15・罠師、三たび捕わる

 狩谷は、連れ戻した運送屋の青年を高森の前に押しやりながら言った。

「この方の素性を調べていただけませんか? ちょっと引っかかるところがありまして」

 青年は言った。

「なんですか⁉ 僕はただ仕事で……」

 狩谷は青年に微笑んだ。

「分かっているよ。二、三、確かめておきたいことがあるだけさ」

 高森は、警察手帳を青年に見せながらうなずきかけた。

「ご協力ください。若林さん、どこかお部屋をお借りできませんか?」

 高森も、狩谷の疑いは当然だと感じていた。若林のぎごちない態度と今の状況を考え合わせれば、青年が持ち込んだ荷物が会社の業務に関するものだとは信じきれない。

 若林は我に返って、受付けブースの横を指さした。

「あちらを……」

 そのドアには小さく『スタッフルーム』と書かれている。

 高森は青年の背を押して誘導した。

 狩谷はうなずくと、運転手の前に立って黙って手を差し出した。

 運転手は戸惑った。

 荷物が捜査当局に渡してはならないものだということは分かっている。が、目に触れてしまった以上、隠すことはできない。

 運転手は若林に目をやった。

 若林は無表情に小さくうなずいた。

 運転手はしかたなく紙包みを狩谷に手渡した。

 狩谷は荷物を受け取ると、若林に言った。

「オフィスに戻るとしましょうか」


         *


 荷物は机に置かれた。

 若林は、じっと紙包みを見つめる。

〝罠師は、これっぽっちの品物でいったい何をしようというのか……〟

 戦う他に道はない。戦って罠師をねじ伏せなければ、生き残ることはできない。

 狩谷が言った。

「では、ここでその荷物を開けていただけますね?」

 若林の頭は全速力で活動していた。

 罠師の第一の反撃は、中田を切り捨てることで回避した。むしろ、自分に有利な方向へ流れを変えた。今度も、罠を逃れる方法はあるはずだ。しかし、罠の正体を知らなければ、逆用することもできない。開封を拒否すれば、荷物の内容を見極めずに特捜部に手渡すことになる。それは、白旗を上げるに等しい。

 若林は大きく深呼吸してから答えた。

「分かりました……」

 若林にとっても、紙包みの中身を知ることは死活問題だった。包みを開けようと、手をかける。

〝恐れるな。私は罠師の急所を握っているのだ。奴らが〝ダビデの星〟を奪った犯人である以上、どんな罠を仕掛けてきても私の優位は揺るがない。検察ともあろうものが、犯罪集団などの言いなりになるものか。……しかし、万一文書が本物だったら……その時は、検察との全面対決を覚悟するしかないのか……〟

 若林は必死に一手先を読もうと計算を続けていた。

 そして、手を止めた。

 不意に動かなくなった若林を、狩谷が促す。

「どうしました?」

 若林はうつむいたまま動かない。

 狩谷は抑揚のない声で穏やかに繰り返した。

「今のところ、強制的にあなたの所有物を捜査する権限はありません。ですから、改めてお願いいたします。荷物を開けていただけませんか?」

 若林は狩谷の真剣な目を見返し、ゆっくりとうなずいた。腹が決まったのだ。

 事実に勝る武器はない――。

 少なくともその瞬間は、そう思えた。

「どうやら、正直にお話する以外にないようですね。まず、先程の電話のことをご説明しておかなければならないでしょう」

 宇野がうなずいた。

「やはり、業務の電話ではなかったのですね?」

「ええ……。信じがたいことなのですが『立木君が残した文書を持っている』という者からの脅迫でした」

「なんですって? 〝立木文書〟はあなたの創作なんでしょう?」

 若林はうつむいた。

「まさか、想像の産物にすぎない〝立木文書〟が、実在するとは……。しかも、こんな時に私の元へやってくるなどとは……」

 狩谷が言った。

「なぜ、すぐに教えてくださらなかったのですか?」

 若林は顔を上げた。

「中田からの不当な中傷かと思ったのです。もちろん、造反を決意したことは誰にも知らせていません。しかし中田は動物的な勘が鋭い男です。あるいは私の寝返りを予期し、先手を打ってきたのかもしれないと……。私が偽文書で戦おうとしたように、中田が私を陥れようとしても不思議はありません。ですから、最初に自分の目で内容を確かめたかったのです」

 宇野が言った。

「しかし、それが本当に立木さんが書いたものなら、どうする気だったのですか?」

 若林はわずかに口ごもった。視線が、マスコミ関係者へと向かう。

「その……その判断は、私には下せません。本物の可能性があっても、どのみち検察のお力を借りる他はなかったでしょう。中田の陰謀だと暴いていただかなければ、私の立場が危いですから。しかし場合が場合ですから、捜査関係者へのご報告はマスコミの方が帰られてからと……。気が動転していたもので……」

 狩谷が言った。

「では、ここで開けることに異存はありませんね?」

「もちろんです。ただし、私を中傷する文書が出てきても、鵜呑みになされないでください。中田の罠かも知れませんから」

 狩谷はにやりと笑ってからうなずいた。

「それは決して忘れません」 

「では、高森さんが戻られたら封を切りましょう」


         *


 十分後に高森がドアを開くと、若林が待ち兼ねたように声をかけた。

「青年の身元は分かりましたか?」

 高森は、自分のために空けられていたソファーに腰を下ろした。目は机の荷物に注がれている。

「本人が言った通り、渋谷の運送会社の社員でした」

 若林は重ねて尋ねた。

「で、この荷物は誰が預けていったのですか?」

 高森は若林の心の奥をのぞき込もうとするかのように彼を見つめた。

「若林さん……あなたはご存じないのですか? つまり、仕事とは無関係だということですね?」

 若林はうなずいた。

 高森は宇野に目を向ける。

 宇野が言った。

「私も、誰が預けたのか知りたいな」

 高森は答えた。

「初めての客で、近くで弁護士事務所をやっていると名乗ったそうです。名前は中峰薫――」

 若林の頬がかすかに引きつった。それは、〝ダビデの星〟を隠し持つ弁護士だ。

〝くそ……いったい罠師は、何を始めたんだ……? なぜ、自分から捜査線上に身をさらす……?〟

 高森はじっと若林の表情を見つめながら報告を続けた。

「中峰という男は夕方に事務所を訪れて『夜遅くに荷物を届けるから待機していろ』と要求しました。その際に料金も過分に前払いしたといいます。男がこの荷物を持ち込んだのが約三〇分前でした。で、こっちはどうなったのですか?」

 狩谷が成り行きを説明した。

 高森は首をかしげた。

「奇妙な話ですね……中田の罠にしては早すぎるし、偶然ならタイミングが良すぎる。で、若林さん、その荷物は何と交換したのですか? 代償を支払ったのでしょう?」

 若林はすでに答えを用意していた。

「いいえ、受け取っただけです。電話の相手は、『代金は中身を確認した後で払え』と言ってきたのです。ここにあるのは文書の一部分だけだそうですから」

 二億円相当のダイヤモンドを渡した、とは言えない。本気で文書を恐れていなければ、そんな大金は捨てられない。

 運送屋の青年が、ダイヤを高森に渡した可能性は高い。それでも、認めることはできなかった。たとえ強引な抵抗だろうと、時間を稼げば勝機を引き寄せられる――若林はそう結論していたのだ。

 この荷物が宗八の罠であっても、知らぬ存ぜぬを通しているうちに捜査線上に罠師の存在が浮かび上がる。それがかなわぬなら、引きずり出すまでだ。義賊を気取る罠師とて、本質は単なる詐欺集団だ。『運送屋が持っていたダイヤは罠師の小道具だ』と言い張れる。

 高森はかすかに笑った。

「本当ですかね? 青年が、妙なことを言っていました。『荷物の代わりに封筒を受け取ったが、なくしてしまった』とか……。その封筒を、弁護士と名乗った男が後で取りにくるはずだったそうです。……あなた、ダイヤを渡したんではないでしょうね?」

 若林は内心の動揺を圧し殺して首を振った。

「私のダイヤは、血がにじむような思いを重ねて手に入れた財産です。得体の知れない脅迫文書と替えられるわけがない」

 高森は肩をすくめただけだった。若林の主張を崩すに足る物証は揃っていないのだ。

 若林は、ダイヤモンドは罠師が奪ったのだと確信した。

〝罠師め、やはり小物だな。二億程度の金に目がくらんだか。ダイヤに手をつけずにいればチェックメイトだったものを……〟

 若林には余裕が生まれていた。金を払った証拠がなければ、その内容に責任を持つ必要はない。何が収められていようと、勝手に送りつけてきただけだと主張できる。

 狩谷が言った。

「その点は後ほど捜査を。ともかく荷物を開こうではありませんか」

 男たちが机のまわりに集まる。

 若林は小さくうなずくと、立ち上がってガムテープの封をはがし、包み紙を広げる。中から現われたのは段ボールの箱だった。若林は引き出しから真鍮のペーパーナイフを出すと、箱のテープを切る。ゆっくりと蓋を開き、隙間に詰められた古新聞を取り出す……。

 新聞の下から最初に見えたのは、小型のトランシーバーのようなものだった。

 狩谷がつぶやく。

「何でしょう……?」

 若林にも理解できない。だから、口も開けなかった。

〝何だ、これは……?〟

 狩谷は肩をすくめながら、ポケットから白い手袋を取り出す。薄い手袋をはめながら言った。

「後で指紋を採取します。私が取り出しましょう」

 狩谷はトランシーバーらしきものを摘んで、持ち上げた。

 同時に、それがキーンという甲高い音を発した。

 机の上に乗り出していた男たちの頭がわずかに離れる。

 狩谷はトランシーバーを机に置き、上に軽く手のひらを乗せた。とたんに音が止まる。

 藤堂が首をひねる。

「何です……?」

 狩谷は言った。

「盗聴器の受信機……のようですね。このスピーカーから出た音を盗聴器が拾って、またスピーカーへ回る――送信機と受信機を近づけすぎて、ハウリングを起こしたんでしょう。この近くに送信機があるはずです。後で探します」

 狩谷がトランシーバーに当てた手をわずかに離すと、再び発振音が起こる。そのまま盗聴器をつまんで振り返ると、裏返してソファーに置いた。

 スピーカーを塞がれた受信機から、発信音が聞こえなくなった。

 狩谷は、さらに古新聞を開いていく。

 その下には黒いアタッシュケースと、一通の封筒が収められていた。

 若林の呼吸が止まった。

 箱の中のアタッシュケースは、ノートを入れて持ち込まれた物と瓜二つだったのだ。そのケースは机に置かれたままだ。

〝どういうことだ……?〟

 そして、直感した。

〝まさか!〟

 若林は、詰め物になっていた新聞の日付を確かめた。ノートに貼ってあった切り抜きと同じだ。そればかりでなく、一面に切り取った跡がある。大きさは切り抜きに近い――。

 その瞬間、若林の心の片隅に引っかかっていた疑問が解けた。

〝二つの鍵……〟

 若林は、罠師が最初に二つの鍵を送りつけてきたことを不審に思っていたのだ。二つは一見同じに見えたが、予備の鍵ではなかった。

〝もう一つの鍵は、こっちのケースに合うのか……〟

 立ちすくんだ若林の顔から血の気が引いた。

 若林はすでに『偽の立木文書は自分が書いた』と自白している。罠師の反撃を逆手に取る手段だった。だがそれは、文書を入たケースも自分の所有物だと認めたことを意味する。当然ケースの鍵も若林の物であり、一緒にされていたもう一つの鍵、さらには第二の鍵に合う第二のケースも彼の物だということになる。

 新たに送りつけられてきたケースの中身が何であれ、それは自動的に若林の所有物だということになってしまうのだ……。

 若林は悟った。

 罠師がダイヤを奪ったのは、欲のためではない。それは、若林の心臓に叩き込まれた止めの一撃だったのだ。

 ケースとその中身が自分の物なら、代金など払うはずがない。荷物の替わりにダイヤが渡されたことが知られて困るのは、罠師の側だったのだ。しかも若林は『金を支払ってはいない』と断言している……。

 罠を退けたつもりで、実は若林自身が退路を断っていたのだ。

〝中には、何が入っているんだ……〟

 誰が見ても、ケースの中身は若林の所有物でしかあり得ない。罠師はそこに何を忍ばせ、自分をどうしようとしているのか――若林には全く見当がつかなかった。

 狩谷がケースの上の封筒を取り上げる。若林に冷たい一瞥を投げかけると、ペーパーナイフで封を切って便箋を抜き出した。

 狩谷は紙に残っているかもしれない指紋を消さないように隅をつまんで便箋を広げ、黙読した。読み終えるともう一度若林に目をやり、手紙を宇野に渡す。

 宇野が目を通す間に、狩谷はアタッシュケースを取り出した。

「これは、同じ型のケースですね」

 机の上のケースと同一の製品であることは一目で分かる。

 若林は答えられなかった。

 狩谷はうなずいた。

「偶然の一致ではなさそうですな」

 狩谷はケースを開けようとした。鍵がかかっている。

 固唾を飲んで成り行きを見守っていた藤堂が叫んだ。

「さっきの鍵! あの鍵で開くんじゃないんですか⁉」

 狩谷はうなずいて、若林に言った。

「鍵をください」

 若林は動けなかった。

 狩谷は叫んだ。

「鍵を!」

 我に返った若林は、目の前の男たちを見渡した。そして肩を落とし、崩れるように椅子に座った。

〝何が出るか、見届けるしかなかろう……〟

 若林は机の上の金庫を開いた。

 とたんに、ソファーに伏せた盗聴器がわずかな発信音を漏らした。

 狩谷は、再び盗聴器をつまんで持ち上げ、金庫に近づけた。音が高まる。

「キーホルダーが発信器のようです。確かめます」

 狩谷の声が盗聴器を通り、さらにハウリングを起こして反響する。

 狩谷は受信機を持って隣の部屋に移動した。

 ドアを閉め、叫ぶ。

「何か言ってください!」

 高森が金庫の中にぼそぼそとつぶやく。

「高森です。これが片付いたら、新橋で一杯いきますか?」

 ドアが開いて、にやりと笑った狩谷が戻る。

「ゴールデン街ならお供しましょう。ガード下はうるさくてね。受信機は向こうの部屋に置いてきました。手製らしくて、周波数を変えるダイヤルが見当りません。この盗聴器専用に作られたものでしょう」

 藤堂がつぶやく。

「その鍵は、最初からこの部屋に置かれていました。我々の会話が弁護士に筒抜けになっていたわけか……」

 狩谷が厳しい表情でうなずく。

 だが内心では、マジックの成功に胸をなで下ろしていた。宗八から命じられた役を、無事に終えることができたのだ。

 トランシーバー型の受信機は、確かにキーホルダーからの電波を受信する盗聴器だった。ただし、そこには竜子のトリックも加えられていた。つまんだ時に側面のボタンを押すと発信音を起こす。さらにスピーカー部分には体温センサーが組み込まれ、手を近づけると発信音が消える仕組みになっていた。狩谷はそのトリックを使い、実際には金庫で電波を遮断されていた盗聴器が、あたかも受信機に会話を送り続けていたように見せかけたのだ。

 そして、隣室で一人になった際に、あらかじめポケットに忍ばせていた別の受信機とすり替えた。それは、外見も盗聴機能も全く同じ受信機だったが、発信音を出す細工は施されていない。証拠品として残るのは、トリックのない受信機だけなのだ。

 最初に送り込んだキーホルダー型の発信機は、若林の気を緩ませるために不可欠な小道具だった。それがなければ若林の警戒心をかき立て、アタッシュケースの盗聴器が発見される危険が高まるからだ。だが、キーホルダーそのものは、捜査機関の手に渡る。盗聴器であることも、いずれ知られる。若林が、自分の持ち物に盗聴器を仕掛けるのは、普通なら考えにくい。その矛盾を解決するのが、狩谷のマジックだった。

 宗八はトリックの手順を説明する際に、狩谷に言った。

『若林が最初のアタッシュケースを開けた時、話し声が聞こえたろう? キーホルダーの発信器は壊されちゃぁいねぇんだ。なのに、電波は届かねぇ。つまり、若林が電波を遮断しているってこった。こっちが予想していたとおりに、な。だから竜子にこの手品を用意させた。こいつで記者どもに、「最初から盗聴されてたんだ」って思い込ませる。鍵と盗聴器は若林の物ってことになってらぁ。だから受信機を持ってる奴――つまり弁護士は、若林の手下だ。それもただの使いっ走りじゃなくて、盗聴しながら外で謀略をコントロールする副官だ――ってぇ証拠になるわけよ』

 それが、罠の〝仕上げ〟の始まりだった。

 狩谷は金庫の中から鍵を出すと、ケースに差し込んだ。二つ目が合った。

 皆が、押し殺していた息をもらした。

「開けます……」

 ゆっくりと開かれたケースに視線が集まる。

 若林は力なく座り込んだままだった。目は虚ろだ。若林からはケースの中身は見えなかったが、立ち上がってのぞき込む勇気はすでに失われている。

 他の捜査員たちは狩谷に主役を譲り、手を出そうとはしなかった。

 狩谷は次の中身――グリーンのバンダナに包まれた何かを机に出す。ゴトンと、重そうな音がする。

 開いたバンダナから出てきたのは、鈍く光る拳銃だった。

 高森が言った。

「ジェリコ……かな? これはまた、めずらしい銃ですね。イスラエル製です。私も、本でしか見たことはない……」

 高森は身を屈めて、机の上の銃に鼻を寄せた。

 清田が身を乗り出す。

「使ってますか?」

「ごく最近。火薬の臭いがはっきりと残っています。私がお預かりいたしましょう」

 若林は痺れる頭で考えていた。

〝モサドの仕業ではなかったのか……〟

 アタッシュケースに銃を入れた意図は明快だ。

 罠師は昼間、銃撃を受けた。それは、罠師自身が演出した芝居だったのだ。白昼の発砲騒ぎは大勢の注意を引いたはずだ。当然警官も駆けつけ、現場に残された銃弾を採取している。そこには、発射した銃を特定する旋条痕が刻まれている。ケースから現われた銃が、発砲事件と関連づけられるのは時間の問題だ。旋条痕が一致することも間違いない――。

 若林は、殺人未遂犯にされようとしていた。あるいは、不良弁護士に大熊宗八射殺を命じた、冷酷無比の黒幕に……。

〝この窮地を脱する方法はないのか……〟

 若林は背筋に冷たい汗をにじませながら考え続けた。

 狩谷が次にケースから出した物は、緋色のベルベットに包まれていた。小さな卵ほどの大きさがある。

 清田がつぶやいた。

「何だろう……」

 狩谷はゆっくりと布を広げた。

 男たちの呼吸が止まった。

 現われたのは、水晶のようなゴツゴツとした石だった。だがその一面は鏡のように磨かれ、透き通った表面に小さな文字がびっしり刻み込まれている。

 高森がうめく。

「まさか……ダビデの星……?」

 藤堂が首をひねる。

「イスラエルの秘宝⁉ なぜ、こんなところに……?」

 巨大なダイヤモンドは男たちの食い入るような視線を集め、気品に満ちた輝きを放っていた。

 狩谷は大きな溜め息をつくと、〝星〟を若林の鼻先に押しやった。

「ご説明していただけますね」

 若林は頬をひきつらせた。身体は強ばって思うように動かせない。それでも若林は、激しく震える指先を〝星〟に伸ばそうとした。

 狩谷が叫んだ。

「触るな!」

 若林の指先がぴたりと止まった。腕は宙に浮いたまま震えを増していく。

 狩谷は穏やかに言った。

「指紋を調べなければなりません。あなたの荷物から出てきたんですからね。鑑識が来るまで、誰も触ることは許されません」

 若林は腹の中でつぶやいた。

〝指紋……だと? 弁護士が拭いたのを確認したが……〟

 若林は指紋を消せと命令した。弁護士がハンカチで丁寧に拭き取るのを自分の目で確かめた。だが、中峰薫は罠師の一員なのだ。意図的な拭き残しがあってもおかしくない。ほんの一部でも指紋が残っていれば個人を特定できる。〝星〟には、今も若林の指紋が――若林の指紋だけが残されているに違いない。

 誰も口を開かなかった。が、全員が若林に説明を要求している。

 若林は何も言えなかった。頭脳は能力を超える難局に直面し、機能を止めていた。

 狩谷はしばらく若林をにらみつけてから、溜め息をついて次の品物を取り出した。

 奇妙な物体だった。

 灰色の毛皮と黒いプラスチックの箱が、厚いビニール袋に詰め込まれている。

 若林は虚ろな視線をビニール袋に向けた。表情が曇った。それが何を意味するのか、にわかには判断できない。

 狩谷は袋から中身を出した。灰色の物は、カツラだった。短い白髪の間に黒々とした剛毛が散らばっている。そして天辺は禿げあがった皮膚になっていた。

 若林には、それが宗八の頭髪と瓜二つであることが分かった。そして、罠師の計画を完全に理解した。

 若林の顔色は死人も同然だった。

 宇野が若林を見つめてつぶやいた。

「若林さん……大丈夫ですか?」

 若林が聞いていたのは、宇野の声ではなかった。己れの未来が閉ざされる非情な轟音に耳を塞がれていたのだ。

 狩谷は少し笑ったようだった。指紋を消さないように気を配りながら、落ち着いた手つきでプラスチックの箱を開く。

 中身は変装用具だった。広口の小ビンに入ったラテックスや溶剤、口に含むらしい綿、ドーランに各種の筆――それらが箱の中に隙間なく収められている。変装のプロが用いる用具だ。何度か使用したらしく、筆は汚れ、ビンの中身はほとんど空になっていた。

 狩谷は、アタッシュケースから出した品々を机の上に並べ直した。そして最後に、ケースの底に残った一通の手紙を取り上げた。封は切られている。

 中から便箋を取り出した狩谷は、それを広げて男たちにざっと見せた。便箋は書いた者の律儀な性格をうかがわせる、小さく硬い文字でびっしりと埋められていた。

 狩谷は言った。

「読ませていただきます――。

『前略。突然このような不躾な手紙をさしあげることをお許しください。小生の氏名は、訳あってまだ明かすことはできません。貴殿と過去の苦難を共にした者だ、とだけ申しておきます。

 つい先日のことでございましたが、偶然にも雑誌に掲載された貴殿のお写真を拝見させていただきました。小生はこれまでの四〇年間、貴殿が生きておられるとは存じませんでした。現在でも立派にご活躍されていると知り、たいそう驚いた次第でございます。さすがにお歳は召されたご様子ですが、凛凛しいお姿は青年の当時と変わりなく、羨ましい限りでした。その上、今も大きなお力をふるわれている由、小生のごとき不肖の輩とは天と地ほどの隔たりと思いしらされました。そして、共に苦労した当時の事どもを思い起した次第にございます。

 思い起した事と申しますのは、もちろん太平洋戦争中の出来事でございます。我が軍占領下のフィリピンで起こりました、あの事件であります。ご立派な憲兵隊青年将校であられた貴殿の名誉を傷つけぬためにも、詳細を書き記すことは、控えさせていただきましょう。こう申し上げただけで、内容はご理解いただけるものと考えております。

 あの頃の貴殿も絶大な権力を誇っておられましたが、それにも増してのご出世、陰ながらお喜びいたしております。小生はといえば、散々でございます。実は、大変申し上げにくいことではありますが、このたびこのようの手紙をさしあげたのは、貴殿のお力をわずかばかりでもお借りできないものかと愚考したからであります。率直に申しまして、経済的な援助を与えていただきたいのです。大それたものをお願いしようとは思いません。老い先短く、身寄りも少ない老人が、余生を人並みに過ごせれば充分であります。ご一考いただければと思います。

 なお蛇足ではありますが、小生のささやかな楽しみとして、戦争当時のさまざまな出来事、特に貴殿と過ごした日々の記憶などを駄文に記しております。一応の形にまとまりつつありますので、新聞社などへも出版の話を持ちかけようかとも考えております。貴殿にお知り合いがおられましたら、この駄文をお預けしてもいいかと存じます。

 また小生の方からご連絡をさしあげることになろうかと思います。よろしく、ご配慮をお願いいたします』

――これで終わりです」

 宇野がつぶやいた。

「名前は?」

「ありません」

「他に差出人の痕跡は?」

 狩谷は首を振り、改めて封筒を調べた。

「ここにも何も書かれていません。脅迫状を書いた人物は、直接自宅にでも投函したんでしょう。高森さん、すみませんが、そっちの手紙も読んでいただけますか?」

 最初に荷物から出てきた手紙は、まだ高森の手に握られていたのだ。

 高森は言われて初めて、自分が手紙を持っていたことに気づいた様子だった。あわてて言った。

「え? ああ、これか……。うん、では読みましょう――。

『若林先生、申し訳ありません。私事の失態で、しばらく姿を消さなければなりません。全て私が至らなかったためです。これまで先生に何も申し上げなかったのは、無用なご心配をおかけしたくなかったからです。これ以上のご迷惑をおかけすることはできません。愚か者の不始末を、平にお許しください。この手紙がお手元に届く頃には、先生に命じられました役目は終えているものと思います。私にできる最後の恩返しですので、精一杯努めさせていただきます。なお、お預かりしておりました荷物は、申し訳ありませんがお返しさせていただきます。保管料としてお預かりした一千万円は、訳あって使わせていただきました。重ねてお詫び申し上げます。中峰薫』

――これだけですね」

 狩谷がつけ加えた。

「さて、若林さん。これらの品々が何を物語っているか、お話しいただけますか?」

 若林は無言だった。

 若林は、もはや若林ではなかった。宗八の罠にからめ取られた今、若林は罠師の頭目の役どころを押しつけられてしまったのだ。

〝ダビデの星〟を奪ったのが〝罠師〟と呼ばれる犯罪集団であることは、検察が内定している。その秘宝が現われただけでも、若林が罠師であることに疑いを挟む余地はない。

 しかも共に送られてきた品々が、罠師・若林が〝取ったであろう行動〟を説明し尽くしていた。

 発端は、過去の傷を材料に金をせびろうとする脅迫状――。

 若林には、フィリピンで戦った経験はない。しかし、それを証明する手段も持ち合わせていない。戦後の混乱期に全ての過去を抹消したのは若林自身なのだ。植民地の財産を収奪して戦後の地位回復の足がかりに用いたことは事実だからだ。

 そして当然、誰もがこう考える。

 過去を暴かれる危機に直面した若林は、脅迫者を抹殺しなければならなかった。そして、脅迫者が大熊宗八であることを探り出した――。

 その一方で宝石に造詣の深い若林は、折り好く日本に運ばれてきた〝星〟を盗もうと目論んでいた。そこで若林は、宗八を罠師の頭目に仕立て上げ、同時に〝星〟を我が物にする一石二鳥の策略を展開した――。

 若林は、宗八に化けて〝星〟を強奪した。送られてきた変装用具は、その際に使われた物だ。しかも、捜査が宗八に及ぶように、服役中の詐欺師に偽情報を流させた。若林は警察から情報が漏れ、モサドが犯人抹殺に動きだすと読んでいた。そうなれば〝星〟は永遠に闇に消え、しかも目ざわりな脅迫者は葬られる――。

 が、警察の口は堅かった。モサドは動かず、時が過ぎた。業を煮やした若林は自ら宗八を殺す決意を固め、モサドの仕業に見せかけて白昼銃撃を加えた。しかしその作戦も失敗し、若林は新たな機会をうかがわなければならなかった。そのために若林は、必要な用具や証拠の品をまとめて腹心の部下、弁護士・中峰薫に預けた――。

 一方では、中田を追い落として政界を制覇する〝大謀略〟が進行していた。弁護士はまた、ここでも重要な役割を担っていた。中田を告発する文書が立木の手によるものだと偽装するために、偽の脅迫事件を演じたのだ。盗聴器は、マスコミの反応を確かめながら芝居を進めるための小道具だ。だが意図に反して、優秀な尾行者が狂言を暴いてしまった。しかも、役を終えたとたんに弁護士が遁走し、捜査関係者の前に証拠品が現われてしまった――。

 それが、アタッシュケースの中身が証明する〝真実〟だった。

 若林は、中峰を利用できると判断したことを悔やんだ。

 人は金で動く。いかに罠師の一員であろうと、一億の金が不良弁護士を黙らせないはずがないと思い込んでいた。しかし弁護士は情報を流しただけでなく、罠の要として暗躍した。しかも、結果的には何億もの金を若林から奪っていった。

 若林は、初めて罠師の何たるかを理解した。

 高森が呆れたように言った。

「黙秘ですか……。まあ、説明の必要もないでしょう。政界の黒幕・若林孝則――実は希代の犯罪集団、罠師の首領だったとはね……。我々が極秘に追っていた罠師がこんなところでぼろを出すとは……。でも、考えてみればもっともな結末です。〝ダビデの星〟ほどの大きなヤマは、ずば抜けて狡猾な策士でなければ手に余るでしょうから……」

 若林は、かろうじて聞き取れるほどの声でつぶやいた。

「弁護士を……呼びます……」

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