7・策士、怒らず
若林は考え込んでいた。
オフィスへの電話の取り次ぎを止めて黙ったまま、すでに三〇分が過ぎている。その目は飾り気のない壁を虚ろに見すえ、表情は石と化したようだった。
そのオフィスは質素で狭かった。六、七人の大人が入れば息苦しさを感じるほどのスペースしかない。調度も限られている。若林の椅子と机、そして客のための小さなテーブルと二人掛けのソファー――それも、合成皮革の大量生産品だ。
同じ事は社屋全体に当てはまった。小ぢんまりとした三階建てのビルは、清潔だが見た目の派手さはどこにもない。会社は、大口の土地取引を主な業務にしている。さすがに、一般客が商談に訪れる一階の商談室には花や複製画が飾ってある。しかし、三〇名ほどの営業が用いる二階、会議室と社長室や秘書室がある三階には、それも見当たらない。
ここでも虚飾とは無縁な男だったのだ。
だが、若林はそのオフィスに満足していた。若林がこの社屋を建てる際に力を注いだのは、機能と安全性だった。
その成果は机の中に隠されている。袖机の引き出しに収められたコンピューターの端末機だ。
会社の業務はほとんどが地下に据えられたコンピューターシステムを介して行なわれる。引き出しの端末は、若林のパスワードを用いれば、そのどこにでもアクセスできるように設計されていた。若林はいつでも業務の進行状態をチェックする事ができたし、社員もそれを承知していた。しかも地下コンピューターの能力には、不動産取り引きを管理する他に、充分以上の余裕が残されている。
そこが若林の世界だった。
中田の参謀としての情報が、コンピューターに蓄積されているのだ。彼にとっての会社は、情報を安全に保管する〝容器〟にすぎなかった。
若林は、いずれは自分が日本を陰から操るのだと決意していた。その布石として中田をパートナーに選び、力を貯えてきた。中田の下に集まる政官界、そして民間企業の情報は全てコンピューターに入力されている。若林独自のネットワークからも、日々新しい情報が流れ込んでいる。
若林が操る電子の迷宮には、検察や警察幹部の私生活の情報までが貯えられていた。何よりも充実していたのは中田の個人情報であった。自分の行動が詳細に記録されていることを、中田自身は知らない。
しかも若林が集める政財界情報の多くは、スキャンダルか犯罪性を持ったものだ。
たとえ社会的には些末な事柄でも、その家族を破綻させられる情報も多い。政治家や業界人の密会、私生活での嗜好や悪癖、彼らの浮気相手までが、無数の情報屋が持ち込む写真とともに蓄えられている。若林はその処理のために、ファクスで送られてくる写真をそのまま磁気データとして記録する先進的なシステムまで導入していた。
それゆえに権力者たちは底無しの情報を握る若林を恐れ、若林を配下に抱える中田にひれ伏した。同時に、若林の陰の地位を日増しに高めさせていった。
若林にとって政界は一種の〝機械〟であった。巨大で複雑ではあるが、長年の努力によって若林はその隅々までを解析し尽くしている。若林にとって不都合な動きが政界に生じれば、彼にはどの〝部品〟が悪いかが即座に分かる。どうすれば直せるのか、直せない場合はどの〝部品〟と替えればいいかというマニュアルは、彼の頭脳に書き込まれていた。コンピューターは若林に〝部品〟の詳細なデータを与える〝在庫一覧表〟だったのだ。
しかもそこに書き込まれたデータは、パスワードを知らぬ者が目にすることは許されない。たとえ相手が東京地検特捜部の精鋭であっても、だ。その安全性こそが、若林がコンピューターに固執し、大金を投入した最大の理由だった。
若林は中田の権力に守られ、利用しながら、そのシステムを構築してきた。そしてこれまでは、中田一人のためにシステムを運用してきた。だが彼は、一介のオペレーターに止まる男ではなかった。中田の地位に陰りが見え始めた数年前から、若林は真剣に脱皮の道を模索し始めている。若林にとっての中田はもはや、意のままに操ることができる〝部品〟のひとつに価値を下げていたのだ。
そして若林は、念願をかなえる日は遠くないと予感していた。
日本を己れの手中に収める――。
だが、機は充分に熟していない。そして今、長期戦略を脅かす不気味な不安定要素が立ちはだかった。
その名は、罠師――。
若林はようやく動きを見せた。
視線を机の上に置かれた〝立木文書〟に落とすと、重い溜め息をもらす。若林は文書から目を離せないまま、使い込まれたブライヤーのパイプに煙草を詰めて火を入れた。
東名高速のインターから消え去ったその文書は、かろうじて回収され、朝早くに社に届けられたものだった。若林直属の行動部隊が上げた成果だ。アタッシュケースに仕掛けた発信機が有効に機能したおかげでもあった。
高速で待ち構えていた男たちは、宗八が見抜いた通り、全員が若林の部下だった。若林は、罠師の暗躍を逆に利用しようと目論んでいたのだ。
しかし若林の策略は、宗八の不手際のために失敗に終わった。その上、若林の地位を危険にさらす恐れがある〝立木文書〟が公にされる直前まで、事態は錯綜した。
〝立木文書〟が回収できなければ、中田は数日のうちに政治生命を断たれる可能性すらあったのだ。
〝万一この文書が部外者の手に渡っていたら……〟
若林は昨晩の激しい緊張を思い起し、再び溜め息をついた。その文書が秘めたすさまじい破壊力は知り尽くしている。
その文書は、若林が自らの手で記したものだったからだ。
若林は真の〝立木文書〟が仙台のホテルから消えたと知った直後に、文書の捏造を決意した。自宅の書斎で二日間徹夜した末にようやく仕上げた労作だった。
分厚いレポート用紙に記された〝偽・立木文書〟には、中田が行なってきた犯罪行為やここ数年の行動が事細かに書き記されている。若林は『立木が知っている』と思われる事実だけをデータベースから抜き出し、偽文書に書き写したのだ。しかもその内容には、検察では疑惑が立証できずに捜査が行きづまっている多くの事件が含まれていた。
政界での金の動きとその目的、財界からの裏金の流れ、選挙の際にばらまかれた資金や関係業者への圧力、中田が所有する企業での不正行為――全てが詳細に、そして具体的に記されている。
しかも、書かれていることは残らず真実だった。そこまで中田の裏事情を知る人物は、立木と若林しかいない。
この文書がマスコミ関係者に渡れば、世論は沸騰する。手にする者が使い方を心得ていれば、中田軍団を根絶やしにすることもできる。
だが、毒は使い方で薬にもなる。
若林が創作した〝偽・立木文書〟は、唯一の手段によって、検察を沈黙させて中田の地位を完全に復活させる魔力を備えていたのだった。
若林は深々と吸い込んだパイプの煙とともにつぶやいた。
「文書が戻れば、まずは一安心だ……。しかし罠師という奴ら……何を考えているのか……。間抜けなのか切れ者なのか、見当もつかん。この私が他愛なく振り回されてしまうとは……」
高速道路の歩道橋ですれ違った宗八の顔が頭に浮かんでいた。若林はその視線に、ほんの一瞬、ただならぬ殺気を感じた。
若林は再び、自分が仕掛けた策略を点検し始めた。
罠師が自分の策に欠陥を発見し、意図して回避したのか……。もしそうだとするなら、敵の頭脳はあなどれない。逆に己れの計画に不備がなければ、全ては偶然が生んだ失態だったと納得できる。
若林があえて偽文書を作り出した目的は、それを〝立木文書〟として特捜部の手で公開させるためだった。
本物の文書は、若林の手にも入らなかった。しかし文書は今もどこかに隠され、日の目を見る時を伺っているかもしれない。若林はそれを――それだけを恐れていた。
立木が文書を残した目的は、もちろん中田の犯罪を暴露することだ。だがそのためには、若林の役割に触れざるをえない。若林には、文書に自分の情報がどこまで書き込まれているかを知る方法がなかった。中田軍団の参謀としての役割が暴かれれば、社会的生命が絶たれかねない。
若林は、今でこそ己れの手を汚さずに荒事を処理できる組織を組み上げた。しかし揺るぎない実力を身につけるまでは、危険極まりない仕事を自ら引き受け、最前線で実行してきたのだ。その中には脅迫、買収は言うに及ばず、殺人までが含まれている。
立木はそれを知っていた。田中との全面対決を覚悟した立木が、若林の情報を文書に記すことをためらう理由はない。だから若林は、己れを守るために、〝立木文書〟を無力化しなければならなかった。
立木を殺してしまったのは、中田の独走だった。立木の造反に直面した中田は、腹立ちのあまり若林を介さずに殺人を命じてしまったのだ。
後に中田は『腹心の秘書に裏切られたことで、最高のブレーンである若林さえもが信じられなくなった』と言い訳した。検察と世論の絶え間ない非難に精神を侵され、疑心暗鬼をつのらせていた結果だった。
若林に一言でも相談があれば、このような不始末は許さなかっただろう。中田から〝立木文書〟の回収を命じられた若林は、自分の耳を疑った。中田の〝狂気〟までは、さすがに予測できなかったのだ。
その時若林は、中田の将来が暗いことを見定め、延命策の投入を断念した。そして、忠誠を尽くしたと見せかけながら中田の〝死〟を待ち、権力基盤を穏便に、しかも完全に掌握するための策謀を始動させた。
第一の難関は、〝立木文書〟を灰にすることだった。若林は最初に『いかにして文書を手に入れるか』を考えた。
幸い、文書を預けられた弁護士はすぐに探し出せた。若林の情報網は法曹界にも広く深く根を張っているのだ。文書奪回指令はただちに発せられ、配下の暴力団が弁護士に圧力をかけた。その結果、文書が特捜部に渡る惨事だけは阻止できた。
が、息子を傷つけられた弁護士は逆に静かな怒りを燃やし、中田と対立する有力議員に文書を預けるという暴挙に出た。しかも文書の内容に関しては『読んでいない』と言い通すばかりだった。
小さなつまずきをきっかけに、危機は転がる雪だるまのようにふくらんでいった――。
若林はあらゆる情報源にコンタクトを取った末に、坂本議員が文書を手に入れたことを突き止めた。同時に坂本に対する買収工作を開始した。しかし総理の座を狙う坂本はとぼけ続け、労せずしてもたらされた〝立木文書〟を利用する戦術にしか関心がなかった。
若林は第二の策として、政財界の全コネクションを動員して激しい圧力をかけた。資金源を脅かされた坂本は、政治家としての未来を閉ざされたのだ。
だが、その圧力が坂本から理性を奪った。分厚い包囲網から逃げる術がないと悟った坂本は、〝立木文書〟で官房長官を脅すという捨身の手段で中央突破を試みたのだ。
若林も強行作戦に出ざるをえなかった。中田とは袂を分かつ覚悟を決めているとはいえ、権力の根幹である保守政治は守り通さなければならない。中田と共に党が瓦解しては元も子もないのだ。坂本の反乱を放置しておくことは許されなかった。
〝立木文書〟は坂本の狂言として、議員本人と共に葬る――それが起死回生のシナリオだった。
が、不運はさらに重なった。ホテルの部屋から文書が消えた上に、若林が送り込んだ脅迫者のミスで坂本は命を落とした。しかも、検察に殺人現場を押さえられてしまった。検察官を殺人者に仕立て上げたのは部下の独断だったが、時間を稼ぐためにはやむをえぬ措置といえた。
若林が迎えた人生最大の危機だった。
行方が知れない〝立木文書〟は、いつ、どこから現われるか予断を許さない。若林はそれを、信憑性のない紙切れに変えなければならなかった。
可及的すみやかに。
その答えが〝偽・立木文書〟だった。若林は自ら偽文書を作り出し、それを『検察に信じ込ませる』という計画を練り始めた。
だが、ゲームの開始――すなわち『いかにして検察に文書を送り込むか』が、そもそも難題だった。若林の策略だと疑われたら意味はないのだ。
若林自身が中田に不利になる証拠を提出すれば、始めから信用されない。政治家や知人を介せば、文書の出所をたどられる恐れがある。匿名で送りつけたところで、送り主が確定するまで精査され、結局は偽物だと暴かれる。たとえ信用させられても、公表は何ヶ月も後になる。
緊急に解かなければならない〝命題〟だった。
時を同じくしてもたらされたのが、東京地検特捜部の中枢で獲得した〝スパイ〟から情報だった。『罠師と呼ばれる犯罪結社が、イスラエルの財宝を盗んだらしい』――。〝立木文書〟とは何の関連もなかったが、若林はその瞬間、偽文書を最大限に生かす方法が与えられたことを直感した。
偽文書は〝罠師に奪われなければならなかった〟のだ。
若林は特捜部のスパイに『罠師を巻き込め』と命じた。それが序盤の一手だった。
そして若林は、事故を装って接近してきた宗八の娘を家に引き入れ、盗聴器が仕掛けられたことを自ら確認して、逆用した。全ては罠師を偽文書強奪に向わせるための計略だった。無論、脅迫電話をかけてきたのは若林の部下だ。罠師が高速道路で偽文書を奪えば、それは〝立木文書〟として検察の手に渡る。その結果、ゲームの中盤では、特捜部が勝利を宣言することになるはずだった。
現在特捜部は、坂本殺しの容疑をかけられている。容疑は公にされていないものの、国民は事件の異常さに気づいている。特捜部はマスコミに疑惑を抱かれる前に、いち早く状況を明らかにする必要に迫られているのだ。〝立木文書〟の裏づけがあれば、それは可能になる。
中田を叩いて立木の死の真相を暴き、同時に坂本が中田の命令で命を奪われたことを示唆する――。自らにかけられた濡れ衣を晴らすために、検察は一刻も早く〝立木文書〟を世論の前にさらさなければならないのだ。
しかも、若林の偽文書に記された内容には一点の間違いもない。捜査に深く関わっている者ほど、それがどれほど重要な文書であるかが認識できる。
したがって若林は、検察はすぐに〝立木文書〟を公表すると判断していた。同時に、詰めの一手も準備していた。特捜部内部のスパイに強力な圧力をかけていたのだ。万一検察幹部が〝立木文書〟の公表を躊躇した場合は、〝彼〟の爆弾発言によってマスコミにリークする手筈ができあがっている。
ひとたび存在が知られた文書は、遠からず公表せざるをえない。だが検察は、〝立木文書〟の公表に当たって決定的な嘘をつく必要に迫られる。
入手経路だ。
文書は、立木自身が書いたものだと証明されなければ意味がない。そして仲介を請け負った弁護士は、現物が坂本議員の手に渡ったことを知っている。彼が文書について証言すれば、検察に文書を預けられる人物は坂本以外にないことが明らかになる。入手先を曖昧にしておくことは許されない。
しかも、犯罪の取り締まりに当たる検察が、罠師という犯罪集団の謀略で文書を手に入れたとは言えない。検察は『坂本から文書を得た』という嘘をつかなければ、それを公表することができないのだ。
〝立木文書〟と検察が坂本で接点を持てば、国民は坂本の死に重大な疑惑を抱く。つまり検察が文書を公表することは、中田を殺人罪で起訴するのと同じ重みを持つのだ。
世論が沸騰することは明らかだ。それこそが、若林が狙ったクライマックスだった。
そして、チェックメイト――。
若林は検察が後に引けないところにきた時点で、文書の筆跡鑑定を要求する計画でいた。筆跡は立木に似せたが、ペンを取ったのは若林だ。精密に分析すれば偽物であることは確実に証明される。
結果は明白だ。
検察は功を焦って偽文書を公表した。あるいは、故意に捏造した。そして検察官にかけられた殺人疑惑をもみ消すために、組織を上げて中田を陥れようと企んだ――。
そういった論調を有力新聞に登場させるだけで、若林の策略は完結するのだ。マスコミは検察批判の先頭に立つ。いったん疑惑が持たれれば、現職検察官の殺人容疑も暴かれるだろう。
それ以後に本当の〝立木文書〟が現われたとしても、信憑性は頭から疑われる。特捜部も取り扱いには慎重にならざるをえない。たとえ公表に踏み切っても、怒り狂った国民は『またか!』と非難の大合唱を起こす。
事実上、検察が〝立木文書〟を武器にする道は閉ざされるのだ。そして、中田に対する一審判決も矛先を鈍らせ、裁判そのものが終息に向かうことも期待できる。
偽文書が罠師に奪われてさえいれば、若林は〝立木文書〟を恐れずにすむはずだった。
それなのに――。
若林は再び重い溜め息をついた。
長年待ち続けた赤ん坊が流産したような気分だった。改めて考えてみても、計画に欠陥は見当らない。少なくとも、罠師に策略を気取られるようなミスは犯していないはずだった。
「快心の策をくつがえしたのが、罠師の信じがたい不手際だったとはな……」
若林は誇りを深く傷つけられていた。
謀略は、若林がこの世で最も愛し、得意とするものだった。その土俵でこのようなみじめな結果を味わった経験は、ただの一度もない。
そして昨夜、そのいらだちが若林に、罠師への徹底的な報復を決断させた。
〝罠師とやらが抵抗するなら、気力が萎えるまで痛めつけるまでだ。徹底的に。まずは制裁だ。大熊宗八が自分自身の最期を受け入れる前に、己れの無能のために周囲の者たちが不幸に陥ることを思い知らせなければなるまい〟
それは彼が政財界をコントロールする手法であり、当然の結論だった。その結果、宗八の大家が恐怖の一夜を迎えることとなったのだ。
しかし襲撃部隊からの報告は意外だった。『宗八のアパートは始めから破壊しつくされていた』という。
犯人はモサドしか考えられなかった。
頭の中で昨夜の混乱を整理し終えた若林は、口に出してつぶやいた。
「罠師め……イスラエルにまで尻尾を捕まれたか。素人どもが、話を複雑にさせおって……。だがまあ、それもいい。奴らが不様な素人なら、それなりに利用するまでだ」
若林は机の偽文書を手に取り、挟み込んであった紙片を抜いて広げた。
それは偽文書を東名高速へ運ぶ前に、利き手ではない左手で書いたメモだった。筆跡を隠そうとする意図がはっきりわかる文字だ。
『ここにある文書は、中田に関するものだけだ。あんたについて書かれた何ページかは、こっちの手元に残してある。安全保障だ。公表するつもりはないが、追っ手がかかれば別だ。そこのところをよく考えることだ』
メモは『文書を売りつけようとした犯人が書いた脅迫状』の形になっていた。
特捜部が偽文書に目を通せば、若林に関する記述がそっくり欠けていることに不審を抱くはずだ。疑惑を未然に防ぐための偽装だった。
「ここまで先を読んで策を組み上げたというのに……」
若林が三度目の溜め息をもらした時、電話が鳴った。
小さなランプが点った回線は外部に直通のもので、番号は限られた者しか知らない。その中には検察に置いたスパイも含まれている。若林はスパイからの連絡を待ち続けていたのだった。
若林は素早く受話器を取り上げた。
「私だ」
そう言ったきり口をつぐんだ若林は、相手の報告に聞き入った。話が進むにつれて表情が強ばっていく。若林は茫然と相づちを打つことしかできなかった。
「ご苦労だった……」
最後にそうつぶやいた若林は、厳しい目で受話器を置いた。
そのまま数分間、黙って考え込む。そして、手元のメモ用紙を引き寄せた。一枚を切り、固い机の上でペンを走らせた。報告内容を文字にしながら、状況を整理していく。
『一・罠師は最初から取り引きが策略だと疑っていた。確信はないものの、文書強奪の失敗は意図したもの。
二・罠師は、自宅が荒らされたのはこちらの仕業と考えている。犯人はモサド以外に考えられず。
三・こちらが〝ダビデの星〟を発見したことを知られた。弁護士は現在でも罠師の情報提供者である。
四・罠師は今夜、立木文書の買い取りを要求してくる。買い取りの金だけを奪い、こちらを逆上させる作戦。自分の命を狙わせ、捜査当局を介入させようと狙っている』
若林はペンを置くと、メモをじっと見つめた。情報のうちの二つはすでに知っていることだった。
若林は〝ダビデの星〟の情報を得た直後から〝渋谷の不良弁護士〟を探し始めた。サラ金関係からの裏情報で、二時間後には道玄坂の〝中峰薫法律事務所〟が特定され、自ら直接交渉に入った。
世界的財宝である〝星〟の所在は、部下には知らせられない。強い興味もある。若林自身が一人で弁護士を訪ねるしかなかったのだ。
そして、わずかな現金と引き替えに弁護士に荷を開封させ、〝ダビデの星〟を確認した。若林はその瞬間、我を忘れた。無骨な原石部分と磨き抜かれた表面の強烈なコントラストに、一瞬で理性を打ち砕かれた。〝星〟の冷たく蠱惑的な感触を、思う存分素手で味わったのだ。それでも、弁護士に『指紋を拭け』と命じることは忘れなかった。桁外れの財宝の肌触りに震える手では、布を使うことさえ出来なかったのだ。
〝星〟を見た中峰弁護士は若林以上に驚いた。イスラエルの財産を強奪したことは宗八から知らされていなかったのだ。若林の目の前でダイヤを拭いながら、中峰は自分が罠師の配下にあることを白状した。
そして中峰は要求した。
『こんな化け物を隠していたなら、いずれは殺される。巻き込まれる前に、姿をくらましたい。一億なら裏切ってもいい』と。
一度は寝返った弁護士が、今でも罠師に情報を流していたことは意外だった。だが、それが大きな障害になるとも思えない。邪魔なら、排除は容易だ。
大熊宗八の部屋が何者かに荒らされていたことも、報告されている。
計画も固まっていないのに突入してくるというのは、いかにも素人だ。だが、気を緩めることはできない。そこに罠が隠されている恐れもある。
問題は、仕掛けられた策略を予見し、意図して避けたという事実だ。しかも、自分たちを〝小物〟に見せかけようと腐心している。
若林は、罠師をみくびっていたことをはっきりと認識した。
若林は唐突に、楽しそうな笑みを浮かべた。
「おもしろい……。不様な素人とは呼べないな。君たちが罠師の名にふさわしい頭脳を持ち合わせているかどうか、試してやる。顔見せも、警告も終わった。次は真剣勝負だ。貴様らに、私の策がかわせるかな?」
若林の頭には、早くも罠師の反撃を逆手に取る策略が形づくられていた。
若林は再び宗八の顔を思い浮べた。そして静かな闘志を燃やしながら、灰皿の上で書いたばかりのメモに火をつけた。
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