9・策士、笑う
およそ四時間前――午前十一時。
受話器を置いた若林は、冷たく笑っていた。
手元のメモは、宗八自身がかけてきた脅迫電話を聞きながら書き込んだ文字で埋まっている。
若林は書いたばかりのメモを改めて点検した。
『一・文書は二回に分けて交換。一回目は全文のコピー。二度目がオリジナル。各々、五億円の現金と引き替え。
二・方法。詳細は後で連絡してくる。まずは現金の準備。用意した現金は段ボール箱に詰め、若林不動産の社用車のトランクへ入れて待機。場所は社の向かいのパーキングビルの脇の路地。時間は夜、十時半』
若林はじっとメモを見つめながらパイプに火を入れた。深々と吸い込んだ煙をゆっくり吐き出すと、さらに笑いを広げる。その目はまるで、蛙をにらみつけた蛇のように妖しい。
若林は宗八が直接コンタクトしてくる前から、内容を正確に把握していた。狩谷が宗八から聞き出した〝罠〟の概要が、専用電話でいち早く伝えられていたのだ。そして、瞬く間に〝罠〟を逆転させる〝策〟を構築していた。
だが宗八の声を直接聞くまで、若林はその情報に不安をかきたてられていた。あまりに雑な計画が、逆に罠師のトリックではないかという疑いを抱かせたのだ。
しかし、実際に耳にした宗八の声には隠しきれないストレスがにじみだしていた。
若林は安堵した。
〝罠師たちは今、警察、モサド、そして私の三方から包囲され、逃げ場を求めている。しかも時間がない。死に者狂いの反撃に賭ける以外に活路はない。奴らは私の策から逃げられない運命にあるのだ〟
全ての部品が、若林が望む場所に納まっていた。罠師を迎え撃つ布陣は敷き終わった。
若林は、机に置かれた偽文書に満足げな視線を落とした。我が子に語りかけるように穏やかにつぶやく。
「これでおまえも無駄にならずにすんだな。苦労して作った甲斐があった。しっかりと働いてくれ」
若林は偽文書を手に取ると、袖机の引き出しに納めた。そして、宗八の要求を記したメモを燃やした。
若林には炎を上げるメモが、罠師そのもののように思えていた。
〝燃えろ……。そして、消え去れ〟
メモが灰になると、若林は電話に手をのばして内線ボタンを押した。
「私だ。さっき知らせておいたマスコミ関係者に連絡を入れてくれたまえ。集まってもらう時間は夜九時ちょうどでいいだろう。一日あれば準備はできる。必ず、プロの尾行要員を連れてくるように念を押せ。
…………。
いや、私が言った通りに伝えればいい。記者どもは、皆、私と話したがっている。招待を断るはずはない。詳しいことは、私から直接説明すると言っておきたまえ」
宗八の罠が、若林の策に形を変えた瞬間だった。
若林の笑みは、もはや揺るぎないものになっていた。
〝罠師よ、来るがいい。私を倒すと豪語するなら、この策から逃れて見せろ〟
*
夜九時――。
社長室には、十人を超える男たちが詰め込まれていた。いずれも、これまでは若林不動産にカメラを向けることままならなかったマスコミ関係者だ。誰もが若林からの突然の招待の理由をいぶかり、緊張していた。
男たちは二つの企業から呼び出されていた。大手出版社の東亜文化社と、東京を地盤とするブロック紙の関東新聞である。いずれも中田との因縁が深い。
中田が首相の座を追われる発端となったのは、東亜文化社の月刊誌が掲載した金脈暴露のスクープだった。その記事は発表されると同時に日本を揺るがした。以来東亜文化社は、一貫して中田の犯罪を告発する姿勢を崩していない。
一方の関東新聞は、罪が疑われてからの中田を片時も目を離さずに追い続けてきた。中田事件はすでに十年の長きにわたって世論を騒がせている。その間、事件としては中だるみの時期も多かった。大手全国紙では、熱が冷めると報道の矛先を鈍らせることもあった。しかし関東新聞は紙面に中田関連専用のスペースを設け、毎日欠かさずに報道し続けた。地道な活動ではあったが、今ではその粘り強さが各方面からの称賛を集め、中田問題に関する権威の一つとして認められている。
いずれも、中田の〝宿敵〟であった。
オフィスは、人いきれでむせ返っていた。二人の男がソファーに腰かけて、正面の若林を睨みつけている。それぞれの社の代表者だった。残りの男たちは窮屈そうに壁に寄りかかっていた。
男たちの服装はまちまちだった。ネクタイをしめている者は半数にも満たない。ロックンローラー風にだらしなく革ジャンをひっかけている者、油まみれの作業服を着た風采の上がらぬ中年男、品の悪い背広を神経質そうに身につけた三流の色事師を思わせる青年――その場の雰囲気にそぐわない者たちばかりだ。
が、若林は彼らを暖かく迎え入れた。身に馴染んだ服装から、彼らが尾行に長けたプロであることを読み取り、安堵したからだった。
若林は、人の心を和ませずにはおかない穏やかな微笑みを浮かべて口を開いた。
「まず、お忙しい中を集まっていただいたお礼を申しておきましょう。私の勝手なお願い快く受け入れてくださって、感謝しております」
正面に座った一人が言った。
「私は東亜文化社の藤堂と申します。あなたもよぐご存じの月刊誌の編集を任されております。……煙草、よろしいですか?」
若林はうなずいた。
「もちろんです。他の方もどうぞ」
室内に漂っていた緊張感がほぐれた。数人がポケットに手を入れる。
藤堂がハイライトに火をつけてから続けた。
「突然のお招きで驚いているんですがね……。これまで徹底的にマスコミを避けてきたあなたが、突然、どうして?」
若林は藤堂の目の色を読みながら、自信に満ちた口調で言った。
「中田さんの判決公判との関連を勘ぐっていらっしゃるんですか? だとしたらご期待を裏切ることになりますが……実は、思いがけない事件が持ち上がりましてね。今日の昼前、妙な電話が入りました。悪質な脅迫のようなのですが……」
藤堂の隣の男が首をひねった。
「脅迫? 中田の知恵袋といわれるあなたを? あ、私、関東新聞の清田です」
若林は清田に向かって笑いかけた。
「〝知恵袋〟というのは勘弁していただきたいですな。私は、中田さんの一信奉者にすぎませんので」
清田は冷たく笑い返した。敵の本拠地にようやく肉薄した今、遠慮をする気など最初からない。
「業界の常識ですからね」
若林は肩をすくめただけだった。
「その電話によると、先日事故で亡くなられた立木君……中田さんの秘書だった方ですが、彼が書き残した告発書のようなものを持っているというのです」
男たちの間にどよめきが広がった。
藤堂が言った。
「相手は誰ですか」
「見当もつきません。名乗りもしないまま、一方的に『文書を買い取れ』と要求してきました。始めは悪戯だと思って切ろうとしたんですが……声に妙な自信が感じられるんですな。文書の信憑性はともかく、脅迫者が本気であることは確かなようです。それで話だけでもと思い、相手の言うことを聞きました。内容は荒唐無稽な作り話らしいんですが……」
若林は、宗八の声を録音したテープも準備している。捜査当局からの要請があれば、いつでも証拠品として提出できる。今それを出さないのは、手回しが良すぎて疑いを抱かれることを避けたかったからだ。
清田は腰を浮かせていた。
「詳しく教えてください」
若林が語ったのは、宗八からの〝脅迫電話〟の内容そのままだった。
「ええ。なんでもその男は、先日、自殺された坂本さんから問題の文書を預けられたというのです。詳しい入手経路に関しては、答えませんでしたがね。その文書は、立木君が亡くなられた場合にだけ、坂本さんの手に渡るように手配されていたそうです。それまでは坂本さんの知り合いの弁護士が保管していたとのことでした。悪戯にしてはちょっと手が込みすぎているとは思いませんか? 事実かどうかは、その弁護士を探して聞けば確かめられるんですから。私は相手が素人ではないと判断して、『文書が実在することを知っている』という演技をしながら取り引きに応じました」
藤堂が口を挟んだ。
「本当にあるんですか⁉」
「まさか。あなた方だって聞いたことはないでしょう? 事実電話の後に、坂本さんと関係している何人かの弁護士にそれとなく事実関係を尋ねてみましたが、みんな『知らない』と口を揃えました」
「まともな弁護士なら、軽はずみな発言はしませんよ。坂本さんに雇われた弁護士なら、守秘義務があるでしょうし」
若林は言い切った。
「どうせ、たちの悪いでっち上げに決まっています。私を脅して金をせびる腹なのでしょう」
清田が言った。
「ならば、どうして取り引きに応じたのですか?」
「文書を売りつける相手として、私を選んだことが引っかかったのです。事実はともかく、私は中田さんの参謀だなどと陰口を叩かれております。しかしそれは、一般の常識ではありません。まことしやかにそんな噂を語っているのは、一部のマスコミ関係者にすぎないでしょう? ならば、脅迫者もその業界の者ではないかと……」
「こっちに泥をなすりつけようって魂胆ですか?」
「いやいや、そんな気はありません。実は、もう一つの可能性が気になっていましてね。亡くなった方を悪し様に言いたくはありませんが、死ぬ直前の立木君はどうも精神状態が不安定でして……。あるいは妄想に駆られてそんな文書を書き残したのか……とも思えたのです。今は中田さんにとって重要な時期です。そんないい加減な文書で妙な噂を立てられては大いに迷惑しますからね」
藤堂が言った。
「立木さんとは親しくされていたんですか?」
「深いおつき合いはありませんが、言動が少々異常だとは聞いていました。もしそのような文書が実在したとしても、内容に信憑性はないでしょう。ただ、脅迫してきた相手が犯罪のプロなら、断れば次の手段を講じるでしょう。でたらめな文書をマスコミに持ち込まれて、痛くもない腹を探られるのは迷惑です。だから取り引きに応じたと見せかけて、最初からあなた方の公正な目で監視していただこうと考えたわけです」
「なぜ、私たちに? 警察には知らせてないのですか?」
「まだ通報していません。たとえ捜査本部から官製の情報が出たとしても、あなた方は『中田元総理の権力で事実を歪めたのではないか』と勘ぐるのではありませんか? だから初めから一番疑り深いあなた方を招いて、事の一部始終を検証していただきたかったわけです」
清田が屈託なく笑った。
「お誉めいただいて感謝いたします」
「どうせ文書はまがい物です。そもそも中田さんには、告発されなければならないような罪はありません。ですからあなた方は、見たままの事実を報道されて構いません。むしろ、積極的にそうしていただきたい。私や中田さんが事実無根の脅迫には決して屈しないということを、はっきりと示したいのです」
藤堂が念を押した。
「ですが、その文書が本当に立木さんが書かれた物だったら?」
若林は真剣な眼差しでうなずいた。
「内容を法廷で争う事になるかもしれませんね。それならそれで結構。事実は事実として認めましょう。ただ、私が脅迫されたことも事実です。このような卑劣な犯罪には絶対に屈服できません。それで、尾行などという面倒なお願いをさせていただいたわけです。取り引きに現われた者を追跡して、素性を明らかにしてください。それが私のお願いです」
清田がうなずいた。
「事情は分かりました。で、先方が要求してきた代償は?」
若林は事もなげに答えた。
「五億円の現金です」
「えっ?」
全員が息を呑む。
藤堂が小さく叫んだ。
「本当に渡すんですか⁉」
若林は動じない。かすかな笑いを浮かべてさえいる。
「いけませんか? どうせ私の個人の資産です。午後いっぱいかかって用意させました。中田さんとは全く関係はありませんから、くれぐれも誤解のないように」
清田がうめいた。
「なぜそんな大金を……?」
「中田さんを心から信奉しているからです。彼のためなら、これぐらいの危険は何でもありません。脅迫犯に疑いを持たせて逃げられては、素性を明らかにできません。取り引きの現場では本物を渡した方がいいに決まっています。あなた方が犯人に喰らいついてくだされば、どうせ戻る金ですから」
藤堂は、袋小路に追い込まれたことを悟った。意気揚揚と乗り込んできた以上、引き下がるわけにはいかない。
「つまり、私たちを信頼して五億の金を預ける、と……?」
若林は挑発するようにうなずいた。
「自信がありませんかな?」
藤堂は一瞬で覚悟を決め、にやりと笑った。
「社の威信にかけて、お預かりいたしましょう。万が一にもその金を失うことになれば、私が腹をかっ捌くことになるでしょうがね。念のため、後で現金は確かめさせていただきます。しかし、これだけの大金が手渡されるとなると、警察に黙っているわけにはいきませんが?」
「いつ連絡するかは、あなた方の判断にお任せします。今すぐとおっしゃるなら、ここの電話をお使いください」
清田が藤堂に目をやった。
「リスクは我が社も負うことになります。通報は朝刊の準備が終わってから……ということでは?」
藤堂はうなずいてから、若林に尋ねた。
「それで、具体的な取り引き方法は?」
若林は、先程から机の上に置かれていた手提げ金庫の鍵を開いて蓋を持ち上げた。中から小さな鍵を取り上げる。小型電卓のようなキーホルダーに、同じ形の鍵が二つ通されていた。
「夕方にこれが届きました。文書を納めたケースがこの鍵で開くそうです」
若林は藤堂の質問も待たずに、鍵を金庫に戻して再び鍵をかけた。
「鍵は誰が持ってきたのですか?」
「配送屋の青年です。犯人を警戒させるといけないので、尾行はつけませんでした。しかし、身元は会社に照会しました」
「犯人は配送屋に姿を現したわけですね?」
「目撃した係員がいるかどうか調べるよう、すでに依頼してあります。犯人に渡す現金の方は、車に積み込む際にご確認ください。交換は向かいのパーキングビルの路地で、十時半の予定です」
「ここに犯人が来るんですか⁉」
「ええ。現われた男が部下にケースを渡し、代わりに車のキーを受け取ることになっています。それから、交換は二度に分けて行なうと言ってきました。今回持ってくるのはコピーだそうです。二度目にオリジナルを渡す、と」
「その際にも現金を要求してきたのですか?」
「同じく五億円です」
「合わせて十億……」
「応じる気はありませんし、その必要もないでしょう。これ以上の金は都合できませんしね。ですから、なんとしてもここで犯人を捕らえていただきたい」
「犯人逮捕は我々の仕事ではありません」
「尾行さえ完全なら、後は安心して警察に委ねられます。くれぐれも間違いのないようにお願いいたします。それから、車には発信機をつけておきました。後ほど受信機をお渡ししますので、万一見失った場合は作動させてください」
壁に寄りかかっていた革ジャンの男がつぶやく。
「なぜ犯人は、ケースの鍵を先に持ってきたんでしょうか……?」
若林はその男を見ながら言った。
「犯人自身が電話で説明しました。鍵のキーホルダーは発信機になっていて、受信器に五〇メートル以上近づくと警告音が出る仕組みになっているそうです。それは、犯人が指定した場所とこのビルとの距離に相当します。もしも犯人が発信を感知した場合は、取り引きは中止。キーホルダーを壊そうとしても、犯人側に警告音が送られるそうです。つまり、鍵をケースから遠ざけておいて、確実に逃げられるだけの時間を稼ごうという魂胆です。見方を変えれば、犯人は私に売りつけようとしている〝文書〟に自信を持っていないわけです」
若林は狩谷を通して、罠師が送り込んできたキーホルダーが盗聴器であることを知らされていた。自社のX線透視装置で確認もしてある。当然、対策は終わっている。無理に壊そうとすれば、工具の音などでそれを悟られる。だから、電波を遮断したのだ。鍵を納めた手提げ金庫は大至急改造させたもので、内側に厚い鉛板を張りつけて電波を通さない。記者に改造を見抜かれないよう、フェルトの内張りで偽装もしている。罠師は今だに、このオフィスにマスコミ関係者が集まっていることを知らないはずだった。
革ジャンがさらに質問する。
「なのに、犯人は二回目の取り引きまで申し出ている?」
「そちらはダミーでしょう。私の気を緩めようという策略です。五億円を奪ったら、すぐさま高飛びするに違いありません」
革ジャンは、若林の説明に黙ってうなずいた。
だが、藤堂の表情には曇りがあった。
「それにしても、割り切れない話ですな……。何しろ我々は、中田やあなたを十年間も叩き続けてきた、いわば天敵です。電話取材すら拒否されていたのに……。それがどうして、急に協力しろと? あなたが望んでいるのは本当にそれだけですか?」
藤堂も清田も、若林の策士としての風評は嫌というほど聞かされている。そこを突きたくとも、隙一つ見せない強敵だったのだ。あえて対決を試みれば、政界や広告主からすさまじい圧力がかかる。それほど危険な相手からの唐突な申し出である以上、マスコミを中田擁護に利用する謀略だという可能性もある。
もちろん藤堂は、若林が簡単に本性を現わすとは考えていない。しかし腹に一物抱いているなら、何らかの反応を引き出せる可能性はある。記者の嗅覚には自信を持っていた。
彼らは息を詰めて若林を見守った。
が、若林は眉ひとつ動かさない。
「疑われるのも無理からぬところでしょう。しかし、私の望みは犯人の意図を明らかにすることだけです。私が後になって事件の顛末を公表したところで、誰も信じない。ならば、始めから事実をさらけ出すべきでしょう? あなた方お二人には、ずっと私の傍についていていただきましょう。それなら安心できるのでは?」
清田が言った。
「もし文書が出てきた場合、読ませていただけますね?」
「もちろんです。報道が公正なら、内容を公開されても構いません。私は国民に、中田さんがこのような悪意にさらされていることを知ってもらいたいのです。こう言ってはなんですが、私たちが攻撃される原因はあなた方の偏った報道にもあります。ですから、今度こそは事実を正しく公開していただきたい」
「しかし、策士と恐れられるあなたの言葉とあっては鵜呑みにするわけにはいきませんからな……」
若林はあからさまに挑発されても穏やかに微笑んでいた。
「ならば、こう言いかえましょう。私や中田さんは、あなた方の協力によって、文書が悪意の犯罪者によって捏造されたものだという確信を得る……まあ、文書と呼ぶに値するものが持ち込まれるなら、ではありますがね。そして、それを報道していただく。一方あなた方は、またとないスクープを手にする。警察にさえ先んじて内部情報を得られるんですからね。これなら、立派なビジネスではありませんか?」
藤堂はうなずいた。
疑問が解けたわけではない。むしろ、若林の自信に満ちた態度に疑いは強められている。だが、利益が大きな取り引きであることも否定できない。
「今のところはそういうことにしておきましょう。しかし、はっきりお断わりしておきます。私たちは、見たものを見たままに報道します。たとえ事件が、あなたの信念を覆す事態に発展したとしても。それを止める手立てはありません。よろしいですね?」
「望むところです」
藤堂も清田も、そこまで言われて尻尾を巻くわけにはいかなかった。共にうなずいた彼らの目には、堅い決意がみなぎっていた。
何一つ見逃すまい――。
それは、記者生命とプロの誇りを賭けた決断でもあった。
若林はパイプを取り上げると、煙草を詰めた。
「よろしければ、尾行に当たる方をご紹介いただけますかな?」
藤堂が革ジャンに目をやった。
男は軽くうなずいてから言った。
「申し遅れました。東亜文化社の倉持です。関東新聞の方々を含めた、八人のチームを率います」
若林は倉持に鋭い視線を投げかけた。
「お若いようですが、尾行の経験は?」
倉持は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ほとんど毎日。それを専門に雇われていましてね。二十八になるまで、ボストンのピンカートン社で働いていました。尾行のテクニックは本場仕込みです。チームの指揮にも充分な経験を積んでいます」
若林の表情が和らいだ。
と、もう一人の男が口を開いた。よれよれのダークスーツをだらしなく着た中年男だった。声までが窓際族の疲れをにじませている。
「関東新聞の代表です。蒲田と申します。強力なチームを――という要請でしたので、最高の人材を揃えました。写真の技術も完全です。倉持さんの指揮に従うよう、調整もすませてあります。目標がいくつかに分かれた場合でも追尾できますので、ご心配なく」
若林は満足げにうなずくとパイプに火を入れた。
計画は軌道に乗ったのだ。
男たちはすでに、若林の策略に陥れられまいと神経を張り詰めている。その意気込みは、尾行の緻密さとなって現われるだろう。命を賭けて虎穴に飛び込んでくる罠師たちは、彼らに一挙手一投足を監視されることになるのだ。
若林は知っていた。マスコミは、操るツボさえ間違えなければ強力な援軍になりうる。若林の投げた餌を針ごと飲み込んだ記者たちは、もはや敵ではなかった。
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