天使
亀沢糺
第1話
取り立てて言うほど盛況というわけでもないけれど、私たちみたいな近隣の住民には親しまれている駅前のデパート。その日、まだ小学校の低学年だった私は、買い物客が行き交う中に、死んだはずの友達の姿を見た。彼女は背の高い男の人と手をつないで歩いていた。
喪服みたいにまっ黒なスーツ姿。やや長めの前髪。間違いなく大人の男の人なのに、その隙間から覗けた瞳は、なぜだか同級生の男の子みたいな印象があった。それがその人の枯れたような雰囲気というか、身にまとった陰鬱な雰囲気とは馴染まず、違和感というか、もっと漠然と、なんだか不思議な感じがした。
私が声を掛けるより一瞬先に、彼女は私を見つけて微笑んだ。私はどうしてか掛けようとした言葉を飲み込んだ。彼女が私に向かって小さく手を振った瞬間、私は間違いなくそれが私の仲良しだったあの子だということを確信していた。死んでしまってもう会えないと言われていたけれど、それは確かにあの子だった。
お母さんにそのことを報告しようと目を離したわずかな隙に、二人の姿は消えていた。きょろきょろと周囲を見回しても、どういうわけかどうしてももう一度その姿を見つけることはできなかった。彼女の方はともかく、男の人の方はこのまばらな人の中では目立ったはずなのに。
見間違いだろうとお母さんは言うけれど、それならどうして私に向かって微笑んだり手を振ったりするだろう。それも勘違いだとお母さんは言うのだろうけれど、お母さんは私の目が節穴だとでも思っているのだろうか。
それは、もっと小さい頃、出掛けた先でお母さんだと信じてついて行った人がいつの間にか別人になっていたということは、確かにあった。それで迷子になりかけたことが、まあ、一度ではなかったことも認める。だから、お母さんが私を疑うのも無理はないとも言えた。見間違い。人違い。どうやら私は注意力に欠けるところがあるらしい。でも、そんな経験くらい誰にでもあるだろう。私はそれがちょっと多かったのかもしれないけれど。そうは言っても、それは私がもっとずっと小さかった頃のことだ。私だって成長しているのだ。その子が死んだということは、私だって理解していた。さすがにもう、そんなことも分からないほど幼くはなかった。
でも、死んだはずの彼女を見て、何だ、まだいるじゃん、と思ったのは事実だ。私があまり頭の良い子ではないことも認めなければならないだろう。ただ、私が利口な人間ではないとしても、利口な人間ならばどれだけ死について的確な説明ができるというのだろう。
生きているか死んでいるかよりも、「いる」か「いない」か、「見える」か「見えない」かの方が、どれだけ真実だろう。
あの時の彼女の微笑みは、私の網膜だか脳味噌だか心の中だかに、今もまだ消えずに残っている。一方、一緒にいた男の人のことは、記憶に靄が掛かったかのように思い出すことができなかった。あの人は誰だったのだろう。確かに私の記憶力がそんなに優秀でないことは、自分でも認めざるを得ないけれど、あれほど印象的だったのにそんな簡単に忘れてしまうなんて、自分のことながら信じ難い。
そうは言っても、私のお粗末な記憶力では、いずれ時間が経つにつれてそんなことがあったことさえ忘れて、やがては記憶から消えてしまうのだろうと思っていた。
そう、もう一度その人と会うまでは――。
――その人はお母さんの枕元に立っていた。霞が掛かっていた私の記憶の底から一人の男の顔が急速に浮上し、それが昔見た男の人と同じ人物であることをはっきりと思い出した。
そして、男はお母さんを連れてどこかへ行ってしまった。
お祖父さんが、お母さんは死んだのだと言った。先の出来事があったおかげで私の死に対する理解はちょっと歪んでいて、その時は、でもまた戻ってくるんだろうと、漠然と思っていた。
けれど、何日たってもお母さんが戻ってくることはなく、あの日デパートで見た友達みたいに、もう一度私の前に現れて微笑んでくれることは、とうとうなかった。
あの子に掛けようとして飲み込んだのは、どんな言葉だったっけ。仲の良かった友達なのに、何度も一緒に遊んだのに、どうして私は言葉を飲み込んだのだろう。彼女は微笑んでくれたのに。だから、お母さんが戻ってきた時にはきっとちゃんとお話をしようと思っていたのに、その機会はもうないのだと理解するまでには、それなりの時間を要した。
私たち三人が暮らしていた家は決して大きくはなかったけれど、お祖父さんと二人きりになってしまった家の中は、無性に広くなったように思えた。
――そして男は、今度はお祖父さんの枕元に立っていた。
「おじいさんを連れて行かないで」
そう言うと、男は驚いたような、困ったような顔をした。
「おじいさんは行かなければならないんだよ」
男は言った。
「それなら私も連れて行って」
お祖父さんがどこに行かなければならないのか、どうして行かなければならないのか、もちろん私は分かっていた。だからこれは私のわがままだ。分かっている。けれど、たった一人でこの場所にしがみついている必要を、私は感じなかった。みんな私を残してどこかへ行ってしまう。これ以上取り残されるのは嫌だった。
わずか十二年ばかりの人生だけれど、私はこの世界の生き難さみたいなものを感じていた。そんなことを打ち明けでもしたら大人には笑われるのだろうけれど、大人だろうが子どもだろうが同じ世界に生きている以上は、大人が感じることを子どもが感じないなんていう道理はない。
私は周りのことを気にし過ぎるのだと先生から言われたことがあった。心の中を見透かされているような気がして酷く恥ずかしく感じたのを覚えている。それは私を気遣って言ってくれた言葉なのかもしれないけれど、実際には私を惨めな気分にさせただけだった。
私だって、もっと楽に生きられたらと思う。それこそ大人には鼻で笑われてしまうのかもしれないけれど、十二年という時間は決して短くはない。それだけの時間があれば、人生ってつまらない割に楽じゃないということくらいは分かる。もちろん辛いばかりじゃないというのも真実なんだろうけれど、楽しいばかりじゃないのも実際だろう。
子どものくせにと言われても、子どもだって色々考える。考えろ、と言うのは大人だ。色々考えるから、迷う。行き詰まる。疲れる。すべてを投げ出してしまいたい気分になることだってある。それでも私は、死んでしまいたいと思ったことはなかった。生きているのはそんなに面白くないし、面倒だと思うこともたくさんあるけれど、死んでしまったって何の解決にもならないだろう。
だから、男が自分は天使だと言った時も、ふうん、というくらいにしか思わなかった。私のそんな反応にも、男は戸惑ったみたいだった。だいたい彼の陰鬱な顔も、黒ずくめの姿も、私の中の天使像と重ならない。どちらかというと死神のイメージに近かった。スーツを着た死神というのも天使と同じくらい嘘くさいけれど。
スーツ姿の自称天使は、一緒には行けないのだと何度も説明するのに、私は何度も食い下がった。この春にはもう中学生になる予定だというのに、年甲斐もなく駄々をこねる私に男もたいそう困った様子で、とうとうお祖父さんを連れて行くのを諦めて帰って行った。
お祖父さんは浅い息をしていたけれど、目を覚ましはしなかった。私は一人でささやかな夕食を作って食べた。お祖父さんにも声は掛けたのだけれど、起きる気配がないので自分の分だけ作って食べた。
夕食の後片付けを済ませ、お祖父さんがいつも見ていたニュース番組を、見るでもなく流す。どこか外国で起きたテロ。紛争。いじめを苦に自殺した中学生。逃亡中の殺人犯。そんなニュースの後に、狙ってそうしているのか、不自然なくらいに平和な話題が差し込まれる。何とかいう映画が海外で賞を取っただとか、どこそこの町で行われているイベントが盛況だとか、どこかの動物園で珍しい動物の赤ちゃんが生まれただとか。
直前の殺伐としたニュースとの落差。これが同じ世界で起きていることだというのが、今ひとつピンと来ない。それは私の理解が足りていないせいなのか、番組の製作側が意図したことなのか。
番組がスポーツのコーナーに入って、私はテレビを消してお風呂に入った。それから歯磨きをして、お祖父さんにおやすみを言って、部屋に戻る。ベッドに横になって読みかけの本を読んだ。いつもなら集中力が途切れる頃だったけれど、残りのページも少なかったから最後まで読み切ってしまった。そして、いつもより早く部屋の電気を消した。
私には分かっていたのだ。
しばらくして、ベッドから身を起こす。
襖を開け、お祖父さんの部屋を覗く。
少し遅かったようだ。
そこには既にお祖父さんはいなかった。正確には、お祖父さんの中身は、か。
気に入りの赤いコートを着て、この春のために買ってもらった靴を履き、私は外に出る。
円い月が夜空にぽっかり浮かんでいた。
なんてふさわしい夜だろう。
自分のことを天使と言ったあの男は、一体どこへ行っただろう。
天使ならどこへ。
死神ならどこへ。
私の足は、死んだはずの友達を見た場所へと向かっていた。
でも、途中でふと私は思った。
――お祖父さんなら、どこへ行きたいだろう。
振り返ると、お祖父さんはそこにいた。
傍らには、黒いスーツ姿の背の高い男。
彼は困った顔をして立っていた。
それからお祖父さんを促すように、私へ背を向けた。
もうどこへ行くかなんて聞かない。一緒に連れて行ってとも。ただ黙ってついて行く。
男は振り返り、とても、本当に、これ以上ないくらい、困った顔をしていた。申し訳ないような気もしたけれど、私はそのままついて行く。
お祖父さんはそんな私を見て微笑んだ。
それがいつかの微笑みの記憶と重なって、「おじいさん」と私は呼び掛けていた。お祖父さんも私の名前を呼んだように見えた。
私は短い距離を、とととっ、と駆け寄る。
伸ばした腕がお祖父さんの身体をすり抜ける。
そのまま転びそうになる私の身体を受け止めてくれたのは、黒服の天使だった。
「仕方のない子だ」
苦り切った声。
街灯もまばらな暗い夜道を、私は二人の後にくっついて無言で歩いて行く。それは一方的な行為。私とは体格の違う男の歩みに私が苦もなくついて行けるのは、彼が私に気を使っているからではなく、傍らのおじいさんの歩調に合わせているからだろう。
お祖父さんは矍鑠とした人で、月に一、二回病院に通ってはいたけれど、まさか突然死んでしまうなんて、誰も思いもしなかった。もちろん私も。だからお祖父さんは体が悪くて足が遅いのではなく、ゆっくりと歩くのが好きな人なのだ。
こうしてずっと二人にくっついて旅をして行くのだと思うと、この夜が酷く長く感じられた。夜が明けるまであと何時間、私はどれだけ歩くのだろう。夜が明けても、まだ歩き続けているのだろうか。男が何も言わないのは、どうせ私には最後までついてくることができないと思っているからなのだろうか。
どこまででもついて行ってやるぞと、私は決意を新たにした。
一人は、寂しい。
だからみんなで集まって。仲間という枠を作って。友達という契約を交わして。そんなことがなぜだか急に煩わしくなって、気づかなくてもいいような周囲とのズレを覚えてしまって、無視すればいいようなそんなズレを抱えたまま、それでも枠から抜け出すのは気が引けて、そのせいでなおさら苦しみ、私は疲れてしまったのだった。
夜風がそよぐ。昼間は暖かくなっても、夜の空気はまだ冷たかった。気に入りの赤いコートの襟を掻き合わせる。それから空を見上げて、月ってこんなに明るかったんだと思った。
視線を戻し、前を歩く二つの背中を見て、少しだけほっとする。ちょっと目を離した隙に消えてしまったあの子のことが、脳裏をかすめていた。
少しだけ、二人との距離を詰めた。
夜はどこまでも続いている。どこまでも、どこまでも、どこにでも、視線を向ければ夜がいる。
男の黒い背中にも、夜は宿っているようだった。
お祖父さんの背中もなんだか色素が抜けて薄ぼんやりとし、夜が透けている。
私は心細くなる。私だけが、夜になじめないでいた。気に入りのコートの赤色も、今はふさわしくなかったかもしれないという気がする。
男は自分のことを天使だと言っていたけれど、その背中に翼は見えない。夜を宿した背中は、やっぱり死神のイメージの方がしっくりくる。
ふと、疑問が浮かんだ。
私の家にはお仏壇がある。でも私は、形だけはその前で手を合わせたりお線香を上げたりすることはあっても、そこに信仰心みたいなものはなかった。
私には信じる神様がいない。
そんな私に、この先どこへたどり着くことができるだろう。
だから、なのだろうか。
だから、彼は私のことを放っているのか。
やっぱり、私では最後までついて行くことができないのを、彼は知っているのだろうか。それで無視しているのだろうか。
こんなことなら、私もお祖父さんと一緒に毎日お仏壇にお線香をあげておくんだった。でも、お祖父さんは仏様にお祈りしていたわけじゃなくて、お祖母さんと話していただけか。まあ、いずれにしろ私よりは信心があることに変わりないだろう。
男はあれきり一度も振り返らない。
いつもならとっくに眠っているはずの時間。夜の空気の冷たさだけが、私の頭を冴えさせている。あとどれくらい、この夜は続くのだろう。
いつもなら夜という時間は眠りの時間で、それは無意識の海に身を任せていればいいだけの時間のはずだった。ひどく眠たい朝など、甘い微睡に後ろ髪を引かれ、そんな時にカーテンの隙間から眩しい朝日なんか差してくると、いっそもっと夜が続けばいいのにと思うこともあるというのに、早く明けて欲しいと思う時には、足を絡め取るように粘っこく引き留めようとするこの夜の、何と気味の悪いことだろう。
あんまり静かなのに耐えられなくなってきて、邪険にされないよう黙って歩こうと決めていたのに、男に声を掛けてみようかと迷った。この沈々とした空気を壊してはいけない気がしていた。それを破ってしまったら、夢の最中に他人に揺り起こされるように、この時間が、この世界が、壊れてしまいそうで、不安だった。
賑やかな葬列なんて、この国ではなじまない。だから、おしゃべりをしながら歩くなんて駄目だと思った。でも、このままでは二人においてけぼりを食いそうで、それもたまらなく不安だった私は、とうとう男の黒い背中に声を掛けてしまった。
「あなたは、飛べるんですか」
男はちらと私を振り返り、何も言わずにまた正面に向き直る。
無視された。
質問がうまくなかったか。話し掛ける内容は何でもよかったのだ。天使という割に翼が無いなと、その背中を見ていて思ったから、そう聞いてみただけだった。
しかし、どうやら男は私の質問を無視したわけではないらしかった。少し間があったものの、彼は正面を向いたままで答えた。
「君がいなければ」
どういう意味だか、私には分からなかった。
――私がいなかったら、飛べる?
どういうことだろう。納得いかなかったけれど、男はそれ以上説明してはくれなかった。
また静寂がやってくる。再び沈黙が場を支配する前に会話を続けるべきなのかどうか迷ったけれど、とりあえず話し掛ければ答えてくれるのだということが分かっただけでも収穫ではあった。ついて行くことを許してもらおうというつもりは毛頭なかったけれど、明確な拒絶を示されないのには、少しほっとする。
ただ、お祖父さんは、私と視線が合うと、気をつけないと分からないくらいの微笑を浮かべはするものの、何も話そうとはしなかった。なんだか不安だった。このままお祖父さんの存在が薄くなって、消えてしまうのではないか、と。
夜は暗い――。そんな当たり前のことが、こんなにも不安を搔き立てる。
そもそもこの黒ずくめの男、天使だというならもう少し神々しさみたいなものが感じられてもいいのに、そんなものはまるでなかった。彼が今からでも、実は天使ではなく死神なのだと告白したなら、すぐにも信じられるだろう。
それでも私はついて行くだろうか。思えば、いずれにしても私には天使や死神といったものの知識はほとんどなかった。本で読んだりしてなんとなく知ったような気になっているけれど、私が読むのは物語ばかりだから、きっと本当のことが書いてあるとは限らない。
ああ、いけない――。私はいったい何を否定しようとしている?
彼が死神だったら何だというのだろう。彼が天使だったらどうだというのだろう。私はどうして二人の後を追って来たのだ。安易な否定は安易な肯定と同じくらい簡単で、主義のない否定は主義のない肯定と同じくらい危険な行為に違いなかった。不安な気持ちに流されて彼のことを疑ってみたところで、それなら私は何を頼りにこの夜を歩いて行けばいいだろう。それは自分で自分の首を絞める行為だ。彼の正体が何であるかなんて、どうでもいいはずだった。
私は、自分が信じたいことを信じたいように信じる。信じたいことまで信じられなくなったら、私はどうしてこの世界に立っていられるだろう。
――だから私はこの世界にいられなくなったのではなかったか。
信じるのは勝手。裏切られるのも勝手。何も信じなければ裏切られることもないのかもしれないけれど、何も信じないなんて、何でも信じるよりも難しいことじゃないだろうか。だって、何も信じないということは、自分さえも信じないということだ。傷つきたくないから何も信じようとしない自分を、何も信じない自分はそんな自分のことさえも思慮する余裕もなく、無遠慮に傷つける。
これだから、生きて行くって面倒臭い。
こんなことをお母さんに言ったら、馬鹿にされたことだろう。お祖父さんに言っていたら、きっと心配させてしまったことだろう。
だからお祖父さんは、私がついてくるのを、悲しそうに微笑んで許してくれているのだろうか。お祖父さんには、私のこのくだらない悩みを見透かされているのだろうか。
お祖父さんには他人の心が読める、なんてことはないだろうけれど、時おり私の考えを言い当てることがあった。ひょっとしたら私自身よりも私のことをよく知っているのかもしれないとさえ思う。私という人間が、自分で思っているよりもずっと単純で分かりやすい人間だというだけのことかもしれないけれど。
それでもやっぱり、お祖父さんは不思議な人だった。ただ、今この時ほどお祖父さんのことを分からない人だと思ったことはない。
私は、お祖父さんに私のことをどう思っているのか聞いてみたくなった。でもそれは、男の黒い背中に話し掛けるより、ずっとためらわれた。
もうどれくらい歩いただろう。
またそんなことを考えている。
改めて周囲を見る。
暗い夜道。街灯も少なく、見知った風景ですら異界に見えてくる夜。
ここは、どこだろう。
自分の今いる場所が分からなくなる。前を歩く二人との、ほんの数歩だけ間を詰めればその背中に触れられる程のわずかな距離が、妙に遠く感じられる。
月は相変わらず煌々と夜空に浮かんでいるけれど、明かりとしては切れ掛かった街灯よりもなお心許なく感じられた。どんなに明るく見えたところで、それはやはり夜に属したものだった。
見慣れているはずの風景は、端から闇に侵食されているようで、まるでピノッキオの冒険に出てくる巨大なサメにでも呑み込まれてしまった気分だった。何でも呑み込む巨大な胃袋の中、世界は端から徐々に溶けて消えていく。無限のような檻は、やがて世界ごと私を消し去ってしまう。
同じ街でも昼と夜とでは違う顔を見せるように、自分が信じていたものも、皮一枚めくればたちまち見知らぬものになる。私はもう、私の知らない場所にいるのかもしれない。
いつの間に境界を越えてしまったのだろう、と思った矢先のことだった。
男は駅に入って行く。
「天使が電車を使うんですか」
「普通は、使わない」
やっぱり、私のせい、なんだ。
駅の中は静かだった。誰もいない構内。駅を利用する人の姿はもちろん、駅員さんの姿も見えない。あまり大きくはないこの駅の、この無性にがらんとした広さ。冷たい空気がひたひたと空間を満たしている。足音が遠くに吸い込まれていく。空間が永遠に広がって行くような錯覚。
当然ホームもがらんとしている。私たちの他に人の姿はない。こんな時間でも電車は運行しているのだろうか。普段から電車を使う習慣のない私には分からなかった。
きっと電車はもう来ない。それなのに、私たちは何を待っているのだろう。夜の風が頬を撫で、思わず身を震わせた。こんなことならマフラーと手袋も持ってくるんだった。
やがて夜の闇の向こうから電車のやってくる音が聞こえてきた。濃紺よりももう少し黒に近い、夜の闇を溶かし込んだような色の車体が近づいてくる。私は電車には詳しくないけれど、少なくともこの辺りでこんな電車が走っているのを見たことはない。
この電車に乗るのだろうか。本当に私が乗ってもいいものなのだろうか。ここに停車したからといって、それが客を乗せるためとは限らないのではないだろうか。でも、その扉は私たちの目の前で開き、天使は迷わず乗車した。お祖父さんもその後に続く。私も続かないわけにはいかなかった。
私が乗り込むと同時に扉が閉まり、発車の合図もなく、電車は走り出す。
お祖父さんを真ん中にして、三人並んで座席に着いた。やっぱり会話はなかった。窓の外は暗く、まばらな街の明かりが見えるばかり。退屈な景色だった。変化に乏しい景色を眺めてじっと電車に身を揺られていると、ついうとうとしてしまう。いつもならきっともう夢の中にいるはずの時間だった。
暖房は入っていないのか、車内の空気も外の空気とさほど変わらないくらいにひんやりとしていた。じっとしているせいか、外を歩いていた時よりも寒く感じる。
行儀が悪いとは思ったけれど、私は靴を脱ぎ、その足を座席の上に乗せ、膝を胸に引き寄せて、自分の体温で自分を温めるように、丸くなった。
そこに自称天使の腕がお祖父さんの膝を跨いで伸びてくる。行儀の悪さを咎められるのかと思ったら、男は自分の真っ黒なスーツの上着を、私の膝に掛けてくれたのだった。
「……ありがとう」
それは私には意外だった行為で、お礼の言葉を言うのに少し時間がかかってしまった。
「あなたは、寒くないの?」
男は黙って首を横に振った。口には出さなかったけれど、自分は天使だから、とでもいうようだった。ともあれ私は、素直に天使の厚意を受け取ることにした。
薄っぺらな布一枚。どうしてこんなに暖かいんだろう。
再び訪れた沈黙。暗い窓に映った自分の顔を眺めながら、お尻に伝わってくる揺れをただじっと感じていた。そうしていると、だんだん眠くなってくる。眠くなってしまう。眠ってしまったら、駄目なのかな……。
うとうとと、眠気が忍び寄ってくる。
うとうとと。うとうとと……。
私ははっと目を覚ます。いつの間にか意識が飛んでいた。それはほんの一瞬か、それとも数分? 一時間? いや、そんなに経ってはいないだろう、きっと。
眠い目を擦っていた私は、はっとしてすぐに隣の席に視線を向けた。
そこにいたはずの二人の姿がない。どこへ行ったのだろう。まさか、もう降りてしまった?
二人に私を待つ理由はない。
お祖父さんの方は私を放っては行かないかもしれないけれど、男の方は違うだろう。そして最終的にお祖父さんはあの男に逆らうことはできないだろう。男は私のことを疎ましく思っているはずだから、私が眠りに落ちたのをいいことに、急いで姿を隠してしまったのかもしれない。
ともかく、まずは車内を探してみることだ。まだ二人が電車を降りたと決まったわけじゃない。そんなに深く眠っていたわけではないのだし、電車が停車したりすれば、私だってさすがに気づいただろう。だから二人はまだ車内にいるのだと、信じるしかない。
席を立つと、膝に掛けていた黒いスーツの上着がぱさりと落ちた。あの人が掛けてくれたもの。私はそれを拾い上げて、埃を払った。これだって返さなくちゃならないのだ。
隣の車両に行ってみる。誰もいない。空っぽの車両を通り抜けて、もう一つ先の車両へ。
開いた扉に手を掛けたまま、私は動きを止める。
そこには首をひねって窓の外を見ている少年の姿があった。
歳は私と同じくらいだろうか。少し小柄で、褐色の肌に縮れた髪をしていた。じっと外を見ているけれど、この黒いばかりの景色の中に、何か見えるのだろうか。
「お前、この列車がどこへ行くか知ってるのか」
私たちの他に乗客がいるとは思わず、しばらくぼけっとしてしまった。
ひねっていた首をこちらに向け、少年が不審そうな視線を向けてくる。私は慌てて頷いた。
「本当に分かってんのか」
どうしてそんなことを聞くのだろう。
「分かってんのにそんなとぼけた顔してこんなとこにいられんだ?」
少し控えめに頷く。
自信がなくなる。
分かっている?
私は本当に分かっている?
何を?
「俺はこんな列車、降りてやる。絶対に、降りてやる」
少年の言葉に、ヅクヅクと胸が疼いた。
熱だ。
この人は熱を持っているんだ。
熱い――。
私は突然、自分がそういう熱のない、冷めた人間、冷たい人間なのだと自覚した。
「お前、死にたいワケ?」
私は勢い良く左右に首を振った。何を言い出すのだろう。
「行き先を知った上でそんなのんきな顔してられるっていうのはさ、そういうことなんじゃないの」
私は、死にたいわけじゃない。そんなことは、思ったこともない。
「あんまり生きたいって顔してないよな」
それは確かにそうだった。私には彼のようなそういう熱が、あんまりない。でも、それは私だけじゃないと思う。死にたいなんて思わなくても、生きることに熱心でない人なら私の他にもきっとたくさんいるだろうと思う。
「生きる気がないなら、死ぬしかないだろ」
生の反対は、死――。生きていないなら、死んでいる?
「まあ、いいけどさ」
俺は降りるぞ、少年はもう一度言った。
熱いな、眩しいな、と思う。
「別に他人の生き方に口出しするつもりはないけどさ、俺、ちゃんと生きようとしないヤツっていうか、生きることに対して真剣じゃないヤツって、見ててイライラするんだよな」
口出しするつもりはないって、その言い方は、私に「お前イライラするんだよ」と言っているのと同じではないだろうか。
「生きる気ないんなら、その命、俺によこせよって思う」
ああ、この人は生きるのに一生懸命だ。生きることに貪欲だ。
生きているのと生きようとするのとは、同じではないのだ。
私は、これ以上この子と一緒にいてはいけないような気がした。
「私、人を探しているの。私のおじいさんと、黒いスーツ着た天使なんだけど」
「天使?」
少年は眉根を寄せ、それから馬鹿にするような調子で答えた。
「天使はまだ見てないな」
「でも、天使には見えないの。どちらかというと死神みたいなの。そもそも本当に天使なのかどうかも怪しいんだけど、本人はそう言ってるの。でも、私は信じてないの」
「なんだそれ」
鼻で笑われた。でも、本当のことなのだ。まあ、そんなことはこの際どうでもよくて、二人がこの車両を通っていたのなら少年が気づかないはずはないだろう。
「見てないのね」
少年は頷いた。それなら、ここから先の車両には行っていないのだろう。ならば、戻ろう。今度は前の方の車両を見てみよう。
「ありがとう」
そう言って立ち去ろうとする私を、少年が呼びとめた。どこか戸惑ったような表情に私が首を傾げると、少年は何となく決まりが悪そうな調子で言った。
「どうしてありがとうなんて言うんだ」
だって、それは普通のことではないだろうか。言うべきだから言っただけだ。あえて答えるなら、二人を見なかったかという質問に答えてくれたから、だろうか。
「俺、見てないのに。何も教えてない相手に、別に礼なんて言う必要ないだろ」
「そうかな。ありがとうくらい言ってもいいと思うけど。それに、何も教わってないことはないよ。見てないって、知らないって、教えてくれたよ」
少年はなんだか真っ直ぐ私の目を見ようとしない。席から立って、靴の爪先をトントンする。踵がぺたんこに潰れている。注意しようかとも思ったけれど、やめておいた。靴が小さくて仕方なくそうしているように見えたから。
「一緒に探すよ。アンタが嫌じゃないなら」
「別に嫌じゃないけど……」
「本当に天使がいるのなら、俺も会って話してみたいし」
あの天使はあんまりおしゃべりの相手には向かないと思う。それでも会ってみたいというなら、別に私が止めることではなかった。
――それは私が決めることか?
でも、どうして私に少年の行動を止める権利があるだろう。
私が嫌じゃないのなら、と言ってはくれたけれど、だからといって断れるものではない。どちらにしろ、少年が勝手に天使を探すのは、止められないのだ。
少年に天使のことを話したのは軽率だったかな、とも思ったけれど、今更もう遅い。それに、今は少しだけ誰かに側にいてほしいような気分だった。
「じゃあ、行こう」
私の後についてくる少年をちらりと振り返って、何か会話をするべきだろうかと考える。会話をしていれば少しは気が紛れるかもしれない。でも、いったい何を話せばいいんだろう。自分のことで精一杯で、危うく少年の方から声を掛けてきていたのを無視するところだった。
「その天使は、アンタを迎えに来た天使なのか」
ぼうっとしていたせいで、答えるのに妙な間が空いてしまったけれど、慌てて否定した。
「おじいさんを探してるんだったな。じゃあ、迎えに来たのはそっちか」
私は何も言わなかった。別に私が頷かなくても自明のことだし、私が勝手に二人の後をつけてきたことを、なぜだか少年に説明したくはなかった。
「天使って、誰のところにも現れるわけじゃないのかな」
少年がぽつりと言う。ちらりと盗み見たその表情は、どこかほっとしたような、でもちょっと寂しげにも見えた。
何を期待しているの。
何に胸を痛めているの。
天使に会って、何を話したいの。
私はやっぱり少年に話し掛けることができない。何かが私をためらわせる。その何かは、はっきりしているような、漠然としているような――。ともかく、私と彼とは違うのだ。私たちの間には隔たりがある。そんなのは当たり前だ。彼と私とは、他人だった。
その隔たりを埋めることはできるだろうか。そうする必要はあるだろうか。私は別に彼と友達になりたいわけではなかった。彼の方はどう考えているのだろう。最初はとても友好的とは言えない態度だったのに、今はこうして一緒に二人を探そうとしてくれている。
分からない。私には他人の気持ちが分からない。誰かの考えていることが分かったら、どんなに良いだろう。そんなことができたら、どんなに嫌だろう。
それは知りたくないことまでも知ってしまうということだから。聞きたい言葉だけが聞こえるのでは、意味がない。だから、分からなくていい。分かろうとするくらいが丁度いいのだろう。
そんなことを考えてしまうからだろうか、考えるばかりで、いつも言葉が追いつかない。声を発することがためらわれる。私があまりおしゃべりでないのは、思考と言葉のバランスがうまく取れていないからなのだ。
思ったことをそのまま口にすれば角が立つ。上辺だけの言葉はどこにも届かない。言葉に限らず、私たちは色々なところでバランスを取らないと、上手に生きることができないのだ。
私は言葉だけじゃなく、色々と些細なところでバランスを崩してしまったのだろう。私は生き方が上手じゃなかったのだ。だからこんなに苦しいんだ。私がおじいさんたちの後について来た理由を知ったら、生きようとしないヤツを見るとイライラするんだと言った少年は、私のことをどう思うのだろう。それは正しく私に突き付けられた言葉だ。
――嫌だな。
一人の方が良かったなんて、今更ながらに思う。でも、そんなことは、言えない。どうして彼は私についてくるのだろう。私のことをどう思っているのだろう。私がどんなつもりで天使なんかと旅を共にしていると思っているのだろう。
私、私、私――、だ。私はいつも「私」ばっかり。自分勝手。今日は本当によく自分の身勝手さを実感させられる。
結局私は他人よりも自分が大事なのだ。誰かのことを考えながら、その先にあるのはいつだって自分。別におかしなことでも、いけないことでもなく、当たり前のことなのかもしれないけれど、それなのにこの後ろめたいような気持ちは何なのだろう。
二人はやっぱり席に戻ってはいなかった。なんだか気持ちがぐちゃぐちゃしていて、不安を抑えきれず、空っぽの席を見つめたまま、少年に問い掛ける。
「もし、天使がもう、この列車から降りていたら、どうする?」
手に持ったスーツの上着を、ぎゅっと握り締める。
なぜだか少年の顔を見ることができなかった。
「別に、どうもしないよ。俺は天使に連れて来られたわけじゃないもの」
それもそうだ。でも、私は違うのだ。私は困る。あの人がいなかったら、この先どうしたらいいのか分からない。私の旅は終わってしまう。
「あなたは、もうずっと一人でこの電車に乗っていたの」
話が途切れてしまうのが何だか妙に不安で、私は会話を続ける。そうすることで時間を引き延ばそうとするように。自分が置き去りにされたのだという事実を、どこかに押しやろうとするように。こんなところで時間を無駄にしているくらいなら早く二人を探した方がいいというのを分かっていて、ひとまず目の前の不安を遠ざけたくて、それだけで、不用意な質問をしてしまった。
「……そう、ずっと一人だ」
少年は答えた。ほんの少し喉を絞ったような、わずかにかすれた、低い声。
その問いがどんな意味を持つのかをろくに考えもせず、私は問いを重ねていた。
「いつから乗っているの」
「いつから……?」
「どこから乗っているの」
「どこ……から……?」
私は、ようやく今の状況を理解した。そして、そこで自分のした質問がどんな意味を持つのか、考える。
どうして、少年は言い淀む?
この少年は、もしかしたら、まだ……。
いや、まだ、ではなくて、もう……?
「俺は、もしかして、もう……」
弱々しい声。
そうだ。だって、この列車は、きっと――。
――銀河鉄道だ。
窓外を真っ黒な景色が流れて行く。その中に、点々と小さな星の瞬きが見える。どこかの街の明かりかもしれない。本当に星の明かりなのかもしれない。
そうだ、この列車は、私たちの魂を乗せて銀河の街々を渡り行く、銀河鉄道なのだ。確信めいた閃きが、私の脳を突き抜ける。
少年は、私には黒いばかりに見えた窓の外にも、ずっとこの星の瞬きを見ていたのだろうか。
「行こう」
呆然と立ち尽くした様子の少年を促し、次の車両へ。まだ二人の姿はなかった。
少年は何度も立ち止まりながら、私の後についてくる。さっきまでは少年の方が私の歩みに合わせてくれていたけれど、今度は私の方が彼の様子を気にして何度も振り返っていた。その眉間に深い皺が刻まれているのを、こっそりと見る。
「俺は、降りる。降りるぞ」
何度目かに立ち止まった少年は、突然吐き出すように宣言した。眉間に苦悩の皺を寄せたまま、興奮に小鼻を膨らませている。握り締めた拳はふるふると震えていた。
拳を開き、扉に手を掛ける。
開くはずがない。当たり前だ。開いたところで、電車は走っているのだ。走っている電車から飛び降りたりしたら、それこそ死んでしまう。
「やめて」
私はその腕をつかんだ。少年はそんなのはものともせずに、扉をこじ開けようとしている。開かないのに。開くはずがないのに。開いたって駄目なのに。
「やめて、お願い!」
私はしがみつくようにしてつかんだ少年の腕を、必死になって引っ張った。けれど、少年は私の力ではびくともしない。
それでも何とか少年をなだめようと、私にできるのは呼び掛けることだけだった。
「私と行こう。旅を続けよう。この旅が、意味のないものとは限らないよ」
どうして私はそんなことを言っただろう。
どうして私はこんなに必死なのだろう。
少年はガラスに映った自分の顔と睨み合い、やがて小さく頷いた。
歩き出した私の後ろを、少年がうつむいたままついてくる。この沈黙の中、彼は何を考えているのだろう。どんな気持ちでいるのだろう。もやもやした気分のまま、次の車両への扉を開く。
そこは今までの車両とはまるで様子が違っていた。
食堂車、だろうか。場違いな所に踏み込んでしまった、そんな気がした。
狭い空間に効率的に詰め込まれたイスやテーブルは、効率とはかけ離れた豪奢な意匠で、まるで高級レストラン。クラシック音楽でも聞こえてきそうな雰囲気だった。でも、実際には音楽どころか楽しげな会話のひとつもなく、料理が並べられたテーブルは一つだけ。他はすべて空席だった。飾り立てられた席も、主がいないと無性に寂しげに見える。
そのただ一つのテーブルには、天使と、お祖父さん。二人の手にはお酒の入ったグラスがあった。
二人の視線がこちらに向けられる。男の瞳は、相変わらず翳りの中に妙に幼げな雰囲気が隠れ、対するお祖父さんの瞳は、記憶の中の優しげな雰囲気は薄れ、なんだか虚ろな様子だった。
そのことはこれまでの道中で気づいていたのに、気づいていない振りをしていた。でも、この瞬間、はっきりと分かってしまった。もう、お祖父さんに残された時間はわずかなのだ。いや、本当はもう、時間なんて残っていないのだ。私が駄々をこねる子どもみたいにお祖父さんの袖を引っ張って、無理矢理ここに留めているだけだった。
「悪いけれど、君の分はないんだ」
私は何も言っていないのに、男はそう言った。そんなつもりはなかったのに、そう言われるとお腹が空いたような気もする。夕飯はちゃんと食べたのに。ちゃんと、という程のものでもなかったかもしれないけれど。夜はお腹が空くんだろうか。私はあまり徹夜というのをしたことがないから分からないけれど、いつもなら寝ているはずの時間に起きているというのは、余計にエネルギーを使うものなのかもしれない。
くう、とお腹が惨めな鳴き声を上げた。聞こえてしまっただろうか。私は頬が熱くなるのを感じながらお腹を押さえた。
「ケチくさいんだな、天使って」
少年が私の後ろからひょこっと出てきて、お皿の料理を手づかみでさらっていった。行儀の良い子だとは思っていなかったけれど、さすがにちょっと無作法なのではとハラハラする。
私の気も知らずに、少年は脂の付いた指をぺろぺろと舐めながら、もごもごとした口調で言った。
「アンタ、天使なんだろ」
男は溜息を吐いた。深い溜息だった。
「ねえ、この子も一緒に行っていい?」
私の問い掛けに、男は深刻そうな顔つきで首を横に振った。
そもそも彼は私がここにいることも認めていないのだ。わざわざ了承を得ようとするなんて、どうかしていた。私がそうして来たように、彼が勝手にそうすることを、誰に止めることができるだろう。
「お前も食えば?」
少年は私の前に料理の乗った皿を突き出した。
「だめだ」
自称天使の厳めしい声というのを、私はこの時に初めて聞いた。少年はおどけた調子で肩をすくめ、皿をテーブルの上に戻す。ついでにひょいと別の皿の料理をつまんで、口に運ぶ。男の口からまた溜息が漏れた。
「座席に戻っていてくれないか。片付けを済ませたら、私も行くから」
溜息を吐くのと同じような調子で、男は私の方を見ずに言った。こんな立派な食堂車なのに、後片付けを自分でやらなくちゃいけないなんてことがあるだろうか。テーブルの片付けなんて係の人がやってくれそうなものなのに。そう思って車内を見渡して、確かにこの列車には私たち以外の人はいないようだと思う。
「それなら、私も手伝う」
「いや、いいんだ」
男はすっかり板に付いた困り顔で、私を見た。何度となく彼にそんな顔をさせてきた私は、今度もやっぱり何だか小さな罪悪感を覚えて、今回は私が悪いことをしたわけではないのだけれど、だからこそ、私は頷いた。
「これ、ありがとう」
手に持っていた上着のことを思い出し、男に返す。彼の顔に淡い笑みが浮かんだように見えた。それはどこか寂しげな笑みだった。もっとも彼の顔にはいつでも憂いが滲んでいるように見えるのだけれど。
もと来た車両へ戻り、振り返ると、少年が男に呼び止められ、何か話している。向こうの車両の扉が、ぴしゃりと閉じられた。彼らと私の間を、扉が隔てる。私は馬鹿みたいに呆然としていた。
重たい金属が擦れるような、耳障りな音。何が起こったのか、すぐには分からなかった。私はまだ乗ってきた車両の扉を片手で押さえていた。私も、向こうの車両の二人も、その場から動いていないはずなのに、その距離がゆっくりと離れ始める。
車両の連結が外れたのだと、のろのろと理解する。私の脳味噌は恐ろしく緩慢な働きをしていた。隔たりはまだ小さい。今ならまだ、向こうの車両に飛び移ることができるだろう。ようやくそこまで思考しても、私の足は床から一ミリも離れない。
扉の向こうで少年が喚き、男が少年を諭しているような様子が見える。少年は制止を振り切って、勢いよく扉を開け、身を乗り出す。どうするつもりだろう。
男は少年の肩に掛けた手に力を込め、彼を振り向かせると、黙って首を左右に振った。二人はしばし見つめ合っていたかと思うと、不意に少年が男の手を振り払い、こちらの車両に飛び移ってきた。
その瞬間、私は悲鳴を上げていたと思う。
車両の間の距離は徐々に広がりつつあった。もう私では跳べる自信がない。でもそれは私の場合で、彼は危なげなく跳んだのに、何を思ったのか私は、少年を受け止めなくてはと思い、その着地点に立って手を伸ばしていた。
せめてあと一歩でも横にずれるなり後ろに下がるなりしていたら、少年も私の手をつかめたかもしれないのに、どうにも私の立った位置が悪過ぎて、少年も私に向かって手を伸ばしはしたものの、二人の手が触れることはなく、私たちは正面から衝突して、もつれるように倒れ込んだ。
「ごめん」
慌てたように頭を起こし、少年は言った。
「どうしてごめんなの?」
私が余計なことをしただけで、彼は何にも悪くなかったのに。なんだかおかしくなって、私たちは顔を見合わせて笑った。意味もなくそうした後、私は自分が置き去りにされた現実を思い出した。お祖父さん達を乗せた列車は、闇の中へと溶けて行き、私たちを乗せた車両は、ゆるゆるとスピードを落とし、やがて止まった。
天使は消えた。お祖父さんを連れて行ってしまった。
今や私を導いてくれるものは、どこへ続いているとも知れない線路だけだった。先へ行ってしまった二人に追いつくことは無理でも、この線路の行き着く先が同じであるなら、同じ場所へはたどり着けるはずだ。その果てしなくも思える道程を私の非力な足で歩いて行くことが現実的であるかどうかはともかく。
互いに掛ける言葉を持たず、私たちは並んでただただ闇に伸びる線路を見つめていた。夜気にさらされて冷えた身体をぶるりと震わせた時、ようやく少年が口を開いた。
「少し、休もうか」
扉を閉めようと、手を掛ける。でも、私は迷っていた。確かに、疲れてはいた。少し眠りたい。世界はまだ闇の中、朝は遠いのだ。起きている、ただそれだけで、体力は消耗する。そんなのは当たり前のことなのかもしれないけれど、私は今日、初めてそれを実感したのだった。
少年の言うように、少し休んだ方がいいのかもしれない。いまさら急いだところでどうなるものでもないし、これからどれほど続くかも分からない道程を思えば、無理はしない方がいい。休める時に休んでおくべきだ。
それでも、どうしても怖かった。もし、目を覚ました時に、少年まで消えてしまっていたら――。
不安だった。
私はか弱く、一人では何もできない。情けないけれど、それが事実だった。
「……行こう」
扉を閉めようとする少年の手をつかむ。声がかすれていた。
「行くって……」
「この線路をたどって行くの。行ける所まで行くの」
「でも、暗くて、危ないよ」
少年は私を気遣ってくれていた。そんなことは分かっている。でも、私はどうしようもなく身勝手で、小心者だった。今は何よりも、立ち止まることが怖い。怖いのだ。不安でたまらない。
「暗いから、行くの。夜が明けてもそこに線路があり続けるとは限らないんだよ」
そうだ。今ここで眠ってしまって、夜が明けて、消えてしまうのは、少年だけではないかもしれない。列車も、線路も、朝の光に溶けて消えてしまうかもしれない。全ては私の見ていた夢だったなんて、そんな結末は嫌だった。
「行くの。進むのよ」
「……わかった」
私の目茶苦茶な論理に、少年は頷いた。私の主張に納得してくれたのかどうかは分からない。いや、納得なんてできないだろう。それでも彼は頷いたのだった。多分、私が一緒に行こうと言ったから。彼もそう決めたから。誰かの人生に自分が関わっているのだという実感は、何だか胸がむずむずして落ち着かなかった。
停止した車両から飛び降りる。普段はホームから乗り降りをするから気にしたこともなかったけれど、電車というのは意外と背が高いのだと気づく。気にしていなければ気がつかないことというのは、思いの外たくさんあるようだった。
線路の上は歩きにくい。歩くようにつくられてはいないのだから、当然だ。だからといってあまり線路から離れてしまうと、道を見失ってしまいそうで怖かった。私たちはどうしてもこの道を見失うわけにはいかない。その不安から、線路の上を離れられなかった。
私がじゃりじゃりと敷石を鳴らして歩くのに対して、少年の足音はずっと静かだった。この細いレールの上を、踏み外しもせずに歩いているらしい。不意に本当に少年がついて来ているのか不安になった。彼は私のせいで電車から飛び降りて、私のせいでこんな足元もよく見えない中、こんな歩き難いところを歩かされているのだ。
後ろめたいような気分でしばらくは無言で歩いていたものの、ちょっと心細くなってしまったのかもしれない。その存在を確かめたくなって、後ろをついて来ているはずの少年に声を掛けた。
「ねえ、どうして私と残ったの」
「俺は、もともとあの列車を降りるつもりだったんだ」
私のためじゃない。そう思うと、少しだけ気が楽になった。私には、誰の人生にも責任を持てないから。向こうも分かっていて言ったのだろう。私はついその優しさに甘えてしまう。
結局それ以上の会話が続くこともなかった。
どこまでも続く暗闇の中、チカチカと瞬く明かりがあった。駅だ。改札と待合室だけみたいな小さな駅。ホームに一本だけ電灯が立っている。それが切れかけて瞬いているのだった。
まるで闇の中にぽっかりと浮かんだ島のようだ。ホームの端に腰かけて、足をぶらぶらさせている女の子の存在に気づく。
明滅する電灯の明かりに浮かび上がるのは、やけに細い手足に、しっとりと水気を帯びた長い髪の、同年代くらいの少女。相手が年齢の近い少女だったからといって安心できるものではないけれど、少しだけ気が緩んだのは確かだ。私たちは人に咎められても仕方がないようなことをしていた。子どもがこんな時間にというのもそうだし、線路の上を歩いているというのもまずい。けれど、私たちが咎められるのなら、彼女も同罪のはずだった。
何事もなく行き過ぎることができるのを期待しながら、いざとなったらいつでも走り出せるように体中に緊張をみなぎらせ、精いっぱい平静を装って、行き過ぎようとする。なのに、彼女は声を掛けてきた。
ああ、声を掛けられてしまった。関わりたくないなら無視すればいいのに、本当ならその瞬間に駆け出す準備をしていたはずなのに、その奇妙な問い掛けに、思わず足を止めてしまった。
「ねえ、私はまだ、生きている?」
その顔立ちはきっと整っていると言える方だろう。しかし、痩せこけた頬や、目の下の隈、不健康そうな顔色などのせいで、あんまり美人には見えなかった。
「コンクリートって冷たいんだねえ。お尻が冷えちゃったよ」
そう言って少女は、ぴょん、とホームを飛び降り、ちょっとふらつきながら私の前に立った。膝に手をついて、私の顔を覗き込む。何となく嫌な感じがした。
「あなたたち、何をしているの」
「あなたこそ、何をしているの」
私は精一杯に虚勢を張って反問した。
「電車を、待っていたんだ。でも、止まらずに行ってしまった。私がいるのに気づかなかったのかな」
お祖父さんたちを乗せた電車だろうか。
「私を迎えに来たのかと思ったのに、違ったかな」
「お前、それがどんなモノだかわかってて言ってんのか」
「そのつもりだけど」
「俺、こいつキライだ」
「君はそうかもね」
青白い顔の少女は表情が読み難かった。細い顎、こけた頬。きっと表情をつくる筋肉まで削げ落ちてしまっているんだ。
「でも、あなたは違うよね」
彼女は私の耳元へ顔を寄せて囁く。こめかみに触れる息に、背筋がぞわりとした。私が退こうとする前に、彼女はふっと体を離す。
「ねえ、私も一緒に行っていいかな」
「俺はイヤだ」
すぐさま少年は反応したけれど、私には何も言えなかった。だってそれは、私が許可することではないから。少年が何か言いたそうに私を見ても、勝手についてくるものはどうしようもない。私たちだってそうなんだから。
少年のむっつりした顔には気づかない振りをして、先に歩き出した少女の後について行く。後をついて行くつもりではなくても、道が一緒なのだから仕方がない。彼女の後について行くのがどうしても嫌なら自分が先頭に立てばいいのに、少年はそうしない。
「ところで、君たち二人はどういう関係なの」
そんなことを聞かれても困る。何と説明したらいいのだろう。
「たまたま一緒になっただけ……」
私は結局そう答えた。ちらと見た少年の顔は、やっぱり不機嫌そうだった。彼は彼女と会話する気がないのだろう、まるでそっぽを向いている。
「どうしてそんなこと聞くの」
「だって気になるよ。変わった組み合わせだもの」
「そういうこと聞くの、失礼だって思わないのか」
俺たちと一緒に行こうというなら分かるだろ、と少年の厳しい声。詮索するな、と。
「それは申し訳なかったね」
まるで感情のこもっていない声。なんというか、表情のない声、感情の表現の仕方を知らないみたいな、知らないというか、教科書を音読するような感じ、ただ読んでいるだけ、声にしているだけ、というような。
ここまでどんなに大変な思いをしてきたのかも、彼女は知らないのだ。ここまで来るのにどれだけ歩いたか。それでも彼女は一緒に来るつもりなのだろうか。
空にはまばらに星。青白い月の明かりは、私たちの行く先を照らし出してはくれない。この夜は今、まだ深まっている最中なのだろうか。それとも、もう明けていく中途なのだろうか。この夜はいつまで続くのか。このままずっと明けない夜を旅する不安と、いっそこのまま夜がいつまでも続けばいいのにという希望がないまぜになっている。
私はうつむいてひたすら線路をたどるのに没頭していた。どこまで行くのかとか、どれくらい時間が経ったかとかいうことは、努めて考えないようにしていた。
前を歩く少女は、ふらふらしながらレールの上を歩いている。そのせいか、少年はレールの上を歩くのをやめ、敷石をジャラジャラと音を立てて踏んでいた。きっと本当はあの子を追い抜いて行きたいのだろうに、私に気を使っているのか、なぜかずっと私の後をついてくる。二人の間に立つ私は、なんだかシーソーの真ん中でバランスを取ろうとしているみたいで落ち着かなかった。別にそんなことする必要ないのにと思いながら、なんとなくそうしてしまう。些細なことなのに、私はまた自分が嫌になってしまう。
ずぶずぶと闇の中に沈んで行ってしまいそうな気分。ジャラジャラという足音と、フラフラと揺れる影が、なんとなく私をここに留めているような気がする。
急に暗さが増したような気がして、うつむけていた顔を上げると、いつの間にか私たちは森の中にいた。木々は葉を落とし、枝の間から星がまばらに見えている。寒々とした寂しい景色。葉が茂っていれば、わずかな星明かりさえも遮っていただろう。そう考えれば、このあんまり寂しい景色もまだましだったと思えるか。
けれど、その木々が落とした葉が足元の線路を覆っているのが気になった。お祖父さん達を乗せた電車がここを通ったのなら、これはその後に積もったものということになるのではないだろうか。
もう一度、頭上を見上げる。まだ葉を落としきっていない枝も多い。もしあれがみんな落ちてきて完全に線路を覆い隠してしまったらと思うと、気が気ではなかった。そうなったら、私たちはこの先へと進むための唯一の道を失ってしまうことになる。
落ち葉の下の線路を探りながら歩く。今はまだそれほど苦ではないけれど、確実に進むペースは落ちていた。本当にこんな森の中を電車が通って行ったのだろうか。少女は私と同じように時々枝の間から見える夜空に視線を向けたり、森の奥の闇に目を凝らしたりしている。少年は森の中にわだかまった闇に油断のない視線を向けている。
「なあ、何か……」
少年が言いかけた言葉を飲み込む。実を言うと、私も気づいていた。気のせいだと思いたかったけれど、私にもその声は聞こえていた。
闇の中から、獣の唸り声みたいなものが。
きっと私がすっかり不安に囚われてしまっているせいだと思っていたのだけれど、彼にも聞こえているとなると、やっぱり気のせいではないのだろうか。それとも彼が気づいたのは、私とは別のものなのだろうか。途中で言葉にするのをやめたので分からないけれど、それならそれで不安材料が増えるだけだった。
辺りを警戒するように忙しなく視線を周囲に向ける少年に対して、私はうっかりその闇の中に獣の光る眼を見つけてしまうのが怖くて、なるべく森の中には目を向けず、うつむいて線路を探るのに神経を集中させていた。
だんだん闇が深まって行くような気がする。もうそれが実際なのか気のせいなのかも分からない。闇の中に牙をむき出しにした獣が潜んでいるのだと思うと、足が震えた。
「やっぱり、何か、いる」
少年にももうそれを気のせいにすることはできなかったのだろう。
「だいじょうぶ。道を外れなければ、襲われたりはしないよ」
そう告げたのは、少女だった。
「どうしてそんなことが分かるの」
飢えた獣がそんなルールを持っているとは思えなかった。彼らが飢えているのかどうか、実際のところ私には分からないけれど。
「聞いたんだ」
「聞いた? 誰に?」
少年の訝る声。
「私は多分、昔にもここに来たことがあるんだ。その時は、向かう方向が逆だったけれどね。その時、一緒にいた誰かが言っていたような気がする」
「だから、その誰かって誰なんだよ」
「よく思い出せないけど……、この場所でそれを教えてくれたということは、そういう何かなんだろうね」
要領を得ない答えに少年が何か言うかと思ったのに、彼はそれ以上追及しなかった。しばし沈黙が続いた後、少女が口を開いた。
「私には弟がいたんだ。でも、あの子は戻ってこなかった」
その時、森の奥から遠吠えが聞こえて、私は思わず首を竦めた。周囲に視線をさ迷わせる。けれど少女はそんなことを気にもしていない様子で、のんきに問いかけてくる。
「君たち、家族は?」
私はそれどころではなかった。どうして彼女が平然としていられるのか分からない。彼女には本当に感情というものがないのではないかと疑いたくなる。
「ウチは父親と二人だけ」
この人の神経はどうなっているのだろう。しきりに周囲を気にしている私の姿を見て、ようやくこちらの恐怖が伝わったらしい。
「そんなに怯えなくても、襲ってこないってば」
こんな状況が初めての私には、そんなことを言われても安心できるものではなかった。
「少し話でもしていた方が気も紛れると思うけどな」
まさか、私の不安を察して気を紛らわせようとしてくれていたのだろうか。でも今は、気を紛らわすよりも気を張っていなければならない場面じゃないだろうか。
で、どうなの、などと無神経に問いかけてくるあたり、やはり他人の心配をするような性格ではなさそうだと思い直す。そんな彼女の態度に、詮索するなと言っただろうと、少年がいらだった調子で言う。
「そうだね、ごめん。それで、君は、兄弟はいるの」
「うるさい。聞くな」
「両親は?」
「いない」
「そう。兄弟は何人いるの」
「うるさい」
少年がますますいらだっていくのに気づいていないはずはないだろうに、どうしてそんなことを聞くのだろう。私はこのまま険悪な雰囲気に飲み込まれてしまうのが耐えられなくて、何とかこの場をとりなそうと試みた。
「私は、兄弟はいないの。お母さんが亡くなってしまってからはおじいさんと二人暮らしだったけど、そのおじいさんも今日、天使に連れられて行ってしまったから、私はその後を追いかけてきたの」
進んでしたい話ではなかったけれど、それでこの場がごまかせるならよしとしよう。
「ああ、やっぱり。私たちは似ているって、直感があったんだ。お父さんはどうしたの」
「パパは……、あっ」
つい、パパ、と口にしてしまって、瞬間的に頬が熱くなった。
「あの、今のは違うの」
焦って否定しようとして、なんだか見苦しいことをしているような気がした。
「何が?」
彼女は気にしていないようだけれど、私は中学生になろうという年齢で両親のことを、パパ、ママ、と呼んでいるのだとは思われたくなかった。確かに、大人になってもパパ・ママ呼びの人もいるし、それを非難するつもりもないのだけれど、私は違うのだ。言い訳がましく聞こえるだろうけれど、私はお母さんのことをママとは呼ばない。パパがパパなのは、私なりの理由があった。
いや、そんなことを他人に説明してどうする。どうしてそんな話をする気になったのか分からない。見苦しくも言い訳をするように、気がついた時にはもう口が動いていた。
「お父さんは、私が小さい頃にお母さんと離婚したの」
それから何年も会わずにいたのが、お母さんのお葬式の時にひさしぶりに会った。パパは私を引き取ると言ったけれど、私はお祖父さんと暮らすことを選んだ。ほとんど会話もしなかった。いつでも頼るようにと渡された連絡先のメモは、今も机の引き出しの奥にしまってある。連絡は一度もしていない。
「まあ、今どき珍しい話でもないよね。理由はいろいろなんだろうけど。ウチの両親が別れたのは、まあ、弟が死んだのがきっかけだったろうね」
「私は、どうしてパ……」
またパパと言いそうになって、言い直す。
「どうしてお父さんとお母さんが別れたのかなんて、知らない」
お母さんはパパのことが嫌いになったのかもしれないけれど、私はパパのことが嫌いになったわけじゃなかった。それは今でも変わらない。パパとお母さんは別れたのだとしても、それで私がパパの子でなくなるわけでもなかった。
私はパパのことが好きだった。多分そうだと思う。パパとの思い出の中の私は、いつも笑顔だから。お別れの時、パパは私を抱き締めた。何の変哲もない愛情表現。
その瞬間から、私の中のパパの時間は止まっていた。
私はパパのことを恨んだりはしなかった。当時はよく理解していなかったのかもしれない。でも、今でも私は、パパのこともお母さんのことも責めたりするつもりはなかった。
お母さんのお葬式の時、パパとほとんど話をしなかったのは、思い出の中のパパが壊れてしまうのが嫌だったのかもしれないと、今になって思う。私はパパのことを好きなわけではなく、パパのことを嫌いになりたくないだけなのかもしれなかった。
私の中で時が止まってしまったパパ。時間が止まってしまっているから、呼び方も変わらない。私はその時を再び動かすのが怖かった。パパのことだけではなく、そういう色々から、私は逃げて、逃げて、とうとうこんなところまで来てしまったのだ。
「君の家族は、もうお父さんだけなんだ」
そう言われてみて、ああ、そうなのか、と思った。でも、私はパパのことを嫌ってはないけれど、もう一度パパと家族をする気にはなれなかった。
「私ももう、母親だけになっちゃうな」
あれ? 確かさっき、父親と二人暮らしだと言っていなかっただろうか。
私が問う前に、彼女は言った。
「私の父さんも、死んだんだよ」
彼女も一緒に暮らしていた唯一の家族を失った? もしかして彼女も、私がお祖父さんを追ってきたのと同じような理由でここにいるのだろうか。私たちは似ていると、彼女は言った。こうなると、確かにそうなのかもしれないという気がしてくる。
まさか彼も、と思って、少年の方を見る。私たちは何の理由もなく一緒にいるわけではなく、何か見えない力に引き寄せられたのではないかなんて考えるのは、いくらなんでも考え過ぎだろうか。
少年は何も語ろうとしなかった。かたくなに自分のことを話そうとしないのには何か理由があるのだろうか。
「死んだ弟のことだけどね――」
少女は私たちの反応など気にしていない様子で話し続ける。
「――私が殺したんだと言ったら、信じる?」
相変わらずの表情のない言葉に、彼女の意図を図りかねる。
ちょうど少年の方に顔を向けていた私は、彼が弾かれたように顔を上げるのを見た。それで、もし彼女が言ったことが本当だとしたら衝撃的な告白だと、じんわりと理解した。
私には兄弟がいないから、兄弟を亡くすという感覚を本当には知ることはできない。彼女はどんな気持ちでこんな話をするのだろう。少年は彼女の言葉に何を思ったのだろう。
「私はあんまり面倒見の良い姉じゃなかったけれど、別に弟のことを嫌いだったわけじゃないんだ。嫌いだなんて思ったことは一度もない……、なんてことはないかな。やっぱり兄弟ってさ、邪魔だなっていうか、面倒だとか、煩わしいとか思うことは、あるんだよね」
私はすっかり獣のことを忘れていることに気がついた。そのために彼女がこんな話を始めたのなら、その効果はあったと言えるだろう。でも、今はまた別の恐怖が込み上げてきていた。
目の前にいる少女は、人殺しなのだろうか。それも、自分の弟を殺した? とても信じられなかった。でも、どうして私にその真偽が分かるだろう。彼女はどうしてこんな話を始めたのだろう。
「弟が生きていた時は、アイツがいなくちゃ家族がまとまらないなんて思ったことはないのに、いなくなった途端、ネジが外れたみたいに家族はバラバラ。おかしなもんだね」
やっぱり彼女は、周りの反応なんて気にする様子もなく話し続ける。
「弟が死んだ時、父親はかなりショックを受けていたみたいだけど、私は自分の感情を持てあましていたっていうか、弟の死をどう受け止めればいいのか分からなかった。正直、あの時、私は本当に悲しかったのかどうか、今でもよく分からないんだ」
だって涙も出なかった、と彼女は言った。
あ、と私は声を上げそうになった。
その感覚は、私にもよく分かったから。
私は気づいてしまった。私には、悲しくて涙を流した記憶がないのだ。
悲しいことなんていくらでもある。悲しい、私は悲しんでいる、と思う。でも、涙が出ない。お母さんが亡くなった時も、私は悲しかった。でも、やっぱり涙は出なかった。私は、本当に悲しいのか分からなくなる。
それは、私がちゃんとお母さんの死を理解できていなかったからかもしれないけれど、今になって思うのだ、あの時、悲しみの涙を流せていたら、もっとちゃんとお母さんの死を受け入れることができていたんじゃないかと。
涙を流すだけが悲しみの表現ではないかもしれないけれど、そういうことではないのだ。私が、悲しんでいる、たぶん悲しんでいるんだと思う、という時、そうだよ、それが悲しいということなんだよと、教えてくれる人はいなかった。それが本当に悲しいという感情なのかどうか、私には正解が分からないのだ。だから私には、涙の流し方が分からない。
何だか自分が欠陥品のように思えてしまう。
「何だか自分が欠陥品のような気がしたよ」
少女の言葉が私の気持ちと重なった。
「今でも私は自分が欠陥品だと思ってる。自覚してるんだ。足りないんだよ、私は」
私たちは確かに似ているのかもしれない。それでも、私には彼女が理解できなかった。
「死んだ弟の顔を見た時、その死と自分を比較して、そうか、私は生きているのかと、何となく思ったのを、おぼろげに覚えてるんだ」
生の反対は死。死の反対は生。
――私はまだ生きている?
少女の言葉を思い出す。それは、確かめなくちゃ分からないこと?
ふと冷静になって、もし本当に彼女が自分の弟を手にかけたのなら、悲しいなんて思わないのが当然じゃないかと気がついた。だから、やっぱりそんなのは嘘なんだろう。どうしてそんな嘘を吐くのかは分からないけれど。
「弟が死んでから少しして、母親は家を出ていった。それからしばらくは連絡もなかったけど、弟の法事で久しぶりに顔を合わせた。当たり前のように涙を流しているのを見て、殺してやろうかと思ったね。自分には母親として悲しむ権利があると言わんばかりに泣いて、そのくせ父親や親戚にはまるで他人みたいに挨拶して、お悔やみ申し上げるなんて言うんだ。あれ以来母親とは会ってない。あれが本当に私の母親だったのか、今では時々疑問に思うんだ。何だか私の知ってる母親とは違う人のように思えて」
そんなことを言いながらも言葉に感情がこもっていないのが、余計に不気味だった。
「私はね、時々思うんだ。私が死んだら、あの人は私の葬式にも来るのかな。その時あの人はどんな顔をするんだろう。弟が死んだ時みたいに、私が死んでも同じように泣くのかな。あの人のところにも父親の訃報は届くのかな、訃報を受け取ったら、あの人は私に会いに来るだろうか。その時、どんな顔をして会いに来るつもりかな。昔の夫の死に顔を見ても、涙を流すんだろうか。……私はね、きっと、あの人が憎いんだ」
どうやら私たちの境遇は確かに似てはいるらしい。けれど、私は彼女のようにパパのことを憎いと思ったことはなかった。その機会がなかっただけかもしれないし、私が幼過ぎただけかもしれない。それでも、私は彼女のように考えたくはなかった。
「裏とか表とか、嘘とか本当とか、そういうことを考えてしまうと、私が今見ているのはどっち? 私が今感じているのは? この世界は裏? 表? 今ここにいる私は、嘘? 本当? わからなくなるんだ。だから私は、確かめたくなる」
少女が立ち止まる。
「私のこの手にはね、生命の熱が失われていく感覚がまだ残っていて、消えないんだ」
彼女は祈るみたいに顔の前で両手を合わせる。ほう、と息を吐き、天を仰ぐ。
「ねえ、どうすれば自分が生きているってことを証明できると思う?」
生きていることに証明なんて必要だろうか。
「死を感じることができれば、私は生きている、そうでしょう?」
彼女の視線から、私は思わず顔を逸らしてしまった。もしかして、同意してほしかった? ただでさえ暗くて互いの顔もよく見えない上に、そもそも感情に乏しい少女の顔が、何やら悲しげに見えたのだった。
「例えば」
す、と彼女は腕を上げる。その指先が、すす、と伸びて、私の首筋に触れた。
「こうして」
冷たい指先。瞬間、触れられただけなのに息が苦しくなったように思った。逃れようと首をよじると、その手が首に絡みついてくる。伸びた爪がかすかに食い込む。
「やめろ!」
絞り出すような声が背後から飛んだ。
「例えば、だよ」
撫でるようにして少女の手が離れていく。首筋がぞわぞわして、肌が粟立つ。首を絞められていたわけでもないのに呼吸が止まっていたことに気づく。少女の手が離れてもまだ気持ち悪かったけれど、それでもようやく息ができた気がした。
少女は引き上げた指先で自分の唇に触れ、うねるようにその手を喉へと這わせ、ぐっとつかむと、呻くような声で言う。
「呼吸が止まって」
手を緩め、すすす、と胸元に手を当て、ぐっと押さえると、目を閉じ、息を止める。一度大きく息を吸ってから、囁くような声で言う。
「心臓が止まって」
ゆっくりと、長い息を吐く。息を吐き切り、うつむけていた顔を上げると、感情を感じさせない淡々とした調子で言う。
「私の手の中で、命の熱が消えていくのを感じるなら」
心臓がきゅうっと音を立てて縮まって、私は服の胸元をぎゅうっとつかんだ。
「そしたら、私は生きているってことだよね」
ほんのわずか、少女の口角が上がる。笑った、のだろうか。
死の反対は生。生の反対は死。死を認識できるのは、自分が生きているから?
「別に誰かを殺したいなんて話じゃないよ。私はただ、自分の居場所を確かめたいだけ。自分がどこにいるのかわからなかったら、落ち着かないでしょう?」
私の首にはまだ、微かな痛みと妙な息苦しさが残っていた。もしあのまま首を絞められていたら、私はどうなっていただろう。
呼吸が止まって、心臓が止まって、命の熱が消えていく。それを彼女は自分の手の中で感じている――。
私なら耐えられない。自分の手の中で他人の命が消えていくのを感じるだなんて。そんな瞬間に、私は自分が生きているだなんてことを考えるだろうか。
殺したいわけじゃない、と彼女は言ったけれど、この人は誰かの命を奪うことなんて何とも思わないのかもしれない、そう思ったら急に背筋がひやりとした。
まさか、彼女は本当に自分の弟を手にかけたのだろうか。
闇の中からはまだ獣の唸る声がしていた。確かに少女の言う通り、獣たちが襲ってくる様子はなかったけれど、私は、正体の知れない獣たちに感じるのと同じ恐怖を、彼女に対して感じていた。
少年と少女は少しのあいだ睨み合い、やがて少女は再び前を向いて歩き出した。思わず安堵の溜息が漏れる。そこでようやく自分の身体がまだ強張っていたのに気づいた。私たちは本当に一緒にいてもいいのだろうか。なんだか人に会うたびに面倒が増えていくような気がする。
人が増えれば煩わしく、一人になると心細い。まったく面倒な性格をしていると、自分でも思う。彼女は闇の中の獣と違って、お腹が空いたからと言って襲ってくることはないだろう。けれど、お腹が空いているわけでもないのに襲ってくるものの方が怖いような気もする。人はとにかく理由を求めたがるものだ。
本当は理由なんてなくても、安心するためにはそれを捻り出す。私たちも、三人でいる理由を見つけることができればもっと安心できるのだろうか。自然とまた、少女を先頭に、私、少年と続くフォーメーションで歩いていた。
しばらく行くと、目の前にはぽっかりと暗闇が口を広げていた。トンネルだ。線路はその中へと続いていた。その奥には深い闇がわだかまっている。そこは一寸先も見えない闇。その中へ身を投じるのは、自ら獣のお腹の中に入っていくような行為に思えた。
こんなところで立ち止まっていても仕方がないとは思うものの、私たちはその闇を前に怯んでいた。道を外れれば獣に襲われるかもしれない。線路を見失えばお祖父さん達に追いつくことはできないだろう。それでも、怖いものは怖かった。
進むしかない、それは分かっているのだけれど、私たちはそこへと足を踏み入れるためのきっかけを求めて、しばし無言で視線を交わし合っていた。
ふと、鼻先に冷たい滴が触れた。空を見上げ、雨、と思った次の瞬間にはもう、大粒の滴がばらばらと音を立てて降り始めていた。
私たちは逃げ込むように暗闇の中へと飛び込んだ。
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