第2話

 全くの闇が、そこにはあった。目を閉じてみても変わらないくらいの、圧倒的な闇。それはどこにでも存在していて、けれどほとんど意識することはない。なのに、今はその闇の、なんという存在感だろう。

 私たちは恐る恐るその暗闇の中へと歩を進めていく。いや、恐れているのは私だけだろうか。他の二人の様子は全く見えない。線路を探りながら歩く音に耳を澄まし、二人の気配に意識を集中する。

 幸い雨が降り出してすぐに逃げ込むことができたから、あまり濡れずには済んだけれど、わずかに濡れた服から冷たい雨が体の中にまでゆっくりと染み込んできているような気がした。それは、このトンネルの中を満たす湿った冷気のせいかもしれない。

 なんだか落ち着かなかった。他の二人の姿どころか、自分の手足さえも見えないのだ。夜、寝る時に明かりを全部消してしまうのが怖いと思っていたのは、いくつの頃までだったろう。その頃はまだパパもいて、親子三人、布団を並べて寝ていたのだ。あの頃、私が眠るまで二人が眠るのを許さなかった。

 足元に落ち葉がなくなり、足で線路を探る作業はやり易くなったものの、歩みは相変わらず遅い。さっきまでよりも遅くなっているかもしれなかった。今、二人とはどれくらいの距離にいるのだろう。少年は私を追い抜いてはいないだろうし、私が少女を追い抜いてもいないと思う。同じ線路の上を歩いているのだから。たぶん、二人ともそんなに離れてはいないのだろう。

 そんなこと、声を出して確かめてみればいいだけなのに、なぜだろう、どうしてだかそうすることができずにいた。この暗闇の静寂を破ってはいけない、そんな気がした。今までの私たちがおしゃべり過ぎたのだ。そうだ、本来この旅に賑やかなのは似合わない。他の二人もそう感じているから黙っているのだろうか。それとも、実はもう、私は二人からはぐれてしまっているのだろうか。

 もう慣れてしまった作業のように、足の裏が線路を探り、のろのろと進んでいく。酷く静かだ。

「なあ……」

 背後から呼びかける声に、私はどきりとした。まさか少年がこの静寂を破るとは思っていなかった。いや、むしろ彼だからできたのか。この旅が望んだものでないのは、彼だけなのだ。

「なあ、さっきの話、本当なのか」

 その声は少し震えていた。もしかして、彼も怖かったのだろうか。私と同じで?

「あの、お前が……」

 少年は言い難そうに続けた。

「お前が弟を殺したって」

 のんきな思考が一瞬で吹っ飛んだ。その話はこんな風に蒸し返したりしてもいいものなのだろうか。そんなのは嘘に決まっている、そう思いながらも、どこかで本当だったらどうしようと考えている。そんなこと、はっきりと確かめない方が良いに決まっているのに。

「信じたの?」

 前方から少女の声。ほら、やっぱり。本当のはずがない。

「意外と素直なんだ」

「悪かった。もう、いい……」

 どんな気持ちで彼はあんなことを聞いたのだろう。もし、彼女の話が本当だったとしたら、彼は何を聞きたかったのだろう。

 再び静寂がじわじわと這い寄ってくる。けれど私は、二人の存在を確かめられたおかげで、もうしばらく先へ進んでいけるような気分になっていた。なんて単純な私。

 しかし、搔き回された静寂は、そう簡単には戻ってこなかった。

「……罪って」

 どこか思い詰めたような少年の声。表情が見えないからそう聞こえるだけだろうか。

「人を死なせた罪って、許されるんだろうか」

「それは、誰に聞いてるの」

 そんなもの、私に聞いているはずはないのだから、あなたに聞いているのだろうに。

「悪い。何か……、どうかしちゃったみたいだ」

 消え入りそうな声。私の足は線路を探り続けている。次の一歩を置く場所を確かめて、けれどその一歩を踏み出すのをためらっている。私は自分の位置を探っていた。先にいるはずの少女を追い抜きたくはなかったし、後ろから来る少年を置き去りにしたくもなかった。

「罪を許すのって、誰なんだろうね」

 しばらくの沈黙の後、少女は言った。

「私は神様でも裁判官でもないからね、君がどんな罪を犯していようと、それを裁く権利はないよ」

 私は必死に二人の気配を探っている。

「誰かが許すと言えば、それで罪は許されるの? それで君は満足なの?」

 少年の反応はない。

「きっと私の一部は、弟が死んだときに、一緒に死んだんだ。どうせならちゃんと最後まで道連れにしてくれればよかったのに、それなのに私がまだ生きているのは、きっと、それが罰だからなんだ。私が一番苦しむにはどうすればいいか、アイツはわかってるんだよ。私が生きていることに意味なんてものがあるのなら、私の死は、それを証明するものでなくちゃならない。その時にはきっと、弟も許してくれたってことだろうから」

 彼女にとって、死は「許し」なのか。ホームに腰かけていた少女の姿が思い浮かんだ。私はまだ生きている? そう問い掛けてきた少女の姿が。

 彼女は、生きていることを確かめたかったんじゃない、自分が許されたのかを知りたかったんだ。彼女はその時を待っていたのだ、「死」という名の「許し」が迎えてくれるのを。

 だとしたら、彼女にとって生きていることの証明とは、自らの罪を確認すること、なのだろうか。この旅は、彼女にとって、許しを乞う旅、なのだろうか。

 そんなのは悲し過ぎる。どうしてそんなことをするのだろう。

「私にとっては、生きることは罰だった。君にとっては、どうだったのかな」

 ふん、と少年が鼻を鳴らすのが聞こえた。

「俺にとっては、死が罰か」

 なんて分かりやすい罰だと、少年が自嘲する。

「でも、それなら俺は……」

 その声は小さ過ぎてよく聞き取れなかったけれど、受け入れられる、そう言ったように聞こえた。

 運命に抗った少年が、それを受け入れた――。それは、望ましいこと、だろうか。私は無責任に、この旅が無意味なものとは限らない、なんて言って彼を道連れにしたことを思い出す。今、彼の旅は意味を持った、のか?

 そうなら喜んで受け入れるべきことのはずなのに、なぜだかそれは、苦い薬を飲むよりもずっと飲み込み辛かった。

 すっかり気分が沈んでしまい、私は存在ごと周囲の闇に溶けて消えてしまいそうだった。

 私の頭の中には何の言葉もなく、二人の会話は私の頭上を飛び越えて交わされていた。私がここにいることなんて何の意味もないような、いや、実際に存在していないようなものじゃないか。そうだ、この暗闇の中、私の姿は二人に見えない。会話に加わる言葉もない。今の私は、二人にとって存在していないのと同じだ。

 空恐ろしくなって、自分の両腕を抱いた。

「なあ」

 その声が今度は自分に向けられているらしいことに気づいて、はっとした。それからすぐにほっとした。私はまだ、ここにいる。

「あの黒ずくめが本当に天使なのか、俺にはわからないけど、アンタが俺を迎えに来た天使だっていうなら、信じるよ」

 思いがけない少年の言葉に、私は唖然としてしまった。どんな思考の迷路に迷い込んだらそんな言葉が出てくるのだろう。私が天使? 私が本当に天使なら、もし、天使だったら――、あなたをこんなところに連れて来たりしない。

 しばらくして我に返り、少年の言葉に何も返していなかったことに気づく。今さら何か言おうにも格好がつかないし、やはり私の中には言うべき言葉が見つからなかった。せっかく声を掛けてくれたのに。消えかけていた私の存在を示すことができたかもしれないのに。このまま私の存在は、闇と同化して消えてしまうのだろうか。

 何か言わなければ、と思うものの、声が出ない。一度壊れた静寂は、一層深くなって還ってくるようだった。もう、物音ひとつ立てることができないような気がした。

 私の喉はすっかり機能せず、もう目も耳も何の役にも立たなかった。瞳は暗闇しか映さないし、鼓膜は静寂しか捉えない。

 本当に、静かだ……。そういえば、自分だけでなく二人の足音も消えている。

 ……私はいつの間に足を止めたのだったか。……本当に、いつ、足を止めたっけ。

 ……あれ、足……。私の足は、どこへ行った?

 とうとう私の体はみんなすっかり闇に溶けてしまったのだろうか。意識だけが暗闇の中を漂っているなんて、これではまるで、幽霊みたいじゃないか――。

 それは思いのほか恐ろしいことのように思えた。

 私はどうやってこの暗闇を抜け出したらいいのだろう。ただ一つの頼りである線路も見失い、闇はどこまで行っても闇だった。私と闇との境は、もう完全に溶けて消えてしまったらしい。

 このまま私は永遠にこの闇の中を漂っているしかないのだろうか。

 まさか、本当に私は存在しないものになってしまうのか。

 そんなのは嫌だ。

 誰か。

 誰か、助けて――。

  



     *****




 少年は路地にうずくまっていた。全力疾走で切れた息を整えている。その腕には盗んだ食料が抱えられていた。少年は小さな体を物陰に潜ませる。水が欲しい。残念ながら抱えた食料の中に飲料水はなかった。あってもこんなところで飲んでしまうわけにはいかない。弟が帰りを待っているのだ。それは、彼のたった一人の家族だった。

 追ってくる者がいないか、そっと物陰から顔を出して通りを見る。ひとまずは逃げられたようだが、もうしばらくここで身を隠していた方がいいだろう。

 まだ少し鼓動が速いが、息も落ち着いてきた。今日は弟の誕生日だ。空腹のまま今日を終わらせるわけにはいかない。早く帰らねば。

 弟の喜ぶ顔を想像すると、自然と少年の頬も緩む。

 親を亡くした少年は、まだ幼い弟を養うのに必死だった。彼には兄がいたが、まだ両親が存命のうちに家を出て行った。

 兄のことを恨む気持ちがないわけではなかった。しかしそれ以上に、この世界から抜け出した兄のことを誇らしく思う気持ちの方が強かった。

 満足した食事もとれず、明日の心配もなく眠れる日もない少年にとって、兄は英雄だった。いつか兄のように、この生活を抜け出してみせる。弟を学校に通わせてやりたいし、いつかは小さな家を買って、兄を招待してやりたい。その時には、怨み言も笑って話せるだろう。そんな夢想に、自嘲の笑みをこぼす。

 そんなのは夢物語だと、分かってしまっている。未来なんてものを思い描くことの虚しさ。今日を生きることにだってこんなに必死なのに。

 だからといって悲嘆に暮れている余裕はない。少年には面倒を見てやらなければならない家族がいるのだ。兄が家を出て行った時、弟はまだ生まれて間もなかった。今の兄が弟に会っても、きっと自分の弟だとは気づきもしないだろう。

 自分も成長したらいつかは家庭を築くのだろうか。兄にはもう新しい家族がいるのだろうか。いてもおかしくない年齢にはなっているはずだ。そんな想像に、少年はなんだかむず痒い思いがした。

 そろそろいいだろう、そう思って路地を出る。

 このところまともな食事をとっていなかったから、きっと弟も腹を空かせているだろう。その時ちょうど少年の腹の虫も鳴いた。誰にも聞こえない声で悪態を吐く。いつからだろう、意識せず汚い言葉ばかりが口からこぼれるようになったのは。

 弟のもとへ向かう足を少し速めた。

 そこには少年と似たような境遇の子供たちが集まっていた。何やらその子らの騒ぐ声がする。どうかしたのかと駆け足になる少年だったが、突然の銃声にその足を止めた。

 心臓が早鐘を打つ。

 何が起こっている? 子供たちの悲鳴と、続けて響く銃声。銃声。銃声。無数の銃声が響く。

 恐る恐る現場に近づいた少年は、血を流して倒れる子供たちの姿を目にした。もう立っている者はほとんどいない。逃げようとする子供の一人と目が合った。

 弟だった。

 ――助けて。

 その口がそう動いたように思った。

 制服を着た男が銃を構え、引き金を引く。その銃弾はあまりに容易く弟の頭を貫いた。

 足が震えた。

 逃げなくては。

 弟を置いて?

 弟はもう死んだ。

 死んだ。

 死んだ――?

 制服の男たちは、少年の存在に気づいたようだった。銃口がこちらを向く。少年は慌ててその場から逃げ出した。心臓が今にも胸を突き破りそうだ。息が苦しくて苦しくて、もうだめだと思っても、むりやり肺をこじ開けるようにして息を吸い、ひりつく喉からひねり出すようにして息を吐き、駆けて駆けて、なんとか街の中へと逃げ込んだ。

 恐ろしかった。体力を使い果たして、もう体を震わせることもできなかったが、あの瞬間の恐怖はしっかりと体に焼きついていた。

 誰に救いを求めても無駄なのは分かっていた。

 とにかく今夜の寝床を見つけなくては、そう思って歩き出した少年の肩をつかむ者があった。堪えていた声が一気に破裂したみたいな悲鳴が出た。

 制服の男が追って来たのかと思ったが、違った。その男は少年が今日の食料を失敬した店の主人だった。ああ、そういえば、その食料はどうしただろう。

 男の指が肩に食い込む。少年は懸命に謝り、盗んだ分の金は必ず働いて返すから何とか雇ってくれないかと、男に頼み込んだ。あまりに図々しかったが、店主もたじろぐほどの必死さに、とうとう折れた。

 それから少年は必死になって働いた。

 しばらくして、街の中であの制服を着た男達の姿を見かけるようになった。少年はその姿を見つける度に隠れる場所を探してしまう。

 それから更にしばらくたって、街の様子はずいぶん変わってしまった。再び居場所を失った少年は、途方に暮れていた。人を雇うような余裕をなくした店主は、餞別にほんの気持ちばかりの金銭を渡してくれたが、それでいつまで食いつなげるものか。

 少年はここしばらく控えていた悪態をめいっぱい吐きながら人通りの少ない路地を歩いていた。せっかくまじめに働いていたのに、自分にもまともな仕事ができるのだと、淡い期待を抱き始めていたところだったのに、それは束の間の夢に過ぎなかった。これではまた以前の生活に逆戻りだ。いや、以前はまだ帰りを待つ弟がいたが、今は……。

 イライラする。

 きっともう、まともな仕事を見つけることなんてできないだろう。

 ひとまず今日はどうやって空腹を満たそうか。

 そう思ってぶらついている内に、街外れまで来てしまった。引き返そうと踵を返したところに、例の制服が目についた。人殺し、と叫んで石を投げつけたい衝動に駆られるが、そんなことをすれば、今度こそ命はないだろう。

 制服の男が少年に気づく。少年はびくりと肩を震わせた。まさか、顔を覚えられているのだろうか。口封じに仲間たちと同じように殺される? 結局あの時あそこで起こったことの真相を、少年は知らない。

 今までは制服たちに目をつけられることもなく、どうやら自分を探してはいないようだと、気が緩んでいた。男は肩に小銃を掛け、腰には拳銃を差していた。

 ああ、もうだめか、そう思ったが、男と視線が合って、しばし見つめ合う。

 気づいたのはどちらが先だったか。それは少年の兄だった。顔つきはすっかり変わっていたが、間違いない。

 だが、どうして兄が?

 憧れだった兄が、どうして弟を殺した連中と同じ制服を着て、目の前に立っているのだろう。

 どうして?

 頭に血が上るのは一瞬だった。

 どうして!

 懐に忍ばせていたナイフを取り出したところで、別の制服が二人に気づく。ナイフを振るう間もなく、あっけなく拘束される。

 少年は思いつく限りの罵詈雑言を吐き出した。胸の中にメラメラと炎が燃え盛る。怒りと怨嗟のくべられた真っ黒な炎が、メラメラと、ゴウゴウと。

 ――復讐してやる!


 少年は薄暗い部屋で兄と対峙している。兄の手には拳銃が握られていた。

 体中が痛い。視界が赤い。少年は全身あざだらけだった。まぶたが腫れてよく見えない目で、憎悪の対象となり下がった兄を睨みつける。

 こんな奴に憧れて、英雄のように思っていたなんて。自分の愚かさに腹が立つ。こいつは弟を殺した。自分の弟でもあったのに。それは、気づかなかった、知らなかったで済むことではないはずだ。

 憎い――。

 ――殺してやる!

 武器は何もなかったが、その喉に食らいついてでも、弟の仇を取ってやる。

「ごめんな」

 兄は引き金を引いた。


 怒り、いらだち、苦痛、屈辱、嘆き、憎しみ、恨み、……、爆発的な熱が、少年の身体から湧き上がる。それとは反対に、身体は冷たく硬くなっていく。

 ――決して冷めぬと思った熱が、失われていく。憤怒、憤懣、憤怨、憤激、憤慨、この噴き出すような熱が、俺だ。この失われていく熱が、俺の生だ……。

 失われていく……、熱が、命が、自分という存在が……。

 嫌だ。

 必死に足掻く。だが、どんなに足掻いたところで、死からは逃れられない。

 ――俺の生とは一体なんだったんだ?

 生きたい――。

 しかし、目の前に迫った死に、諦めかけている自分もいる。

 ――ああ、この熱を失った時こそ、俺は本当の死を迎えるのだ。俺は凍える冬の寒さも、激しく燃え上がる炎の熱も知っているが、春の日差しの暖かさを知らない。俺は灼熱と極寒しか知らずに死ぬのか。

 死にたくない――。

 少年は強くそう思った。

  



     *****




 少女は意識を失った弟の傍らに膝をついていた。血の気の引いた顔。幼い弟の首には金色の折り紙で作った星のペンダントが掛けられていたが、水に濡れてくしゃくしゃになってしまっていた。それは少女が彼につくってやったものだった。

 こんな時はどうすればいい? 弟が死んでしまっては、自分が怒られる。何とかしなくては。そう、こんな時は、確か、人工呼吸と心臓マッサージ、だ。

 しかし少女はそのやり方がよく分かっていない。間違った知識は凶器となり得るということを、彼女は理解していない。

 少女は横たわった弟の胸を必死で押した。やり方はよく知らないが、きっと強く押した方がいいんだろうと思って、全体重をかけて思いきり押した。

 少女の両親は彼女に告げなかったが、折れた肋骨が肺に刺さったのが弟の直接の死因だったことを、彼女は知っている。

 あの時その命を救う方法があったのかどうか、今となっては分からない。少女は弟の胸を力任せに押し潰した時の感触を覚えていた。

 あの時、自分が弟の肋骨をへし折ったのだ。その実感は無かった。だが、少女は病院で弟の口から血がこぼれるのを見ていた。あれは肺に穴が開いたせいだったのだ。後になって少女は理解した。

 少女の手には、あの時の弟の体温が残っていた。そして、それが失われていく感覚も――。あの熱を奪ったのは自分だ。そう思うと、胸を押し潰されたみたいに息が苦しくなる。

 結局、父親は彼女を叱ったりはしなかった。母親からは優しい言葉を掛けられたものの、決して少女の目を見ようとはしなかった。

 弟を殺したのは自分だという気持ちが、少女の中にはあった。弟の死因を知っているはずの両親は、彼女を責めない。

 いっそ怒られてしまった方が気も楽になるのに。あんなに怒られるのが嫌だったのに、そう思いもした。人を一人殺してしまったというのに、何の罪にも問われないということが、どうしても納得できなかった。

 咎められることのない罪を、どうやって購えばいいのだ。

 いっそ弟と一緒に死んでしまったらよかったのに。

 両親とも死んだ弟のことには触れようとしなかったが、相当なショックを受けているのは傍から見ても明らかだった。

 きっと何も言わないと決めたのは父親なのだろう。堪えきれなくなった母親は、弟の死からしばらくして家族のもとを去った。それならどうして自分を叱りもせずに優しい言葉なんてかけたのだと、少女は恨めしく思った。

 ときおり父親が酷く酒に酔うようになったのは、いつの頃からだったか。酔った父親は少女を殴ることがあった。少女は父親の赤らんだ顔を見上げている。怒りと悲しみとアルコールと。仕方がない。悪いのは自分だ。これが罰になって、弟の気が少しでも晴れてくれたらいいのだけれど。

 少女を殴った翌日には、青い顔で目を覚まし、吐き気を堪えながら必死になって娘に頭を下げる。俺を一人にしないでくれ、そう言って涙をこぼす。

 少女はいつも通りに朝食をつくり、父親と二人で食べた。その頃には父親も落ち着いていたが、食欲なんてなく、もそもそと食事を済ませた。ただ食べ物を口に運ぶ作業の繰り返し。

 まるで死人みたいだ。死人が食事をしている。もし死人が生者のように振る舞いだしたら、区別はつくだろうか。

 鏡で見た自分の顔が死人のように見えることもあった。その顔が死んだ弟の顔と重なって、一度パニックを起こして鏡を叩き割ったことがあった。腕を血だらけにした娘を見て、父親はたいそう慌てた。

 鏡の中の死人を見つめ、そのやせこけた頬に手を触れる。なかなか寝つけない夜が増えていた。しょっちゅう目の下に隈をつくるようになった。授業中に居眠りをして先生に注意されることもあったが、どこか先生も居心地の悪そうな顔をしている。事情を承知して対応に苦慮しているというところか。それが少女を余計にいたたまれない気持ちにさせていた。

 寝不足が続くと、時々夢と現の区別がつかなくなる時がある。そんな時にふと思うのだ。

 私は本当に生きている――?

 私以外のみんなは、生きている?

 父は?

 学校のクラスメイトや先生たちは?

 毎日のようにすれ違うたくさんの人たち、電車やバスの運転手、スーパーやコンビニの店員、テレビの出演者たち、公園のベンチで新聞を掛けて寝ている人、ときおり家を訪ねてくる怖い顔のおじさんたちは?

 生と死の境が曖昧になる。

 確かめる術はない。一度その命を奪ってみれば分かるけど、と少女は思うが、そんな訳にもいかない。死んでしまってから、ああ、よかった、やっぱり生きていたんだ、とは思えない。

 少女は手に残った弟の死の感触を思い出す。

 死と対比しての生。

 いつかこの感触を忘れてしまったら、生死を区別する拠りどころを失ってしまうような気がした。あの感触を失えば、自分の今いる場所も分からなくなってしまいそうで、空恐ろしくなるのだった。


 その日、飼育当番だった少女は、飼育小屋のウサギが死んでいるのを見つけた。弟の死の後に目の当たりにした、最初の本物の死。埋めてやらなくてはと持ち上げた身体は、まだ温かかった。でも、もう動かない。穴を掘って埋める頃には、すっかりその身体は熱を失っていた。

 少女は自分の身体を流れる血の熱を自覚したように思った。死の対比としての生。そうだ、こうして比べれば、生きていることを実感できる。

 生きるために必要な死というものがあるのなら、それと、生きていると感じるために必要な死というのは、別のものだろうか。

 その日から、少女はカッターナイフを持ち歩いてみた。もちろんそれで何をするわけではなかったが、ただ、殺せば死ぬ、死を認識することのできる自分は生きているのだと、そう思うと不安が和らぐような気がして、それだけのために持ち歩いていた。

 そう、最初はそんな想像だけでよかった。だが、やがてそれだけでは足りなくなる。

 実際に死ぬところを確かめないと、本当に生きているかどうかなんて分からない。

 それはただそう思うだけのこと。自分が生きていることを確かめるために他者の命を奪うだなんて馬鹿なこと、考えてみるだけで、実行する気などなかった。今のところは。

 普段は意識していないだけで、そういうつもりで見れば身近にも死は溢れていた。スーパーには生きていたころの姿のままの魚が並んでいるし、地面には踏みつぶされた虫が転がっている。理科準備室にカエルの標本があることも知っていた。だが、いつかそれでは満足できなくなるのではないかという不安を、少女はぬぐえずにいた。

 ――そうなってしまえば、もう、私は私を殺すしかない。

 誰かの命を奪ってまで自分が生きたいとは思わない。そうしなければ生きることができないというのなら、そんな人間、生きていない方がいい。

 分かっているからこそ怖い。

 ――この命に価値を与えてくれる死なら、私は喜んで受け入れよう。


 少女は我慢して朝食を胃に詰め込む。昨夜はほとんど眠れず、食べ物を受けつけられるような状態ではなったが、食べなければ体が持たない。だから、たとえ後で吐くことになったとしても、食べる。

 睡眠不足が続くと、少女は父親が使っている睡眠薬をくすねることがあった。ちゃんと病院で処方されている薬だから、その数が減っていることに気づいていないはずはないだろうが、父親は何も言わなかった。

 結局少女は食べたばかりの朝食をもどしてしまった。そろそろちゃんと寝ないと体力的にきついな、と思い、今晩は睡眠薬を飲んで寝ようと決めた。

 鏡はあまり見なくなった。自分の顔なんてあまり見て気持ちのいいものではない。

 少女が家を出る頃には、父親はもう出勤している。そして帰ってくるのは少女よりも遅く、父親が帰るより先に夕食を済ませてしまうことも多い。

 父親はそうとは分からないように振る舞っているつもりのようだが、家の経済状況が芳しくないことは、少女もとっくに気づいている。少女は父親が今どんな仕事をしているのか知らなかった。本当に仕事をしているのかどうかも分からない。

 少女は時々母親から手紙が来ているのを知っていた。それが父に宛てられたものなのか、少女に宛てられたものなのかは知らない。実のところ、宛先ばかりか差出人も確認したことはない。ただ、その手紙が来ると父親はその封を開けることもなくどこかに隠してしまうのを、少女は知っていた。


 その日も父親の帰りは遅かった。しかし、夕食を済ませ、風呂に入り、今日の分にくすねた睡眠薬を服用せずにひきだしにしまい、長い夜にうんざりしながら布団に入る頃になってもまだ、父親が帰ってこない。

 何かあったのかと、さすがに心配になってきたところに、玄関のドアが開く音がした。ゆっくりと不安が解けていく。そのまま眠りに落ちることができればいいのに、脳味噌の底の方に鈍痛のような眠気がわだかまっているのは感じるものの、それが全身に行き渡る感じがしない。

 足音が近づいてくるのを聞くでもなく聞いていた。部屋の前で足音が止まる。年頃の娘の寝顔を見に来るような父親ではないはずなのに。

 どうしたのだろうと思いながら、面倒だからと寝たふりを決め込むことにした。そっとドアを開け、部屋に入ってくる気配。ベッドに近づいてくる。

 少女は壁に顔を向け、顎まで布団を引き上げていた。じっと突っ立って何をしているのだろう。少女は自分の寝たふりが自然かどうか不安になる。自分が寝ているときの呼吸ってどんなだろう。眠っているときの自分を見たことがないからよく分からない。

 顔を覗き込まれているような気配がする。

 ぎし。

 ベッドが軋む。どういうつもりだろう。まだ寝たふりを続けるべきだろうか。すくめた首に父親の骨ばった手がかかる。ためらいながら徐々に力が加えられ、少女は父親を見上げる。目が合った瞬間、覚悟を決めたように首を絞める手にぐっと力が込められた。

 ぱくぱくと父親の口が動くのを見つめながら、すべてを受け入れるように、あるいは拒絶されるように、少女の意識は遠のいていった。


 どうして。

 少女は目を覚ます。

 どうしてまだ生きているの。

 部屋の中にはもう、父親の姿はなかった。体が重い。どこか現実感のない頭を持ち上げる。父親はどこへ行ったのだろう。

 重い体を引きずるようにベッドから降り、部屋を出る。風呂場から水の流れる音がする。嫌な予感がしていたけれど、確かめないわけにもいかなかった。ざばざばと流れ続ける水。服を着たままの父親は、疲れ果てて風呂に浸かっている、とは見えなかった。

 しばし思考が停止する。ぼんやりとした頭のまま重い足を引きずって自室に帰る。明かりを消したままの暗い部屋。まだ体温の残るベッドに腰を下ろし、枕に顔を埋める。

 眠い。眠いのに、眠くない。眠気は感じているのに、睡眠のスイッチが入らない。それでも今日はまだ耐えられると思っていたが、こんな事態は想定しておらず、身体的にも精神的にもぐっと負荷が掛かっているのを感じる。

 机のひきだしには父親からくすねてきた睡眠薬が、もう何回分かしまい込まれていた。

 ――眠らなくては。

 眠らなくちゃ、眠らなくちゃ、眠らなくちゃ――。




     *****




 ああ、あの子が手を振っている。あの子はどうしてあそこにいたのだろう。最後に私に会いたいと思ってくれたのなら、私は彼女の友達としてうまくやれていたことを誇らしく思う。今では思い出すことも稀になってしまったあの子、それでも記憶から消してしまいはしなかった。

 いっそ記憶から消してしまった方がよかったのだろうか。もうその話をするのはやめなさいなと、お母さんに言われたことがあった。私は釈然としなかった。その時はまだ一緒に暮らしていたパパは、苦笑いするだけだった。あの頃は、何も言わずに微笑んでくれるパパのことを優しい人だと解釈していたんだっけ。あの時に一緒にいたのがパパじゃなくてお祖父さんだったなら、何と言ってくれただろう。案外パパと同じような反応をしたのではないかという気がする。何も言わずに微笑むお祖父さんの顔が思い浮かぶ。

 最後まで私のことを気遣ってくれていたお祖父さん。私がついてくることをどう思っていたのだろう。歓迎していたわけではないだろうに、微笑んでくれた。ただそれだけだったけれど、それでも幾分か救われたような気持ちがしていた。

 もしお母さんだったら、私がついてくるのを許しただろうか。あの子とお祖父さんは私に会いに来てくれたけれど、お母さんは私に何も言わずに行ってしまった。どうしてお母さんは私に会いに来てくれなかったのだろう。

 ――お母さんは、本当には私を愛していなかったのかもしれない……。

  



     *****




 少年は蜜の滴る黄金色のケーキを眺めていた。一度だけそれを食べたことがある。その日は少年の誕生日だった。兄は一番大きい一切れを少年に譲った。口の周りをべたべたにしながら食べたケーキは、この上なく甘かった。いつか母のお腹の中にいる弟にもこれを食べさせてやりたい。きっと自分が買ってやるんだと、少年は思った。それは彼にとっての幸せの味だった。

 弟はあの夢のように甘い蜜の味を、まだ知らないのだ。少年はなんとかそれを弟にも食べさせてやりたかった。自分がそれを初めて食べたのと同じ歳になる弟の誕生日に。

 ――金さえあれば……。

 堂々とケーキを買って、後ろめたいこともなく、何に追われることもなく、ゆっくりと味わわせてやることができたなら……。でも、どうやったらそんな金を手に入れられる?

 妙案を思いつくことはなかった。とにかく今は、今日の飢えをしのぐ方法を考えなければ。今日だけじゃない、毎日がどう飢えをしのぐかで精一杯だ。どうすればこんな毎日から抜け出せるだろう。

 少年よりも先に大人になり、家を出て行った兄のことを思い出す。兄がいれば兄弟のためにケーキの一つくらい買ってくれただろうか。それとも兄の生活にもそんな余裕はないのだろうか。いや、自慢の兄がそんな生活をしているはずがないと、少年は思い直す。

 きっと弟の誕生日も忘れるくらい忙しく働いているだろう兄に頼るのではなく、自分がケーキを買ってやるのだ、そう少年は決意した。次の誕生日には間に合わないかもしれないけれど、いつか。

 だが弟は、その味を知らないままこの世を去ってしまった。何もできずにその場を逃げ去った少年は、甘い蜜の滴るケーキを見るたびに苦い思いが込み上げてきた。

 ――俺はアイツを見捨てた。

 あの時に少年ができることなど何もなかったとしても、その思いを拭い去ることはできなかった。

 ――俺がアイツを死なせた。

 せめてどうして最後まで側にいてやらなかっただろう。

 ――俺は、自分が生きることを選んだんだ。アイツと一緒に死ぬことよりも。

 弟は自分を恨んでいるだろうか。恨まれていても仕方がない、そう思った。一緒に死んでやることができなかったからには、自分は責任を持って生きなければならない。

 ――俺には、幸せになる義務がある。

 もう、弟にケーキを買ってやることはできない。それでも、弟にしてやりたかったこと全部をできるようにならなければ。いつか胸を張って弟の前に立てるように。

 金を稼げるようになったら、アイツのためにあのケーキを買おう。弟はもう食べることができないけれど、アイツのために買ってやるんだ。

 それは自己満足だろうか。頭の裏側から怨嗟の声が聞こえる。網膜の奥から血だらけの弟の姿が取り縋ってくる。

 ――結局、自分さえよければそれでいいんだ。そのケーキだって、僕は食べられないのに。だから、自分ひとりで食べちゃうんだろ。それとも、新しい家族と食べるのかな。僕はケーキなんて一度も食べたことなんてないのに!

 ごめん、ごめん、と少年は何度も呪文のように繰り返した。ごめん、ごめん、俺は悪い兄貴だった。お願いだから許してくれ、と。

 目の前が暗くなる。どうしてあんなに懸命に生きることにこだわっていたのか。闇はどんどんその濃さを増していく。闇の深さは罪の深さだ。胸の中が凍りついたみたいに寒かった。


 闇の中にぽっかりと、あの黄金色のケーキが浮かんでいる。焦がれるほどに求めた、甘い、甘い、幸せの象徴に、少年は震える指を伸ばす。

 その指先が、硬く冷たいものに触れた。

 ――氷?

 ケーキから、甘い蜜の代わりに赤い血が滴る。氷に映った自分の顔が歪んだ。ケーキがぐしゃりと潰れ、赤い蜜が飛び散る。氷の中の顔が赤く染まり、思わず少年は顔をぬぐった。目を開けると、そこには恨めしそうにこちらを睨めつける弟の顔があった。

 思わず悲鳴を上げ、突き出した手が氷を叩く。その冷たく硬質な感触に、少年はそれが氷ではなかったことに気づいた。

 ――鏡、か?

 覗き込むと、闇の中にぼんやりと自分の顔が浮かんでいた。その鏡像を見ながら、少年は確かめるように自分の顔を撫でまわした。

 ――俺のせいじゃない。

 鏡の中の自分が言った。血が熱くなるのを感じた。

 ――誰のせいでこうなった?

 持ち上げられた手には拳銃が握られていた。その像は兄の姿をしていた。

 ――そうだ、全部コイツが悪いんだ。家族を捨てて、弟を殺して、そして、俺を殺した……!

 俺の犯した罪の元凶は、すべてコイツだったんだ。弟と二人で生きていくには、盗んだり騙したり、脅したり隠れたりもしなくちゃならなかった。悪い仲間とも付き合った。そうしなければ生きていけなかった。そうやって何とか生きてきた俺たちのことを、引き金を引くだけであっさりと殺した。

 憎い。憎い。憎い。

 俺の犯してきた罪を全部、お前が背負えばいい!

 銃声が轟く。

 怒りと虚しさが同時に胸に湧いてきた。

 ――ああ、これは、俺の罪を映す鏡だ。

  



     *****




 ――ああ、これは、私の罪を映す鏡だ。

 少女は暗闇の中の鏡を見つめている。それは罪の記憶だった。ちゃんと見ててよ、と言われていたのに。少女は面倒くさそうに、わかってる、と答えたのだった。

 ――何が、わかってる、だ。

 棺には幼い弟の身体が横たえられている。化粧のせいでわずかに赤みのさした頬がどこか白々しい。青ざめた弟の顔が脳裏に焼きついて離れなかった。

 濡れそぼった髪、血の気の失せた顔、張りついた衣服、浮き上がった肋骨、力のない手足、ぐにゃりとした肉の感触。

 まだ手の平に弟の体温が残っているような気がする。けれど目の前には、冷たく硬直した弟の遺体。

 あの熱を奪ったのは自分だ。

 私が弟を殺したのだ。

 ――それなのに、どうして誰も私を責めないのだろう。

 確かに弟が池に落ちたのは事故だった。ほんの少し目を離しただけだったのに、あんな庭の池なんかで溺れるだなんて、誰が思うだろう。少女は必死で弟を救おうとした。池から引き上げるだけでどれだけ苦労したことか。赤ちゃんの頃みたいに簡単にとはいかなくとも、いつもなら抱き上げることくらいは難しくなかったはずだ。けれど池の中のそれは、同じ弟とは思えないくらいに重く、いつものようにはいかなかった。

 とにかく何とか弟を池から引き上げることはできたが、その時にはもう、弟は息をしていなかった。両親が帰ってくるのは夕方ごろの予定だったし、急な用事で不在の祖母は、一時間くらいで戻ると言って三十分ほど前に家を出たばかりだった。

 弟の面倒なんかいつも見ているのに、どうしてみんな、ちゃんと見ててよ、なんて念を押すのだろうと思っていた。信用されていないみたいで何だかおもしろくない。確かに弟は他の子よりも少し手間のかかる子ではあったのかもしれないけれど、家族としてそんなことは理解している、つもりだった。

 ――みんな、私がどんな気持ちで弟を助けようとしていたか知らないんだ。

 怒られたくない。自分が責任を果たせなかったのだと思われたくない。自分には弟の面倒を見ることくらい、なんてことないはずなのだ。そうでなくてはならない。孫が心配で早めに予定を終えた祖母が帰ってくるまで、少女はただそれだけを考えていたのだった。

 祖母は血相を変えて救急車を呼んだ。慌てていてそんなことは思いつかなかった、と少女は言い訳したが、それは嘘だ。救急車なんて呼んだら大ごとになってしまう、弟が目を覚ましさえすれば、そんな大ごとにはならなくて済むという、浅はかな考えだった。

 鏡の中から、自分だけは知っているぞ、という目で弟が見ている。

 思い詰めた少女は、川に身を投げたことがある。川の水は冷たく、胸がキーンと痛くなった。衣服が体にまとわりつく。プールで泳ぐのとは全然違う。川の流れに翻弄されながら、何度も水を飲んだ。弟もこんな苦しい思いをしたのか、と思った。

 やがて少女は意識を手放した。

 気がついた時には病院にいて、目を覚ますと母親は大声で泣いた。少女はぼんやりとした意識で、嫌だな、と思った。父親は娘のことを気にしながらも、妻のあまりの取り乱しようにそれをなだめるのに徹していた。

 どうして私は生きているのだろう。弟はあんなに簡単に死んだのに。

 そんなことでは許さないという、弟の怨嗟の声を聞いたような気がした。

 それから何をしていても弟が見ているような気がして落ち着かなかった。弟に誤りたかった。どうすれば許してくれるのか問いたかった。

 弟にもう一度会いたい、そう思った。

 仲の悪い姉弟ではなかったけれど、特に仲が良いというわけでもなかったのに、こんな気持ちになるなんて思いもしなかった。弟ひとりがいなくなっただけで家族がバラバラになるだなんて、考えてもみなかった。だって、弟が生まれる前には三人でも家族は成立していたのだ。そんな単純な話でないことくらいはわかっている。そんな風に割り切れるなら、こんなに悩まずに済んだだろう。

 弟が許してくれないのなら、せめて周囲の人間が、これでもか、というくらいに責め立ててくれれば、気も紛れたかもしれない。どうしてそこまで言われなくちゃならないんだと、開き直れるくらいの暴言をぶつけてくれれば、いっそ救われたかもしれない。何も言われないというのが、少女には一番こたえた。慰めの言葉さえ、少女には苦痛だった。せめて罪に見合った罰を与えてくれていたら、少しは素直になれていたかもしれないのに。

 いつか、あらゆる言葉の裏に自分への非難が込められているのではないかと疑うようになってしまった。

 ――私は醜い……。

 自分に嫌気がさした。早くこの世から去ってしまいたかった。けれど、どうしても弟の存在が頭を離れない。

 ――許さない。

 もうどこにも自分の居場所はないのだと思った。ひたすらに許しが訪れるのを待つしかない。

 家族は誰も弟のことを話さない。自分のせいだとわかってはいるのに、周囲が弟の存在をなかったことにしようとしているみたいで、無性に腹が立った。弟の死を無視したところで、弟が帰ってくるわけでもなければ、いなかったことにできるわけもない。もちろん自分の罪が消えるわけでもなかった。誰もそんなことを望んでいるわけでもないのに。

 それでも、少女自身、弟のことを話題にあげることはできなかった。

 ――私は絶対にアイツのことを忘れちゃダメなんだ。

 忘れてはいけない。幸せになってはいけない。いつか弟が自分のことを許してくれるまでは――。

 それはいつだろう。どうすれば許してくれるのだろう。目の前が暗くなり、ぼんやりと弟の姿が浮かんでくる。濡れそぼった髪、血の気の失せた顔、張りついた衣服、力のない手足、まだあどけない男児の瞳が見開かれ、少女を睨む。

 ――許さない。

 いつか許しを得られる時は訪れるのだろうか。

  



     *****




 どうして私は無償の愛なんてものを信じることができただろう。親だから子を愛するのは当然?

 私なら、自分みたいな子を愛するなんて無理だ。

 私は、お母さんに悪い子だと思われたくなかった。だから必死に良い子を演じていたんだ。お母さんは生まれた瞬間からずっと私のことを知っているのだから、私が本当は良い子でないことなんて知っているのに。馬鹿みたい。どうしてこんな子を好きになれるだろう。

 私はこんなに愚かな人間を他に知らない。愚図で鈍間で人に媚びてそのくせ我儘で、長い物に巻かれるのを良しとしながらも自分の思い通りにならないと落ち込んでいる、どうしようもない人間。愛すべきところなんてどこにもない。

 私は私が嫌いだ。どうしようもなく。

 こんな人間が誰かに愛されようだなんて、それはもう、罪だ。私は私を許せない。

  



     *****



 ――どうしてお前がこんなに苦しまなければならない?

 ――どうして夢も希望もあきらめなければならなかった?

 ――お前には望む権利がある。

 ――憎め、憎め。

 ――俺ハ悪クナイ。

 ――復讐ダ。

 ――殺シタ、殺シタ。

 ――奪ワレタモノヲ奪イ返シテ何ガ悪イ?

 ――罪には、罰だ。

 ――現世では叶わなかったことでも、ここなら叶えられる。

 ――望め、望め。

 望みを問う声が繰り返し頭の中に響く。

 ――ココナラ、ドンナコトデモ、望メバ叶ウ、ノカ?

 もしも、本当に願いが叶うなら――。




     *****




 ――望め。

 その声に、少女は即座に答えた。

 ――弟を返して。

 それが自らの唯一の望みだと、少女は信じて疑わなかった。

 弟が生き返るのなら、自分の命を引き替えにしてもいいと思った。

 死を望みながら生きる者と、生きたくても生きられず、幼くして命を奪われた者の魂が釣り合うのか?

 それは己の内から湧いてきた疑問か、それとも願いを叶える者からの問い掛けか。

 ――弟を救えるのなら、どんなことでもします。私だけの命で足りないのなら、他に何を犠牲にしてもかまわない。なんでもする。だから、お願い。

 少女は心の底から願った。

 ――弟を、返して。

 



     *****




 私には何もなかった。私は目の前の闇を見つめ続けるのに我慢できなくなり、目を閉じていた。けれど、目を閉じていようが開けていようが、この闇の中では変わらなかった。目も目蓋もすっかり闇に溶けてしまって、本当は目を閉じるということさえできていないのかもしれなかった。

 あらゆるものの境が失われて、意識さえも共有し得るなら、私なんてものは存在しないといえるだろうか。いや、私以外の意識を私以外のものと認識できる内は、私という存在がなくなってしまったとはいえないだろう。では、その感覚さえもなくなってしまったとしたら?

 怖い。嫌だ。それは、私という存在が消えてしまうことへの恐怖か、私の中に私以外の意識が存在するということへの不快なのか。私は、私が消えてしまうことを望んでいたんじゃなかったのか。私の意識が他の意識と混ざり合って一体となってしまえば、それも私という存在がなくなるということなのでは?

 違う。

 私は、私を知られるのが怖い。嫌だ。私の記憶も、私が何を考えているのかも、他人に知られるのは嫌だ。他人の中に私という存在が居座っているなんて、耐えられない。

 他人に左右される生き方も、もううんざりだ。みんな私から出て行ってしまえ。

 私はひとりになりたい。いや、ひとりにはなりたくない。

 さっきから頭の中で反響している望みを問う声に答えれば、叶えてくれるのかもしれなけれど、もう自分でも何を望んだらいいのか分からなくなっていた。

 望むことなんてないとは言わない。今日の私は自分の望むままにたくさんのわがままを通してきたはずだった。けれど、それで私の望みは叶ったと言えるだろうか。これが私の望んだことなのか。

 ――望んでいたこととは違う?

 違う、これは私の望んでいたことじゃない。

 ――じゃあ、何を求めていたの?

 安らぎとか、安息とか、きっとそういうものを求めていたのだと思う。

 ――それはどういうもの?

 それは――、何にも煩わされず、何も強制されず、何も失うことなく、何も求められることもない――……。

 ――それは今の状況とは違うの?

 それは――、そうか、これが私の求めていたこと、なのか……。だとしたら、私の想像力が足りていなかったのだ。自分の望みも正しく理解できていなかった。それは当然なのか。私は、自分のことを理解しようとなんてしてこなかったのだから。

 自分とは何か、なんて、考えたくもなかった。私は私でいることが辛いのだから。人はどうして「自分」なんてものを生み出してしまったのだろう。そんなものを自覚してしまったら、面倒なだけなのに。

 求める自分を持たず、求められる自分も失ってしまったら、もう存在の価値なんてない――、か。そうだ、私はいらない子になるのが怖かったのだ。家族のように、損得なく私のことを必要としてくれる人の側にいたい。私は孤独になりたかったわけじゃない、本当は誰より孤独を恐れていたんだ。群れの中で一人になるのが怖かった。群れの中にいることで孤独を感じるのなら、いっそ群れなければいいのだと思った。孤独を恐れて群れを出るなんて、なんて愚かだろう。

 でも、他にどうすることができたのだ。周囲の求める自分であるために本来の自分を殺し続けていればよかったのだろうか。

 私は結局、誰かのために死ぬよりも自分のために死にたいと思ったのだ。

 私に失うのを厭うほどの「自分」なんてものはないのだと思っていた。それは実際そうなのかもしれないけれど、誰かの思惑の器になるのは耐え難かった。私は私を満たすものを自分で選びたかった。

 私がずっと「良い子」であろうとするのを苦痛に感じなかったのは、お母さんやお祖父さんの無償の愛を信じて疑わなかったからだ。この人たちの求める私であることに、恐怖はなかった。

 それなら、私が受け入れるのを恐れていたものとは、いったい何なのだろう。

 私は、私の中にあるお母さんやお祖父さんの存在が消えてなくなってしまうのが怖かった。やっぱり私には、失うのを恐れるほどの「自分」なんてものはなかったのだろう。だから、私の中にある「たしかなもの」が変わってしまうことを恐れたのだ。

 私がパパのところに行かないのは、私の中に存在するパパが、まだ私にとって「たしかなもの」だと信じていた頃のパパだからで、それが壊れてしまうのが嫌だということなんだろう。私はパパのことを嫌いになりたくない。憎んだり恨んだりはしたくない。

 それは、一緒にいればそうなってしまうという予感があるということだ。私には、私が確かだと思えるものがあまりにも少なかった。だから、それをどうしても失いたくなかったのだ。

 自分が確かだと思っていたものが次々に失われていくのが、私は怖かったのだ。確かなものが何ひとつないような世界で、どうして生きていけるだろう。だから、私は逃げ出したのだ。そうだ、私は死んでしまいたかったんじゃない。消えてしまいたかったんじゃない。時間を止めてしまいたかったんだ。まだ、できるだけ幸福な内に。

  



     *****




 鏡の中には、弟とかつての仲間たちの死体が転がっている。銃を持った男が振り向き、にやりと笑む。その顔は、幼い頃に憧れた兄のものだった。血を流した子どもたちがむくむくと起き上がり、兄に群がる。兄はにやにやしながら次々とその額を撃ち抜いていく。

 倒れながら弟の瞳がこちらを見る。その瞳が訴えかけている。かたきをとれ、復讐しろ、と。

 どうしてこんなものを見せるのだ。

 それは、これが罪を映す鏡だからだ。憎しみと後悔の念で頭がどうかしてしまいそうだった。

 どうして罪を映す鏡が望みを問い掛けるのだ。それは、罪は願望から生まれるからだ。鏡が望みを叶えるのは、その先の罪を見せつけるためなのだ。

 わかっている。わかっているのに、抗えない。求める気持ちを隠し切れない。

 こちらを見つめる弟の視線を受け、弟に報いるにはこれしかないのだと、手の中の拳銃を見つめた。それは少年が求めた力だった。

 苦悶の表情を浮かべ、地面に倒れていく子どもたち。たくさんの苦痛と、わずかな喜びを分け合った仲間だった。どうせあのままでは未来などなかっただろう。でも、だからといってあんな風に殺される理由なんてなかったはずだ。とっくに未来は諦めたと嘯きながら、胸の底には微かな夢を抱いていたはずだった。たとえ叶わなくても、生きることを諦めてはいなかった。その命を奪う権利なんて、誰にもないはずだ。

 血が熱くなる。頭の中が真っ赤になって、早く引き金を引きたくて堪らなかった。銃なんて撃ったことはないのに、自然に構えることができた。

 弟たちを殺した殺人者が、同じように少年に銃口を向けた。同じように……。

 鏡写しの二人。

 悲鳴のような雄叫びを上げて、少年は引き金を引いた。

 ガシャン、とガラスの割れるような音がして、目の前の風景に亀裂が走る。ひび割れた世界が血を流す。銃を握った手が震えていた。

 弾を撃ち尽くすまで、少年は引き金を引き続けた。

 派手な音を立てて目の前の世界が崩れ去った。少年は拳銃を捨て、足元に転がっていた小銃を拾い上げた。セミオートで繰り出される弾丸が、見えない敵を次々に撃ち砕く。世界はバリバリと悲鳴のような音を立てながら壊れていく。

 いつか少年の口元には笑みが浮かんでいた。

 自分を拒んだ世界を破壊する快感に溺れていた。これが本当に自分の望んでいたことなのだと思った。それなのになぜか、その目には涙が滲んでいた。

 やがて少年の周囲の世界は、血を撒き散らしながら崩壊していった。全身を赤黒くドロドロに汚した少年は、崩れ去った世界の先へと足を踏み出す。

 胸の底がじりじりと焼け、じくじくと痛んだ。




     *****




 鏡の中には、棺があった。ようやく弟に会えるのだと、少女は思った。

 棺の蓋に手を掛ける。その中には幼い弟が手足を丸めた状態で収まっていた。一瞬、こんなに小さかったっけ、と思い、すぐに、そうだ、弟はまだ幼く、小さかったのだと思い直す。

 自分が忘れるはずがなかった。弟のことを誰よりも正確に覚えているのは、間違いなく自分なのだ。周囲が弟の死を受け入れ、忘れようとしても、自分だけはそれを否定し、忘れないように努めてきた。だから、私の覚えている弟が一番正確なんだ。

 少女は棺の中に横たわる弟を抱き上げた。こんなに軽かっただろうか。いや、そうだ、弟はまだ幼く、軽かったのだ。忘れるはずがない。そして少女は小さな弟を抱き締めた。

 腕の中の弟が手を伸ばす。その手が少女の首に回り、ぎりぎりと締め上げる。ああ、そうだ、これでいい。私の所為で死んだ弟に、私の生で報いる時が来たのだ。ああ、けれど、幼い弟のどこからこんな力が湧いてくるのだろう。そう思った瞬間に、腕の中の弟を突き放していた。

 どこかに本物の弟がいるはずだ。辺りにはいくつもの棺が群れを成していた。数を数えたなら眠れそうだ。少女は、ともかく手当たり次第に棺の蓋を開けていった。

 そこにはあらゆる死が溢れていた。アンモナイトの化石。理科室にあるような生物の標本や骨格模型。博物館にあるみたいな動物の剥製にミイラ。アスファルトの上で干からびたミミズ。水槽の上にお腹を見せてぷっかりと浮かんだ金魚。生まれてすぐに死んだ飼育小屋のウサギ。車にひかれた鳥や猫の死骸。

 少女は夢中になって、次々と棺を開けていく。空の棺を見つめ、何が入っているのかと一瞬だけ考え、そうか、これは私の棺だと、少女は悟った。

 迷いなくその中に横たわる。すると、いつにない安らぎに満たされた。とろとろと眠気が忍び寄り、何ともいい気分だった。こんなに気持ちのいい眠りはいつ以来だろう。夢にまで見た夢が見られそうな……。

 まどろみの中で、そういえば弟は冗談が好きだったと思い出す。本当に冗談の意味を理解していたのかは怪しいものの、冗談を言うと敏感に察知してよく笑った。だから、弟を笑わせようと、その周りではよく冗談が飛び交っていた。

 ふと、家族の間に笑いが消えたのは弟が死んだからばかりではなかったのかもしれないと思った。

 そんなことを考えながらうとうとしていると、幼い笑い声がどこからか聞こえてきた。目を閉じたままその声に耳を傾ける。やがてガタガタと棺が揺れ出した。地面が揺れているわけではない。棺が動いているようだった。

 目を開けると、弟の顔が覗き込んでいた。とっさに言葉が出てこず、しばし見つめ合う。幼さに似合わぬ無表情。その顔が引っ込み、慌てて半身を起こすと、幼く少し体の弱かったはずの弟が、棺を押していた。それはなぜか何人もいた。みんな首に折り紙のペンダントをぶら下げている。弟たちは協力して少女の乗った棺を川へと突き落とす。

 ああ、ようやく罰を受けることができるのだと、少女はほっとした。

 川面に映った自分の顔が歪んで、弟の顔に見えた。早くこちらへ来いと催促しているみたいだった。棺の底からは冷たい水が忍び込んできていた。

 胸の底がしんしんと冷え、しくしくと痛んだ。

  



     *****




 みんな胸に傷を抱え、許されたいと願っていた。私はどうだろう。

 私は許されたいとは思わない。お母さんの死も、お祖父さんの死も、私のせいではなかった。誰にも私の罪を許すことはできない。私には、彼らにとっての弟に当たるようなものは存在しなかった。

 私にこんなところまで来るような資格はなかったのではないか。私には、強い怒りや憎しみも、深い後悔や悲しみもなかった。

 少年が復讐を望むのが当然なように、少女が死を求めるのも無理がないように、私にも自分の行動を裏づけるような確固たる理由があればいいのに。私のことを誰も咎めることができないような、誰の目にも見えるような――、

 ――そんな傷が、私にもほしい?

 ぎくりとした。目の前に赤いコートがぼんやりと浮かんでいる。

 誰?

 闇の中の人影が首を傾げる。私に分からないはずがないだろうとでも言いたげだ。

 この暗闇の中で、その赤色は酷く場違いな気がして、いらいらする。

 誰なの? そう問いかけた時には、本当はもう分っていた。

 ――ここは鏡の中なんだから、鏡に映った自分がいるのは当たり前よね。

 そうだ、その顔は紛れもなく私のものだ。見たくなくてもついてまわる、私の顔そのものだ。でも、私は傷が欲しいだなんて望んだりしない。他人の傷を羨むだなんて、そんなのどうかしている。

 ――そうだよね、別に傷つきたいわけじゃない。できるなら傷つきたくないと思ってる。当然だけど。でも、他人の傷を羨むって、そんなに変なことかしら。

 だって、傷なんてその人にとっては誇らしいものでもないし……。

 ――そう? 自分の傷を誇らしげに語る人だっているんじゃない?

 だとしても、その傷の意味も痛みも知らない他人が無神経なことを言うのは失礼だと思う。

 ――でも、他人の持っているものを羨ましく感じるのって、普通のことじゃない? 良い趣味とは言えないにしても。

 これが私自身だというのなら、どうしてこんなに意見が食い違うのだろう。これが鏡に映った私だから、性格も反転しているとか?

 鏡像はじっと私を見つめている。答えは分かっているはずだというように。それは当然なのかもしれない。目の前にいるのが、本当に鏡に映った自分自身だというのなら。

 私は認めなければならなかった。正反対のことを言っているように思えても、そのどちらも自分の中にあるものだ。頭の中では、相反する二つの考えが同居することだってある。意見をころころ変えれば、無責任だと言われるのも当然だけれど、他人の意見に耳を傾けようとしなければ、自分勝手だと非難されるのもまた当然だ。頭の中にある複数の自分を場面によって切り替えることが、私たちには日常的に求められている。

 だから、正反対に思える主張でも、そのどちらも自分の中に存在するものなのだと言える。

 鏡に映った私が本当に私と同一人物ならば、私の中に隠れている気持ちまで分かってしまったとしても当然なのかもしれない。意図して隠しているものも、意図せず隠れてしまっているものも……。

 ――私が本当に望むなら、ちゃんと叶うの、ここなら。あの二人がそうしたみたいに。

 あの二人は、望みを叶えたのか。確かに少年は復讐心を満たすための世界を手に入れたのかもしれない。永遠に続く復讐の世界を。少女は焦がれた死に満ちた世界を手に入れたのかもしれない。繰り返す死の世界を。

 鏡に映った私には分かっているのか。私にも分からない、私の本当の望みが。

 目の前の私が、コートの下の胸に触れる。コートの赤よりももっと暗く、もっと赤い液体が、指の間から溢れ、滴る。自分の胸を見ると、同じように赤黒く濡れていた。触れればぬるりとした感触。

 これが私の傷。

 これでやっと安心できる。私の心も、ちゃんと血を流しているのだ。

 そうだ、これが私の望みだ。目に見えない傷もちゃんと目に見えるようになり、その傷を誰もが尊重する世界、だ。この傷を見れば誰も私のことを責めたりはできないだろう。私はずっと恐れていた。自分がこの先へ進むのにふさわしくないのではないかと。

 ここまでの道程を共にしてきたあの二人が、見えなくても深い傷を負っているのだと知った時、私の中にあったのは憐れむ気持ちではなく、焦りの気持ちだった。あの二人がこの旅の道中にあることを、きっと誰も責めはしないだろう。けれど私のことは――。

 何の傷も持たない私では、きっと誰もここにいることを認めてはくれないだろうという絶望。進んでも戻っても、きっと誰かから責められる、そんな気がしていた。けれどこの傷を見れば、誰が私のことを責められるだろう。

 私は自分の傷が誇らしくなってきた。

 たとえ誰かがそれをおかしいと非難しても、あなたに私の傷の何が分かるんですか、と言い返してやればいいのだ。私の傷は私だけのもの。誰に理解されなくたっていいのだ。

 私はずっと苦しかった。お祖父さんの後をつけてきたのは、ちょっと軽薄な行動だったかもしれない。けれど、私だって何の考えもなしに、少しの迷いもなく行動したわけじゃない。それでも、自信がなかった。私の行動を正当化する理由が欲しかった。私が悩み、苦しんできたことの証があれば、と思った。

 誰にも見えない傷が、誰にも見えるかたちになるというのは、まさに私が求めていたことだった。どうしてそのことにもっと早く気がつかなかったのだろう。

 心が軽くなったみたいだ。望みを叶える鏡に、私の望みを正しく表現してくれたもうひとりの私に、心から感謝した。自分に感謝するというのはおかしいだろうか。

 闇に溶けていた身体が、その輪郭を取り戻す。手が、足が、目が耳が、再び世界を捉える。私は私のかたちを取り戻す。

 この胸から流れ出る、私の、私だけの傷を示す、この真っ赤な血が、私という存在の輪郭を描き出す。

 光が見えた。

 トンネルを抜ける。

  

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