異界の扉

上杜海

第1話


 年末のある日。部屋の中を掃除していると、クローゼットの中に穴があいていた。


「なんだ、これ」


 建築家のずさんな設計のたまもの、というわけではなく、空間をうがつようにしてサッカーボール大ほどの穴があいている。穴のある部分は、そこだけが真っ白に染まっていた。


 ふしぎに思って手を近づけると、やはり目の錯覚などではなく、穴の先には空間があった。とうとう頭がおかしくなって幻覚が見えたという可能性も考えたが、穴の縁に触れると液体のような固体のような、奇妙な感触が実感としてちゃんとある。力を込めると広がって、内側に引っ張ると狭まった。もう一度広げにかかり、ひと一人が通れるぐらいの大きさにする。


「……中に入れそうだな」


 いったん手を引っ込め、一歩引いてから穴を眺めた。穴の向こうに白い世界が広がっているように見える。


 ふつう、空間に穴はあかない。あきらかに異常な現象が、目の前で発生していた。


 けれど、僕はと言えば意外にも冷静なものだった。


「まあ、こんなこともある」


 数年前には、ウイルスが世界的に流行し、人の生活を変えてしまうなど誰も予想していなかった。人と人との接触が忌避され、海水浴や海外旅行などが当たり前にはできなくなるとは思いもよらなかった。


 人の常識など、案外あてにならない。今、目の前に穴があいている以上、これが現実なのだ。


 とりあえず、手に持っていた紙くずを、その穴の中に放ってみる。


 紙くずは放物線を描いて、白い空間の底に着地した。少なくとも入って早々奈落に落ちるということはなさそうだ。


 顔を突っ込んでみる。視界には、地面と宙の境界が曖昧なほど真っ白な空間が見る限りどこまでも広がっていた。一呼吸してもなにも問題なかったので、空気もある。


「大丈夫そうだな」


 穴をくぐり、白い空間へと足を踏み入れた。未知への恐怖より、好奇心の方が勝っていた。長らく家にこもりきりの生活だったから、変化に飢えていたのかもしれない。


 はじめて月面に降り立った人類さながらに、おっかなびっくりに距離感のつかみづらい地面を踏みしめる。とりあえず足裏からはまともな地面の感触が伝わってくる。


 白い息が出る。寒々しい空気が漂っていた。


 辺りを見渡すと、ひと影などは見当たらない。さっき放った紙くずが数歩先にあるだけだ。とりあえずその紙くずに近づいて、拾うために屈んだところで、今ここに立っているはずの自分の影がないことに気づいた。


 上を見る。やはり白いだけで、光源らしい光源がある様子もない。ふしぎな空間だった。


「おーい!」


 大きな声を出してみる。声の反射を期待してのものだったが、耳に手をかざしていくら待っていても、そんなものは返ってこなかった。


 それ以上は得る情報がなかったのでいったん穴をくぐって部屋に戻った。くぐりながら、こちら側にいるうちにあの穴が消えてしまえば、一生この白い部屋に閉じ込められることになったのだろうか、と考えた。軽く首を振る。まあ、その時はその時だ。


 部屋に戻ってから、内側に引っ張って穴を閉じた。といっても消えたわけではなく、やろうと思えばまた広げることで、向こう側に行けるということが、感覚的にわかった。


「さて、どうしたものか」


 あぐらで座り込んで、少し考えた。


 その存在を知った以上、知らなかった頃には戻れない。穴の扱いを決める必要があった。


 選択肢はいくつかある。


 一、見なかったことにして、これまで通りの生活を送る。


 いつもと変わらない日常を求める人間にはおすすめの選択肢だ。これまで通りの生活に満足しているなら、あんな何もない上に、よく分からない空間に手を出さないほうが賢明だろう。


 二、あちら側を探索し、未知を踏破する。


 未知に挑戦することで人類は進歩してきたと信じている御仁にはこちらがおすすめだ。変化なくして革新はない。リスクなど、ちょっとした人生のスパイスである。


 僕はどうすべきか。一秒ぐらい考えて、それから、決断した。


「秘密基地にしよう」


 答えは三、見なかったことにはしないが、冒険もせず、童心に帰る。


 *


 秘密基地、と言うよりは隠し部屋の方が近いかもしれないが、まあ意味合いとしては似たようなものだ。


 誰にも知られていない秘密の場所で、自分、あるいは自分たちだけの時間を過ごす場所。日常とは切り離された異空間で、俗世の煩わしさを忘れられる場所。


 その点、空間にあいた穴という非常識な手段でアクセスし、ひと影のまったくないこの場所は、秘密基地に最適だった。まあ、ここが誰かの土地だったなら多くの秘密基地がそうであるように不法侵入やら不法占拠やらに該当するのかもしれないが、その時はその時だ。


 僕はさっそく快適に過ごすため家にあった絨毯じゅうたんやコタツ、食糧(残念ながらみかんはない)や発電機、その他娯楽用品を持ち込んだ。コタツが通れる程度には、入口の穴は簡単に広げることができた。運ぶ荷物はけっこうな大所帯となったが、久しぶりに楽しげな目的のある作業なので、苦ではなかった。


 三○分後には、白く、おそらく果てしなくだだっ広い空間に四畳半程度の領域ができた。絨毯やコタツや発電機の色彩が、大海原に浮く小さな孤島のようにポツンと浮いている。


 とても非日常を感じる、良い風景だと思った。


 コタツに入って誰もいない世界の静寂に浸ると、少し気分が明るくなる。隣人のご機嫌な騒音にさらされないだけでも、充分価値があった。持ってきた食料を開けてつまんでみると普段の味気ない食事も、心なしか旨く感じた。


 この空間がどこで、なんのためにあるのかなど、まあ、後回しにしていいだろう。


「僕だけの世界だ」


 高揚から、そうつぶやいた。


 唐突に、とすん、と何かが落ちた音がした。


 僕の言葉を合言葉にでもしたかのようだった。それまで自分が発しているもの以外の音とは無縁の世界だったから、いやに耳についた。反射的に顔を横に向けて音のした方を見る。その何か、いや、誰かが涙声を発した。


「痛っ……」


 ぶつけた患部、つまり尻をさすりながら相手は顔を上げた。目が合った。


 目が合った相手は、一○代前半ぐらいの子どもだった。長い黒髪の大人しそうな印象の女の子で、コタツに入ってふんぞり返っている人物を、ふしぎそうな顔をして見つめている。


 奇妙な格好をしていた。


 普段着にするには難易度の高い、いわば儀礼服のような赤い衣装に身を包んでいて、背景が真っ白なこともあってとても目立っている。異世界からの迷い人のようだった。


「……」


 しばらく見つめ合ったまま時間が経った。ここ数年、画面越しでしか人の顔を見なかったためか、すぐに声が出なかった。自分だけの、特別な空間だと早くも思い込んでいたから、完全に気が抜けていた。


 この見慣れぬ格好の少女はいったいなんなのだろう。髪色や顔立ちからは同じ国の人間のように見えるが、それにしては浮世離れした雰囲気がある。


 まごついていると、相手はこちらに近づいてくる。心の準備をする時間を与えてはくれなかった。第三種接近遭遇後の第一声は、子どもの方から発せられた。


 まだ純粋というか、幼さが残る声が、耳朶に響いた。


「もしかして、神さまですか?」



 ……神というのはあれか。遍く全ての人々を常に監視しているらしい、あの神さまのことだろうか。子どもの頃には、「お天道様が見ているんだから悪いことしちゃダメよ」とよく脅された記憶がある。お天道様イズウォッチングユー。


 そして、今はお天道様ではなく、子ども特有の大きな瞳がじっとこちらを見据えている。


 もちろん、こんな見慣れぬ装いの子どものことを監視していた覚えはない。完全な初対面だ。ということはやはり、僕は神さまではない。


「あの、えっと……」


 何も言わない相手に不安を覚えたのか、少女は視線をせわしなく動かしている。


 なるべく圧を与えないよう意識して、ゆっくりとした口調で声をかけた。


「ああ、申し訳ない。人と直接話すのは久しぶりなもので」


 こう前置いて、


「僕は神さまじゃないよ」


 とだけ簡潔に伝えた。言ってから、これは「サンタなんていないよ」と教えるような行為なのではないかという考えがちょっとだけ頭をよぎった。


 幸い少女は信仰心から言ったわけではないようで、困惑してはいるものの失望した様子は見せなかった。


「じゃあ」


 彼女は一瞬後ろを振り返って、また向き直った。


「ここっていったい、なんなんですか?」


「僕もよくはわからない。実はさっき来たばかりなんだ」


 先達としての役割を期待していたのなら申し訳なく思う。


「ウソ、じゃないですよね?」


 少女は訝しそうな目を向けてくるが、実際よくは知らないのだから仕方がない。


「ウソじゃない。ちょっと前に部屋の掃除をしていたら偶然ここに通じる〝穴〟を見つけたんだ。君も同じだろ?」


 僕は彼女が落ちてきたあたりに視線をやった。白い背景に黒い点が一つ浮いているからすぐに分かった。あそこを通って、この白世界にやってきたというわけだ。


「君が来るまでひと影がまったくなかったから、秘密基地にさせてもらったんだ」


 その思惑は、少女が現れたことで一日も持たなかったわけだけど。


「秘密基地……」


 こう呟いて少女は僕が持ち込んだ絨毯やコタツに視線をやる。


 コタツの上にはみかんの代わりに、カニやら治部煮やらモモやらパインナップルやら、適当に持ってきた種々雑多の缶詰が置いてある。やたら心配性の父親が、買い揃えていたものだった。家に戻れば、まだまだ大量に在庫がある。


 ふと、少女の視線がある一点に止まっていることに気づいた。チーズケーキの、いわゆるスイーツ缶という奴だ。


「食べるかい? 腐るほどあるから遠慮せずどうぞ」


 気を利かせてそう言った。実際一人では食い切る前に腐るほどあったし、育ち盛りの子どもなら、食べ物を勧めて悪いということはあるまいという判断だ。


 けれど、予想に反して、少女はびくりと身体を震わせると、大袈裟なぐらいに顔を横に向けてコタツから視線を切った。


「あ、いえ、ごめんなさい」


 そして、なぜか謝ってくる。


「あたしは大丈夫です」


 どこか青ざめたようにも見える顔でそう言うので、僕は差し出そうと持っていた缶詰から、そっと手を離した。

 

 気まずい沈黙が横たわった。少女は何をするでもなく不安げな様子で突っ立っている。子どもを立たせて自分だけ座っている構図は、なんとも居心地が悪かった。


「とりあえず、君も座って楽にしたら?」


 今度も断られたらこの気まずい時間をどうしたものかと考えていると、少女は何回かの逡巡ののち、コタツの向かい側へとちょこんと座った。


「あの、名前」


「ん?」


「名前、なんて言うんですか」


 と少女は尋ねてきた。僕は答える。


「武田というんだ。武田晴巳はるみ


「あたしはあかねって言います」


 自己紹介が終わると相手がぺこりと頭を下げるので、つられて頭を下げた。


「これはどうもご丁寧に」


 先ほどから気になっていたが、いやにかしこまった態度の子どもだと思った。大人びているというか。単に育ちがいいと考えるのが妥当なところだが、彼女の卑屈とさえ言える態度には少し踏み込みづらい事情というものを感じさせる。


 けれど、僕としては人と話すのは久しぶりのことだったので、この機会を逃さないべく会話の続行を試みた。


「君はこの場所についてどう思う?」


 とりあえず、共通の話題からだ。


「この場所、ですか……」


 少女は少しうつむきがちになる。


「はじめは、天国かと思ったんです」


「天国」


 確かめるように繰り返した。少女は視線を少し横にずらして、


「まっ白で、暗くないですから」


 と呟くように言った。たしかにステレオタイプな天国は、色彩的には白の印象がある。そしてステレオタイプな天国に何かいるとしたら、それはおそらく天使か神さまになる。


「それで、僕のことを神さまと」


 少女は小さくうなずいた。こちらを見つめる彼女の瞳は少し潤んでいるように見える。


「晴巳さんは、神さまっていると思いますか?」


 少女は真剣な面持ちで尋ねてきた。難しい質問だった。


 頭ではいないと思っている。が、お守りをハサミでズタズタにするだとか墓石を土足で踏みつけるだとか、バチ当たりな行いには忌避感も覚えるあたり、心の底ではいると思っているのかもしれない。


「うーん、理解の及ばないことは、神さまの仕業ってことにはするかな。この場所とかも、そういうことにすれば話が早いし」


 結局信じているのかいないのか、微妙な回答になる。けれど彼女は思うところがあったようで、口の中で、


「神さまの仕業……」


 ボソリと言って、どこまでも広がる白世界を見渡した。


 僕はそこで先ほどから気になっていたことを尋ねる。


「ところで、一応聞きたいんだけど、君っていったいどこから来たのかな?」


 彼女はいったいどこの、何者なのか。


 赤い装束。上半身の赤衣の色は少し薄く、袴のようなズボンの色は濃い赤だ。上衣の色が白ならば巫女服のようにも見えるが、とにかく平時に着る服ではないように見える。


 まさかこの白世界は、異世界とつながっている通路なのではないか。あの〝穴〟は異界の扉なのだ。


 そんな常識離れした疑いが頭をもたげてくる。しかし、何事も起こりうるのだ。


 と大げさに考えたところで、少女は首を傾げた。


「日本ですけど。日本のN県の――」


 聞いて僕の住んでいる場所と、意外なほど近いことが分かった。


「あ、そうなの」


 あっさりと妄想が否定されたところにおかしみを感じて少し笑いが漏れた。


「じゃあ、君のその格好は? ここら辺では見慣れない服装だけど」


 少女は、洋服に比べるとゆったりとした袖口をちょっと上げて、自分の格好に目をやった。鮮やかな赤が揺れる。


「ああ」


 それから、彼女が何かを言おうとした。


 その時に、異変が起こった。


 どこからか、獣がうなるような聴いているだけで息がしづらくなる声が白世界に響き始めたのだ。


「なんだ?」


 音のした方を見ると、どうやら茜が出てきた穴の方から声が聴こえてきているようだ。ふと、彼女の方を見た。


 少女は身体を硬直させ、これまでもどこかしら暗い面持ちを覗かせていた表情を、なお一層青ざめさせていた。


 耳が慣れると、声は意味をなしていることが分かった。それは、こんな内容だった。


「茜様ァァ!! どこにお隠れになったのですか!! まだ私には救いが必要なのです!! お出でになってください!!!」


 似たようなセリフを幾度となく繰り返している。尋常でない様子だった。


「あれはいったい?」


 尋ねると、少女は震え声で小さく言った。


「あれは、母です」


 耳を疑うような言葉が飛び出てきた。しかし茜に嘘を言っている様子はない。


 コタツから出て、顔色の悪い少女を伴って穴のある部分にまで足を運んだ。先ほどまで真っ暗だった穴向こうの景色は明るくなっていて、様子を伺うことができた。


 見ると少女のものと似た構造の、黒い装束に身を包んだ中年の女性が、千々に乱れた様子で歩き回っている。やはりさきほどの台詞を繰り返していて、耳を塞ぎたくなるほどの声量が穴から流れ出していた。


 唖然として見ていると突然、その女性が方向転換をして穴の近くにまで寄ってきた。まずいと思って穴を閉じようと縁に手をかける。怯えた様子の少女を鑑みるに、穴向こうの女性がここに踏み込んできて、良い方向に話が進むとは到底思えなかった。


 けれど、すぐにそれが要らぬ心配であることに気づいた。


 女性はそのままこちらを無視してまた歩く向きを変えると逆側へと歩み去っていったのだ。女性が穴の存在に気づいた様子はかけらも見受けられなかった。


 少女はホッとしたように肩を落とした。


「見えてない……?」


「とりあえず、こっちにまで踏み込んでくることはなさそうだな」


 と言ったものの、念のために穴は閉じておく。念仏のように繰り返されていた女性の叫び声が、途絶えた。


「さて」


 ひと段落したところで、僕たちはコタツのある場所にまで戻る。そこで僕は少女に向き直った。


「無理にとは言わないけど、事情を訊いても?」


 少女は一瞬上目でこちらを見てから、目を伏せて言った。

 

「あたし、神さまなんです」



「……え?」


 先ほどは神の存在を否定はしなかったけれど、いざ目の前に神を名乗る相手がいると困惑してしまうのだから不思議なものだ。


 間抜けな声を発してしまった。


 少女はそこで初めて笑みを浮かべた。


「正確には、神さまということになってるんです」


 子どもに似つかわしくない自嘲気味な笑みだった。


「というと?」


「あたしのことを神さまの生まれ変わりだと信じている人がいて、あたしが神さまらしい振る舞いをすると喜ぶんです。この格好は、その一環で」


 少女は淡々と述べた。きな臭い話になってきていた。信者がいて、神さまとして振る舞う……なるほど、なるほど。


「その口ぶりからすると、君は神さまを信じてないみたいだね」


「少なくとも、あたしが神さまじゃないことはあたしが一番知ってますから」


 少女は力なく微笑むと、過去を思い返すような遠い目をした。


「きっかけは母に元気を出してもらうためのおまじないだったんです。あの病気で、父が亡くなって、落ち込んでいた母を慰めるための。おまじないは本で読んだ簡単なもので、気休め程度のものだったんですけど。おまじないをしたから、きっとこれから上手くいくよって……」


「たまたま、上手く行きすぎてしまった?」


 彼女は、うなづいた。


「そうしたら本当に、母が失くしていた万年筆――結婚記念日に父から貰ったものが見つかったり、良いことが続いて。気が沈んでいた分、母はもう半狂乱になって喜びました」


 社会が急変したこのご時世。適応ができず精神をすり減らした人間は多い。そして、精神が磨耗した人間ほど、奇跡の存在を信じたくなる、というのは分からなくもない。しかしあの狂乱ぶりは、少し行き過ぎているように思った。


「はじめはあたしも自分のことのように嬉しかったんです。でも、母があたしには特別な力があるって言い出してからは……」


「気づけば生き神として祀られていた、というわけか」


 少女は憂鬱そうにうつむいた。


「あたしが神さまの生まれ変わりだと信じている人の筆頭は母でした。本気で信じていて普通の家族だった昔の記憶すら捻じ曲げて……あたしが神さまに相応しくない振る舞いをすると癇癪を起こしました」


「……」


「言葉遣いや、口にするものにさえ気を使わなくてはいけません。もし勝手に決められた食事以外を口にして母に知られれでもすれば、あたしは蔵に閉じ込められるんです。穢れを払うと言って光の入らない真っ暗闇な蔵に」


 僕は、少女が出てきたあたりに目をやった。今では穴は閉じられていて、ほとんど目立たない。


「ここに来るまでも、あたしは蔵に閉じ込められていました。暗いのは怖いです。自分と暗闇の境目が分からなくなるようで……」


「そこに穴が現れて、暗闇から逃げ出したということか」


「はい。だから、ここに来てすぐは、本気で晴巳さんが蜘蛛の糸を垂らしてくれた神さまに思えました。母もきっとこんな気持ちだったのかもしれませんね」


 彼女は身体を震わせた。人は本能で、暴力と毒、そして拘束され自由を奪われることを恐れるという。彼女はついさっきまで蔵に閉じ込められていて、未だ新鮮なその恐怖を引きずっている。


 その証拠に、先ほど物欲しげだったチーズケーキを断ったのだろう。ここにいない母の影を恐れて。理性では杞憂に過ぎないにしても長年の習慣がそうさせるのだ。あまり気分の良い話ではなかった。


 年長者としては、この子ども相手にどう接するのが正解なのだろうか。思えば誰かを相手に大人として振る舞う必要があるのは、初めてのことだった。


「食事にしないか?」


 気づけばそんなことを言っていた。食事と聞くと拒否感が出るのか少女は顔をこわばらせる。


「ここは秘密基地だ」


 僕は言った。少女は、ポカンとした表情を浮かべた。おかまいなしに話を続けた。


「誰にも知られていない秘密の場所で、自分だけの時間を過ごす場所。日常とは切り離された異空間で、俗世の煩わしさを忘れられる場所」


 もともと僕がここを秘密基地にしようなどと考えたのも、現実を忘れたいからだった。


 僕は手元のスイーツ缶を開けて、スプーンを添えて少女の方へと押しやる。


「秘密基地でぐらい親の求める振る舞いをしなくたっていいんだよ」


 言っていてなんだか気恥ずかしくなってきた。いい大人が秘密基地を連呼するものなのだろうか、という気分になる。そんな大人の言葉を少女は聞き入れてくれるのだろうか。


 果たして少女は、おずおずとしながらもスプーンを受け取ってくれた。


「そうですね。そうですよね……」


 缶を両手で包み込むようにして、中身を目をパチクリとさせながら見て、こう呟いた。おもむろに、手を合わせる。


「いただきます」


 毒味でもするかのような慎重な手つきでスプーンでつつき口に運ぶ。何度かの咀嚼の後飲み込んで、


「……おいしい」


 茜はそこでようやく、年相応の笑みを浮かべた。



 腹を満たした後、茜は母の元に戻ると宣言した。もう目を背けるのはやめる。彼女はそう言った。


「難しいとは思いますが、話し合ってきます」


「本当に、大丈夫か?」


「はい。それに、いざとなったら『秘密基地』がありますから」


 ニッと彼女が笑った。先ほどまでの茜の顔に浮かんでいた暗い表情が嘘のように消えていた。


「はは、まあ、避難所には最適だな。このまま維持できるよう努めるよ」


「お願いします。また、戻ってきますから……待っててくださいね」


 茜はそう言って、穴の縁へと手をかけた。


 彼女が出て行った後の、白世界は静寂に包まれていた。彼女が来る前の静寂と同じはずなのだが、ずいぶんと静かに感じる。


 僕もいったん白世界から出て自分の部屋へと戻ることにした。


 いざ戻ってみると、数時間しか空けていないにも関わらず、殺風景ながらも生活感のある自分の部屋がなんだか懐かしい風景のように感じた。


 部屋に戻ってすぐに、先ほどまで一緒にいた茜のことを思い返した。ただでさえ閉塞感の漂うこの世界で、母親によって神に祭り上げられたあの少女は、それでも最後に母親と向き合うことを選んだ。


 逃げ続けている僕からしてみれば、彼女の存在は眩しいくらいだった。


 ふと床に落ちている縄に目をやる。縄の先は括ってあって頭一つ分が通るようにしてあった。ため息をつき僕はそれをゴミ箱へと突っ込んだ。我ながら影響を受けやすい人間だと思う。


 もう、座して死を待つだけの人間でいることはやめようと思ったのだ。


 部屋を出て物置に向かった。


 怖がりで、災害時の備えを誰よりもしていた父親は、この物置に大量の食糧、燃料、医薬品を蓄えていた。おかげでライフラインが絶たれて久しいこの場所でも僕は生きながらえることができている。


 まあ、肝心の父親は、仕事先で〝感染〟してしまい死んでしまったのだが。


 僕はその中から、マスクを回収し、物置から出た。


 その時、声が聞こえた。隣人の不快な、濁った唸り声だった。


「ヴ、ヴァアア、アー」


 二十四時間時を選ばず、叫び通しの隣人が僕の神経を苛立たせる。


 あの穴が見つからなければ、気が触れていたに違いない。


 世界は変わってしまった。数年前に世界的な流行を見せたウイルスによって。


 僕は感染者の牙が通らないよう厚手の服を着て、リュックを背負い、気休めの武器としてバッドを手に持った。最後にガスマスクをつけて覚悟を決める。


 玄関に向かい、僕はバールを取り出して、家の出口を塞いでいた板切れを取り外しにかかった。


「僕も前向きに生きることにするよ」


 こう呟いて、ゾンビの溢れる世界の中へと飛び込んだ。

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