12・策士、強ばる

 藤堂は受話器を握ったまま硬直した。

 意識は電話の声に集中しながらも、その視線は椅子に座って考え込んでいる若林にじっと注がれている。部下の報告に応える声がかすかに震えた。

「本当か……⁉ 間違いないんだな。

 …………。

 そうか……。分かった。よくやった。また動きを見せたら、すぐに知らせてくれ。がっちり喰らいついて、絶対に放すな」

 受話器を置いてからも、藤堂は立ち尽くしたままだった。

 若林がいぶかしげな目を上げてつぶやいた。

「何か起こりましたか?」

 藤堂は我に返り、あわてて言った。

「えっ? いえ、ちょっとね……」

 そして考え込みながら、ソファーに戻った。何事かを清田に耳打ちする。

 清田の反応は早かった。一瞬驚きの色を見せたものの、その目はすぐに鋭く輝く。笑みを広げると勢い込んで言った。

「確実なんですね? ……これは、面白い。予想外の展開です。しかしそうなると、事は我々の手には負えない。スクープの範囲を超えています。特捜部にバトンタッチする他ないでしょう」

 藤堂がうなずいた。

「もったいない気はしますが、同感です。我々は捜査機関じゃありませんからね。この先どう展開するか、見当もつきませんし」

 若林が眉をひそめながら割り込んだ。

「何があったのか、お話いただけませんか?」

 藤堂は自信に満ちた口調で言った。

「検察の担当者ををここに呼びたいのですが……いかがでしょう?」

 マスコミを召集した時点で大見得を切っている以上、拒否するわけにはいかない。

「それは構いませんが……。今の電話は?」

 若林は不安にかられていた。電話を受けた二人が見せた反応は、若林のシナリオには想定されていない。

 彼らの表情には執念と確信、そして期待が入り交じっている。若林は、罠師の反撃によって事態が己れのコントロールを離れたことを直感した。それがどの程度危険な状況なのかを早急に探り出さねばならなかった。

〝罠師め……〟

 藤堂は再び電話の前に立つと、受話器を上げながら答えた。

「電話……ですか? もちろん、倉持からの報告です。少々不可解な成り行きでして……。内容は、捜査機関の立ち会いのもとでお話しいたしましょう」

 若林もそれ以上は追求できなかった。

 表情は、文書を取り出してみせた時から全く変わっていない。

 不安に打ちひしがれた中田元総理の参謀――。

 しかし今や、若林の不安は演技ではなかった。

〝この期に及んで、どんな悪あがきを始めたというんだ……?〟


         *


 マイクから流れる藤堂の言葉を聞いた宗八がつぶやいた。

「さてと、細工はすんだな」

 宗八から全てを打ち明けられていた狩谷は、反射的に相づちをうっていた。だが、まだ事態の急変を消化しきれず、頭が追いついていない。竜子が準備した小道具も見せられ、それを使う理由や使用法も教え込まれた。全てが納得できた。にもかかわらず、宗八の罠は信じがたいものだった。

 狩谷の驚きは畏れに変わっていた。宗八は口先だけの男ではなかった。狩谷は、計画の当初に抱いた不安が杞憂だったことを思い知らされていた。

 にやにやと笑い続ける宗八を見つめ、狩谷はつぶやいた。

「しかし、出来るのか? そんな離れ業が……」

 とは言うものの、疑っているわけではない。狩谷にもはっきり分かっていた。宗八の罠は若林の策略を見通した上で、完璧に組み上げられている。

 そして、必要な布石は打ち尽くされていた。

 罠は、閉じる瞬間を待つだけだったのだ。事件の裏側を知り尽くした狩谷が見ても、若林が逃れられる可能性はゼロに等しい。

 狩谷は、自分の秘密も見抜かれているだろうと観念していた。

「信じられねぇ、か? タイガーマスクの空中殺法みてぇだろう? ローリングソルバット! フライングクロスチョップ! スペースフライングタイガードロップ! 危険ですから決して真似しないでください!……なんちゃってな」

「おまえ……プロレスファンだったのか?」

「あたぼうよ。街頭テレビの時代からのお得意さんだぁね。ま、そんなこたぁどうでもいいさな。ともかく、こちとらぁ川口浩の探検隊みたいなまがい物じゃぁねぇんだ。『出る』って胸ぇ張った以上、必ず出させる。検察が言った通りに動きさえすりゃぁ、結果は見えてるんだ。小道具の使い方も、間違えるんじゃぁねえぞ。奴に止めを刺すのが、お互げぇのためなんだからな」

 狩谷は意外にも、自ら深みにはまっていく若林を哀れに思う自分に気づいた。

 だが、宗八の言い分は正しい。日本を陰から操ろうと企む〝犯罪者〟に、同情の余地などない。

「もちろん、結果は出す。任してくれ」

「頼んだぜ。おっと、そうだ。これを言ぃ忘れちゃぁいけねぇな。みの坊よ、てめえ、運がいいぜ。明日には億万長者ってぇやつになってる」

「え? いきなり、何だ?」

「ちょいと悪さをさせてもらった。ある銀行にてめえの口座を作って、一億ばかり振込ませてもらった。もちろん、てめえの金さ。好きなように使ぃやぁいい。だが、誰かがちょっと本気になって調べりゃぁ、振込んだ人間がばれちまうぜ」

 狩谷の表情は凍りついた。

「どういうことだ……?」

「てめえは罠師を裏切れねぇ。金はちびちび使ってりゃあ誰にも分からねぇが、使い切っても記録は残るぜ。そこにゃぁ振込んだ人間として〝若林〟の名前が載ってるんでぇ。罠をぶち壊すような真似をすりゃぁ、首根っこをへし折る。後々、罠師をひっくくろうとしたって同じこった。ま、勘弁しろよな、これが代々続いたやり口なんでな」

 狩谷はうなずくしかなかった。何と非難されようが、話を持ち込んだのは自分なのだ。しかも、宗八を騙そうとしたことも事実だ。誰も尻尾をつかむことができなかった若林をほんの数日で仕留めようとしている罠師に、立ち向かえるはずもない。

 狩谷は穏やかに答えた。

「信用されないのも当然だがね。若林の手下ではないことは行動で証明する。この一件が終わったら、おまえたちのことも忘れる。約束するよ。ただ、おまえもこれだけは約束してくれないか? 竜子さんのためだ。これっきりで足を洗え」

「しつっこい奴だねぇ。何度もそう言ってるじゃぁねぇか。そら、さっさと出かけやがれ。急がねぇと親分に置いてけ堀を食らっちまうぜ」


         *


 十分後には、五人の男が若林のオフィスに通されていた。

 警視庁捜査二課長の高森と、彼の部下。東京地検特捜部副部長の宇野と、その部下。そして、彼らにビルの玄関で追いついた狩谷だ。

 四人は、狩谷の要請によって二時間以上前から近くの喫茶店で待機していた。そこへ、各々の上司から若林のオフィスへ向かうよう命令が下ったのだ。

 事情が飲み込めないまま指示に従っていた四人は、狩谷に説明を求めた。

 しかし、狩谷は多くは語らなかった。罠師について語ることは宗八から止められている。話したところで、信じられるはずもない。

 それでも全員が、何かが起こる予感に興奮を高まらせていた。

 運転手が五人をオフィスに案内すると、藤堂は驚きをあらわにした。

「ずいぶん早いお出ましじゃありませんか。それに、これほどのお偉方とは……。待ち構えていたみたいですね」

 藤堂とは馴染みの深い高森が気さくに答えた。

「若林さんからのお招きとあっては、急がんわけにいかんでしょう。使いの小僧では失礼です。私自身もここに招かれる日を心待ちにしていたんです」

 清田がうなずいた。

「我々も光栄に思っているんです。マスコミの代表として、この大事な場に同席を許されたんですからね。さあどうぞ、おかけください」

 清田は席を立った。

 宇田が答えた。

「いえ、我々はこのままで結構」

 彼らは、若林を取り囲むように壁の周りに立った。それは、若林の逃走を警戒し、威圧するようでもあった。

 若林は渋い顔で彼らを見渡した。

 若林は、捜査当局の素早い対応に、さらに不安をかきたてられていた。罠師の臭いが隠せない。

 全員の冷たい視線を浴びた若林は、それでも平静を装いながら言った。

「まあ皆さん、あまり過大な期待を寄せていただいても困ります。どうも、誤解があるようで……。実のところ、私も何が起こったのか分からない状態でして……」

 若林はそれきり口をつぐんだ。

 決定的に情報が不足している。だが、マスコミや捜査陣の前で部下に調査を命じることはできない。そもそも、尾行者に疑念を抱かせないために、独自の追跡は控えたのだ。たとえ命令が出せても、状況がつかめる保証はない。

 予断を許さない状況で、言質を取られるわけにはいかない。多くを語らないほうが無難なのだ。

 後は藤堂が引き継いだ。

「では、改めて事の推移を説明させていただきましょう」

 そして藤堂は、自分が見てきた全てを語り始めた。

 清田が宇野に、〝立木文書〟のコピーを手渡した。宇野と高森は、藤堂の説明を聞きながら文書に目を通していく。

 藤堂の話は、尾行を受けた犯人の逃走経路に移った。手にしたメモを見ながら道玄坂のビルの住所を読み上げる。

 高森の部下がすかさず席を立つ。

「お隣の電話、借りますよ」

 若林はうなずくしかなかった。

 そして、藤堂は言った。

「問題はこれからです。さらに移動した犯人は、車を乗り捨ててある家に向かいました……」

 不意に言葉を切った藤堂は、じっと若林を見つめた。

 若林は思わず身構えた。

〝ある家……だと? 罠師め、何を仕掛けてきたのだ……?〟

 若林は、策に優れた男だった。万全の情報を手にした上であれば、一国を動かす能力さえ秘めている。が、そんな若林でも、捜査陣のトップの目前で初めて明かされる未知の〝罠〟は恐れずにいられない。

 失敗は許されない。藤堂がどのような事実を語ろうとも、それを瞬時に分析し、対抗策を打ち出さなければならない。同時に宗八の罠を封じる手も講じなければならない。

 若林のオフィスは、彼が初めて経験する、生命を賭けた戦場と化していた。

 若林は萎えかける心をふるい立たせた。

〝罠師が何程の者だというのだ! 叩きつぶしてやろうじゃないか!〟

 若林は、脇に冷たい汗がしたたっていたことにも気づかなかった。

 藤堂が言った。

「その家とは――ここにおられる若林さんのご自宅です。〝脅迫犯〟は速やかに家に通されました。そして、まだ外に出たという連絡は入っておりません。これは、〝脅迫犯〟が若林さんに極めて近しい人物であることを証明しています。我々には、なぜ若林さんがそのようなことをされたのか、理由が分かりません」

 全員の視線が若林に集まった。

 若林の頬はぴくりと引きつった。

〝なぜだ……? なぜ家に入れる……? 万全の警備体制を敷いているというのに……〟

 宇野が若林を見つめた。

「ご説明いただけますね?」


         *


 御影石の高い塀に取りつけられた門は、外からは貧弱な木戸にしか見えない。しかしそれは鉄骨で補強され、乗用車が激突しても容易には壊れない強度を誇っている。しかも門は、母屋から遠隔操作でしか開けられない。人目を嫌う若林が巨費を投じて作らせた防壁だった。

 門の前に立った〝脅迫犯〟はポケットの中で、用意してきた装置のスイッチを入れた。その装置は強力な電磁波を放出し、門柱の上に据えられた監視テレビの画像を撹乱した。家の中からは訪問者の姿を確認することはできない。

〝脅迫犯〟は雑音混じりのインターホンで中の女中と話し、門が開けられるのを待った。

 カタンと小さな音がして、鍵が外された。かすかなモーター音と共に木戸が開く。

 門の奥は、両側を背の高い常緑樹でおおわれていた。その間を、厚いコケに縁取られた敷石が玄関へと続いている。

〝脅迫犯〟の動きは、木戸をくぐったとたんに素早くなった。

 敷石を外れ、ツゲの木陰に滑り込んだ。外からはもちろん、母屋からも目が届かない位置だ。そこで取るべき行動も何度となく練習を重ね、手順はすっかり身に馴染んでいる。

〝脅迫犯〟はトレンチコートを開いて中から大きなビニールの手提げバッグを出すと、地面に広げた。そして袖を握りながらコートを脱ぎ、同時にそれを裏返していく。コートはリバーシブルになっていた。脱いだコートはビニールバッグの上に置かれた。次いで、かがんでスラックスの裾を掴むと、腿までまくり上げる。膝から下が露出することを確認すると、あらかじめ腿に取りつけてあった安全ピンでスラックスがずり落ちないように止めた。次は、靴だった。靴は二重になっていた。偽装のための外側の靴は、踵に隠したホックを外すと簡単に取れた。最後に、胸にきつく巻いたサラシを取り去る。

〝脅迫犯〟はトレンチコートを取って腕を通すと、ビニールバッグに偽装の靴とサラシを詰めた。さらに、手袋、サングラス、そして帽子を外して袋に入れる。頭のピンを抜いて軽く首を振ると、髪がはらりと落ちた。

〝脅迫犯〟が門をくぐって三〇秒後、そこに立っていたのは、真っ赤なトレンチコートを着てローヒールの靴をはいた竜子だった。

 竜子は足早に玄関に向かった。

 扉を開くと、正面に女中頭が膝を揃えて座っていた。頭を軽く下げはしたものの、竜子を見る目には明らかな敵意が感じられた。竜子が金をせびりに舞い戻ってきたと思い込んでいる。

 その証拠に、女中の傍らには現金が入っていると思われる封筒が置いてあった。

 女中は慇懃に言った。

「いらっしゃいませ。今日はどういったご用件でしょうか?」

 竜子も軽く頭を下げると小声で言った。

「先日はいろいろとご迷惑をおかけしました。おかげさまで、身体はなんともありません。ちょうど近くにまいりましたもので、お礼をと思いまして……。あの、ご主人様はいらっしゃいますか?」

「あいにく、まだ戻っておりません」

「そうですか……。では、お礼を申し上げにまいりましたことをお伝えください。それから……」

 竜子はコートのポケットから封筒を出した。

 女中の表情が曇る。

「それは、先日の……?」

 竜子は女中の前に封筒を置いた。

「このお金はお返しいたします。私の不注意が原因ですから。こんな大金、とてもいただけません。不躾かとは思いますが、どうかお納めになってくださいまし」

「そんな……」

 女中は口をうっすら開けて惚けていた。今時の若い者が、くれてやった金を返しにくるとは考えもしなかったのだ。

 竜子は再び深々と頭を下げた。そして、上がりがまちの陰にカローラのキーをそっと落した。

「では、失礼させていただきます。ご主人によろしくお伝えください」

 竜子は慌ただしく玄関を出ていった。

 一人残された女中はぽつりとつぶやいた。

「息子の嫁に欲しいぐらいの娘だね……」

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