第3話
私は線路の上に立っていた。頭上には暖色の明かりが点々と灯っている。どうやら駅の中にいるようだ。ここで終点なのか、線路は駅を抜けずに途絶えている。それならもしかしてお祖父さんもここにいるかもしれないと、駅の中を探してみることにした。
けれど、いくら探しても人の姿が見当たらない。もう外に出てしまったのかもしれないと、出口に向かうと、白い壁の街並みに、やはり暖色系の明かりが点々と灯り、霧をつないだような細い雨の中に滲んでいた。
その明かりの下を人影が横切る。お祖父さんだ、と思い、コートのフードを被り、雨の中へと駆け出した。そんなものでどこまで雨をしのげるかは疑問だけれど、何もしないよりはいくらかましだろう。
町全体が雨に霞んでいた。誰もいないように見えた町の中に、まるで霧のスクリーンに映し出されたみたいな人影が、明かりの下を行ったり来たりしている。それはまさに影、あるいは亡霊とでも言うのがふさわしいように思えた。そこはかとない気味悪さを覚えつつも、その胸にぽっかりと黒い空洞が開いているのを見ると、自分の胸の傷と同じようなものを彼らも抱えているのかと思い、少しだけ落ち着いた。
影たちが行き交う町の中で、お祖父さんの姿はすぐに紛れてしまった。そもそもさっきお祖父さんだと思ったのも私の勘違いではないかという気がしてくる。それでも自分の直感を信じ、お祖父さんが入っていったと思しき路地に飛び込む。
その瞬間、誰かとぶつかりそうになった。謝ろうとした時にはもう、目の前に銃口を突きつけられていた。すぐには状況が把握できずに、恐怖は遅れてやってきた。私は銃口を見つめて硬直していた。
「なんだ、アンタか」
その声にようやく相手の顔を見た。色黒で縮れ毛の見知った少年の顔に、ふっと肩の力が抜けた。脅かさないでほしい。もしかして、フードのせいで私だと気づかなかったのだろうか。まだ胸がドキドキしている。
「悪かったな。でも、どこから敵が襲ってくるか分からないからさ」
彼の胸にも私と同じような傷があるのを見つけ、わずかに残っていた緊張も解けていった。
少年は油断なく周囲に視線を向けていた。その顔は少しやつれたように見え、目元には隈が浮かんでいる。敵って何だろう。徘徊する影たちは、敵意どころかこちらにまるで関心がないように見えた。
少年の肩越しに路地の向こうを覗く。行き交う影たちの中にお祖父さんらしき姿は見当たらず、少年に聞いてみた。
「いや、見てないな……。それより、アンタのそれは、大丈夫なのか」
少年が私の胸の傷を指差す。
「もちろん」
私が自信に満ちた声で答えると、少年は眉を顰めた。
「これは私が元々持っていたものだから、だいじょうぶ」
それから彼を安心させようと思って、こうしてみんなが胸に傷を抱えているのが分かったら争いなんて起こらない、だからもう戦わなくてもいいんだよ、と言うと、少年は益々眉間にしわを寄せて、これ、アンタのせいか、と自分の胸の傷に手を当てた。
「傷は弱みだ。弱みを見せたら、そこを狙われる。他人にさらすようなもんじゃない」
どうやら私とは根本的に考え方が違うらしい。今度は私が顔を顰める番だった。
「それより、おじいさんを探すんだろ」
そうだったと、慌ててこの辺りでお祖父さんを見かけたことを話すと、少年は何やら考えるような様子で、私が見たのは本当にお祖父さんだったのかと聞いてきた。つい唇が尖った。
「私の見間違いだというの」
実際のところ自分でも見間違えかもしれないと思っていたことなど棚に上げて、責めるような口調になってしまった。でも、根拠はなくてもあれがお祖父さんだと私が思ったのなら、きっとそうに違いないのだという気もしていた。それを否定されると何だか気分が悪い。
「いや、アンタは本当に見たのかもしれないさ。でも、それって本物のおじいさんだったのかってこと」
言葉の意味が分からず戸惑っていると、アンタが会いたいと願えば、おじいさんの姿が現れるってこともあるんじゃないかってことだよ、と彼は言った。
願えば叶う、のか。そんな簡単に?
「あるいは、願わなくても鏡は映し出すかも」
どこに鏡があるというのだろう。周囲をきょろきょろと見回す。
「そんなに警戒しなくても、じいさんは襲ってこないだろ」
たぶん、と少年は言った。そんな心配なんかしていないのに。さっきまでの少年の様子を思い出し、彼には警戒しなければならないような敵がいるのか、と思った。少年は私の思考を察したらしく、言い訳をするように言った。
「俺は、復讐を願ったんだ。だから」
少年はいつでも撃てるように銃を持ち直し、油断のない視線を周囲へ向ける。血走った眼と濃い隈が痛々しい。武器を持つということは、武器を向けられても文句は言えないということだ。こうしている今も、相手はどこかからこちらを狙っているかもしれない――。私にはそんな感覚を理解することができなかった。
「どうしてそんなにまでして戦わなきゃいけないの」
「だって、そうしなきゃ死んだ弟に申し訳が立たないじゃないか」
「弟のために戦うの」
「自分のためだって言いたいんだろ。その通りさ」
別にそんなことを言うつもりなんてないのに、彼の言葉は止まらなかった。
「俺は、俺の命に意味が欲しかったんだ。ただ生きて、ただ死んで、そこには何もなかったなんて、思いたくはない。何かを成し遂げたんだって実感が欲しい。それはいけないことなのか」
いけないだなんて言っていない。言っていないけれど、それが正しいとも言えないのだった。恨む気持ちももっともだと思う。同情もする。けれど、今の彼を見ていて、これが彼の望んだことだとはどうしても思えないのだった。
自ら望んでここにいる私と、望んだわけではない彼。そんな私の願いがこんなに正確に叶えられているのに、彼は自分の望みにさえ自信を持てずに、こんなにも魂を擦り減らしている。そのことが納得できなかった。
私たちは同じように胸に傷を抱えている。けれど、同じ傷を抱えているわけじゃない。もしかしたら、彼が抱えているのは、私よりもずっと深い傷なのかもしれない。つい傷を比べたくなってしまう。私は、どうしてこんな傷を抱えているのだったか。私には傷つくのに十分だった原因も、彼の抱えたものと比べれば酷く矮小なものなのかもしれなかった。
気がつくと傷の深さを見定めようとするように、少年の胸を覗き込もうとしている。その悪趣味ぶりに慌てて視線を逸らした。
どんなに矮小で醜い傷だとしても、それを失えば、私がここにいる理由まで失ってしまいそうで、私にはそれを手放すことなんてできそうになかった。たとえ愛すべきものではないとしても、これはもう、私の一部だ。
「ねえ、一緒におじいさんを探してくれない」
少年はきっと私の意図を見抜いたのだろう、渋面を浮かべていた。お祖父さんと同じところへ行ければ、きっとこんなことで悩まなくても済むだろうという、浅はかな考え。けれど、私たちはそのためにここまで来たのだ。いや、彼は本当にはそれを願っていなかったのかもしれないけれど、それでも私がここまで連れてきたようなものなのだから、そうする責任があるのだと思った。私の本心が自分の行為を正当化したいだけなのだとしても、今は気づいていない振りをしよう。
私の身勝手を責められても仕方がない、そう覚悟していたのに、少年の返答は想定外のものだった。
「俺と一緒にいると、アンタも危ないかもしれない」
敵が襲ってくるかもしれないから、か。
「でも、もしアンタのことも俺の仲間だと思われていたら、ひょっとして一緒にいた方がましかもな」
俺には武器があるし、と少年は腰に差したナイフを示し、手にした銃を構えてみせた。なんて殺伐とした理由だろうと思いつつ、一緒に来てくれるならそれでもいいかと考えていると、少年の背後を人影がよぎるのが見えた。お祖父さんなのでは、という気がした。
すぐに後を追おうとする私の腕をつかみ、やっぱり変だと、少年は言った。人影が一人なのはおかしいと。本当にお祖父さんなら天使と一緒にいるはずだと。
「でも、早く追いかけないと見失っちゃう」
少年は納得できない様子だったけれど、この際だから正体をはっきりさせようと、追い掛けることに同意してくれた。護身用にと渡されたナイフは、使えるとは思えず断った。彼は渋い顔をしながらそれを腰に戻す。彼は本当にそれを振るうことに迷いはないのだろうか。私は、迷わず他人にそんなものを向けられるような人間にはなりたくなかった。
入り組んだ路地をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている内に、いつか町を抜け、森の中に迷い込んでいた。ぐねぐねとうねった木々の黒い影が、いかにも気味悪い。絵本なら悪い魔女か恐ろしい魔物が潜んでいることは間違いない。
木々の枝にはまるで木の実のように明かりがぶら下がっていた。暖色のぼんやりとした光は時々線香花火みたいにパチパチとスパークした。あまりに心許ない明かりではあったものの、それのおかげで森の中までお祖父さんを追うことができていた。それのせいでこんなところまで来てしまったともいえるが。それに、明かりが照らし出すのはお祖父さんだけではなく、あの亡霊のような影も浮かび上がらせていた。
不安定な明かりの中に徘徊する亡霊の姿がぼんやりと映し出されては消えて行く様は、酷く不気味だった。そして、いつかお祖父さんの姿はその中に紛れて分からなくなってしまった。少年の言うように、最初からお祖父さんではなかったのかもしれない。
戻った方が良いだろうかと振り返ると、さっきまでそこに灯っていた明かりは消え、町へ続く道は暗闇に閉ざされていた。残った明かりは瞬きながら森の奥へと向かっている。誘い込まれているみたいでなんだか気味が悪いけれど、このまま進むしかなさそうだ。
コートが水を含んで重たくなってきた。ただでさえ柔らかい森の土もたっぷりと雨を吸い込んで、踏み出した足を受け止める度に少しずつ靴の隙間から水を染み込ませてくるようになっていた。最初は濡れた靴下が酷く気持ち悪かったけれど、それももうどうでもよくなってしまった。いつの間にか地面は土というよりも泥に近くなっていた。
目の前には、湿地というのか沼地というのか、大きな水たまりみたいなものがいくつもあり、その水面に暖色の明かりを映している。気味悪くうねった木々は、水の中からも生えていて、やはりその枝に明かりをぶら下げているのだった。
水たまりの中には藻や水生の草花が茂り、ところどころに白や薄紅の花が寄り集まってぱっぱっと咲いているのが、闇の中に浮かんで見える。沼の中心にはねじくれた木をいくつもねじり合わせたような大木が立ち、その枝にはいくつもの明かりがぶら下がっていた。それは幻想的な風景と言ってもいいかもしれなかった。薄気味悪い亡霊が明かりの中をうろついていなければ見惚れていたかもしれない。
少年の目が、ここを行くのかと問い掛けていた。もう足元はぐしょぐしょで、全体に明かりが滲んで地面と水面の区別もつきにくく、踏む場所を間違えれば水の中に落ちてしまいそうだった。見ただけでは水の深さも分からない。
さすがにここを突っ切るのは無謀かなと考えていると、沼の中心の大木の下に、ぼんやりと立つ人影を見つけた。
「あれ、見て」
ついにお祖父さんを見つけたと思って、少年を振り返った。少年が目を細める。見えないのだろうか。向き直った時にはもう、その姿は闇の中へと消えて行くところだった。
私は駆け出していた。今度こそ、見失ってはいけない。ばしゃばしゃと足元で水が跳ねる。背後から、危ないぞ、と声がする。
その注意もむなしく、泥に足を取られてすっ転びそうになり、たむろしていた亡霊に肩が触れる。その瞬間、背筋を悪寒が突き抜け、へたりとその場に膝をついてしまった。
亡霊たちはそこで初めて私の存在に気がついたかのように、一斉にこちらを向いた。ふらふらと近寄ってくる姿は不気味で、何かを求めるようにこちらへ手を伸ばす様は恐怖でしかなかった。ゆらりと伸びてきた手が、胸の傷に触れようとする。咄嗟にうずくまり、傷を守るように両腕を掻き抱く。その手が、肩に、腕に、頬に、触れる。その度に、まるで雨が染み込んでくるように胸が冷たくなった。全身の熱が奪われていく。
逃げようとうずくまったままじりじりと移動を試みるも、ついに私の必死の防御をかいくぐった亡霊の指先が、傷口に触れた。血が凍り、傷口が乾いていくような、その奥の熱や痛みが吸い取られていくような、大事な何かが失われていくような……。
亡霊の指先が傷口の奥をまさぐる。
「だめ!」
逃れようと身をよじった瞬間、ばしゃん。水の中に落ちていた。同時に銃声が響く。必死に状況を探る視線が、少年の放った銃弾が亡霊の体をすり抜けていくのを捉えた。どうやら亡霊に対して少年の銃は役に立たなかったらしい。
幸い水深は浅かった。亡霊たちがじっとこちらを見ている。もしかして、水の中には入ってこられないのだろうか。ひとまずほっとし、亡霊たちから距離を取ろうと後退りした、と、急に水深が深くなる。
そのまま仰向けに倒れて、頭まで水に浸かってしまった。慌てて水面に顔を突き出す。ぎりぎり足がつかないような深さ。じたばたと手足を動かす。
少年が何か叫んでいる。自分で立てる水音のせいで、何を言っているのか全然聞こえなかった。私はあまり水泳が得意じゃないのだ。しかも今は、服が、コートが、酷く、重い……。まるで水の中に引きずり込まれているみたい……。このままでは……、
――溺れる!
口の中に水が流れ込む。吐き出そうとすると余計に水が入ってくる。苦しい。いっそこのまま意識を手放してしまえば、楽になれそうな……。
と、一瞬すべてを受け入れそうになったところに、シャツを脱いだ少年が泳いでくる。
どうやら水泳が得意なようで、少年につかまって岸まで連れて行ってもらう。必死にしがみつくあまり、危うく少年まで溺れさせるところだったけれど、何とか岸に上がることができた。亡霊たちは足が遅く、まだ追いついてこない。
「コイツら相手じゃ銃も意味がないみたいだな」
早く逃げよう、と言った少年の視線が森の奥に向けられ、そこで固まった。私はげほげほと咳き込みながら、まだ激しく肩を上下させていた。
「アイツだ!」
叫ぶと同時に少年は走り出していた。
私はわけも分からずその後を追った。どうしたのと聞いても、アイツだ、アイツがいたんだ、としか言わず、亡霊には効かないはずの銃を、何かに向かって撃ち放つ。なんて暴力的で耳障りな音なのだろう。思わず耳をふさいだ。その音に引き寄せられるように、森中の亡霊がぞろぞろと集まってきていた。
「早くどこかへ逃げようよ」
今度は私が言った。雨が凌げる場所まで行けば、亡霊も手が出せないはずだ。けれど少年は、眉間にしわを寄せ、拒むように首を振った。
「アイツは、アイツは俺が殺さなきゃいけないんだ」
そう言って少年はまた銃を撃った。銃弾の飛んで行った方を見ても、私には何も見えない。少年には彼の敵の姿が見えているのだろうか。それは私が見つけることができなかっただけなのか、それとも彼にしか見えていないのか。私が見たお祖父さんみたいに?
少年は再び走り出した。
「危ないよ!」
まるでこちらの声など聞こえていないみたいだ。彼は亡霊たちが伸ばしてくる手を巧みにかわしながら駆けていく。彼みたいに身のこなしが軽くない私は、亡霊たちの間をうまくすり抜けることができずにあたふたしている内に、いつの間にか逃げ場を失っていた。どこかでまた銃声がしたけれど、私に狙いを定めた亡霊たちはそちらに気を取られる様子もない。緩慢な動作でじわじわと迫ってくる。
胸元へ伸ばされた手を避けようとしてよろけ、しりもちをつく。手近にあった石を投げつけてもみても、銃弾と同じようにすり抜けていくだけった。絶体絶命だ。
最後のあがきとばかり、拾った枝をむちゃくちゃに振り回す。すると、枝に当たった亡霊の指先がしぶきを上げて弾けた。
そうか、銃弾や石ころみたいなものはすり抜けてしまうけれど、雨のスクリーンに映し出された亡霊たちは、その雨を散らすようにされるとかたちを保っていられないのだ。そういえば亡霊たちは水の中にも入れないようだった。
急いでコートを脱ぐと、水を吸って重たくなったそれを力いっぱい横に薙いだ。赤色が重たい軌跡を描く。何とか包囲に穴を開け、そこから抜け出す。
またどこかで銃声がした。手に持ったコートが重たかったけれど、ビショビショのドロドロになってしまっても、元は気に入りのコート、その上に今は強力な武器でもあるのだから、捨てていくわけにもいかなかった。
はぐれてしまった少年を探してあっちへ耳を傾け、こっちへ視線を向け、行きつ戻りつしながら森の中をさ迷っている間、木の枝に吊るされた明かりがパチパチと盛大に火花を飛ばし、忙しく点滅した。まるで私が思い通りに動かなくて慌てているみたいだった。
少年は銃声のするところにいるに違いないと、耳を澄ましてみても、それは森の中に反響してどこから聞こえてくるのかよく分からなかった。明かりは少年の居場所を示そうとはしてくれないし、少年は私のことなど忘れて森の中を駆け回っているようで、私は恐ろしい森の中を一人で右往左往していた。明かりは怒ったようにチカチカと瞬いている。
どこかで雄叫びが聞こえた。近くだ、と思い、振り向く。明かりの中に銃を構えた少年の小柄な影が浮かび上がる。やっと見つけたと思った瞬間、その暴力的な音が少年の胸を貫いた。
銃を撃っていたのは少年じゃなかったのか。くずおれる少年に亡霊たちが群がり、次々とその胸に手を伸ばす。亡霊の手が傷口に差し込まれると、溢れる鮮血が見る間に凍りついていく。
意を決して少年のもとへと駆けつけ、思い切りコートを振るった。亡霊たちの姿が雨粒とともに弾ける。少年の顔は虚ろげで、その視線はこちらへ向いているのに、瞳は私を捉えてはいないようだった。どこか雨を凌げる場所はないかと視線を走らせると、おあつらえ向きの洞が目に留まった。
少年に肩を貸して起き上がらせる。その身体は酷く冷たかった。亡霊たちの動きは緩慢だけれど、精気を失った少年に手を貸している状況ではこちらも思うようには動けなかった。少年は小柄だったが、こちらへ預けられた体重は実際よりもずいぶん重たく感じられた。それでも、何とかあの洞の中までたどり着ければ助かるはずと、力を振り絞る。
「俺のことは、もういいよ……」
すぐそこまでの距離がなかなか縮まらずにもどかしい。
「いいから、もう降ろしてくれ……」
あの洞までなら、諦めて少年を置いて行ってしまえば、足の遅い私でもすぐに駆け込める。
「まだ、かたきをとってないから……」
「どうしてそんなにまでしなくちゃならないの」
私がこんなに必死になっているのに、まだそんなことを言っているのか。
「俺だって、早く終わりにしたいよ」
「どうしてできないの」
「終わりにしたいけど、したくないんだ……」
「相手がお兄さんだから?」
「それもあるけど……」
怖いんだ、と少年は言った。
「かたきを討てば弟は許してくれる、かたきを討つまでは自分にも存在する価値があると思えるけれど、そのあとはもう、アイツの怨みを受け入れるしかない。それが耐えられないんだよ。だから、きっとまた別の敵を探す。あるいは俺が誰かの敵になる。いつか世界のすべてが敵になる。もし世界をみんな壊してしまったとしても、それは俺の存在する意味を失うのと同じことだ。俺は、いらないものになるのが怖い」
どうすれば終わりにできる――? その言葉に少年の抱えた苦悩を垣間見る。
傷の深さを比べることに意味がないように、幸せの数や不幸の大きさを比べることにも意味はないのかもしれない。それでもやっぱり、私は彼と比べればずっと何でもない日常を過ごしてきたのだろう。だからといって自分が恵まれているとも思えなかった。
私はどうしてこんなことをしているのだろう。感謝されたいわけではなかった。きっと私も彼と同じなのだろう。自分のしていることには意味があるのだと信じたい。私たちはいつだって不安なのだ。私たちには理由が必要だった。生きるのにも、死ぬのにも。
足が重い。頭も重い。肩で支える少年の身体が重かった。雨は全身に染み渡り、手足はすっかり冷えて、強張り始めている。それでもようやく、目指した洞は目の前だった。
限界の近づいていた足がもつれた。少年をかばおうとして後ろ向きに倒れる。すぐそこに亡霊が迫ってきていた。少年の身体を押しのけて攻撃に転じるような余裕はなかった。
もう駄目だと思った瞬間、跳ね起きた少年が亡霊に体当たりした。
亡霊の体が弾ける。少年は顔面蒼白になってうずくまる。急いでコートを拾い上げ、群がる亡霊たちに思い切り叩きつけた。水を吸ったコートは重く、力いっぱい振り過ぎたせいで体勢が崩れた。そのままもう一度コートを振るうも、そんな体勢では力が入らず、亡霊の表面を撫でただけで、べしゃりと地面に落ちた。
逃げろ、と呻くように少年が言った。
迫ってくる亡霊にもう一度コートを振るうような余裕は、なかった。思わず目を閉じる。
――そのまま数秒が過ぎた。恐る恐る目を開けると、亡霊の姿はどこにもない。
いつの間にか、雨が止んでいた。
全身の力が抜け、大きく息を吐く。すぐには起き上がれなかった。しばし放心して、ようやく少年のことを気にする余裕が出てきた。
「だいじょうぶ?」
酷く顔色が悪い。
「動ける?」
返事がない。どうしたらいいのだろう。温めた方が良いのだろうか。でも、コートもびしょ濡れだし、火を起こす道具もない。ともかくこのままおろおろしているわけにもいかない。今は雨も止んでいるけれど、いつまた降り出すかも分からない。
ひとまずはあの洞まで少年を運ぼう。いざとなれば一人で町まで戻って必要なものを調達してくればいい。服か火か食べ物か……、何かあればいいのだけれど、どうだろう。あの亡霊だらけの町に住んでいる人なんているのだろうか。いや、今はそんな心配をしている場合ではない。
脇の下に腕を差し込み、後ろ向きに少年を引きずって行く。起き上がる気力もなさそうだ。意識を失った人を動かすのは大変だというけれど、本当だなと思った。虚ろな瞳が痛ましい。これがあの少年の姿か。見下ろす少年の胸には、うっすらと血の滲んだ傷口が露わになっていた。塞がりもせず、かといってあまり血も流れていない。なんだか亡霊の胸に空いた穴のようだと思うも、そんなはずはないと、すぐにそんな考えを否定した。
ずるずると洞の中へと少年の身体を引きずって行く。暗くて見えないけれど、どうやら奥行きがあるらしい。中腰での作業は大変だったけれど、何とか全身が収まったと、腰を降ろそうとしたところ、そのまま後ろに倒れ込む。
奥は坂になっていたらしい。どうしてそんなことを確認しなかっただろう。私は坂を転がり落ちていた。滑り台のように滑らかな滑り心地とはいかず、一回転して壁に背中を強く打ちつけた時には、一瞬だけ意識が飛んだ。全身打撲の痛みを堪えて起き上がる。肋骨の辺りが痛くて、息まで苦しい。まさか折れたのではと不安になったけれど、触ってみても異常はなさそうだし、きっと本当に折れていたらこんなものでは済まないだろう。それでもあんまり痛くて涙が出てきた。こんなに酷い怪我はこれまでにしたことがなかった。
暗澹たる気分になったものの、打ち身と擦り傷に切り傷の痛みさえ我慢すれば、動けない怪我ではない。幸いだったと言えるだろうか。何とか周囲を観察するだけの余裕を取り戻し、闇の向こうに小さな明かりがゆらゆらと揺れるのを見つけた。少年を置いて行くのは心配だったけれど、すぐには上へ戻る気力もなく、痛むあばらを押さえて明かりの方へと向かってみる。
そこは広い川原になっていた。雨で増水しているのか、川は狂暴な濁流と化していた。にもかかわらず、桟橋からは一艘の渡し舟が出るところだった。舳先に掲げられた明かりを見て、私が見たのはそれか、と思った。舟には人影が二つ。船頭と客、だろうか。それとも……、
「おじいさん?」
二つの人影、それはお祖父さんと天使なのでは。
「おじいさーん!」
ごろごろと石の転がった川原は走りにくい。桟橋に着いた時にはもう舟は完全に岸を離れていた。もう一度大声でお祖父さんを呼び、両手を大きく振った。けれど川の音がうるさいのか、二人ともこちらに気づく様子はない。天使なら気づいていても無視しているだけかもしれないけれど。
舟は荒れた流れを切り裂くようにしてすいすい進んでいく。まるで魔法がかかっているみたい。天使って魔法が使えるんだっけ? 空も飛べないのに?
魔法の使えない私は、どうやって川を渡ればいいのだろう。二人を乗せた舟はもう川の半ばに差し掛かっている。わざわざこの濁流を舟で渡っているくらいだから、橋はなさそうだ。何とか追い掛ける方法はないものかと闇の中に目を凝らしていると、上流から大きな箱が流れてくるのを見つけた。人が入れるくらいの大きな箱。あれは、棺、だろうか。
流れてきた棺がうまいこと桟橋に引っかかる。ちょっと悪趣味な思いつきだけれど、舟の代わりにできるかもしれないと思った。私にこの濁流を渡るだけの操船技術がないことは分かりきっていたけれど、それでも可能性の一つとして確保はしておくべきだろう。
ともかくまずはそれが舟として使えるかどうか確かめるためにも、蓋を開けてみることにした。中身が入っていなければいいのだけれど、と願いながら。
桟橋の上から身を乗り出して揺れる棺の蓋を外すという作業は、思いのほか大変だった。悪戦苦闘して、中身のことなんてすっかり忘れてしまったころに、ようやく蓋が持ち上がった、と、その蓋の端には私のとは別の手が掛けられていた。内側からにょっきりと現れた手が。
口から心臓が飛び出すかと思った。
ばしゃん、と大きなしぶきを上げ、蓋の端が川面を打つ。死人みたいな顔をした少女がのっそりと身を起こす。まるでゾンビみたいだと思いながら、私は恐る恐る彼女の胸を確認した。そこにはちゃんと私の胸にあるのと同じような傷が存在し、血を流していた。私は少しだけほっとする。
彼女はぼんやりとした表情で辺りを見回し、弟はどこ、と言った。
本当なら彼女をすぐにそこから出してあげるべきなのだろうけれど、今は棺を確保する方が重要だった。少女が乗ってきたのなら、それは舟として利用できるということだ。
桟橋にあった舫い綱を少女に渡す。慌てる私にはそれくらいしか棺を留めておく方法が思いつかなかったのだ。少女の腕は私から見ても細く、しかもまだぼんやりした様子で、甚だ不安ではあったけれど、とにかく今は急いで少年を連れてこよう。それで向こう岸まで渡れるかという問題は、とりあえず保留にして、大慌てで少年のところまで戻った。
少年は私がそこに運び込んだ時の状態のまま、ぼうっと天井を見上げていた。
「おじいさんたちを見つけたの。行こう、今度はちゃんと天使も一緒だよ」
天使なら助けてくれるかもしれないよ、と私は言った。
「天使は俺を迎えに来ない」
こちらを見もせずに少年は言った。
「俺は悪いことをたくさんしてきたから、天使は助けてなんかくれない」
諦め切った声。
「小さい頃は、きっといつか死ぬとき、天国へ行く列車が迎えに来るんだって、信じてたんだ。今でも心のどこかでは期待してたのかもしれない。神様が見てるなら、慈悲のひとつもかけてくれるんじゃないかって」
私は彼がどんな悪いことをしてきたのか詳しく知っているわけではなかった。悪いことをすればそれ相応の報いがあるのも当然かもしれない。それでも、彼が必死に生きようとする中で犯した少しばかりの悪事くらいは、許されてもいいのではないかと思った。それとも、それは許されるようなことではなかったのだろうか。
「なあ、お前のじいさん、天国へ行ったんだよな」
「うん、きっと行ったよ」
あの川の向こうが天国かなんて知らないけれど、そう答えた。
「途中までだけど、同じ列車に乗ることができたんだ、神様に感謝しなくちゃな」
そんな中途半端な慈悲に感謝することなんてないと、私は思った。彼がこんなことを言うのは、きっと亡霊が命の熱を奪っていったからだ。それはつまり、私のせいだ。
突然、頭の中で光が弾けた。
「天使が来ないなら、私が天使になる」
きっと気の迷いだったのだろう。私が天使だというなら信じる、と言った彼の言葉が脳内で鐘を撞いたみたいにうわんうわんと響いていた。それなら信じてもらおうじゃないかという気がしてきた。
私が天使なら、彼をこんなところに放っておかない。
そうだ、やってやる。
「君は天使になれない」
洞の入り口から、カンテラを提げた天使の陰鬱な顔が覗き込んでいた。さっき渡し船に乗っていたはずなのに、どうして? それとも、あれはやはりお祖父さん達ではなかったのだろうか。
「どうしてなれないの」
せっかくの決意を否定する冷酷な言葉を非難するように、私は尋ねた。
「私が悪い子だから?」
きっと天使には嘘を吐くことができないのだ。だから彼は、こんなに苦しそうにしながらも、頷くしかないのだ。
「もうおじいさんに会うこともできないのね」
たぶん私にはお祖父さんが行ったところへ行く資格はないのだ。
絶望的な気分になって、少年の存在を忘れかける。
「俺のところに天使は来なかった」
不意に少年が声を上げた。
「でも、代わりにコイツがここまで連れてきてくれた」
少年は天使の瞳を見つめる。
「俺は、コイツには天使になる資格があると思う」
思いがけない言葉に、私はまじまじと少年の顔を見つめてしまった。少しだけ、彼の熱が戻ってきたような気がする、というのは私の希望が混じり過ぎているだろうか。
天使は仕方がなさそうに頷くと、ただしそのためには三つの試練を受けなくてはならないのだと告げた。その厳かな物言いに、私はごくりと唾を飲んだ。覚悟を問う視線にひるみながらも、もう引く気はなかった。
私が頷くと、天使はまた溜息を吐いた。それから、その前に亡霊に襲われて憔悴した少年のことを何とかできないかと頼むと、どこから取り出したのかひとかけのパンを少年に差し出した。少年は黙ってそれを受け取り、むしゃむしゃと食べた。
お腹が空いて元気がないのだと判断したのだろうか。そんな単純なことではないような気がするけれど、彼が納得しているのならいいかと思った。さっきまでの少年にはものを食べる気力もなさそうだったし、これで少しでも元気を取り戻してくれるのならそれでいい。
天使が手招きするので洞から出ると、スーツのポケットからハンカチを取り出し、私の顔や手足を拭った。まるで魔法みたいにきれいに傷が消えてしまった。やっぱり天使にはそういう不思議な力があるのだ。でも、胸の傷まで消されてしまっては堪らないので、ありがとうとお礼を言って、途中で天使の手を止めさせた。
天使が空を見上げる。篩にかけたような細かな雨が降り始めていた。亡霊が現れる前に避難することができていてよかった、と思ったのも束の間、
「いけない!」
棺に残してきた少女のことを思い出し、慌てて川原へと向かう。今度は滑り落ちないように注意して坂を下った。逸る気持ちと転びたくない気持ちがせめぎ合い、もどかしい。
川原では幼い子どもが石積みをして遊んでいた。それも雨の中に映し出された亡霊の一種のようだった。会話する声もなく、荒れた川の音だけが聞こえる中、雨に滲んだ子供たちの影が無心に石を積む様子は、酷く寂しい情景だった。棺から出た少女は、ふらふらとそちらへ向かって歩いて行く。
「こんなところにいたの」
彼女が不用意に手を伸ばすのを制止するより先に、彼女の手は子供の肩に触れていた。その瞬間、それは染み込むようにするりと彼女の胸の中へと吸い込まれていった。少女は胸を押さえ、ばたりと倒れる。他の子供はそんなことには気づいてもいないかのように黙々と石を積み続けていた。
早く彼女を避難させなくては。脳裏にさっきまでの少年の様子がよみがえる。けれど、石だらけの川原では踏ん張りがきかず、徐々に姿を現し始めた亡霊に見つからずに洞まで彼女を運ぶのは難しそうだった。そういえば唯一の武器であるコートを、少年のところに置いてきてしまった。これでは亡霊を追い払うこともできない。おまけに天使の治療を途中でやめさせたせいか、まだあばらが痛んだ。
今からでは助けを呼びに戻る時間もない。その顔は少年と同じようにすっかり血の気が失せ、胸の傷も血を流すのを止めている。天使を呼んで来られればと来た道を振り返ると、少年が駆けつけてくるところだった。さっきまで全く動けそうになかったのに。驚く私に、もういいんだ、と少年は言った。
あんなパンひとかけで、本当に回復したのだろうか。あの死神みたいな天使のことを、ようやく天使だと認めてもいいような気がした。
二人で協力してなんとか少女を洞まで運び入れると、そこでは天使が火を焚いていた。私が置き去りにしてきたコートを無言で差し出す。びしょびしょに濡れていたはずなのに、もう乾いている。直接火の中に放り込んでもこんなにすぐには乾かないと思う。やっぱり天使は魔法が使えるのだ。
せっかく乾かしてもらったコートだけれど、上半身裸のままの少年に貸してあげることにした。最初は断られたものの、半ば強引に押しつけた。素肌にコートなんて変な恰好だったけれど、裸のままでいるよりはましだろうと、私は満足した。
変なヤツ、と言って少年が唇の端を歪める。
ふと視線を向けると、少女がうっすらと目を開けたところだった。酷く虚ろな目だ。その目には何が見えているのか。本当にちゃんと見えているのだろうか。不安になり、天使を見る。少年をほんのひとかけのパンで回復させたり、私の傷を一瞬で治してしまったように、彼女のことも治してあげられないかと天使に頼むと、何を治すのかと聞き返された。
確かに彼女は怪我をしているわけでも病気をしているわけでもないし、胸の傷でさえ今は血を流すのを止めている。けれど、それが余計に心配なのだった。地球の中をマグマが流れているように、火山がそれを噴き出すように、この胸は血を流す。それは生命の活動だ。それは私たちの叫びだ。
納得がいかず、少年のことは助けてくれたのに、となじると、何のことだか分からないと、天使は空とぼけていた。本当に何を言われているのか分からないようにも見えたので、パンをあげたじゃない、と言うと、助けたわけじゃないなんて、やっぱり嘯くのだった。
ようやく意識らしい光を瞳に取り戻した少女が、視線をさ迷わせる。
「どこ……」
ここがどこかという意味ではなく、弟はどこに行ったのか、という意味なのは、すぐに分かった。
雨の中に浮かび上がったあれが本当に彼女の弟だったなら、それはもう彼女の中に吸い込まれてしまったはずなのに。彼女はそれを覚えていないのだろうか。
「君が探しているのは」
天使が少女の胸に開いた傷に腕を突っ込み、ずるりと何かを引きずり出す。
「これかい」
男の子のかたちをした何かがごろりと転がり出た。虚ろだった少女の瞳が、しかとそれを捉える。今度こそはっきりと瞳に意識を取り戻していた。
奪い取るような勢いでそれを抱き締める少女。少年が顰め面でそれを見ている。それからコートの下に手を差し入れ、俺の中にもあんなのがいるのか、と呟いた。
それは何かと尋ねた天使に、少女は即座に答える。
「私の弟に決まってる」
けれど天使は、本当にそうなのかと問う。
「私が間違えるはずがないの。私は誰よりも正確にこの子のことを覚えているんだから。父さんたちはこの子のことを過去や思い出にしてしまおうとするけれど、私はちゃんと覚えてる!」
「ちゃんと? 正確に? 間違いなく?」
しつこく聞き返され、自分が間違えるはずがない、私の弟だ、と繰り返しながら、少女は腕の中の弟を見た。その瞬間、その子の目がきらりと光ったように見えた。彼女はきっと天使の術中にはまったのだ。
「……どうして」
少女はその鏡のような瞳を見つめたまま固まっている。
「これはあの子じゃない。本物の弟はどこ?」
抱えていた塊を放り出すと、自ら胸の中に腕を突っ込み、新しい塊を引きずり出す。
「そう、これが、これがあの子よ」
「それがちゃんと正確に間違いなく君が記憶している弟の姿なのだね」
「そうよ、これが……」
そうしてまたその瞳を覗き込むと、違うと叫んで放り出し、胸から新しい肉塊を引きずり出す。違う、違う、と次々放り出しては引きずり出す。少女の周りに肉塊が積み上がっていく。
「彼女に何をしたの」
「私は何もしていない」
納得がいかずに睨みつけると、天使は溜息をつき、彼女は彼女が弟と呼んでいる者の瞳の中に自分の姿を見ているのだと説明した。それは自分が故意に見せているわけではないと、天使は弁解した。けれど、その目を見るように仕向けたのは天使だと私は確信している。そのためにあんな風に彼女を追いこんだのだ。
「それでどうしてあんなことになるの」
きっと彼女には望んだままの姿に弟が見えているはずなのに。だからこそ齟齬に気づいてしまうのだと天使は言った。
少女は縋るような目で天使を見た。
「どうしてこの子はあのころのままなの」
やっぱり、それはちゃんと彼女の記憶のままの弟の姿に映っていたのだ。けれど、あの頃のままの弟の瞳には、きっとその頃とは全く違うやつれた自分の姿が映り、記憶を混濁させるのだ。成長した自分の姿と、自分の記憶とまるで変わらない弟の姿。同じだけの時間が流れているはずなのに。
「君が望んだのだろうに」
無慈悲な天使の言葉。
「私のせいだっていうの。違う。この子は私が迎えに来るのを待っていたんだ。私がわかるように、あのころの姿のまま……。だから私はここにいる!」
私には彼女の気持ちも分かるような気がした。きっと天使には分からないのだろう。たとえ人の考えていることが分かったとしても、気持ちまでは理解することができないのだ。
私がパパの時間を思い出の中に閉じ込めたように、彼女は弟の時間を生前の時のまま留めておきたかったのだ。私と違うのは、彼女は弟のことを思い出にすることも許さず、死そのものを否定しようとしていることだ。でも、それも些細な違いなのかもしれなかった。結局は私も、今のパパはもう昔のパパとは違うのだという可能性を否定したいのだ。それは死を否定するのと大して違わないことのように思えた。
それは悪いことなのだろうか。いけないことなのだろうか。
突然、悲鳴が上がった。
「た、助けて!」
驚いて少年を見ると、彼は自分の胸に手を突っ込み、赤黒くぬめぬめとしたものを引きずり出していた。
「止まらないんだ!」
ずるずると引き出された赤黒い内臓のようなものの中から、小さな人型の何かが、虫が湧くように這いずり出してくる。それは少年の体を這い上がり、耳元で何かを囁いているようだった。
「やめてくれ!」
ぶんぶんと首を振りながら悲鳴を上げ、それでも内臓を引きずり出す手を止めようとしない。自分でも止められないらしかった。あまりの気持ち悪さに口元を押さえながら、天使に聞いた。
「あれは何なの」
「憎悪だ」
そう言われると、あの虫みたいなものが「憎い」とか「許さない」とか囁く声が私にも聞こえるような気がした。
「どうしてあんなものが……」
思わず漏らした声に、天使がじっと私の顔を見つめてくる。
「なに?」
「君の望みだっただろう」
「私の望み?」
少年のあれも、少女のそれも、私が望んだからこうして目の前に現れているのか。それを私は安心できることだと思っていたけれど、あんなものにまとわりつかれていたら安心どころではない。自分の罪を常に目の前に突き付けられているなんて、そんなのは耐えられない。私はそんなことを望んだわけじゃない。
少年の手は止まらない。虫のような人型は、わらわらと湧き続けている。堪え切れなくなった少年が、耳元のそれをつかんで地面に叩きつけ、ぐしゃりと踏み潰した。膿みたいな黄色い液体が飛び散る。その間も片方の手は内臓を引きずり出している。
「どうして止められないの」
「憎しみは連鎖するんだよ」
私の問いに天使はそう答えた。少年は自らそれを引きずり出しているのに、自分ではもう止めることができないのだ。
「どうすれば止められる?」
少年は縋るような眼差しで天使を見た。天使は少年が腰に差していたナイフを抜き、その刃を焚火の火で炙ると、少年の胸からずるずると伸びるそれを、ぶつりと断ち切った。じゅう、と肉の焼ける音がした。私は思わず顔を顰めてしまったけれど、少年は熱も痛みも感じていないようだった。
人型たちはまだ少年にまとわりついていたけれど、少年がそれを捕まえようとすると体中を逃げ回り、とうとうまた胸の中に逃げ込んでしまった。少年がまたそこに手を突っ込もうとするのを、天使が止めた。反射的に天使を睨む。天使は少年の腕をつかんだまま、ゆっくりと頷いた。それでようやく少年の表情が緩んだ。
コートの下の傷口からは、また血が流れ出していた。けれど、それをよかったとは、もう思えなかった。
「俺の中には、まだアイツらがいるんだな」
天使が頷く。
「あれが消えてしまうことはないんだな」
天使は苦しそうに頷く。
「どうすれば、この傷をふさげる?」
胸がちくりとした。その傷をつくったのは私ではないけれど、その傷が見えるように望んだのは、私だ。
天使は森の中で待っていると言って、少年にカンテラを渡した。弟のかたちをしたものを抱いたままうなだれていた少女に、私たちも行こう、と手を差し伸べる。少女は私の手を取ろうとはしなかった。それでもどうやら一緒に来るつもりはあるようで、難儀そうにのそりと立ち上がった。
「天使がその傷も治してくれるかもしれないよ」
心にもない私の言葉に、彼女はわずかに眉根を寄せる。私と同じで、彼女も傷が癒えることを望んではいないのだろうか。振り向いた時にはもう天使の姿はなかった。
斜面を登るのにそれを抱えているのは大変だろうに、少女は幼い男の子の姿をしたそれを決して手放そうとはしなかった。あれは少年の中にあったのと同じものなんだろうか。それも私が願ったせいなんだろうか。少女はもう、抱えたものの顔を見ようとはしなかった。彼女の耳元に寄せられたその子の口が動いているように見え、気になった。その視線に気づいたのか、少女がこちらを見つめ返す。私は思わず視線を逸らした。
私はどうしても気になっていた。少年の中から出てきたものが、憎い、許さない、と繰り返していたように、彼女の抱いたものも、同じように何か囁いているのではないかと。
頭上で揺れていたカンテラの明かりが止まる。少年はもう坂を登り切ったらしい。
彼女は弟が自分を恨んでいるのだと信じている。自分が殺したのだからと。けれど、彼女が本当に恨まれているとは私には思えなかった。だって、彼女は弟を救おうとしたのだ。結果的にそれが死に結び付いたのだとしても、そこに彼女のどんな判断があったのだとしても、彼女が生きてほしいと願ってやったのは間違いない。それでも彼女の判断は確かに誤っていたのだろうし、そのせいで死んでしまったのなら恨むのも当然、なのだろうか。
憎んで殺したわけじゃない、いなくていいなんて思ったわけじゃない、それなら仕方がない――、と私なら言えるだろうか。分からない。でも、もし彼女の弟が本当に彼女を恨んでいなかったとして、彼女はそれを受け入れられるだろうか。
もし天使にその傷を治すことができるのなら、そうしてもらうべきなのだろうか。彼女はそれを望まないかもしれないけれど……。こういうのを偽善と言うのだろうか。胸がもやもやする。
坂を登りきったところで少年がカンテラを下に置いて待っていた。いつの間に用意したのか、天使は黒い大きな傘を差し、森の中に立っていた。雨粒が傘の上で踊るパラパラという音が、彼の背中に滲んだ愁いをいっそう濃くしていた。いったい何を見て、何を考えているのだろう。
それよりも今は彼女のことが気になった。坂道で悪戦苦闘する少女を見下ろし、私は少年に聞いてみた。
「彼女は本当に恨まれているのかな」
「アイツにとって死は許しなんだろ。弟が許さないからまだ死ねないんだって。それって、生きたいって気持ちがどっかにあるからなんじゃないの」
そうか、彼女は、自分が生きたいなんて思ってはいけないと考えているのか。だから彼女の弟は、いつまでも彼女のことを恨み続けていなければならないのか。そうでなければ彼女が生きることができないから。結局、彼女のことを許せるのは彼女だけなのだ。
――ああ、それはいつかお祖父さんに言われた言葉だ。
その日、いつも良い子でいようと努力していた私を、お母さんは叱ったのだ。とても些細なことだったと思う。でも、そのことが余計にショックだった。どうしてそんなことで怒られなければならないのだろう、どうしてそんなことも分かってくれないのだろうと、すっかり塞ぎ込む私に、ちょっと言い過ぎちゃったと、お母さんの方が謝った。
その後の夕飯は、あまり喉を通らなかった。せっかく作ってくれたのに食べなかったら申し訳ないし、また怒られてしまうかもしれない。私はまだ良い子でいたかったから、少し時間はかかったけれど全部食べた。お母さんはなんだか呆れたような顔をしていた。
やがてそんなことでいつまでも落ち込んでいる自分に腹が立ってきて、やっぱり自分が悪かったのだと思い、ごめんなさいと改めて謝ると、お母さんは今度こそ本当に呆れた顔をして、もういいから、と言った。酷く惨めな気分だった。
お母さんは多分もう本当に許してくれているのに、私の方がうまくそれを受け入れられなかった。そんな時にお祖父さんが言ったのだ。結局、自分を許すことができるのは自分しかいないんだな、と。その時はまだ気分がもやもやしていて、あんまり簡単に自分を許してしまえるのも問題だと思うけどな、なんて思っていた。
それは罪と呼ぶにはあまりにささやかで、罰と呼べるほどのものもないまま、やがて風化していった。今ならあんなことでそんなに悩まなくてもよかったのに、と思える。
けれど、その時は真剣に悩んでいたのだ。犯してもいない罪を罰することはできない。犯してもいない罪を償うことはできない。ようやくお祖父さんの言葉の意味が飲み込めた。結局、自分を許すことができるのは自分だけなのだ。どんな判決も、受け入れる側にそのつもりがなければ意味がない。
「本当に哀れなのは、アイツの弟の方だな」
少年がぽつりと言った。ようやく少女が坂を登り終える。
雨はいつの間にか本降りになっていた。あんまり激しいせいか、亡霊たちの姿も歪んで見える。天使がおそろいの黒い大きな傘を貸してくれたけれど、やっぱり亡霊のうろつく雨の中に出ていくのは少し不安だった。少年は天使と一緒の傘に入っていたので、私は自分の傘に少女を招き入れた。
それは亡霊たちから身を守る盾だった。きっと触れられなければこちらの存在に気づかれることもないだろう。しっかりと身を寄せ合い、雨に濡れないよう注意した。傘は二人で入っても十分なくらいに大きかったけれど、そのせいで支えるのが少し大変だった。
天使は沼の中心に向かっていた。あのたくさんの明かりをつけた大きな木が生えているところだ。他の明かりの下には亡霊たちがたむろしているのに、そこにはあまり見当たらない。沼の水は溢れ返っているのに、不思議と天使の歩いた後について行くと靴が濡れることもなかった。
いくつもの木をねじり合わせたかのようなそれは、近くに寄るととんでもない巨木であることが分かった。その中心は空洞になっていて、余裕で私たち四人が入ることができた。
そこには清浄な泉がこんこんと湧いていた。これがこの沼の水源なのだろうか。あまりに透き通った泉はまるで暗い穴のように見えるのに、なぜかその水は光り輝いているように感じられる。天使はその泉のことを忘却の泉と呼んだ。
金色の杯を取り出した天使は、それで泉の水をすくって飲むよう少年に言った。
忘却の泉というくらいだから、忘却の泉というくらいだから、それを飲めば何か忘れてしまうのだろう。例えば、怒りとか憎しみとかいった、今の少年を苦しめている記憶や感情なんかを。きっとそれは少年にとって必要なことなのだと理解もできる。それは忘却という名前の薬なのだ。でも、それは私が憧れた少年のあの熱を奪うことにもなるのだと思うと、惜しい、という気がしてしまった。それは私が持っていないものだったから。
私の代わりに彼が生きてくれればいいのに。そうだ、そうすれば傷なんかに頼らなくても必要な理由を手に入れることができるし、少年だって本当はもっと生きたいはずなのだから、どちらにとっても良い提案のはずだ。天使ならそんな魔法くらい使えるはずだ。そう思うのに、その言葉を口にするのは、思った以上に勇気がいることだった。
少年は杯に泉の水をすくったところだった。言うなら今しかない。
「私の命をあげる。だから、それは飲まなくてもいいよ」
重たい沈黙が流れる。少年が衝撃を受けたような、どこか傷ついたような顔で私を見つめ返していた。どうしてそんな顔をするのだろう。少年だって自分で言っていたじゃないか。生きる気がないのならその命を俺によこせと思う、って。
険しい顔をした天使が何か言おうとしたところへ、少女が勢い込んで割って入る。
「そんなことができるなら、私の命をこの子にあげて!」
ずっと抱えていた弟のかたちをしたものを天使の目の前に差し出す。
天使はますます険しい表情になり、きっぱりとそんなことはできないと言った。
「私ひとりの命では足りないのなら――」
少女の瞳がこちらを向いた。そうだ、弟を救うためなら、彼女は手段を選ばない。どんなものでも差し出すだろう。たとえ他人の命でも――。
心臓が縮み上がる。彼女の目は本気だ。
「やめろ!」
少年が怒号を上げた。
「お前ら、命の重さなんて考えたことがないんだろう」
その目は怒りに燃えている。
「これ、お前の方が必要なんじゃないか」
目の前に杯を突きつけられた少女は、それを払いのけた。天使は地面に転がった杯を拾い上げ、慈悲深い眼差しで少女を見た。
「そろそろ彼の時間を返してあげなさい」
「私がこの子のことを忘れたら、誰がこの子のことを正しく覚えていられるの。他人の記憶なんて当てにならない。どうせすぐに歪ませてしまうんだ」
「忘れるのではなく、思い出にしてあげればいい」
死んだ人間は思い出の中でしか生きられないのだからというようなことを、天使は言った。少女はその言葉にカチンときたらしく、吐き捨てるように言った。
「思い出なんて!」
そんなものの中でしか生きられないなんて、それはもう思い出という名の檻じゃないかと、彼女はヒステリックに叫んだ。
「それじゃ動物園の動物とおんなじだよ。私はこの子のことをそんな表面だけの存在にしたくない!」
「表面だけだって? それはまさにこいつのことじゃないのか」
少年が少女の腕の中から強引にそれを奪い取る。幼いまま時間を止められた、彼女の弟のかたちをしたもの。
「やめて! 返して!」
「死んだ人間は生き返らない!」
確かめてやる、と言って少年はその首に手を掛けた。少女が絶叫する。
「こうすれば確かめられるんだろ」
取り乱した少女がそれを奪い返そうとする。突然の事態に、私は何もできず固まってしまった。まさか、彼は本気なのだろうか。
勢い余って倒れた少女が起き上がった瞬間、彼女はその首ががくりと折れるのを見た。
「殺したな!」
「元から生きてなかった!」
睨み合う二人。こんな状況なのに天使は平然としている。私はただおろおろするしかなかった。
「でもよかったじゃないか。これでもう、自分が弟を殺したんだなんて悩まなくて済む。俺が殺したんだって思えばいいんだからな!」
どうせ俺は人殺しさと、少年は言った。
「アンタが人殺しなら、私のことも殺してみてよ」
少女の顔は今、はっきりと憎しみを露わにしていた。あの表情の分かりにくかった少女の顔が。憎しみとは、こんなにも分かりやすい感情なのか。
「そうだよな、お前はずっと死にたがってたんだもんな」
いがみ合う二人は、互いに同じ痛みを知っているはずなのに。よく似た傷を抱えた者同士、分り合うことができるはずなのに。互いの傷を認め合えば、いがみ合う必要なんてないはずなのに。それとも、傷が似過ぎていると向き合えないものなのだろうか。
「こんなもの!」
少年はそれを泉の中に投げ捨てた。
あっ、と思う間もなく、少女はそれを追って泉に飛び込んでいた。
「バカなやつ」
腹いっぱいに泉の水を飲んだらいいんだ、と少年は吐き捨てた。
「そのためにこんなことをしたの」
彼は彼女がそうすることを見越していたのか。意図せず語調がきつくなってしまった。私は怒っている、のだろうか。
「こうした方がアイツのためだと思わないか」
彼女のため……。確かに私も、彼女の傷を治すことができるのなら、と考えはした。でも、本当に今の彼女にとって忘れることが薬となるのだろうか。間違った薬は傷を治してはくれない。それどころか毒になることだってあるのだ。愛する者のことを忘れてしまうことが本当に幸せなんだろうか。それが本当に治るということなのだろうか。痛みだって自己の一部だ。それが本当に彼女のためになるのでなければ、私は彼のしたことを認めることなどできない。
少女がなかなか泉から上がってこず、少年もそわそわし始めた。天使は相変わらず落ち着き払っている。どうしてそんな態度でいられるのだろう。けれど、そもそも天使には私たちの面倒を見なければならない理由などないのだ。彼を頼っていてはいけない。
自分の命なんてどうでもいいと、彼女は本当に思っているのだろうか。そうかもしれない。確かに彼女はずっと死にたがっていたのだ。私だって似たようなものだ。こういうのを同情というのだろうか。彼女の嫌いそうなことだと思う。
彼女を追い掛ける理由なんてないはずなのに、私はもう決めていた。
少年の言う通り、私は命の重さなんて考えたことがなかったのだろう。でも、彼女は違うはずだ。
泉に飛び込もうとする私を、少年が止めた。
「あんな命を粗末にするようなヤツ、放っておけよ」
「違うよ」
彼女は命を軽んじているわけじゃない。命の重さを知っているから、その重さに耐えられなくなってしまったんだ。彼女は私よりもずっと、生きようとしている。少年だって言っていたじゃないか、彼女にも本当は生きたいって気持ちがどこかにあるんじゃないかって。きっとそうなんだろう。
彼女の「死にたい」は「生きたい」だ。
そのことに気づいてしまったなら、彼女を追い掛けないでいられるだろうか。私が彼をこの旅の道連れにしたように、彼女だって私がいなければこんなところまで来なかったかもしれない。
――これは、私がやらなければならないことだ。
私は覚悟を決め、泉に身を投じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます