14・策士、動転す

 沈黙を通していた狩谷が、ようやく口を開いた。その目は若林を冷たく見すえている。

「分かりました。そこまでのご決意がおありなら、私どもも相応の覚悟をもって応えさせていただきましょう。しかし、この告発であなたの罪が即座に消えるわけではありません。しかも、すぐに中田との全面戦争になります。敵はあなたの弱みを突いてくる。過去の不法行為を残らず知らなければ、足元をすくわれる恐れがあります。あなたの証言の価値を落としたくはありませんからね」

 若林が、狩谷の上司である宇野の顔色をうかがいながら言った。

「それは分かりますが……。私にどうしろと?」

 宇野は黙ったままだ。

 狩谷はわずかに身を乗り出した。

「このビルとあなたのご自宅を、捜索させていただきたい。それが、あなたの決意を生かす一番の近道です。捜査には立ち合っていただきますが、いかがでしょう?」

 若林も、その程度の要求は予測していた。拒否する理由はない。

「もちろんですとも」

 検察に見せられない情報には、常に万全の保安体制を敷いている。特に中田の逮捕後は、寝込みを襲われても尻尾を捕まれないように手を打った。もともと、裏金のやり取りや脅迫行為の証拠は残していない。記録は全てコンピューター内のファイルに収め、それは若林しか知らないパスワードでしか開かない。政財界の裏情報も、同様だった。

 そのファイルに無理に侵入しようとすれば、消去プログラムが作動して全ては無に帰す。若林が危険を察知すれば、データを消去する暗号を打ち込むだけで安全は守られるのだ。

 数十年にわたる情報の蓄積を放棄することは恐るべき損失だが、逮捕や死を回避するための最終手段だった。紙の記録なら廃棄には時間がかかるが、電子の記録を消すことは難しくないのだ。

 若林が恐れていたものはただ一つ。本物の〝立木文書〟に記されているかもしれない、自分への告発であった。が、それも明日には無力になる。未来を脅かす存在は、残らずこの世から消え去る。

 狩谷は念を押した。

「隠しだてなく見せていただけますね?」

 若林はきっぱりと言った。

「何なりと。確かに私は昔から中田に協力してきました。今の事業がここまで成長したのも彼のおかげです。しかし、特捜部の告発を受けるほどの大事件には関わってきませんでした。むしろ、その事実を知っていただきたい」

 狩谷の口調は冷たかった。

「事件をどう評価するかは、私たちの仕事です」

「納得が行くまで職務を果たしてください。あなたのおっしゃる通り、検察に信用されなければ中田の攻撃から身を守れませんから」

「捜査はいつ始められますか?」

 若林は微笑んでいた。

「いつからでも。今からでも結構ですよ」

 狩谷はオフィスに入って始めて、心からの笑みを浮かべた。

 宇野は二人のやり取りを一方的に聞くばかりだった。事態の展開に追いつけない。

 長年突き破ろうとしてきた障壁が何の前触れもなく、何の努力もなしに崩れたのだ。

 歓迎すべきだった。しかし、中田に対して執拗な執念を燃やし続けてきた宇野にしてみれば、拍子抜けするのも無理はない。

 宇野は若林にゆっくりと目を移すと、ようやく言った。

「……ありがとうございます。それでは、明日の朝からでも捜査員を入れさせていただきます。よろしく、ご協力ください」

 若林はオフィスに戻ってきた清田に目をやってうなずいた。

「検察の捜査となれば、マスコミ関係者は邪魔でしょうからね……」

 清田が言った。

「ちょっと待って。呼んだのは私たちですよ。いまさら邪魔者扱ですか……?」

 宇野が清田に鋭い視線を飛ばす。

「信用してください。混乱を起こさない範囲で情報は提供いたしますから」

 藤堂が厳しい口調で言った。

「その判断は私たちが下したいんですがね……」

 気まずい沈黙が生じた。

 その時、若林の机の電話が鳴った。

 若林は宇野に向かって軽くうなずくと、受話器を取った。いぶかしげな表情を隠しきれずにいた。

「私だが、どうした? 手が離せないのは分かっているだろう」

 口調から、相手は運転手だと分かった。

 狩谷がにやりと笑った。

 宗八が、次の手を打ったのだ。会話の推移を見極めた、絶妙のタイミングで。

 その笑みに気づいた宇野が首をかしげる。

 若林はじっと電話の話に聞き入って、二人の無言のやり取りに気づいた様子はない。

「…………。

 何だと? またなにか下らない話だろう。いいから、適当にあしらって切りたまえ。

 …………。

 気になることでもあるのか?

 …………。

 いいだろう。話は聞こう。つないでくれたまえ」

 若林の口調は、再び強ばっていた。捜査員たちにちらりと向けた視線にも緊張がうかがえる。

 電話の相手が替わったのであろう。若林は、一語一語をゆっくりと選ぶようにして静かに話し始めた。

「私が若林だが……。

 …………。

 その通りだ。で、どんな用件だね? 今はちょっと手が離せない。手短かに頼む。

 …………。

 うむ……説明してみたまえ」

 若林が相手の話に耳をかたむける数分の間、室内の空気はぴんと張りつめた。

 男たちは顔を寄せ合い、囁き声で議論している。時折、若林に視線が飛ばされた。

 若林は彼らを納得させるかのように、顔をしかめて肩をすくめた。その姿は、些細な用件で重要な会合を邪魔された社長にふさわしいものだった。

 しかし、若林の口調は激しい緊張を隠しきれなかった。

「まさか……。

 …………。

 話は分かった。最善の努力をしよう。しかし、時間が欲しい。

 …………。

 それは無理だ。性急すぎるぞ。

 …………。

 どうあってもか?

 …………。

 しかし、事が事だからな……。こちらにも事情が……。

 …………。

 そうまで言うならしかたなかろう。協力しよう。

 …………。

 君の望みは分かった。私が協力すると言ったのだ、信じたまえ!

 …………。

 もちろんだ。では、切るぞ」

 若林は叩きつけるように受話器を置いた。そして、男たちが無言で説明を求めていることに気づいた。

 だが、若林は考え込むばかりだった。

 狩谷が言った。

「何か起こったのですか? この一件に関係があるんでは?」

 我に返った若林はあわてて首を振った。

「とんでもない。仕事のことですよ。関連会社でつまらぬミスが起こりましてね。大きな取り引きが反古になりかけて……。私が直々に詫びをいれなければならないようです」

 狩谷が言った。

「こんな夜中に?」

 若林は狩谷を睨む。

「大きな取り引きは、しばしばこんな時間に行なわれます。申し訳ありませんが、今日のところはお引き取り願えないでしょうか?」

 宇野がうなずいた。

「そういたしましょう。取りあえず文書をお預かりして、検討させていただきます。部内で事態を整理して、明日中にご連絡をさしあげます」

 若林の表情にちらりと安堵が見えた。

 しかし、狩谷はきっぱりと言った。

「それはまずいですよ。業務は妨害したくありませんが、事は日本の将来を左右する最重要案件です。しかも、マスコミまで当事者になっています。報道規制は難しい。若林さんの転向を嗅ぎつけられれば、中田から反撃も受けます。ここは一気に足場を固めないと、危険じゃありませんか? 人の命に関わります」

 宇野はかすかにうなずいた。

「時間を与えれば、若林さんの安全も保障しきれないか……」

 宇野は高森に目をやった。

 高森は力強く言った。

「私もそうお願いしたい。人手は直ちに揃えます。こんなチャンスに中田に止めが刺せなかったら、笑い者です。今日のうちに体制を整えて、反撃に備えようじゃないですか」

 宇野が若林を見つめた。

「どうでしょう、ご理解いただけますか?」

 一度は了解している以上、若林はうなずくしかなかった。

 高森が机に歩み寄った。

「電話、お借りいたします」

 清田が執拗に食い下がる。

「捜査に立ち合わせていただきたいんですがね……」

 宇野が厳しい視線を向けた。

「それはできない」

「それぐらいは優遇されても……」

「もはや事態は君たちの手に負える段階を過ぎた」

「ですが、我々は事件の証人ですよ││」

 若林は彼らのやり取りを苦々しく見守っていた。しかし、激しく動き始めた彼らを止める手立ては、もうない。

 若林は、電話の男からの要求を頭の中で反芻していた。オフィスにいるのが彼一人なら、メモを取ってこう記しただろう。

『一・別の立木文書が現われた。持ち主は正体不明。買取を要求される。

 二・文書は十億円相当のダイヤと交換。取り引きは二回。一回目は中田に関する部分、二回目が私に関する部分。

 三・一回目の交換は二〇分後。文書を持った人物が、ビルの受付けを訪れる。「弁護士から預かった」というのが暗号。文書を受け取り、代わりに石を渡す。

 四・これは罠師の謀略だ。狩谷は罠師と手を握った考えるべき。しかし彼らは、これ以上何をしようというのか?

 五・万に一つでも、文書が本物なら状況は極端に悪化する。今の段階では〝中田の謀略〟という説明は通用しない。逆に、〝立木文書〟を反古にする策略を狩谷に暴かれる』

 若林は、正体不明の男の声を思い起こしていた。

『探しちまったぜ、若林さんよ。どうして、今日に限って帰らない? 家なら、十億ぐらいのダイヤはすぐ出せるんだろう? まあいい、一回目は事務所に置いてある分だけで勘弁する。時間をやって妙な手を打たれたらかなわねえ。交換場所は社屋の受付だ。それ以外はダメだ。こっちも、場所を変えるのに大わらわだったんだ。しらばっくれても、荷物は宅配屋に届けさせる。ダイヤと交換だ。取引は見張ってる。ダイヤを渡さなければ、すぐに俺たちが出向く。直接交渉だ。あんた、おっかねえんだってな。文書を読んでちびりそうになったぜ。だから、こっちも荒事に長けた手下を用意した。ひと暴れすれば、サツが来る。サツの目の前で荷物を開けることになるぜ。こんな爆弾、大っぴらにされたくねえよな。俺たちも、十億はフイにしたくねえ。おとなしく従えば、お互い満足できるってことだ』

 交渉ではない。勝手に〝立木文書〟を持ち込んで「買え」という、押し売りまがいの要求だ。

 若林は迷った。

〝受け入れるべきか、検察に知らせるべきか……〟

 罠師の計画なら、どちらも危険だ。だが、検察より先に中身を確認して、対策を練りたい。ただのノートに数億円を支払うような結果になっても、検察の目の前での即興よりも罠を回避できる確率が高まる。

 真の文書なら、焼却するまでだ。

〝買う以外になさそうだな……〟

 若林は、慌ただしくオフィスを出ていく男たちをぼんやりと見守った。皆、空いている電話を探して他の部屋に向かっている。残ったのは宇野だけだった。

 宇野は若林に同情するように言った。

「ご自宅に連絡を入れていただけますか?」

「は?」

「三〇分ほどで捜査員がお伺いします」

 若林は言われるままに受話器を上げると、女中に検察の来訪を告げた。そして、他の男たちが戻る前に――と、袖机の引き出しを引いた。文書のオリジナルを納めていた引き出しだ。

 宇野はソファーに座り、うつむいて煙草を吹かしていた。若林の素振りを気にしている様子はない。

 若林は引き出しの奥に手を差し入れた。小さな桐の木箱を二つ取り出す。その中にはさらにガラスのケースが収められ、時価一億円相当のダイヤモンドが密封されている。

 若林はかすかなため息をもらすと、二つの木箱を同じ引き出しに入っていた封筒に入れた。そして、宇野が自分に関心を向けていないことを確かめ、封筒を背広のポケットに落とし込む。

 若林は電話を取ると、内線で運転手を呼んだ。

「私だ。さっきの件、内容は分かっているな? 使いの者が着いたら呼んでくれ。後は私が処理する。しかし、大きな仕事だ。しっかりフォローすることを忘れるな。今がどういう時か、分かっているな? くれぐれも捜査の方々の迷惑にならないように。仕事は大切だが、中田の件には私の命がかかっているのだからな」

 そして若林は、胸の内でつぶやいた。

〝罠師め……。貴様らが巧みに立ち回ったことは認める。確かに手強い相手だった。だが、これ以上深入りするなら、どこかに証拠を残す。義賊を気取っていようが、しょせんは犯罪者だ。必ず息の根を止める。逃れられるなどと自惚れるなよ……〟


         *


 十分後、捜査陣はオフィスに戻っていた。

 記者たちはまだ本社とあわただしい打ち合せを続けている。隣の秘書室からは、清田の怒声がかすかに漏れていた。

 若林は、先程まで清田がかけていたソファーに移ってパイプを吹かしていた。表面は穏やかに捜査を眺めている。狩谷は、応援部隊が到着する前に若林のオフィスだけでも捜索しておこうと言い張ったのだ。が、ここには本棚や金庫の類は置かれていない。捜査できる対象は机しかなかった。

 高森はそれでも丹念に壁を調べた。隠し金庫があれば、帳簿や隠し資産が発見できる可能性もあったからだ。しかし壁には、それを暗示する絵画さえかけられていない。

 高森は若林の冷笑を浴びただけだった。

 五人の捜査官は机に群がった。先頭には狩谷が立っている。一つ一つ引き出しを開いていく。

 若林は腹の中で思った。

〝まるで瀕死の重病人を囲む医者だな。好きにしろ。どうせコンピューターのファイルは開けられない〟

 机本体の引き出しには、罠師が持ち込んだノートとわずかな事務用品があるだけだった。ノートを開いて切り抜きを見た狩谷は、小さく肩をすくめただけだった。他の四人も、皮肉っぽく笑っただけで大きな関心は示さなかった。

 だが袖机を開くと、五人の間に押し殺した驚きの声が上がった。一番上の薄い引き出しからコンピューターの末端機が現われたのだ。

 宇野が言った。

「何ですか、この機械は⁉」

 若林は席も立たずに言った。

「我が社のシステムの一部です。本体は地下にありましてね、私はこの端末機で必要な情報を得られます」

「こんなに小さな? コンピューターといえば、テレビのようなものじゃ……?」

「この部屋には大切なお客さまも見えられます。机の上に不粋な機械を置きたくなくて、特別に作らせました。大手メーカーの試作品も含まれています。装置のことは口外しないでいただきたいものです。私の趣味というか、誇りにしている物のひとつです」

 若林が本当に誇りに思っていたのは、本体に記憶された情報であった。

 狩谷たちはコンピューターに関する知識をほとんど持ち合わせていなかった。検察でも利用はしているが、操作はほとんど若い部下が行なっている。それでも狩谷には、若林の装置が実に操作しやすいように設置されていることが分かった。

 引き出しを完全に引いた状態で椅子を横に向けると、キーボードがちょうど指先の位置にくる。薄い液晶ディスプレイは見易い位置に角度が変えられる。その未来的な外見は、狩谷が見た端末機としては最もコンパクトなものだった。

 狩谷が言った。

「コンピューターのデータは調べさせていただけますか?」

「操作にはお詳しいのですか?」

「いいえ、全く……」

「では、詳しい方をよこしてください。機密が含まれていますが、全てのファイルを開けられるパスワードをお教えしましょう」

 もちろんそれだけでは、若林の個人ファイルには近づけない。秘密のファイルが存在する痕跡すら見えない。若林は専門家が解析しようとも、政財界情報が感知される恐れはないと確信していた。

 宇野が言った。

「では、コンピューターは専門家に任せましょうか」

 若林は微笑んでうなずいた。

 下段の引き出しには、事務用品、その下には桐の木箱が納められていた。注目を浴びたのは木箱だ。

 狩谷は木箱を机の上に出し、蓋を開いた。

 ダイヤモンドの輝きに全員が目を見張る。

 若林は淡々と説明した。

「個人財産です。やましいところはありません。利殖のためのダイヤですから、加工はカットだけに止めてあります。身につける趣味はありませんし、そんなことをすれば価値が落ちますからね」

 高森がうめいた。

「一億円は下らんでしょうね……。なぜ金庫にしまわないんですか?」

「このビルは、防災対策も警備体制も万全です。特に地下コンピューターには、金に替えられない情報が収められています。それが失われれば、我が社の機能は止まります。言ってみれば、建物全体が金庫のようなものです。机の引き出しの方が、自宅の金庫などよりよっぽど安全ですから」

 高森は返答に窮して肩をすくめた。若林が宝石を収集していることは周知の事実だったが、本人がそれを隠そうともしない以上、相手の言葉を信じる他はない。

 五人は机を離れた。

 代わって若林が席に戻った。

 宇野が言った。

「他は部下が到着ししだい捜査します。二〇分もすれば揃い始めるでしょう」

 若林は黙ってうなずいた。そして、時計に目を移した。

 取り引きの時刻が近づいている。

 待ちかまえていたように、内線電話が鳴った。

 受話器を取った若林の表情は厳しかった。

「分かった。すぐに下りる」

 受話器を置いた若林に、狩谷が言った。

「仕事ですか?」

「さっきの電話の件です。つまらぬ用件なんですがね……。すぐに戻ります。皆さんは、ここでお待ちください。ご自由に捜査を続けていただいて結構ですから」



         *



 一階の受付けでは、紺の作業服を着た青年が運転手の冷たい視線を浴びてすくんでいた。胸には運送会社のネームが刺繍されている。正規の社員であることは間違いなさそうだった。青年は両手でクラフト紙の包みを抱きしめている。

 青年の前に立った若林は穏やかに言った。

「誰に言いつかったのかね?」

 青年はわずかに声を震わせていた。運転手の鋭い目つきにおびえていたのだ。

「弁護士さんからです。そう言えばわかると……。あなた、若林さんですか? 直接渡すように念を押されたんですけれど……」

「ああそうだ」

「名刺をいただけませんか? そうしろと言われたもので……。それから、あなたからも預かり物があると……」

 若林はうなずいて、ポケットから封筒を出した。財布を開いて名刺を添える。

「話はついている。相手にそれを渡せば分かる」

 青年は紙包みを若林に渡し、封筒をポケットに入れた。ぞんざいに扱っている。

〝ダイヤモンドだとは知らないな……。だが、渡してしまっていいものなのか……〟

 若林には、まだ迷いがあった。持ち込まれたものが真の〝立木文書〟なら、対価を支払ったことを検察に知られたくない。だが、拒否すれば騒がれる。〝取引〟自体が、罠師の策略かもしれないのだ。

 青年は言った。

「じゃあ、失礼します」

 青年が玄関を出ると、運転手が小声で言った。

「尾行の手配はすんでいます」

「上の連中には気づかれるな。紙包みも隠せ」

 と、二人の背後で大声が上がった。

「動かないで!」

 若林はその瞬間、覚悟を決めた。

〝やはり罠か。即興の勝負だな〟

 振り返った若林は、狩谷が狭く薄暗い階段を下りてくるのを見た。後に宇野たちが続いている。

 狩谷は若林の前で歩調をゆるめ、運転手の手の紙包みに目をやった。

 が、そのまま止まらずに外へ飛び出していった。

 宇野が若林に冷たい視線を投げかけながら言った。

「いろいろとご迷惑をおかけしますね」

 階段に立っていた清田の手の中で、小型カメラのフラッシュが光る。


         *


 荷を届けた青年は、ビルを出たとたんに老婦人に衝突した。

 酒臭い老婦人は、倒れまいとして青年にしがみつき、ぶつぶつとしわがれ声をもらす。

「あらら……こりゃぁどうも……すみませんね……」

 片腕が不自由で、しかも足元がおぼつかないらしく、青年にしがみついた手をなかなか離そうとしない。

 青年は乱暴に老婦人を押しのけた。

「ばあさん、邪魔だよ」

「はいはい。歳を取ると、どうもね……」

「さっさと消えちまいな」

 青年は再び歩き出し、路肩に停めた軽トラックのドアを開けた。

 ビルから飛び出した狩谷も、入り口でふらつく老婦人に衝突した。

 老婦人は狩谷にもしがみついた。

「こりゃぁまた、どうも……。忙しい日だねぇ……」

 狩谷は老婦人を押しやり、トラックに乗り込もうとする青年に叫んだ。

「君! 待って! 聞きたいことがある!」

 狩谷が青年をビルに連れ戻した時、老婦人の姿はどこにもなかった。

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