第4話

 冷たい水が全身を包み込む。そういえば私は水泳が不得手だったと気がついても、もう遅い。底に向かって水を蹴る。どこまでも透き通った水は、どこまでも続いているようで不安になり、心拍数が上がる。心拍数が上がると息が苦しくなる。息が苦しくなると頭がぼんやりしてくる。だんだん浮かんでいるのか沈んでいるのか分からなくなってきた。

 ああ、光が見える。水面だ。いや、私は底の方へと向かっていたはずでは? 今はそんなことを考えている場合ではない。もう限界だ。苦しい。早く、空気が欲しい。思い切り水を蹴り、光の方へ。

 甘い空気が肺を満たす。

 そこはどこかの家の庭にある池のようだった。

「だいじょうぶ?」

 手が差し伸べられる。少女の骨ばった手をつかみ、重たい体を何とか池から引き上げる。

「弟を見なかった?」

 池に落ちてしまったのだと、少女は言った。自分の出てきた池を見る。とてもこんなところで人が溺れるとは思えないような小さな池だ。そこにぷっかりと小さな体が浮かんでくる。私は少女を手伝ってその幼い男の子を引き上げた。その首にはくしゃくしゃになった折り紙のペンダントがぶら下がっていた。

 少女はその子の呼吸を確かめ、胸に耳を当て、どうしよう、と何度も繰り返した。私のことなど一瞬で忘れてしまったように、私のことなど存在していないかのように、少女は酷く狼狽していた。

 どうしよう、どうしよう、と言いながら、位置を探るように男の子の胸を撫で、両手を重ねた。それから少し身を乗り出すようにして、数を数えながら圧迫を繰り返す。三十を数えたところで、今度は男の子の顎を上げ、もう片方の手で鼻をつまむと、大きく息を吸って、男の子の口に吹き込んだ。それを二回繰り返し、また胸を圧迫し始める。

 私にはそれが正しいやり方なのかどうか分からなかったけれど、きっと正しいのだろう。彼女は弟を失くした後に勉強したのに違いない。どうすれば弟を救うことができたのかと。けれどそれは、自分が弟にしたことの間違いを確認する作業でもあったはずだ。誤りを知った時、彼女はどんな気持ちだっただろう。

 少女が何度か同じことを繰り返すのを、私はただぼんやりと眺めていた。少女はつぶさに男の子の状態を確かめ、それからまた心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。

 もう何度同じことを繰り返しただろう。彼女が私の存在を思い出す様子はなく、私はただその様子を眺め続けることしかできなかった。

 そして、確かめなくちゃ、と呟きながら、少女はその首に手を掛ける。

「確かめなくちゃ、確かめなくちゃ……」

 何度も繰り返しながら、両手に力を込めていく。

「だめっ!」

 思わず声を上げてしまったことで、ようやく彼女はこちらに視線を向けた。

「どうしてそんなことするの」

 声が震えた。

「だって、こうしなくちゃ確かめられないじゃない」

 無表情でそう言う彼女が恐ろしく、私はその場から逃げ出したくなった。あの池を通じて元の場所に戻ることはできるのだろうかと視線を向けると、そこからまた新たに人が浮かんでくる。迷いなくそれを引き上げようとする彼女を、気味悪く思いながらも手伝った。

 引き上げたそれは、目の前の少女と同じ顔をしていた。

 彼女はそれに気づいているのかいないのか、当然のように男の子と同じように処置し始めた。異様な光景に困惑し、いったいこの池はどうなっているのかと、その水面を覗き込んだ。

 その水面に、自分の顔が映る。そしてまた新たに人が浮かんでくる。少女はもうひとりの少女の措置に夢中だったので、今度は私がひとりで引き上げなければならなかった。それがこんなに大変なことだとは思わなかった。ようやく引き上げたうつぶせの身体をひっくり返そうとして、なぜだかその顔を見ない方が良いような気がした。けれど、どうしてもそうせずにはいられなくて、仰向けたその顔を見た。

 そこにあったのは、私の顔だった。

 ――やっぱり。

 私はまた、あるいはまだ? 鏡の中にいるのだ――。そこに横たわっているのは、どちらの私だろう。それは、生きているのか死んでいるのか、見ただけでは分からなかった。

「確かめてみたら」

 いつの間にか少女が傍らに来て、私の手を取っていた。彼女は私の手を横たわる私の首へと誘導した。冷たい。その胸には、じんわりと血が滲んでいる。私の傷は、まだちゃんと血を流しているのだろうか。私はまだ生きている? このままこの手に力を込めていけば、確かめることができる――。

 けれど、私にはそれ以上できそうになかった。頭がじんじんして、心臓がばくばくする。さぞかし胸の傷も盛大に血を流しているかと思いきや、傷口に触れてみてもわずかにぬめりとした感触があるだけだった。見せかけなのか、この傷は。

 なぜだかカッとなった。そこに少女がカッターナイフを差し出す。

「貸してあげる。それで心臓を取り出すの」

 私はひったくるようにしてそれを受け取り、目の前に横たわる自分の胸にその刃を向けた。けれど、どうしてもそれを突き立てることはできなかった。

「どうしたの、早くして」

 どうして急かされなくちゃいけないのだ。不満の意を込めて少女を見る。その顔からは少女の感情が読み取れない。さっきまで横たわっていたもうひとりの少女は、また池から新しい弟のからだを引き上げていた。彼女はいつまでそれを繰り返すつもりなのだろう。きっとそれは、その子を救えるまで続くのだ。そして、その時が来ることはないのだ。

「できないのなら、私の心臓を取り出して。私の命をあの子にあげて」

 少女はカッターナイフを握った私の手を無理やり自分に向けさせた。私は必死に首を横に振っていた。そんなこと、できるはずがない。そんなことをしてその子が喜ぶの、と言いそうになって、慌ててその月並みな言葉を飲み込んだ。そんなことを言えば、彼女を逆上させるだけだろう。

 この空虚な胸の傷に腕を突っ込み、ただ脈打つだけの心臓を引きずり出し、それを本当に必要としている誰かの胸に埋め込むことができるなら、私だってそうしたい。私が持て余していたそれを誰かが必要としているなら、そうすべきだと思う。

 けれど、私がそうしようとした時に、わずかでも少年は嬉しそうにしていただろうか。生きる気がないならその命をよこせと言った、あの少年が。

 少年の悲しげに歪んだ顔が脳裏に浮かぶ。

 きっと他人の命なんて、背負うには重すぎるのだ。

 私の腕をつかむ少女の手が震えていた。それは恐れなのか、期待なのか、怒りなのか、あるいはただ力がこもっているだけなのか。でも、私は抵抗してはいたけれど、そこまで必死に抗っていたわけでもなかった。

 彼女も分かっているのだ。

 その目から涙がこぼれるのを、私は見た。その瞬間、ふっと力が抜けた。けれど、その切っ先が彼女の胸を貫くことはなかった。

「いいよ」

 なぜだかストンと覚悟がついた。それで彼女が救われるなら、それでもいいかという気がした。彼女の弟だって、見知らぬ誰かの命をもらったところで、そこまで気負いはしないかもしれない。死にたいとは思わないけれど、それは――、

「どうせ私には、死ぬ勇気がなかっただけ。だから、いいよ」

 そう、それだけだ。手首を切ったり首を吊ったりビルから飛び降りたりはしたくないけれど、お祖父さんの後をついていくのはためらわなかった。私は私を殺す勇気がなかっただけだ。それなのに、

「死ぬのに勇気なんていらないよ」

 彼女は言った。

「死ぬことを勇気とは言わない」

 手の震えは止まっていた。なんだか自分のことを否定されたようで、酷く傷ついた。まさか彼女からそんなことを言われるとは思わず、むくむくと不満が湧いてくる。裏切られたような気分で、ぶっきらぼうに言う。

「じゃあ、私には何が必要だったの」

 彼女は少しだけ考えてから答える。

「諦めとタイミング、かな」

 なんだそれ。

「それなら、私には今それがそろったんだよ」

 そっか、と彼女は言って、手を離した。私は半ば自棄になってその切っ先を自分の喉に当てた。そして、ほんのわずか食い込んだその感触で、これ以上は無理だと思った。

 やっぱり私には、そんな覚悟はなかったのだ。いや、彼女に言わせれば、そんなものは覚悟でもないのだろう。

 私は諦めたわけじゃなくて、ただ疲れただけ。うまくタイミングを計ったつもりが、ただ流されていただけ。覚悟を決めたつもりが、思い詰めていただけ。そんなのは、きっと最初から分かっていたのだ。だって私は、本当に死んでしまいたいと思ったことなんて一度もないんだから。

 諦めたふりをするのは、もう諦めよう。突きつけた切っ先を喉元から下ろす。

「どうしてやめちゃうの」

 その声は耳元でした。吹きかかる息にぞっとして振り向くと、さっきまで弟の救命措置に夢中だったもうひとりの少女が、後ろから私の肩をつかんでいた。

「今やらなくちゃ、きっと後悔するよ」

 それは私に言っているのか、それとももうひとりの自分に言っているのか。

 ほら、と彼女は背後から腕を回して、カッターナイフを持った私の手を自分の手で包み込んだ。そして、強引にその切っ先を喉元に向けられる。声を出した拍子にそれが突き刺さってしまうのではないかと思うと怖くて声も上げられない。

「やめて!」

 私の代わりにもうひとりの少女が悲鳴を上げた。

「どうして止めるの」

「またあの子に怨みを背負わせるの。見て、あの子の中は私への憎しみでいっぱいだよ。それなのに、今度は彼女の恨みまであの子に飲み込ませるの」

 池からは幼い男の子がわらわらと這い出してきていた。青白い肌は水でふやけ、眼窩は落ちくぼみ、口からは赤黒い粘液を垂らしている。喉の奥から漏れているうめき声は、怨嗟の声か。まるで少年の胸から湧いていた憎しみのようだと思った。

「この子は恨んだりしない。だって、この子は望んでる!」

 私の手の上から、ぎゅうっとカッターナイフを握り込まれる。痛い。

「私たちは似た者同士だもの。自分の死に意味が欲しいの。自分の生を価値あるものにしたいの。そうでしょう」

 その通りのはずなのに、私は頷けなかった。頷くとカッターナイフの刃が刺さってしまうからだけではなかった。だって私は、死にたかったわけじゃないのだ。死ぬのは怖い。怖くない人がいるだろうか。誰かに願われて生きるのも疲れるし、誰にも望まれずに生きていくのも辛い。誰かに願われる死は悲しいし、誰にも望まれない死はやりきれない。

 池から湧き出た男の子が、こちらへと這い寄ってくる。あれは憎しみだけで動いている。けれどそれは、彼女がそう思っているからだ。ここは鏡の中なのだ。彼女の望みが映されているのだ。

 それとも、これも私のせいなんだろうか。少年の憎しみが私のせいで顕在化したように、あれも私の望みのせいであんな風に湧いてきたのだろうか。私が望まなければこんなことにはならなかったのだろうか。

 もう耐えられない。これが私のせいなら、望みを変えなければ。私がそれを望んだのは、誰かの傷をより深くえぐりたかったからじゃない。何の目的もなくただだらしなく血を流すだけの胸の傷を見遣れば、それはもう、ただの醜い傷にしか見えなかった。

「本当に?」

 横たわっていたもうひとりの私が徐に起き上がる。

「この子たちが見えなくなってしまっても、本当にいいの」

 目の前の少女に、もうひとりの私が囁きかける。私は自己嫌悪でくらくらした。あれがそう言うということは、その気持ちは私の中にも存在しているということだ。

 私の後ろには彼女がいて、もう一人の彼女の後ろにはもう一人の私がいる。まるでお互いに人質を取り合っているみたいだ。

 気づけば彼女の弟の幻影はすぐそこまで来ていた。目の前の少女はそれを抱き上げ、自分の胸に押し込んだ。ごめん、ごめん、と泣きながら謝り、這い寄ってくるそれを次々に胸の中へと押し込めていく。そしてとうとう少女は倒れた。それと同調するように、背後の少女が小さな呻き声を上げる。

 わずかに少女の力が緩んだ隙に、その腕を振り解いた。その時、手にしたカッターナイフの刃が彼女の腕に赤色の線を引いた。それは勢い余ってのことで、もちろんそんなことをするつもりはなく、慌てて血の付いたそれを投げ捨てると、倒れた少女に駆け寄り、私は思い切ってその胸へと腕を突っ込んだ。彼女が押し込めたものを強引に引っ張り出す。

「やめて!」

 悲鳴を上げる少女。私はそれを抱えて駆け出した。さっき少年を非難したのと同じことをしているという自覚はあった。血まみれの塊のぐにゃりとしてぬるぬるとして生温かい感触は酷く気持ち悪くて早く放り出してしまいたかったけれど、こうすれば今回も彼女は追ってくるはずだ。このままここにいてはいけないと思った。あの池から早く離れるのだ。

 私の願いを取り消すためにも鏡を探さなければと思い、家の中に飛び込んだ。そのつもりだったのだけれど、なぜか私は白い壁の町に立っていた。激しく降る雨で、足元は水浸しだった。あまりの激しさに姿の歪んだ亡霊たちが町の中をさ迷っている。その中へ飛び出して行きたくはなかったけれど、このまま突っ立っているわけにもいかなかった。

 向かいの建物の入り口へと駆け込むと、そこは私の見知ったデパートの中だった。けれど、そこに人の姿はない。後ろから、返して! と少女の叫ぶ声がする。私は止まったエスカレーターを駆け上がった。ふと服屋さんの試着室が目に留まり、そこには姿見があるはずだと思い至った自分を褒めてやりたくなった。

 けれど、カーテンを開けた途端に雨が吹きつけてきた。また外だ。少女が追い掛けてきているので戻るわけにはいかず、雨の町の中へと出てまた別のドアに入る。今度は学校の教室だった。後ろから入って前から出る。もちろん廊下には出ず、また外へ。次はパパと住んでいた頃の家のリビング。次は病院の待合室。やっぱりエレベーターは動かない。非常階段を駆け上がる。無駄だと分かりつつも、そこなら鏡があるはずだと、トイレに駆け込む。当然のごとくまた雨の町の中へと出る。積み木のように重なった建物の上から、町の様子を見下ろす。

 雨は相変わらず激しく降り続け、町は瞬く間に水没してしまいそうに見えた。街灯がちかちかと瞬く。空は恐ろしいほどに暗い。町を浸す水は黒くうねり、あらゆるものを飲み込もうとしている。黒い水のように不安な気持ちが胸の中で逆巻く。追い掛けてくる少女の声がして、急いでまた別のドアに駆け込んだ。まるで迷路だ。どこへ出るやら見当もつかない。時おり私の知っている場所に出て、自分の頭の中をさ迷っているみたいだと思う。もしかしてそういうことか。この町と私たちの頭の中がつなぎ合わされている?

 次のドアに入ると、そこは見慣れた自分の部屋だった。思わず少しだけほっとしてしまった。それから、そこが本当に私の部屋なら、昔お母さんからもらった手鏡があるはずだと気づく。それはおもちゃみたいな代物だったのだけれど、当時の私にはおもちゃと本物の区別などなく、とても喜んだ。ただ、もらった時こそ嬉しくて意味もなく何度も覗き込んでいたものの、その小さな鏡は使い勝手が悪く、すぐ曇るし、鏡が見たければ洗面所に行けばいいだけなので、もうずいぶん引出しの中にしまいっぱなしになっていた。

 机の一番下の引出し。小さい頃に大切にしていたおもちゃのアクセサリーを入れた箱の中に、一緒に入っているはずだ。

「その子を返して!」

 箱を取り出したところに、二人の少女が駆け込んでくる。思わず机の上に置いていたその血まみれの塊を抱えて二人と対峙すると、まるで人質を取って立てこもる犯罪者みたいな気分になった。実際そう遠くはないのかもしれないけれど。

 少女が後ろ手にドアを閉める。逃げ場はない。まさに追い詰められた犯人の様相だった。

「お願い、もうその子のことをちゃんと覚えているのは私しかいないの。私が側にいてやらないと、その子は今のかたちを保っていられないの」

 腕の中のぐんにゃりとした肉の塊を見て、確かに今はもう人のかたちには見えないな、と思う。けれど、彼女は必死にそれを取り戻そうとしている。

「だけど、この子といると辛そうだよ」

「私のこと、わかったみたいに言わないで!」

 私たちは似た者同士だと言ったのは彼女なのに。

「似ているからって、私のすべてが分かるなんて思わないで。兄弟もいないくせに、勝手に理解した気にならないで」

 ずいぶんな物言いだと思ったけれど、怒る気にはならなかった。他人のことを本当に理解することなんてできないのだということは、私にはよく分かっている。でも、それは彼女だって同じはず。確かに私には兄弟がいないけれど、いくら血がつながっていたってその人のすべてを理解するなんてできるはずがない。

「これがあなたの頭の中の弟ではなくて本物の弟だと、あなたは言えるの」

 私にはとても人のかたちには見えないそれが、彼女には実の弟に見えているのだとはとても信じられなかった。

「お父さんやお母さんは、弟さんのことを何もわかっていなかったの。あなたのことを理解してはくれなかったの」

「父さんが私のことを知ろうとしたことなんてないし、母さんは弟を殺した私のことを憎んでる。二人共もう、弟のことなんて思い出したくないんだ」

 だから自分だけはいつも弟のことを考え続けなくてはいけないのだと、彼女は言った。

「私だけは、本物の弟のことを覚えていられるように」

「でも、それもあなたの思い出の中の弟だよね」

「私は思い出なんかにしない!」

「なんだか、あなたの中の弟って、あなたを憎むことしか知らないみたい」

 彼女を追い詰めるつもりはなかったのに、つい本音がこぼれてしまった。きっと彼女はその心ない言葉に傷ついたに違いない。一人は動きを止め、もう一人は刃物をかざして襲い掛かってきた。

 私は部屋の中を必死で逃げ回り、とうとう壁際に追い詰められた。すんでのところで攻撃をかわし、その切っ先は壁に突き刺さった。引き抜かれた痕から水が滲んでくる。天井がミシミシと音を立て、ポタポタと水が垂れてくる。張りぼてのような私の部屋は、小さな傷をきっかけに簡単に悲鳴を上げ始め、今にも崩れ出してしまいそうだった。

 雨がバチバチと激しく音を立てて窓を破ろうとしている。ガラスの窓は、このおもちゃみたいな部屋の中で一番頑丈なもののように思えた。逃げ回っている間に、ドアの隙間からも水が忍び込んできていた。それはもうくるぶしの辺りまで来ていて、いずれこの狭い部屋をいっぱいにしてしまうのではないかという恐怖が込み上げてくる。

 逃げよう、と私が言ったことで、二人の少女はようやく足元を浸す水の存在に気づいたようだった。

「ああ、弟が呼んでいるんだ」

「あの子が望むなら、私はそれを受け入れる」

 彼女は罰を望んでいる。だから、この水も弟が呼んだものだと信じているのだ。姉が死んで喜ぶ弟なんているだろうか。けれど、彼女はそうあることを望んでいる。

 私のしていることはただのお節介なのかもしれない。それが彼女の望みなら、このまま彼女の好きなようにさせてあげた方がいいのだろうか。けれど、罰が欲しいと望むのは、許されたいと願うからだ。死んだ方が良いなんて思うのは、生きていて良いと言ってほしいからだ。彼女の「死にたい」は「生きたい」なのだ。

 彼女を救おうなんていうのは、偽善だ。それは傲慢な行為だ。私が彼女を追い掛けてきたのは、きっと、私自身が救われたいからだ。だから彼女を追い掛けてきたのだ。彼女が生きたいと望んでいるなら、このまま放っておいてはいけない。そう思うのは、私自身が本当は生きたいと思っているからかもしれない。死んでしまいたいと願うより、生きたいと望む方がどれほど気楽だろう。

 自然にしていれば、温かいものは冷める。明るいものは暗くなる。鮮やかなものはくすむ。きれいなものは汚れる。

 だから、冷たい方、暗い方へ向かうのが自然で、楽に思えることもある。でも、くすめば磨き、汚れれば洗うのが普通なのだ。寒ければ暖かさを望むし、汚れているよりもきれいな方が気持ちの良いものなのだ。

 私も彼女とおんなじだ。他人に生きろと言っておいて、自分が死を望むわけにはいかない。私は諦める理由が欲しかったんだ。私たちには理由が必要なんだ。死ぬのにも、生きるのにも。

 それを他人に託そうとする辺りが、私らしいというかなんというか。結局のところ私は偽善者でしかなく、それでも、それが表面だけの偽物だったのだとしても、善くあろうとしている方が悪ぶるよりは幾分かましなんじゃないだろうか。

 たとえ偽善だと言われようが、私は彼女を見捨ててしまうような人間でありたくはない。だから私は、ここから彼女を連れ出すんだ。彼女のためではなく、自分自身のために。偽善なんて言葉は、ただの疑り深い人間か、自分を卑下している人間か、他人を貶めたいか、他人を羨んでばかりいるような人間が作った言葉に違いない。そんな言葉の前に尻込みしてするべきことをためらうなんて愚かだ。

 机の上の箱に手を伸ばす。昔はそれのことを宝箱と呼んでいた。でも、幼い頃の宝物は、今ではただの思い出になってしまった。たぶんそれでいいのだ。とても大切に思っていたものがそうでもなくなって、どうでもいいと思っていたものが大切になることだってあるかもしれない。小さいころ好きだった絵本を、もう読まないからと処分してしまってから、後になってまた読みたくなって買い直してしまったりするみたいに。

 大事なものが増えすぎると、それを整理してみたくなる時がある。それに縛られて身動きが取れなくなってしまいそうな気がするんだろう。でも、そこで捨てたものがなかったことになるわけじゃない。

 それは、この胸の傷と同じだ。

 壁の傷から亀裂が走り、水が噴き出してくる。

 私は箱から手鏡を取り出した。鏡は曇り、像はわずかに歪んでいたけれど、私は鏡の中の私の目を見据え、覚悟を決めた。

「お願い、私たちをここから出して」

 他の望みはみんななかったことにしていいからと、鏡に向かって願った。くすんだ鏡に映った歪んだ像は、どこか不満そうに見えた。

 ガツン、と何かが窓にぶつかる音がした。ガツン、ガツン、と続けてぶつかり、とうとう窓が割れた。水と共に何かが部屋の中に流れ込んでくる。

 棺だ。

 一気に流れ込んできた水のせいで、水位はもう膝下くらいまで来ていた。早く脱出しなければ。

「一緒に行こう」

 座り込んだまま腰まで水に浸かりながらも動こうとしない少女に向かって言った。

「その子を連れて行かないで」

「もちろん、返すよ。これはあなたの傷だもの」

 私は肉塊を二人の少女に渡した。四本の腕がそれを愛おしそうに抱き締める。私にはそれがグロテスクな光景にしか見えない。

「それが弟に見えているのは、あなただけだよ」

「仕方がないよ。もう私しかこの子のことをちゃんと覚えていないんだもの」

「それは傷をこねくり回して弟のかたちにしているだけだよ。ごめんなさい、私が変なことを願ったせいなのに、こんなことを言える立場じゃないと思うけど、やっぱりそれは、あなたが作り出したものだよ。本物じゃない」

 すごい勢いで水嵩が増していく。このままでは本当に彼女が望むように溺れ死んでしまう。

「私はその子のことを何も知らないけど、いつまでも家族を恨み続けるなんてできないよ。ずっと憎しみ続けるなんて苦しいよ。だから、もうやめさせてあげて」

「でも、この子は望んでる。私を呼んでいる」

「それはあなたが望んだからだよ」

 少女の片方が弟の身体から手を離した。

「あなたに何がわかるの」

「まったくわからないってことはないよ」

 彼女が自分の中で弟の時間を止めていたように、私も頭の中のパパの時間を止めていた。それは、パパのことをできるだけ幸福な思い出として留めておきたかったからだ。私が望みさえすればそれはいつでも更新できたのに、そのせいで幸福な思い出が苦いものになってしまうことを嫌ったのだ。彼女と一番違うのはそこだろう。私は、会おうと思えばいつでもパパに会えた。でも、彼女はどんなに望んでも弟に会うことはできない。弟の情報を更新することができない。

 だからこそ、思い出にしてあげなくちゃいけないのだ。天使の言っていたことがようやく理解できた。死んでしまった人間は、思い出の中でしか生きられない。彼女のしていることは、死体の保存だ。それではあんまりかわいそうではないか。

「その子の役割は、あなたを憎み続けることだけなの」

「この子がそれを望んでいるんだもの」

「その子は笑ったことはないの。楽しかった思い出が一つもないなんてことはないよね。時々面倒になることはあっても、嫌っていたわけじゃないんだよね。思い出にするのを後ろめたく思う気持ち、私にはわからないけど、それだけ後悔してるんだってことはわかるよ。でも、そのせいでその子があなたを憎むことしかできなくなっているんだとしたら、やっぱりかわいそうだよ」

「思い出にしてあげた方が、あの子は浮かばれるのかな……?」

「わからないけど、思い出の中でなら、もう一度笑ってくれるかもしれないと、私は思うよ」

 頭の隅にはいつかの友達が天使の隣で笑って手を振る姿があった。

「そんなことない! 勝手なこと言わないで!」

 彼女はカッターナイフを振りかざそうとするもう一人の少女から肉塊を奪い取ると、それを相手の胸にねじ込んだ。少女は意識を失って水の中に突っ伏し、溺れてしまっては大変と、私は慌ててその身体をベッドの上に引き上げた。すっかり水位が上がってしまっていて、浮かんだ棺に乗り込むのに一度机の上にのぼらなければならなかった。倒れた少女をそのままにしておくわけにもいかないので、苦労して一緒に乗せる。普通の舟に乗った経験すらあまりないのに、その安定しないただの箱に乗り込むのには相当骨が折れた。決して大きくはない棺に三人も乗るとさすがに窮屈だったが、今はこれしかないのだから仕方がない。

 私の部屋だったものはミシミシと音を立てて崩れ、どこへ向かっているとも知れない流れが棺をさらっていく。町はすっかり水没していて、街灯まで水の中に沈んでいた。水の中に暖色の明かりが滲んでいる。壊れてしまわないのだろうかと不安になる。空はまだ暗い。幸い、と言って良いのか、水の中に入ることのできないらしい亡霊の姿は見当たらなかった。

 水の中の町はゆらゆらと揺れ、街灯の明かりが時々小さな火花を散らしていた。

 棺の中にたまった水を素手で掻き出しながら、どこへ行けばいいのかも分からず、そもそもどこを目指そうにも舟を漕ぐための櫂さえなく、流されるに任せている内に、さっきまでうるさいほどだった雨の音もおとなしくなり、会話が交わされることもない棺の中は、酷く静かに感じられた。雨は止んだけれど、空はまだ厚い雲が覆っていた。

 不意に少女が静寂を破る。

「私、すっかり忘れてた。ううん、なかったことにしようとしてた。お父さん、あの子のことを忘れようとしていたわけじゃなかった。私が話させなかったんだ」

 彼女は意識のない少女に向かって呟くように言った。

「父さんは、あの子のことを思い出にしようとしてたんだ。笑って話そうとしてたんだ。でも、それが不謹慎な気がして……」

 あの子はよく笑う子だったんだと、彼女は言った。

「死をなかったことにしようとしてたんじゃない。死を受け入れて、前に進もうとしていたんだ。それが思い出にするってこと?」

 私にもその通りだと言いきれるだけの自信はなかったけれど、きっとそういうことなんだろう。彼女はいちいち同意を求めたりはしなかった。彼女がそれで納得できるのなら、それが答えだ。

「私がそれを許さなかったから、お父さんはあの子のことを話さなくなったんだ。私のせいで、お父さんまで苦しめていたのかもしれない」

「だから何」

 いつの間にか少女は目を覚ましていた。

「そんなのはわかっていたこと。私がまだこんなに苦しんでいるのに、自分だけ楽になろうなんていうのが間違ってるんだ。楽になりたいなら私を罰すればいいのに。何度でも私を殴ればいい」

 そんな醜い父の姿を見ている間だけは少しだけ罪悪感が和らぐのだからと、少女は言った。

「私は憎まれて当然なの。母さんに見捨てられて、父さんに殴られて、それでもあの子の憎しみは晴れないんだ。それでいいの。私には罰が必要なんだから。ほら、あの子が呼んでる」

 水の中から小さな手が伸びてくる。棺が激しく揺さぶられる。私たちは棺の縁をつかんで何とか耐えていたけれど、少女は自ら水面に身を乗り出していた。小さな手は少女をつかみ、水の中へと引きずり込んでいく。もう一人の少女がそれを食い止めようとその腰にしがみつく。棺が傾き、中に水が入ってくる。何とか転覆させまいと、反対側に体重をかける。わらわらと湧く手が足をつかんだ。小さな手は簡単に振りほどくことができたものの、棺はどんどん傾き、水はどんどん入ってくる。

 とうとう棺は転覆し、私たちはみんな水の中へと没した。

 冷たい水が全身を包み込む。水の中に滲んだ街灯の明かりが盛大に火花を散らして弾け、消えた。闇が世界を飲み込んだ。


 それはすべての境界をさらっていった。あんなに恐ろしかった闇にも、今はもう、少しだけ慣れてしまっている。どうすれば本当にここから抜け出せるのだろう。

 鏡が望みを叶えるのは、罪を見せつけるためだ。何も望まなければ、罪は生まれない。誰も傷つけないし、誰に傷つけられることもない。

 すべての望みを捨てればいいのか。忘れてしまえばいいのか。そう思った途端、それは目の前に現れた。

 それは透明なはずなのに、はっきりとそこにあった。闇の中にぽっかりと浮かぶ、怖いくらいに澄んだ泉。それは、私のちっぽけな願いも悩みも、罪も憂いも喜びも悲しみも、希望も恐怖も幸福も、すべてを洗い流してしまいそうに、恐ろしく清浄だった。酷く喉が渇く。それはなんて甘やかに見えるのだろう。

 このために散々罪を突きつけられてきたのだろう。先へ進むならそれを飲まなければならない。飲まないなら戻るしかない。苦痛を抱えたまま生きるしかない。

 生きることは苦痛だ。なぜ敢えてそれを選ぶのだろう。死に物狂いで生きようともがいた少年、死にたいと嘆くことで生きたいと悲鳴を上げた少女。なんだ、みんな眩しい命の熱を持っている。二人のところへ天使が迎えに来ないのなんて当たり前だ。

 泉を覗き込む。闇の溶け込んだ水面は、その顔も映さない。酷く澄んだそれは、泉というよりもどこまでも落ちていく穴のようだった。

 お祖父さんは、この水を飲んだのだろうか。そして、私のことも忘れてしまったのだろうか。いや、お祖父さんにはその必要はなかったかもしれない。お祖父さんのところには天使が迎えに来たのだから、きっとお祖父さんは自分の死を受け入れていたのだ。自分が生きたことを後悔なんかしなかったのだ。

 死を拒んだり生を呪ったりする人間のところに、天使は迎えに来ない。

 私のところにも天使が迎えに来てくれればよかったのに。私なら、天使と一緒に飛べたはず。私がいるから飛べないと言った天使の言葉の意味が、今なら分かる。死を拒む重力が、生を呪う鎖が、飛べなくするんだ。私にはそんなものなかった。だから天使が飛べなかったのは、お祖父さんが私を見捨てることができなかったからなのだろう。私がお祖父さんを引き留める鎖になってしまっていたんだ。私は最後までお祖父さんに迷惑を掛け通しだった。今さら悔いても遅いけれど。

 泉の水を両手ですくった。

 これを飲めば、楽になれる……。

 指の隙間から水がこぼれてなくなっても、私はまだじっと自分の手を見つめていた。

 こぼれた水の滴りが水面に波紋を描く。ゆらゆらとゆらめく水の表面が、歪んだ私の顔を映し出す。

 ――どうして迷うの。

 さっきまでは何も映さなかった泉に浮かんだ私の像が囁く。それはゆらゆらと揺らめきながらこちらへと手を伸ばす。その手が私の頬に触れる。いつの間にか水面すれすれまで顔を近づけていた。

 この期に及んでもまだ、帰りたいとは思えなかった。けれど、この先へと進む決心もつかないのだった。今の私のところに天使が来ても、もう一緒に飛べる自信はなかった。

 自分の優柔不断に腹が立つ。自分が面倒臭い人間だというのは知っていたけれど、本当に愚鈍だなあと、改めて感じる。どうしてこんな私みたいな子が生きて、少年みたいな子が生きられないのだろう。泉に映ったもう一人の私が、もう楽になってもいいんじゃない、と囁く。

 本当にそうだろうか。私にはそうする資格があるのだろうか。そんなことを考えていると、背後で声がした。

「その命、いらないなら私にちょうだいよ」

 振り向くと、腕から血を流した少女が幽霊みたいに闇の中に浮かんでいた。その声は落ち着いていたけれど、その瞳はまるで血に飢えた獣のようだった。カッターナイフを手に、闇の中に赤く光る瞳でこちらを見据えている。襲い掛かってくる少女にひるんだ瞬間、引きずり込まれるようにして泉の中へと落ちていた。

 私の身体は再び境界を失っていた。手足は何の感覚もなく、瞳はすべてに触れていた。鼓膜は何も捉えず、心臓はすべてを聞いていた。

 本当には存在しないはずの胸の傷がしくしくと痛み、それだけがどうにか私の存在を保たせてくれていた。むず痒い痛みと共に甘さを覚えるのは、泉の水が傷口を洗い流そうとしているからだろうか。このままそれを受け入れてしまった方が幸福なのかもしれない。

 傷から流れ出した血が、その原因となったものをかたちづくっていく。それは友達だったりお母さんだったり、今ではどうしてそれが傷の原因になったのか分からないようなものだったりした。そして、傷の奥から滲み出してきたのは、おぼろげなパパの姿だった。

 そんなことで私は傷ついたりしないものと思っていたのに、どうやらしっかり傷ついていたらしい。どろどろと、もやもやと、他愛もない出来事が私を取り囲んでいく。こんなものを、私はいつまでも胸の中に抱えていたのか。

 こんな傷、消してしまえるのならその方が良いのかもしれない。けれど、それをなかったことにしてしまってはいけないのだとも思った。傷が癒えるのを拒んだのは自分だけれど、それは大事に傷を保存しておきたかったからじゃない。

 私は、本当は悲しいってどういうことか、ちゃんと分かっていたのだ。分からない振りをしていれば傷つかないで済む、そんなはずはないのに。

 もっと怒って、憎んで、争って、相手のことを嫌いになるかもしれない自分のことを嫌いになるかもしれなくても、それで傷が増えても、傷口が広がっても、痛みを知るのは必要なことなんだ。耐えられない悲しみなんてないんだ。忘れてしまうことを恐れたりしなくてもいい。

 辛くても苦しくても、風にさらしていればいずれ傷口は乾き、いつかかさぶたにもなるだろう。それが剝がれた時、きれいに傷が消えているか、痕になって残るか、いずれにしても、もうその傷が血を流すことはないだろう。

 いくつも傷をつくっていれば、痛みにも慣れるかもしれない。ともすればそれは鈍感になるということなのかもしれないけれど、たくさん傷つく中で、どうすれば傷つくか、どうやって傷を治すか、傷つかないで済むにはどうすればいいかといったことも身についていくのだろう。

 私は、傷が見えていなかったんじゃない。傷との向き合い方が分かっていなかっただけなんだ。誰にでも傷が見える必要なんてなかった。傷をさらして同情を請う必要なんてない。私はずっと、見えない傷を他人と比べていたんだ。だから、誰もが傷を抱えているのだと証明したかった。傷の深さなんて関係ない、痛いのはみんな同じだと。

 でも、いつか傷は癒えるのだ。それを遅らせることに何の意味があるだろう。

 すぐに治る傷も、簡単には治らない傷もあるだろう。時には運悪く致命傷に至ることもあるかもしれないけれど、私の場合はほんのかすり傷を大けがのように思い込んで騒いでいたようなもので、それが後ろめたくなって、それで自分がここにいることの許しが欲しくなったのだ。その結果、傷が見えるようになればいいなんて願い、心のどこかでその深さを比べて怯えていたからこそ、見た目の傷がみんな同じように見えることでほっとしていたのだった。それを恥ずかしいとも思っていなかったことが恥ずかしい。

 大切なのは、傷の奥にあるものだ。それは決して他人に見せるようなものではない。それをどのように隠して生きていくのかということが、強かさというものなのだろう。私はいい加減、自分の傷を大きく見せようとすることの愚かさに気づかなければならなかった。どんなに拒んでも、時が流れるのを止めることはできない。人は変わる、思い出は薄れる、傷は癒える。私はそれを素直に受け入れるべきだった。

 傷が治るのは、喜ぶべきことじゃないか。これからだって何度も傷つき、その度に回復するのだろう。そのことを受け入れて、少しずつ強くなっていければいい。強くなるということが、鈍感になるということなのか、治癒力が高まるということなのか、あるいは傷つくことを恐れない勇気を持つということなのか、それはきっと自分次第、あるいは、時と場合による、のだろう。

 そうして納得できたところで、傷の痛みがなくなるわけじゃない。その原因を許せるわけじゃない。いくら傷口が気になるからといって、いつまでもいじくりまわしていたら、治るものも治らない。いい加減そんなものにこだわるのはやめにしなければ。

 生きることは諦めとタイミングだ。私はちょっとばかりその見極めが苦手なのだ。とりあえず今は、この旅はもうここまでなのだと、諦めるしかない。

 忘却の泉を前に躊躇した、それがすべてだ。

 望みを問う声が辺りに充満している。ここを出るには、正しい望みを告げるしかないのだと思った。

 ――その傷が見えなくなってしまってもいいの。

 もう一人の自分の声。

 正直なところ、それは寂しかった。けれど、他人にそんなものが見えたところで、その痛みを想像することもない人だっているだろう。そんな人に向かって、見て、私はこんな傷を抱えているのよ、なんて見せつけても何の意味があるだろう。それでもどうしても伝える必要があるなら、言葉にして伝えればいいのだ。私はこんなに痛いんだよ、苦しいんだよと、言葉を尽くして表現すればいい。そんなあからさまな方法が嫌なら、どうやったっていい。自分でやらなくたっていい、誰かを頼ったっていい。その傷は、その痛みはその人だけのものでも、それを分かろうとする人を遠ざけなくてもいいんだ。傷を分け合うことはできなくても、痛みを分け合うことはできるんだ。どうして痛みを理解しない側にこちらが合わせなければならないのだ。痛いと言わないからと言って痛くないわけじゃない。生きるって痛いんだ。死ぬのってもっと痛いんだ。死ぬのが怖いのって当たり前だ。生きるのが苦しいのって当たり前だ。そこから逃げ出したくなることだってある。

 逃げたっていい。それでも、逃げ続けることはできない。いつかは向き合わなければならないのだ。自分の傷に。自分を傷つけるものたちに。それは生きるためかもしれないし、死を前にしてかもしれない。他人のことを本当には知ることができないように、自分のことだって本当に知ることなんてできないのだという気がする。頭の中に異なる二つの意見があった時、どっちが本当の自分だなんて言えるだろうか。

 ――……。

 もう一人の私が恨めしそうにこちらを見ている気配がする。ごめんね、でも、分かるでしょう? これ以上痛いのは嫌なの。これ以上痛い振りをするのは嫌なの。いつか本当に耐えられない痛みになってしまいそうな気がするから。目の前にある忘却は、この瞬間私を楽にしてくれるかもしれない。でも、今この時だけ痛みを和らげることができても、それに頼らなければならないことが、また新たな苦痛になってしまいそうな気がするから。

 私に必要なのは、別れを告げる覚悟だ。勇気だの覚悟だのという言葉は、こういう時のためにあるのだろう。そうだ、少年を連れていくという約束も、まだ果たしていなかった。私は天使になるための試練を受けなければならないのだ。こんなところで自己嫌悪に浸っている場合じゃない。ああ、私にもまだ、やることがあったのだ。やはり、まだこの甘い忘却を受け入れるわけにはいかないみたいだ。

 闇に溶けかけていた私の身体がよみがえる。周囲の闇が急に質量を持ったように体にまとわりついてくる。私の身体ってこんなに重たかったっけ。こんなにも動かなかったっけ。思い通りにならない体に戸惑いながら見上げれば、水面に光が揺れていた。腕が水を掻き、脚が水を蹴る。吐いた息が泡になって天へと昇っていく。苦しい。

 ああ、けれど、もう一蹴りすればあそこまで浮かんでいける、と、その足を誰かがつかんだ。ごぼごぼと息がこぼれる。

 一瞬意識が遠くなる。抜けた空気の代わりに重たい水が押し入ってくる。いけない、この水を飲んでは。無茶苦茶に暴れた足がつかんでいた手を蹴り飛ばし、泥のように重たくなった闇を掻いて、水面を目指した。足をつかんだのが何者かなんて気にしている場合ではなかった。

 もう少しで水面に届く、というところで、さっき蹴り飛ばした何者かが追い縋り、背後からがっしりと私を捕まえた。首に回された腕から、赤色の筋が流れている。彼女はまだ諦めていないのか。何とか振り解こうともがいてみるものの、空気が足りず、もはや体も思うように動かなかった。

 ――もうだめ……。

 そう思った瞬間、別の誰かが銀色に光る刃を赤色の筋を引く腕に突き立てた。怨みの声を上げながら彼女は水底へと沈んでいった。赤色がじわじわと闇に広がり、滲んで消えた。

 ぼんやりとした視界の中で無数の光が踊っていた。鼻先が水面を突き抜け、がむしゃらに空気を求めて開いた口から水が流れ込んでくる。このままでは、溺れてしまう……。

 そこに再び背後から腕を回され、血の気が引いた。彼女が私を道連れにしようとしているのだと思って、パニックになった。暴れる私の耳元に、少女の声がした。

「おとなしくして」

 意識を手放す寸前、こちらに差し出された手と、赤色の袖が見えた。私は薄れかけた意識の中、その手に腕を伸ばしていた。


 目を覚ますと、私は忘却の泉にいた。外が明るい。どうやらようやく雨は止んだらしい。側には少女も、少年も、天使もいた。泉から引き上げられた時のことをなんとなく覚えているような気もする。膝には私のコートが掛けられていた。差し伸べられた手のまとっていた赤色。少し落ち着いてきて、ようやく状況を思い出してきた。

「助けてくれたの」

 うなだれた少女に問い掛ける。どうして、という言葉は飲み込んだ。

「……他人のことは助けておいて、自分は死んでもいいだなんて、言えないよね」

 彼女は苦しそうに胸を押さえる。けれど、もうそこに傷は見えなかった。

「そうだね、それはちょっと無責任かもね」

 それは自分に向けた言葉でもあった。

「だから、私のせいにしていいよ。助けてしまったんだから仕方がないって、思っておいて。私はもう助けられちゃったから、仕方がないんだって言い訳しておいて」

 彼女はしばらく何も言わず、やがて小さく頷くと、それから自分を納得させるように、うんうんと、大きく頷いた。その目に光るものを見て視線を逸らすと、横目でこちらを見ていた少年も慌てて視線を逸らした。私はその背中に、ありがとう、と声を掛けた。

 私たちの様子を黙って見ていた天使は溜息を吐いて頷くと、一つ目の試練は合格だと言った。それが私の天使になるための試練のことだというのは分かったものの、そんなものをいつ出されたのかは記憶になかった。試練って何だったのかと天使に聞くと、彼女を連れ戻してくることだと天使は答えた。

「そんなの聞いてない」

 言いそびれたのだと、悪びれた様子もなく天使は言った。試練だから天使は助けに来てくれなかったのだろうか。そういえば泉に飛び込む前から天使はやたら落ち着いて二人が争うのを見ていたなと思う。今みたいにやたら達観したような顔で。どうやらあの時の天使は、少年と同じように考えていたらしかった。彼女は一度すべてを忘れてしまった方が良いのではないかと。

 その場合私の試練はどうなっていたのかと尋ねると、天使はにやりと笑んだ。初めて彼の陰鬱そうな部分ではなく、どこか子供のような印象の瞳と表情とが合致したように思った。

「それに、別に私が連れ戻したわけじゃない」

 横目で少女を見ると、彼女はうつむけていた顔を上げた。

「でも、あなたが迎えに来なかったら、私はここに戻ってきてないと思う」

 ずっと腕の中にあったものがなくなったのが落ち着かないらしく、もじもじと指を絡ませながら少女が言う。なんだかむず痒いような心持だったけれど、彼女がそう言うならいいかと納得しておくことにして、改めて天使を見た。試練は三つと言っていたはずだ。天使は頷くと、少年を見てその肩に優しく手を置き、二つ目は彼に泉の水を飲ませることだと言った。

 少年が黙って金色の杯を差し出す。

「いいの?」

 私はそれを受け取るのをためらった。

「ラクチンな試練でよかったな」

 いたずらっぽく笑う少年に促され、受け取った杯で泉の水をすくう。清らかに澄んだ水は、金色の杯の中ではとろりとした蜜のように見えた。

 本当にこれを彼に飲ませてしまってもいいのだろうか。それは、生きたいと願っていた彼に、生きるのを諦めさせたということでもある。そう思うとどうしてもためらってしまうのだった。

 けれど彼は自分からそれを受け取り、一息に飲み干した。少年の喉がごくりと動くのをぼんやりと眺め、その剥き出しの胸にあった傷のことを思う。それはもう水を飲む前からなくなっていたのだけれど、こちらへ穏やかに微笑みかける少年の顔を見て、これでもう本当におしまいなんだなと思った。

 それは少年が望んでいたこと。だからそれは私の身勝手な感傷に過ぎないのだけれど、これであの熱の元もなくなってしまったのだと思うと、どうしても素直に喜べないのだった。そんな私の表情に気づき、少年は少し困ったような顔をする。それで、私もこんな顔をしていてはいけないと、ぎこちないながら笑みをつくってみせた。

 気持ちを切り替え、これで次が最後の試練だと、天使を見る。

 私の視線を受けて頷くと、天使はスーツのポケットから金色の小さな鈴を取り出した。受け取ってまじまじと観察してみたけれど、何の変哲もない鈴のように見える。

 貴方が善き事を為したと思った時に、その鈴を鳴らしなさい――、と急に物々しい口調で告げられ、私は少し緊張しながら上目遣いに天使を見た。

「それは私が判断するの」

 天使は頷いた。

「私が良いことをしたと思えば、たとえば今でも、鳴らしていいの」

 それで自分が納得できるなら、と天使は言った。私はもう一度手の中の鈴を見た。

 まだ鳴らせない――、と思った。

 ならば、私が少年をこの先に連れて行くことはできない。私が連れて行くと約束したのに。少年が呆れたように溜息をつく。

「お前が天使になるのなんか待ってらんないからさ、先に行くよ」

 唇の端を歪めるようにして少年は笑った。さっきの穏やかな笑みよりずっと少年らしい笑い方だと思った。

「ごめんね」

「なんで謝るんだよ」

「だって、私が連れて行くって約束したのに。それに、他にもいろいろ、私のせいで……」

「アンタのおかげだよ」

 私の言葉を遮るように、少年は言った。視線を逸らし、照れたようにくしゃくしゃの髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回すと、それでも最後にはちゃんと私の目をまっすぐに見つめた。

「俺の人生を、憎しみで終わらせないでくれて、ありがとう」

「ありがとうなんて……」

 私がいなければこんな目に合わずに済んだかもしれないのに。私は彼を振り回しただけだ。感謝される資格なんてない。

「ありがとうくらい言ってもいいだろ。俺が言うべきだと思ったから言ったんだ」

 それでいいだろ、と少年は言った。視線を合わせ、私たちは少しだけ笑い合った。

「では、行こうか」

 天使が少年の肩に手を添える。行けるところまででいいからと、私は一緒に連れて行ってくれるよう天使に頼んだ。この旅で初めて天使は私がついていくことを許してくれた。

 さっきまでの雨が嘘のような晴天で、あんなに不気味に見えた森の木漏れ日が心地よくさえ感じられた。天使の後をついて行くと、不思議と森の木々が道を開けているようにも見える。雨が空気を洗ったように清々しい空気が肺に流れ込んでくる。この心地よさは、私がしばらく忘れていたものだ。久し振りにちゃんと呼吸をした気がした。

 森を抜け、川原に出る。あの凶暴にうねっていた濁流は、まるで雨などなかったかのように、穏やかに水面をきらめかせていた。向こう岸には緑の野が露に濡れてキラキラと輝いている。お祖父さんはあちらへと渡って行ったのだ。

 私がついて行けるのはここまでだった。

 天使は少年の手を取り、ふわりと浮かび上がった。

 少年が振り向いて手を振り、私もそれに応えて手を振った。黙ってついてきていた少女も隣で小さく手を振っているのを、視界の端で見る。二人が向こう岸に降り立った時、柔らかな雨がレースのカーテンのようにさあっと横切って行った。私はその中に人影を見たような気がした。雨はすぐに過ぎ去り、一瞬しか見えなかったので、気のせいかもしれなかった。

 さよならを言うなら、今しかないと思った。そこにはもう誰の姿も見えなかったし、それは声に出して言う必要はないと思えたので、心の中でそっと告げた。

 ――お祖父さん、私のことを気に掛けてくれてありがとう。心配かけてごめんね。もう大丈夫なんて偉そうなことは言えないけど、たぶんそれなりに何とかなるよ。お母さん、ちゃんとお別れの挨拶できなくてごめんね。私はきっと、ちゃんとお母さんのこと好きだったよ。バイバイ――。

 ようやく大事な人にちゃんとお別れをすることができたのだと思うと、ほっとして涙が出た。

 いつまでもこのまま突っ立っているわけにもいかないけれど、すぐには立ち去る気にもなれなくて、しばらく対岸を見つめていた。生きることを望んだ少年と、死ぬことを願った少女と、どうして正反対の結果になるのだろう。そんなことをぼんやりと考えていた。

 傍らの少女に目をやると、ちょうど視線が合った。そして私たちは、何も言わずにその場を後にした。

 森は町までの道を開けていてくれた。町の壁はまばゆいばかりに白く輝き、ここをあの気味の悪い亡霊がうろついているところなどもう想像もできなかった。今さら寄り道をすることもないので、まっすぐ駅へ向かう。駅にはなぜか天使が先にいて、私たちを待っていた。

「君たちが線路の上なんかを歩いて行かないようにね」

 彼のことが死神に見えていたのが信じられないくらい、今の彼は紛れもなく天使だった。ホームではすでに電車が扉を開けて待っている。

「君たちなら送って行かなくてもだいじょうぶだね」

 私たちは顔を見合わせて苦笑した。

 電車は私たちが乗り込むとすぐに動き出した。大事な鈴を失くしてしまわないようにしっかりと握り締め、空いている方の手で天使に手を振った。天使は手を振り返してはくれなかった。あれほどに焦がれた場所が遠ざかっていく。そのことに何の感慨も抱かないほど割り切れていたわけではないものの、今すぐ電車を飛び降りたいという気にもならなかった。

 背もたれに寄りかかり、電車の揺れに身を任せていると、段々うとうとしてきて、やがて眠ってしまった。

  



     *****




 私は当然のように自分のベッドで目を覚ました。手の中には小さな鈴を一つ握っていた。カーテンを開け、見慣れた自分の部屋を見回す。ドアの横に掛けられた赤いコートは、もちろん濡れていないし、汚れてもいない。

 お祖父さんの部屋へ行ってみると、当たり前だけれど、お祖父さんはもう息を引き取っていた。

 こういう時は病院に電話をすればいいんだろうか。よく分からなかったので、引出しの奥にしまってから初めてパパの連絡先を引っ張り出してきて、電話をした。パパは仕事を休んですぐに駆けつけてくれて、色々な手続きをみんな済ませてくれた。もちろん私のことをとても心配してくれていた。

 少し言い難そうにしながら、これからは一緒に暮らすことになると説明するパパに、私はひとこと断っておかなければならなかった。

「私はもう、前と同じようにお父さんのことを好きではいられないかもしれない。これからお父さんのことを嫌いになるかもしれない。それでもいい?」

 電話を掛けた時にはパパと呼んでいたのを、会って話す時にはお父さんと呼んでいることには気づいていないみたいだった。お父さんは、なんだそれ、と笑って言いながらも、けっこう深刻に受け止めているみたいだった。


 それまでひとりっ子だった私に、二歳上の姉と八歳下の弟が突然できてしまった。急に姉弟ができるのは妙な気分だった。それでも新しい家族とはそれなりに折り合いをつけている。どうしたって私たちが本当の家族になれるわけはなかった。でも、本当の家族だって時には仲違いをすることもあるし、本当の家族じゃないからといって親しくできないわけでもない。

 はっきり言って姉からは嫌われていると思う。まだ幼い弟には早くも姉の懐柔策が及んでいる。お父さんはみんなを平等に扱おうとして少しぎくしゃくしているし、新しいお母さんは姉と弟を贔屓しないように意識するあまり私にちょっと構い過ぎる。

 そんな両親の対応が、姉にはおもしろくないようだった。私としても両親を邪険にはできないし、かといって甘え過ぎるわけにもいかず、当初はどう接するべきか少し悩んだ。父も母も私たちと自然に接しようとし過ぎてむしろ不自然になっているのに気づいていないのだ。その点、姉の反応は自然で分かり易く、また当然なものと納得もし易かった。

 進学するはずだった中学校とは別の学校に入ることになってかなりドタバタはしたけれど、何とか新学期には間に合い、必要以上に目立つのは避けられた。行く予定だった学校ではどうせ小学校とほとんど顔ぶれは変わらず、どんな目で見られるか分からなかったから、新しい学校に通えるのは私にとっては良いことだったのかもしれない。

 ちゃんと新しい友達もつくったけれど、実はやっぱり友達関係は面倒臭いと感じることもまだ多い。もちろん全てが面倒なわけではなく、それなりに楽しくやっていると思う。だんだんクラス内でいくつかの派閥ができ始めているので、これからはもう少し面倒臭くなるかもしれないけれど、まあ何とかやっていけそうな気はしている。

 相変わらず運動は苦手だけれど、自分の体力の無さを実感していた私は、陸上部に入部した。不器用な私でも走ることくらいはできると考えたのだ。大会に出られるようなレベルかどうかはまた別の問題として。幸い全国大会を目指すような部でもないので、のほほんとやらせてもらっている。

 勉強の方は、まあ、それなりに頑張っているつもりなのだけれど、それなりではあまり良い成績は取れない。高校受験が近づけばもう少し真剣にやらざるを得なくなるのだろうか。あまりその時になって焦りたくはない。とりあえず私より先に受験生になる姉の様子でもよく観察しておくとしよう。

 なんだかんだ何とかバランスを取りながら日々の生活をこなしている。新生活はそれなりにうまいこと始められたと言って良いと思う。家庭に学校に、気を使う場面が多いのは確かだけれど、これも私の性格だから仕方がない。無理に仲良くしたり、無理に楽しい振りをしたりするつもりはなかった。相手が友達でも、家族でも。ただ、できる限り表面はとりつくろっているつもりだ。無理はしないとはいっても、それなりに疲れる毎日ではある。

 まあ、これでいいのだろう。

 忙しく日々をこなしている内に、私はいつか、あの鈴のことを忘れかけていた。




     *****




 やがて一年が経ち、二年が経ち、私は受験生になった。

 姉の姿を見て、私はあんな風にはなるまいと思ったけれど、いざ自分が受験生になってみると、姉の気持ちも分かる気がした。

 姉は両親の前ではあからさまな悪口は言わない。ただ、私や弟といる時は口さがなく、平気で私のことを罵ったりする。弟はそんな姉にしっかり影響を受けていた。こんなことを言っては姉に悪いけれど、正直、弟の将来が少しだけ心配になる。

 両親はさすがにもうぎこちなさはなくなったけれど、やっぱりたまに子供たちの扱いに困っていると感じることがあった。もしかしたら私が姉から嫌われていることに薄々感づいたのかもしれない。それでも何も言われなかったし、私だって別に一方的に嫌われているわけでもないのだから、まあ仕方がないと思っていた。

 とりあえず大学に行ったら一人暮らしをしようと決めた。その前にまずは高校受験だ。


 何とか地元の公立高校に受かり、ほっとする。それは姉も受験したけれど行けなかった学校で、両親は喜んでくれた。

 その姉が、ちょっとだけぐれた。一回補導されたらおとなしくなったから、実は小心者なのかもしれない。受験を来年に控え、内申点を気にしたのかもしれなかった。

 けれどそんな姉に両親は頭を抱え、私と比べるような発言をしたものだから、危うく姉が家出する事態にまで発展するところだった。いずれは私がこの家を出ていくつもりなのだから、どうせならそれまで待ってほしい。




     *****




 それから三年が経ち、五年が経ち、現実に打ちのめされながらもそれなりに日々をやり過ごす術も身についてきた。

 あまり好んで実家には寄り付かなかったけれど、盆暮れ正月にはちゃんと帰省していたし、親族の集まりにもなるべく顔を出していた。姉とも表面上は穏やかに話せるようになった。これは、私というより姉の方が表面をとりつくろう術を身に着けたからだと、私は思っている。

 弟はというと、たまに一人で私の部屋へ遊びに来るようになった。遊びに来るというかねだりに来るというか。お金は要求されても基本的に渡さなかったけれど、物に関してはあまり高いものでなければ買ってやった。私の中にも少しばかり良いお姉ちゃんだと思われたいという欲があった。まあ、方法が即物的すぎる気もするけれど。弟も姉をうっとうしく感じてきたらしく、私の方に懐いてきたという面もありそうだ。彼の将来が心配なので、今後はもう少し接し方を改めていった方が良いのかもしれないと思っている。

 

 姉が結婚した翌年に、私も結婚することになった。ずっと一人暮らしが性に合っていると思ってきた私だから、生涯を誰かと共にするということの実感がもうひとつ湧かなかった。いずれ子供でもできれば意識も変わるのだろうか。




     *****




 やがて十年が経ち、二十年が経ち、ある日、ふと、今なら世界のすべてを愛せると思った。そして、なぜだか急にあの忘れかけていた鈴のことを思い出した。引っ越しの度に目にしてはいたものの、子供の頃の思い出の写真くらいの扱いをしていた。

 私にできる善いことって何だろう、その時になって初めて私は真剣に考えたのだった。

 今まで嫌ってきた自分や他人、すべてを許す、たぶんそれが私にとって最上級の善いことだ。ならば、今こそこの鈴を鳴らす時。うららかな春の日、洗濯物を干しながら思った。

 あの鈴はどこにしまったかと少し考えたけれど、案外すぐに見つかった。ずっとしまい込んでいたのに、しまい込んでいたから、なのか、昔のままきれいな金色をしていた。


 さあ、今こそこの鈴を鳴らす時。




     *****




 それからさらに十年が経ち、二十年が経ち、私はまだ鈴を鳴らしていなかった。

 その存在を忘れた頃に思い出し、さあ鳴らすぞ、と思うと、本当にこれが自分にとっての善き事なのだろうかと考え、結局またしまい込むということを繰り返していた。

 今ではもう子供もみんな家を出て、孫までいる。姉は早くにこの世を去ってしまっていた。両親よりも早かった。いつかまた、鈴のことなんてすっかり忘れていた。忘れてしまうようなことなら、それでいいのかもしれない。

 そうだ、これでいいのだ。




     *****




 それから更に月日は流れ、もう歳を数えるのが面倒になった頃、私は一日のほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになっていた。

 窓から見えるのは冬枯れの寂しい景色。騒々しい孫たちが帰った後で、一層そう感じるのかもしれない。ほとんど家から出ることはなかったけれど、こうして何かと親戚が訪ねて来てくれる。今日は弟も見舞いに来てくれた。姉とは違ってとうとう一度もぐれなかった。まっすぐに育ったとまでは言わないけれど。

 サイドテーブルの上には古い文庫本が置いてあった。アンデルセンの童話集。『天使』という話のページにしおりが挟んである。もう何度読んだかしれない。

 けれど、今日はその本に手を伸ばしたわけではなかった。

 引出しの奥にしまい込んだ小さな鈴を取り出す。こうして手に取って眺めるのは何度目だろう。今こそ本当に、これを鳴らす時だ。これまでにも何度も自問自答してきたけれど、やっぱり自分にできる最良のことは、これまでの自分を許し、これまでに出会ってきたすべての人を許し、この世のすべてを愛することなのだと思った。

 今なら、その時に相応しい。

 私は、すべてを許せる。

 私は、すべてを愛せる。

 それが私にとっての善き事。

 天使に会ったら胸を張って言える。

「それはともかく、こんな歳でもまだ天使にはなれるのかしらね」

 さあ、と構えたその時、また別の孫たちの訪う声がした。

「今日は本当にお客さんの多いこと」

 窓の外には雪がちらつき始めていた。

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天使 亀沢糺 @kameQ

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