8・罠師、襲わる
狩谷は、大量の食料が入った紙袋を両手で抱えて車に戻った。少なくとも今日一日、どんな形であれ決着がつくまで、破壊されたアパートに戻ることはできない。しかも、敵は若林だけではない。身を守るためには、車さえ出ない方が無難だった。
狩谷はまだ宗八と竜子が言い争っているものと観念していたが、予想は外れた。竜子はむっつり押し黙ったまま、じっと下を見つめている。
狩谷の手が塞がっているのを見た宗八は、中からスライドドアを開いた。狩谷はそこに紙袋を押し込むと、運転席に回った。
宗八はさっそく袋を開き、一番上にのっていたハンバーガーを取ってむしゃぶりついた。空いた手は袋の奥を探っている。
何か腹に入れようと振り返った狩谷に、宗八が言った。
「気がきかねぇ野郎だな、酒が入ぇってねぇ」
反射的に竜子が振り返った。
狩谷は、またも竜子の怒りが爆発するものと身構えた。
が、竜子は何も言わなかった。数秒間、宗八を睨んだだけで視線を手元に戻す。そこには、一時は爆発的な人気を誇った〝ルービック・キューブ〟の十六分割版が握られている。超難解といわれる六面体パズルだ。竜子が黙々と指先をねじると、ばらばらだった色が見る間に揃っていった。竜子はそれ以上、宗八に目を向けようともしない。
宗八は実の娘にも見離されたようだった。
狩谷には、竜子が泣いているように思えた。そして、代わりに言った。口調には疲れがにじんでいる。
「いい加減にしてくれ……。今夜ケリをつけると意気込んでいたのは、おまえだぞ。それなのに、まだ呑む気か? 頼むから、片がつくまで酒はやめてくれ。俺たちみんなのためなんだから……」
宗八も、多少はすまないと思っているようだった。身を縮めてつぶやいた。
「おぅ……ま、そうまで言われっちまっちゃぁしかたあんめぇな……。止めるったって、どうせ一日だけのこった。俺は構わねぇんだがよ……」
狩谷は歯切れの悪い返事にいらだった。
「文句があるのか?」
「文句なんざぁねぇよ。だがよ、こっちゃぁ毎晩呑むのに慣れっこになってらぁ。酒が切れると、手ぇが震えやがるんだな、これが……」
狩谷は自分でも気づかぬうちに頭を抱え込んでいた。
*
狩谷は、一時間に一度の割りで車を移動させた。警官の姿や車を不審げに眺める者がいると、移動を早める。そして、人が少なく日当たりのいい公園の近くに車を停めた。
男二人は作業服に着替えている。竜子は例の衣装をまとったままだが、後部のがらくたを寄せてできたスペースで毛布にくるまり、外からは見えない。着替えは用意してあるのだが、すっかり変装が気に入ってしまったのだ。
彼らの姿は、短い時間であれば作業員が油を売っているとしか見えないはずだった。
宗八は時たま外に出ては部下たちに電話をかけると、情報を得てから次の指示を与えた。
狩谷はその度に電話の内容を聞き出そうとしたが、宗八は多くは語らなかった。ただ一度、最初の電話の後に『若林に宣戦布告をしてきた』とつぶやいただけだった。
狩谷の不安は激しくなるばかりだった。自分がするべき仕事があれば不安を忘れることもできるのだが、宗八は狩谷を車から出そうとしない。しかも宗八は、何を聞いても薄笑いを浮かべるばかりで答えはぐらかせる。
情報から隔絶された苛立ちと密室の息苦しさは、狩谷の神経をすり減らしていた。
窮屈な運転席で無理に眠ろうとしても、首筋を痛めるだけだった。
〝若林は何をしているんだ……? 警察は動き出したのか……? 宗八は本当に頼れるのか……?〟
狩谷の不安は頭の中で堂々巡りするうちに、際限なくふくらんでいった。
宗八はそんな狩谷とは対照的に、後部の座席で心地よさそうな寝息を立てている。不安も心配も感じさせない、幼児のような寝顔だった。
狩谷は、悠然とくつろぐ宗八を眺めながら、これまでの彼の行動をもう一度考え直してみた。が、結論は変わらなかった。
〝やっぱりこいつ、只者ではない……〟
若林の策略を見抜き、意図して排したという説明に欠点は見いだせなかった。宗八が桁外れの用心深さと明晰な頭脳を持っていることは否定しようもない。
しかし――いや、だからこそ、狩谷の不安は高まるのだった。
狩谷の計画では、事態をコントロールするのは自分のはずだった。ところが今や、全ては宗八が動かしている。現職の検事である狩谷は一介の犯罪者に鼻面を引き回され、船酔い同然に目を回しているのだ。宗八はもはや、狩谷の助けを必要としていないようにさえ思えた。
宗八の独走がこの先事態をどう変えていくのか、狩谷には見当もつかない。
宗八は、今夜の作戦を進んで狩谷に打ち明けた。計画は荒っぽく大胆だが、筋が通っている。だが狩谷の直感では、それが宗八の罠の全てだとは思えなかったのだ。
〝こいつ、腹の中で何を企んでいるんだ……?〟
宗八の寝顔は限りなくあどけない。狩谷の不安は底知れぬ恐怖に変わりつつあった。
狩谷は溜め息をついて視線を外に移した。
昼下がりの公園には真冬にしては暖かそうな光があふれ、何組かの親子連れが遊びに出ていた。母親たちはひと固まりになって井戸端会議に熱中し、子供たちは砂場に群れて遊びほうけている。
皆、幸せそうで、平和な暮らしを当たり前のこととして楽しんでいた。
狩谷にはその当たり前の光景がひどく羨ましかった。
〝俺は、どうしてこんな場所で凍えているんだろう……?〟
そして、自分にも妻と息子が、そして孫がいることに気づいた。
〝何を弱気になっているんだ! やり遂げなくちゃならないんだ! 俺がしくじれば、みんな巻き添えになるんだ……〟
妻には『仕事でしばらく家に戻れない』としか告げていない。過重な労働を強いられる特捜部ではありふれた状況で、言い訳としてはもっとも無理がなかった。
〝俺が姿を消したと知ったら、どう思うだろうか……。もしこのまま失敗したら、家族はどうなるんだ……〟
昼近くになると、ようやく宗八が目を覚ました。
むっくりと起き上がり、狭い車内で精一杯の伸びをしてから言う。
「電話、かけてくらぁ」
一〇分後に戻った宗八がぼやく。
「くっそう……冷えやがるな。ヒーター入れてねぇのかい?」
狩谷は、電話の内容を聞こうともしなかった。
「隙間風だよ」
「しゃぁねぇな……それに、狭苦しくっていけねぇや。これで酒も呑めねぇときた日にゃぁ、脳ミソまで腐っちまわぁ。よぉ、てめえらもちょっとばっかり外に出てみねぇかぃ? 風に当たりゃあ、気分も晴れる」
竜子も毛布から這い出してきた。シートをまたいで宗八の隣に座ると、明るく言った。
「いいのかい、出ても!」
さっきまでの怒りはすっかり忘れているようだ。
「ああ、少しぐれぇなら構いやしねぇ。すぐ場所を移しゃぁいいこった」
狩谷も出たかった。もう半日以上、運転席に座り続けている。その上に宗八の酒臭さと、竜子との言い合い――。気分はどん底に沈んでいたし、体中の筋肉がきしんでいる。新鮮な空気を吸えば少しは楽になるかとも思えた。
真っ先に竜子が飛び出した。昼間の光にさらされた竜子の衣装は、さらに奇怪さを増していた。が、本人は一向に気にしていない。並みの神経の持ち主ではないようだった。
狩谷はその後ろ姿を茫然と眺め、すっかりくせになった溜め息をつくと、ゆっくりと運転席を下りた。
小走りに公園に入った竜子は三人の子供がたわむれる砂場の縁に腰を下ろした。子供たちが手を休め、物珍しげな視線を投げかける。
竜子は明るく笑い返した。
一人の女の子が言った。
「きれいな服だね。お姉ちゃん、アイドル?」
「うん、そうだよ」
「テレビも来るの?」
竜子は近づいてくる狩谷を見た。
「ううん、今日はマネージャーだけ」
子供たちの視線も狩谷に向かった。
「あの人? 電気屋さんみたい」
「変装してるの。わたし、人気者だから」
「でも、テレビで見たことないよ」
「そりゃぁそうよ、嘘だもの」
「なあんだ、つまんないの。でもお姉ちゃん、すてきだよ」
「ありがとう」
子供たちは砂場に散乱した玩具に注意を戻した。超合金合体ロボット、ガンダム・プラモデル、ミクロマン、モンチッチやアラレちゃんの人形――室内で飽きられたブームの品々が、砂まみれになって第二の働き場を見出だしている。
竜子が砂から首だけを出したロボットのプラモデルに目を止めた。
「あ、ザクだね。もっときれいに遊んであげれば?」
男の子が応えた。
「いいんだ、ザク、弱っちいもん」
「そんなことないって。シャーがパイロットなら、ガンダムじゃなければ勝てないよ。弱いのは、パイロット」
竜子を見上げた男の子の目に、尊敬の念が宿る。
「よく知ってるね」
「『ガンダム』のビデオ、集めてるもん。『ゴッドマーズ』も、ね」
子供たちが一斉に叫ぶ。
「すごーい!」
「ビデオ持ってるんだ⁉」
「見せて見せて!」
と、竜子はもっとも年令が高そうな男の子に言った。
「『スター・ウォーズ』って知ってる?」
「映画でしょう?」
「君たちの誰か、チューバッカのぬいぐるみを持ってないかな?」
「欲しいの?」
「集めてるから」
「マニアなんだね」
「誰か持ってたら教えてね。譲ってほしいんだ」
「うん」
狩谷が竜子の横に座った。
「楽しそうじゃないか」
大人の男の登場で、子供たちが遠退いていく。
「爺さんのお相手より、ずっと話が合うからね」
それきり二人は、黙って冷たく快い空気を味わった。
宗八は車を下りると、大きく背中をのばしてから二人の方へ向かった。妙に尊大な歩き方で、辺りを見下すように眺めている。
狩谷は思わず吹き出しそうになった。
とうてい油を売っている作業員には見えない。
宗八が砂場に近づくと、子供たちが再び目を上げた。そして、じっと彼を見つめた。
宗八は不意に歯をむき出した。笑いかけたつもりなのだ。
とたんに子供の一人がわっと泣きだした。そしてすぐに、全員が泣き叫ぶ。子供たちは一団となって、立ち話に興じる母親の下へ走り去った。
宗八は腕力に訴えることなく、砂場の使用権を奪い取ったのだった。
狩谷は腰かけた宗八に言った。
「おまえからは、なにもかも逃げ出していくみたいだな」
「屁理屈こねてるんじゃぁねぇやい。ガキが苦手なだけじゃぁねぇか」
言いながらも、宗八の目は子供たちを追っていた。
そして、ぽつりと言った。
「なぁ竜子、ガキ……こさえちゃぁどうだい?」
竜子は笑った。
「ご免だね。罠の方がよっぽどおもしれぇ」
「だがな、罠師はこれでお仕舞えだよ。若林を叩きつぶせても、どうせ俺はムショ入りさ。そうなりゃぁ、てめえもただの女……。身を固めたっていいんじゃぁねぇのかい?」
竜子は、はっと宗八を見つめた。
「親父、とっ捕まる覚悟で……?」
「あったりめぇだ。こっちが捨身にならなけりゃぁ、娘一人だって助けてやれねぇ。なぁに、迷惑はかけねぇさ。だから、な、孫をこさえてやっちゃぁくれねぇか?」
竜子は力なくうつむいた。
「ガキをつくるにゃぁ、相手が要るじゃぁねぇか。かっさらってきてくれるかい?」
宗八はいきなり声を荒らげた。
「馬鹿ったれが! てめえで見つけてきやがれ! それでも女のつもりかよ!」
竜子も黙ってはいない。
「なんでぇいきなり。こっちが調子を合わせてやりゃぁ、その言い草かい! だいたいな、あたいに男がつかねぇなぁ、てめえがひっついてるせいなんだぞ。呑んだくれのもうろく爺いの世話なんぞ、まともな男が見たがるもんかい!」
宗八も腰を浮かせた。
「おぅおぅ、言ってくれるじゃぁねぇか。上等でぇ。こちとらぁな……」
狩谷は、いつ果てるともない言い争いにはうんざりしていた。二人の声を無視して爪先で所在なげに砂場を掘り返し、ぼんやりと辺りを見渡した。
と、一人の男が公園に入ってくるのが見えた。
髪をオールバックになでつけ、濃い色のサングラスをかけている。グレーのトレンチコートのポケットに両手を突っ込んでいた。歳は、三十前後であろうか。母親たちにしがみつく子供たちにしばらく目を向けてから、男は砂場に向かって近づいてくる。
男は親しげな微笑みを浮かべて、砂場越しに彼らの前に立った。
竜子が気配を察して目を上げると、男は穏やかな声で言った。
「すみませんが、火をお持ちじゃありませんか?」
「火ぃかい?」
竜子は砂場の縁から子供たちが置いていった小さな玩具を取り上げた。金色のライターだ。『ゴールドライタン』――一年ほど前になぜか爆発的に人気が出た、ライター型の変形ロボットだった。遠目には本物のライターと見間違えるほどリアルな玩具だ。
だが男は、近寄ってこない。
竜子は危機を感知した。
男がポケットから手を抜こうとする。ポケットの中で何か大きなものが動く。
狩谷の頭の中でも警報が鳴った。
男が出したのは拳銃だった。
狩谷が立ち上がると同時に銃声がとどろいた。
宗八が後ろに吹き飛ばされた。
すかさず、竜子が行動を起こしていた。
素早く手の〝ライター〟を投げる。男が首を傾げて避けた隙に、身をかがめて一握りの砂を取った。火線を逃れて横に跳びながら、男の顔へ砂を投げつける。
砂粒のいくらかはサングラスの隙間から男の目に入ったようだった。男は反射的に顔をそむけた。続けて三発の銃声が起こったが、銃弾は小さな砂煙を上げただけだった。
狩谷は、危険を忘れて男に飛びかかっていた。身体を低くして砂場を突っ切ると、左手で男の銃を掴んだ。その腕を高く押し上げながら相手の胸へ頭突きを食らわせる。
男の反応も早かった。
左腕のひじが狩谷の後頭部に叩き降ろされる。
深い砂に足を取られた狩谷は、男が突き上げたひざをみぞおちで受け止めた。銃を掴んだ手がゆるむ。
サングラスの男は、息ができずにあえぐ狩谷を押しのけ、身をひるがえして走り去っていく。
宗八が地面でのたうちながらわめいた。
「畜生ぅ! 殺すんなら、さっさとやりやがれぃ! さぁ殺せぃ!」
左肩を押さえた指の間から血が噴き出していた。
立ち上がった竜子はサングラスの男を追おうとしていたが、宗八の声で我に返った。あわてて宗八を抱き起こし、命じる。
「わめくんじゃぁねぇ! ずらかるぞ。サツが来たら、お仕舞いだぜぃ」
宗八は竜子に乱暴に立たされてうめいた。
「馬鹿、手加減しやがれ!」
「急ぐんだよ!」
宗八はうなずくと、腹を抱えてうずくまる狩谷をあごで示した。
「おぅ。俺は大丈夫でぇ。みの坊を頼んだぜ」
宗八は肩を押さえ、ふらつきながら車に向かって走った。
竜子が狩谷に手を貸す。狩谷は頭を振りながら起き上がった。後頭部へのダメージは大きいようだった。竜子は狩谷の脇に腕を入れると、引きずるようにして車へ急いだ。
遅ればせながら母親たちの悲鳴が上がった。十分もしないうちに警官が押し寄せるだろう。
宗八は後部シートにうずくまり、自ら傷の手当てをしていた。作業服の片腕を抜き、セーターとシャツは引きちぎっている。手元にあった着替えのシャツを包帯代わりにしていた。宗八は口を使って巧みに傷を縛り終えたところだった。
竜子は狩谷を助手席に押し込むと、運転席に回った。
狩谷はそんな竜子を心細げに見つめるのが精一杯だった。息がせわしなく、まだしゃべることもできない。
竜子はエンジンをかけながら狩谷に言った。
「免許は持ってるよ。ペーパードライバーだがよ」
そして、肩越しに振り返った。心配そうだ。
竜子と目を合わせた宗八が言った。
「かすり傷でぇ。弾は抜けちまったし、骨もつながってらぁ。早く消毒すりゃぁ、なんてぇこたぁねぇ。……だがよ、久しぶりだぜ。この歳になってまで撃たれるたぁな……」
戦時中、何度も地獄をのぞき込み、そのたびに生き残ってきた宗八は、もう取り乱してはいなかった。応急の止血も戦争体験があったから可能だったのだ。だが、包帯代わりのシャツには早くも血がにじみ出している。
竜子がつぶやく。
「おい、血ぃ、止まってねぇぜ……」
「こいつぁいけねぇな。痺れっちまって、さっぱり感覚がねぇ。早くきちっと手当てしなくちゃぁ……。車、さっさと動かしてくんな。おい、みの坊は大丈夫なのか?」
狩谷はようやく言葉を出せる状態にまで回復していた。
「ああ……そのようだ……。誰なんだ……今のは……」
「モサド……じゃぁねぇのかい? 若林にしちゃぁ手荒すぎらぁ。白昼堂々、たぁな。姿は見えねぇが、尾けられてたのかもしれねぇ。また厄介事が増えちまったってぇわけだな……」
竜子が車を出しながら言った。
「手出ししねぇことになってるんじゃぁねぇのかい?」
「信用できるか。長屋を荒らしたなぁ、やっぱりモサドだったんだろうよ……」
竜子はルームミラーで宗八の傷を見た。血が広がっている。意識を失わせないためにも、しゃべり続けさせた方がいい。
「それにしちゃぁ、やり方が素人臭いぜ。やっぱり若林じゃぁないかい? 派手な立ち回りで人目を引いてさ、あたいたちをサツに捕まえさせようとした、とか……」
「逆に拳銃使いの兄さんがとっ捕まったらどうなる? てめえの首を絞めるようなもんだぜ。やっぱりモサドだな。大方、下っ端が先走っちまったんだろうよ。それとも、これも警告のつもりかね。早ぇとこ〝星〟を返ぇさねぇと、今度は命がねぇぞ……ってな。へっ、どんなに意気がったって、特捜の大将に勝てる道理はねぇのによ……」
犯人の一撃で呆気なくノックアウトされた狩谷は、唇をかんでうつむくしかなかった。
*
衣装を替えた竜子が買い揃えた薬で消毒を終えると、宗八は言った。
「いよいよどん詰まりのようだな。サツに若林にモサド……とくりゃぁ、怪談まがいの三題噺が出来上がらぁ。ま、しゃぁねぇや。こんなところで腐ってたって何がよくなるわけじゃぁねぇ。一刻も早くケリをつけなきゃぁなんねぇ。仕上げにかかるぜ」
狩谷が応えた。
「だが、本当にできるのか? そんな身体で……」
「若林に喧嘩を売ったのはこっちだ。今さら後に引けるか。……なぁに、俺が動くわけじゃぁねぇ。黙って座ってる方が若林だって狙いやすいんじゃぁねぇのかい。取り引きは手下にやらせる。当然、その前にゃぁ若林の部屋に盗聴器を送り込む。喰いつくか逃げるかは、様子を見てから考ぇても遅くねぇ。手筈はとっくにすんでるんだからな」
竜子は不安そうだった。
「だがよ、親父が目を光らせてなきゃぁ、何が起きるか分からねぇぜ。相手が相手なんだからよ……」
「だから、手下はてめえが束ねるんだよ。罠師最後の一世一代の大勝負だ。手柄は記念にくれてやらぁ。罠が終わったら、どっかに隠れてろよ。そのうち、みの坊が迎えに行く。モサドはてめえも狙うかもしれねぇ。くれぐれも用心するんだぜ」
竜子は嬉しそうに答えた。
「任しておきなって。大船に乗った気でいるがいいよ。おう、そっちにあたいの雑誌がある。退屈だったら、暇つぶしに読んでてもいいんだぜ」
宗八は後部座席で身をよじって、ラゲッジスペースの紙袋から雑誌を抜き出した。ぱらぱらとめくってから表紙をじっくり見て、眉をひそめる。
「なんだいこりゃ。『もんしんこいよ……』じゃぁねぇな……『ヘンタイよいこ新聞』か? なんで今時、題名を右から書くんだ?」
竜子がにやりと笑う。
「一番の流行モンだ。糸井重里っていうコピーライターが編集してんだぜ。しかも、パルコ出版。お洒落だろう?」
「コピー……何だと? コピー撮りのOLかなんかが本を出したのか? そんな半端もんのどこがお洒落なんでぇ? 近頃の若い連中が考えるこたぁ、さっぱり分からねぇやい」
「若い者が分からねぇ、だと? 一人前に『積木くずし』を気取ってるんじゃぁねぇやい。子供のことなんざぁ、はなっから考げぇたこともねぇくせに。それにな、てめえの時代なんざぁとっくに終わってるんだよ」
「時代が変わろうがどうしようが、変わらねぇものだってあらぁな。こんな妙ちきりんな本ばっかり読んでやがるから、てめえにゃぁ男がひっつかねぇんだ」
「死に損ないの爺いにゃぁ新しすぎたかね。ま、少しは若いもんの文化に触れてみるがいいさ。冥途の土産に、な」
「てめえこそ、若造りもいい加減にしやがれ。三〇近いっていうのに、なにが『よいこ新聞』でぇ」
「仕方ねえだろうが、『スケバン刑事』だって連載が終わっちまったんだからよぅ。楽しみは自分で見つけなけりゃぁな」
「ガキみてえなことばかり抜かしてやがるんじゃぁねぇやい!」
竜子はにっこり笑って肩をすくめた。
「ま、それだけ御託が並べられるようなら、命に別状はねぇな」
「当ったりめぇよぅ。この宗八様が、腐れ弾の一発ぐれぇでくたばるか」
そして、竜子は狩谷に言った。
「じゃあ、爺さんを頼みます。守ってやってくださいね」
竜子はそう言うと、車を飛び出していった。車から見えなくなる前に振り返った竜子の顔には、父を気づかう不安がにじんでいた。
宗八は疲れ切った様子でつぶやいた。
「大船ね……それだって、沈むこたぁあるんだよな……タイタニックなんざぁ、あっという間だったっていうじゃぁねぇか?」
「竜子さんに任せるしかないさ」
「そうさな……俺が育てた娘だもんな……信じてやるしかねぇよな……。おっと、それよりみの坊、電話の方は頼んだぜ」
「引き受けた」
「言うことは分かってんだろうな」
「特捜と警視庁で若林の監視に当たる。変更はないな」
宗八が溜息を漏らす。不意に真顔に変わった。
「罠の締めを教えてやらぁ」
狩谷も、宗八が全てを語っていないことには気づいている。
「本当の結末、か?」
「しくじると、罠にならねぇ」
「やっと信頼してくれたな」
「竜子には言えねぇ。終わるまで、教えるんじゃぁねぇぞ」
「そういうことか……」
「まずは、偽の取引で思い切り引っ掻き回す。金だけ奪って、若林をカンカンにさせてやるんでぇ。そうすりゃぁ、奴の手下どもは金を追って出払う。手下が消えたところに、俺が乗り込んで直に対決する。公園で撃たれた落し前ってことにすりゃぁ、理屈は通らぁ。若林が撃ったと思い込んでた、ってな。俺の銃は手配した。奴が仕掛けてこねぇなら、こっちが撃つ。殺す気で、な。ビルの中でドンパチ始まれば、サツが突っ込む理由ができらぁ」
宗八は、相撃ちになっても若林を葬ろうとしている。だから、竜子の前では計画を話そうとはしなかったのだ。生き残れても、殺人犯になるかもしれない。
「その体で? 危険だな……」
「右手は動くぜ。一発ぐれぇは撃てらぁ。特捜がビルに踏み込みゃぁ、コンピューターん中に収まってる証拠はほじくり出せるんだろう? 奴が生き残ったら、そいつで止めを刺せよ。だが本当に、サツまで動かせるのか?」
「事情が事情だ、なんとかする。俺を信じている仲間も残っている」
「俺がただ殺されちまった……なんて落ちになったら、孫子の代まで化けて出てやるぞ。モサドの方へは、てめえから〝星〟を返ぇてくれ。手柄はてめえにくれてやらぁ。だから、竜子は守ってくれよ。盗みには絡んじゃいねぇんだからよぉ」
「全力を尽くす。おまえは出番までここで大人しく待ってろ」
「へっ、こんな身体じゃぁ、どこへも逃げられやしねぇやい」
かすかに微笑んで車を下りた狩谷を、宗八は無表情に見守っていた。
*
狩谷の姿が消えてしばらくすると、車の外から竜子が顔をのぞかせた。
「で、どうすりゃぁいい?」
宗八は、何度かかけた電話で得た情報を明かした。
「若林の野郎、会社にマスコミ連中を招待したとさ。今夜九時だと」
竜子がにやりと笑う。その情報は、宗八が予測した若林の策略を裏付けていたのだ。
「確かかい?」
「てめえで確かめてみろ。今頃、頭数も役割も割れてらぁ」
「じゃあ、あの罠で決行だね。賑やかな芝居になりそうじゃねぇか」
宗八が冷たく笑いながらうなずく。
「アタッシュケースの鍵を送り込みな。これから手紙を書く。銃を届けに来る時に渡すぜ」
そして宗八は〝罠〟の詳細をすり合わせ、細かい指示を与えた。
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