4・罠師、笑う

 宗八と狩谷は、竜子から指示されていた場所で待ち続けていた。若林の家を見下ろせる高台の公園の傍らだった。ゴンスケをアパートに戻してから、舞い戻ったのだ。

 二人は中古の軽ワゴン車に乗っていた。昨日、竜子が盗聴装置を準備する間に、宗八が手配したものだ。錆が浮いてくすんだブルーの車体には、電力会社の社名が書き込まれている。狩谷が尋ねても、宗八は車の入手先を明かそうとはしなかった。

 さらに二人は、汚れが染み付いた作業服を着込んでいた。狩谷は頭の包帯を隠すために帽子を目深にかぶっている。ワゴン車の後部には竜子が用意した装置や道具が散らかり、いかにも電気工事の車らしく見えていた。

 素人に彼らの偽装が見破られる恐れはなかった。

 車を止めてから二時間以上が過ぎていた。二人は押し黙ったまま、じっと若林の家を見つめるばかりだった。竜子が戻る予定はとっくに過ぎている。

 宗八以上に心配そうな顔つきの狩谷が、沈黙に耐えかねて言った。

「おい……いくらなんでも、遅すぎないか? 竜子さん、まさか捕まったんじゃ……」

「縁起でもねぇことを言うんじゃぁねぇやい。忍び込んだ家でとっ捕まっちまうほど、あいつの腕は安っぽかぁねぇ」

 そうは答えたものの、不安をにじませていることに変わりはない。

「充分な準備もなしに乗り込んだんだろう? 手違いだって……」

「まぁ、なんだ、たとえ盗聴器を仕掛けるのにしくじったって、逃げてくるぐれぇのこたぁ造作もねぇ。心配にゃぁ及ばねぇさ」

「だといいがな……」

 宗八は不意に狩谷にかみついた。

「てめえ、そんなに竜子を捕まえさせてぇのか⁉」

「い、いや、そんな意味じゃあ……」

「そんなら、うだうだ抜かしてねぇで、きっちり見張っていやがれぃ!」

 狩谷は首をすくめた。

 二人がひそむ位置からは、若林の家の屋根しか見えない。直線距離にして一キロ弱。周囲にはゆったりと構えた豪邸が立ち並び、真冬の今でさえ庭の緑が衰えたようには感じられない。常緑の庭木にさえぎられて人の出入りまでを目視することは不可能だった。

 双眼鏡は用意してあったが、二人は使おうとはしなかった。住民から不審に思われて警察が来たら元も子もないのだ。

 二人はそれきり、また黙り込んだ。

 車の中は寒かった。ヒーターを入れていても、歪んだドアや車体の隙間から北風が吹き込む。彼らの心も冷えきっていた。

 と、公園の脇の坂道から竜子が現われた。狩谷と宗八は安堵の溜め息をもらすと、顔を見合わせて微笑んだ。

「な、言ったろう、心配ねぇって」

「ああ、そうだな」

 竜子は何事もなかったかのような涼しい顔で車に近づいた。辺りをそれとなく見渡して人通りがないことを確かめると、素早くスライドドアを開けてバッグを放り込むと、自分も乗り込む。

 どこの家も父親や子供を送り出した後で、女房族は羽根を伸ばしはじめたばかりの時間だった。

 竜子は言った。

「助さん、角さん、出迎えご苦労じゃのう」

 宗八が厳しい顔で振り返る。

「このお調子者が! こちとらぁ二時間も待たされたんだぜ。芯まで冷えきっちまったじゃねぇか」

「神経痛かい? 手数がかかっていけねぇな、老いぼれは」

「ひよっ子が、親を年寄り扱いするんじゃねぇ。……で、首尾はどうだった?」

 竜子は振り向いてシートの後ろを探っていた。弁当箱ほどの黒い箱を取り出すと、膝の上に置く。

 受信機だった。箱の上部にはいくつかのランプとメーター、そしてマイクロカセットの挿入口がつけられている。

 竜子は装置を調整しながら言った。

「舐めるんじゃぁねぇやい……と言いたいところなんだがね、よく分からねぇ。盗聴器を仕掛けるところを女中に見られちまったかもしれねぇ。『足が痛む』って言い訳したもんでよ、得体の知れねぇ薬を飲まされちまった……」

「薬だと? 身体に障るもんじゃぁねぇんだろうな……?」

「てめえの目ん玉は飾り物かい? こうやってピンピンしてるぜ。まあ、他愛なく眠りこけちまったから、でけぇ口は叩けねぇがよ。身体を触られたこたぁ間違ぇねぇしな。寝てる間のこたぁまるっきり分からねぇ。何かしゃべらされちまった……てぇことも、あるんじゃぁねぇのかい?」

「なにを呑気なことを言ってやがるんでぇ! 罠がばれちまったら、どうする気だ⁉」

「落ち着きやがれ。卒中でぶっ倒れたら、罠もクソもねぇぞ。電話が聞けりゃぁいいんだろうが。すぐに分かるって……」

 竜子は装置の調整を続けた。

 狩谷が言った。

「車にぶつかって、大丈夫だったのかい?」

 竜子は狩谷を見つめた。

「へえ……心配してくれてたんだ」

「当たり前じゃないか」

「おい、爺い。てめえも親なら、これぐれえの気づかいをしてみやがれ。大事な一人娘を車にぶつけて――」

「ぐずぐず言ってねぇで、さっさと仕事にかかりやがれぃ!」

「ふん、いい気なもんだぜ。おぉ、そうだ。五〇万ほど駄賃をもらってきてやったぜ。そいつで酒でもくらって、さっさとあの世に行っちまいな」

「駄賃だと⁉ 欲張った真似をしやがって!」

「向こうが勝手によこしたんでぇ。他人様の好意は素直に頂いておくのが礼儀ってもんじゃぁねぇのかい。ほれ、終わったよ」

 竜子は窓を少し開けると、受信機から伸ばしたアンテナを外に出した。装置に緑色のランプがともる。

 竜子は微笑んだ。

「見ろ、立派に生きてるじゃぁねぇか。電波が届いてらぁ」

 狩谷が運転席から身を乗り出した。

「聞こえるのか、電話」

 竜子は狩谷を見た。とたんに口調が変わる。

「こっちの青いランプがつくと、信号が入ってるってことです。盗聴器が外されていないなら、私が飲まされたのもただの睡眠薬だったんでしょう」

 そして、装置を軽く叩いた。

「いい子だね、ちゃぁんとお役目を果たすんだよ」

 と、青いランプが点灯した。同時にメーターがはね上がり、マイクロカセットが動き出す。

「さっそくお出ましかい」

 竜子はシートの後ろの道具箱を取った。中からイヤホーンを出すと、プラグを受信機に差し込む。そして、耳にイヤホーンをつけた。

 宗八が竜子のイヤホーンに耳を押しつけるように頬を寄せて言った。

「聞こえるかい?」

「うるせぇね、声がでかいんだよ。鼻息も臭せぇ」

 宗八は顔を離して肩をすくめた。

 竜子の耳には雑音に埋もれた若林の声が届いていた。

『――はどうした?』

 答えたのは女中だった。

『先ほどお出になられました』

『やはり、車は待たなかったか』

『お急ぎのようで』

『まあいい。で、素性は分かったか?』

『本人は、何もおっしゃいませんでした』

『しかたないな。写真は撮った。私の方で調べる。あの様子なら〝当たり屋〟などではなかろう。万一ねじ込んでくるようなら、あと五〇万まで出したまえ。それで引き下がらなければ、私が手を打つ。ご苦労だったな』

『承知いたしました』

『おお、それから午前中に「大橋調査室」の者がそっちに行く。毎年やってる警備装置の定期チェックだ』

『はい』

『彼が来たら好きに作業させろ。ただし、目は離すなよ』

『承知いたしました』

 電話が切られると青いランプが消え、カセットも止まった。

 竜子はにんまりと笑うと、不思議そうに装置をのぞき込む二人に言った。

「野郎、あと五〇万出すってよ。今から行ってもらってくるかい?」

「間抜け。端金に欲ぅかくんじゃねぇやい」

「冗談に決まってるだろうが。爺いは疑い深くていけねぇぜ」

 言い合いに巻き込まれたくない狩谷は、さり気なく話題を変えた。

「その機械、どういう仕組みになっているんだ?」

 竜子はぱっと笑った。

「嬉しいね。聞いてくれるのかい」

「ああ。君が作ったんだろう?」

「お腹を痛めた子供も同じでね。若林の家の発信機は、電話線の周りに漏れてくる電磁波を捕らえてこっちに発信する。こっちはそれを増幅して、テープに記録する。テープは会話が入っている間しか回らないんで、これ一本で一日分ぐらいは録音できる……ってね。で、夜中に取りにくるって手順です」

 狩谷はひたすら感心し、むやみにうなずくばかりだった。

 竜子は宗八に言った。

「爺さん、この子をそこの電柱の上に置いてきてくんな。風で落ちたりしねぇように、しっかり止めてやるんだよ。緑のランプが消えたら電波を受けてねぇってこったから、ちゃんとアンテナの向きを調整するんだぜ」

 宗八は白い目で見返した。

「てめえ、どうして親に向かってそうぞんざいな口がきけるんだ? これでも俺は、てめえをここまで育ててやったんだぜ。恩ってぇもんがあるだろう、恩ってぇもんが」

「恩を忘れてるなぁ、てめえじゃぁねぇか。今、てめえを食わせてるなぁ、このあたいなんだよ。『仕事を選んでる』なんて偉そうなことばかり言いやがって、年中呑んだくれてやがるのは誰でぇ。せめて罠ん時ぐれぇ一人前に働きやがれ」

「親だぜ、親」

「外に出るのが嫌なんだろう? こんな格好であたいが電柱に登れると思ってるのかい?」

「神経痛がよ……おい、みの坊。替わってくんねぇか?」

 狩谷はうなずいた。

「いいぞ」

 が、竜子は許さなかった。

「馬鹿ぁ言うんじゃぁねぇよ。この人ぁ、客人なんだよ。それに、検察に追われてるんじゃぁねぇのかい? 外になんざぁ出せるかい」

 宗八は渋々答えた。

「……落ちてくたばっちまったら、骨ぐれぇ拾ってくんなよ」

「任しときなって。残らずかき集めて、ゴンスケに食わせてやるよ。喉の調子が一段と上がるだろうね」

 言いながら、受信機を宗八に押しつけた。

 しかたなく受け取った宗八は、口の中でぶつぶつ言いながらドアを開けた。

「へっ、今時の若いもんは、年寄りをいたわるってぇことを知りゃぁしねぇ……親の顔が――おっといけねぇ、親は俺じゃぁねぇか」

 柵をまたいで公園に入った宗八は、辺りをきょろきょろと見渡した。そして、歳のわりには軽い身のこなしで電柱に登っていった。


         *


 アパートに戻った宗八は、さっそく長火鉢に火をおこした。せわしなく台所に行き来する。着替えのために自分の部屋に戻った竜子の隙をついて、素早く酒の支度を整えたのだ。

「こう冷えきっちまっちゃぁ、身体が思うように動かねぇや」

 頬がだらしなく緩んでいた。まだ昼にもなっていないのだが、狩谷を相手に呑み始める魂胆でいる。

 コタツにもぐった狩谷は、そんな宗八を呆れ顔でながめるばかりだった。宗八と再会した時の不安がよみがえっていた。

〝こいつが本当に、噂の罠師なんだろうか……〟

 宗八は謎であった。

 口先だけのほら吹きに見えたかと思うと、次の瞬間に見事に核心を突く。頭の回転の速さは子供の頃と変わっていないが、生活の乱れは異常とも思えた。それが偽装だとしても、酒を呑みすぎることは間違いない。その一点だけをとっても信用できなかった。

 一方、竜子の能力は高く評価していた。複雑な電子機器を事もなげに操り、単身敵地に乗り込んで平然と戻ってきた。その度胸と行動力は並みの男を凌いでいる。

 狩谷は、実際に罠師を率いているのは竜子ではないかと考え始めていた。

 だが、名目だけにしろ、罠師の頭目は宗八だ。宗八が呑めと言うなら、形だけでもつき合う他なかった。

 命はすでに罠師に預けられている。

 そこへ、竜子が助けに入った。セーターとジーンズに着替えた竜子は部屋に入るなり、一升瓶を抱えた宗八を怒鳴りつける。

「てめえ、真っ昼間っから呑む気か! いい加減にしやがれよ。てめえ、今がどんなに大事な時か本当に分かってやがるのか⁉ 命がかかってるって言ったなぁてめえだろうが。こちとらぁ、てめえの尻拭いに身体を張ってきたんだぜ。せめてこいつがすむまで酒を断つぐれぇのしおらしさはねぇのかよ!」

 宗八は首をすくめ、ふてくされたようにつぶやいた。

「そうは言うがよ、冷えきっちまったんだぜ……二時間も待たせやがるから……。酒が入ぇらなけりゃぁ頭も働かねぇやい。それが江戸っ子ってぇもんでぇ。なあ、みの坊?」

 狩谷は肩をすくめただけだった。

 竜子は黙ってはいない。

「他人様も能天気だと決めつけるなぁお門違いもいいとこでぇ。てめえみてぇなタガが外れたトンチキ野郎は、他にゃぁいねぇんだよ」

 宗八は狩谷にめくばせした。

「腕っこき検事様だって、酒にゃぁ目がねぇんだぜ。な?」

 竜子の声のトーンが上がった。

「狩谷さんにゃぁ、大事な仕事があるんだよ。他に誰があのポンコツ車を転がす? 酒は絶対に許さねぇよ」

 宗八はぶつぶつとぼやいた。

「そんなにとんがるんじゃぁねぇやい、いい女が台ぇ無しじゃねぇか。……すっかりおふくろに似てきやがって……」

 竜子は宗八を無視して、狩谷に笑いかけた。手にした紙片を差し出す。

「すみませんが、ちょっと買物に行ってもらえませんか? 秋葉原の部品屋なんですけれど」

 狩谷は竜子の言葉づかいの豹変ぶりに苦笑を誘われながらも、メモを受け取った。数種類の記号が書き込まれている。

「どこの店?」

「ちょっと大きな所ならどこでも揃うはずです。足取りを残さないために、いつも違った店を使うことにしているんです。メモを見せれば向こうで出してくれます。私はこれから別の装置を作るんで、行ってられませんの」

 宗八がつぶやいた。

「なぁにが、られませんの、でぇ。あばずれが……」

「黙れ、ごくつぶし」

 狩谷は言った。

「この記号、なんだね?」

「ICの番号です。ほら、あの四角い箱にゲジゲジみたいな足が生えた部品。時間がないんで、すぐお願いします」

 狩谷はコタツを出た。

「じゃあ、さっそく出かけよう」

 明らかに酒のつき合いから解放されたことを歓迎していた。

 と、コタツの陰でこっそり湯呑みに冷や酒を注いでいた宗八が言った。

「サツに見つかるといけねぇや。俺様が行ってきてやろうじゃぁねぇか」

 竜子は鋭い視線を飛ばした。

「止めてくれい! 罠をおしゃかにする気かい! てめえにゃぁICと欠け瓦の区別もつかねぇじゃぁねぇか。危なくって、任せられるもんかい。いいから、てめえはそこで呑んだくれていやがれ。あたいの邪魔だけはするんじゃぁねぇぞ」

「こりゃぁまた……よくよく小馬鹿にされたもんだねぇ。しかしまぁ、言われてみりゃぁもっともだ。仰せの通り、酔っ払わせてもらうぜ。ところで、みの坊にゃぁサングラスぐれぇつけてやんなよ」

「いちいちうるせぇね。そんなこたぁ、言われなくったって分かってらい!」


         *


 簡単な変装を手早く施された狩谷は、アパートを出ると真っ先に電話ボックスに駆け込んだ。相手は連絡を待ちかねていたように、すぐに出た。

「狩谷です。奴ら、がっちりとかかりました」

 相手の声は重苦しかった。

『計画通りに動かせそうか?』

「順調に進んでいます。すでに自宅に盗聴器を仕掛けました」

『早業だな』

「〝星〟を使った脅しが効いたようです」

『罠師は実在したのだな』

「らしいですね」

『らしい……とは?』

「ボスのはずの大熊が、頼りなくて……罠師なんだか、山師なんだか……」

『しかし、計画は進んでいるのではないのか?』

「幸い、切れる娘がついています。盗聴器を作ったのも自宅に潜入したのも、みんな娘です」

『役に立つなら、それでいい。だが、くれぐれもコントロールを失わないように。しくじれば命取りだ』

「もちろんです。それはそうと〝星〟のありかが掴めました。宗八の知り合いで、渋谷の不良弁護士の所だそうです。サラ金に追われているそうですから、相当の負債を抱えているでしょう。当たってください」

『大変な収穫ではないか。この短時間で、よく聞き出せたな』

「向こうが勝手にしゃべったんです。宗八という男……だから信用できないんですがね」

『プランが破綻しない程度に急いでくれたまえ』

 そして、電話の相手はかすかに笑った。

『それはそうと、君もなかなか隅に置けない男だな。堅いだけの朴念仁かと思っていたぞ』

「は? 何のことでしょう?」

『とぼけんでもいい。私生活には口を出さん。しかし、任務にさしさわりがあるようなことは慎みまえよ。それに、罠師にはくれぐれも裏を気づかれんように』

 電話は相手が切った。

 狩谷は手にした受話器をぼんやりと見つめ、ぽつりと言った。

「隅に置けないって……何のことだ?」


         *


 その夜、十一時を過ぎると、狩谷と宗八は二人でテープの回収に向かった。

 宗八は、狩谷が買い物から帰っても少しずつではあるが呑み続けていた。まぎれもなくアル中の呑みっぷりだ。アパートを発つ時にはすでに一升瓶が空になっていた。

 宗八は竜子の前では酔った様子を見せなかったが、車が走りだしたとたんにいびきをかき始めた。狩谷はだらしなくよだれをたらす宗八を横目でにらみながら、心細げな溜め息をついた。

「もう時間切れだって言うのに、何を考えているんだ、こいつ……」

 公園に着いても宗八は起きなかった。幸せそうな寝息が狩谷を苛立たせる。

 狩谷はしかたなく肩をすくめ、竜子から渡されたマイクロカセットを作業服の胸に入れて外に出た。街灯の光の中に小雪がちらついている。北風が身を切るように肌にしみた。

 狩谷は小さく身を震わせると、電柱にしがみついた。

 テープを替えて戻った狩谷は、もう一度電話をかけようかと迷った。車の中は相変わらずのいびきと酒の臭いに満たされていたからだ。しかし、あきらめた。

 宗八のとらえどころのなさが気にかかっていたのだ。

 まだ、危険を冒していい段階ではない。


         *


 アパートでは竜子が再生機を用意していた。車が着くと同時に目を覚ました宗八は、妙に晴れ晴れしい顔つきでテープを差し出した。

「滑って落ちるかと思ったぜ」

 竜子はふんと笑った。

「どうせ、車ん中で眠りこけてやがったんだろう?」

 言いながら、テープをセットして巻き戻す。三人はコタツの上の再生機に顔を寄せあった。

 再生音は雑音の方が大きかったが、内容は充分聞き取れた。初めに出たのは竜子がイヤホーンで聞いた女中と若林の会話だった。

『はい、若林でございます』

『私だ、あの娘はどうした?』

 それからしばらくは、彼らにとっては価値のない会話が続いた。

 女中と酒屋のやりとり。運転手からの連絡。住み込みの医者が知り合いの病院に報せた、竜子の一件。若林が外からかけてきた電話がもう一本あったが、内容は妻の容態を気づかうものであった。

 宗八が溜め息をつく。

「やっぱり、一日だけじゃぁ物にならねぇな。みの坊よ、なんとかしてもう少し時間を取れねぇか?」

 狩谷は首を横に振った。

「価値のある情報が得られればともかく、土産もなしに警察を押さえるのは難しい。問題は、若林が家に戻ってから何をするかだが……」

 と、突然スピーカーが発信音を上げた。

 ピーッという甲高い音に、三人の顔が遠のいた。宗八と狩谷は、機械の故障かと思って竜子を見た。竜子は首をかしげながら再生機を平手で叩く。

「しっかりしろやい! ポンコツが!」

 発信音は数秒で止まった。竜子は肩をすくめた。

「直った……みてぇだね」

 宗八がつぶやく。

「へなちょこな機械をこさえやがって」

「てめえの脳ミソよりゃぁ百倍もまともだよ」

 会話の続きが流れた。

 若林の声であった。

 相手は仕事の部下らしく、内容も正規の不動産業務に限られていた。この時点から若林は家に戻ったのだ。

 相手は何度か変わったが、会話に不審な点はなかった。政治家らしい相手とのやり取りもない。裏取り引きを見抜く勘を磨いてきた狩谷にとっても、引っかかる点はなかった。

 三人はほとんどあきらめかけていた。が、その予感は幸いにも裏切られた。

 テープの終わり近くに重大な会話が記録されていたのだ。

 正体不明の男が言った。

『ご主人をお願いいたします』

『私が若林ですが?』

『孝則さん、だね?』

『そうですが、あなたは?』

『名前は言えない。重要な文書を持っている。関心があるかと思ってね』

『何だと?』

 テープレコーダーを囲んだ三人が同時に叫んだ。

「何だと⁉」

 テープが続く。

『文書には中田の名前がある』

 わずかな間。

『……何を言いたいのか分からんが?』

『この種の読み物は高く売れる。金を払う気がないなら、他を当たる。邪魔をした』

 若林はためらいをかなぐり捨てた。

『待て! 話を聞こう!』

『説明の必要はないと思うが?』

『なぜ私に? どうやってこの番号を知った?』

『あんたのこともたっぷりと書いてある。むろん、電話番号も、だ』

『どこで手に入れた?』

『某都市の某ホテル。しばらく前に新聞を賑わせた、議員さんの首吊りの部屋――それでこの文書が本物だということが分かるだろう?』

『いくらだ?』

『五億』

『すぐには都合できない』

『この文書には、あんたが〝石〟をごっそりため込んでいることも書いてある。こっちにはダイヤの専門家がついている。〝石〟で勘弁してやる』

 若林の溜め息が聞こえた。

『分かった』

『場所は東名高速の海老名サービスエリアだ。あんたはダイヤを持って下りのエリアに入れ。俺は上りから行く。明日の夜十一時ちょうどに、上下のエリアをつないでいる歩道橋の上で落ち合う。俺は、革ジャンに白のキャップだ。仲間も連れていく。騙しっこはなしだ。妙な気を起こすと文書が新聞に載る』

『君も一人で来たまえ。私が騙されないという保証も欲しい』

『悪いが、保証はない。ただ、こっちもスネに傷がある身でね。表舞台には立てない。かといって、不自由な外国で一生を終えるつもりもない。五億ぽっちで命まで狙われたくない。あんた、ずいぶんおっかない人だそうだね。あんたを騙したって、何の得もない。あんたにとっても、五億なんて端金だろう? お互い、割りに合う取り引きじゃないか?』

『いいだろう。文書が本物なら、私もこの件は忘れる。しかし騙せば、君だけではなく、君に関わっている多くの人が命を失う。一人で来たまえよ』

『しかたねえな。俺も信じるよ。じゃあ、明日の晩、十一時だ』

 電話は切れた。後にはかすかな雑音が残るだけだった。

 三人は茫然と再生機を見つめていた。

 はじめに口を開いたのは狩谷だった。

「驚いたな、これは……。若林も文書を押さえられなかったんだ……」

 宗八は笑った。

「上出来じゃぁねぇか。取り引きは、明日の晩か……。みの坊、あと一日、警察を黙らせられるかい?」

「これだけのタマがあれば……。こっちの居所は報せずに、連絡を取ってみよう」

 竜子がうなずく。

「はかどりそうな塩梅になってきたじゃぁねぇか」

 宗八が高らかに笑う。

「文書をかっさらっちまえば、こっちのもんだ。さて、祝杯だ!」

 竜子は叫んだ。

「まだ呑む気か⁉ のぼせ上がるんじゃぁねぇぞ!」

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