか。時間がないのなら、今すぐにでも試射して、現場に行く用意はできています」


「ああ、発電所はまだ大丈夫だ。とはいうものの、原子炉の圧力と温度は確実に上昇している。その原因を究明するため、チェック項目を一つ一つつぶしているところだ」


「そうですか。・・・では、試射は試射場の準備が整い次第、実施させていただきます。早いうちに慣れておいた方がいいですから。それに、明日の実射では、自然光のない、人工光で照らされた標的を撃ちことになりますから、明朝より夜中の方が実射の環境により近いと思います」とニミッツ中尉は冷静に答えた。


「もうしばらくすれば設営も完了するだろう。少し休んでからの方がいいのではないか?」と副長は試射の開始時刻を予定通りに磨ることを中尉に勧めた。


 しかし、中尉はこれから銃の取り扱いを確認し、試射場の準備が整ったら試射を開始することを副長に告げた。いつもは陽気で楽天的なアメリカ人気質そのままの性格の中尉だが、今はとても緊張していて神経質になっているのが見て取れた。今回の任務の困難さが彼の様子からも感じられた。


「わかった。君のペースで明日に備えた方がいいだろう。明日の狙撃ポイントは十箇所。弾丸は五十発。明日の予備も考慮して試射の使用弾数を調整してくれ」


「了解しました。それと、試射では被爆防止用の防護服も着用したいと思います」


そこへドクターのグスタフ少佐が大きな衣装ケースのような箱を両手で抱えてやってきた。


「中尉。被爆防止用の防護服一式をここに揃えてあるわ。本当ならもっと装備を充実させたいところなんだけど、射撃に差し障りが出てはいけないので、生命維持に最小限の軽装にしてあるわ。いちおう、中味を見てくれる?」とグスタフ少佐は箱を、テーブルをいくつか寄せて広くした場所に置いた。


 彼女の差し出した箱の中から、中尉は一つ一つ取り出して装備の確認をして行った。


「防護服はあなたのサイズに合った物を選んであるわ。オーダーメイドというわけにはいかないけれど」


「ドクターはテイラーじゃありませんから、そこまではわがまま言いません」と中尉は冗談っぽくドクターに返した。


 ドクターも緊張気味だったが、今の中尉の一言で少し気分がほぐれた。


「あのう、ドクター。このグローブとゴーグルですが、私物に代用しても構わないでしょうか?」と中尉は自分の持ってきたショルダーバックから自分のそれを取り出して、ドクターに見せた。


「これがそうなの?」とドクターはそれを手にとって、モビルPCで成分検査をした。


「それは、オリンピックの射撃競技に使っていた物です。年代物ですが、自分のお守りと思って、私物としてポセイドンに持ち込んだのです」


「つまり、幸運を引き寄せるラッキーグッズというわけね。・・・うーん、やはり、これらは純粋な競技用で被爆防止にはならないわ。これでなければダメなの?」


「まあ、これで射撃しなければ命中しないという証拠はないですが、特にグローブは、トリガーを引く時の微妙なタイミングとフィーリングを図る上でとても重要です。他のグローブでは自信がありません」


「・・・困ったわね。・・じゅあ、こうしましょう。ゴーグルはこちらで用意した防護用のものを使ってね。えーと、あなたは左利きだったわね。つまり、トリガーを引く手は左手で、右手で銃身を調整させる。だから、トリガーを引く左手用のグローブはあなたのお守りの私物を使っていいわ。その代わり、被爆防止用のスキンクリームを塗ってもらうけど。でも、右手は防護用のこのグローブを使ってちょうだい。どうかしら?」


「わかりました。ドクターがそうおっしゃるなら。それでやってみます」


「悪いわね。ただでさえ精密さが要求される任務なのに、足を引っ張るような事を要求して。・・でも、これが医師として譲歩できるギリギリのところだという事はわかって欲しいの」


「ええ、わかります。だってそれがドクターの任務じゃないですか。でも、片方のグローブだけを取りかえるという発想は私にはありませんでした」


「そう言ってくれるとうれしいわ。動きにくいでしょうけど、それがあなたを放射線から守ってくれるわ。そういう意味ではそれもお守りよ。オリンピックの時と同じように、ここにいるみんなが応援しているわ。でもオリンピックの時のように国旗のプレッシャーはここにはないし、誰かと競う必要もないわ。だから、あなたのペースでトリガーを引いてちょうだい」


「ありがとうございます。ドクター。ドクターのお気づかいのおかげで気分がずっと楽になりました。任せて下さい。必ず命中させてみせます」


 ニミッツ中尉はそう言って、控室に案内されて中央制御室を出て行った。


 その様子を見ていたティエール艦長は、ドクターのそばに寄ってきて言った。


「さすがだな、ドクター。私物にこだわる中尉を納得させるなんて。私だったらどう言っただろう」


「そう言うことなら、チェック項目の確認作業しか見えていなかった発電所の幹部に、バルブ狙撃計画を納得させたのは艦長ですわ」


「いや、あれはネール少佐が発案したものだ。私はそれを代弁したに過ぎない」


 ドクターはニコッと笑って、他の厚生部のクルーと共に、ニミッツ中尉の被爆に備えて、機材と薬物の設置について打ち合せに入った。



 ― 発電所建屋内の燃料循環パイプ周辺 ―


 ネール少佐とナイク副所長は技術員といっしょに、狙撃ポイントを一箇所ずつ回って、狙撃ポイントを確認し、スプレーで目印を付けて行った。一方、ゴズワミ技術部長は継続してチェック項目の確認作業の進捗管理に当たっていた。


「ここの狙撃ポイントは難しいわね。ここしかないわ。向う側なら広い平らな場所があるのに、標的のバルブが反対に位置しているからねらえないわ。中尉はこんな狭い場所でうまく伏せ撃ちができるかしら」


「彼に任せるしかない。トリガーを引けるのは彼だけだ。我々は何の助けもアドバイスもしてやれない。彼の判断のみがなんらかの結果をもたらすだけだ。それも一瞬のうちに結果が出る。『今の射撃は取り消しする』なんて事は絶対に言えない」


「そうね、言い訳のできない任務よね」


「さあ、次の狙撃ポイントへ行こうか。立体画像を編集して中尉に見せてイメージを持ってもらわないと。急ごうか」


 ネール少佐とナイク副所長たちは、次の狙撃ポイントを見つけるため、薄暗い循環パイプの露出部分にあるバルブを確認しながら、階段の上り下りを繰り返した。



 ― 発電所の岸壁 ―


 八月十一日 午後十時 ゴズワミ技術部長の指示を受けた発電所の工作班の技術員は、ニミッツ中尉に、仮設の射撃場の説明をしていた。外洋に面しているため、海側には漁船の灯りすら見えず、真っ暗な空間があるだけだ。曇天ため海と空との境目もよくわからない。

そんな暗闇の中で、五つのドラム缶が並べられワイヤーで岸壁のコンクリートに固定されていた。中央に的が発光性ペンキで塗られてあった。ドラム缶の中は即乾性モルタルを流し込んであるから、中尉が使用する対物狙撃銃でも飛ばされる事はないだろうと考えたのだ。それらのドラム缶には照明が当てられてはいたが、十分な明るさとは言えない。しかし、明日の現場での狙撃条件に近いと思われるので、中尉はあえて早朝ではなく、この時間帯を選んだのだ。


「ニミッツ中尉。この白線がドラム缶との距離を表しています。明日の各標的に合わせて、ご自分で位置を決めて撃ってください。前方には何もありませんので、何の心配もありません。一発ごとにドラム缶の映像を送りますから、手ごたえを自分で確認してください。それと、旗を振りおろしますので、それが次の射撃よしの合図です。それでよろしいですか?」


「ああ、いろいろありがとう。おかげで射撃に集中できる」


「旗を振りおろします。・・さあ、いつでもどうぞ」


 ニミッツ中尉はあらためて対物狙撃銃をながめ、その感触を左手で確かめた。さっきは発電所の中で、ドクターから渡された防護服などを着用し、銃の構造と取り扱い方法を説明書で十分確認しておいたい。しかし、実際に射撃する場面においては、銃が変わったわけではないが、自分の感情が緊張感から変化してしまっていることに気がついた。「やはり、実際に構えるのとでは違うな」と慎重になった。しかし、そんなナーバスな気持ちでは明日の本番には耐えられないぞと自分に言い聞かせ、やさしく銃身を調整し、スコープでドラム缶の中央を狙った。海風で誤差が生じてしまうが、ぜいたくな事は言っていられない。スコープ内の十字線が標的に重なった瞬間、中尉はやさしくトリガーを引いた。


「ドキューン」


 狭い箇所での狙撃を想定して、銃身が長くなるサイレンサーは付けていないため、耳をつんざくような銃声が響き渡った。中尉は新ためて対物狙撃銃の威力をその反動から体で直に感じ取った。

 工作班の技術員はすぐにドラム缶に走り寄り、カメラで命中した箇所を映した。そのデータは即座に中尉のモビルPCに送られ、どこに命中したか確認することができた。同時に、この対物狙撃銃の威力をあらためて思い知らされた。モルタル入りのドラム缶が表面の金属は吹き飛ばされ、中のモルタルもえぐり取ったように破壊されていた。狙いから左に外れた。次はスコープを調整して少し右にそれるようにセットした。旗が振り下ろされた。


「ドキューン」


 二発目の弾丸が隣のドラム缶に命中した。今度は少し右に外れた。もう一度スコープを調整して、その隣のドラム缶に照準を合わせた。旗が振り下ろされた。


「ドキューン」


 こうして、ニミッツ中尉の試射が続けられた。カスター少佐は、仮設射撃場が見下ろせる場所に立ち、窓越しにニミッツ中尉の試射の様子を一人で見ていた。暗くてドラム缶と中尉、発電所の工作員しか見えなかったが、大きな発射音は窓ガラス越しに振動まで伝わってきそうなくらいだった。



 ― 発電所の中央監視室 ―


 八月十二日 午前七時半。各人は決められた場所に待機していた。中央監視室には、艦長、副長、私(島中佐)。発電所側では、ミトラ所長、ゴズワミ技術部長。第一狙撃ポイントには、ニミッツ中尉、防護服を着てアクシデントがあれば射撃地点に移動できる技術員、その中には保安部のカスター少佐、機関部のネール少佐、ナイク副所長も含まれていた。発電所の医療室には、ドクターのグスタフ少佐ら厚生部のクルーと発電所の医師が、被爆に備えて待機していた。


 昨夜の徹夜でのチェック項目の確認作業うでも成果を上げることはできなかった。今は、発電所の技術員は循環パイプのバルブ破壊による原子炉の変化、あるいは、命中せずに他の計器を破壊した時のアクシデント対応に各部所で備えていた。


「こちら、中央制御室のティエールだ。ニミッツ中尉、聞こえるか」


「こちら、ニミッツ。良く聞こえます。第一狙撃ポイントで待機中。少し窮屈ですが、ここからなら標的のバルブがよく見えます。ただ、周りの配管が幾重にも折り重なっているように見えて、弾丸の軌跡はそれらを縫うようにしていかないと、標的に到達しません。昨晩の試射で銃の特性は把握できましたし、現場のデータは理解したつもりでしたが、現場に来てみないとデータだけでは感じられないものがありますね」


「そうか、健闘を祈る。知っての通り、ポセイドンのクルーだけでなく、発電所の職員も君の射撃を各持ち場で支援している。みんな君の味方であり、サポーターだ。今朝のミーティングの繰り返しになるが、命中させたら銃をその場に置いて身軽になり、すぐにそこからネール少佐とカスター少佐が待機している隔離室まで駆け足で入り込むんだ」


「ありがとうございます。皆さんの期待に添うよう必ずバルブを破壊してみせます」


 この会話は無線で各地点の責任者にもつながっていた。


「では、所長。狙撃手は準備完了。そろそろ時間です」


 ミトラ所長は、今一度各地点の責任者と連絡を取り、問題ないことを確認した。大きく深呼吸すると、ポセイドンが発電所に来てからの二日間の濃密な出来事を思い出された。

仮復旧が思いもつかなかった方向へ行こうとしているが、この場にきての躊躇は許されない。乗るべき列車が今にも出港しようとしている様にも似ている。マイクに向かって言った。


「射撃開始ッ」


 ニミッツ中尉のヘドフォンにもその指示が届いた。浅く息を吸い込み、少しずつ息を吐きながら、照準をバルブに合わせた。その瞬間、やさしく銃のトリガーを引いた。


「ドキューン」


室内のため、銃声は反響してより大きな爆音となって跳ね返ってきた。


 「バッ」と鈍い金属音がした。次の瞬間にはバルブの姿はなく、燃料が循環パイプから流れ出して来た。真下に設置した漏斗のような受け口が、落ちてきた燃料を吸い込むようにキャッチして、ドレンタンクへ導く配管の中を流れて行った。配管に取り付けてあった計量器でそれを確認することができた。


 それを見届けたニミッツ中尉はすぐに立ち上がり、次の狙撃地点へと移動した。

そして、最後の狙撃地点で射撃を成功させるとすぐに隔離室へ向かって走った。途中には配管やケーブルが露出しているため、それをよけながら進まなければならなかった。運動会の障害物競争のように、気持ちは先行するがなかなか前に進めないあせりがあった。被爆時間が長ければ、人体への影響も多くなるからだ。


 中尉は隔離室のドアを開け、中に入った。中からロックすると自動的に高圧のシャワーが全身を洗い流した。防護服を着ているため、その水圧を感じることはできなかったし、水量の多さでゴーグルを通しては何も見えなかった。ただ、ヘッドフォンからの音でシャワーを浴びていることは分かった。


 射撃競技をしている頃は、一発必中ならぬ“一発決中”を座右の銘としている中尉としては、快心の一撃だった。左手の人差し指にはトリガーを引いた感触が残っていたし、左肩から発射の反動の波紋がまだ全身に広がっていた。このまましばらく誰にも会わずにシャワー浴び続けて、発射の余韻に浸りたいと感じていた。



 ― 発電所のタービン建屋 ―


 ニミッツ中尉が発射した弾丸によって破壊されたバルブが付いている一次系排出管からは、トリウムの混ざった液体溶融塩がドレンタンクへ順調に排出されている。


「こちら、中央制御所のジュフーです。こちらの計器でも一次系排出管から液体溶融塩がドレンタンクへ排出されているのが確認できます。破壊されたバルブの周辺の放射能レベルは許容範囲を超えています。しかし、外部への漏れは今のところありません。変化があればお知らせします」


 ジュフー所長から連絡が入った。周りにいたポセイドンのクルーや発電所の技術員たちからも安堵の声が出た。


「こちら、ナイク。所長、そのまま計器の数値監視をお願いします。こちらでも一次系配管エリアの近くで放射線測定器とモニターを置いて監視しています。何かあればこちらからも総合指令室に連絡するから、そちらの計器と照合しましょう。技術部長、中央制御所と現場との二十四時間のチェック体制を作ってちょうだい」


「了解しました。当分は目が離せませんから、通常の三交代体制から責任者を決めて、監視体制表を作成します」とコズワミ技術部長は笑顔で答えた。ついさっきまでの緊張感がほぐれているのが見てとれた。


「ええ、お願いね。少しでも変化があったら、どんな時刻でも私に知らせてちょうだい」


 ナイク副所長の言葉からも安堵感が感じられた。私はネール少佐の方に振り向いたところ、ちょうど彼の視線と私の視線がぶつかった。彼も本格復旧ではないにしろ、とりあえず当初の仮復旧の目的が達成したので、ほっとしているのだ。


 ナイク副所長は、現状をミトラ所長に報告し終えると、今度はコズワミ技術部長と今後の本格復旧に向けた作業工程について真剣に打ち合せをしていた。緊張感がほぐれたのはほんの一瞬だけで、彼女たち発電所の技術員にとってはこれからが腕の見せ所なのである。また、明日にはインド科学省の復旧班がここに到着するので、彼らへのトラブル後の記録実績、原因とその対応策について説明しなければならない。まだまだやらねばならないことはたくさんあり、とても“仮復旧祝賀会”などをしている余裕はない。


 ムンバイ発電所の安定化というポセイドンの任務は終わった。ただし、ネール少佐によると、これで艦に引き上げてよいわけではなく、明日の未明までにポセイドンのクルーが実施したことを発電所の技術員に引き継ぐ作業が残っているという。なるほど、「立つ鳥跡を濁さず」ということか。確かにそう言われてみれば、発電所側とポセイドン側の技術員はペアで作業分担してはいるが、即時性が求められる場合では互いの作業を見ている余裕はなく、独自の判断で作業していることもあり、作業記録をより正確に作成するには互いの記録を付き合わせて全体を作り上げて行くしかないのだ。しかも、明日のインド科学省の復旧班がやってくる頃までには、我々はムンバイを去らねばならない。つまり、明日の未明までが勝負だ。時間は切迫している。


 さっきまでの安堵の雰囲気とは変わり、ポセイドンのクルーと発電所の技術員は自然発生的に打ち合せが始まり、それぞれの持ち場だった所へ三々五々に戻って行った。発電所に来てから手持ち無沙汰な私は、そんな彼らを頼もしく思うと同時に何も手助けができない自分に歯がゆかった。私は明日の未明までの作業についてどうなるのかを知りたかったので、ネール少佐に話しかけた。


「少佐、明日の未明までのクルーの作業はどんな具合なのかな?」


「・・さあ、わかりませんというのが正直な答えです」とネール少佐は両手を広げてお手上げだというポーズをして言った。


「わからない?」


「島中佐、なにしろクルーの人数が多くて、誰が発電所の誰と組んでどんな作業をしているのか把握しきれていないのが偽らざる現状です。これがポセイドンの中だったらこんなことはないのですが。・・何しろ、初めての原子力発電所での復旧作業、しかもトリウム原子力なんて初めてのことですから」


「しかし、君は見事に対応策を提案、実行し、成功させたじゃないか」


「中佐、ここだけの話ですけど、あれはほんのひらめきですよ。それにナイク副所長ら発電所の技術員の協力がなければそのひらめきも生まれなかったでしょう」


「ひらめきだって? それじゃ、確信のある復旧策ではなかったのか。・・ニミッツ中尉がこれを聞いたらどういうだろう」


「ええ、ひらめきです。島中佐。そう言うしかありません。・・ニミッツ中尉には危険な任務についてもらいましたが、彼しかできる人間はいませんでした。そんな彼にひらめきによる任務だとは私には言えませんでした」


「・・そうか、君がそう言うならそうなのだろう。・・だが、報告書にはどう書く予定だね?」


「そうですねえ。・・まあ、終わりよければすべてよしですよ」


「・・しかし、楽天主義も時としてよいが、今回の場合はUFF(国際連邦艦隊)も詳細な結果報告を求めてくるだろう。なにしろ、今回のインド政府へのUFFの対応の背景には政治的な配慮があるからな。私には少佐の言う“ひらめき”は理解できないが、少佐には復旧策の証明ができるだろう」


「・・証明ですか・・・そうですね、何とか証拠を探しますよ。これまでだって科学技術論で仮説設定とその証明・反証をしてきましたから大丈夫です、中佐。それでは、私も明日の未明までに片づけなければならないことがありますので、これからナイク副所長の所へ行きます。クルーには各自の作業の進捗具合を報告するように言ってありますから、全員を遅刻者なしでポセイドンに連れて帰りますから御心配なく」


 ネール少佐はそう言うと、歩きながらモビルPCでナイク副所長を呼び出し、居場所を確認して、足早にそこへ向かって行った。


 私は少佐の背中を見送るしかなかった。その場に一人残された私は所在なさと不安感が払拭できずにいた。しかし、このままここにいても仕方ないので、中央制御室に行って、そこでクルーの作業の進捗具合と安全を確認することにした。

ふと、自分に問いかけた。総合指令室にいることが確認するのに一番良い方法なのだろうかと。その証明はできない。なんとなくそう思っただけだ。“ひらめき”、“なんとなく”はあいまいなうえ、非科学的であるが現実に存在するものだ。他人にうまく説明できないが、自分ではそう感じているものだ。でも、それはそれでいいのではないだろうか。なぜなら、それを指す“ひらめき“、”なんとなく“という言語が万国に存在するではないか。



 ― 発電所のドレンタンクの上部階 ―


 ネール少佐は、ナイク副所長が作業しているドレンタンクの上部階に向かっていた。早足で歩きながら、ついさっき、観戦武官の島中佐に自分が言った言葉を思い出していた。証拠の証明はどうやって探せばいいのだろう。ああいうふうに言ってはみたものの、その場しのぎの言葉でしかなかった。やはり、自分の下した判断は科学的根拠のないものだったのか。もし、そうだとしたら、発電所のトラブルを収束させたのは幸運な結果であって、間違いであったかもしれないのか。だとしたら、あの場合、あの場面では科学的根拠が証明できない限り、不作為のまま何の対応もしなかった方がよいのか。ああ、誰か答えを教えてくれ。


 そんなことを考えていたら、ドレンタンクの上部階へ下りる為のリフターへ行く通路を通り越してしまった。慣れたポセイドンの艦内のようにはいかず、あわててモビルPCを取り出し、発電所の見取り図を見ながらなんとかリフターにたどり着いた。

リフターがドレンタンク上部階で止まり、その扉が開くや否やネール少佐は飛び出すように出てきた。まるで証拠の存在に関する悩みをふっきるように。


「あら、ネール少佐。ここよッ。ここにいるわ」とナイク副所長は大声で叫んだ。


 その声にネール少佐は気付き、彼女と発電所の技術員、ポセイドンのクルーが取り囲んでいる計器盤に向かって、さらにスピードを上げて駆け足に近いくらいに息を弾ませて走ってきた。


「少佐、そんなに慌てなくても私たちはどこにも逃げないわ」とナイク副所長は冗談っぽく言った。


「ハアハア、・・いや、・・ここへ来る途中でリフターの場所がわからなくなって迷子になってしまったものだから・・ハア、ハア」


「だからって、慌てるのはよくないわ。それじゃ、転んだりするリスクが高まってしまうわ。オリンピックの陸上競技じゃあるまいし、急いでもほとんどかわらないわよ」


「確かに君の言う通りだ。慌てれば危険性の方が双曲線を描くようにして高まる。科学的分析だね」


「いえ、直感に近いわ。今の場合はね」


「・・・・・」ネール少佐は彼女の口から“直感”という言葉が出て来るとは思いもよらなかったので、言葉を失ったのだった。


「少佐? どうしたの。体の調子でも悪いの?」


「・・いや、何でもない。ここの放射線の数値は許容範囲だろう?」


「ええ、全く大丈夫です。少佐」とポセイドンのクルーが計器を差し出して言った。また、これまでの経過についても数値を交えて少佐に説明した。液体溶融塩の流れ落ちる一次系排出管には問題なく、流量も一定レベルを保っていること。ドレンタンクには流量に比例して貯留量が増加していて、ドレンタンクからの漏れはないこと。


「どう、わかった? あなたの判断は正しかったわ。ついさっきも中央制御室から連連絡を受けたけど、蒸気発生器へ向かう燃料の液体溶融塩の流量は指令室でコントロールされているわ。だから、蒸気発生器から発生する蒸気は漸減していて、発電機の出力も少しずつ下がってきている。五日後には完全に停止することができるわ。私たちがコントロールできようになったのよ。あらためてお礼を言うわ、少佐。ありがとう。それからポセイドンのクルーの皆さんにも」


「そうか、それじゃここは問題ないな。だが、計器の監視は続けてくれ。ドレンタンクは最後の砦だからな」とネール少佐はポセイドンのクルーと発電所の技術員に向かって言った。




 第七章  証拠の存在



 ― ムンバイ原子力発電所の事務所棟 ―


 八月十三日 午後三時。ネール少佐らポセイドンの機関部クルーの応援によってトリウム原子炉は安定した運転を続けている。あとはナイク副所長たちに任せておけば大丈夫だろう。ナイク副所長は自分がトリウム原子炉の第一人者だと自負を持っていたので、原子炉のトラブルに対しては最後まで自分たちだけ解決したかったが、インド科学省は国際連邦に支援を要請した結果、彼女のプライドは傷つけられた。ただ、所長が原子炉閉鎖ではなく、修理続行を決断してくれたおかげで修復工事を続行できた。


 しかし、次のステップで壁に当たった。修復工事の方法に関して彼女のアイデアとネール少佐の思いつきが衝突した。ネール少佐は彼女のアイデアには反対したが、彼女は自分のアイデアに沿って修復工事を試みた。しかし、結果は失敗に終わった。そこで、ネール少佐の案に従って作業を進めたところ、トリウム原子炉は安定運転を取り戻しつつあった。

 

 結果的にナイク副所長は再びプライドを傷付けられた。ネール少佐の思いつきの案が的中したことはナイク副所長にとっては癪に触ったが、逆にトリウム原子炉の細部に疎いネール少佐がそのひらめきで解決方法を編み出すとは、核融合理論に精通していることの証明であり、彼女には少佐に対する尊敬の念が湧いてきた。ただ、原子炉の細部についてはナイク副所長とその職員の方がよく知っているので、いつの間にかネール少佐のチームと原子力発電所の所員との共同作業の体制が自然の成り行きで出来上がった。原子炉が安定してきたことは二人に共通の充実感があった。ナイク副所長が言った。


「今回の作業はトリウム原子炉の画期的な実験になったわね。二人でトリウム原子炉の安定運転に関する論文を書きません?」


「それは私の仕事ではない。どうぞ、あなたがご自分でお書きになったらいい」とナイク副所長からの申し出に対してネール少佐は同意しなかった。


「でも、今回の作業は私たち二人によるもので、というよりネール少佐の発案によるものですわ。私の名前だけの論文ではウソになりますわ。私が一人占めしたみたい」


「いや、そんなことは私にとってどうでもいいことです。私は自分の名前に固執しませんよ。原子炉を安定運転させることが私の仕事ではないので論文には興味はないし、それを書く時間も私にはないのでね。原子炉がこのままうまく稼働してくれることで任務が果たせたのだからこれで満足です。少なくともポセイドンがムンバイから出ていくまでは安定運転してもらわないとね」と、ネール少佐は冗談交じりに微笑みながら副所長の顔を見て言った。


 それを聞いたナイク副所長は「ムンバイを出ていくまでさえ安定運転してくれればなんて、心にもないことを・・冗談言って私の提案をはぐらかす気ね」と思った。


「でも、それじゃ論文には少佐の名前は出てこなくなるわ。もちろん、インド科学省にはネール少佐の貢献については報告しますが、トリウム原子炉でのトラブル対応に関する論文は有意義ですのでどうかごいっしょに書きましょう。少佐にお時間がなければ私が素案の原稿を書きますので、少佐がそれに加筆修正をしていただければそれほど負担にならないのではと思うのですが」

 

 しつこいくらいに懇願するナイク副所長に対し、ネール少佐は困惑気味に応えた。

「お気持ちだけ受け取っておきます。いえ、論文の意義を軽んじているわけではありません。あなたが書く論文はたぶん前例がないだけに今後のトリウム原子炉の安定運転の一助となる有意義なものです。ぜひ、できるだけ早く論文をまとめるべきだと思います」


「少佐が関与しない論文では少佐の名前は出てこない。つまり、私一人によるものと論文は位置づけられてしまいますわ。少佐はそれでいいのですか?」


「さっきから申し上げているように、どうぞご自由に。私は論文発表には興味ありません。私の中での今回の原子炉の安定化作業は、将来の国際連邦艦隊の原子力潜水艦の主要機器の技術論にも応用できることができるかもしれないので、私はこちら側の中で研究しようと思います。ですから、そちらの世界ではあなたが進めればいい。私はそこにいる必要はありません」


「でも、私の名前だけでは論文としての証拠に乏しいですわ。・・・発電所のスタッフもトラブル解決の本当の功労者はポセイドンの技術チーム、特にネール少佐によるところが大きいとみんな知っていますし・・・」


「証拠・・ですか。・・・確かに証拠というと弱いかもしれませんね。インド科学省もポセイドンの技術チームに作業の支援を依頼したことを知っています。・・でも、現地の発電所で実際に復旧作業に当たった人が、作業方法のいくつかの可能性とそれぞれの成功確率及びリスク、そして結果と今後への警鐘について論文にまとめ上げることが証拠になるでしょう。もちろん、論文が理論的でかつ、今回のトラブル解決を実証事例としていることが前提ですが、副所長の場合は問題ないでしょう。自信を持って書けばそれが証拠となりますよ」


「自信・・ですか。・・・でも、証拠というものは科学的根拠に基づくものでない”自信”のような抽象的なものだけではインド科学省に説明できません」


「では、逆の意味で論文に私の名前を加えたことで科学的根拠になりますか? 私は博士号を持っていないし原子炉の世界では無名です。私の名前を出しても証拠にならないと思いますが」


「でも、私一人では客観性に欠けます。博士号の有無ではなく、実際に原子炉の復旧作業に当たったUFFのネール少佐の名前があれば論文の客観性は担保できます」


「では、証拠は自分以外の人間の署名があれば担保できるのですか? その人物が論文詐称の共犯だったらどうなります?・・証拠にはならないでしょう」


「・・・・・」


 ナイク副所長が黙っているのでネール少佐は一呼吸おいて言った。


「証拠は当然、科学的なものでなければなりません。それは論文の内容をあなたがいかに組み立てて、今回の事実を分析するかにかかっています。著者がノーベル賞級の人物であろうと、推薦者が有名大学教授であろうと関係ないでしょう。証拠は“包装紙”にあるのではなく、まさに“中味”にあるべきでしょう。・・・。大丈夫、あなたが論理的な論文を書ければ、これこそが科学的証拠となりますよ」

 

 さらにネール少佐は続けて言った。


「私のことを気にかけてくれているのには感謝します。でも、さっきかから言っているように私は遠慮させていただきますのでお気になされないでください」


「・・・・・」


 ナイク副所長はずっと黙っていた。少佐の言葉に説得力があったので、反論しようと思っても言葉が見つからなかったのだ。


「繰り返しになりますが、科学的根論理で論文が書かれていれば、あなた一人で書いたものでも客観性は十分担保されますよ。・・では、私はこれで失礼。私にとっても今回の復旧作業はいい経験になりました。・・あっそうだ。もし、私が将来、国際連邦艦隊をクビになったらここで雇ってください」とネール少佐は微笑みながら冗談を交えて言った。


 それまで真剣だったナイク副所長は今のネール少佐の冗談で表情が緩み、あなたには敵わないわと言いたげに、目を閉じてうつむき加減に顔を横に往復して振りながら言った。そして、髪を手で耳元に戻して少佐を見た。


「少佐って冗談もお上手なのね。・・わかりました。論文は私ひとりの力でまとめてみます」と彼女は微笑みながら少佐に対して同じ科学者として尊敬と友情のような気持ち込めて言った。


 そんな会話を交わし、ネール少佐は論文書き上げることへの励ましの言葉をナイク副所長にかけて、原子力発電所の事務所棟で彼女と別れた。


 ネール少佐はまだ発電所に残っているティエール艦長に、今日はこれでポセイドンに戻ることを告げるとともに、ポセイドンにいるビスマルク副長に少し寄り道してからポセイドンに戻ることを連絡した。



 ― レベッカ・ベングリオンが働く工房 ―


 八月十二日 午後六時。ポセイドンへの帰り道に、少佐は立ち寄るところがあるからと他の修理班のクルーに伝え、一人でスラム街のダヴィへ足を向けた。何となくダヴィにあるレベッカのいる工房にもう一度行ってみたい気になったからだ。歩いていると高層ビルの街並みのある一区画から急に辺りの風景がスラムに様変わりした。モビルPCで方位を確認しながら工房を目指したが、次第に地図システムでも道路が確認できないようになっていった。スラム街のため地図システムのデータが不正確なためなのだろう。                                                            

 そのあとは自分の感を頼りに少佐は歩いて行ったが、無事に戻れるか心配になってきたので、時々歩いて来た方向を振り返っては目印になる建物や看板をモビルPCに入力して自分用のマッピングに書きあげていった。


 見覚えのある建物の角を曲がると、やっと目的の工房の建物が少佐の目に入った。工房の玄関口でいったん立ち止まったが、躊躇することなくごく自然に建物内に足が向かった。工房の中は以前に来た時と同じで何も変わっていないように見えた。右手側に並ぶ大きめの絵皿、左手側に置いてある少し小さめの絵皿。先ほどの先端技術の固まりである原子力発電所とは全く異なる雰囲気である。


 時間はそれほど経っていないのに、科学的進歩という時間軸ではこの場所は置いてきぼりにされた空間だ。原子力発電所という幾何学的な空間も、少佐にとってはメカニカルで特有の美しさがあると感じていた。先端的な科学装置であればあるほど美しさが増す。科学の進歩による造形美であると少佐には信念めいたものを抱いていた。

 それに比べるとこの工房は完全に原始的である。そこに少佐の世界における美など存在するはずはなかったが、やすらぎというか、緊張からの開放感をこの空間から感じ取っていた。


 工房の中からは、工作機械のモーターの音がかすかに聞き取れた。今日も客はいなかったし、売り物の絵皿も売れている様子もなかった。こんな状態で生計が立てられるのかと要らぬ心配をしてしまう。それでも、建物の中は工房にしてはきれいに掃き清められており、質素な造りの工房の中にも整理整頓に心がけている工房の管理者の人となりを垣間見ることができる。


 先端技術の集合体である原子炉には合理的で幾何学的な美しさがある。しかし、ここにはそうしたものとは正反対のもの、必然性、有機的な調度品の陳列による心の落ち着きと平穏を感じることができる。それを証明できるものはないが、自分の感覚で間違いなく感じることができる。科学では証明できないものがあるとしか言いようがない。


 ネール少佐が経験してきた仕事の世界では、科学の言語と数式で説明できるものであったが、この工房のような、科学では説明できない空間に入ったのは、これまでなかったと言ってもいいほど稀有な経験であった。では、この空間が例えばバチカンのシスティーナ礼拝堂のような高い芸術性があるわけではない。工房に置かれている絵皿などは芸術的には決して芸術的には高いものではないし、後世においても高く評価されることはおそらくないだろう。このまま歴史の中で埋もれていってしまう作品群でしかない。


 現在においても、また、将来的にも高い芸術性が認められないと考えられる作品の中にやすらぎを感じ取るのはなぜなのか。芸術性が高いとはいったいどんな定義によるものなのか。ひょっとして芸術性とは人の心にやすらぎを与えるものが高い芸術性を持つ作品であると定義されるべきではないのか。その道の権威ある大学教授、鑑定士や高名な美術収集家による評価ばかりが絶対的なものではないだろう。などとネール少佐は普段は、自問すらしなかった事柄に強い引力を感じていた。


「何か御用ですか?」


 ネール少佐は工芸品を見ていたら、後ろから女性に声をかけられた。

 振り返ると、彼女はレベッカ・ベングリオンだった。エプロン兼作業服のような服装だったので、すぐに彼女とはわからなかったが彼女に間違いなかった。わずかに微笑んだ表情の奥にはどこか憂いが感じられ、そのしぐさには店員とはちょっと違う敬虔さがあった。


「ジャハ。どうしたの。原子力発電所はもういいの?」と彼女が尋ねた。


「ええ、そちらの方は目途が立ったので、そのう、なんとなく君の働いている店にいってみたくなったもんだから」


「良かったわね。難しいお仕事だったんでしょ。でも、ニュースでは発電所が復旧したとか言ってなかったわよ」


「いえ、もう発電所は大丈夫でしょう。発電所の技術員はみんな優秀な人たちでしたから。マスコミはもう少し時間をかけて様子を見て、確実性をもって報道する気なんでしょう。・・お店の中を少し見て回っていいですか?」


「どうぞ。こうした古い工芸品に興味がおありなの?」


「ええ、まあちょっと・・ところで、店内を拝見するとこちらではいろんな物を製作しておられるようですね。ペンダントのような装飾品もあれば、あれなんかはステンドグラスですよね。それに外壁材もある。幅広いですね。だから、岬の丘の教会も親方の手で修復作業ができるんだね」


「そうね。ここでは昔からそうみたい。あそこの作業場にいる親方が中心で、その弟子が数人いるけど、みんなムンバイの岬の上にある教会の修復作業のために現地で働いているわ。私も弟子の一人だけど一番若くてまだまだ半人前なの。だから、教会へは時々手伝いにいくだけで、それ以外はここで店の番をしながら、親方の手元を手伝っているの」


 ネール少佐は彼女の説明を真剣に聞いていた。


「あら、ごめんなさい。関係ないことまで言っちゃって」


「いえ、そうした話には興味があります。その岬の上の教会というのはユダヤ教の教会で、昨日、私が七宝焼のペンダントを買ったあそこの事ですね」


「ええ、そうよ」


「ムンバイの中の教会はいくつかあると思うけど、あそこは一番大きい教会なのかい?」


「いえ、ムンバイにあるヒンズー教の教会のように大きくはないわ。ただ古いだけ。資金がないものだから、ユダヤ教の信者の寄付や修理の労役でコツコツと工事しているの。完成するには何年かかることやら。なにしろ修理している間にも別の個所が不具合になってしまって、まるでイタチごっこみたいなのよ」


「ムンバイにユダヤ教徒の人が大勢いたとは思ってもみなかったな」


「そうね。でも完全に少数派だわ。私や親方もそうだけど。ムンバイでのユダヤ人は長い歴史を持っていて、この辺では“ベネ・イスラエル”と呼ばれているわ。岬の上にある教会はいくつかあるユダヤ教会のひとつで、歴史があるだけに建物の傷みがひどいの。海のそばに建っているせいもあるけど」


 レベッカは独り事のようにおしゃべりした。


「なるほど。・・私もインド人です。生まれはニューデリー」


「私はここの生まれよ。ニューデリーには行ったことがないけど。・・ところでジャハは何の仕事でムンバイに来たの? 最初から原子力発電所の復旧のためだったの?」


「私はUFF(国際連邦艦隊)に所属していて、普段は潜水艦の機関や設備関係の仕事をしている」


「えッ、UFFって国際連邦の艦隊でしょ。その潜水艦に乗っているということは軍人さんなのね」


「そうだね、一般の人から見れば軍人になるのかな。ちなみに階級は少佐です」


「よくわからないけど、ずいぶん偉い人なのね。そんな人がなぜこんなスラムの街に来たの? ひょっとして陸の上は不慣れだから道を間違えたの?」


「いえ、この工房に来るつもりでやってきた」


「ふーん。・・それで国際連邦の潜水艦乗りの少佐が何の用なの?」


「いや、これといった用はないけど。ただ、・・・」


「ただ、何?」


 ネール少佐はレベッカの質問攻めに対し答えに窮してしまった。


「・・こ、この工房に興味があったから」


「ちょっと待って。ひょっとして、あなたはムンバイ原子力発電所のトラブル対応に国際連邦から派遣されてきた人なのに、そんな大事な仕事に当たっている人が、こんなスラム街にいるということは、さっき言っていた発電所はもう大丈夫だというのは本当なのね」


「ああ、これはオフレコだけど仮復旧の工事は済んだ。明日にはプレス発表されるだろうから、ウェブニュースでも見ることができると思うよ」


「へえー、それじゃ、あなたの顔写真が見られるのかしら」


「まさか。別にヒーローみたいなことしたわけじゃないから。ただ、原子力発電所は安定を取り戻したから住民の方々は安心していいってことを発表するだけだよ」


「そうだわ。ジャハが取材を受けるんだったら、是非ウチの工房も宣伝してもらいたいわ。発電所のトラブルが解消された事に対するインタビューをここで受けるの。名案だと思わない?」


 彼女は冗談交じりにネール少佐に話しかけた。ネール少佐も「ヤラレタね」という感じで二人は打ち解けて話を続けた。


「ところで、レベッカ。さっきの教会の修理の話だけど、ムンバイ市からの補助金は出ないのかい? 修繕に何年もかかるっていうのは問題だと思うなあ」


「無理よ。ムンバイも五十年くらい前は繁栄していたそうだけど、今はこの通りよ。教会への、しかも少数派のユダヤ教の教会への補助なんて絶対に無理だわ。ここダブィのように生活保護を受けている人はどんどん増えてきているように思える。みんなその日を食べていくだけで精いっぱいなのよ。だから、一般からの寄付もなかなか集まらないの」


「一般からの寄付が難しいのなら、ムンバイ議会の議員の中にはユダヤ教徒もいるだろう。それにタタ・グループやゴドレージ・グループの中にも重要なポストに就いているユダヤ教徒もいるだろう。なんとかそんな人たちの協力は仰げないのかい?」


「・・・」首を小さく横に振り、うつむくしかないレベッカだった。


「僕は科学の世界に生きているから、宗教のことはよく知らない。正直言って興味もない。だけど、不具合があるなら何か方法を見つけないと。今、僕の乗っている潜水艦はポセイドンという名前だが、ちょうどムンバイ原子力発電所のように問題が生じて、大勢の命にかかわる事態にまで陥ったことは何度でもある。自慢じゃないが、僕はその度に打開策を検討し、機関部のクルーの助けを借りながらも自分で解決してきた。だから、ポセイドンも順調に航海してきて、今、ムンバイ港に停泊している」


 レベッカは黙って聞いているだけだったが、ネール少佐は話を続けた。


「これが僕のやってきたことの証拠だ。科学は万能だなんて思っちゃいないが、目の前の困難に対して、科学の力で挑戦することで道を切り開いてきたことを、ポセイドンが順調に稼働していることによって証明しているんだ。証拠がなければ他人に説明できないし、説得力もない」


「証拠ね。・・ジャハ。あなたにとってポセイドンはとても大切な存在なの?」


「何言ってるんだ。今、言ったようにポセイドンなくしては僕の存在価値がなくなってしまうくらい大切さ」


「じゃ、証拠は?」


「えっ、・・・・」


 ネール少佐はレベッカの問いに答えることができなかった。


 彼女の質問は形而上学的で、哲学者か宗教家に委ねられるべき内容である。物体、現象がある場合にはこうした論点は馴染みやすい。科学的仮設を立て、それを証明ないしは否定して結論付ければよいのだから。

 しかし、物体、現象がない場合には、ある事象の原因、課程、結果について科学的仮説は立てにくい。大切か否か、愛しているか否か、美しいか否か、うれしいか否か、挙げれば枚挙のいとまがない。


 その時、工房の親方が二人の沈黙を破るようにレベッカに声をかけた。


「おい、レベッカ。ちょっとここへ来て手伝ってくれ」


 親方の方に振り向くレベッカ。ネール少佐も反射的に親方に目をやった。


「はあーい、今行きます」


 レベッカは親方に声をかけて、再びネール少佐と向き合った。


「それじゃ、作業場に行くわね。あなたの話は面白かったわ」


「忙しいのに手を止めさせてごめん。・・もう少し店の中を見せてもらってもいいかな?」


「ええ、どうぞ、ご自由に。私は向うの作業場にいますから何か必要だったら遠慮せずに声をかけてね。工作機械の音がうるさいから大声でね」


 そう言うと彼女は振り返って作業場に戻って行った。


 ネール少佐は、親方を手伝うレベッカの姿を見つめながら考えていた。証拠の存在について。


 自分では今までの任務でやってきたことは、知識と経験、それも科学的裏付けがある範囲でのものであった。もちろん検討時間が無い時間がない場合は直感で判断したこともあるが、なぜそうしたかという点について、後で報告書をまとめる頃には科学的証明で答えを導くことができた。

 しかし、レベッカからの問いについては答えることができなかったし、これからも答えを見つけることができそうにないと何となく感じていた。どうってことのない質問になぜ答えられないのだろう。店内の工芸品を手にとって見ても、レベッカの問いが頭から離れずにいたので上の空だった。


 客は一人も来ていない。彼女の居場所はここ。自分の居場所はポセイドン。やはり、住む世界が違うからなのか。


 レベッカは親方の作業をサポートするのに真剣そのものだった。


 釈然としなかったが、ネール少佐は手に持っていた工芸品を元の場所に戻し、作業場を振り向いて二人の様子を伺った。真剣に作業しているレベッカにも親方にも声をかけにくかったので、そのまま店を出て軒下で立ち止まった。


 店の外の光景はさっき来た時と比べて、ずいぶん変わっていた。夜の帳が下り始め、辺りは薄暗くなっていた。公衆街路灯はこのあたりにはなく、みすぼらしい集合住宅の窓のところどころに灯がともっている。また、夕飯の支度をしているのだろう。何やら食欲をそそられるいい香りが漂ってきた。赤ん坊や子供の声も聞こえる。犬が遠くで吠えている。スラム街であっても人が生活している限り、そこは生きている街なのだ。


 ネール少佐はちょっと振り返って工房の中を見た。店内はまだ電灯をつけていなかったが、作業場にはいつの間にか手元を照らす灯りがついていた。工作機械のモーター回転音がずっと聞こえていた。工作機械に吸いつけられるように、まだ二人は一緒に作業に励んでいた。いつも何時まで作業しているのだろうと思いつつ、モビルPCを取り出して帰りのクルマを呼ぼうとタクシー会社に連絡した。迎えに来てもらう地名を言うと、タクシー会社の受付係から帰ってきた言葉はそっけないものだった。


「お客さん、ダヴィって言ったね。そこは今の時刻から朝まではだめ。危ないからね。他を当たって下さいよ。・・・原子力発電所の復旧に来た国際連邦の人だって?

知らないね。何様だろうと駄目なものは駄目なんだよ。ウチのクルマの保険では、この時間帯にそこへ行ってクルマを傷つけられても保険金は出ないんだ。決まりだから悪く思わないでくれ。・・・いや、チップをはずんでもらっても運転手にとっては命がけなんだから。じゃ、そういうことだ。”プツッ”・・・・・・・・・」


 それからネール少佐はタクシー会社に連絡を取り続けたが、どこも乗車拒否してきた。辺りはどんどん暗くなっていった。仕方がないので、モビルPCを頼りにムンバイ港を目指し歩き出した。ダヴィ地区さえ出てしまえばなんとかクルマを捕まえることができるだろう。しかし、足元が暗いうえに、今日降った雨のせいであちこちにぬかるみができていて、両足とも何度もぬかるみに足を入れていまい、水が次第に靴下を通って、足の甲が気持ち悪い濡れとなって感じ始めた。


 タクシーでここへ来た時にはこんなぬかるみなど全くわからなかったが、いざ実際に歩いてみると、いかに悪路であるかが嫌になるほどよくわかった。「こんな所でよく生活しているなあ」とネール少佐は感心する一方、科学技術のおかげで悪路でも何の不自由もなく通行できるようになったが、いったん、科学技術を使うシステムが途切れてしまうと不自由で仕方がない。しかし、そんな劣悪な環境下でもたくましく生きているここダヴィに暮らす人も大勢いることも事実である。


 気持ち悪い濡れ具合が足の裏まで広がってきたが、ネール少佐はひたすら歩き続けた。そのうち気持ち悪さに慣れてきて、ぬかるみを恐れずに早くタクシーを拾える場所までたどり着こうと、逆に早足で歩いて行った。そして、集合住宅が立ち並ぶ地区を出たところで、前方に街路灯が見えるとともに、自動車が走行する音が耳に入ってきた。「助かった」と安堵感に浸った瞬間、人間とは、環境次第ではこの程度の強さしかないことを痛感した。自動車が走行している道路に出たところで、タクシー会社に連絡し、モビルPCから自分の現在位置を送信した。


 科学技術の力で支えられている社会システムはそれ自体素晴らしく、人間の英知の勝利に間違いないが、そのシステムから一歩外れたり、システムが機能しなくなったりすると、人間は敗者におとしめられてしまう。しかし、その一方でそうした利便性のある社会システムに属していない、ダヴィ地区の住民のような人間が存在することも確かなことだ。

どちらがいいのだろう?いや、どちらかがよくて、反対側が悪いとか、どちらかが強くて、反対側が弱いといった議論自体が無意味なことである。大事なことは、相反するシステムの志向性を自分自身がどのようにコントロールして受け入れていけるかにかかっている。


 道路に沿って両側に規則正しく設置され、すべての灯が点灯している街路灯をぼんやりと見ながら、「きれいだな」と感じた。今頃、発電所のナイク副所長たちは作業を続けているだろうかなどと、そんなことを考えていると後ろから声をかけられた。


「お客さん、ネールさんだね。こちらムンバイタクシー。お待たせしました」


 振り向くとそこには黒と黄色のツートンカラーで塗装されたタクシーが一台止まっていて、運転手が乗るように手まねきしている。電気自動車なのでエンジン音がしないため、近づいてきたことに気付かなかったのだ。


 ネール少佐はほっとして、その口元が緩み、「そう、さっき連絡を入れたネールだ」と笑顔で運転手の顔を見て言った。そして、靴の中の気持ち悪さも忘れて、タクシーに乗り込んだ。レベッカの工房を出てから二度目の安堵感を味わったのだった。


「お客さん、行き先は?」


「ムンバイ港だ。ムンバイ港のインド海軍の港湾事務所まで頼む」


「はい、海軍の港湾事務所ですね。事務所の門扉の前でいいですか?」


「ああ、そこでいい。玄関前の車寄せまで行かなくていい。後は自分の足で歩いて帰るから」


「(自分の足で歩いて帰る)?」運転手は、そんなことわざわざ言うなんてちょっと変わった客だなと思った。


 奇妙な印象を持った運転手の心情とは関係なく、クルマはウインカーを点滅させて走行車線に入り、前方の信号機の“ススメ”の表示に従って走行していった。やがてそのリアランプの光は道路に沿って走っている他の自動車の中に紛れて見えなくなった。


 少佐を乗せたクルマは目的地に向かって順調に道路を走っている。電気自動車だからエンジン音はなく、整備された道路のおかげで振動を感じることなく走っている。先程のダヴィ地区のぬかるみの道路とは大違いで、土木建築技術による身近な存在である舗装道路は人間にとってありがたいものであり、大切なものであると少佐は感じていた。それと同時にダヴィの工房でレベッカに言われた言葉について考えていた。

自分にとってポセイドンが大切だということの証拠はどこにあるのか? どれだけ考えても解が思い浮かばない。

「こんな簡単な事が証明できないのか?」少佐は疲れと快適な空間のおかげでいつしか眠りについた。


 少佐が去った後の道路脇には街路灯が立っている。街路灯には意思はないが、立てられた頃から夜の道路を照らし続けている。晴れの日も、雨の日も、嵐の日も天候に関係なく夜の道路を照らし続けるだろう。そして明日も、明後日も、その先ずっと先も道路を同じ場所で照らし続けるだろう。照らし続けた過去のことは人間の記憶に存在し、照らし続けるであろう未来のことは人間の推測の中に、幻想かもしれないが存在する。そして今、街路灯は他に寄りかかることなく単独で直立して、夜の道路を照らすのである。




 第八章  求める物はただ一つ


 ― 発電所のタービン建屋 ―


 八月十三日 午前七時。トリウム原子炉は安定した出力で運転している。ポセイドンのネール少佐ら機関部のクルーの仕事も無事完了した。彼らにとって当初は自分たちの手に負えるか自信はなかった。さらに、実際に発電所に乗り込んで復旧作業に関する発電所スタッフとの打ち合せをしても、互いにすれ違いの連続で肝心の復旧活動に取り掛かれない状態に陥り、どうなることかと思われたが、ネール少佐の提案を発電所側が受け入れてくれたことによって、作業を開始することができた。

しかし、その時点でも「本当に成功するかどうかはやってみなければわからない」というのが発電所の技術スタッフだけでなく、ポセイドンの機関部のクルーの偽らざる実感であった。とはいえ、原子炉は仮復旧の段階であるが、ひと仕事終えたことから安堵感と充実感が彼らにあった。


「いやあ、ご苦労さま。おかげでなんとかおさまりました。これもみんなポセイドンの皆さんのおかげです。本当にありがとうございました」


 発電所の技術スタッフの主任はポセイドンの機関部のクルーに謝辞を述べた。これに対し、ポセイドンの技術スタッフは拍手でそれに答えた。やがて誰が指示することもなく、それぞれの技術スタッフ同士が、担当した復旧作業の記録を残すためにデータや図面の電子データを整理し、発電所のメインコンピューターの端末機に入力していった。


 本格復旧作業はインド科学省の技術団が明日には発電所に到着し、仮復旧の作業内容の確認と本格復旧への作業工程を導き出すだろう。彼らの作業が効率的に、しかも確実に実施されるためにも必要な作業だからだ。トリウム発電所が運転再開したからといって、そこまでに至った作業内容を残していかないと後から作業する者が通常の二倍の手間がかかってしまう。

 発電所の技術スタッフはもちろん、ポセイドンの機関部のクルーもそこのところを心得ていて休む間もなく作業を続けた。職場は発電所と潜水艦で立場は違うが、こうした“技術者魂”は回答を導き出すための共通項なのである。



 ― 発電所の総合指令室の隣の見学者対応室 ―


「ティエール艦長、ありがとうございました。ポセイドンの皆さんのおかげで原子炉は安定状態を保っています。インド科学省の原子炉復旧班が明日の午前中にはムンバイ港に到着し、すぐに本格的な復旧工事に取り掛かります。工事はいつまでかかるかわかりませんが、ポセイドンの皆さんの努力が報われるように必ず復旧させてみせます」


 原子力発電所のミトラ所長は、普段は見学者が座る椅子に座り、対面に座っている艦長と私の顔を交互に見ながら穏やかな口調で話しかけてきた。仮復旧とはいえ、最悪の状態にはならずに済んだ安堵感が所長からうかがえた。


「いえ、それは発電所の方々が、ネール少佐や他の技術部のクルーに積極的に協力してくれたおかげです。このような任務は私どもにとっても初めてのことで、正直、最初は心配でした。双方の技術者同士が互いを信じて、議論して解決策を探っていった過程は、我々ポセイドンのクルーにとって有意義であり、貴重な経験になりました。お礼を言わなければならないのはこちらの方です」


 ティエール艦長は微笑みながら、ミトラ所長とコズワミ技術部長に向かって言った。艦長もミトラ所長と同様に安堵して、ホッとしている感じが隣に座っている私にもよく伝わってきた。


 その時、警報が突然鳴った。


 我々四人はすぐに立ち上がり、見学者対応室のガラス窓越しに総合指令室の様子を伺った。警報は総合指令室でも鳴っている様子で、発電所職員が警報の原因を突き止めるため、計器盤を見ながらあわただしく動いている。所長を先頭に我々は見学者対応室を出て、総合指令室に駆け足で向かった。


 ミトラ所長は通話機でナイク副所長を呼び出し、警報が鳴っていて自分とコズワミ技術部長はこれから総合指令室へ向かうこと。警報は誤報かどうか確認し、問題があればその原因を特定することを指示した。


「警報ではどこに問題があるとのだ?」


 コズワミ技術部長は中央制御所のジュフー所長に聞いた。


「これを見て下さい。今、モニター画面に出します。地下二階の液体トリウムの配管付近で漏れていることを示しています」とジュフー所長は画面の問題個所を指さした。そして通話機で地下二階にいる発電所職員に指示を出した。


「地下二階のPブロックで液体トリウム溶融塩の配管から溶融塩漏れが検出された。Pブロックの検出器でも溶融塩漏れが検出されているかどうか確認せよ。なお、配管は上りか下りかはこちらでは不明。それと放射能レベルも確認せよ。以上」


「溶融塩漏れであったら、その周辺で作業しているそちらの職員やポセイドンンのクルーにも放射能被曝の可能性がある。この総合指令室では放射能線量は確認できないのですか?」とティエール艦長は深刻な表情で司令長に尋ねた。


「発電所が普通の状態ならば当然、ここでも確認できます。しかし、今回の復旧工事であちこち想定外の“外科手術”をしたものですから、検出器は正常な値を送ってこなくなっているんです。警報は出ないが、異常値を示している検出器は幾らでもかります。今、それを一つずつ確認しているところです。いつ終わるかは・・全くわかりません。少なくとも明日、インド科学省が来るまでには確認作業は終わらないということは言えます」


 それを聞いた私はカチンと頭にきて、ジュフー司令長に向かって言った。緊張の連続だったから短気になっていたのだろう。


「それじゃ、我々ポセイドンのクルーがやったことは、君たちのとって迷惑だったわけかね?」


「あっ、失礼、そんなつもりじゃありません。すみません、何しろ異常を示している計器だらけでして、一つ確認しても次々とまた別の計器が異常値を検出してきます。原子炉は安定化しても、まだ復旧作業は続いているものですから。失言はお許しください」と体面上は謝罪しているが、我々に好意を抱いていない様子がジュフー司令長の態度から見てとれた。


「中佐、発電所の人たちはまだまだ大変なんだ。ジュフー室長の御苦労からすればそう思いたくなるのも仕方がない」とティエール艦長は間に入るように言った。


「いえ、こちらこそ行き過ぎた発言でした」と私はすぐに謝罪した。


 会話の中にタイミングよく入ってこられなかったミトラ所長は話を変えようとして言った。


「それにしても地下二階のPブロックからの連絡は遅いな。検出器のある場所はわかりやすいから、何かわかりそうなものだが」


 数秒してからジュフー室長の通話機に連絡が入った。


「室長、こちらの計器には異常値は出ていません。それに放射能の線量もずっと基準値以下で推移しています。しかし、念のために目視とハンディ検出装置でトリウム配管付近を重点的に確認してきます。以上」と発電所職員からの報告だった。


 私は「それ見ろ。異常なのは我々が手を加えた現場ではなく、中央制御室だ」と心の中で思ったが、口には出さなかった。


「それでは、我々二人はそちらの邪魔にならないように、さきほどの見学者対応室に戻って、ネール少佐らポセイドンのクルーの作業具合を確認することにします。よろしいかな、所長?」とティエール艦長は少しよそよそしく言った。


「ええ、どうぞ。我々は総合指令室で作業状況の確認と今日のインド科学省への対応について打ち合せをします」とナイク所長は言った。


 艦長と私(島観戦武官)は総合指令室に入ってきた順路をたどって見学者対応室に入った。そして、艦長はモビルPCを使って、ネール少佐を呼び出し撤収にむけた打ち合せをするために、見学者対応室に来るよう指示した。

ネール少佐はモビルPCを使って艦長の居場所へと誘導させ、見学者対応室に入ってきた。「お呼びでしょうか」とネール少佐が言ってすぐさま、ティエール艦長はネール少佐に向かって言った。


「どんな調子だね、少佐」


「はい、原子炉は安定化しましたから問題ありませんが、我々が来る前に発電所側で施していた復旧作業の後片付けがたくさん残っています。例えばここのA配管ですが、バイパスしてこのB配管につなぎかえしてあるので元に戻さなくてはなりません。ところがB配管は現在、生きていて止めるわけにはいかないのです。そこでB配管を生かしたまま作業する方法を検討しているところです。それから、この・・」とネール少佐はまくし立てるようにしゃべった。


「あ、あ、少佐。いや、よくわかった。もう説明はいい。・・しかし、そのような作業は発電所の作業員の仕事だろう。我々は、特に君は十分に働き、任務を完了させた。これ以上、クルーを危険な場所にいさせたくない」


「お言葉ですが、艦長。今のこの発電所は放射能汚染などありえませんので、危険な場所ではありません。原子力発電所としては不具合を抱えていますが、通常の復旧作業を根気よく続ければ必ず元通りになります。お気づかいはありがたいのですが、取り掛かった仕事を途中で放り出すわけには技術者としてできません。最初は発電所の職員とかみ合わなかった機関部のクルーも、今は意思疎通がうまくいくようになって、発電所を元通りにするためにみんな同じ方向を向いて頑張っています。士気も軒昂でやりがいを見出しています」


 ネール少佐はいつになく熱く自分の思いを艦長に伝えた。それに対し艦長は少佐に伝えなければならないことを言おうと私の顔を少し見て、私がうなずくのを確認し、少佐に向かって言った。


「実は、少佐。・・UFF(国際連邦艦隊)本部からの命令が届いた。明日の午前中にインド科学省の復旧工事派遣団を乗せた船がムンバイ港に到着するそうだ。彼らがここにやってくるまでに我々は撤収して、インド科学省の技術団とは顔を合わさないようにせよ、ということだ」


「なぜ? インド科学省の技術団が来るのなら、我々がここにいてナイク副所長ら発電所の人たちといっしょに技術団に説明する責任があるのでは。UFF(国際連邦艦隊)はなぜそんな命令を出したのでしょう。中途半端に仕事を投げ出したようにしかみえませんが」とネール少佐からは発電所に残るべきとの思いが伝わってきた。


 そこで私が艦長と少佐の中に割って入って言った。


「少佐、君の言うことはもっともだ。だが、命令なんだ。・・おそらくインド科学省、しいてはインド政府の顔を立てるというような政治的配慮が働いたのだろう。我々は“保険”だったんだよ」


「・・・ということは、今回の原子炉のトラブルの解決は自国でやり遂げたとアピールしたいからですか。UFFに撤収命令を出させた背景には国際連邦の存在があるわけですね」


「・・・それはわからない」と艦長は厳しい表情で答えた。


「わかりました。命令ですから従います。それでは、撤収のための手順と役割分担について打ち合せをしますので失礼します。ポセイドンの出航時刻は明日午前のいつですか?」


「九時00分だ。それと、作業は本日午後六時00分までに完了し、発電所からポセイドンのクルー全員が出ること。この撤収行動の指揮も君がとってくれ。この撤収については、ミトラ所長、ナイク副所長、コズワミ技術部長にも伝えてある」


 ティエール艦長は毅然とした態度でネール少佐に命じた。


「・・わかりました。では、打ち合せがありますので失礼します」


 ネール少佐は見学者対応室から足早に出て行こうとした時、艦長が「ジャハ」とネール少佐をファーストネームで呼び止めた。艦長が相手に対しファーストネームを使う時は、階級を越えて一個人として話をする時だと私は気付いていた。


 ネール少佐は足を止め、無言で艦長に振り向いた。


「ジャハ。後ろ髪をひかれる思いだろうが、ここはこらえてくれ。背景にはインドの原子力政策がある。君も知ってのとおり、どんな時も国際連邦はその国の内政や文化に極力干渉しない方針だ。もっともポセイドンのクルーの生命に危険が及ぶような場合には熟考しなければならないが、今回はその逆だ。我々は黒子に徹しなければならない」


 私は艦長の言葉にうなずいてネール少佐を見た。少佐は無言だったが「了解した

」という感じの態度で再び振り返り、部屋の出口のドアに向かって早足で歩きだし、ドアを開け、そのまま出て行った。おそらく撤収作業を午後六時までに完了するよう、他のクルーに伝え、その間にできるだけ発電所の職員に引継ぎを行うよう打ち合せをするのだろうと私は思った。


「さて、私はこれでポセイドンに戻り、厚生部長たちと発電所から帰ってきたクルーの健康状態の確認と放射能検査をする手順を確認することにする。島中佐はどうする?」


 ティエール艦長からの私への質問に対し、「もうしばらく発電所に止まり、撤収状況と引継ぎ作業の様子を自分の目で見ておきます。この様子では、作業記録を取っている余裕のあるクルーはいないでしょうから」


 そう答えると、艦長は冗談半分な様子で言った。


「わかった。では、ここで別れよう。中佐、くれぐれも放射能の被爆レベルには気をつけてくれ。許容以上に被爆していたらポセイドンには載せられないと艦体規則にあるからな」


 艦長はネール少佐とは違って、ゆったりとした足取りで部屋から出て行った。私はまずモビルPCで発電所にいるクルー全員の所在と作業内容を確認してから、各々の現場に行ってみることにした。安心したせいか昨晩の徹夜の疲れを急に自覚するようになった。それでも他のクルーに比べれば自分は恵まれている、と自分を奮い立たせ、確認作業を始めたのだった。



 ― 発電所のタービン建屋への連絡通路 ―


 見学者対応室を出たネール少佐は、まっさきにタービン建屋に向かった。途中の高速リフターで偶然、ナイク副所長に出会った。副所長に本日午後六時までにポセイドンのクルー全員が発電所から撤収することを伝えると、副所長は言った。


「ええ、艦長から聞いたわ。それまでに聞きたいことがたくさんあるから、付き合ってね。・・その後のことを考えると正直、寂しいわ」


「それって本当に? やはりインド科学省が来ることが重荷に感じているのかい?」


「ううん、なんでもないわ。これが仕事だもの」とナイク副所長は気丈なところを見せて本心を見せまいとした。


 その辺を理解したネール少佐はタービン建屋に向かって歩きながら副所長に言った。


「そうだ、仕事だ。私も含めてポセイドンのクルーが定刻までに精いっぱい支援させていただく」


「ありがとう、期待してるわ。・・それじゃ、まずタービン建屋の一階から見て行きましょう」


 二人は連絡通路を早足で歩いてタービン建屋に向かった。



 ― 発電所のタービン建屋 ―


ネール少佐とナイク副所長は、それぞれのグループを回りながら、記録書の作成についてアドバイスしたり、相談に乗ったりしていた。図面を平面画面に映し出すテーブル大の大きさの図面システムをのぞき込んでいたポセイドンの機関部のクルーが確認を取るために声をかけた。


「液体溶融塩の循環パイプのうち、今回の作業で手を加えたパイプは色分けしているのですが、ここのところがはっきりしないので見ていただけますか?」


「どこ?」と、ネール少佐とナイク副所長は同時に図面システムをのぞき込んで言った。


二人は互いに顔を見合わせてクスッと笑い、少し照れくさそうにしながら声をかけてきた技術者のそばに行った。


「この液体溶融塩の循環用のパイプなんですが。・・復旧作業の時に循環バルブを閉めてパイプの一部を交換したことは確かなのですが、どの部分だったかわからなくなってしまいまして。・・ウーン、どこだったかなあ」


 もう一度現場に行けば、交換したところがわかるんじゃないないか?」と、ネール少佐はそのクルーに言った。


「いえ、だめだわ。そこに行くには原子炉格納容器の隔壁の点検口から入らなくてはいけないわ。そのためには完全に原子炉を停止して、低温化してからでないとそこには行けないわ」

 ナイク副所長は画面の操作盤で図面をスクロールしたり、拡大したりして循環用パイプへ接近する方法はないことをネール少佐に説明した。


「なるほど。それじゃお手上げだな。・・・記録には交換した部分が特定できないとしておくしかない。・・でも、我々技術者が求めるものは唯一つ。真実への科学的アプローチを途中であきらめないことだ」


 ネール少佐は腕組みをほどいて、発電所の技術者の労をねぎらうかのように彼の肩をポンポンと軽くたたいた。


「ええ、仕方ないわね。インド科学省の復旧班による本格復旧工事に時に、確定するように彼らに伝えるわ。・・ああ、彼らへの引き継ぎ事項がまた増えたわね。とはいっても時間との勝負だったから仕方ないわね」

 

ナイク副所長はフーッとため息をついて、モビルPCに入力した。


「あっ、ごめんなさい。私ったら、引継ぎ事項が増えたなんて言っちゃって」


 ナイク副所長は、原子炉が復旧したのはネール少佐を含めポセイドンのクルーの支援のおかげだとわかっていながら、復旧作業の引継ぎの煩雑さを愚痴っぽく言ってしまったので、自分を恥じたのだった。


「いやあ、仮復旧したといっても引継ぎって仕事は大変ですよ。・・インド科学省から派遣されてくる人たちにしても、原子炉がなぜこうなったか、その原因を明確にしなければならないうえに、どんな仮復旧工事をして、本格復旧するにはどうしなければならないのかを検討しなければならない。・・私だってその辺のことを考えると逃げ出したくなりますよ」


 ネール少佐は微笑みながらナイク副所長に話しかけた。同じ技術者として、彼女の置かれている立場はよくわかるし、インド科学省への説明やら引継ぎやらのことを考えると嫌気がさしてくる気持ちもよくわかっていたからだ。


 ナイク副所長もネール少佐の気遣いがうれしくてニコッと笑った。そして、ネール少佐に向かって言った。


「少佐、ポセイドンの出航は確か明日の九時でしたね。出航の準備もあるでしょうし、ここの作業の取りまとめは私が引き受けますから、少し体を休めてはいかが?」


「それはありがたいな。でも、副所長も疲れていませんか?・・ 例の論文を書くことも残っていることだし」


「私なら大丈夫です。この発電所の試運転の頃のトラブル続きだった時のことを思えば何でもないことです。技術スタッフもイレギュラーなトラブル対応には慣れていますから。今回の残務作業もたぶんうまく乗り切ってくれるでしょう。ただインド科学省の復旧班が乗り込んできますから、そことの調整が技術的課題の解決より難しくなりそうだわ」


彼女は曇りがちな表情になって続けて言った。


「でも、なんとかなるでしょう。こんな時は楽天主義でいかないとやってられないわ。・・でも論文はきちんとちゃんと仕上げるつもりです。少佐の取り組んだ御苦労、専門外の分野でも基礎知識と独自の発想で切り開いていく実行力。・・それを思えばやり遂げることが私に課せられた職務だと思います」


うつむき加減でしゃべっていたナイク副所長だったが、最後は顔をネール少佐に向けて頬笑みをたたえながらキリッとした表情で答えた。


「・・・楽天主義には賛成だ。そうこなっくちゃ。なるようにしかならないものさ。私もポセイドンではそうですよ。おっと、これはティエール艦長には秘密ですがね。でも、論文に関しては前にも言ったように、副所長の感じたままに書いて下さい。技術論からすれば確固たる根拠のない対応策でしたから。でも他に方法がなかったことも事実です。その中で選択した対応策です。・・私はそんな中で単なる“触媒“の役割をしたにすぎません。中心的な役割を担ったのは、副所長らムンバイ原子力発電所の技術スタッフです。そこが大事だと思いますよ」


 ネール少佐は念を押すように静かな口調ながらも真顔でナイク副所長に言った。そして、周囲を見渡して発電所の技術スタッフが順調に作業をしているのを確認して、両手を広げてナイク副所長に行った。


「それじゃあ、副所長の言う通り私はおいとまするとしますか。他のポセイドンのクルーも後片付けと引継ぎをしているところです。後はよろしくお願いします」


「わかりました、ネール少佐。後はお任せを。求めるものは科学技術の制御と発展ですもの。私はトリウム原子炉でそれに取り組みます。・・論文はそのほんの一部でしかないと気付きました」


それを聞いたネール少佐は小さくうなずいて「お元気で」と挨拶をしてナイク副所長と別れ、タービン建屋の部屋から出て行った。彼にしてみれば自分に与えられた任務が終わり、ほっとしたところだ。


 ネール少佐は、ポセイドンの機関部のクルーから復旧工事についての説明を聞いていた私のそばにやってきた。


「島中佐、復旧作業はほとんど終わりました。機関部のクルーは後片付けの作業だけですので、ちょっと外出してきます。なんだかタービン建屋の“囚人”になったような気分ですよ。それで少し気分転換しようと思いましてね。明日には出航ですからちょっとムンバイの町に出てみようと。もちろん艦長にはもう伝えて許可を得てあります」


私(島観戦武官)は振り返ってネール少佐の話しを聞いた。


「そうか。入港以来、少佐はずっと原子力発電所にこもりっ放しだったな。御苦労さま。それにここは君の生まれた国だ。久しぶりに町の空気を吸うのもいいだろう。私もいっしょに行って息抜きしたいが、復旧作業の報告書を書かなきゃいけないのでね。それじゃ、気をつけて」


 ネール少佐はニコッと笑顔を見せて振り返り、廊下に向かって歩いて行った。

私(島観戦武官)は彼の背中を見送って少しうらやましい気持ちになったが、ここ数日のネール少佐の過密な働きぶりからすれば休養は必要だと考えた。さて、次はこちらが報告書をまとめ上げる過密なスケジュールに対応しなければならない順番になった。再び機関部のクルーから説明を受けたのだった。



 ― 原子力発電所の入り口の守衛所の受付 ―


 ネール少佐は守衛所でIDカードを認証機にかざし、金属探知装置をくぐり抜けた。それから守衛二人によって放射能測定とボディチェックを受け、問題なく守衛所のゲートを開けてもらい、ようやく外に出ることができた。

 彼は深呼吸した。見上げると夕焼け空には雲が多少あるが晴れており、すがすがしい気分になった。


「こんなにうまい空気を吸うのは久しぶりだ」と両腕を持ち上げてもう一度員呼吸した。


 ネール少佐は特に何もすることがなかったので、ダヴィにあるレベッカが働いている工房へもう一度行ってみようと思った。その理由は彼自身でもわからなかったが、何となく行ってみたくなったのだ。

 少佐の足取りはいつになく軽やかだった。原子力発電所の職員にダヴィまで送ってもらおうかと思ったが、プライベートな用事だし、「あんなスラム街に何をしに行くのか」と思われるのも嫌だったので、結局、自分でタクシーを呼び出した。

間もなく黒と黄色のツートンに塗られた電気自動車のタクシーが少佐の前に止まった。少佐は運転手に行き先を「ダヴィへ」と言ったところ、運転手は一瞬、不審な顔つきをした。


「お客さん、あそこはスラム街ですよ。」


「わかっている。そのスラム街のダヴィでいいんだ。モビルPCで住所情報を送るから、その場所に行ってくれ」


 電波でハンドルの横にあるナビゲーション機に住所情報が転送され、その画面に行き先のルート図が表示された。


 客の行先について確認の取れた運転手は、電気自動車のスイッチを入れて静かに発進した。原子力発電所の人間だから、まさか料金を踏み倒すことはないだろうと思ったが、何の用があるのだろうと、時折、後部座席を見るための小型ディスプレイでネール少佐の様子を覗いた。運転手にしてみれば、スラム街へ行って住民によって大事な商売道具であるクルマを傷つけられるのかもしれないので、それが嫌だった。できれば行きたく場所だが仕方なかった。「今日は厄日にならなきゃいいのに」と運転手は心の中でつぶやいた。


 ネール少佐を乗せたクルマは原子力発電所から次第に遠ざかり、スラム街へと向かって行った。



 ― 発電所のタービン建屋の会議室 ―


「ええっと、復旧工事の手順書と図面の照合は終わっている?」


 ナイク副所長は取りまとめをしている発電所の技術員に話しかけた。


「いえ、まだです。ここを見て下さい。この部分の冷却管を交換した個所の交前と交換後の仕様が揃っていませんし、それにここも同じく揃っていません。作業手順の記載内容に誤りがあるようです」


テーブル大の平面ディスプレイに映された図面をスクロールしながら、一方で垂直の小型ディスプレイの両方を見て職員はナイク副所長に問題の個所を説明した。説明を受けた副所長は「やれやれ、どうしたものかしら」と思った。


「そうねえ。・・・その冷却管については、担当箇所に確認作業を急がせて。・・それとその作業手順は確かにおかしいわね。この手順どおりに組み立てれば、反対側の排水管が邪魔になってこの通りにはならないわね。この作業手順を作った個所に差し戻してもう一度チェックさせて」


「わかりました。明日にはインド科学省の査察団が来ますからね。何とかそれまでには間にあわせます」


「大変でしょうけど、お願いね」


そう言っているナイク副所長に別の発電所の技術員が駆け寄ってきた。


「すみません、副所長。ちょっとこれを見ていただけますか?」


「どこ?」


 技術員が持ってきたモビルPCを副所長はのぞきこんだ。彼の名はカマスといい、理論的で才能のある若者であると普段の仕事ぶりから彼女は思っていた。


「この数値が納得いかないんです。これは溶融塩の液体トリウムが通るチューブの放射能の数値なんですが、基準値の幅を大きく超えています。これを見て下さい」


「ちょっとそれ貸してみて」


ナイク副所長は彼のモビルPCを操作して数値を確認した。


「うーん、そうね。・・・こんなに数値が高く出ていたなんて。管制室のメインコンピューターの記録と照らし合わせてみて。管制室では気付かなかったわ。・・でもそれはいろんなトラルが次々に起こって、把握しきれていなかったのかもしれない。もし、管制室の記録でも同じような値が出ていたら、液体トリウムのチューブのどこかに亀裂があって放射能が漏れているのか、継ぎ手部分に歪みが生じていてそこから放射能が漏れているのかもしれない」


 副所長は考えながらゆっくりとモビルPCを技術員に返して厳しい表情で言った。


「ともかくメインコンピューターと照らし合わせて、それでもこの値が出ていれば大変なことね。そして今もこの値が出ていればすぐに周囲を立入禁止にしなければならないわ」


「わかりました。照合結果が出たらすぐにお知らせします。そして、現在の状況も確認します」


「急いでッ」と副所長が厳しい表情で技術員に言った。


 技術員は、小走りで中央制御室に向かって行った。


「おおッ、ここにいたのか」


 ミトラ所長とゴズワミ技術部長が、ナイク副所長を見つけて駆け足で近寄ってきた。


「何だろう。また、新たなトラブルかしら」と彼女は一瞬不機嫌になったが、すぐに気を取り直して、今の状況でも自分にとっては何でもないような平穏な態度で応対した。


 ミトラ所長はコービーの入った保温用カップを彼女に手渡した。


「ありがとうございます、所長。どうかしました?」彼女は空いている右手顔の前にかかっていた髪を軽く整えた。


「君はここ数日、原子炉復旧にかかりっきりでろくに睡眠を取っていないだろう。それに食事もしかりだ。確かに明日にはインド科学省がやってくるが、肝心の君が当日にフラフラの状態では説明もおぼつかない。少し仮眠をとったらどうかね。作業は技術部長と技術員にまかせて、君は取りまとめの役に回らないと、いちいち技術員の質問攻めに答えていたら誰だって見が持たない」とミトラ所長は真剣な表情で彼女に言った。


「ええ、どうも。御心配していただいて・・」


 彼女が少し言いかけた時に、今度はゴズワミ技術部長が割って話し出した。


「所長の言う通りです。副所長はその責任感の強さからすべての事象を自分で把握しようとなさっています。このまま徹夜で作業に付き合うきでしょう。いくらなんでも体がもちません。及ばずながら私ががんばりますので少し休んで下さい」


 二人からの、自分のことを心配してくれている一見ありがたい話なのだが、彼女にとっては今更どうもおかしな感じがした。何かウラがあるのではないかと。

 彼女は両手を肩の所まで持ち上げて手の平を広げて二人を制するかのようにして言った。


「ちょ、ちょっと待って下さい。お二人のお話はとってもありがたいわ。でも、一昨日にはちゃんと寝ているし、食事や水分も自分が欲しいと感じた時に摂っているわ。この際少し痩せればいいのにとも思っているのよ。・・・大丈夫。自分の体は自分が一番よくわかるわ」


 所長と技術部長は、彼女の笑えない冗談に互いに目を合わせながらも、いきり立つようなテンポのしゃべり方に少し圧倒された。


「それに、明日のインド科学省への対応もうまくやります。そのためにはここで何が起こって、ポセイドンのクルーがどんな処置を施し、トリウム原子炉は今どうなっているかを把握していないと所長に報告できません。それも明日の朝までに。・・・本当のことを言えば、そうした科学的事象を正確に把握してから、インド科学省に説明したいところです。まだ現場が混乱しているのにやってくるなんて。彼らの相手を磨るだけで手が取られてしまうわ」


「おい、おい、インド科学省をそんな風に言うもんじゃない。彼らとしても一日も早く実情を把握して事故原因把握と今後の方針を立てなければならない。だから、完璧な報告よりも途中段階の報告でいいんだ。彼らがこの発電所に来た時点で作業指示などは彼らに権限が移る。いや、だからと言って手抜きをしていいと言っている訳ではないんだ。私としては、その、君の・・」


 ナイク副所長はミトラ所長の話を聞きながら、今度は逆に彼女が話の腰を折った。


「そんなッ、作業指示の権限云々なんて関係ないわ。大事なのは彼らと我々が力を合わせて事故原因を突き止め、本格的な復旧工事の工程を作ることだわッ」


 今度はゴズワミ技術部長が彼女の面子を立てつつ、なだめるように言った。


「副所長のおっしゃることはもっともです。ただ、もともとこのトリウム原子炉を設計したのはインド科学省の技術者たちであることは副所長もよくご存知でしょう。その彼らが乗り込んでくるのは科学者の責任として当然のことだと思いますよ。・・ですから、所長がおっしゃるように今は少し休んで下さい。後は任せて下さい」


 ナイク副所長は、この二人の本心が何なのかがわかってきた。技術部長の話を聞きながら軽く、小さなうなずきを繰り返して、「そちらの魂胆はわかったわ」とでも言いたげな表情で二人に向かって言った。


「御心配かけていただいて大変ありがとうございます。それじゃあ、技術部長にはインド科学省への説明用資料の準備をお願いするわ。それと、所長には彼らへの接遇、説明、滞在のための準備を手配してください。・・・これでいいかしら?」


 それを聞いたミトラ所長は、まだ彼女は強情を張っているなと感じたので彼女と技術部長の顔を交互に見ながらやさしい語調で言った。


「わかった。ではそういう役割分担でいこう。技術部長は発電所指令室の隣の大会議室を拠点にして、明朝までにインド科学省への説明資料の作成に当たってくれたまえ。さっきも言ったが、時間がないから不明な点は、ごまかさないで“不明”と記載して明日以降の作業に委ねよう。ただデータは分析が済んでいなくても提出してくれ。よろしく頼む」


 ゴズワミ技術部長はコクリとうなずいた。


「・・さて、副所長は今、取り組んでいるデータ分析と技術員からの相談対応を続けてもらう。もちろん明日以降もよろしく頼む。インド科学省の技術者でもすぐには原因解明することはできないだろう。長期間の連続作業が確実なので、今はともかく少し休んで明日以降に備えてくれ。君に“途中降板”してもらうわけにはいかないんだよ。・・・わかってくれるね」


 ナイク副所長は思った。「うまい理屈付けをして私を持ち上げておきながら、実際にはインド科学省との対応から私を遠ざけたいんだわ」

 

 彼女は自分を遠ざけたがっている理由は、今回の事故の原因はひょっとしたら、定期点検の際に計画以上に交換部品が多いにもかかわらず、予算と点検工程を優先させたため、長年の運転に耐えられなくなった個所が複数重なって起こってしまったのではないかと長年のカンでそう感じていた。

 そうなると、そうした点を軽視して運転優先の姿勢を継続してきた所長以下の技術系幹部の責任問題に発展する。当然、自分もその中に含まれる。

自分としてはトラブルの度に運転中止して点検するよう意見具申してきたし、点検時にも交換部品の計画外調達を主張してきた。


 ところが、トラブルが年に何回も起こってその都度具体的対策を主張してきたが、その度に「予算がない」とか「予定通り運転していなければトリウム原子炉に対する国家、世界中の原子力関係の人々に不信感を抱かせてしまう」、「中国にトリウム原子炉の開発競争で負けるわけにはいかない」などといつも同じ答えが返ってくることが常であったため、彼女の心の中に当初から抱いていた“技術的問題の完全解決”の理想が次第に薄れていったのかもしれない。


 確かに物事を、しかも新しいことを遂行していくためには、往々にして起こるトラブルに対し、限られた原資の中で難しい優先順位を決めて行かなければならないことは、原子力開発に限ったことではなく、町中の工場でも同様な事象に対し決断を強いられるわけだから同じなのだ。

よって、無いものねだりではなく、現に有るもので如何に工夫して難局を乗り切るかが技術者に課せられた運命なのだ。予算やマスコミ、政治家対策は優れた行政官に任せておけばいい。


 彼女はミトラ所長が話しかけてきたことには上の空で、これから先、どうしたものかとダービンのように頭をフル回転させて考えていた。所長にはちゃんと聞いているように見せかけるために何回も小さくうなずいていた。


「副所長、どうした? 私の話を聞いてくれているのかね」


 ミトラ所長の言葉に、彼女はハッとして返事を探した。


「・・ええ、所長、よくわかりました。・・では、少し休みます。・・技術部長、インド科学省への説明は任せるわね」


「はい、何とか明朝には形だけは整えておきます。それを副所長と所長に説明します。では、所長、すみませんがインド科学省への対応準備はお願いします」


「ああ、わかったよ、技術部長。対応準備は総務部にも手伝ってもらっている。なあに、彼らも見学に来るわけではないんだ。形式的なことは省略したって構わんさ。彼らの任務はあくまで調査とその対策のためだからね。すぐに原子炉を見せろと言ってくるだろう。・・厳しい場面も出てくると思うが二人ともよろしく頼む。世界が注目しているからね」


「それでは」と、三人はそれぞれのやるべき仕事に向かって持ち場に分かれて会議室から行った。会議室には誰もいなくなった。ただテーブル大の平面ディスプレイだけが名残惜しそうに図面を表示していたが、それも間もなくして省エネモードに変わり、照度が落ちて一見ただのテーブルにしか見えなくなってしまった。


 ナイク副所長は初めから休む気などさらさらなかった。明朝までに何としてもせめて事故原因だけでも自分が納得いく答えを見つけ出しておきたかった。

偽善的に映る所長との約束を反故にして、ナイク副所長は自分の居場所を確保しようとあれこれ考えていた。


「肝心の管制室の横の会議室には技術部長がいるから、その辺には行けない。それでいて発電所の技術員とも話ができて、メインコンピューターとアクセスできる装置がある場所はどこかしら?・・そうだわ。ポセイドンのネール少佐たちがトリウム原子炉の“一夜漬け”のメカニズム講義を行った見学者用展示室があるわ。あそこは急きょ改造して、メインコンピューターと回線をつないだままになっているし、構造図面や部材の仕様書も取り出すことができる。見学者用展示室だから広さも十分だわ」


 彼女は独り言を言って、休憩も取らずに見学者用展示室に向かった。そこはタービン建屋から別棟になっていて、そこまでの長い廊下を歩き、見学者がそれ以上入り込めないセキュリティーゲートを通り抜け、高速リフターに乗り込んだ。さすがにこの別棟の建物には発電所の職員はほとんど見かけなかった。みんなタービン建屋など主要装置の付近で作業しているからだ。


 高速リフターの扉が開き、彼女は見学者用展示室に向かって歩きながら、ある技術員をモビルPCで呼び出した。


「カマス?こちらナイクよ。さっきあなたが言っていたチューブの放射能の値だけど、何かわかった?」


「カマスです。先程、メインコンンピューターの時刻別の値と照合したところ、同じ値が出ました。それでもう一度、二回目のチェックをかけている所です。もうすぐ結果が出るところです」


「なんてことなの。それじゃチューブ周辺はもとより、チューブの両端の装置の周辺の放射能も測定しなきゃならないわね。化学測定班の中で待機している人はいるかしら?」


「大丈夫です、副所長。問題のチューブ周辺、そこからその両端まで放射能の測定を今、化学測定班が実施中ですが、許容量以下の値しか検出されていません。まだ全部終わったわけではありませんが、この高い値は瞬間的なもので、すぐに拡散してしまって、周辺装置には汚染が及んでいないということになります」


「そんなことってあるのかしら。・・・漏れた個所が自然に塞がるなんてありえないわ。・・あッ、今、私は別館の見学者用展示室にいるの。こちらの仮設コンピューターからそちらのメインコンピューターにつないだから、そのデータを送ってちょうだい」


「えっ、見学者用展示室ですって? 何でそんな所にいるんですか?」


「その話は後でゆっくり話すからデータを送って。こちらのテンポラリープロトコルは、“ナイクTMP58シータ”よ」


「わかりました。今、送りました。届きましたか?」


「ええ、カマス、ありがとう。届いたわ。・・・これは・・やはり変だわ。無風状態の放射能の拡散速度からしても、ほんの一瞬だけ放射能がもれたとしか考えられない・・・うーん。・・・」


「副所長、二回目のチェックが終わりました。やはり一回目と同じ結果です」


「・・・・・・・・・・」


「副所長? 聞こえていますか?」


「ああっ、ごめんなさい。聞こえているわ。・・・」


「副所長、現場に行っていた化学測定班から今、報告が入りました。ええーと、大丈夫ですね。どこも現在は汚染されていません。ひとまず安心ですね、副所長」


「ええ、現場を封鎖することになると大変な手間がかかるわ。それにこれからの調査にも物理的制限が加わることになる。最悪の事態は免れたわね」


「副所長、チューブからの放射能漏れの件ですが、例えばこんなケースはありえるでしょうか?」


「どんな?」


「例えば、爆発とかの瞬間的な振動や力がチューブの継ぎ手に加わって、そこからその時だけ放射能が漏れ、次の瞬間には継ぎ手に復元力が働いて元の状態に戻った。だから、それ以降は放射能漏れがない。という仮説はどうでしょうか? この高い放射能を検出した検知器はチューブの継ぎ手のすぐそばにあるんです」


 ナイク副所長は考えた。「爆発? 瞬間的な振動? テロ行為があったわけじゃないし、トリウム原子炉では構造的に軽水炉のように水素爆発など絶対に起こらない。・・・ハッ、ポセイドンの狙撃手の弾丸! でも狙撃ポイントはこことは違うわ。・・・いえ、ネール少佐が言ってたわね。たしかダヴィにある工房ではムンバイ岬のユダヤ教会の鐘楼の修理をしていて、その教会では直接鐘を鳴らすのではなく、地上で鳴らす鐘の音は、金属の管を通って鐘楼の上部にある拡声器のような金属管から街に伝わると。振動の周波数が合えば共振現象で離れたところでも振動する」


「カマスの言うように放射能漏れの原因は弾丸だったのかもしれない。でも立証しようにも事実上、無理だわ。あの狙撃手はもういないし、証拠もない。それにそもそも原子炉近くで狙撃を行ったなんて報告書には書けないわ・・・」


「副所長、どうしました? 大丈夫ですか?」


「ありがとう、カマス。とっても参考になったわ。さあ、この件はこれとして事実だけを記録しておきましょう。証明できる事実だけを」


 ナイク副所長はこうして見学者用展示室を拠点として、発電所の技術員から頻繁に寄せられる報告と向き合って、科学面、コンプライアンス面などから報告事象を分析し、時系列及び装置の類型別に整理していった。次第に報告の頻度と重要性が少なくなるうちに、いつしか彼女は見学者が座る椅子に座り、ウトウトした次の瞬間には眠ってしまった。しかし、彼女の頭の中には、原子炉のトラブルの原因を仮設で突き止めてはいるが、それを証明することができずにもがいている自分自身がいた。


「証拠を・・・」


 やっと聞き取れる小さな声のうわ言を漏らす彼女はやがて論文のことも忘れ、疲れ切った一人の女性に戻っていた。



 ― ダヴィの工房 ―


 ネール少佐は工房の前で電気自動車のタクシーから降りて、工房の中に入った。奥にある作業場ではこれまでと同じように、親方が製作に没頭しているのと、工作機械の音のせいで少佐が入ってきたのにも気づかなかった。その隣ではレベッカ・ベングリオンが親方の手伝いをしていた。彼が入ってきたことに気付いた彼女は笑顔で話しかけた。


「あら、ジャハ、こんにちは。発電所の方はどうしたの? もう修理は終わったの?」とレベッカは少佐に尋ねた。


「ああ、終わったよ。少なくとも我々ポセイドンの役目はね。あとは発電所の人たちが何とかしてくれるだろう。もともと彼らの発電所だしな。でもこの後も大変だろうな」


 ネール少佐は独り言のようにつぶやきながら工房の中を見渡し、レベッカのところへ歩いてきた。ふと、視線を変えると、工房の中の色彩とは馴染めない山吹色の花束が花瓶に活けてあった。茎は細いがしっかりしていてピンと直立している。葉は小ぶりでその先端にコスモスくらいの大きさの花弁が付いている。「きれいな花だ」と思った。この辺に咲いているのだろうか。


「きれいでしょ、その花」


「ああ、きれいな色をしているね。この辺に咲いているのかい?」


「いえ、この辺は見ての通りよ。・・花なんかないわ。家庭菜園はあってもね。・・みんな食べるのに精いっぱいなのよ。花ではお腹のたしにはならないもの」


 レベッカはサバサバとした口調で続けて言った。


「この花は、この先の岬の上にある教会の近くにたくさん咲いている花なの。名前は・・・神父さんに聞いたことがあるけど忘れちゃったわ。岬周辺に自生しているだけあって、茎とか根はしっかりしているの。私が教会に行った帰りに摘んできて花瓶に入れているの。それとあなたと最初に会ったインド海軍の港湾事務所近くの出店でもこれを活けてあったのよ。あなた、気付かなかったのね」


 ネール少佐にとっては全く覚えがなかった。どうしてこんなことぐらい気付かなかったのか不思議だった。活けてある場所が違うと認識力も違うものなのか。少佐は黙ってしまった。

一方、レベッカは少し得意げに笑顔で話した。


「それにね、その花には昔から言い伝えがあって、その花が咲いている岬に教会が建っていて、そこの断崖からこの花を海に向かって投げて、落ちて行く間にお祈りをすればそれが叶うっていうものよ。この辺のユダヤ教徒の人は時々こんな風に願いごとをするわ。でも、科学技術者ノネール少佐にしてみれば、何の証拠もない迷信にしか聞こえないでしょうけれど」


 ネール少佐は返す言葉がなかったので、話題を反らして言った。


「私のいるポセイドンには日本人の乗組員がいて、その人から聞いた話だが、日本では“華道”といって、花を生ける作法、形式があって数百年の歴史があるそうだ。先生と生徒がいて、その技が代々伝えられているらしい。その技というのは、単に花を飾るのではなく、どんな花をどのように切り、どこに配置すれればより美しくなるかを探求するアートだという。・・何となく哲学的だね。私にはよくわからないが」


「でも、それって、何か奥深さがあって面白そう。・・ここの工房での製作過程の技もどこか日本の“華道”に似ているようなところがあるわ。親方、そう思わない?」


 工房の親方は口を挿むことなく作業をしている。


「へえ、そうかい。具体的にはどんなところが?」とネール少佐は彼女に尋ねた。


「うーん、あらためて聞かれるとうまく答えられないけれど、・・今の親方だってずっと昔は、今はもう亡くなった大親方に弟子入りして、材料の判別・仕入れ、工作機械の使い方とカスタム化、製品の設計・加工などの多くの工程を身につけて行ったわ。それぞれの段階ごとに判断力が試されるけれど、それ自体を数値化したり、文章にしたり出来にくい“技”なの。そしてその判断結果が自分の思い通りになったかどうかは、本人でなきゃわからないわ。・・わたしみたいに製品になる以前の段階でダメになってしまうようなのは問題外だけど」と彼女は自嘲気味に笑って言った。


 ネール少佐は彼女の言葉を黙って聞いていた。

 

彼の世界では、ほとんどの作業がコンピューターに指でタッチパネルを触って指示を出すだけで、後はコンピューターに事前に設定されているプロトコル通りに事が進んでいくわけで、ここの作業工程とは全く異なるものだ。数世紀前であれば帆船の航海も風と天候を絶えず読みながら手作業に頼らなければ、水平線の向うに見える島にさえも辿りつくことができなかったであろう。

しかし、テクノロジーの改良の積み重ねによって今に至っている。この差はどこからきているのだろうか? 親方の使っている工作機械も昔はなかったはずだ。つまり、いつかの時代において開発・改良されて今に至っているわけだ。改良のスピードが違うだけで“技”の進化はここでも起こっている。


 生物が進化してきたように、テクノロジーという概念そのものも“進化”という事象の前では、その中に組み込まれてしまう概念なのだろうか。


「ねえ、ジャハ、どうしたの。急に黙り込んじゃって」


「いやあ、・・だいぶ疲れが溜まっているのかな。先日、こちらにお邪魔した時以来、発電所の中から一歩も外へ出ていなかったからね。潜水艦乗りだから地上と遮断されるのには慣れているはずなんだけど。やはり、発電所の中じゃ勝手が違うのかな」


「じゃあ、発電所の修理も一段落したことだし、少し休んでいって。むこうに給茶器があるからお好みのものをどうぞ。お構いできなくてごめんなさいね。なにせこのありさまだから」


 レベッカは、粘土で汚れた両手をネール少佐に差し出して、多少照れ気味に笑っていた。そして、すぐに仕事に戻った。親方はそんな二人の会話を気にすることなく、また、レベッカに仕事に早く戻れと促すこともなく黙々と作業を続けていた。


 ネール少佐は彼女に言われた給茶器で紅茶をカップに注ぎ込んだ。そして、紅茶をすすりながら工房内の展示品を見ながら、ゆっくりと歩きまわった。歩いているうちにふとあるものの前で立ち止まった。それはとてもきれいな七宝焼のネックレスだった。彼はそれを手にとっていろんな角度から眺めた。これもここの親方が作ったものだろう。装飾品なんかには全く興味がなかったが、岬の丘の上の教会で自分が買ったものとよく似ていた。


「レベッカ、仕事中ごめん。この七宝焼のネックレスは売り物なのかな?」


 彼女は振り向いて少佐が両手で持っているネックレスを見た。


「ええ、そうよ。その辺に置いてあるものはそうよ。今度は誰かへのプレゼントなの?」


「いや、そんな人はいないよ。岬の丘の上の教会で買ったものと似ていたから、親方の作品なのかな」


 それを聞いたレベッカは、ちょっと安心したと感じている自分に気付いた。


「ええ、親方が作ったものよ。それもきれいでしょ」


「そうだ、ちょっと待っていてね。今、手を洗ってきて、この間買ってもらった七宝焼の入れ物を取ってくるから」とレベッカは親方の目を見て、持ち場を離れることの了解を求めたのだった。


「じゃあ、ひと休みにするか」と親方はポツリと言った。そして、工作機械を止めた。工房内はモーターの回転が落ちて行くにつれて静かになっていった。


「いや、いいよ、レベッカ。このままで。任務は終わったからこのまま首に下げて行くよ。箱一つだって大切だろ。ここでは」とネール少佐は入れ物を取りに行こうとしたレベッカを制した。


「本当にいいの?」ネール少佐の言葉にレベッカは立ち止まった。


「ああ、構いやしない。それよりこのネックレスを付けてくれないか。こういうものを身につけたことがないものだから、やり方がよくわからないんだ。首の後ろだと見えないんでね」


「ええ、いいわよ」とレベッカはネール少佐の背後に回り、ネックレスの留め金を開いて首の後ろでつないだ。


「ありがとう。・・で、どうかな?」


「いいんじゃない。・・・でもその制服はちょっとね。カジュアルな上着のほうがいいわね」とレベッカは腕組して彼の全身を見渡し微笑みながら言った。

 正直言って、この人には似合わないわねとでも言いたげだった。


「わかった。今度は普段着の時に付けてみるよ」


 二人は目を見合わせたままだったが、互いに次の言葉を探していた。どちらからも言いだせないまま数秒間が過ぎた。彼らにとってはそれが数分にも感じ取れた。


「さてと、じゃあ私、仕事に戻るわね」


 レベッカは息苦しい雰囲気を打ち消すかのように切り出した。本音はネール少佐とのおしゃべりを続けていたかったが、歩きだして作業場に戻っていった。


 ネール少佐は何も話しかけられない自分が歯がゆかった。仕方なく、彼女の後について奥の作業場へ向かった。彼女が作業場で工作機械のスイッチを入れると、さきほどとは逆にモーターの回転が上がるにつれてうるさくなった。ネール少佐は大きな声でレベッカに聞こえるように話しかけた。


「仕事に戻るってどういうことだい? さっき親方が休憩にしようと言ったじゃないか。なにもこんなに早く戻らなくたって」


 ネール少佐の言葉を聞いて少しうつむきかけたレベッカは、顔を上げて彼に向かって言った。


「ごめんなさい。私、今日中にやらなきゃならないことがあるの。今、岬の教会の装飾品を修理しているんだけど、なかなか親方の目にかなうものにならなくて・・」


「そうなのか。・・それは邪魔してすまなかった。いや、本当にごめんよ」


 ネール少佐は思ってもみなかったので、内心どうすればいいか戸惑った。自分は原子力発電所の復旧に目途が立ち、気楽になって工房を訪ねたわけだが、考えてみれば、その発電所では今もナイク副所長たちが残務作業に頭を抱えているはずだ。気付いたら気楽なのは自分だけだった。みんな自分の持ち場を必死で守っている。自分の居場所はここではなく、ポセイドンなのだ。


 彼はそんなお気楽な自分を恥じた。そして、レベッカに言った。


「それじゃ、僕はポセイドンに帰るよ。・・・装飾品がうまく作れるようになって、君が親方から認められるようになることを祈ってるよ」


 それを聞いたレベッカは工作機械のスイッチを切った。辺りはまた静かになった。


「ありがとう。あなたは潜水艦に戻ったらもうここへ来れなくなっちゃうの?」


「残念だがその通りだ。本来なら原子力発電所だけのはずだったが、ひょんなことから、ここへ出入りさせてもらった。楽しかったよ。・・ムンバイでのいい思い出になった。・・レベッカ、親方に習っていい職人になれよ。僕は原子力発電所の復旧に目途を付けたが、君は岬の教会の復旧に頑張れよ」


 親方は給茶器のそばでチャイをすすってくつろいだままだ。二人の会話に興味があるのかないのかわからないが、少なくとも何かを話したり、顔を向けることはしなかった。 


 レベッカはネール少佐の顔を見たまま、何かを言いたそうだったが寂しそうな表情のままで、唇が少し動くだけだった。


 彼女の表情をみて、その気持ちはネール少佐にも伝わった。しかし、彼にはどうすることもできない。


彼は親方の方を見てお礼を述べ、振り向いて工房の出口に向かおうとした。


その時、レベッカはネール少佐のそばに行って、ようやくじれったい唇を動かせた。


「ジャハ、こちらこそありがとう。原子力発電所の縁であなたに会うことができたわ。そして、世の中にはあなたのような仕事をしている人がいることも知ることができた。これも神様のお導きね。さあ、神様にお礼するためにも教会の復旧工事を頑張らなくっちゃ」


 ネール少佐は黙って聞いていた。


「求めるものは、神様に頼らずに神様と共に生きていくということ。・・・岬の丘の教会からは原子力発電所が見えるのよ。発電所を見るたびにあなたを思い出すわ」


 ネール少佐はなおも黙って彼女の言葉を聞いていた。その後、無言の時間が二人の空間を支配したので、ネール少佐は何気なくペンダントを右手で触れていた。


「その七宝焼のペンダント。・・あなたがそれを見る時、それは私。・・あなたがそれを首にかける時、それは私」


「わかった。・・・じゃ、さよなら」


「さよなら・・・」


 ネール少佐は振り向いて工房の出入り口に歩いて行った。一瞬立ち止まり、振り返ろうとしたがそのまま外に出た。右手には七宝焼がしっかりと握りしめられていた。


 工房の中でネール少佐を見送ったレベッカは少しやるせない気持ちで作業場に戻り、重たそうな手振りで再び工作機械のスイッチを入れた。辺りには規則的な回転音が戻ってきた。

 それまで給茶器のそばで休憩していた親方が作業場に戻ってきて、レベッカの作業をのぞき込んで微笑みながら言った。親方には彼女の気持ちがよくわかっていた。


「やれやれ、お前は休憩が多いのう。そんなことじゃ、いつまでたっても教会の修理は進まんぞ。だが、焦ることはない。大事なのは神様への感謝の気持ちじゃからな」


 レベッカは親方の目を見て大きくうなずいた。その時の彼女の表情には信念に満ちた以前の敬虔さが戻ってきていた。



 ― 深夜の工房 ―


 レベッカは遅い時刻になっても一人で作業を続けていた。親方は既に帰宅しており、工房内には照明の明るさと工作機械の音だけが“生きてる”証しを提示するかのように存在していた。


 工房の外も日中の喧騒は静まり、スラムの街ダヴィは眠りについたようにも感じ取れる。

 

 ただ工房だけが息づいていた。レベッカと工作機械によって。システムとは、人と機械の両方が支え合う時に大いなる成果をもたらしてくれるのかもしれない。


 レベッカは作業しながら、教会のためにいいものを作ろうと一生懸命だった。明日、製作したものを親方に見てもらって何とか認めてもらえれば、自分の作品が教会の一部となるのだ。それを考えるといつもワクワクさせられる。


「もう少し頑張ろう」と彼女は作業を続けた。


 工作機械のモーターは一定の回転数を保っているから、その音は長時間聞いていると、何か子守唄のような睡眠作用がある。彼女はいつの間にか眠りについた。その表情には工房で働いている時の敬虔さとは違い、どちらかというとあどけなさがあった。


 彼女は眠ってしまったが、その思いは遥か遠い岬にある教会に飛んでいた。そこには自分が製作した工芸品がきちんと教会の一部として据え付けられているのを見て感激している自分がいた。

 明日の朝、彼女が目を覚ました時にそれを覚えているかはわからないが、この一瞬には確かに彼女の意識は教会にいたのだ。しかし、それは誰にも証明することはできない。彼女自身でさえも。

 

 そんな彼女を見守るように、工房の中に活けてある山吹色の花は照明に照らされて、花瓶の中で花弁の重さに負けまいと凛として立っていた。


 工房の周りの家々にはほとんど電灯の明かりが消えてしまった。しかし、こんな遅い時刻になっても工房の窓から漏れる灯りは消えることがなかった。まるで神への祈りが途切れることがないのと同じように。それは暗闇の中で灯る一点の光明のようであった。




 第九章 三人それぞれの道



 ― インド海軍の寄港地の岸壁 ―


 八月十四日 早朝。原子炉の稼働は安定し、ポセイドンのネール少佐ら機関部のスタッフの仕事も無事完了した。当初は自分たちの手に負えるのか自信はなかった。また、実際に発電所に乗り込んで、発電所スタッフとの復旧作業に関する打合せをしてもすれ違いの連続で復旧作業が暗礁に乗り上げた状態になった。

こんな調子では復旧はできないだろうと思われたが、メール少佐の提案を発電所側が採用してくれたことによって、とりあえず復旧作業に取り掛かることができた。しかし、その時点でも本当に復旧できるかどうかはやってみなければ分からないというのがスタッフの実感だった。


 ティエール艦長、ビスマルク副長、ネール少佐、私(島観戦武官)の四人はポセイドンが停泊しているムンバイにあるインド海軍の寄港地の岸壁に立っていた。午前九時が出航予定時刻だ。発電所からは、ミトラ所長、ナイク副所長、ゴズワミ技術部長の3人が見送りのために就航時刻の十五分前に自動車で岸壁に到着した。我々は自動車から降りてきた発電所のミトラ所長、ナイク副所長、ゴズワミ技術部長の三人からの謝辞を受けた。まずミトラ所長が言った。


「今回の原子炉事故ではポセイドンのネール少佐をはじめとする機関部の皆さんに大変お世話になりました。もし、皆さんの支援がなく、我々だけであのまま復旧作業に当たっていたら今頃どうなっていたことやら。我が国が推進しているトリウム原子炉の信頼性が地に落ちるだけでなく、場合によっては環境破壊に至ったかもしれない。・・そんなことを考えたらゾッとします」


 それを聞いたティエール艦長が言った。


「ミトラ所長にそう言っていただいて、ネール少佐たちの苦労も報われます。・・・正直、国際連邦本部からこちらの原子炉の復旧作業を支援しろとの指令を受けた時には、我々の専門外の分野なので果たしてご期待に沿えるかどうか不安でした。・・でも、良かった。うまくいって。少佐、今回はご苦労だったな」


「は、いえ。・・・・・」とネール少佐は艦長の方を伏せ目がちに見て答えた。


 そのネール少佐をナイク副所長はじっと見ていた。


 今度はネール少佐とナイク副所長の目が合った。ナイク副所長はティエール艦長に向かって言った。


「艦長、いま所長が申したように本当にありがとうございました。作業に取り掛かる前の打合せでは、ネール少佐の提案には、私は正直言って否定的でした。でも、自分の解決策でもうまくいかなかったこともあり、仕方なく少佐の提案を受け入れたというのが本音です」


 ナイク副所長は落ち着いた口調で続けて言った。


「今から思えば私たちは発電所でずっと勤務してきたので、原子炉技術について発電所という枠組みの中だけで考えていたような気がします。・・・少佐は私たちより原子炉の専門家ではありませんが、・・あっ、失礼。・・工業技術の専門家で私たちより広い視野をお持ちで、まだ未成熟のトリウム原子炉技術に真正面から向き合って解決策を見出されました。UFF(国際連邦艦隊)にはネール少佐のような技術者が大勢いらっしゃるのでしょうか」


 ナイク副所長の言葉に対して、ネール少佐は無表情で聞いていた。彼女からの質問に対し、ティエール艦長が答えた。


「UFF(国際連邦艦隊)には技術者は大勢いますが、私も専門が潜水艦なので、正直なところどんな人材がいるのか知りません。・・ただ、私が自信を持って言えるのはポセイドンの機関部を全面的に信頼してネール少佐に任せていることです。ですから、これまで技術的難題が出るたびに彼に振り向けていましたから、ずいぶん鍛えられたことでしょう。・・そのおかげで今回のトリウム原子炉の復旧作業が成功したのかもしれません」


 ティエール艦長がしゃべっている間も、ネール少佐はずっと無表情のままだった。


 ナイク副所長は無表情なネール少佐に対し、少しじれったさを感じていた。ネール少佐に話しかけたいが、何となく話に乗ってくれないような雰囲気だったからだ。やっぱり、論文を共同で書くのか、書かないかのすれ違いが跡を引いているのかな、と思った。

 何とかネール少佐の気を引きたいのだが、直接話しかけるのも気恥ずかしいので、ティエール艦長に話かけて何かきっかけがつかめないか探っていた。それでも、ネール少佐はずっと黙ったままだったので、彼女は思い切ってネール少佐に向かって話しかけようと思った。でも、論文のことは絶対に口にしないようにと注意しながら言った。


「ネール少佐、大変そうですね。いろんな難題を託されて。・・・今回のことは私にとっていい勉強になりました。それと、最初は、少佐のことをトリウム原子炉のことには素人のくせに・・・と思いました。自分たちでなければこの原子炉を理解できないと。・・・とんでもない思い上がりでしたわ。少佐には謝らなければなりません。世界は広いのだとあらためて思い知らされました」


 ナイク副所長は続けて言った。

「ティエール艦長がおっしゃったように、あの時のネール所長の発想というか、ひらめきというか、もちろん科学のバックボーンに裏打ちされた、偶然ではない、必然性に近いアイデアは、発電所の中だけで生きてきた私たちには思いつかないものでした」


 ネール少佐は彼女の言葉を聞いているようだったが、ずっと無表情で彼女の方を見ようともしなかった。私からすると、まるでビスマルク副長のようであり、内なる感情を押し殺しているようにも思えた。


 発電所内でネール少佐とナイク副所長との間で、発電所復旧方法について議論が交わされたことは今の会話でわかった。しかし、単なる議論だけでなく、二人の間で何らかの感情の交錯があったことが想像された。

 ネール少佐の提案によってトリウム原子炉が復旧し、発電所の所長以下の職員全員が感謝している。うまくいったはずなのに、なぜネール少佐が無表情でいるのかわからなかったが、何となく“掛け橋”的な言葉をかけたくなった。私(島観戦武官)の悪い癖だ。


「ところで、ネール少佐。私は原子力技術については潜水艦の主機として少しかじった程度でよく知らないが、今回のUFF(国際連邦艦隊)本部からの指示には、いくらなんでもポセイドンの業務範囲ではないと思った。でも、本部が満足する報告をネール少佐は導き出した。正直なところ潜水艦の原子炉の知識があれば最先端のトリウム原子炉のトラブルにも対応できるものなのですか」


 私(島観戦武官)は技術的な興味で質問してみた。それに対してネール少佐は私の問いかけの間も私と目を合わすことなく、ぼんやりと前を見たままでいたが、私の問いかけが終わった時に私の方に向かって「どう答えていいものか」といった、ちょっと困った表情をした。

 そして、重そうに口を開いた。


「いえ、偶然と幸運の結果ですよ。・・・ナイク副所長はあのようにおっしゃっていますけれど、私はアイデアを提案しただけで、それも最初はトリウム原子炉の技術チームの了解を得られないような程度のものですよ。ですから単なる偶然です。トリウム原子炉のノウハウは一朝一夕には有られません。基本的にはポセイドンの機関部の技術知識は発電所の技術チームにかないません。・・・まして、ポセイドンにはトリウム原子炉はありませんからね。ともかく、素人の思いつきが、偶然に良い結果をもたらしただけです。逆に定期点検が終わって通常運転に入る制御方法を私は全く知りませんからね」


 ネール少佐の言葉を聞きながら私(島観戦武官)は思った。なぜ、発電所の原子炉、しかも、トリウム原子炉のトラブル復旧にポセイドンが派遣されたのだろうか?

 インド政府からの支援要請があったとしても、原子炉を持っていないポセイドンにとっては門外漢のはずだ。それを承知でポセイドンに命令が発せられたことは何を意味するのだろうか?

 UFF(国際連邦艦隊)の他の原子力潜水艦に命令したとしても、商業発電所用の原子炉と潜水艦の原子炉では機械工学的に全く異なるものだ。UFF本部は、ポセイドンでは復旧が無理とわかっていて、つまり、復旧できなくても「要請には応じました」ということを言いたかったのか?

 それともトリウム原子炉という最先端の原子力発電所の技術的未熟さを世界に見せつけるための猿芝居の片棒を担がされたのか?・・などと勘繰りたくなる。


 それにしてもどうしてネール少佐は専門外にもかかわらず技術的アドバイスができたのだろうか? 彼の経歴ではニューデリー大学からUFFアカデミーに入学し、そこで潜水艦の技術を学び、艦隊に配属されているので原子力発電所勤務した経験はない。自分でトリウム原子炉について勉強していたのだろうか? いや、そんな程度で原子炉技術は理解できないだろうし、まして、最先端のトリウム原子炉技術ともなれば、外部の人間が得られる技術的情報は限定的なものでしかないはずだ。


 まぐれ・・なのか?・・・などと思いめぐらした。ともかく、トリウム原子炉がポセイドンの機関部スタッフの支援によって、安定稼働に戻ったのはまぎれもない事実だ。この事実はUFF本部に報告されるし、私の見た視点でも同様に報告される。これらの報告がUFFにとって歓迎される報告書になるのか、歓迎されざる報告書になるのか、そんなことは我々にとってどうでもいいことだ。


 私(島観戦武官)は発電所の副所長に問いかけた。


「ところで、ナイク副所長。今回のトラブル対応事例は今後のトリウム原子炉の円滑な運転に役立つのでしょうか」


 ナイク副所長はすぐに答えた。


「ええ、もちろんです。ポセイドンの技術部の対処方法についてデータも添えてインド政府に報告しますし、その報告書とは別に、今後の他のトリウム原子炉の運転上の同様なトラブルに陥ったばあいの対応マニュアルとしても理論立てて報告書をまとめるつもりです」


ナイク副所長は続けて言った。

「今回のご支援を今回限りの恩恵にとどめることなく、我が国の他のトリウム原子炉の安定運転の一助になるようになればいいと考えています。インドではウランに頼らず、自国の資源であるトリウムを活用して発電することが基本理念です。今は技術的に未熟なトリウム原子炉ですが、失敗とそれを克服する方法の積み重ねで、たとえ時間がかかったとしても一般の軽水炉と同じような安全性をいつかは確保していきたいと考えています。それが実現されるのは私たちの次の世代になるほど時間がかかるかもしれませんけれど」


 今までほとんど無言のままだったネール少佐は、今の彼女の言葉を聞いて一言口を開いた。


「“次の世代まで時間がかかっても”ですか?」


 ネール少佐はボンベイに来るまでは技術伝承の概念はあまりなく、技術者本人の中で技術を高めていくものだという考えが強かったが、ダヴィの工芸店での体験が技術を時間軸に乗せて考えるようになった。それで彼女が言った言葉の中の“時間”という言葉に反応したのだった。“時間をかける”というナイク副所長の言葉は、彼女に対するイメージと異なっていたからだ。


 ネール少佐は、トリウム原子炉で復旧作業をしている時の彼女とのやり取りを思い出していた。作業は早く完了しなければならないものであったが、そうした復旧技術の技術伝承という点で、彼女はあまり力点を置いていないようだった。論文を書くのも一つの技術伝承ではあるが、それでは生きた技術を伝えていくことはできない。やはり、人を育成することが技術伝承に欠かせないことであるとネール少佐は考えていた。論文は技術伝承の手法の一つでしかない。


 一方、ナイク副所長はトリウム原子炉制御等に関する自分自身の技術の向上とその確立を人生の目標としていた。そのため、発電所内の技術者を見ても、彼女の後を受け継いでいく人材が育っているとは思えない。会議中も彼女の独演会だった。彼女が発電所にいる間は問題ないだろうが、転勤した後のこの発電所はどうなるのであろうか? 引継ぎを受ける者が苦労を背負い込むことになるだろう。


 発電所という公共性及び継続性を求められる施設の管理・運営は個人的な力量の差で左右させるべきものであってはいけない。突出した個人の栄光より、関係者のチームワークで地道な積み重ねが求められるとネール少佐は考えていた。


 そんな彼女が“次の世代の技術者に委ねる”と言ったことは意外だった。本心なのか? いや、そうとは思えない。


 ナイク副所長は、ネール少佐の視線と合わさないようにして、艦長ら周囲の人々に気を配るようにして言った。


「ええ、時間がかかっても・・です。インドでは軽水炉から発生するプルトニウム抑制の観点からもトルウム原子炉を推進しています。私たちだけの技術だけでは未熟な点がありますから他の国の協力を得ながら信頼性を高めていかなければなりません」


 ネール少佐は黙って聞いていた。ティエール艦長は、彼女の話を聞き終えて言った。


「なるほど。プルトニウムの発生量を抑制することは、世界的に取り組まなければならない問題です。今回の我々の技術支援が貴国のトリウム原子力政策の一助となれば幸いです。・・それでは、我々はこれで失礼します。原子炉の連続運転を願っております」


 発電所のミトラ所長ら三人と握手を交わした。発電所のミトラ所長は言った。


「艦長、少佐、本当にありがとうございました。我々もポセイドンの航海の無事を祈っています」


 それを聞いて我々四人は岸壁からポセイドンのタラップに向かった。


 ナイク副所長はタラップを登っていくネール少佐を見上げながら、もう少し話をしたかったが、ミトラ所長とコズワミ技術部長がいる手前、黙ってネール少佐を見送るしかなかった。

 タラップを登った順番は、先頭が艦長、副長、私(島観戦武官)、そして、しんがりがネール所長であった。少佐が止まらずに私(島観戦武官)の後をついて来ているのは足音で分かったが、その胸の内はどうだったのだろう。


 我々はポセイドンのブリッジの天板に立った。艦長はハンディPCから離岸と潜航地点までの微速前進をブリッジにいる航海長に指示した。航海長のドレイク少佐は艦長の指示通りにポセイドンの主機を稼働させ、パイロット船に誘導されながら岸壁から外海へと操舵していった。岸壁は湾の奥まった所にあるため、「ポセイドン」が外海に出るまでのしばらくの間は潜航せずに航行しなければならない。

 副長のビスマルク中佐はすぐにブリッジへ行くために、ハッチを開けて下へ下りて言った。天板には私を含め三人が残った。頭上から降り注ぐ穏やかな太陽と、顔に当たる潮風が名残り惜しく、外洋に出て潜航位置に到着するまではこのまま天板に居ようと思った。


 前方から一隻の大型船が入港してきたので、パイロット船は面舵を取って進行方向

を右側に転進した。進行方向の右側にはさっきまで遠くに見えていた岬の先端が次第に近づいてきた。さらに近づくと、その岬の上には教会らしき建物が建っているのが見て取れた。今回の任務はポセイドンの任務とは関係が薄いものであったが、ネール少佐の逆転の発想とニミッツ中尉の天才的な射撃技術によって、トリウム原子炉の安定復旧という一応の成果を負傷者もなく達成できたことは、ネール少佐の言うように「偶然と幸運」によるものが大きいのかもしれない。私(島観戦武官)は教会に向かって神の御加護に感謝した。


 ティエール艦長を挟んで左側に立っていたネール少佐の方を、私(島観戦武官)がふと見ると、物憂げな表情で進行方向とは逆の岸壁の方を見ていた。さっきの岸壁での発電所の人たちとの別れの挨拶の時もそうだったが、任務が完了した安堵感のようなものは彼からは感じ取れなかった。何かやり残したことがあるのだろうか? あるいは、納得がいかないことがあるのだろうか? 今の雰囲気ではそれをネール少佐に投げかけることはできなかった。


 ティエール艦長は進行方向を向いたまま、すれ違いに入港してくる大型船を見ているようだが、時折、ネール少佐を横目で見ていたが話しかけることはなかった。やはり、ネール少佐がいつもの様子と違うことをティエール艦長も感じていたのだ。



 ― レベッカが通うダヴィの工房 ―


 ダヴィにある工房には、今日もレベッカがいつものように朝から手伝いに来ていた。工房ではいつものように教会の装飾品の製作に親方が精を出していた。テーブルの上に置かれた設計図、粘土の香り、石材を研磨するグラインダーの音などこれまでと何ら変わらぬ朝の光景である。そんな中でレベッカはいつもと違って落ち着きがなかった。そして、ちょくちょく時計を気にしていた。 親方はそんなレベッカをチラチラ見ては、いつもと様子が違うことを感じ取っていた。

ピンときた親方は作業の手を休めずにレベッカに言った。


「行ってきな。レベッカ。・・ポセイドンの出航時刻は今日の朝なんだろう」


 それを聞いたレベッカはなぜポセイドン出航のことを知っているのだろうとびっくりしながらも、笑顔で親方に向かって言った。


「ありがとうございます、親方。じゃあ、ちょっとだけ行ってきます。すぐにまた戻ります」


 そう言って、再び時計を見て時刻を確認すると、レベッカは工房を飛び出すように前の道路に出て自分の自転車にまたがり、ペダルを力強く踏んでスピードを上げていった。

 工房では親方が一人残って飛び出していったレベッカを案じる様子もなく、いつものように作業を続けていた。


 工房をレベッカが出た時刻は午前八時詩四十五分過ぎ。これからポセイドンがいるムンバイ港のインド海軍の専用岸壁に向かっても、出航時刻の九時には間にあわない。レベッカはムンバイ港とは逆方向の南側に自転車を走らせた。レベッカの行先は岬の丘の教会だった。教会への道のりは、教会の復旧工事に当たっている親方たちと何度もいっしょに行ったことがあるので、自転車でしかいけない近道も知っていた。レベッカの自転車は教会に引き寄せられるようにその近道を駆け抜けていった。



 ― 岬の丘のユダヤ教会 ―


 レベッカは息を切らしながら、必死でペダルをこいだ。スピードが出ていて、その風圧が顔にきつく当たるのか、彼女の目にはうっすらと涙があふれ、涙は風圧のせいで頬をつたうことなく、耳元に一筋の線となって髪に溶け込んでいった。


 「ハア、ハア」と息切れしながらようやくレベッカが岬の丘のユダヤ教会への登り口についた時刻は午前九時を過ぎていた。レベッカは思った。「今ならまだポセイドンはムンバイ港を出て間もない頃だわ。この先の教会からなら湾から出ていくポセイドンを見送ることができる。・・・あの人の航海の無事を神様にお願いすることができる」


 ポセイドンの見送りに間にあうとわかっていても、「ハア、ハア、ハア」と息を切らし、額に汗が噴き出していた。教会への石段を悲痛な表情で登っていく様子は、他人が見たらよほどの急用で神父を呼びにきたのだろうとしか映らない。それにしても長い石段だ。これまで何度も親方と来たことがあるのに、こんなに長いと感じたのはレベッカにとって初めてだった。急いでいる分だけ足の筋肉に負担がかかり、時々転びそうになりながら石段の終着点を目指した。


「ハア、ハア、ハア、ハア、」


 やっと石段を登り切り、レベッカは教会の建つ丘の上に着いた。両足はふらついていたが、息を整えることなく教会の近くにある石切り場へ向かった。そして、そこに落ちている石の中から手の平より小さい石のかけらを探し回った。


 教会の外壁の修理を手伝っていた神父は、人の呼吸の荒さが耳に入り、振り返って石切り場の方を見た。そこにはよく知っているレベッカがなにやら急いで石を探しているようだった。その様子からすると、何やら事情がありそうに思えた神父は作業を止めてレベッカの方に歩きながら尋ねた。


「レベッカ、どうしたんだい。そんなに慌てて。この間ここに来た時に落し物でもしたのかね?」


「あッ、神父様。ハア、ハア、すいません、勝手に石切り場にはいっちゃって。」


 息を弾ませながらレベッカは神父を見て言った。息を整えるため、ツバを飲み込んで、続けて言った。


「いえ、落し物ではありません。小さい石を探しているんです。ハア、ハア、あッ、あった」


 レベッカは手の平より小さく、平たい形の石を拾い上げた。そして、近くに咲いていた茎の長い花を摘み、葉の部分をすべて取り去って茎と花だけにした。

 それを見ていた神父はレベッカが何をしようとしているのかがわかった。


「レベッカ、何かの祈願かい? それにしてもそんなに慌てることはなかろうに」

 神父はなぜレベッカがそんなに急いで祈願しようとしているのかわからなかった。


 レベッカは神父の問いに笑顔で返して、言葉には出さなかった。そして、摘んだ花の茎の部分を拾い上げた石に縛り付け、きつく先端を結んで石から花が離れないようにした。


「これでよし」


 レベッカは右手に花を巻きつけた石を持って、岬の先端の方に向かって走り出した。


 岬の先端は安全柵が設置されていた。その下は断崖絶壁で湾の出入り口につながっていた。安全柵の近くからは湾が一望できて、高く上がった朝の太陽の光に海面がキラキラと反射している。湾に往来する船舶も小さくゆっくりした動きで、トリウム原子炉の事故など全く感じさせない、俗世間からかけ離れた平和とのどかな光景がそこにあった。教会がこの地に建てられた理由もその辺にあるのかもしれない。


 レベッカは安全柵のそばまで行くと、パイロット船に導かれたポセイドンが岸壁から外洋を目指して、湾の出口に行こうとしているのがすぐにわかった。


「間にあった」レベッカは心の中でつぶやき、安堵感がこみ上げて来て、息遣いも自然にもどった。


 そこへ神父が小走りにやってきてレベッカの左隣に並んで言った。


「その花を教会の近くの石にくくりつけて岬の先端から願をこめて海に向かって投げれば、その願いは成就すると昔から言われている。もっとも最近ではそんな迷信じみた話はあまり流行らないのか、そんな光景はたまにしか見たことがない」


 そう言って神父もレベッカと同じように眼下を見下ろすと、海面には外洋から湾に入ってくる大型船と、逆に湾内から外洋に出ようとするポセイドンが見てとれた。

 それを見て、レベッカがなぜ急いで小石を探し、花を巻きつけた理由がわかった。レベッカはじっと海面をゆっくり進むポセイドンを見ていた。神父はレベッカに向かって言った。


「レベッカ、・・その花を投げなさい。・・私もいっしょに祈ろう。ポセイドンとその乗組員が無事で航海できますように。さあ、思いっきり投げてごらん。声は向うまで届かないが、君の願いは花に乗り移って海に届く。海に届けばその願いは波紋となって世界中に届く。海はすべての大陸に接しているからね」


 その言葉を聞いたレベッカはうなづき、右腕を振りかぶって花を巻きつけた石を海に向かって投げた。レベッカの右手から放たれた花は石とともに放物線を描きながら海へと落ちていった。落ちて行く間、レベッカは両手を胸の前で組み、ネール少佐への感謝と彼の任務での無事を祈った。ムンバイを大惨事から救っただけでなく、自分にとっても大切な人だから。


 レベッカの頬にうっすらと涙の線が流れた。それを見ていた神父はこう言った。


「レベッカ、この前にここから花を投げて神に祈れば、願いはかなえられると私は言ったね。でも、それだけではないんだ。・・実はその先があって、祈りの相手が投げられた花を海で見つけると、その相手は無事に過ごし、いつかは再び会うことができるというものだ。・・・おそらくその昔、漁のために船に乗って行った大切な人が無事に漁を終え、帰ってきてほしいということからこの“花投げ”が始まったと聞いている。本当かどうかは私も知らないが、そんなことより、人がどうしようもない思いを抱いた時、神のような超越的な存在に委ねざるを得なくなる。それが信仰の本質じゃないかな」


「神父さま、・・・私、・・・」


「もう何も言わなくていい。レベッカ。・・ほら、湾の方を見てごらん。ポセイドンが湾の外に出て行く。そして間もなく海に深く沈んでいくだろう。誰かに知られることなく、誰もが恩恵を被るような。それがあのポセイドンだ」


 湾の入り口にはポセイドンと入れ違いに入ってきた大型船が見えた。それはトリウム原子炉の復旧工事のためにカルカッタ港を出港し、インドの南端のコモリン岬を回ってきたインド海軍の艦船だった。原子炉の交換部品とインド科学省の技術者を運んできたのだ。


 彼らはポセイドンのネール少佐を含む機関部のクルーが、原子炉の応急処置に成功したことをインド科学省からの無線で既に知っていた。


 結果的にUFF(国際連邦艦隊)に先を越された形になってしまい、面子をつぶされてしまった。しかもトリウム原子炉の技術はインドの先端技術である。ムンバイ原子力発電所の技術者が手に負えなかったトラブルを、たかが潜水艦の技術者が応急手当ではあるが復旧に成功させたことは、インド科学省にとって国際連邦に借りができてしまったことになる。


 派遣されてきた技術者の中には「原子炉を復旧できずにいて、我々インド科学省にバトンタッチすればいいものを。ポセイドンめ、生意気なやつらだ」と思っている者もいた。


 レベッカは神父といっしょに岬の丘からポセイドンを見送った。やがて、ポセイドンが外洋に出ると、それまで水先案内してきたパイロット船がポセイドンから離れ、ポセイドンは単独で白波を立てながら進んでいった。そして、艦形が小さくなった頃に潜水を開始し、その姿は海中へと消えていった。ちょうど、レベッカが花を巻きつけた石を投げ、それが海に吸い込まれるように消えていったのと同じように。




 エピローグ



 ― ポセイドンの艦橋上部の天板 ―


 艦長と私(島観戦武官)がハッチから下りて行ったので、ネール少佐は天板に一人ぼっちになった。彼の視線は港や周辺の地形に向けられていた。


「あれ、あんなところに教会がある。・・・レベッカ・ベングリオンや工房の親方たちが修復作業に当たっていた教会だな。岬の先のあんな高いところにあったのか」


 ネール少佐はつぶやいた。それと同時にレベッカは今頃、工房で働いているのだろう。その手作業は明日も明後日も、一年後も数年後も続いていくのだろうと思った。

古い教会だから修理している傍らで壊れていくところが出てくるからだ。お金と技術をつぎ込めば手間のかからない修繕工事でしかないが、彼らなりのやり方では効率性を求めることはできない。


 しかし、その作業に携わった人々の教会に注ぐ敬虔な気持ちは、確実に教会という形となって崩れ去ることなく、この地域に住むユダヤ教徒の信仰の象徴として存続し続けるだろう。最先端技術を駆使したトリウム原子炉がまだまだ脆弱なこととは対照的である。


 ふと、ネール少佐は目を凝らして海面を見た。何か山吹色をしたものが漂っていた。何だろうと思い、ポケットからデジタルバイノクラスを取り出して海面の漂流物に方向を定め、その漂流物を確認した。それは山吹色の花だった。

 なぜ、こんな海面に花が浮かんでいるのだろう。波にさらわれたのか、それとも誰かが流したのかわからないが、波に揉まれていればそんなに長い間浮かんでいられるわけがないはずだ。


 その時、ネール少佐はレベッカが工房で言っていたことを思い出した。


”私たちが修理している教会は岬の先に建っていて、そこの断崖からこの花を海に向かって投げて、落ちていく間にお祈りをすればそれが叶うって。・・科学技術者のジャハにしてみれば、何の根拠もない迷信にしか聞こえないでしょうけれど・・”


 ハッとネール少佐は胸に突き上げるものを感じた。


「レベッカだ。きっと彼女があの山吹色の花を岬から投げたんだ。・・・潮流がここまで運んできたのか」


 ネール少佐はデジタルバイノクラスをポケットにしまい、肉眼で山吹色の花をじっと見ていた。彼女はどんな思いを込めて投げたのだろうか。


 ネール少佐は「花を岬から投げて祈れば願いが叶う。そんなことは昔からの言い伝えに過ぎないし、その証拠もない」と心の中でつぶやいた。

 しかし、花を投げたレベッカの胸の内を思うと、彼女への気持ちがより確かなものとなったことに気づくネール少佐だった。


「彼女の気持ち。・・自分では心に届いていることは分かっているが、他人に説明するとしたらどんな方法があるのか? 証拠はあるのか?」


 ネール少佐は自問自答し続けた。


「・・・証拠がある所は自分の心の中だけか。・・・もし、他にあるとすれば我々の及ぶことのできない超越的存在か」


 山吹色の花は波間に見え隠れし、次第に遠ざかっていった。


 ネール少佐は首から下げていたレベッカの工房で買い求めた七宝焼ネックレスを外して、右の手の掌に乗せてしみじみと眺めた後、グッと握りしめ、花の方に向かってそこに届けとばかりに力いっぱいに投げた。

 小さな七宝焼のネックレスは波間に落ちていったが、しぶきが上がることなく吸い込まれるように海中に没した。そして、花もいつの間にか見えなくなった。


 ネール少佐は岬に建つ教会をじっと見つめた。ポセイドンはムンバイ港から遠ざかり、もはや教会の建物がやっと見える程に外洋に出ている。そこにはレベッカと神父が立っていて、ポセイドンを見送ってくれていることなど少佐にはわからない。


 レベッカが岬でネール少佐をどんな気持ちで見送ったかの証拠は、彼女の心の中にしかない。


 ネール少佐がポセイドンの艦橋上部の天板からどんな気持ちで七宝焼のネックレスを海に投じたかの証拠は、少佐の心の中にしかない。


 ポセイドンは外洋に出て間もなく潜航ポイントに近づいて行った。潮風と白波を切りながらムンバイでの出来事には何の興味も示すことなく、正確に航行しているポセイドン。科学技術の産物と人間は相いれないのだろうか。


 ポセイドンの艦橋上部の天板には既にネール少佐の姿はなく、ポセイドンは潜航態勢に入っていた。艦内では航海長のドレイク少佐の指示のもと、クルーがいつもの手順で潜航操作を行っている。それに抗うことなく、従順にポセイドンは次第に海中にその巨大な艦体を沈めていった。

 完全に潜航してからもしばらくは別れを惜しむかのように海面には白波が漂っていた。


 ムンバイ原子力発電所では今もナイク副所長、コズワミ技術部長らがトリウム原子炉の本格復旧に向けて作業を続けている。


 ダヴィにある親方の工房では今も教会の復旧のために工芸品の製作を続けている。


 今にしてみれば、ポセイドンのクルーが残していった作業は、その重要性、困難性からすると後に残るほどの記録性はない。しかし、彼らとともに同じ目的に向かって汗を流した発電所職員や、工房の親方、レベッカ、神父らの人々の心の中にはこれからもポセイドンを忘れることはないだろう。


 それは、証明するとか、証拠として他人を納得させるといった類の事象とは異なる次元のものだから。



 ― 岬の教会の礼拝堂 ―


 ある日曜日、いつものように教会では集会が行われていた。神父は説教の後に集まったユダヤ教徒を前に述べた。


「さて、先日、ムンバイ原子力発電所でトラブルがあったことはみんな知っていますね。そのトラブル対応に当たった、ある国際機関の人と知り合うことができました。神のお導きでしょう。・・その人も含めた国際機関の人たちと発電所の職員が協力して見事に問題点を取り除き、原子炉が最悪の事態に陥らずに済みました。彼らが来てくれなかったらどうなっていたことか。・・あるいは原子力発電所の職員だけで解決できたかもしれません。その答えは神のみぞ知ることでしょう。・・どちらにしても彼らは懸命に自分の役割を忠実に実行し、成果を上げることができたことは紛れもない事実です。彼らは神頼みで役割を実行したわけではありません。むしろ、自分の英知と努力をもって道を切り開いていったのです。そのいくつもの道がつながって太くなり、彼らの目標に到達しました。・・・・しかし、そんな彼らでも心の中では、最後の努力の後には“何か”にすがりたくなったと聞いています。・・さて、お集まりの皆さん、我々も彼らを模範としましょう。安易に神に頼るのではなく、目標を持ち、努力を惜しまず毎日を過ごしましょう。そして感謝しましょう、神のご加護に。・・これは誰にも証明できません。しかし、はっきり言えることがあります。その証拠はあなたがた自身の心の中にあると」




  海中の潜航航路


  常に変わらない漆黒の世界


  航路の行き先で遭遇した社会に

        我々は何ができるのだろうか


  航路に再び戻った後の社会に

        何か残していけるのだろうか


  残していったものすべてを

  完全に証明することはできない。

   

  でも、証明する方法はどこかにあるはずだ。


  答えを見つけるため

        人は古より航海に出るのか。


 ポセイドンは進んでいく。


 私の意思と無関係に


 静かに穏やかに、そして遠くまで。


 我らが答えを見つけ出すその日まで。


                                    完


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マリンノーツ(第3話)「岬にて」 早風 司 @seabeewind

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