7-8 噛みつき姫は選び取る

 ずっと空気を震わせていた骨が砕けるような音が消え、空気の重苦しさが消えていく。

 少しずつ、けれどゆっくりと屋敷が元の姿を取り戻していく。ぐちゃぐちゃに荒れた室内だけがこの場で起きていた非日常を証明していた。

 深く息を吐きだし、イツカは胸の前で組んでいた指をほどき、イリガミ様を見上げた。


「今回もありがとうございました、イリガミ様」


 深い感謝を込めた声で言葉を紡ぎ、イツカはふわりと笑みを浮かべた。

 イリガミ様は終わらない飢えに苛まれ続けている。今は満たされても、また時間が経てば強く、終わりのない飢えに悩まされるのだろう。

 また全てが元通りになるのだとしても、きっとしばらくの間、彼を深く満たしてくれるはずだ。


『あァ、今回も美味かったぜェ。また何かあれば気軽に呼びなァ』


 イリガミ様が満足そうな声でそういった瞬間、ふっと彼の姿が揺らいだ。

 場に満ちる空気には、怪異から発されていた呪詛の残滓や穢れがまだ残っている。

 だが、イツカが捧げた怪異はイリガミ様の腹の中に収まり、屋敷全体も元の姿を取り戻しつつある――呪詛や穢れの浄化はまた行わなくてはならないが、今日のところはイリガミ様も休んでいることだろう。


「はい。またご用があればイリガミ様の名前を呼びますね」

『待ってるぜェ、おひいさん』


 その言葉を最後に、イリガミ様がふっと姿を消す。

 イツカはもう一度深く息を吐きだすと、ゆるりとした動きでフレーデガルとヴィヴィア、そして彼女のメイドを見た。

 こちらを見る彼ら、彼女らの目は三者三様だ。ヴィヴィアとメイドは恐怖とわずかな安堵、そして不気味なものを見るかのような目をこちらへ向けてきている。

 けれど、フレーデガルがイツカを見る目には綺麗なものを見たかのような色も含まれており、イツカは内心首を傾げた。


「チェスロック様」


 フレーデガルの目の理由が気になるが、それよりも優先しなければならないことがある。

 はつり。イツカがヴィヴィアを呼んだ瞬間、彼女は大きく両肩を跳ねさせて目をそらした。

 フレーデガルもはっとした顔をし、己の腕の中にいるヴィヴィアを見る。


「……チェスロック嬢、あなたなのか」


 イツカに続き、フレーデガルも彼女へ声をかける。


「あなたが今回の事件の黒幕なのか」


 ヴィヴィアは少しの間、黙り込んでいたが――やがて観念したかのように小さく頷いた。

 イツカは彼女がもう少し粘る可能性も考えていた。

 けれど、粘らずにあっさり自分が黒幕なのだと認めた辺り、自分が不利だと判断したらしい。


「……そうか、わかった」


 フレーデガルが一瞬だけ苦い顔をして、深い溜息をつく。

 落胆したような顔もしていたが、ヴィヴィアをそっと床に下ろす頃には、普段の表情に戻っていた。

 先ほどまでとは違った重苦しさを感じる空気の中、フレーデガルは強く手を叩いて使用人たちを呼んだ。


「旦那様、大丈夫ですか!」

「ああ、私は無事だ。それよりも彼女たちを騎士の下へ連れて行ってくれ。私は少しイツカ様と話をしたい」

「は、はい。かしこまりました」


 駆けつけてきた使用人たちは心配そうな目をしていたが、主であるフレーデガルにそう命じられれば従うしかない。

 何か言いたげな顔をしつつも、すっかり大人しくなってしまったヴィヴィアと怯えをあらわにしているメイドの腕を掴んで歩き出した。

 フレーデガルの傍を離れる直前、ヴィヴィアの目がフレーデガルへと向けられる。


「……ネッセルローデ侯爵様。お慕いしておりました」


 ヴィヴィアの唇がそっと言葉を紡いだ。

 愛を伝える言葉がイツカの耳にも届き、ぎゅうと強くイツカの胸を締めつける。

 対するフレーデガルは無言でヴィヴィアを見つめたのち、もう一度溜息をついた。


「……気持ちは嬉しいが、私はその想いを受け取ることはできない。何か理由があったのだろうが、私を傷つけるようなことをする人を傍に置くことはできない」


 そういったフレーデガルの声は冷たいものだ。

 ヴィヴィアも表情を曇らせ、どこか諦めたかのような顔をして俯いた。


「だが。……相談に乗ってくれたり、わざわざお守りを用意してくれたのは本当に嬉しかった。ありがとう、チェスロック嬢」


 は、と。一度俯いたヴィヴィアが顔をあげ、再度フレーデガルを見た。

 一回、二回。ゆっくりと唇を動かして何か言おうとしていたが――結局何も言わず、静かに微笑むだけだった。

 大人しく使用人たちについていくヴィヴィアとメイドを見送ったのち、イツカとフレーデガルは静かに顔を見合わせた。


「お騒がせしてしまってすみません、フレーデガル様」

「いいや……本当にありがとうございました、イツカ様。おかげで今回の騒動を解決することができました」

「わたしはクラマーズ家に生まれた者として当然のことをしたまでです」


 そうだ、イツカは当然のことをしただけだ。

 フレーデガルからの依頼を受け、彼の身に起きていたことを調査し、解決に導いた――呪詛や穢れに関する依頼を受けたクラマーズ家の者としての働きと役目を果たしたまでだ。


(そう、だからフレーデガル様との時間も……これで終わり)


 役目を終えた今、イツカがネッセルローデ領に婚約者という嘘をついて留まる理由はない。

 いつかは来る瞬間だとわかっていたはずなのに、いざそのときが来ると胸が痛くて仕方がなかった。

 けれど、それを押し隠し、イツカはふわりと笑ってみせた。


「しばらくは後片付けのために残りますが、いずれはここを立ち去らせていただきます。短い間でしたが、よくしてくれてありがとうございました」


 そういって、イツカは深々とお辞儀をした。

 調査は終わり、役目を果たした。交わした契約は終わり、ついた嘘も消える。

 ネッセルローデ侯爵家の婚約者候補ではない、ただのイツカ・クラマーズに戻る時だ。


「……そのことなのですが」

「……? どうかなさいましたか?」


 調査と契約の終了の話をして終わるものだと思っていたが、フレーデガルの反応はイツカの予想と異なるものだった。

 ぱっと顔をあげて首を傾げると、フレーデガルは何か言いたげに視線をさまよわせ――やがて、意を決したかのように口を開いた。


「あの契約を更新することは可能でしょうか。今度は無期限で」

「……へ?」


 あの契約――というのは、どう考えても彼が依頼してきた調査のことだ。

 けれど、フレーデガルを呪っていた犯人は明らかになり、調査する対象もなくなった。だというのに、無期限で契約の延長とは。

 目を丸くするイツカの目の前で、フレーデガルが言葉を重ねる。


「その……今は調査のための婚約者候補という形でしょう。ですが、ええと、その……今回のようなことが二度と起きないとは限りませんし……じゃなくて、そうじゃなくて」


 言葉に詰まり、発した言葉を修正し、はっきりとしない言葉を何度も繰り返す。

 しどろもどろになりながらも何かを伝えようとするフレーデガルの姿は、イツカがこれまで一度も目にしたことがない姿だ。

 何やら言葉に迷っていた様子だったが、フレーデガルは大きく深呼吸をしたのち、唇を動かした。


「あなたを傍に置いておきたいんです、正式な婚約者として」


 イツカの目が零れ落ちそうなほどに大きく見開かれる。

 心臓が強く高鳴り、胸の中に暖かな想いと強い歓喜が広がっていく。

 先ほどまで感じていた寂しさはすっかり消え去り、確かな喜びがイツカの胸を支配していた。


「――はい、喜んで」


 ゆっくりと手を伸ばし、フレーデガルの手を優しく握る。


「不束者ですが、どうかよろしくお願いします。フレーデガル様」


 目の前にいる愛しい人の手を選び取り、イツカは柔らかい笑みを浮かべた。

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噛みつき姫と呪われ侯爵 神無月もなか @monaka_kannaduki

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