10・策士、さらに笑う
一〇時半――。
若林、藤堂、清田の三人は、一階のスタッフルーム――給湯室を兼ねた休憩所で息を殺していた。ちょうど取引現場に面する部屋だ。窓からは、路地の暗がりに置かれた車が見えている。社員は帰宅し、室内の明かりは全て消してあった。〝脅迫犯〟に監視を気づかせないためだ。暗やみに目を慣らしておくことも、監視には欠かせない。
若林は、知らぬ間にこみあげてくる笑いをこらえるのに苦心していた。
〝罠師か……口ほどにもない奴らだったな〟
若林と肩を寄せ合うようにしていた他の二人は、高まる興奮を押さえ切れずに、じっと待ち続けるだけだった。
若林は窓から目を離すと、腕時計を見た。両側の二人に注意をうながす。
三人は、傍らの受信機から流れるかすかな音に耳をかたむけた。それは、取り引き現場で待つ運転手の衿につけられたマイクが拾った音声を伝えていた。
*
尾行班は配置についていた。八人の男たちは、三台ずつの車とオートバイに分乗して社屋の周囲に分散している。倉持は、あらゆる逃走経路を検討して布陣を敷いたのだ。たった一台の車を追うには大げさ過ぎる態勢であったかもしれない。
しかし倉持の胸には、それでもいくぶんかの不安が残っていた。
〝なぜ、こんな追跡を命じられたんだろうか……?〟
根本的な疑問に、明快な答えが出されていない。若林の真意を計りかねていた。
若林の要求の裏には、忌まわしい謀略が隠されているような気がしてならなかった。だがそれも、脅迫犯を取り逃がしてしまえば突き止めることはできない。事がどう展開するにせよ、倉持は犯人に食らいついていかねばならないのだ。
*
車は、パーキングビルの側面にぽつりと点った赤い電灯の下に停められていた。若林不動産の社用車だが、ボディには社名は記されていない。どこででも見かけるビジネス用のカローラだ。
運転席側の路上に若林の運転手が立っていた。すでに三〇分以上、ビルの間を吹き抜ける北風にさらされている。黒いスーツに窮屈そうに納まった巨体は、まるで凍りついたかのように見える。彼は若林の指令を待ち続けていた。命じられれば、一日中でも立ち尽くすことが彼の職務だった。
運転手がぴくりと動いた。かすかな足音が耳に入ったのだ。運転手は振り向いた。足音は車の後方から聞こえる。闇に慣れた運転手の目に、〝脅迫犯〟が確認された。
暗色のトレンチコート、目深にかぶった帽子、濃い色のサングラスと革の手袋――。その男は、安手のテレビ映画の悪役がそのまま抜け出してきたかのように見えた。
運転手は興奮した。
〝すごい……ドラマみたいだ……〟
〝脅迫犯〟は、無造作にアタッシュケースを下げていた。車の後ろに立つと運転手に鋭い視線を投げかける。
運転手はポケットから車のキーを出して目の前で振りながら、近づく。
小さくうなずいた〝脅迫犯〟は、ケースをトランクの上に置いた。しかし、ケースを握った手は放さない。
そして、〝脅迫犯〟はささやいた。
「キーを」
運転手の期待を裏切るような、やや高い声だった。何もかもがドラマと同じようには進まない。
だが運転手は、自ら思い描いた〝役〟を演じ続ける。
「ケースを頂こうか」
〝脅迫犯〟は黙ってケースを押し出した。
運転手はケースに左手をかけながら、キーを〝脅迫犯〟に差し出した。
〝脅迫犯〟は、キーを掴むと同時にケースを手放す。
取り引きは完了した。
〝脅迫犯〟は、前を塞いだ運転手に冷たく言った。
「どいてもらおうか。尾行があれば、文書のオリジナルが新聞社に届く」
運転手が脇に身をよけると、〝脅迫犯〟は運転席のドアに手をかけた。
運転手が意外そうに言った。
「金を調べないのか?」
〝脅迫犯〟はドアを開きながら答えた。
「信用している。裏切れば、貴様のボスは終わりだ。当然、貴様も」
〝脅迫犯〟はドアを閉めた。すぐにエンジンがかけられる。
一〇秒後、車は四車線道路に出て運転手の視界から消えていた。
運転手は腹の中でつぶやいた。
〝簡単すぎる……〟
だが、出番はまだ用意されている。
社会の脇役であることを自ら認めていた運転手だが、次の大役への闘志を燃やして若林ビルへ向かった。
*
車が去った。
若林は二人に言った。
「では、オフィスに上がりますか。ここは寒い」
清田が、運転手が持ったケースに目をこらしたまま言った。
「彼はまだ外で待たせておいてください。私が迎えに出ます。藤堂さん、その間、ここから目を光らせていてくださいよ」
藤堂がうなずく。
「一瞬たりとも目を離すもんですか」
「私はアタッシュケースに張りつきます」
若林が彼らの慎重さを笑い飛ばすように肩をすくめる。
「ケースは、X線透視装置で中身を確認します。爆発物などが仕掛けられていたら一大事ですから」
藤堂が強い関心を示した。
「なぜそんな機械をお持ちなのですか? 不動産業には必要ないでしょうに」
若林は悪びれもせずに答えた。
「脅迫文書の類は頻繁に送られてきますから。剃刀を忍ばせた封筒ですとか、猫いらずの入った菓子ですとか――海外では手紙爆弾なんていう物騒な品物も多いそうです。投資を惜しんで命を失いたくはありません。それも、あなた方マスコミが根も葉もない噂話を流される結果でしょう。しかたなく、大げさな装置を買い、商談室を一つ潰すはめになりました。あなた方は作業をご覧になってください。私は、上で待ちます」
「もちろん、見させていただきますとも。こっそり中身を入れ替えるなんてことは、お考えにならないように」
若林は、鷹揚に微笑んだ。
「ご心配なく。ケースの鍵はオフィスの金庫にしまったままです。私は魔術師ではありませんから」
*
十五分後、アタッシュケースの安全は確認された。ケースのX線映像には、書類の束のような陰が写っているだけだった。
ケースは運転手が離さなかった。だが、藤堂たちも片時もケースから離れていない。彼らはどんな皮肉を言われようとも、若林を信用しなかったのだ。
運転手は若林の机にケースを置いた。そして小さく頭を下げると、無言で部屋から立ち去った。
若林は机の上の金庫を大きく開いて、鍵を取り出した。もはや、盗聴器が仕込まれたキーホルダーは気にしていなかった。むしろ若林は、これから起きる事態の一部始終を罠師に知らせたがっていた。
罠師が破滅する、その瞬間を――。
藤堂たちは机を見下ろすように身を乗り出した。
若林が二人の緊張をあざわらうように言う。
「まあ、おかけになってください。ケースは逃げませんから」
藤堂は一瞬むっとしたように若林を睨んでから、ソファーに腰をおろした。
清田も腰を降ろしながら言った。
「くれぐれも、つまらん小細工はなさらんでくださいよ」
若林は笑った。
「そんなことをしては、あなた方に来ていただいた意味がなくなります。では、開けます」
若林は無表情に鍵を差し込んだ。二、三度手首をひねると、表情が曇る。
藤堂が腰を浮かせながら言った。
「開きませんか?」
若林があわてたように答えた。
「いえ、そのままで。もう一つの鍵でしょう」
若林は鍵を抜くと、もう一方を入れた。手がかすかに震えていた。
清田がそれに気づいて、藤堂に目くばせを送った。藤堂も小さくうなずく。
カチッと小さな音がして、若林の表情が和らいだ。
「開きました」
鍵の一つが、持ち込まれたケースに合った。全く同じに見えたもう一方の鍵は予備ではなく、実は使えないものだったのだ。
〝なぜだ⁉〟
罠師が無用な鍵まで送りつけてきた理由が分からない。分からないが、危険だ。
若林が研ぎすませてきた策略への〝センサー〟が、激しい警告を発する。
〝仕掛けてきたのか⁉〟
だが、詮索する余裕はない。二つの鍵は何度も目撃されている。自ら招待した〝観客〟の記憶を消すことはできない。
勝負を投げ出すこともできない。
彼には、失敗が許されない〝魔術〟――罠師に対して打たなければならない〝最後の一手〟が待ち構えているのだ。
だが、ケースの中身は不明だ。二つの鍵と関連がある〝罠〟かもしれない。それでも、開けなければならない。
〝観客〟の目の前で。
〝反撃するなら、迎え撃つまで!〟
腹をくくったからこそ、手抜きはしなかった。盗聴器であるキーホルダーを、まず金庫に入れて蓋を閉じる。罠の一部である可能性は、全て潰さなければならない。
そして、ケースの蓋に手をかけた。同時に、足元に隠されたスイッチを踏み、ドアの外で待つ運転手に合図を送る。
左手で蓋を上げる――。
ソファーの二人は自然に立ち上がったが、蓋にさえぎられて中身は見えない。
同時に、ドアが開いた。
その音に、二人の〝観客〟が反射的に振り返る。
ノブを握ったままドアに耳を付けていた運転手が、中に転がり込む。
盗み聞きをしていた――としか思えない光景だった。
運転手はぺこりと頭を下げ、大慌てでドアを閉める。
〝観客〟の目をそらす、若林のトリックだった。合図を受けた運転手のタイミングは、完璧だ。
若林がケースの中に見たのは、もちろん〝立木文書〟ではなかった。一冊の大学ノート。ページを開いた痕跡もない、新品のようだ。他には何も入っていない。
若林は内心で胸をなで下ろした。
〝考え過ぎか……〟
そして、〝観客〟の注意が戻る前に、開け放しだった引き出しから封筒に入った自作の偽文書のコピーを掴み、素早くケースに入れた。
二人の視線がスーツケースに戻る。
そして若林は、不意に表情を強ばらせた。ケースから邪悪な怪物が飛び出しでもしたかのように、大きく目を見開いて硬直する。
若林の過剰ともいえる演技を鵜呑みにした二人が、前に出た。
「どうしたんですか!」
若林は視野の片隅に彼らの姿を収めながら、タイミングを見計らっていた。そして、偽文書をゆっくりと机に出す。
机に寄ろうとしていた二人の目はA4サイズの封筒に注がれた。彼らの脳裏には、分厚い封筒がアタッシュケースから取り出された〝事実〟が焼き付けられた。
藤堂が有無を言わせずに叫んだ。
「拝見します」
若林はうなずきもしなかった。ただ驚き、茫然と立ち尽くす――。
そうしていさえすれば、彼の計画は自然に進んでいくのだ。
藤堂は奪うようにして封筒を取ると、ソファーに戻った。中からコピー用紙の束を取り出し、あわただしくめくる。清田も横から文書をのぞき込む。二人の口から、驚きとも感動ともつかぬうめきがもれた。
文書を読み進む二人の視線は、時折、棒立ちになったままの若林に向けられた。そのたびに目に現われた自信が色濃くなっていく。彼らの目は、文書の信憑性を全く疑っていない。
二人が案じていたのは、若林にケースの中身を隠されることだった。〝立木文書〟を〝入れる〟ことなど、想定していない。ケースから出た文書が偽物だと疑う理由など、ない。
この瞬間、偽文書は真の〝立木文書〟に姿を変えたのだった。
若林は文書に打ちのめされたように、力なく椅子に崩れた。
だが、内心は満足感で溢れていた。
若林は文書をむさぼるように読む二人の隙を見て、ケースの中の大学ノートを机の引き出しに移した。
引き出しの中で、ノートの中身を確認する。一ページ目に、新聞の切り抜きが貼ってあった。皮肉にも『中田軍団壊滅か?』という見出しが記された一週間ほど前の新聞の切り抜きだ。二〇センチ四方ほどの、一枚の新聞紙。
他のページには、何も書かれていない。
〝詰んだな。これで罠師は墓場行きだ〟
最大の難関は突破した。これで罠師との戦いは終わった。若林は、〝立木文書〟を持ち込んだのが〝脅迫犯〟であることをマスコミに信じ込ませたのだった。
それでも若林は、己れの策略に想定外の欠陥がないか、再び検討を始めていた。それは常に完璧な策略を求める若林の身にしみついた習性だった。
〝ミスなどあり得ないがな……〟
*
――偽文書を検察内部に送り込もうとした若林の第一の策は、罠師の用心深さに呆気なく粉砕された。彼らの能力をみくびった結果だ。しかし、偽文書が中田と己れを救う特効薬であることは変わりない。若林には、もう一度偽文書を生かすことで、本当の〝立木文書〟を無力化しておく必要があった。
そこで第二の策が練り上げられた。今度の標的は、天敵であるマスコミ。そこに偽文書を送り込めば、一瞬で世論を沸騰させられる。だがそれには、文書の信憑性を完璧に信じ込ませなければならない。そこで役に立ったのが、罠師の〝反撃〟だった。
罠師の計略は、狩谷を通じて若林に伝えられていた。
『罠師は、偽取り引きで五億の現金を奪い、若林を逆上させる。若林は立場上、警察の力は借りられない。現金の奪還と罠師への報復のため、大至急、組織を総動員しなければならない。したがって、社屋にいる若林の周辺は警護が手薄になる。そこを、相撃ちを目論む宗八が銃撃する。襲撃現場を警察と検察に捕らえさせれば、最悪でも若林の社会的生命を絶てる。検察に協力できれば、モサドの脅威もなくなる――』
泥臭く幼稚な謀略だった。計画の基盤は推測ばかりで、不確定な要素が多すぎる。若林は、罠師の能力とはこの程度のものかと、失望さえ覚えた。
だが、罠師の側に立てば、準備不足もやむを得ない。彼らの敵は若林だけではないのだ。事実、ねぐらを襲われ、銃撃まで受けた。彼らにとっての緊急課題は、イスラエルの激怒から身を守ることだ。一刻も早く検察の庇護を受けたい罠師が、不完全な作戦を見切り発車させるのも当然といえた。
罠師の焦りは、若林には起死回生のチャンスだった。仕掛けられた罠そのものを、罠師を葬る策略に変えられるのだ。
脅迫事件をマスコミに通報したのは、最初の一手だった。
若林の〝魔術〟によって、単なる偽文書は『脅迫者が持ち込んだ立木文書』に姿を変えた。その存在と内容が大々的に報道されることは確実だ。マスコミ関係者には、それが若林の捏造だと見抜けない。内容が全て真実だからだ。明日になれば〝立木文書〟は世論の耳目を一身に集める。
が、文書を書いたのが立木ではないことは、それ自体が証明している。世論は燃え上がったとたんに冷や水を浴びせられる。そこで問題になるのが〝脅迫者〟の正体だ。
その頃には、尾行班が罠師の正体を暴き、警察が逮捕している。〝立木文書〟が罠師の謀略であることは、誰も疑わない。警察は威信を賭けて罠師の背後関係を洗い出す。マスコミも汚名挽回に全力を注ぐ。そこで明らかにされるのは、〝立木文書〟が狩谷稔特捜検事によって創作されたという〝真実〟である。
人々は知るだろう。中田と闘っているはずの現職検事が、その知識を悪用して文書を捏造した。しかも私利私欲のために幼なじみの〝罠師〟と結託し、中田の参謀と言われる若林に偽造文書を売りつけようと画策した。だが若林は勇気をもって〝脅迫者〟と対決し、いち早くマスコミに通報することで国家権力と犯罪集団の暴走を食い止めたのだ――と。
前代未聞の詐欺事件によって東京地検特捜部の信用は地に落ち、これまでの努力も泥まみれになる。マスコミの論調は、一気に中田擁護へ傾く。たとえ彼らに本物の〝立木文書〟が渡っても、もはや誰からも信用されない。
中田を守りきった若林の未来は輝かしいものになるはずだった――。
*
文書をざっと見終わった藤堂たちが若林にほほえみかけた。
清田が薄笑いを浮かべたまま言った。
「報道して構わない……そうおっしゃいましたよね?」
藤堂が言う。
「あなたは、この文書をご覧にならないのですか?」
若林はかすかに頬を引きつらせた。鏡を前に一時間近く練習した演技だ。
「ええ……どうせ、でたらめに決まってますから……」
藤堂は肩をすくめた。
「どうでしょうかね……。いろいろと書いてありますよ、内部事情を知らなければ書けないことが。くどいようですが、私たちは必ず報道しますからね」
若林は二人を無表情に見つめただけだった。
と、電話が鳴った。
若林はぎくりと身を震わせてから、受話器を取った。そしてすぐに藤堂に向かって差し出した。
「倉持さんからです……」
藤堂はゆっくりと机に寄ると、受話器を受け取った。
「私だ。
…………。
そうか。よくやった。で、場所は?。
…………。
渋谷、道玄坂、桜井ビルだな。
…………。
分かった。すまないが、社には君の方から連絡を入れてくれ。こっちも大変なことになっているんだ。とんでもない爆弾が落ちた。
…………。
うん、その方が間違いがない。動き出したら、また連絡してくれ。じゃあな」
傍らで電話を聞いていた若林は、内心で哄笑していた。
藤堂が言った渋谷のビルには〝ダビデの星〟を隠し持つ弁護士、中峰薫の事務所が置かれているのだ。
若林は気づかなかったが、先程の取り引きに現われたのはその弁護士自身らしかった。現金に目がくらんで一度は若林に寝返ったものの、モサドの追撃におびえて再び罠師と組むことになったのだろう。
これも、罠師の焦りが生んだ不始末といえた。〝星〟までが捜査線上に現われれば、罠師の壊滅は必至だ。
〝星〟が現われないなら、力ずくで引きずり出せばいい。
罠師はさしたる抵抗を見せるまでもなく、自ら首を絞め上げたのだ。
若林は演技を続けながら言った。
「犯人の所在が掴めましたか?」
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