13・策士、寝返る

 オフィスは沈黙に包まれていた。

 若林は全員の厳しい視線を集めたまま、虚空を見据えている。

 事態を説明しなければならない。遅れれば遅れるほど、状況は不利になる。

 若林は焦った。しかし同時に、持てる能力を振り絞って考えを巡らせていた。その計算のスピードは、彼が誇るコンピューターさえ凌いでいたかもしれない。

 罠師の〝次の手〟は明らかにされた。手段は不明でも、若林の自宅玄関を〝突破した〟のだ。

 厳重な監視体制を破って、しかも正面から見知らぬ者が侵入することは不可能だ。それは、何度となく門前払いを食らったマスコミ関係者が思い知っている。しかも〝脅迫者〟は完璧に尾行されていた。

 部外者がこの状況を見れば、全てが若林の企みだったという結論しか出せない……。

 若林には、自分を見つめる男たちの疑問が手に取るように理解できた。

『若林は、なぜマスコミに文書を公開しようとしたのか。なぜ〝脅迫者を装った部下に持たせる〟という手段を取ったのか。そもそも、文書は立木が残したものなのか――』

 次に口を開く時には、全ての疑問に答えなければならなかった。一点の疑惑も残さず、しかも、自分に有利になる理由を――。

 答えがはじき出された。

 大きな犠牲が伴う選択だった。五億の現金は戻らない。人生のグランドプランも大きく狂う。そして、無数の敵を産む。

 だが、唯一の答えだった。

 口をつぐんでから三〇秒後、若林は言った。

「そうですか……やはり、お分りになりましたか。まあ、仕方ありますまい。尾行は私からお願いしたことですからな。あなた方は期待以上に働いてくださった。正直に申し上げれば、自宅までは追跡されなければいいが……と思っていたのですがね」

 そして、若林は男たちを見わたした。彼らの顔からは笑みが消え、神経を張りつめて若林の言葉を待ちかまえている。

 若林はわずかに肩を落とすと、先を続けた。

「お察しの通り、先ほど文書を持参した〝脅迫者〟は私の部下です。そして、文書は私自身が書いたものです。オリジナルはここに……」

 言いながら机の引き出しから鍵を取り出し、横の袖机を解錠する。袖机の一番下の引き出しを引いた。そこから偽文書のオリジナルを取り出すと、そっと机に置く。

 男たちは茫然と若林を見つめるばかりだった。我に返った宇野がゆっくりと歩み寄ってオリジナル文書を手にした。

「お預かりします」

 若林はうなずいた。

「二つを比べれば同じ物だとすぐ分かります。筆跡鑑定で、私の自筆であることも証明できるでしょう。この文書は、私が四日前から書き記してきたものです。内容に一切の偽りはありません。私が知る……というより、立木君が知っていたと思われる中田の犯罪行為について、真実のみを記しました」

 ようやく藤堂が言った。

「なぜ、立木さんの名を騙って?」

「私自身と家族の安全を守るためです。あの中田と対決するのです……それ相応の覚悟が必要じゃありませんか?」

 若林はそれだけ言うと、力なくうつむいた。が、逆に内心には意欲がみなぎり始めていた。あとは、書き改めたばかりのシナリオに沿って質問に答えればいいのだ。

 宇野と高森は、頭を寄せ合って文書のオリジナルとコピーを比較した。同一であることは疑いようもない。

 宇野が顔を上げた。

「若林さん、あなたは〝自らの意志で中田元首相の犯罪を告発する〟とおっしゃるのですね?」

 若林はうなずいた。

「もはや、そうする以外にないでしょうな……」

 若林は再び全員の視線を集めた。

 清田がつぶやく。

「政界の黒幕が逆噴射!――ってことですか。まさか、あなたが中田を裏切るとはね……」

〝逆噴射〟は、昨年一月に羽田に墜落した日航機の機長が口にした一言だった。心身症に起因する奇異な行動を示す流行語になっている。

 藤堂が言った。

「しかし、なぜ? 中田に最も近い……いや、中田をコントロールしているとまで言われた、あなたが?」

 若林は歪んだ笑みを見せた。

「コントロールなど、とんでもない。私は中田に踊らされていた木偶人形にすぎません。だからこそ、見えることもあるのです。私は長い間……そう、とても長い間、中田を支える踏み台になってきました。そして、疲れました……」

「疲れた?」

「汚いものを見すぎたのでしょう。中田の政治力の恩恵を受けてきた立場ですから、偉そうなことは言えませんがね。これ以上中田と行動を共にしても利益はないと考えた……そう解釈してくださって結構。本当に、くたくたなのです」

 清田が言った。

「沈没船を見捨てるわけだ」

 若林は清田を見つめた。

「船長ではありませんからね。中田の政治生命が長くないことは、明らかです。彼が、官僚組織を基盤とするエリート議員たちと対立しはじめていることも常識です。キングメーカーともてはやされたところで、時代の流れは止められません。実際には、彼の権力は下降の一途をたどっているのです。数年のうちには自滅するでしょう。彼のようなタイプの男の時代は終わったのです」

 藤堂が言った。

「それを見越して、止めを刺そうというのですか?」

「とんでもない……。私は、必死に中田を救おうとしてきたのです。『深手を追わないうちに身を引きなさい』と、何度説得したことか……。ですがここ数年は、部下の直言を聞こうとはしませんでした。中田派は、今でも絶対的な数を誇っています。その力に溺れて、理性を失ったのです。しかし数に頼った力など、いずれは数に倒されます。その兆候はあちこちに見受けられます。今は単に、金の力が崩壊を食い止めているにすぎません」

 宇野が言った。

「見限った……ということですな?」

「私は私です。中田と心中するつもりはありません。『何をいまさら』とお笑いになるかもしれませんが、本心から手を切りたいのです。そして、もし許されるなら、もう一度人生をやり直したい……」

「やり直し?」

「今度こそは、他人様に恥じない、全うな生き方をしてみたいと思っています。しかし、残された時間は多くありません。私は、その文書に書いた以上の事実を知っています。私自身が犯罪に手を染めたこともあります。それは、中田が権力に中枢に居座っている限り、逃れられないことを意味します。反旗を翻したと悟られれば、私を叩き潰しにかかるでしょう」

 宇野はうなずいた。

「事実、立木さんはそうなったようですからな」

「今決断しなければ、いつか中田に殺されてしまう……。彼を裏切ろうとしてきた者たちのように……。立木君の事故以来、そう考えるようになりました」

「立木さんの他にも中田に消された人物がいる、と?」

 若林はうなずいた。

「おります。中田は、歯向かう者を容赦なく痛めつけてのし上がってきた男です。暴力団とのつながりも深く、私兵といっていいような組織まで作り上げています。これまでの数十年、私は中田のやり方を見続けてきました。片時も彼の底知れぬ恐ろしさから逃れたことはありません。だからこそ、一層真剣に彼に忠誠を誓ってきたのです」

「暴力も含めて?」

「いや、経済的な犯罪には知恵も出しましたが、決して暴力にだけは関わりませんでした。それが心の拠り所です。ですが、中田の弱点を握っていることに変わりはありません。私が牙をむいたと知れば、私兵の標的にされるでしょう。だから、自分の名を隠したかったのです。しかも、中田の社会的生命を断たねばならない……。その方法がこの〝立木文書〟でした」

「立木さんの名を借りるのが最も適当だったわけですね」

「当人はすでに亡くなっておられますから。あんなに不可解な死に方をした立木君が中田の犯罪を告発していたとしても、不自然ではありません。私が打った芝居は、立木君が書き残したと信じられる文書をあなた方の手に届けるためだったのです」

 清田が疑い深げに言った。

「しかし、こうも鮮やかに態度を変えられるとはね……」

 若林はさみしげな笑いを浮かべた。

「中田と手を切りたいと考えるようになったのは、何年も前のことです。しかし、彼の力を考えると、ためらわずにはいられなかったのです。決断をつけさせてくれたのが、坂本さんの死でした」

 宇野が言った。

「中田と関係があるのですね」

「確かな情報を握っているわけではありませんが、そうとしか思えないでしょう? 坂本さんが中田と対立していたことは周知の事実です。それ以上の深い確執があったのかもしれません。あるいは、私と同じように、中田と対決しようと考えたのか……。まあ、どれも推測ですが、私にとっては恐れるに足る推測です。次は私の番か、と……」

 宇野はうなずいた。

「まあ、詳しいことはこれからゆっくりとお話していただきましょう」

 若林は念を押した。

「私の名は絶対に漏らさないでください」

「もちろんです。しかし、中田の息の根を止めたいのでしょう? それならば、知っていることは洗いざらいお話いただかなければなりませんが?」

「それはお約束いたしますが……。いかがでしょう、私の話は、全て立木君が書き残した文書から知った……ということにしていただけないものでしょうか」

 宇野は言葉を濁した。

「それはそれとして、あなたはどのような代償をお考えですか?」

「代償? いいえ、そのようなことは……。ただ、これまでの私の行動に法に触れるような点があれば、できれば大目に見ていただきたい……。私としては、重荷でしかない中田が取り除かれるだけでも満足です。強いて望むものをといわれるなら、私と家族の安全と自由を、ということになります」

 若林の表情は穏やかだった。

 それはまさに、心の重荷を降ろした男にふさわしいものだった。しかし、内心は全く逆だった。若林は、怒りで煮えくり返る腹の内を外に見せまいと必死だったのだ。

 若林が語ったことには、事実も多かった。中田の政治力は長くないと考えていたし、その偏執的な恐ろしさも認めている。だが若林は、今の段階で中田の下を離れる気はなかった。罠師のカウンターパンチは、若林の長期スケジュールを粉砕してしまったのだ。

 中田派の実力が低下していることは、若林も承知していた。造反する若手議員、内部告発で名を上げようとする古参――派閥の崩壊を食い止めているのは、確かに金の力にすぎない。しかしその力こそが重要だった。

 中田が政界で実現した最大の成果は、保守党の権力基盤を支えるシステムだ。税を公共事業に投下して、代価として票を獲得する。工事の入札をコントロールすることで、〝政治献金〟と名づけられたリベートを吸い上げる。政財界に官僚組織を組み込むことで、もたれ合いの構造は強固になった。この錬金術を実現したのが中田なのだ。そして若林は、仕組みそのものを考案し、無数の策略で強化し、拡大させてきた。

 利権を巡る政財官の一体構造は、若林が知恵を絞り尽くして作り上げた芸術品だったのだ。

 そして中田は、今もその中枢に居座り続けている。若林はだからこそ、とことん中田に従っていく覚悟を決めていた。

 中田が倒れても派閥は残る。誰が次のボスに納まろうと、若林が作り上げたシステムは受け継がれる。現在より強大な政治勢力が誕生する可能性すらある。

 若林は中田の権力を引き継ぐ新たなボスを、我が手で産み出そうと企んでいた。

 最後まで中田に忠誠を尽くせば、中田派を継ぐ者にも重用される。それをきっかけに、より深く政界に入り込めれば、じっと貯えてきたスキャンダル情報が威力を発揮する。若林が〝忠誠〟の仮面を脱いだ時、〝旧〟中田派は彼の意のままに操られる。そして、保守党が、さらには日本の全てが若林に牛耳られるのだ――。

〝五年後には、私が日本を動かすはずだったのに……〟

 若林は内心で深い溜め息をついた。

 しかし若林は、中田派だけに人生を賭けるほどのお人好しでもなかった。一方では、いつでも中田を見限る布石を打っていた。

 中田の後釜を狙う派閥は多い。中田が綱渡りに失敗して脚を踏み外せば、安全ネットはすかさず取り去られる。彼らは地面に叩きつけられた中田の屍を踏み台にして、最高権力の座を目ざすだろう。

 政界の現実を熟知する若林は、飛躍の芽を持つ全ての派閥と常にコンタクトを保っていた。それも、中田の犯罪が表面化する、ずっと以前から。若林が手にしている陰の影響力は、政界のトップを狙う誰もが欲しがっている。若林はその情報を手土産にして他の派閥に鞍替えできるスタンスを維持してきたのだ。

 罠師との戦いに敗れた今となっては、中田と戦端を開かざるを得ない。宣戦を布告する以上は、完璧な勝利を収めなければならない。

 中田の対立派閥と手を組み、中田派を壊滅させる――。コンピューター内の情報を武器にすれば、無謀な選択ではない。そうして若林が選んだ派閥は、中田が完成した権力維持システムを奪い、さらに増殖していくだろう……。

 若林はその戦闘を指揮する自分を思い描いた。

〝あるいは、私自身が政界に進出する必要があるかもしれんな……〟

 若林はまたたく間に新たなシナリオを書き加えていた。

 しばらく考え込んでいた宇野がためらいがちに言った。

「若林さん……残念ながら、あなたの希望にはそえかねますな。この文書はあなたご自身が発表しない限り、真の力は発揮できません。本気で中田を倒したいなら、あなたが表舞台に立たなければなりません……」

 若林はすでに覚悟を決めている。しかし、あまりに簡単に態度を変えるのは不自然だった。

「しかしそれでは、身の安全が……」

 押せば折れると読んだ宇野は、ぐいと身を乗り出した。

「安全は保障いたします。マスコミ関係者も、こうして目を光らせています。いかに中田といえども、迂闊な真似はできんでしょう。ただ、あなたの犯した過去の罪を軽減するという点は、充分に考慮できます。全面的な協力をお約束いただけるなら、私どもも誠意を持ってお応えしましょう。どうです、ご自身の手で中田を討ち取ってみませんか?」

 若林の狙い通りだった。

 若林が中田との対決姿勢を明らかにすれば、数分後には複数の派閥の長からの誘いがかかるだろう。誰をパートナーに、いや、〝看板〟に選ぶかは、それから考えても遅くはない。

 政界は再び若林のシナリオにしたがって動き始めるのだ。

 若林は内心の喜びを隠しながら、苦渋の表情を見せた。

 男たちの緊張が高まっていく。

 充分に間合いを取った若林は、ついに言った。

「分かりました。私の名を出していただいて結構です。こうなった以上、一刻も早く中田の息の根を止めなくては……。持てる情報は全て提供いたしましょう。よろしくご指導ください」

 宇野は満面に笑みをたたえてうなずいた。

 藤堂と清田が同時に席を立った。

 清田が叫ぶ。

「電話をお借りしますよ。何としても朝刊に間に合わせなけりゃ!」

 清田は隣の秘書室へ飛び出していった。

 若林は、あわただしく動き始めた男たちを眺めながら思った。

〝罠師め……。これで痛み分けといったところか。罠師は中田の首を討ち取り、私は日本を奪う……。悪くない取り引きかもしれんな。これで、己れの王国を築くことも夢ではなくなった。策士にふさわしい出世だ。踏んぎりをつけさせてくれた罠師には、礼を言わなければならんようだ……〟

 しかも中田を切り捨てることによって、若林は最大の難問から開放されるのだ。

 今後本当の〝立木文書〟が現われて若林の犯罪が告発されても、中田の中傷だと主張できる。内容が凄惨であればあるほど、若林にとって有利な状況が生まれる。

 うるさくつきまとった罠師の始末も簡単だ。〝星〟の情報をモサドに流すだけで、死体が東京湾に沈むことになる。

 若林はようやく笑うことを自分に許した。唇の端が、ほんの数ミリ釣り上がる。

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