3・罠師、手をつける

 竜子は予定の場所に着く寸前、腕時計に視線を落とした。十字路の向こうから届く街灯の明かりでかろうじて文字盤が読める。

 八時七分過ぎ――。

 時計はティファニー、スーツはシャネルで、身につけた全ての物がそれに見合うブランドで統一されていた。化粧にも十分な時間をかけた。その夜の竜子は、町中に人だかりを作りかねないほど美しかった。

 安全の確保には、完璧な偽装が欠かせなかったのだ。

 狩谷が持ち出した資料には『若林は毎晩八時十分に帰宅する』とあった。版で押したような行動を変える緊急事態は、月に数回しかないという。それは若林の並み外れた用心深さの証明であり、陰の政治力をカムフラージュする手段でもあった。常識から言えば、夜のつき合いを拒むような堅物は大物になり得ない。若林は、自分を権力とは無関係な人物に見せかけることに大きなエネルギーを費やしていたのだ。

 検察の判断では、若林は自ら経営する不動産業に重きを置いてはいない。本業は中田の参謀であり、家に戻ってからが真の能力を発揮する時間だという。『若林の自宅の電話から発せられる指令が陰から日本を動かしている』というのが、彼らの見方だった。

 竜子はその位置に立ち止まった。世に知られた高級住宅街、田園調布のど真ん中。豪邸が建ち並ぶ地域だ。日が落ちてからの人通りは全くと言っていいほどなかった。通りを吹き抜ける風までが静けさを破るまいと気を使っているように思える。

 濃いグレーのコートの衿を立てた竜子は、誰が住むのかも知らない屋敷にめぐらせた高い塀の角に着くまでに、一台の車とすれ違っただけだった。

 寒さは厳しい。日陰では前日の雪も融けきっていない。闇と静けさと寒さが竜子の不安をかき立てる。

 竜子は手ぶらの左腕で胸を抱きかかえ、震えながら小さくつぶやいた。

「畜生……さっさと来やがれってぇんだよ……凍りついちまうじゃねぇか……こちとらぁ、雪女じゃぁねぇんだぜ……」

 と、近づく車のエンジン音が感じられた。時間通りだ。十字路の彼方で、小さな光がホタルのように点滅する。

 若林の車を確認した狩谷からの合図だ。

 竜子は押し殺した溜め息をつくと、じっと地面を見守った。ヘッドライトの明かりの動きで車の位置を予測していく……。

 車が速度を落としたのが分かった。

 右腕にかけていた大きなビニールのバッグを身体の前に出した。鈍い銀色のバッグには六本木のブティックのロゴタイプが刷り込まれている。素材はかなりの衝撃に耐えられる厚みがある。中身はほとんどがブランド物の衣類だった。半分以上の体積を占めるミンクのハーフコートからは値札も外されていない。竜子にとっては身元を保証し、物理的衝撃から身を守る二重の命綱であった。

 タイミングが全てだった。何分の一秒かでも足を踏み出す瞬間が狂えば、怪我をするか相手に疑いを抱かせる。ここでしくじれば、再度の罠を仕掛ける猶予はないのだ。

 慣れたこととはいえ、竜子は胸の高鳴りを押さえきれなかった。

 ライトの向きが変わった瞬間、竜子は内心で言った。

〝行ったるかぁ!〟

 こわばった身体を意志の力で押し出す。

 成功だった。

 二歩目を踏み出した竜子の前に乗用車の先端が現われた。竜子はぴたりと足を止め、硬直したように見せかけた。反射的にバッグを持ち上げる。

 衣服でふくらんだバッグが、速度を落とした車のヘッドライトに当たった。車の圧力を感じる寸前、竜子は身体をよじって腰をバッグに押しつけた。爪先で軽く飛び上がると、上体がボンネットに乗り上げる。車に当たった衝撃はほとんどバッグに吸収された。

 竜子はボンネットの上を転がりながらも、相手の車種を確認していた。

 黒のセドリック。

 狩谷の資料と一致する。

〝取っ捕まえたぜ……〟

 車はすぐにブレーキをかけたが、停止するまでに数メートルも進んだ。車が止まると、竜子はどさりとアスファルトの路面に落ちた。そのまま、力なく崩れる。

 あわてた運転手が飛び出してきた。

「大丈夫ですか⁉」

 竜子はほんの一瞬だけ目を向け、相手を分析した。

 運転手は鼻がつぶれた巨漢だった。黒いスーツが窮屈そうに見える。専門のトレーニングを受け、筋肉を蓄えた身体だ。しかも、動きが機敏だ。ボディーガードを兼ねていることは間違いない。この男の陰に隠れた若林を傷つけるには、並の拳銃では力不足だろう。

 それは、若林が他人に襲われる可能性がある〝活動〟をしていることを意味する。若林自身、危険を自覚している。『警察沙汰を嫌う』という宗八の読みは正しいようだった。

 運転手はヘッドライトの光の中にうずくまった竜子の傍らに膝をつき、肩に手をそえた。男の声は外見に劣らずつぶれている。

「申し訳ございません」

 竜子は目を見開き、荒い息を繰り返すばかりだった。運転手にも裂けたバッグにも、関心を示さない。

 弱り果てた運転手は肩越しに振り返った。

 スモークガラスがはめられた後部のドアが開いた。ゆったりとした物腰で車を降りた男が竜子に歩み寄る。驚いてはいるようだが、何かを疑っている様子はない。

 竜子は怪我人の演技を続けながら、素早く若林を観察した。

 サングラスも付け髭もなかった。帰宅途中の車の中で外すのが習慣なのだろう。たった一枚しかない写真から受けた印象より、かなり若く見える。歳は宗八より上のはずだが、身のこなしは老いを感じさせない。肉づきのいい顔立ちは穏やかで、策士と恐れられる本性は微塵もうかがえなかった。むしろ、人に警戒感を与えない柔らかさがある。身長は低く、小柄な宗八と体型はさほど違わないが、がっちりとした身体は小ささを意識させない。身についた自信が実際より大きく見せているようだ。

 衣類はどれも品がよかった。しかし、外見を飾るために不必要な金をかけているようには見えない。背広の手首からのぞいた時計も国産品で、相当使い込まれている。靴が影に入って見えないことが竜子には残念だった。男を値踏みするのに靴は重要な要素なのだ。

 いずれにせよ竜子が受けた印象は〝初老の好紳士〟の典型だった。

 ただひとつ若林の本性を現していたのは、尊大なまでの落ち着きようだった。車で人をはねたばかりだというのに、異常に冷静だ。平然と竜子を見据えた視線は、うろたえても戸惑ってもいない。大した事件ではないと頭から決めてかかっている。

 若林は竜子の傍らに屈むと、竜子の脇に手を差し入れて言った。

「申し訳ないことをいたしました。お怪我はありませんか?」

 よく通る太い声だった。

 竜子はようやく息を整え、初めて気がついたというように若林を見つめた。かぼそい声でつぶやく。

「はい……こちらこそ……ぼんやりしておりましたもので……。ご心配なさらないでください。ちょっと驚いただけで……」

 竜子は言葉を切ると、立ち上がろうとした。若林が軽く力を貸した。

 しかし、竜子は立てなかった。

「あら……?」

 小さく言って膝を折ってしまった。竜子は再び地面に座り込み、自分の足を不思議そうに見つめる。

 若林が言った。

「いけないようですね」

 そして、竜子を支えた腕に力を込め、ぐいと立ち上がった。体格がいいのは見かけ倒しではなかった。竜子はまるで宙に放り上げられたかのように、軽々と立ち上がった。

 若林が視線を飛ばすと、運転手が反対側から手を貸した。

「私の自宅は近くです。しばらく休んでいってください。必要があれば病院へお送りします。家内が病気がちなもので、医者を住まわせています。すぐに診てさしあげられます」

 反論の余地を与えぬ強引さがあった。同時に、それを押しつけがましく感じさせない柔らかさも備えている。

 竜子は車に乗せられながらつぶやいた。

「しかし、ご迷惑を……」

「迷惑をおかけしたのは、こちらです。今後の保障などについてもご心配なさらずに。ご納得ができるようにいたします」

「保障だなんて……。悪いのは、私の方ですから……」

「そういうわけにはいきません。事故は事故です。お任せください」

 後々騒がれては迷惑するという気持ちがわずかににじんでいた。

「でも……」

 竜子は言葉を濁らせた。

 ここにいることが他人に知られると都合が悪い。一刻も早く立ち去りたい――。

 そう考えているのだと、若林に思い込ませたかった。

 竜子には、自分が近くの住人の愛人だと信じさせる必要があった。それがこの場にいることの最も合理的で安全な口実になるからだ。素性を明かさない理由にもできる。

 そのとき、十字路から物音がした。若林の視線がそちらに向かう。

 通ったのは、柴犬に引っ張られる老婆だった。近くの屋敷の家政婦が、犬に散歩をさせられている――といった風情だった。

 老婆に気づいた竜子は素早く顔を背け、車の陰に隠れようとする。

 老婆は車には目も向けずに角を曲がって行った。

 竜子の反応を見た若林はかすかな笑みを浮かべた。

「この件は誰にも口外いたしません。逆に、警察へ通報されても結構です。あなたが望まれるままに」

 若林は、早くも罠に引込まれていた。

 竜子は内心で安堵の溜息を漏らし、黙ってうつむいた。

 竜子が後部座席に納まると、若林は運転手に命じた。

「お嬢さんのお荷物を」

 そして自分は、助手席に乗り込んだ。

 第一の関門は突破したのだ。

 だが心の一方では、悔しさを噛み殺してもいた。

〝こいつ……めいっぱい胸を押しつけてやったのに、ぴくりとも反応しやがらねぇ。あたいじゃぁ女を感じねぇってか……? そりゃぁ、こちとらぁちゃきちゃきの江戸っ子だからな、アグネス・ラムほどボインじゃねぇさ。それでも、宮崎美子ぐらいとなら勝負できるんだぜ〟

 竜子は容姿に絶対の自信を持っていた。事実、これまでの罠にはそれが重要な役割を果たしてきた。無視された経験は皆無に等しい。ひどく自尊心を傷つけられていた。

〝おっさん、覚悟しやがれよ。ただじゃぁおかねぁ。女の意地ってぇもんをたっぷりと思い知らせてやらぁ〟


         *

 

 犬に引っ張られる宗八は、角を曲がって鼻水をすすりあげた。

 どんどん先に進もうとするゴンスケに囁く。

「はしゃぐんじゃぁねえって……。散歩が珍しいか?」

 珍しいのは、宗八の女装だった。

 宗八は、竜子の命綱だった。一〇〇メートル先には軽ワゴン車で待機する狩谷がいる。

 若林の車を確認した宗八は、隠し持ったトランシーバーで狩谷に連絡を入れたのだ。狩谷は懐中電灯を点滅させ、竜子に合図を送った。懐中電灯の明かりは、若林からは見えない位置にある。

 万一危険な展開になった場合は車で突入し、竜子を救出する手はずだった。

「ま、無事にすんだみてぇだな。帰ぇるぞ。褒美に、五曲まで我慢してやる」


         *


 若林の家は純日本風の二階屋だった。両隣と違って敷地も狭く、派手さはない。この地域の中では慎ましい住宅だ。少なくとも、事あるごとにテレビに映し出される中田の豪邸とは雲泥の差だ。

 セドリックは御影石の高い塀を巡り、ガレージに通じる裏門から敷地に入った。通路から見えた庭は小ぢんまりとしていたが、腕のいい職人が丹念に手をかけた痕跡をうかがわせる。母屋からの明かりに浮かんだ庭木のシルエットには一分の隙もなく、木々の活きの良さが夜目にも感じられる。

 竜子は、若林に数分遅れてガレージから直接室内に案内された。運転手の肩を借りながら、さり気なく部屋の隅々に視線を走らせていく。竜子の目には、最新の警備装置があちこちに隠されていることが見えていた。

 家そのものの印象は〝地味〟の一言につきた。だが、柱の一本一本から、飾られた花一輪にまで、充分な資金と労力を注ぎ込んでいるのが分かる。手入れも行き届いていた。

 若林は、真に価値ある物だけを集めて己れの城を居心地よく整えているのだ。宗八が見たら狂気に近い熱心さで、それもまぎれもない本心から誉めちぎるであろう住まいだった。

 その家は、若林が物の価値と使い道を心得ていることを語っていた。虚飾に溺れることもない、女に心を奪われることもない、自分のなすべきことを知り、断固として行なう意志と理性と胆力を兼ね備えた男――。

 罠師の相手としては最も手強い人物だ。

 竜子は運転手に軽く支えられながら、さらに奥の部屋に向かった。無言の運転手の動きはこちこちに強ばっている。竜子の身体を強烈に意識していることが感じられた。

 用意された部屋に入ると、女中が床を敷き終えたところだった。二〇才ぐらいにしか見えない女中は、竜子の美しさに驚きと羨望の眼差しを向けた。

 女中は運転手の厳しい視線を浴び、あわてて膝を揃えて頭を下げると、無言で去った。

 同性の称賛を浴びた竜子は、ようやく若林への腹立ちを忘れることができた。

 若い女に替わって別の女中が現われた。歳は六〇を超えていように見える。物腰は自信に満ちていた。

 竜子は、この女が家事を切り盛りしているのだろうと判断した。

 女中は運転手にうなずきかけ、替わって竜子に手をそえた。竜子から離れた運転手は、名残惜しそうな表情をちらりと見せてから去った。

 女中は言った。

「どうぞ、お召物をお替えください」

 見ると、枕元に浴衣が置かれていた。竜子は女中に手伝われて下着だけにされ、手早く着替えを終えた。何もかもがあらかじめ予定されていたような手際の良さだった。無駄な言葉は一切ない。それなのに、不快感はなかった。竜子は口を開くきっかけも掴めぬまま、気がつくと横にされていた。

 女中は竜子が脱いだ服をひとまとめにすると、頭を下げて立ち去った。

 医師はすぐに現われた。小太りの初老の男だ。普通の背広を着て、特に医者らしいものは身につけていない。ただ、手にさげた黒いカバンだけはお定まりの七つ道具入れだった。

 竜子は、どこかの大病院から大金を積まれて引き抜かれた熟練医なのだろうと考えた。

 医者は言った。

「大体のところは若林さんからうかがいました。災難でしたな。私の専門は内科ですが、外科にも充分な経験がありますのでご心配なく。後程、知り合いの病院にもご紹介させていただきましょう」

 医師は竜子の枕元に腰をおろし、カバンから聴診器を出した。竜子の浴衣を開き、胸に当てる。しばらくすると聴診器を外し、手際よく竜子の身体を調べていった。厚ぼったい手のひらが吸いつくように竜子の肌をまさぐる。

「痛みは?」

「いいえ……」

「こちらは?」

「別に……」

〝この野郎、ねちっこく触るんじゃぁねぇやい。おいおい、そんなところに手ぇ突っ込むなって!〟

 竜子はかすかに身をよじりながら、耐えた。

 触診を終えた医師は最後にしまりなくにやつくと、聴診器をカバンに戻した。

「かすかな打ち身があるだけですな。内蔵にも特に異常は感じられません。運が良かった。車との間に荷物が挟まったのが幸いしたんでしょう。これなら後遺症の心配も必要ないでしょう。念のために、明日の朝もう一度診察させていただきたいのですが。今日はここで休まれてくださいませんか?」

〝すけべぇ爺いが、まだ触りまくろうってぇ魂胆かよ。こちとらぁノーパン喫茶のウエートレスじゃぁねぇんだぞ!〟

「でも、それでは……」

「まあ、若林さんに任せることですな。あの方なら何もかも心得ていらっしゃいます」

 医師は、竜子の事情を聞こうともせずに立った。

 若林から『引き止めろ』と命じられていることは明らかだった。素性を調べる時間が必要なのだ。だが、手がかりはバッグの荷物と身につけていた衣類だけ。危険を察知させるような痕跡は残していない。

 医師が去って数分後に、若林が部屋に入った。手には大きなバッグを下げていた。ルイ・ヴィトンのトラベルバッグ、新品らしいモノグラム・キーポルだ。若林はバッグを部屋の隅に置くと、起き上がろうとする竜子を制して傍らに座った。

「いやいや、そのままで。お召物は、今、洗わせております。一時間ほどはかかりますので、ゆっくりお休みください。それから、お荷物のバッグが裂けてしまいました。勝手ですが、こちらにあった物と替えさせていただきました」

 竜子は口ごもった。

「あの……それでは、電車の時間が……」

 若林の答えは計算されていたかのように滑らかだ。

「お出かけの途中でしたか? 送らせていただきますが?」

「いいえ……ただちょっと、こちらに用事がありまして……」

 若林は竜子の名を聞こうともしなかった。バッグの中身が年令には不相応だと知り、〝愛人〟だと確信したのだ。人の性癖は様々だ。あえて愛人を自宅へ引き入れる〝猛者〟も少なくない。偽装は功を奏したようだ。

「詳しい事情はお話しいただかなくても結構です。しかし、今夜はここで休んでいただけないでしょうか? 医者も、もう一度診たいと申しております。私からもお願いいたします。どこかにご連絡する必要がありましたら、私の方から……たとえば、ご両親ですとか、保険会社ですとか……」

「…………」

 若林は竜子の困惑した表情を盗み見た。

「いや、ご都合がお悪ければ、何もお聞きいたしません。ただ、私の方としても、後遺症の心配がないことだけは確かめませんとね。私の顔を立てると思って、お泊りになっていただけないものでしょうか?」

 竜子はしばらく考えているように見せかけてから、小さくうなずいた。

「ええ……それでは、申し訳ありませんが、お言葉に甘えさせていただきます」

 若林の頬に笑みが広がった。人の心を和ませる穏やかな笑いだった。

「喜んで。おお、そうだ。遅れましたが、私は若林と申します。後のお世話は、先程の女中がみさせていただきます。何なりとお申しつけください。では、ごゆっくり」

 若林は言いながらポケットから名刺入れを出し、枕元に一枚を置いた。竜子の振る舞いを見定め、面倒を起こす相手ではないと納得したようだった。


         *


 遠くで時計が深夜二時を打った。

 竜子は耳を澄ませ、人の気配がないことを確認した。ゆっくりと布団から這い出す。

 若林が残していったヴィトンのバッグを取ると、中を探った。枕元のスタンドの明かりで手元は確かめられる。

 バッグの中程に、見知らぬ封筒が忍ばせてあった。封はされていない。取り出すと、中には一万円札の束とメモが入っていた。

『これはほんの気持ちです。後程の治療にお使いください。不足の場合は、遠慮なく申し出てください』

 札束をざっと数えると五〇万円ほどあった。

〝へっ、甘ちゃんめ。ありがたく使わせてもらうぜ〟

 竜子は封筒を元通りに入れると、さらに中身を探った。ミンクのコートが触れる。目的は、衿についた二つの飾りボタンだった。直径三センチほどのボタンをもぎ取って、外に出す。

 二つのボタンには裏側にネジが切られていた。それを合わせて一つに接続すると、超小型の盗聴器になる。ボタンの一方には発信機が、もう一方には受信機と電池が組み込まれている。

 盗聴器は竜子自身が製作したものだ。

 組立は数秒で終わった。発信機の電波は微弱だが、日本式の木造家屋の中からなら一キロ先でも受信できる設計だった。

 竜子は発信機を握りしめ、襖に寄りそった。

 やはり、物音はない。

 竜子はゆっくりと襖を開けた。

 必要な情報はすでに得ている。

 女中がトイレに案内した際に、廊下で二台の電話を目にしていたのだ。トイレの手前の一台の脇には、外部の電話線への中継器が取つけてあった。傍には、電話台と一体になった椅子が置かれている。その椅子の裏に盗聴器を仕掛ければ、容易には発見されない。

 竜子の盗聴器が感知するのは、電流が流れる際に電線の周囲にまき散らされる微弱な電磁波だ。盗聴器を電線に触れさせるだけで充分に機能を発揮する。中継機に仕掛ければ、相手が室内のどの電話を使っても会話が盗聴できる。

 盗聴防止のために電磁波の漏れを防ぐには、特殊なシールドが必要だ。警備が万全なこの建物なら、室内の電話にはそこまでの保安対策を取らない確率が高い。

 薄暗い廊下に出た竜子は、かすかに足を引きずって歩いた。誰かに見咎められた時の用心だった。竜子は電話台に近づくと足を止め、少し顔をしかめた。椅子の肘掛けに手をそえて屈む。

 そして、数秒待った。

 見られていないと判断した竜子は、再び歩き出した。が、とたんにぎくりと身を震わせて痛みに耐えかねたようにしゃがみこむ。

 足首をさするふりをして、中継器の下の電線に素早く盗聴器を挟み込んでいた。

〝悪いな、おっさん。いただきだぜ〟

 小用をすませた竜子は、やはりかすかに足を引きずりながら部屋に戻った。

 襖を開こうとした時、背後から声がかけられた。

「おかげんが悪うございますか?」

 一瞬ぎくりとした竜子は、かろうじて叫び声を呑み込んだ。

 振り返ると、女中頭が立っていた。暗がりの中でも目つきの厳しさは見て取れる。

〝見られちまったのか……?〟

 竜子は不安を押さえながら心細げに答えた。

「いいえ……大丈夫です。ただちょっと、足首が痛むもので……。起こしてしまいました? どうもすみませんでした」

 女中は事務的な口調で言った。

「とんでもございません。明日一番で、先生にお話しておきましょう。それから、枕元に痛み止めのお薬を用意しておきました。もしお痛みになる場合はと、先生からお預かりしたものです。少々睡眠薬も入っているとのことでしたから、ごゆっくりお休みになれるかと思います。どうぞお飲みになってください。では、失礼させていただきます」

 女中は深々と頭を下げたが、目の色は和らいでいない。

 竜子は部屋に戻ると天井の明かりをつけた。枕元の盆に五角に折った薬の包みと水差しが用意されている。

〝くっそぅ……一服盛ろうってぇ魂胆じゃぁねぇだろうな……〟

 痛むと言った以上、飲まなければ疑われる。素性を悟られてはいない自信はあったが、女中の目にはただならぬ鋭さがあった。見られた可能性もある。その上で薬を用意したのなら、毒かもしれない。あるいは、飲むか飲まないかで竜子の真意を探り出そうと企んでいるのか……。

 と、廊下でことりと物音がした。女中は中の様子をうかがっている。

 竜子は意を決した。

〝若林ほど用心深い野郎が、てめえの家で死体を出すわけはねぇ。自白剤かなんかなら、それもいいさ。こっちからてめえの策にはまってやろうじゃぁねぇか。罠師の恐さを身をもって教えてやるぜぃ!〟

 竜子は座ると、薬の包みを開いて一気に水で流し込んだ。喉に引っかかった苦みをこらえ、明かりを消して床に入る。

 竜子は、遠ざかる意識の中で女中が立ち去る足音を聞いた。


         *


 竜子が目を覚ました時は、すでに雨戸が引かれて窓からまばゆい光が差し込んでいた。竜子はそうとも知らずに寝入っていたのだ。

〝畜生、睡眠薬のせいか……?〟

 枕元に医者が座っていた。

「やあ、お目覚めになりましたか。ちょっと薬が強すぎましたかな? しかし、ぐっすり休まれたようで、何よりです。昨晩は、だいぶ痛まれたようで……そんなはずはないと思っていたのですがね」

〝こいつ、なにをにやにやしてやがるんだ?〟

 竜子は自信なげに笑った。

「いいえ、ほんのちょっとだけ……」

 医者は脂ぎった微笑みを絶やさない。

「診察はもう終わりました。やはり問題ないと思いますが……まだ痛むところがありますか?」

〝眠ってる間にべたべたいじくりまわしやがったのかい⁉ いい気になりやがって!〟

 竜子は横になったまま足首を動かした。

「もう大丈夫のようです」

「もう一日休まれたらいかがですか」

〝こちとらぁ、そんな暇人じゃぁねぇ。尻に火がついてんだからよぅ〟

「これ以上ご迷惑をかけるわけにはまいりませんわ。痛みもなくなりましたし……どうもお世話様でした」

「知り合いの病院へ紹介状を書いておきました。お帰りの際にお持ちになってください」

 医師は口惜しそうに立つと、部屋を出た。

 竜子は布団を出ながら、替わって入ってきた女中に尋ねた。

「あの……いま、何時頃でしょうか?」

「十時をまわったところです。ぐっすりお休みでしたので」

〝あったりめぇだろうが、てめえが一服盛りやがったくせに!〟

 竜子はにこやかに笑った。

「お薬が効いたんですわ。ご迷惑をおかけしました。あの、ご主人にお礼を申し上げたいんですけれど……」

 女中は無表情に言った。

「若林は先に出かけました。お大事にと申しておりました」

「そうですの……」

 女中に手伝われて着替えを終えた竜子は、改めて礼を言った。

「ありがとうございました。では、失礼させていただきます」

「あの、どこへなりとお送りするように申しつけられておりますので……」

「しかし、それでは……」

「三〇分ほどで車が戻ります。それまでお食事でもおとりになりながらお待ちいただけませんでしょうか?」

〝ごめんだね。これ以上、妙ちきりんな薬を飲まされてたまるかい〟

 竜子はすまなそうに言った。

「いいえ、足もすっかりよくなりましたし。そんなに甘えられませんわ」

「それでは私が若林に叱られます……」

 押問答の末に、竜子は若林の家を出た。

 家の中と玄関先を内部からじっくり観察した竜子は、門を出るとつぶやいた。

「門のまわりにゃぁ監視装置がびっしりか……。ぶち破るにゃぁ手強いメカだぜ……」

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