中庭から秘密の抜け道があるマンション

ちり六花

第1話 地下駐車場

「たぶん雨が降り出したわ。ちょっと待ってて」

フローリストナイフを置き、彼女はリビングに通じるアトリエの螺旋階段を降りて東側の部屋へと向かった。

安くはない賃貸マンション6階の広い軒下に降り込んでくるほどの雨ではなかったし、現にリビングの窓からは雨脚も見えない。

が、彼女は、畳んで置いてあったキャスター付きの室内干しを広げ始める。

 その間に、私はウッドデッキバルコニーへ出て、いくつかのハンガーを彼女に渡すと、受け取った彼女は「セミの鳴き声が止んだのよ。(雨が降ってきたんだな)って」と言った。

そういえば今日は彼女の住居兼アトリエのマンションへ入った時から妙な違和感があった。それは彼女が打ちっぱなしのコンクリートの壁と閉まっている窓の外からのセミの鳴き声を聞き洩らさないよう、BGMをかけていなかったからだ。

「相変わらず耳がいいんだね」

ちょっぴり皮肉を込めて言う。

 音大に合格したものの入学式の翌日に休学届を出して、同時期に合格した専門学校のフラワーデザイン科に入学し、音大に復学することなくそのまま花屋に就職した彼女だ。

本人は「わたし、誤解してたのよ。小学生のピアノコンクールで2位になったとき、悔しくて泣いてたんじゃないの。それまで出てた発表会では、弾き終えたら「田舎の庭先に咲いているのとは違う、販売されるために栽培された花がきれいにラッピングされた特別な花束」をステージでもらえたの。コンクールでは賞状しかもらえなくて・・・がんばったら花束をもらえると思って、ずっと楽しみにしてたのよ。後からになって気が付いたの。わたしはピアノを弾くのが好きなんじゃなく、花束が欲しかったんだって。でも、その気持ちが言語化できるようになった頃には、周りは皆、私のことを当然、音楽家になるように扱っていたし、ピアノが嫌いなわけでもなかったからなんとなく自分はそっちに進むんだろうなって思ってたけど、入学式でやっぱり違うかなって。合格したら好きなことしていいって、祖父との約束も一応守ったわけだし」と、いつかしれっと話していた。

もちろん、それは詭弁だ。

ご両親も専門学校を卒業したら復学してくれると思っていたに違いない。

が、在学中に入賞したデザインコンクールに協賛している花屋大手チェーンストアにまんまと入社してしまったのである。

今は店頭勤務から離れて、営業企画部へ移り、母の日などの広告用見本、カタログ販売用アレンジや、カレンダーや写真集用のデザインを担当している。

かつて彼女と私は音大沿線の東長崎駅近くにあるマンションの同じ階に住んでいた。

お互いほぼ毎朝同じ電車に乗るのと、駅南の小さな洋食店の常連であったこと、音楽の話ができることが重なって、池袋駅で丸の内線と山手線に別れるまで平日の朝はほぼ行動を共にするようになり、やがて就職した彼女と偶然にも仕事で顔を合わせることとなった。

「この部屋、ライティングレールが元々ついてて、インスタの撮影用に便利だったんだけどね」

まだ目立つほど大きくなっていないおなかをさすりながら、階段を上った先のアトリエに戻りつつ、彼女が言った。

 大きなアーチを描く天井に、アトリエから見渡せる吹き抜けのリビングに面した窓からの適度な採光と遮光。

 孝之との結婚を機にほぼ一目惚れ状態でこの部屋への入居を決めたらしいが、年内には「おめでたい」理由で、仕事場と住居をわけることになり、近くにできた別のマンションへ引っ越す予定だ。

「今度は仕事の依頼じゃなく、遊びで来てね」

と言われて「そのことなんだけど・・・」と私は切り出した。

「8月に実家近くの大船のマンションへ引越しすることになったの。」

 事務所でのポジションもあがって仕事が忙しくなり、彼女と会う回数も減ってはいたが、おそらく今まで以上に会いづらくはなるだろう。

「ちょっと遠いかなぁ。孝之は知ってるの?」

「引っ越ししようか迷ってるって話は、以前、少しね」

「孝之からなんにも聞いてなかったわ。私の方がゆきちゃんとは旧知の仲なのに」

 ある日、広告の撮影のためスタジオへ入るところで隣の宝石店の活け込みのために向かう彼女に偶然出くわした。

 それは同行していたカメラマンの孝之と彼女との出会いでもあり、不本意ながら、私は二人を結んだキューピッド役となった。

「一応、社外秘だからね」

「私に言っちゃっていいの?」

「どうせ年賀状出すし」

「まぁね。はい、おまたせ。できたよ。こんなカンジでいい?」

 会話しながらも手を動かしていた彼女の作業台に初夏らしい白とブルーをメインにしたさわやかなフラワーアレンジが出来上がっている。

「ありがと。前回と同じ人気デザイナーのアレンジって伝えておくよ」

「ショップカードもよろしくね」

シルバーで描かれた花屋のロゴがデザインされた大きな紙袋にアレンジを入れてもらうと、エレベーターで地下の駐車場へ向かった。


いつもは途中で誰かが乗ってくるのに、めずらしくスムースに降りる。地下までノンストップと思っていたが1階で止まった。ドアが開いて特徴あるウィスキーと煙草の香りをまとった男性が一人乗り込んできて横を通り過ぎ、奥の角へと向かっていった。

やがて閉まるドアのすぐ内側で(まだ昼過ぎで、しかも、この下は駐車場しかないんだが・・・)と思いつつ、一緒に地下へ降りる。

たった1階分だけの移動はすぐに終わり、エレベーターを降りて車に近づきあることに気が付いた。

鞄がない。

左手に持ったアレンジの大きさに満足して、鞄を忘れてきた。

幸いキーはポケットに入ったままだったので、とりあえず、助手席にアレンジを置いて、部屋へ引き返す。

せっかくほぼスムースにきたのに。

今頃、彼女は鞄に気がついただろうか、それとも気づかずに、再び姿を見せる私を笑うだろうか。

そう思いながらエレベーターホールに立つと、エレベーターは地下でとまったまま。

(ラッキー)と思いながらボタンを押して驚いた。

開いたドアの一番奥に、先ほどの男がまだいる。

おそらく本人はまっすぐなつもりで、しかし斜めに立って壁にもたれ、眠っている。

ジャケットを着てはいるが、やや明るく染めてある髪を見て(普通の会社員ではなさそうだ)と思いつつ、背を向けて6階のボタンを押し、来た時と同じようにボタンが目の前の、かつ、ドアのすぐ近くに立った。

男がボタンを押すような気配もそぶりも、もちろんなかった。


この男を見たことがある。

ドアが閉まる瞬間、不意に思い出した。

たぶん、顔は知っている。

うちの事務所からも数人が参加しているイベントに出演していた動画サイトの人だ。

同年代らしい若いベーシストとアニソンを演奏していたピアニスト。

出演者もスタッフも多かったし、なにより仕事絡みで会場に足を運んだ程度の興味しかなく、名前は思い出せない。

ここに住んでいるのか、友人が住んでいて遊びに来たのか・・・

果たしてエレベーターは1度も止まらず、6階でドアを開けた。

降りたのは私一人で、男はあいかわらずの姿勢で壁にもたれたままだった。

一声かけるべきかと思ったが、やっかい事に巻き込まれる気もして、そのまま後にした。


 インターフォンを押すと後片付けをしていたらしい彼女は事情を聞いて軽く笑いながらドアを開け、TUMIの黒いビジネスバッグはリビングの黒いソファでステルス化しながらそこにあった。

「ねぇ・・・引っ越しは私のせい?」

細長い廊下に向かおうとした時、彼女は私に尋ねた。

「違うって。母の体調がちょっとね」

それも理由の一つだから嘘ではない。


孝之と彼女が付き合い始めたときに沸き上がった感情。

それが嫉妬だと自覚するのに時間はそうかからなかった。

自分の中の女性は恋愛対象に男性を選ぶと思っていたし、一度も成就はしなかったが今まで好きになったのも男性だった。

それまで私の中で彼女は友人のはずだった。

たまらなく愛おしく思う時もあったが、それは自分とは違う女性としてのかわいらしさに対する憧れか、尊敬と恋愛の感情は似ているという、きっとそんなものだろうと、思っていた。

違う。

友人を取られてしまうような寂しさとは違う。

自分が女性であることで悩んだことは幾度もあったが、それまでのそれとは違う。

自分が男性であったなら、孝之のように彼女を愛せたのだろうか。

孝之のように彼女に愛してもらえたのだろうか。

自分は女性として彼女を愛しているのだろうか。


恋人のいる彼女でも、友人としてなら近くにいられると、わたしは理解ある人と彼女よりも先に入籍して、自分は彼女の友人であるという立ち位置を彼女にも周囲にも証明してみせた。

しかし、歪な結婚生活が長く続くはずもない。

離婚して初めて自分の複雑な心の一部を打ち明けたとき、戸惑った彼女の表情を今も覚えてる。

「話してくれてありがとう。でも、どうしたら反応したらいいのかよくわからなくて・・・」

世間にも自分にも理解され難い私を拒否も否定もアウティングもされなかった。

やがて彼女が孝之と結婚しても、今まで通りの友人関係は続いた。

仕事を理由にほかの友人以上に彼女とは度々会った。

あの告白で断ち切られることはなかった。

彼女の私に対する態度が変わらない。

それだけで十分だった。

それ以上は望まなかった。

自分中の女性がそのままで彼女の傍に存在していてもいいのだと思わせてくれた。

彼女のいるこの部屋にいる時だけはそれを隠さなくてもよかった。


でも今日が『最後』。

廊下のその先にある玄関までの距離が永遠に長くあってほしかった。

いつかこういう日が来るのはわかってた。

わかってる。

このままではいられない。

彼女に子どもが生まれる。

『最後』にしなくては。

それをこの部屋に来るたびに、何度も何度も、それを何年も何年も繰り返したことを自分が一番よく知っている。

こんどこそ、ほんとうにこれが『最後』

わかってる。

もうたぶんここに来ることはない。

『終わる』

あと1歩。

靴を履く。

振り返る。

「じゃ、また」

「落ち着いたころ、またね」

彼女は笑顔で返す。

焦りのような感情でもがいている自分とは対照的にあっさりと。

わかってる。

彼女はあと2か月はここでの生活が続く。

だが、自分は?

次にもし彼女と会うことがあってもこの部屋ではない。

彼女と過ごしたこの部屋が好きだった。

ほかの誰にも見せない自分が許された場所だった。

玄関のドアを開ける。

いよいよ終わってしまう、終わってほしくないのに、こんなにも終わらせたくないのに。

自分の中の理性を恨む。

わかってる、わかってる、わかってる。

いま後戻りしたら、この部屋だけでなく、彼女の友達という立ち位置を失ってしまう。

彼女には一生会えなくなる。


外に出た。

室内の彼女に向って軽く手を挙げて、エレベーターに向かって歩き出す。

後方でドアの閉まる音がする。

『終わった』

自ら終わらせたのだ。

彼女のような存在に生涯出会える気がしない。

この部屋のような身を委ねられる場所が見つかる気がしない。

自分が変化できるのか。

彼女の代わりになるような誰かと巡り合えるのか。

相手は男性なのか、女性なのか。

それまでずっとこの心と体のゆがみを抱えていくのか。

人生八十年としても折り返しにすら来ていない。

このままの自分でこの先まだ続けていかなくてはいけないのか。


やってきたエレベーターの室内に先ほどの男はいなかった。

目が覚めて、あるいはほかの誰かに起こされて自分の部屋にでも帰ったのだろうか。

あの男の様に今すぐ酔いつぶれたい気分だった。

誰にも会いたくないときに限って、エレベーターはすぐ下の5階で停まる。

若い女性が一人乗ってきた。

すぐ私に気づき、その顔を綻ばせ、話しかけられた。

「失礼ですが、YUKITOさん?ここにお住まいなんですか?」

「いや、仕事の関係で」と言葉を濁す。

「先週発売された限定アルバムBOX買いました。今持ってたらサインしてもらうのに」

「すみません、握手でよければ」

「うれしいです。ぜひ!」

「僕こそ光栄です。ドームツアーも楽しみにしててくださいね」


私の中の女性は一瞬にして体に合わせた『僕』の仮面を被った。

                        Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中庭から秘密の抜け道があるマンション ちり六花 @tirikarikka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ