スウィート・フランツェン
ヨーハンとアンナには、なかなか、子どもが授からなかった。
ヨーハンは、すでに50代も後半になっていた。
ある晩、何気ない口調で、ヨーハンはつぶやいた。
「お前には、とうとう、子どもを抱かせてやることができなかったな」
「あなた……」
アンナは目を見張った。
初めて会った時は、15歳だった妻も、年齢を重ねていた。
目尻の皺が、愛しい。
「だが、お前が気に病むことはない。全ては、私の責任だ。お前と会った時、私はすでに、37歳だったからね」
「……結論は、まだ出ていないわ」
アンナの声は、落ち着いていた。
「あのね。イーダおばさんが言ったの」
イーダおばさんというのは、シュタイアーマルクの、主婦である。アンナ達妹弟は、幼い頃に母を亡くした。その彼らの世話を、何くれとなく、焼いてくれた人だという。
「新婚夫婦のようになさいって。もし、あなたがおいやでなければ……つまり……顔を合わせるたびに……」
ぽっと顔を赤らめた。
「あなたは、ご存知だったかしら。それで、子どもができるんですって。今まで、少なすぎたんじゃいの、って、おばさんが。だから、単純に、回数を増やせばいいんじゃないかしら」
もちろん、ヨーハンは、知っていた。
だが、彼には、ためらいがあった。
……他国は戦え。幸いなるかな、オーストリア。汝はまぐわえ。
その血により、版図を拡げてきたオーストリア、ハプスブルク家。
しかしそれは、女性の犠牲の上に成り立っていた。
後継者問題にぶつかる度に、ヨーハンは、自分の母親を思わずにはいられなかった。
神聖ローマ皇帝レオポルド2世の妃だった母は、ほぼ毎年のように、子どもを生んでいた。ヨーハンは、ゆっくりと母と過ごした記憶がない。
兄の皇帝の2番めの妻も、同じだった。彼女は、12人目の子を流産した時、産褥で亡くなっている。
2番めの兄、トスカーナ大公だったフェルディナント大公の妻も、6番目の子を死産した後、死去している。
姪のマリー・ルイーゼもまた、ヨーハンと同じく、母との思い出が極端に少ないのに違いない。彼女の場合は、同じ女性だから、より、複雑な思いであったろう。
だから、
母の愛を知らずに育ったから。
だが、彼女の場合は、葛藤は、乗り越えたようだ。パルマで、何度も妊娠している。ナポレオンとは違う男の、子を。
……出産は、女性の体に、大きな負担となる。
ヨーハンは、女性を、子どもを生む機械のように扱うことに、反対だった。
若く美しい妻を、ハプスブルクの女の掟で縛りたくはなかった。彼女より遥かに年上である自分の子を産ませることで、傷つけたくはなかった。
子どもが、欲しくなかったわけではない。
ただ、ヨーハンは、恐ろしかった。
自分のせいで、彼女を損なうことが。もしかしたら、自分より早く死なせてしまうことが。
アンナがにじり寄ってきた。
「私のことを、軽蔑されるかしら。あなた。あなたには、まだ、チャンスはあるかもしれない。でも、女の私には、この辺りが最後だと思うの。私、赤ちゃんが欲しい」
妻が、子どもを欲しがっているのは、なんとなく感じていた。
自然に任せればいいと、ヨーハンは言っていた。ヨーハンは、妻より、22歳、年上だ。衝動に身を任すには、最初から、年を取りすぎていた。
彼自身、この頃だいぶ、衰えを実感していた。大好きな山上りの回数も、減っている。
……このままいったら、自分は確実に、妻より先に死ぬ。
しばしば、ヨーハンは、思う。
妻より先に死ぬのは、夫として、幸福といえた。だが、一人残された妻は、どうなってしまうのだろう。
悪意溢れる宮廷……かつて彼女のことを、「田舎娘」「村の情婦」と罵った……に、一人、置き去りにされた妻は……。
ヨーハンの腕を掴んだ妻の手に、力が入る。
「私、あなたとのあいだの子どもの顔を、どうしても、見てみたいの」
8年前のことを、ヨーハンは思い出す。
彼女の息子フランツ……ウィーンに置き去りにされたナポレオンの息子……は、真っ先に、母を救いに、パルマへ駆けつけようとした。
それは、彼の死の、1年と少し前のことだった。すでに、彼は、体の変調を感じていたはずだ。胸を病んで死んだから、息をするのも、苦しかったろう。
結局は、彼の参戦は混乱を助長するだけだからと、皇帝に禁じられたわけだが。
その後のフランツの落胆ぶりは、見るも気の毒なほどだった。
……子どもは、母を守ろうとする。
青く澄んだ、真っ直ぐな瞳が、脳裏に甦った。
……父親が、いなくなった後も。
静かに、ヨーハンは、妻を抱き寄せた。
◇
1839年。
ヨーハンとアンナの間に、男の子が生まれた。
まるまると太った、健康な赤ん坊は、フランツ・ルードヴィヒと名付けられた。
「フランツ」は、もちろん、兄の皇帝の名だ。かつてその名は、孫に受け継がれていた。祖父より早く死んでしまった、孫に。
「フランツェン。かわいいフランツェン」
生まれたばかりの赤子を、妻があやしている。
亡くなった
「スウィート・フランツェン」と。
fin
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ライヒシュタット公の幼少期における、大変可愛らしいエピソードは、本編の1章後半と2章に記されています。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
また、ノベルデイズさんには画像入りで、チャットノベルの形で上げてあります。これ、なかなか人気(当社比)です。
https://novel.daysneo.com/works/3e4f3649d09f9258ae65e5ada3f9bebb.html
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