薔薇色の人生
増田朋美
薔薇色の人生
日が出ていなくて、寒い一日であった。なんだか明日は雨になるらしくて、どんよりしたくもり空になっている。まあ流石に冬なので、この地域に雪が降ることは少ないが、明日は雨となるとちょっと憂鬱でもある。
そんななか、製鉄所では、また水穂さんが咳き込みながら、杉ちゃんや由紀子に薬を飲ませてもらうということをやっていた。
「最近、これが多くなってきて困るよ。畳は汚すし、布団は汚す。それに、このまま行ったら、銘仙の着物だって、汚しちゃうんじゃないの。もう、布団がいくつあっても足りないじゃないかよ。」
杉ちゃんにいわれて、水穂さんは、申し訳無さそうに、ごめんなさいといった。
「ごめんなさい何ていわれても困るなあ。謝って済む問題じゃないんだよ。それよりもさ、こういう事を、起こさないように、毎日ご飯をちゃんと食べることのほうが大事なんじゃないの?」
ちょっと苛立った様子で杉ちゃんは言った。
「そこまで言ったら、水穂さんが可哀想よ。苦しいんだから、そんな事いわないであげてよ。」
と、由紀子はそういうのであるが、
「全く、それじゃあ、困るわ。甘やかしても行けないと思うんだ。だから、してほしいことはちゃんという。それはしなきゃいけないんじゃないのかな。」
と、杉ちゃんは、言った。杉ちゃんの考え方は、ちょっと病人にとっては酷ではないかと由紀子は思うのであるが、杉ちゃんにはそういう気持ちは無いらしい。
「このままだと、本当に、僕らでは手に負えなくなっちまう。それに、銘仙の着物着ている以上、大きな病院に入って、徹底的な治療をってことは、できないんだから、水穂さんも、治る努力を自分でしてみてくれ。」
「はい、すみません。」
杉ちゃんにそういわれて、水穂さんは、布団の上に横向きに寝た。由紀子は、
「水穂さん大丈夫?苦しくない?」
と、声をかけてやりながら、優しく毛布をかけてやった。これだけだとまだ寒いかなと言って、由紀子はその上に布団をかけてあげたのだった。本当は、介護用のベッドがあって、それに布団を敷いたほうが、便利だし、効率もいいと思うのであるが、そういうものは、日本では高齢者という身分にならないとレンタルして貰えないということは由紀子も知っていた。だから、口に出して言うことはできないけど、畳の上にせんべい布団を敷いて寝るのは、本当にかわいそうだと由紀子は思うのだ。高齢者ばかりにやさしくしてやっても、意味がないと思うのだが、日本はそれに気が付かないらしい。
「これからは、ちゃんとご飯を食べてくれよ。何も食べないからそうなっちまうの。咳き込んで、畳を汚したら、張替え代がたまんないよ。」
と、杉ちゃんがまたそう言うと、いきなり、玄関の引き戸がガラッと音を立てて開いた。
「あれ、今頃誰だろう?」
と、杉ちゃんが言うと、
「こんにちは、桂です。今日レッスンの約束を取り付けてありましたよね。約束通りこさせてもらいましたよ。」
と、玄関先から声がした。
「ああ、浩二くんだ。」
と杉ちゃんがいうと、水穂さんも、横になるのをやめて、布団の上によろよろと座った。由紀子は、先程咳き込んだばかりなのだから、寝かせてやったほうが、良いのではないかと思ったが、浩二くんは、玄関を上がってどんどん入ってきてしまうのだった。
「右城先生。今日も生徒さんを連れてきましたよ。名前は、島本みつえさん。年齢76歳。若い頃ピアノをやっていたそうですが、年を取ってまた再開したいということで、僕の教室に来ました。とてもやる気がある方なので、それで僕は右城先生に見てもらったほうが良いと思ったので、連れてきました。」
浩二くんは、そう言いながら四畳半にやってきた。76歳ということは、ちょうど今年から換算していくと、終戦前後に生まれたということになる。日本中が貧しかった時代に、ピアノを習えるというのは、ある意味では贅沢な女性だったのかもしれないと由紀子は思った。
「どうもお邪魔します。」
と言って、島本みつえさんは、四畳半にやってきた。もしかしたら、この年代では、銘仙の着物というものに、偏見がある人かもしれないと由紀子は思った。高齢者というものは、着物を着ている若い人を快く思わないことが多いからだ。
「島本さん、こちらが、右城水穂先生です。今はお体を壊して、寝ていらっしゃるけど、本当はすごい演奏をするんですよ。僕みたいな、そこいらにいるピアノ教師とはわけが違います。だからぜひ、右城先生に聞いてもらってください。」
浩二くんが水穂さんを紹介すると、水穂さんは丁寧に座礼した。そんなに丁寧でなくてもいいのになと思われるが、水穂さんはそうする人だ。
「よろしくおねがいします。私の演奏を聞いていただけるなんて、信じられないくらいです。」
と、島本さんも丁寧に座礼した。そうなると、銘仙の着物を着ていることは、あまり気にしていないのかと由紀子は思った。
「じゃあ、早速島本さんに、あちらのグランドピアノで演奏していただきましょうか。あのピアノで、演奏してみてください。」
浩二くんは、島本さんにピアノを弾くように言った。島本さんは、ピアノの側面にあるグロトリアンと書かれたロゴに、びっくりしてしまったようだ。
「いえ、私は、そんな立派なピアノで弾く資格はありませんよ。」
「そんな事ありません。島本さんはちゃんと演奏できてますよ。だから、右城先生にも聞いていただきましょうよ。」
浩二くんにおだてられて、島本さんは、はいといって、ピアノの前に座った。
「じゃあ、演奏させていただきます。ドビュッシーのアラベスク一番です。」
「はあ、年齢に合わず、おしゃれな曲を弾くもんだな。おばあちゃんだから、演歌みたいなのを弾くのかと思ったら、違ったよ。」
杉ちゃんがいきなりそういう事を言った。杉ちゃんという人は、言ってはいけないことも口に出してしまう。それでは、失礼になると思うのだが、杉ちゃんは平気でそういう事を言うのだ。今回は、浩二くんも水穂さんも止めなかった。由紀子は由紀子で別の理由があり、杉ちゃんを止めなかった。
「まあ、そんなことはおいておいて、それでは演奏を始めてくださいよ。」
浩二くんにいわれて、島本さんは、演奏を開始しした。確かにアラベスク一番は、三連符と、8分音符を同時に弾くのが難しいが、島本さんは、平気でやりこなしていた。はあ、こんなふうに弾けるのかと杉ちゃんがびっくりしてしまうくらい、島本さんの演奏は正確だった。それに強弱だってちゃんと着いているし、ドビュッシーらしく、繊細な音を出すこともできている。途中の強い部分だって、音を外すことも無いし、しっかり演奏できていた。76歳という年齢にしては、お上手だった。由紀子は、彼女の演奏を聞いて、何かからくりでもあるのではないかと思った。普通のおばあさんではなく、音大の先生に習っていたとか、そういうことがあったのではないか。それほど彼女はうまかった。
演奏が終わると、水穂さんは、にこやかに笑って拍手した。杉ちゃんも、こいつは良いやと言いながら拍手を送った。由紀子も、ちょっと複雑な気持ちだったけど、一応拍手を送る。
「じゃあ、第2楽章を弾いてみてくれ。それくらい弾けるんだったら、やれるはずだよなあ。」
と杉ちゃんが言った。島本さんは、これはまだ未完成なんですがというが、とりあえず、第二番を弾き始めた。これは第一番とは違い、なんかおどけたような、楽しい曲であるのだが、島本さんはそれも軽快にきれいに弾くことができた。一番と二番のちがいを引き分けのも課題としてあげられるが、島本さんはきれいに弾きこなすことができていた。ただ、テンポだけは、ちょっとゆっくりという欠点はあったけれど。
「ほうほう、すごいなあ。なかなか板についているじゃないか。こいつは良いよ。ちゃんと一番と二番のちがいも出してるもん。それなら、ちょっと自慢できると思うよ。」
と、杉ちゃんが感心した様子で言った。
「そうですよね、杉ちゃんだってそう言うんですから、島本さんもっと自身持ってくださいよ。右城先生は、何か感想はありませんか?」
と、浩二くんは、水穂さんに聞く。
「ええ、たしかにキチンとした演奏ではあると思いますが。」
水穂さんは、小さい声で言った。
「はあ、それがどうしたの?」
杉ちゃんが口をはさむ。
「ええ。そうなんですけど、僕はもう少し、個性的な演奏でもいいと思ったんです。ちょっと、きちんと弾きすぎているような気がしましたので。」
と、水穂さんは言った。
「そうなんだね。まあ確かにそうだな。きちんとしているのは良いけれど、こういう分野では、ちょっと、つまらないものになるな。じゃあ、島本さんだっけ。その当たりをもうちょっと気をつけてさ。演奏してみな。」
杉ちゃんは、でかい声でそういった。
「個性的にってどういうことでしょう?」
と、浩二くんが聞くと、
「ええ、だから、一番では、テンポを崩してみたりとか、ちょっと音を眺めに伸ばしてみたりとか、そういう杓子定規的な演奏をしないことです。逆に二番は、ちょっと冗談を言っているようなそういう気軽な演奏にしてくれていいと思います。それが、アラベスクに求められている課題と思いますので。」
と、水穂さんは言うのだった。
「でも先生、音を伸ばすとか、そういう事をいわれましても、どこをどうしたら良いのか、教えてくれませんか?」
と、島本さんが聞いた。水穂さんは、良いですよ、と言って、浩二くんに支えてもらいながら、布団から立ち上がって、島本さんの側に行く。そして、この音が、少し長めでも良いと思うなどの解説を加え始めた。島本さんは、わかりましたと言って、そのとおりに追いかけて弾くのだった。由紀子は、そんな彼女を見て、水穂さんを、動かして何をやっているの!というような感じの怒りが生じた。今、水穂さんに必要なことは、体を安静にして横になっていることなのだ。それを無視してピアノレッスンをさせるなんて、虫がよすぎるというか、そんな気がするのだ。
島本さんは、初めこそ緊張していたように見えるが、曲の後半になるに従って、とても楽しそうな様子を見せ始めた。水穂さんは、音の解説を終えると、もう一度弾いて見てくださいといった。島本さんは、はいと言って、もう一度第一番を弾き始める。水穂さんの指示通り、ちょっと音を伸ばしたり、少しテンポを緩めることを加えたことにより、島本さんのアラベスク第一番は、ちょっと音楽らしくなった。ただ趣味で演奏しているのと、プロのピアニストが弾くのとでは全く違う音楽になることは言うまでもないが、島本さんはちょっとそれに近づいてきたような気がする。
「おお、いい演奏になったねえ。それで、コンクールでも出てみろよ。高評価間違いないなしだ。」
と、杉ちゃんがそう言って拍手をした。由紀子は、何故か拍手する気になれなかった。
「良かったじゃないですか。島本さん。しっかり演奏できて。もうちょっと自信が持てましたね。次に演る曲も、きちんとしすぎず、面白い演奏にしましょうね。」
浩二くんが、島本さんに言った。島本さんは、はいと小さい声で、恥ずかしそうに言った。
「それにしても、浩二くんはよく、生徒さんをここへ連れてくるんだね。」
と、杉ちゃんが言った。確かに浩二くん自身もピアノ教室をやっているのだから、それより更に格上の、水穂さんのもとへ何度も連れてくるのは、不思議なことでもあった。
「いやあ、僕自身も、右城先生のような、すごい演奏技術があるわけではないし、それに僕は、ゴドフスキーは弾けませんので。それに、右城先生は、僕が教室開くのを後押ししてくださった方でもあるから、それで、先生に見てもらいたいんですよ。」
と、浩二くんは言った。
「そうなんだねえ。他に何か理由があるだろう?そうでなければ、こんなにたくさんの生徒さんをここへ連れてこないよな。理由を言ってみな。」
「杉ちゃんに聞かれてしまうと、本当のことしか言えないですよね。右城先生は、僕に身分の低い人はピアノを弾くべきではないとおっしゃいました。ですが、僕はそんな事ないと思うんです。身分が低かろうと高かろうと、音楽を楽しむことはできると思います。それを伝えたくて、ピアノ教室をやっているようなもので。それで、高名な先生にレッスンを受けることだって、音楽の楽しみ方の一つじゃないですが。誰でも、楽譜さえあれば、本物に触れることができる学問はそうは無いですよ。だから、僕は、右城先生が身近に居るんだから、そうさせてあげたいなと思うんです。」
浩二は、熱弁を振るうように言った。
「そうなんだねえ。まあ、それが間違いか、正しいのかは知らないが、浩二くんはそう思っているんだったら、それを続けていけばいいさ。世の中、何が正しいかなんて何も無いんだからさ。それは、人によりけりの時代だしね。これはこうしなければならないという世の中はもう終わりだよ。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「それじゃあ、右城先生。ついでですから、島本さんの第二番を見ていただけませかね。」
と、浩二くんが言うと、水穂さんは、ええわかりましたと言って、島本さんにもう一度アラベスク二番を弾いてもらうように言った。由紀子は、それが嫌であった。水穂さんは、弱った体で、島本さんにレッスンをしなければならない身分なのかというところが由紀子は納得行かなかったのである。もし、浩二くんの言葉が本当なら、水穂さんだけに、レッスンを押し付けるのは行けないような気がする。そんな事、実に不公平じゃない!と由紀子は怒りの炎を燃やした。水穂さんは、音の間違いや、テンポの合わせ方などを修正しているが、もう疲れてしまった表情をし始めた。それが、由紀子には辛かったのだ。もしかしたら、この島本さんという人も、水穂さんが銘仙の着物を着ているのをバカにして、水穂さんにレッスンをさせて居るのではないか、と由紀子は思ってしまう。
「水穂さん、お願い、疲れたならもう休みたいと言って!」
由紀子は、やっと、口に出かかっていた思っていたことを、声に出して喋った。それと同時に、水穂さんは、咳き込みながら、座り込んでしまった。由紀子はすぐに水穂さん大丈夫?と彼のそばに行くが、水穂さんは、咳き込んだままだった。杉ちゃんのほうは、ああ、またやるのかななんて間延びしたことを言っている。浩二くんが心配そうな顔をしているのも、由紀子は腹が立つ原因でもあった。
「ほら、横になりましょう。もう疲れているわ。このおばあさんの言うことなど、聞くことも無いから。きっと水穂さんの事を、バカにして、レッスンさせて居るだけなのよ。それじゃ嫌でしょう。だから、水穂さんも休んで。」
なんで、そういう事を言ってしまうのだろう。自分でも理由がよくわからないけど、由紀子はそう言ってしまうのであった。周りの人達が、不快な思いをしているなんて、これっぽっちもわからなかった。そんなことはどうでもいいから、水穂さんに静かに休んでもらいたい。由紀子には、そのような思いしかなかった。
「もうこんな、ただ余裕ばかりあって、生きがいをほしいとか、そういうわがままを言っているおばあさんには、関わらないほうが良いわよ。ほら、横になりましょう。」
由紀子が、そう言うと、不意に、女性の泣き声が聞こえてきた。なんだろうと思って、由紀子は、周りを見ると、ピアノ椅子に座った、島本さんが泣いているのが見えた。
「そうね、もうこの歳になると、そう見えちゃうのね。」
島本さんは、悲しそうに泣いている。
「私は、精神がおかしくなって、ずっと隔離されたままだったわ。ピアノを弾くことだけが唯一の趣味だった。せめて、ピアノを弾くときだけは、普通の人間として見てもらいたいと思って、ピアノをやってきたのだけど、もうそう思ってくれることは無いわね。みんな私の事をずるい生き方をしてきただめな人としか見ないのよ。私だって、本当に苦しんだのに。それから、逃れたくて、ずっとピアノをやってたのに。」
「由紀子さん、さっきのセリフ、取り消してもらえませんか。島本さんは、そういう悪い人じゃありません。そういうことは、しない人です。だから、由紀子さんがいくら水穂さんが好きだからと言っても、島本さんの幸せを取り上げることはできないと思います。」
浩二くんが、由紀子に言った。由紀子は思わず、
「良いわねえ、お年寄りは、そうやって、守ってもらうことができるわ。水穂さんは誰にも守って貰えないで、レッスンをしなければならないのよ!」
と怒鳴ってしまった。
「さあ水穂さん、横になりましょう。こんなおばあさんのこと、構う必要はないわ。それよりも自分の体の事を心配して。」
「でも、由紀子さんは、愛する人がいて良かったじゃないか。世の中には、愛する人も、その逆もいないで、寂しがっている人のほうが多いんだからな。彼女、島本さんだってそうだろう。そういう人間のほうが、圧倒的に多いよ。」
杉ちゃんはそう言ったが、由紀子はその言葉が耳に入らなかった。とにかく、水穂産を、布団の中に入らせて、眠らせてあげたい。それしか考えていなかったのである。水穂さんを、布団まで連れて行って、早く横になって、と急かしている由紀子を見て、島本さんは、
「まだ、そういう純粋な人がいてくれて良かったわ。私は、もう用なしの人間として、ここでも片付けられるしか無いのかな。」
と、小さな声で呟いた。
「そんなことは無いですよ。島本さん、みんな、辛い思いをして生きているけど、悲しいことばっかりじゃないですよ。こうやって、音楽をして、辛さから逃れることだってできるじゃないですか。それは、素晴らしいことだと思いませんか?」
と浩二くんはそう言うが、島本さんは、首を横に振った。まるで、そうするしか無いとでも言いたげだった。
薔薇色の人生 増田朋美 @masubuchi4996
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