act.2

二藤真朱

第1話

 絵さえ描ければ、あとはどうでもいいんだよ。

 かつて胸を抉った言葉が、耳の奥に低くこだまする。

 埃っぽいアトリエを前に、そうしてひとり立ち尽くす。

 足の踏み場もないとはよく言ったものだ。参ったものだと辟易しつつ、かるいため息をこぼす。アトリエと聞けば言葉はいいだろうが、赤の他人からすれば物置同然だ。行き場のない段ボールやイーゼルが無粋な訪問者をじとりと睨む。がらくたとともに放置された画材が気ままな暮らしを楽しんでいる傍ら、布をかけられた作品たちはひっそりと寝息をたてている。いい加減に投げ捨てられた作業着だけが、どこか申し訳なさそうな顔をして。

 その混沌とした部屋の中央に、巽はいた。

 洗いざらしたタオルや古新聞をいたる所に散らして、床に積み上げたいくつもの本の山に埋もれるように。鬼気迫る表情でひたすらに、絵筆を握りしめて。

 その姿に。描く世界に、ただ、気圧される。

 声をかけようとして、しかし押しとどまってしまったのは、きっとそのせいにちがいない。

 壁一面をびっしりと覆う、絵。大きさはばらばらだが、ほとんどが手のひらにおさまるほど。それらが枝葉を広げる大樹のように、白い壁を天井まで埋めつくす。数にして何百枚とあるだろう。それらをモザイクとして、さらに大きなひとつの絵を描く。

「・・・・・・すごいな」

 すごくなんかないよ。

 返ってきた言葉はややかすれていた。それでようやく自覚したのだろう。不機嫌そうに転がっていたペットボトルをやおらに掴みあげ、喉を潤し終えたと思えばまた放り出す。そのわずかな間でさえ、視線は壁の絵をとらえたままだ。見えないなにかを探すように、じっと目をこらしている。

 乱暴に口元をぬぐった巽は、そのままぽつりと言葉をこぼした。

「僕みたいなやつは、こうでもしなきゃ生きていけないんだから」

 呪いじみたものを吐くのは、巽の悪い癖だった。

 それはなにより、とあいまいな笑みを返して、白い壁を彩る絵に視線を移す。 

 よく見ればデッサンや、絵の具を叩きつけただけのものもある。水彩も油彩も、風景も人物も、なんの区別もなく。それがなんだといわんばかりに、誇らしげに胸を張る。

 自分こそが主役なのだと、信じて疑わない顔をして。

「それで食っていけるだけうらやましいよ」

「常磐だってやればいい」

 だれでもできるよ。一瞬だけぶつかった瞳はそう言いたげだったが、しかしそれを口に出すことはなかった。

 賢明だ。自嘲気味に笑って、壁の全貌がよく見える位置にしゃがみこむ。

 微笑む女性の、顔。

 まだ未完成のぼやけた輪郭でさえ、目を引くには十分すぎた。

 やわらかな表情の裏側に透けて見える、虫の翅よりうすい慈愛の色。ベールのように繊細なその色をかずくには、キャンバスではきっと狭すぎた。

「僕は常磐の絵、好きだよ」

 淡々とした、しかし裏表のないそれに、らしいなとちいさく息を吐く。

「・・・・・・光栄だね」

「ほんとだって。サラリーマンなんて、すぐ辞めると思ってたし」

「俺は現実主義なの」

「だから写実的な絵ばっかり描いてたの?」

 悪いかよ。いや、ちっとも。

 したたる朝露のような会話は、いつの日か校舎裏の窮屈な喫煙所で交わしたものとよく似ていた。あの頃の喫煙所なんて自分のつくった枠組みから抜け出せない中途半端な連中のたまり場だったから、巽もきっと退屈していたのだろう。こんなふうに自分のなかに湧き上がるなにかと向き合うためだけに絵筆をとった人間は、それだけですこしはまともに見えたのだ。

 ゆっくりとした瞬きを、ひとつ。そうしてふと、右手に目を落とす。

 あの頃爪の間にこびりついてとれなかった絵の具は、いつの間にかすっかり剥がれ落ちてしまった。居残ったいびつなペンだこだけが、ばつの悪そうな顔をしてこちらを見返している。

 ――美大を出たくせに。嘲笑うのはいつだって、学生だった自分自身だ。

「仕事はどう?」 

 気遣うような台詞にすこしだけ目を見張って、それからおおげさに肩をすくめてみせる。

 退屈極まりないよ、とおどけてみせたけれど、巽は色あせた瞳でそう、とかすかにうなずくばかりだった。

 不完全な沈黙のあと、その隙間を埋める言葉を口にする。

「僕は、常磐を待ってるよ」

 巽は、静かな水面に似た瞳をこちらに向けていた。

 モデルを観察する目だ。切り取った表面の、その内側すら見透かすような。

 あの頃喉から手が出るほど欲しくて、しかし持つことができなかったもの。

 鏡の内側から覗きこまれるような感覚は、その実ひどくここちよい。

「常磐が絵を嫌いになることなんて、僕が筆を折るくらいにありえない」

 カーテンのない無愛想な窓から、午後のまっすぐな光が差しこんでくる。映しだされた彼女の半顔に、別の色がうっすらと浮かんでは消えていく。

 ぼんやりとそれを眺めながら、取り出した煙草に火をつけた。巽の悪癖よりはよほどましだが、昨今社会は愛煙家にめっぽうきびしい。めざとく僕にも、とねだってきた巽には箱ごと放り投げた。ひしゃげたそれの横顔は、絵筆を捨てたばかりのだれかにそっくりで。

 ――まったく、いやになる。

 ひとりごとは、煙草の苦味でなんとかごまかした。

「これ、タイトルは?」

 尋ねると、まってましたといわんばかりに巽は微笑んだ。

「――『ミライ』」

 まるで初恋のひとを呼ぶようだった。ミライ。口のなかで転がして、いいな、と頷く。

 頭上でくゆる紫煙とともに、ぽつりと浮かんでは消えていく影に思いをはせる。

 ――絵から離れられるなんて、思うなよ。

 リクルートスーツに身を固めた時分。巽は、怒りをあらわにそう詰め寄った。

 諦めるなよ。そう励ましたかったのだと思う。だが彼はそんな剥き出しのナイフのような言葉を力いっぱい振りかざすものだから、同級生たちから煙たがられていた。もちろんそれには、彼の才能に対する嫉妬も含まれていたけれど。

 だがそれをなつかしいと思えるくらいには、つまらない大人になってしまったらしい。

 ふと思い立って、まだ半分も味わえていない煙草をそこいらに転がっていた灰皿に押しつける。そうして何度か口の中でその言葉を繰り返してから、ようやくそれを切り出した。

「こどもがさ、生まれたんだよ」

 女の子なんだ。鼻のあたりは妻に似て、ああでも、目元は俺のほうにそっくりで。

 へえ、とかすかに目を細めた巽は、つまらなそうに煙草をふかして、壁の彼女に視線をそそぐばかりだ。

 相も変わらずひとのことに興味がないのだろう。いまさらそのことでとやかく言うつもりもない。むしろらしいと感心するほどだ。そうでなくては、こんな絵など描けやしない。

「絵を、描いてほしい」

 さすがに思ってもみなかったのだろう。ぎょっとする巽に、それもそうだと苦笑する。

 自分で描けばいい。頭のなかで反響する自分の声には、聞こえないふりを決めこんだ。

「僕に?」

「すぐにとは言わないさ。そっちも予定あるだろ」

「急ぎの仕事はないから、別にいいけど」

 でも、僕でいいの?

 念を押すような言葉につい笑ってしまったのは、無遠慮のかたまりだった巽が発したものであったからにちがいない。おまえだから頼んでるんだよ、と返せば、ふぅんと言ってすこし考えるそぶりをしてみせる。それからひとつ条件がある、と前置きして、あの頃よくしていた、いたずら好きのこどものような顔をのぞかせた。

「君の絵と交換だ」

 モチーフは自由。いつまでかかってもいい。ただ、新しく描いたものであること。 

 予想外の条件に、今度はこちらがぽかんとさせられる番だった。ややあって一本取られたなぁとのんきに頭をかけば、巽はしてやったりとほくそ笑む。法外な値段をふっかけられたほうがよほどましだったかもしれない。だがそれ以上に、どこか安堵している自分がいたのもまた、事実だった。

「・・・・・・ろくなもんじゃないぞ」

「僕がほしいんだよ」

 当然のごとく言ってのける巽に、それ以上文句を重ねるのは諦めた。げんなりしてみせると、彼はなおさら満足げな表情を浮かべる。

「その子、名前は?」

 先ほどとは反対に尋ねてきた巽に、ああ、とおだやかな目を向ける。

 ゆっくりと紡いだそれに、巽は一度きょとんとして、それから恥ずかしそうに微笑んだ。

 



 じゃあ頼むぞ、と去って行った友人が置き忘れた煙草をくわえながら、巽はひとり、壁のモザイク画と対峙していた。

 遠目に彼女を眺めては、おもむろに紙片を入れ替える。単純作業を繰り返しながら絵を描くのはなかなか根気がいる。さっきのほうがよかったな、と思うことはしばしばだ。たった一枚入れ替えただけで、彼女の表情はころころ変わる。まるで春の日差しのように。

 やがてなにか決意したかのように絵筆を手に取ると、ちいさな紙片に丁寧に色を重ねていく。

 ずっと迷っていたのだ。彼女の瞳に、どんな色を合わせるか。

 だが、やっと決まった。

 ――描いたのは、みずみずしい緑に囲まれたあどけない少女の横顔。この子なんだけど、と写真を見せてきた常磐はすっかり父親の顔になっていた。そのふぬけた表情を描いてやろうかとも思ったが、サプライズというならば、きっとこちらのほうがふさわしい。

 そうして伏せた目で、描き上げたばかりの絵を見やる。

 この少女もきっといつか、この絵を見ることになるだろう。父親に手を引かれて。あるいはひとり、大人になってから。友人や恋人とともに見ることもあるかもしれない。そのとき彼女の瞳に、この影に、気づいてくれるだろうか。

 脚立によじ登って、彼女の目にあたる位置に、それを貼りつける。

 右に左に眺めて、よし、とひとり頷いて。晴れやかな顔つきで、やおら手を伸ばす。

「おそろいだってさ」

 照れくさそうな巽に、モザイク画の彼女はただ、うつくしく微笑みかけた。


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