第7話 偉大な父
冬の入口に差し掛かった寒い夜。泰極王の父、
最愛の父、偉大な蒼天の王を失った泰極王は、一人王府の内庭に佇み一本だけある桜木を見つめている。夜空の望月が、そっと二つの影を庭に落としている。その二つの影に、七杏妃はそっと近づいた。
「私は、早くに母をなくしていたので、父は忙しい公務の中で時間を作っては私の相手をしてくれた。王である重圧も悩みも様々にあった事だろう。それらを分かち合う最愛の妃もなく、どれほど苦しく寂しかった事か・・・
私には今、杏、そなたが側に居てくれる。この支えがない事を思うと、ぞっとする。だからこそ、父上の偉大さを感じるのだ。そして、幼い頃からその父に見守られて過ごしていたのだと、胸が熱くもなる。
それにこの護符だ。ちょうど母を亡くし、寂しさが現実のものとなり苦しくなっていた頃に、この護符を手渡されたんだ。だから何となく、この護符が母のような気さえしていた。幼い頃は、こうして身に付けていると、母がここに共に居てくれるように想ったものだ。」
泰極王は、七杏妃に背を向けたまま桜木を見つめ話した。
「泰様・・・ そのように護符の事を・・・ 儀父上は、辰斗王は誠に大きく懐の深い方でした。私も大好きでした。今でもこの胸に、様々なお顔が浮かびます。辰斗王と父、文世が繋ぎ守ってくれた、私たちの情絲に感謝しております。」
「あぁ、杏。私もだ。この情絲のお陰で、今がどれほど幸せで心強く王位に居られる事か・・・ 父上は最期に言ったのだ。
〈泰と七杏を見ていて、何と羨ましかった事か。だが私もこれで、やっと香霧に会える。泰極王よ。そなたは私を越える明君だ。国の事も、そなた自身の事も何も心配してはおらぬ。そなたに託して安心しておる。その身体と七杏との情絲は、大切にな。いつかまた、向こうで会うその時まで。泰の胸の内の仏に恥じぬよう進め。〉と。その言葉を胸に、これからを歩むつもりだ。」
泰極王は振り返り、七杏妃に向かいあった。
「えぇ、泰様。そうです。辰斗王の為にも、私たちが手を取り合い情絲を大事に、この蒼天を守って参りましょう。」
「あぁ、杏。その通りだ。悲しみに溺れていては国が、民が迷ってしまう。しっかりしなければならぬ。」
「えぇ、泰様。これも王族の務め。きっと辰斗王も、そう望んでおられます。」
泰極は大きく深く頷き、七杏妃を抱きしめた。その頬には、涙がとめどなく流れている。偉大なる辰斗王の死に、国中は喪に服し深い悲しみに沈んだ。それでも変わらぬ蒼き空と蒼き水が育む自然は、時と春を運んだ。
あれから二年が経った。泰極王にとって今や、
この温泉は、黄陽国から空心と七杏が戻って来る直前に湧き上がったもの。当時は初めて見る地面から吹き上がる温水に皆が驚いた。水柱だ火柱だと大騒ぎになったのだ。そして、調査に向かった泰極自らが指揮を取り整えたこの温泉は、開泉してから二十数年、蒼天の民に愛され大事にされてきたのである。
すでに喜寿を迎え、近頃は遠出もせず庵に籠り経典をまとめているか、朝顔や植物の世話をし近くを散歩するだけになった空心。そんな空心にとって、龍峰山の温泉までは、馬車に揺られ久しぶりの遠出である。
蒼天の自然の中で二人で湯に浸かり、のんびりとした時を過ごす。穏やかで幸せな時である。
「あぁ、空心様。ここは変わらずよいお湯ですね。山の気も清々しい。緑光眩しく空は蒼く、よい時季となりました。」
「えぇ、えぇ。泰様。よいお湯ですなぁ。今日はこの老いぼれを連れて来てくださり、ありがとうございます。」
「やめてください。空心様。私にとって空心様は父も同じ、こうして二人で一緒に温泉に浸かり、穏やかに話せる時は幸せなものにございます。」
泰極の言葉に、空心は嬉しそうに笑い手を合わせて見つめた。
「いやいや。誠によいですな。よく世話もしてあり清潔に整えられている。天地の恵み、五色の龍と鳳凰の恵みを大事にしてくれて、嬉しく思うぞ。ちょいとお邪魔様。ひひひっ。」
突然声がしてそちらを見ると、いつの間にか
「これは龍鳳様。お久しぶりでございます。長きに渡り有り難く恵みの湯を使わせて頂いております。蒼天の民にも愛され、皆がきれいに保ち使ってくれております。」
「うん。うん。誠によかった。そちらは空心翁だな。ますます好いお顔になられた。随分と風貌が私らに似てきたのう。あれから長い年月が過ぎたのだなぁ。」
「えぇ、龍鳳様。お陰で私も喜寿を迎えました。穏やかな蒼天で泰様や七杏に見守られ、悠々と過ごしております。誠に有り難い事でございます。今日は泰様に、この湯に連れて来て頂いて・・・」
「うん。うん。
「はい。ありがとうございます。龍鳳様。」
「おう、そうじゃった。そうじゃった。それっ。」
龍鳳がそう言って手を動かすと、湯に緑の葉が浮いた。
「龍鳳様。これは一体?」
泰極王が驚いて聞くと、龍鳳は子供のように笑い
「これはな、
ちょっと裏山の
と、湯に浮いた剣菖の葉を揺らした。
「霊木山?
「そうじゃ。私ら神仙には国も境も無い。必要な時に必要な処へ行く。それが役目じゃ。そのついでに、ちょっと取って来たのじゃよ。空心翁の喜寿祝じゃ。ほっほっほっ。」
「ほっほっほっ。これは善い。龍鳳様。誠にありがとうございます。」
二人の翁は声を揃えて笑った。
その何とも呑気な笑いに、泰極王は嬉しくなった。
「ところで龍鳳様が漆烏国に行かれたという事は、何か大事があったのですか?」
「うん。ちょっとな。近々、漆烏国の姫がそなたを訪ねて蒼天に来ることになろう。その時はどうか、手を貸てやって欲しいのだ。そなた達の婚礼の時に少し話したが、遠き昔の因縁もあろうが今は世も変わった。百年以上も昔の因縁は水に流して、助けてやって欲しい。
だが、漆烏の民は未だ止まった時の中に居るように、百年も前の苦しみの中に居る。未だ自国の行いを後悔し悲観している。その為に今、国が活力を失っているのじゃ。今は凰扇が少し手助けをしているが、いずれ姫が助けを求めてやって来る。その時は頼んだぞ。泰極王よ。」
「はい。確かに。龍峰山と貴玉山を隔てた隣国。助けが必要とあらば、喜んで手を貸しましょう。」
「うむ。それが善い。では頼んだぞ。」
そう言い残すと、龍鳳は姿を消し帰って行った。
「どうやら漆烏国で大事が起きているようですな。泰様。十五年前の白鹿国同様、我々で力になれる事があるのなら、それもまた天の計らい。喜んで私もお手伝い致しますよ。」
「えぇ、ありがとうございます。空心様。何だかあの頃を・・・ 皆で天紅砂丸を作った頃を思い出しますね。」
「そうでしたな。あの時は皆で毎日、天紅砂丸を作っておった。皆が活力に溢れていましたな。なんだか私も、活力が湧いてきたように感じますぞ。」
「それは何より。一緒に漆烏国の力となりましょう。いったい今、漆烏国で何が起きているのだろうか・・・ まずは姫の来訪を待つ事に致しましょう。」
二人は長湯をしながら話し、剣菖の葉のお陰か艶玉を纏ったような肌と活力溢れる身を喜び、王府へと帰って行った。
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